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『業』

    Ⅰ

     外気は絶対零度に迫る死の淵境。
     窓外には窒素の雪が、天蓋から剥がれ落ちた死の灰のごとく、希薄な大気の中を静謐に舞っている。天地が逆転したこの奈落の底で、重力という名の唯一の絆さえ失った世界は、今や冷酷な物理法則の前に全裸で晒されていた。息を吸うたび、肺胞が細かくひび割れる音がした。

     床下で唸りを上げる巨鉄の機構は、もはや機械であることを辞めていた。それは大地を凌辱し、無理やり繋ぎ止める冷酷な戒律であった。私はその戒律を歪め、一万四千二十の避難民を支えるべき生命の奔流を、この六畳間の静寂を固定するためだけに、奢侈なほど贅沢に注ぎ込んでいる。
     視界を灼き尽くす真紅の明滅が、虚空に無数の数字の列を吐き出していた。一万四千二十の肉体が今まさに炭化し、電子の海へと還元されてゆく目録。私は、その断末魔の血しぶきとも呼べる光の洪水を、至高の美を受肉させるための厳粛な洗礼として浴びていた。

     耳朶の奥、あるいは魂の芯に直接、彼女の顫える声が響く。

    「……寒い……暗いよ……」

     三年前、私は至高の合理という名の冷徹なメスを振るい、彼女を棄てた。立身出世を汚す「病根」を切り落とすように、私は極めて事務的に、彼女を閉鎖区画の氷の棺へ追い遣ったのである。私を呪いながら凍りついた彼女の怨嗟が今、一万四千二十の生贄という名の絵具によって、再び私の支配するキャンバスへ描き出されようとしていた。

    Ⅱ

     目の前の操作盤は、霊魂を降ろす祭壇であった。
     氷れる棺に眠る一万四千二十名の肉体。彼らの平庸な命数など、彼女という奇跡をこの世に繋ぎ止めるための、泥のような接着剤に過ぎない。私の内に一抹の猶予も、道徳という低俗な迷いも存在しなかった。

     私は、コンソールの「実行」キーに指を置いた。それは一万四千二十の命を強制終了させるスイッチであったが、私にとっては、彼女のドレスを編むための絹糸を引き抜く程度の作業でしかなかった。
     網膜の裏側で、無数の赤い火花が血飛沫のように爆ぜる。一万四千二十の神経細胞が過負荷に悲鳴を上げ、彼らの未来が、一人の女神の輪郭を形作るための純粋な熱量へと変換されてゆく。
     魂が燃え尽きる際の焦熱が、私の視界を赫く染め上げた。私は、ただ一つの微笑みへと収束してゆく様を、瞬きもせずに見つめていた。

    Ⅲ

     世界から音が消え、ただ熱交換の限界点を超えた臨界の排熱だけが、部屋の空気を淫らなまでに濃密に変えた。再描画された部屋の中心に、彼女が立っていた。

     私は彼女を抱きしめる。強化外骨格越しに伝わるその熱量は、もはや体温ではなかった。それは彼らの命が、自我を焼き切られながら放つ、最期の法悦の残滓であった。愛おしさに任せ、その陶器のような白い頬に触れようとした瞬間、強烈な吐き気が胃から込み上げた。
     彼女の肌を覆っているのは、瑞々しい細胞の輝きではない。
     それは、極限の蹂躙を受け、名状しがたい歓喜に顔を歪ませた、男女たちの「死顔」の集積であった。
     ある老婆の最期の涙は真珠層の輝きを放ち、ある少年の絶叫の輪郭は、彼女の首筋を飾る最高級のレースのごとき繊細な皺となって定着している。剥き出しの歯茎、深い苦悶の皺、母親を求めて開かれた口腔。死の寸前の凄まじい痙攣が、永遠のループとして彼女の肌に縫い込まれ、彼女という美しい輪郭を装飾していた。
     そして、その死者たちの苦悶の中心で、かつて私に棄てられた際の怨嗟を宿した彼女の意志が、暗い燐光を放っていた。私はその、数万の死者の絶望によって研磨された純白の肢体に、ひれ伏したいほどの美を見出していた。

    Ⅳ

    「あ、あ『痛い』い、し、て『殺して』る……『呪う』……」

     彼女の唇は慈愛に満ちた弧を描いているのに、そこから漏れるのは、死者の喉が潰れる音を凝縮したような、暴虐な不協和音であった。それは愛の言葉を模倣しながら、その実、私の裏切りを永遠に弾劾し続ける呪詛の旋律であった。
     私はヘルメットの奥底で、狂喜に顔を歪めた。
     彼らの恨みも、彼女の絶望も、すべてが彼女という美しい屍を、私という永久欠番の牢獄に監禁するための供物に過ぎない。許される必要などない。

    「ああ。愛しているとも。君を、私の地獄から一歩も出さない」

     彼女は笑っていた。 その頬には、知らない老人の爪が生えていた。

     私は彼女に口づけをした。

    Ⅴ

     衝撃。大地を縛っていた鉄の戒律が、ついに破断した。
     部屋は地表から引き剥がされ、私たちは底のない空へと墜落を始めた。窓外では、かつて都市であった巨大な瓦礫の群れが、死を待つ従者のように同じ速度で並走している。

     私は最後の手続きを執行した。己の脳髄を、地下数千メートルの黒曜の霊廟へと還流させ、神核へ強制的に融合させる。この肉体が瓦礫によって圧壊し、塵芥へと還元される数秒の猶予の間に、私は事務的にエンターキーを叩いた。

    「ずっと一緒だよ」

     至近距離で見つめる彼女の瞳。その虹彩の中に、恐怖に引きつった「私自身の顔」が、一万四千二十一名目の装飾として浮かび上がった。私もまた、彼女を飾る一滴の黒い染みになれる。

     次の瞬間、巨大な瓦礫が部屋を圧殺した。
     肉体が物理的に損壊し、意識が虚無の海へと滑落してゆく。私は彼女の左目の端にある泣き黒子となり、あるいは頬の微かなあばたとなって、彼女の永遠の微笑に奉仕するのである。

     後に残されたのは、一万四千二十一人の絶叫が織りなす無限の合唱。
     それは宇宙の沈黙に加わった一行の符号に過ぎず、明日には誰も顧みることのない、単なる物理的な事象の終結であった。




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