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『膜』


    蛍光灯の波長、気圧の変動、一定のBPMで刻まれる黒鉛の摩擦音。
    感覚過敏を抱え、閉鎖系のノイズに耐えきれなくなった「私」の肉体は、個体発生を逆流し、数億年前の系統発生へと退行を開始する。
    ​隣の席の「彼」は、一滴の淀みもない完璧な『膜』で自らをコーティングし、社会という檻に適応している。
    自動販売機に張り付いた虫の死骸――「銀河」を網膜に定着してしまった私。
    ​自らの内側で腐敗した太古の羊水。
    愛でも決意でもなく、ただの致死的なウイルスの伝播。

    あらすじ


    チャポ


    ない。


     ドンキの極彩色のポップ。垂直に切り立った棚の側面。ミリ単位の誤差もなく陳列されたプラスチックの層。蛍光灯の放つ波長が、合成樹脂の表面で全反射を繰り返し、網膜に数学的な秩序を刻み込む。


     オロナミンCは、常温のまま放置されていた。


     手に取る。琥珀色のガラス。その表面に刻まれた滑り止めのパターンは、フラクタルな再帰構造を描き、指先の感覚を抽象的な幾何学へと還元していく。


     指先に、室温と同化したガラスの生ぬるい滑らかさ。


     ポキカッチャポ


     抵抗なく抜ける、金属の蓋。


     完全に平坦になった黄色の液体。


     気泡の一つも浮いてこない。


     喉を焼く痛みは消えて、粘度を持った甘ったるさだけが残っている。


     イヤホンの音量を上げた。


     ちゅ


     鼓膜が、振動に叩かれる。


     耳穴を塞ぐシリコンの境界を越えて、密閉されたノイズが、外の世界に溢れている。


     すれ違う人間の質量。


     布と肉の塊が、視界の端を横切る。


     空っぽのようでいて、底にわずかな淀みを残した、ガラス瓶。


     瓶の底に沈殿した黄色を、ただ数分間、無言で見つめ続ける。背後を通り過ぎる人間の笑い声が、ガラス瓶をわずかに震わせる。


     私は飲みきらず、生ぬるさが自分の体温と完全に一致するまで待つ。


     飲みかけの瓶を、コンクリートの隅に置いた。




     授業が始まる直前。


     外気で芯まで冷え切った身体を引きずり、トイレへ入った。用を足し、蛇口をひねる。指先に触れたのは、唾くらい生ぬるい水だった。


     その温度に触れた瞬間、強張っていた私の指先の肉が、じわりと柔らかくなる。私は水を止めたあと、ハンカチに手を伸ばすことができなかった。


     両手を目の高さまであげていた。


     指先から滴る水。重力に従い、手首の骨の隆起を乗り越える。


     ある一筋は、グレーのシャツの袖口に捕まった。灰色の繊維が水を吸い、じわじわと不透明な黒へと色を変えながら、生ぬるい湿り気が皮膚へと浸透してくる。


     どんどん下へ。水は冷たくなっていった。


     腕を曲げる。冷えたはずの水滴が、肌の上で薄く広がる。体温を吸って再び生ぬるさを取り戻す。その熱交換を、繰り返す。


     袖口の重みと、二の腕を走る、温め直された液体が皮膚を覆う。


     上に着ている黒い上着は、内側の湿気を完全に隠蔽している。鏡の中の輪郭は、ひどく乾燥している。


     指先が、太ももを一定の周波数で叩き続けている。


     一、二、三。600ミリ秒の静止。一、二、三。神経回路の不応期を、意志ではなく、摩擦係数の閾値が支配している。


    ​ 閉鎖環境に幽閉された野生個体が、檻の隅で頭を振り続けるように、脊髄反射の回路がショートしている。摩擦熱が真皮の温度を上昇させても、回路は停止しない。


     ポキカッチャポ


     予鈴が鳴る。


     口角を上げる。まばたきが手動になった。


     皮膚が、大気の重さを弾く。薄く生ぬるい膜が、毛穴という毛穴からじわじわと滲み出し、定着する。


     トイレのドアへ手をかけた。




     教室の扉の冷たいステンレス。触れた瞬間、金属の冷たさが、皮膚表面の熱を平坦化する。


     純白のチョークの粉が舞う、静謐な実験室。等間隔に配置された机の天板。その木目が描く平行線は、一点透視図法の消失点へと向かって、狂いなく収束している。それは、最も清潔な規格品たち。


     教室の中で、数十匹の未熟な胎児たちが吐き出す羊水と、暖房の熱が混じり合う。重たく淀んだ太古の海。私を包む膜は、外界の空気を拒絶し、数億年前の海水の記憶だけを皮膚から直接吸収させようとしている。


     全員の排泄物を、吸い込んだ。


    ​ 唾を飲み込もうとして、淀んだ空気まで一緒に飲み込んだ。気管の入り口になにかが詰まった。咳払いをする。取れない。呼吸音が、拡声器を通したように教室中に響き渡っている。


    ​ 喉が渇いた。水筒の麦茶を流し込む。


     首の側面で、ないはずの裂け目が張力を持つ。乾いた空気がそこから侵入し、焼けるような激痛が気管を締め上げた。


     空気を孕んでしまい、麦茶が歯の隙間に挟まった。それを舌先で無理やり吸い出そうとした瞬間、「プッ」と破裂音が漏れる。乾ききった唇を舐めた。口腔を満たす唾液に対して、自律神経が絶え間ない嚥下反射を強制してくる。


    ​ 粘性の強い冷たい汗をかいていた。耐えきれず黒い上着を脱ぐ。内側で飽和していた高湿度の熱層が、外気へ向けて質量を伴ってこぼれ落ちる。脇の下の、布地の色が濃く変色した部分が外気に晒される。揮発した脂肪酸とアンモニアの粒子が、鼻腔の粘膜を刺す。服の中に指を滑り込ませた。脇の湿りを確かめ、指先をそっと鼻に近づける。紛れもない、汚染物質だった。


    ​ ペンを握る。右手の中指。ペンだこの、ひどく凹んだ肉の形。神経伝達が乖離している。


     肺が、泥のような空気を全力で拒絶し、裏返りそうになる。首の横を塞がれたような、強烈な息苦しさ。


     教師の振動は、分厚い子宮の膜を通して響く、外界からの物理的打撃。


     教卓から放たれた自分の名前が、鼓膜を叩く。声帯が空気の振動を拒絶した。数秒の空白ののち、信号は別ターゲットへと移った。


     背後の空間から、数十個の眼球が一斉にこちらへ焦点を結んだ圧力を感じる。


     口角が張り付いた。持ち上げられた頬の肉が硬直し、引き伸ばされた皮膚と口腔の粘膜の間にミリ単位の空洞を生む。そこに滞留した唾液と呼気が、体温に蒸されて急速に発酵していく。鼻腔が、粘度の高い教室の空気を吸い上げる。チョークの粉と他人の吐息の混じった気体が、直接脳髄の裏側にへばりついた。


     頸動脈。不規則な質量を持った膨張と収縮。


     ポキカッチャポ


     胃の底で腐敗を始めた黄色の液体が、粘つくペーストとなって細い血管を無理やり逆流しようとする摩擦音。脈打つたびに、首の皮一枚を隔てたすぐ外側の気圧と衝突し、耳の奥でくぐもった破裂音を鳴らす。


     左足の裏。圧迫される。靴底と床の接地面で血が止まっている。床下の巨大な真空が、全身の淀んだ血液を踵の骨の裏側一点へと吸い込んでいる。足首から先の肉の感覚はとうに消失し、化繊の靴下とゴムが皮膚と癒着して、生ぬるい膜の境界線を足元から勝手に拡張し始めている。


     前を向いたまま、眼球だけを限界まで左右に振る。視界の外で、何十本ものシャープペンシルの芯が一斉に、規則的に、紙の表面を削り取る。


     カツ、カツ、シャッ


     無数の清潔な昆虫が、背中を覆う膜を一斉に齧り取ろうとする咀嚼音。正しい呼吸と正しい手の動きが織りなす完璧に均質なノイズは、膜の表面を滑り、一切の湿り気を無視して通り過ぎていく。


     頭上から吹き下ろす暖房の乾いた温風。それに撫でられるたび、皮膚を覆う膜の表面に奇妙な結露が生じる。毛穴から滲む冷や汗と教室の熱気が衝突し、私の輪郭をぬめりと縁取る。


     右手の中指。プラスチックの軸が食い込んだ凹みが、頸動脈と連動して微弱に痛む。指先の皮膚呼吸が、汗と皮脂の膜で完全に遮断されている。密封された毛穴が吸い込むのは、自分自身の生ぬるい排泄物だけ。舌の根元には腐敗した甘みがこびりついている。液状のものはもう飲み込めない。この口腔のぬめりを、吐き気を、物理的に削り取るための乾燥が必要。


     私の個体発生は、淀んだ教室の気圧に耐えかねて、系統発生を猛烈な勢いで巻き戻し始めた。


     眼球が下に。


     視線は、机の上のノートの端に固定。


     純白。完全な乾燥。木材パルプの死骸。


     右手の親指と人差し指で、ノートの右下隅を挟み込む。汗でふやけた指紋の溝が、乾いたパルプの表面と擦れる。手首を捻った。繊維の断裂音は、誰の鼓膜も揺らさず、頭蓋骨の裏側だけを引っ掻いた。視界の外、数十個の右手が、同一の周期で、紙の表面を削り取っている。


     カツ、カツ、シャッ


     ​狭小な座席に固定された若年個体群が、社会という巨大な檻の中で発狂を防ぐために獲得した、高度に組織化された集団的かつ周期的な常同行動。


    ​ 数十本のシャープペンシルの芯が、同一のBPMでリノリウムの床に伝搬する。個体同士の呼吸が、二酸化炭素濃度のフィードバックによって、強制的に単一の波形へと収束していく。


     肘から先だけを機械のように折り畳み、ちぎり取った数センチ四方の紙片を舌の上に滑り込ませた。


     乾燥が、即座に上顎の粘膜に吸着。ざらついた異物に対する反射として、舌の裏側の分泌腺から体温と同化した唾液が急速に溢れ出した。パルプの網目が、吸い上げる。それは質量を持った茶色い泥へと変質し、舌の根元を重く塞いだ。


     泥状に崩壊した繊維が、喉の奥にへばりつく。鼻から息を抜くたび、泥の端が粘膜を擦る。気道が微小な痙攣を繰り返す。嚥下することも、吐き出すこともできない。


     眼球を右へ。


     隣の席の彼。


     アイロンの糊で硬くコーティングされた真っ白なシャツの布地が、規則正しい肺の膨張と収縮に合わせて、寸分違わず上下している。一滴の湿り気も、淀みもない。


     彼の手が踊らせる銀色のクリップ。それが切り取る光の破片は、プリズムを透過した純粋な虹となり、机の上に完全な色彩のスペクトルを投影している。


     彼の指先には、へこみも変色もない。彼が息を吐く。無臭の気流。


     均等な反復運動の真横で、呼吸によって微動する繊維の泥が、粘膜を物理的に削り取る。彼は、自分が今まさに舌の上で泥に変えたものと全く同じ組成の純白の余白へ、正しい黒鉛の粉を定着させ続けている。


     視界の右端で、彼の指先から白い直方体が剥離した。


     塩化ビニル樹脂のケースに収まった合成ゴムの塊がリノリウムの床材に衝突。二度の反発音。数十本の黒鉛が紙を削る摩擦音の底。微小な質量が水平に転がっていく。


     重力と慣性に従って回転し、私の右足の側面へと直進。合皮の靴底と床の境界線に、微小な硬度が接触し、静止。角の摩耗したエッジ。足先に一点で食い込んでいる。


     視界の端、糊の効いた白いシャツの繊維が屈曲。彼の上半身が垂直方向に沈み込む。移動した体積によって空気が排斥され、洗濯洗剤に含まれる界面活性剤の粒子が鼻腔に侵入。床に向けられた彼の頸椎が、靴の横の物体を視認し、その軌道のまま垂直に再浮上。


     喉部の軟骨が、平滑筋の収縮に従って蠕動。顔面筋が収縮し、密着していた上下の唇が粘性を持って剥離。


     乾燥した教室の外気が口腔内に侵入し、内部の気圧が変化。上顎に吸着していた繊維の泥が自重により保持限界を超え、舌の根元へ向けて滑落。高濃度の唾液が粘液の糸となって引き伸ばされ、引張限界に達して断裂。


     肺からの呼気が声帯を震わせるよりも一瞬早く、剥離した湿った質量が、喉の奥の気流に押されて粘膜と衝突。水分で膨張したパルプの繊維が蠢く粘液音が、頭蓋骨の裏側から教室の乾燥した空気中へ放たれる。


     一筋の茶色い液体が重力に従って下唇の境界線を越え、垂直に机の表面へと落下。


     彼の眼球を覆う涙液の膜が、蛍光灯の光を一定の角度で反射。瞳孔の収縮運動を伴うその孔の深層に、私の口角から漏れ出した茶色の液体が光学的に定着。


     彼の網膜から脳幹に信号が到達。数ミリ沈み込んだ彼の脊椎が、平衡を保ったまま固定。


     規則的だった彼の呼気が、声帯の手前で不自然に詰まる。気管が微小な痙攣を起こし、空気の摩擦音が漏れた。


     まぶたの裏の粘膜が乾燥に耐えきれず細胞が剥離を開始。


     口角をあげる。頬の筋肉が動く。喉の奥。


     じょり。


     乾燥した空気が、口内へ侵入。紙はさらに硬く、鋭く変質。水分を失った粘膜を切削。


     ポキカッチャポ


     椅子の脚がリノリウムを擦る摩擦音。数センチの空隙。教室の空気が、その断絶を埋めるように流れ込んだ。




     君程度に、私のことを理解されてたまるか。


    「……あげる、ね」


     ポキカッチャポ


     首に巻き付いたへその緒が、気道を締め上げた。




     井の頭公園の端。リュックに頭を乗せて空を見ている。円筒形のステンレスが、頸椎の湾曲にミリ単位の精度で嵌合している。


     足の置き場が分からない。曲げる。伸ばす。重ねる。絡ませる。


     自動販売機の放つ過剰な波長の光が、網膜の神経細胞を一方的に焼き切る。


     ブランコに行く。視覚野が捉えた光の配置を、脳幹の最下層が既知のパターンとして照合。声帯周囲の平滑筋が不随意に収縮。高周波を放出するために特化した喉頭の軟骨構造が、特定の共鳴周波数を物理的に復元。


     池の底には、数千トンの堆積した廃棄物があるだろう。光の屈折率だけが、表層の美しさを捏造している。


     隣のブランコが、金属音を立てて揺れ始めた。


     視界の端で、湿った口腔が不自然に大きく開き、意味をなさない高周波の震えが鼓膜を直接突き刺す。言葉ではない、粘膜の摩擦音が、腐った果実のような生暖かい匂いを伴って、私の境界線を土足で侵食してくる。


     目の前を、二つの肉の塊が通り過ぎた。


     一方が発する「ワカル」という単調な音の連打。それは思考を放棄した個体が、生存のために垂れ流す無機質な信号音。その背後を、灰色の布地を被った個体が這うように歩く。その前肢にぶら下がった白い袋の中身が、死んだパルプの重みでじっとりと沈んでいる。


     三半規管の中の羊水が、急速に濁り、腐敗し始めている。


     振り子の加速に、脳が、胃袋が、裏返る。地球の質量が、内臓という肉の塊をアスファルトへと最短距離で収束させようとする加速運動。


     水辺の向こう。紺色の被膜に包まれた巨大な影たちが、こちらを凝視している。


     彼らの巣穴の頂上で、赤い単眼が血走った光を放ち、獲物を定めるように明滅を繰り返していた。


     頭頂部を病的な黄色に変色させ、顔の下半分を黒い膜で密閉した個体が、私のパーソナルスペースを汚染しながら接近してくる。


    ​「降りなくていい。ああ、警戒しないでください。ただ、両手を出してくれますか。君、ひどく過敏な脳髄を持っているようだ」


    「……あ、」


     声帯が空気をうまく震わせない。私の気管はまだ、太古の海水を飲み込んだまま。


     男の黒マスク越しの瞳孔が、私の細胞の奥底までピンセットで探り当ててくる。逃げなければ。脳髄が命令しているのに、神経伝達物質が途中で腐敗し、肉体はただ薄気味悪い痙攣を一度起こしただけだった。


    「脳髄の閾値が著しく低い。……その不均衡な質量を、私の掌の接地圧へとオフセットしなさい。サンプリングに必要な、垂直抗力の受け渡しだけでいい」


     逃走を選択するはずの脚部筋肉が、電気信号の空回りを繰り返す。自分のものではないように、ゆっくりと左手が近づけていった。


    「気持ちが悪いでしょう。その、膜。臨界を超えれば、君の神経伝達は、白く飽和しますよ」


     眼輪筋の不自然な収縮によって形成された、三日月の目。


     ねちゃ


     ​指先が接触。男の掌から分泌された未知の界面活性剤が、皮脂膜を乳化。真皮の境界線が消失し、細胞質が浸透圧勾配に従って移動を開始。タンパク質の高次構造が崩壊する際の微小な振動が、指先の神経終末から直接脳幹へと伝導される。


     指先の表皮が、脂質によって親水性を帯び、境界線が消失。


     深海数千メートルの等方向性圧力が、細胞膜の一枚一枚を均質に圧殺した。


     肺胞が虚脱し、ガス交換機能を停止。首の側面の裂け目が、酸素濃度の低い大気に触れて焼ける。粘膜を削り取る。


     ​男の掌は、肉ではない。


     無数の触手状の細胞群が、数億年の空白を越えて私の細胞へと結合を試みる。


     手のひら全体が、あのペンだこの凹みと同じ、存在しないこと、で完成された巨大な欠損。


     視界の外。吉祥寺駅へ向かう人波は、個体ではない。


     一定の周期で明滅し、泥を吸い込み、排泄物を撒き散らしながら移動する、巨大な消化器官の延長。


     ​私は、この男という羊水の中に、溶けて消える。


     系統樹の根源へと、重力に従うように滑落していく。


     教室でノートを咀嚼した記憶が、裏返る。


     あれは紙じゃない。私は今、原初の泥を丸呑みにしている。果てしない飢え。脳髄が言語を獲得するずっと前、ただ有機物を貪るためだけの管だった頃の記憶が、胃袋をドロドロに溶かし、収縮させる。


     エラが塞がり、水かきが癒着し、尾が骨の奥底へと飲み込まれる。痛覚の閾値を越えた、情報の逆流。二頭筋の線維が重力によって剥離。肉体が、数億年の系統発生が、数兆個の死細胞の積層が、逆回転する時計の針となって肉体を解体していく。積み上げた死骸の遺伝情報を毛穴という毛穴から逆流していく。タンパク質合成の連鎖が反転し、原初の泥へと収束を開始する。


     化繊にまみれた無菌の空気を拒絶し、全身の細胞が太古の海水を分泌して、私を分厚い羊膜で包み込もうとしている。


    ​ 走った。吉祥寺駅へ。


     頸動脈が、熱を持った鉄の棒のように脈打つ。足首から先の質量が消失し、アスファルトとの接地感覚が希薄になる。汚染された細胞が、体内を猛烈な速度で循環し、脳髄の最下層にある、言語以前の原初的パルスが、回路の焼き切れを報せ続けている。


     汚れた両手を、皮が、膜が剥けるほど執拗に洗った。


     改札の冷たいプラスチックに指先を滑らせる。0.1秒の磁気照合。ICチップと改札機の間で交わされた電子的合意が、私の異常値を、有効な規格へと強制的に上書きする。システムにとって、私の泥はノイズですらない。


     鋼鉄の揺りかご。


     等間隔に配置されたタンパク質の集積が、加減速の慣性ベクトルに従って一斉に、同一の傾斜角を形成する。隣の男の弛んだ皮膚組織。その網膜には、掌の発光体から放出される短波長の青白い光が、光学的に定着し続けている。


     隣の個体の喉頭隆起が、高粘度の分泌物を食道へと圧送するために、垂直方向に大きく変位した。思考の残滓である泥を、自律神経の不随意運動によって絶え間なく飲み下し続けている。


     視線を移す。吊革を握る女の顎。ドア脇に立つ老人のこめかみ。


     彼らもまた、喉の奥に、泥を詰まらせている。


     等間隔に配置された個体群の喉頭隆起が、一定のインターバルで上下する。


     鋼鉄の檻に同期した彼らの甲状軟骨が、一定の、垂直運動を繰り返す。粘液を食道へと強制排泄する、ポキ、カッ。逆流を食い止める、チャポ。


     ​一億個の細胞が、同じ泥を濾過し続ける。


    ​ 閉じ込められた哺乳類たちが、互いのパーソナルスペースを侵食し合いながら、自我の破綻を食い止めるために刻む、一定のリズム。


    ​ 彼らは移動していない。揺れる箱の中で、同じ泥を飲み込み続ける反復運動に一生を捧げている。均質な波が、巨大な排泄システムを、滑らかに、死へと駆動させていた。密閉された空間で、致死量の沈黙を腹の底で腐敗させながら、涼しい顔をしてそれを栄養へと変換している。


     車窓に映る顔に、固有の輪郭などない。


     ただ、この巨大な排泄システムの一部として、泥を噛み砕くことに必死な、交換可能な臓器が一つ、揺れているだけ。


     世界は、私を異常として排除する手間すら惜しんでいる。


     等しく泥を啜る数億の細胞の一つとして、均質に、胃液で溶かしていく。


     ブレーキ。


     開いたドアから、都市の巨大な溜息が流れ込む。


     酸化した脂肪酸の微粒子が、内燃機関の排気熱と衝突し、高粘度の重油となって口腔内の粘膜をコーティングする。右手には、炭酸ガスを失い、液相へと安定した着色料の混合液。


     さっき、アスファルトの上に、あったものだ。


     無意識に拾い上げた指先が、冷え切ったガラスの感触を、自分の一部として受け入れている。


     私を包む膜は、もはや私だけの秘密ではない。


     この世界という巨大な肺が、吐き出し、吸い込み合う、使い古された空気の残骸。


     その呼吸の周期を乱すほど、私の質量は、ない。


     いきたく、


     ポキカッ




    チャポ


    ない。


     ドンキの極彩色のポップ。インクの色彩。圧縮陳列の迷路。正常な思考回路を焼き切られた頭に、相応しい。


     オロナミンCを手に取る。指先の末梢血管を流れる自らの体温と、ガラス越しの熱エネルギーが完全に平衡に達している。


     手に持っていたのを、戻す。


     新しいのを手に取る。


     ぬるい。


     血管を逆流する、自分の体温と全く同じだ。


     外の自動販売機で買おう。


     アクリル板。


     虫が、死んでいる。


     ポキカッチャポ


     空を支えていたはずの柱が、音もなく崩れた。


     内臓をぶちまけ、細胞を爆発させた虫たちの、死骸の銀河。


     破裂した外骨格から漏出した細胞質が、アクリル板上で数ミクロンの薄膜を形成。透過する紫外線の波長が重層的な干渉縞を惹起し、虹色のスペクトルとして網膜を汚染する。


     体液の中に、銀河。


     行き交う人々の笑顔も、すべてこの潰れた粘液のような、救いのない生身の犠牲の上に塗り固められた書き割りに過ぎない。


     破壊された細胞核から流出した二重螺旋の残骸。情報の連続性を失ったヌクレオチドの鎖が、光の屈折率を歪め、底なしの渦を形成。


     そこへ、ダイブ。




     400Hzを超える高周波の羽音が、自動販売機のアクリル板へ、走光性アルゴリズムに従い、光源との角度を一定に保とうとする回帰回路の暴走。その終着点としての衝突。


     ポキカッチャポ


     厚さ数ミクロンのキチン質がひしゃげ、透明な板の上に、飛び散った細胞質と剥き出しの臓物が、遠心力で飛散した。


     背後から突き抜ける紫外線が、薄っぺらい体液の膜を透過し、乱反射を起こしている。


     次の一匹が、羽音を立てて近づいてくる。


     痛覚パルスをドーパミンの過剰分泌が遮断する中、視神経は網膜の許容ルクスを超過した光束に焼き切れ、圧倒的なスケールの錯誤を起こしている。眼前にこびりついた同族の死骸の染みを、何十万光年も続く、星々の群れだと誤認して。


     ――あの光のただ中へ、加速しろ。


     遺伝子に刻まれた衝動。銀河の彼方へ。報酬系が過剰放出され、痛覚閾値を上書きする。


     光源へ特攻する。


     ポキカッチャポ


     激突。


     頭蓋が割れ、脳髄がアクリル板に叩きつけられた瞬間、宇宙の幻覚は唐突にブラックアウトした。


     潰れ、ガラスにこびりつく。


     飛び散った体液が先代の死骸の上に層を作り、膜を塗り重ねていく。幾重にも重なった死骸の膜が光をさらに複雑に歪ませ、銀河は光の干渉強度が上昇し、輝度を増す。


     受粉を待つ極彩色の花弁のように、あるいは、熟れすぎた果実の粘液のように、次の命が、飛び込むのを待っている。


     深海の捕食者が誘蛾灯のように揺らす、甘い毒液の輝き。


     私も。


     口の奥にへばりついた、生ぬるい砂糖水と泥の記憶。唾液腺の分泌能が限界に達し、口腔粘膜の含水率が低下した自覚。


     光に魅入られたように、私はアクリル板へと顔を近づけた。


     蛍光灯の微熱と、紫外線が焦がす埃、高圧放電に伴うオゾンの匂い。そして、アクリル板に焼き付いた先代たちの、熱変性したタンパク質が放つ、微かな硫黄化合物系の臭気。


     私は、幾重にも塗り重ねられた虫たちの死骸の膜に、しっとりと唇を押し当てた。


     ​唇の粘膜がアクリル板表面の熱伝導率に接触した瞬間、毛細血管が急激に収縮。接触界面で熱交換が強制され、組織が平面へ物理的に癒着固定される。


     ​舌尖の味蕾が、数時間前に絶命した有機物の腐敗アミンと、高濃度の糖化反応を検出。数億の細胞死に伴うカリウムイオンの濃度勾配が、受容体を介さず神経末端の電位を強制逆転させる。


     幾重にも積層された外骨格の破片と、乾燥した血リンパの膜。


     舌先を滑らせ、干渉縞を描く粘液を機械的に吸引する。唾液に溶解した死骸の成分――タンパク質の残骸と、酸化した脂質の粒子が、味蕾を介して脳髄の報酬系へ直接パルスを送り込む。


     唇の粘膜と、乾燥した死骸の膜。その間に介在する微量の唾液が、界面活性剤として機能。固着していた有機物が剥離し、私の口腔内へと毛細管現象によって吸い上げられていく。


     自他の境界線が、タンパク質の加水分解によって音もなく溶解する。


     ちゅ


     網膜に溢れる光子の奔流が、視覚野の処理限界を超えて飽和。


     視界いっぱいに、星々が、細胞の死骸が一斉に弾け、飽和した。




     虫たちが死の直前に見た絶頂の幻覚データが、脳髄へと流れ込んでくる。体液が私の粘膜を侵食し、細胞の奥底に眠る太古の記憶を無理やりこじ開ける。


     アスファルトの上に立ちながら、宇宙へ、真っ逆さまに墜落していく。


     ダイブ、ダイブ、ダイブ


     銀河の彼方へ。


     ​視界が飽和し、温度が消える。銀河の密度は、水圧へと変わる。


     爪が剥がれ、薄く透明な膜が張り付く、指の間に水かきが淡く広がっていく。体温は急速に奪われ、周囲の冷たい水温と同化していく。


     真珠色の小さな硬質片が芽吹き、食い破り、内側から飲み込む。それはまたたく間に全身を覆い、一枚一枚が規則正しく重なり合う。


    ​ 摩擦を極限まで減らすための膜が、全身を滑らかにコーティングしていく。


     肺胞が虚脱。側頭部における鰓裂の形成。喉の横に幾筋もの裂け目が走る。水中に溶け込んだ酸素が直接血液へと流れ込む。


    ​ 肺で吸う空気の重苦しさから解放。濃密な宇宙を飲む。


     ​脚は一つに合わさり、筋肉の塊へと変質していく。足首は扇のように広がり、しなやかな尾鰭を形成。背骨は驚異的な柔軟性を得て、左右へのうねりを生み出す。


    ​ 瞳からまぶたが消えた。


     大きく見開かれたその瞳は、濁った水中を見通すための、光を捉えるレンズへと作り替えられる。


     ゴミばっか。


     沈んだゴミ食べたい。


     ポキ


     全身を覆っていた硬質な鱗が、内側から溶け出すようにその輪郭を失っていく。真珠色の輝きを喪失。


     真皮組織の角質化が進み、摩擦係数をゼロに近づけるための平滑な膜が全身を覆う。


    ​ 首筋に刻まれていた幾筋もの裂け目が、内側から静かに、無理やり閉じられていく。水底の酸素を啜っていた鰓はその役目を終え、胸の奥で眠っていた空洞が、大きく膨らんだ。


     カッ


    ​ 一つに重なっていた尾鰭。その中心から引き裂かれるように二つへ。


     扇のような膜は消失。骨格。泥を捉えるための強靭な支点へ。指の節々が形作られ、ぬかるんだ大地を掴むための小さな吸盤が、指先に朱を差すように芽吹く。


    ​ むき出しだった瞳に、薄い膜のようなまぶたがせり上がる。


     濁った水を見通していたレンズが、外界を鮮明に映し出すために、その焦点を結び直す。


     チャポ


     隣の席の彼が消しゴムのカスを指先で丸めている。一滴の湿り気もない、清潔な指先。


     一、二、三。600ミリ秒の静止。一、二、三。


    ​「……あ、やっと。授業終わったよ。体調、大丈夫かな?」


    ​ 彼が、黄金比に基づいた正確なカーブを、顔面筋の収縮によって、固定させてみせる。


     彼の唇に強引に、私の唇を重ねる。


     虫の体液と羽の混じった粘液、内側で腐敗していた太古の羊水、紙の繊維。それを、彼の口腔へと、喉の奥へと、押し込んだ。無菌の体内へと、音を立てて流れ込んでいく。


     一元論的に。


    「……っ、ご、……っ、あ……」


     引き剥がされた私の口角から、粘り気のある糸が引く。


     彼の咽頭反射が強制的に誘発され、未接触だった食道粘膜が未知のタンパク質と衝突し、痙攣を起こす。


     彼の口元が、歪む。


     彼の喉の奥に残った最後の一本の繊維が、私の吐息に触れて、鋭利な外科用メスと化し、


     じょり


     彼の膜を破いた。


     君、銀河に溺れて。


     ふと、彼の筆箱の中に、消しゴム。


    ​ シャーペンの先で執拗に穿たれた無数の穴は、底が見えないほど深く、光を一切反射しない。穴の縁は、指先から移った皮脂と黒鉛が混ざり合い、腐った肉のようにどす黒く変色している。引き千切られた合成ゴムの繊維が毛羽立ち、粘り気を持った暗い空洞が、私の泥を吸い込むために呼吸するように口を開けていた。



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