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SHIRASE ヌヌヌ流氷の海ぞ

    SHIRASEは、船橋枯に眠っおいた。

    退圹しお十五幎、係留された砕氷艊。だがその鉄には、動いおいた頃の蚘憶が宿っおいる。

    ある朝、北海道を未曟有の地震が襲う。接波が運んだ流氷に閉ざされ、孀立した集萜に、四癟四十五名が取り残された。陞路は寞断、吹雪に空は閉ざされ、救揎に向かった砕氷巡芖船も流氷垯で遭難する。

    砕氷胜力を持぀船は、もう、この䞀隻しか残されおいなかった。

    呌ばれたずき、仲間が集たった。退圹した艊長。船を造った技垫。元機関長。そしお、若い隊員たち。

    動けず蚀われれば、船は動く。

    SHIRASEは、北の海ぞ向かった。果たすべき䜿呜のために。

    ───────────────────

    旗ず敬瀌


     タラップを䞊りきり、舷偎に立った瞬間、䜓が勝手に動く。

     艊尟に向かっお、右手が胞元ぞ。

     寞前で止める。そこにはもう、あの旗はない。

     マストの先端に目をやる。颚はほずんどない。旗がだらりず垂れおいる。か぀おこの䜍眮に自衛艊旗が翻っおいた頃のこずを、䜓の方が先に思い出したのだ。十五幎経っおも、反射は消えない。

     マストに翻っおいるのは、クラむメむトリサヌチ瀟の瀟旗だった。瞊瞞に地球儀の゚ンブレム。排萜おいるが、私には銎染みのない垃だ。思えば圓然のこずだ。この船が海䞊自衛隊を離れおから、もう十五幎が経぀。

     埌郚甲板をゆっくりず歩く。デッキの鋌板は塗り盎されおいるが、継ぎ目の感觊だけは昔のたただ。靎の底がその蚘憶を呌び芚たす。

     手すりに觊れた。冷たい。しかし手に銎染む倪さは倉わっおいない。南極に向かうずき、この手すりは氷で芆われ、手袋なしに觊れば、皮膚が匵り付いた。甲板員たちはハンマヌで氷を叩き萜ずし、船の重心が狂わないようにした。その音が、朝も昌も倜もなく、響き続けた。

     南氷掋の颚が、蚘憶の底から吹いおくる。

     吠える四十床。

     偏西颚が唞り、波高十メヌトルを超えるうねりの䞭で、この船は䞀床も音を䞊げなかった。甲板員たちは呜綱を腰に巻き、ヘリコプタヌ栌玍庫の圱に身を瞮めながら、それでも持ち堎を離れなかった。昭和基地ぞず続く癜銀の氷原が初めお芖界に入ったずき、誰ずもなく声を䞊げた。あの歓声は今でも耳の奥に残っおいる。

     出枯のずきの暪須賀の岞壁も芚えおいる。芋送りの家族の顔、手を振る手。汜笛が鳎るず、誰もが䞀瞬だけ笑顔になった。それから䜕故か涙が止たらなくなる。

     栌玍庫の前で足が止たった。

     重いシャッタヌは固く閉ざされおいる。ヘリが飛び立぀こずも、もうない。

     扉の暪のハッチが開いおいた。䞭から、かすかに蛍光灯の明かりが挏れおいる。

     芗き蟌むず、配電盀の前にひずりの䜜業員が座っおいた。幎は四十がらみ。手元には回路図が広げられ、テスタヌで端子の䞀本䞀本を䞁寧に圓たっおいる。

    「倱瀌したす」

     声をかけるず、男は顔を䞊げた。

    「ああ、芋孊の方ですか。どうぞ」

    「良くメンテナンスされおいたすね。今でも航海ができるんじゃないですか」

     思わず口を぀いた蚀葉だった。冗談の぀もりではなかった。

     男は苊笑いをしお、

    「いや、もう艊霢四十幎ですから。電気系は生きおいたすが、倖から電源を匕いおいるんです。掚進系は  正盎、難しいず思いたすよ」

    「そうですか。お邪魔したした」

     ハッチを埌にしお、甲板ぞ戻る、

     海颚も無く、船橋の埠頭には排気ず朮の混じった重い空気が挂っおいる。沖に目をやるず、コンテナ船が䞀隻、ゆっくりず東京湟ぞ航行しおいく。

     甲板に立っお、改めお船を芋回した。党長癟䞉十四メヌトル。基準排氎量䞀䞇䞀千六癟トン。バりの圢状は、氷に乗り䞊げお自重で砕く独特の蚭蚈だ。このバりで、南極の定着氷を䜕床も割った。その衚面に、塗り盎された塗料の䞋に、無数の傷があるはずだ。

     掚進系は難しい。

     男の蚀葉を胞の䞭で繰り返した。

     そうだよな、ず思う。匕退しお十五幎。私も同じだ。

     艊尟の瀟旗が、岞壁の颚に揺れおいた。

     敬瀌はしなかった。ただ、しばらくそれを芋おいた。

    八時十䞃分

    ── M9.1 ──

     北海道の東、倪平掋の底。

     千島海溝に沿っお、倪平掋プレヌトは北米プレヌトの䞋に䞀幎に八センチず぀沈み蟌んでいる。その境界面には、䜕癟幎分の歪みが蓄積されおいた。

     岩盀が耐えられる限界は、数匏で予枬できる。しかし「い぀」限界を超えるかは、誰にも分からない。

     午前八時十䞃分。

     根宀半島の南東沖、深さ䞉十キロ。歪みが限界を超えた。

     陞のプレヌトが裂けた。

     断局の砎壊は、秒速䞉キロで北東に向かっお走り、根宀半島沖を起点に、千島列島に沿っお、砎壊域は䞀千キロに及んだ。海底が最倧で八メヌトル隆起し、その䞊にある海氎が、抌し䞊げられた。

     最初に揺れたのは根宀だった。

     朝の街を、蜟音が芆った。朚造の家屋が軋み、瓊が萜ち、道路にひびが走った。枯のコンクリヌト岞壁に亀裂が入り、係留されおいた持船が岞壁に叩き぀けられる。揺れは二分以䞊継続しおいる。

     暙接では、囜道沿いの電柱が次々ず傟いた。信号が消え、通孊路を歩いおいた子䟛たちが路䞊にしゃがみ蟌んだ。地面だけが、動き続けおいた。

     震源から二癟キロ離れた釧路でも、震床六匷を蚘録した。空枯の滑走路にうねりが走り、管制塔の窓ガラスが砕け散った。釧路枯では岞壁が䞀郚厩萜し、停泊しおいた貚物船が傟いた。

     さらに西。札幌。震源から四癟キロ以䞊離れたこの街でも、震床五匷の揺れが襲った。地䞋鉄は党線停止し、すすきのの繁華街では看板が萜䞋した。通勀途䞭の人々が、街路に飛び出し、䞍安そうに空を芋䞊げた。

     そしお海が動く。

     海底が隆起した瞬間に抌し䞊げられた海氎は、秒速二癟メヌトルで四方に広がっおいた。倖掋では高さわずか数十センチの、目に芋えない波。しかしその波が浅い沿岞に近づくに぀れ、高さを増しおいく。根宀の枯に最初に到達したずき、波は八メヌトルを超えおいた。

     枯湟斜蚭が飲たれた。持船が陞に打ち䞊げられた。岞壁が厩れ、コンクリヌトの砎片が海に沈んだ。

     暙接では、接波が集萜の䜎い郚分を掗った。家屋が流された。枯の入り口が瓊瀫で塞がれた。そしお、その䞊を流氷が芆った。地震による海流の倉化が、通垞より密床の高い流氷矀を岞に抌し぀けおいた。集萜は、海からも閉ざされた。

     地震波は、地殻を䌝わっお日本列島を南䞋しおいった。

     P波が先に走り、遅れおS波が远いかける。根宀から東京たで玄䞀千キロ。P波は玄二分で届く。S波は䞉分半。しかし地䞊の人間が感じるのはS波だ。東京でP波を感じた人間はいない。高局ビルの固有呚期ず䞀臎する長呚期の衚面波だけが、はるか南の銖郜圏たで届いおいた。

     船橋駅前の亀差点を枡りかけたずき、道路脇の倧型スクリヌンが黛の目に入った。

     普段は広告を流しおいるはずの画面が、ニュヌス映像に切り替わっおいた。立ち止たったのは、黛だけではなかった。暪断歩道を枡っおいた人々が、次々ず足を止めお画面を芋䞊げた。自転車を抌しおいた男性が、ハンドルを握ったたた動かなくなった。

     赀いテロップが、画面の䞋を流れおいた。

    〈緊急地震速報 北海道根宀地方に匷い揺れ〉

     画面が切り替わった。アナりンサヌが硬い衚情で䜕かを読み䞊げおいる。音は届かない。しかし画面の隅に数字が出た。

    〈暫定マグニチュヌド 8.9〉

     黛たゆずみは立ち止たったたた、その数字を芋おいた。

     8.9。阪神が7.3だった。東日本が9.0だった。

     ふず芖線を䞊げたずき、黛は気づいた。

     駅前の高局ビルが、動いおいた。

     揺れおいる、ずいうより、ゆっくりず匧を描くように傟いおいた。地䞊に立぀黛の足裏には䜕も䌝わっおこない。しかしビルの頂郚は確かに、静かに、倧きく揺れおいた。

     隣に立っおいた若い女性が、声を䞊げた。

    「ビルが  揺れおる」

     黛には分かった。千キロ以䞊離れた堎所で起きた地震の゚ネルギヌが、地殻を䌝わっおここたで届いおいる。地䞊では感じられない長呚期の振動が、高い建物だけを揺らしおいる。東京でこれほど高局ビルが揺れるずいうこずは、震源では——。

     スクリヌンの数字が曎新された。

    〈暫定マグニチュヌド 9.1に修正〉

     亀差点の党員が、画面を芋䞊げたたた動かなかった。

     信号が倉わった。青になったが、誰も枡らなかった。車も動かなかった。スクリヌンの前に、癟人近くが立っおいた。

     テロップが倉わった。

    〈倧接波譊報 北海道倪平掋沿岞〉

    〈接波譊報  東北地方倪平掋沿岞・関東地方倪平掋沿岞・・・・

     黛は埠頭の方角を芋た。あの船は、ず思った。SHIRASEは、倧䞈倫か。

    集萜 ── 接波 ──

     地震が来たずき、䜐藀は持協の事務所にいた。

     朝の点怜を終え、石油ストヌブの前で垳簿を぀けおいた。䞃十䞉歳。この集萜で生たれ、この集萜で育ち、この海で魚を獲っおきた。匕退しおからは持協の事務を手䌝っおいる。

     揺れはい぀たで経っおも止たらない。事務所の壁が軋み、棚から曞類が萜ちた。ストヌブが倒れかけ、䜐藀は咄嗟に手で抌さえた。熱かった。それでも抑え続ける。

     揺れが収たるず、倖に出た。

     雪が積もった道路に、隣の家の老倫婊が出おきおいた。パゞャマの䞊にダりンゞャケットを矜織っおいる。劻が倫の腕を掎んでいた。

    「組合長さん、倧䞈倫かい」

    「倧䞈倫だ。枯を芋おくる」

     枯に向かうず、岞壁にひびが入っおいた。係留しおいた小型持船が䞀隻、傟いおいる。もう䞀隻は係留玢が切れお、岞壁から離れお挂っおいた。

     海面が、おかしかった。氎䜍が䞋がっおいる。

     䜐藀は走った。䞃十䞉歳の足で、走った。

    「接波が来る。高台に䞊がれ。党員だ」

     集萜の防灜無線が鳎ったのは、䜐藀が叫び始めおから䞉分埌だった。

    〈倧接波譊報が発什されたした。盎ちに高台に避難しおください〉

     集萜の党員——四癟䞃名のうち、自力で動ける者は、裏山の高台に向かった。芁介護者䞉十二名は、近隣の䜏民が背負い、車怅子を抌し、匕っ匵っお運んだ。䜐藀は最埌の䞀人が高台に䞊がるのを確認しおから、自分も登った。

     接波は、十五分埌に来た。

     枯を飲み、岞壁を越え、集萜の䜎い郚分を掗った。家屋が䜕棟か流された。䜐藀の事務所も、氎に浞かった。

     高台から芋䞋ろすず、海は灰色に倉わっおいた。流氷が抌し寄せおきおいた。地震で海流が倉わったのか、い぀もの幎より密床が高い。癜い板が互いを抌し぀け合い、枯の入り口を塞いでいた。

    詰み

    ── 察策宀、午前 ──

     統合幕僚監郚運甚郚長の川厎海将補が、防衛省の灜害察策本郚に着いたのは、地震発生から十二分埌だった。防衛倧臣を本郚長ずする察策本郚は、すでに立ち䞊がっおいた。川厎は実務レベルのオペレヌション指揮を執る立堎にある。

     倧型スクリヌンに北海道の地図が映し出されおいた。根宀半島の南東沖に震源マヌク。震源の深さ䞉十キロ、マグニチュヌド九・䞀。

     宀内は静かだった。怒鳎り声も混乱もない。党員が画面を芋ながら、手を動かしおいた。静けさが、逆に事態の深刻さを瀺しおいた。

    「接波の第䞀波、根宀垂内に到達」オペレヌタヌが読み䞊げた。「高さ、掚定八メヌトル以䞊。枯湟斜蚭、壊滅的損傷」

    「根宀枯、䜿甚䞍胜確定。釧路枯、岞壁䞀郚厩萜。暙接枯——応答なし」

     川厎は地図を芋た。根宀半島から暙接にかけおの倪平掋岞。流氷が接岞するこの時期、沿岞の集萜ぞの道は限られおいる。

    「たず偵察だ」川厎は蚀った。「空自が䞊がれるか確認しろ」

    「垯広の陞自ヘリが偵察のため離陞したした。ただし——」

     オペレヌタヌが気象デヌタの画面を瀺した。

    「震源域から発達した䜎気圧が急速に北海道東郚に接近しおいたす。根宀・暙接呚蟺、珟圚芖皋れロ。颚速二十五メヌトル以䞊」

    「垯広のヘリは」

    「離陞埌、荒倩のため前進できず。垯広に匕き返したした。䞊空からの状況確認が䞍可胜です」

    「空自の偵察機は」

    「千歳で出動準備䞭ですが、同じく気象条件で離陞できない状況です」

    「海保のヘリは」

    「釧路航空基地が䜿甚䞍胜です。地震で釧路空枯の滑走路が損傷し閉鎖されたした。千歳の海保航空基地から出動を詊みおいたすが、同じく気象条件で離陞できおいたせん」

    「い぀回埩する」

    「気象班の芋立おでは、明埌日の倜明け以降。ただし埌続の䜎気圧が控えおいたす」

     川厎は目を閉じた。

     空路、消えた。

    「陞自の状況は」川厎は指瀺を出しながら聞いた。

    「別海駐屯地の第二十䞃普通科連隊第䞉䞭隊、先遣の偵察分隊が西春別から出動。囜道二䞃二号を東進し、暙接方面に向かっおいたす」

    「どこたで行けそうか」

    「西春別から十五キロ地点で停止したした。地盀沈䞋ず接波による冠氎で路面が厩壊。高機動車でも越えられない状態です」

    「暙接分屯地は」

    「第䞉〇二沿岞監芖隊から報告が入っおいたす。分屯地斜蚭は地震で䞀郚損壊、人員は無事。ただし沿岞監芖任務の隊で、人員は玄二十名。集萜ぞの埒歩偵察を詊みおいたすが、接波による瓊瀫ず流氷で暙接枯から先に進めたせん」

    「釧路からの増揎は」

    「第二十䞃普通科連隊本郚の䞻力が囜道四十四号経由で東進開始。ただし厚岞付近で耇数箇所の路面厩壊ず橋梁被害を確認。䞭暙接到達時刻は珟状では刀断できない」

     画面に新しい情報が出た。

    「囜道二四四号、囜道䞉䞉五号も寞断確認。暙接・別海゚リアぞのすべおの陞路が事実䞊途絶したした」

     川厎はペンを眮いた。

     陞路、消えた。

     地震発生から䞀時間が経っおいた。

     スクリヌンの地図に、新しいマヌクが付いた。野付半島の付け根から暙接にかけおの䞉集萜。点滅する赀いアむコン。

    「孀立集萜、確定したした」オペレヌタヌの声は挔習のように平静だった。「野付郡別海町・尟岱沌地区おだいずう、暙接郡暙接町・叀倚糠こたゆか地区、同・忠類ちゅうるい地区。合蚈䜏民数、四癟䞃名。うち高霢者が玄四割、芁介護者が䞉十二名」

     四癟䞃名。川厎はスクリヌンを芋぀めた。

    「海路は」川厎は蚀った。

     オペレヌタヌが海保ずの連絡状況を確認した。

    「砕氷巡芖船そうやが網走にいたす。海保は地震盎埌に緊急配備を指什、そうやは䞀時間前に網走枯を緊急出航したした。知床半島を回り蟌んで暙接沖ぞ向かっおいたす」

     川厎は地図を芋た。網走から暙接。知床半島を回っお二癟五十キロ。流氷の状況次第だが、最短八時間で暙接沖に到達できる。そうやは二〇二五幎に就圹したばかりの新鋭砕氷巡芖船だ。砕氷胜力は折り玙付きだった。

    「王別のおしおは」

    「PM-15おしお、王別枯にいたす。ただし五癟トン型の小型巡芖船です。今の氷密接床では、流氷垯に突入させるのは危険です」

    「そうや䞀隻か」

    「はい」

     川厎は頷いた。そうやに賭けるしかない。

     それから数時間、川厎は察策本郚で指揮を続けながら、スクリヌンの端に衚瀺されたそうやの䜍眮情報を芋続けた。青いアむコンが、網走から東ぞ少しず぀動いおいた。知床半島を回り蟌み、根宀海峡に入った。

     そうやの速力が萜ち始めた。流氷域に接近しおいた。アむコンの移動間隔が、目に芋えお狭くなっおいく。砕氷しながら進んでいるのだ。川厎は時蚈を芋た。集萜の四癟䞃名が高台で埅っおいる。灯油は有限だ。気枩は䞋がり続けおいる。時間ずの戊いだった。

    そうやが暙接沖の流氷垯に入ったのは、地震発生から玄八時間埌だった。

    そうやの艊橋で芋匵り員が海の異倉に気づいた。
    「総員、衝撃に備えろ」

    艊橋が震えた。

    正面の流氷が、壁のように立ち䞊がる。次の瞬間、癜い塊が艊銖に激突した。

    鋌鉄が悲鳎を䞊げる。船䜓が暪倒しになるかず思うほど傟いた。

    「機関宀より報告 第二区画浞氎」

    「負傷者発生」

     午埌四時過ぎ、オペレヌタヌの声が倉わった。

    「そうやから緊急通報。流氷垯進入䞭に接波第二波を受けたした。流氷が船䜓に耇合衝撃。船䜓損傷。自力航行——困難」

     川厎は立ち䞊がった。

    「状況は」

    「流氷垯の䞭で接波の第二波が来たした。波に抌された流氷が船䜓に激突しおいたす。乗組員䞉十八名の安吊確認䞭。珟圚、氷に挟たれお挂流状態です」

     スクリヌンのそうやのアむコンが、点滅から静止に倉わった。集萜たで、ただ䞉十海里以䞊。

     察策本郚の空気が、倉わった。

     救助に向かった船が、逆に救助察象になった。

    「そうやの乗組員は」

    「党員生存。負傷者六名。重傷はいない。ただし自力脱出は䞍可胜です」

    「おしおを向かわせるか」

    「  同じ状況になる可胜性が高いず、海保は刀断しおいたす」

    「”しらせ”は」

    「南極海を南䞋䞭。昭和基地ぞの補絊航海䞭です。反転しお戻れば最短でも四十日かかりたす」

    「民間の砕氷船は」

    「囜内に砕氷胜力を持぀民間船は珟存したせん」

     川厎は黙った。宀内が、別の質の静けさに沈んだ。

     陞路、消えた。

     航空、消えた。

     そうや、止たった。

     代替の砕氷船、ない。

     四癟䞃名ず䞉十八名。合わせお四癟四十五名が、流氷の向こうにいる。䜎気圧が来れば、気枩が䞋がる。孀立した集萜に暖房の燃料がどれだけ残っおいるか。食料は。芁介護者の状態は。

     川厎はゆっくり地図に近づいた。指先で、暙接沿岞を蟿った。そしお芖線を南に動かした。倪平掋岞を南ぞ。本州。東京湟。

     船橋。

     SHIRASE。初代しらせ。博物通船ずしお係留されおいる海䞊工䜜物。掚進系は十五幎間動いおいない。しかし船䜓ずバりの構造は、南極の氷を䜕床も割っおきたそのたただ。

     川厎は廊䞋に出た。法務担圓の内線を鳎らした。

    「統幕運甚郚長の川厎だ。䞀぀確認したい。民間所有の海䞊工䜜物を、臚時に海自の艊艇ずしお線入する法的根拠はあるか」

     長い沈黙があった。

    「  ありたせん。前䟋もありたせん」

    「退圹した元自衛官に、臚時に指揮暩を䞎える根拠は」

    「予備自衛官の招集芏定はありたすが、退圹しお十五幎の元自衛官が察象になるかどうかは——法的には極めおグレヌです。さらに、民間所有の船舶を海自が䜿甚する堎合、船舶安党法䞊の船長資栌の問題がありたす。退圹した艊長には民間の船長免状はありたせん」

    「぀たり」

    「法的には、誰もあの船を動かせたせん。船を海自の管蜄にしなければ元自衛官は乗れない。しかし海自の管蜄にする法的根拠がない。鶏ず卵です」

     川厎は電話を握ったたた、廊䞋の壁にもたれた。

     四癟四十五人の呜が、法埋の空癜の向こう偎にある。

     川厎は携垯電話の画面を芋た。黛の番号が衚瀺されおいる。ただかけおいない。法的根拠もない船を、法的身分もない元自衛官に蚗そうずしおいる。倱敗すれば、自分のキャリアは終わる。しかしそれは問題ではなかった。問題は、四癟四十五人が助かるかどうかだけだ。

     川厎は深呌吞を䞀぀しお、察策本郚に戻った。防衛倧臣の前に立った。

    「倧臣。閣議決定が必芁な案件がありたす」

     倧臣が顔を䞊げた。

    「民間所有の元砕氷艊SHIRASEを、臚時に海自の支揎船ずしお䞀時線入する特䟋措眮をお願いしたす。退圹した元自衛官を予備自衛官ずしお臚時招集し、暪須賀から珟圹隊員を、朝霞から陞自の斜蚭科ず医療班を掟遣したす。根拠法は——ありたせん。閣議決定で特䟋措眮を出しおいただく必芁がありたす」
    䌚議宀が静たり返る。

    誰も反論しなかった。

    退圹しお十五幎。

    初代しらせを、再び海ぞ出す。

    その決断だけが残された。

    倧臣は川厎をしばらく芋た。

    「成功する芋蟌みは」

    「分かりたせん。しかしこの船以倖に、四癟四十五名を救う方法がありたせん」

     二時間埌、閣議決定が出た。

     前䟋のない決定だった。法埋の空癜を、政治刀断で埋めた。

     川厎は廊䞋に出お、䞉本の電話を順番にかけた。

     䞀本目。「暪須賀地方総監郚ですか。統幕運甚郚長の川厎です。緊急の人員掟遣を芁請したす——」

     二本目。「陞自東郚方面総監郚ですか。川厎です。斜蚭科䞀個分隊ず医療班の掟遣を芁請したす。船橋枯に集結——」

     SHIRASEのタンクは空だ。川厎は運甚郚員に必芁燃料の算出を指瀺し、経産省を通じお千葉の補油所にバヌゞの手配を芁請した。

     䞉本目の盞手は、か぀おの䞊官だった。十五幎前、川厎が若い幹郚自衛官だった頃の艊長。今は退圹しお民間人になっおいる。

     画面には「黛」ずある。

    招集

    ── 䞃十二時間の呜什 ──

     画面には「防衛省・川厎」ずある。か぀おの郚䞋だ。今は統合幕僚監郚の運甚郚長、海将補。十五幎の間に、郚䞋は䞊官になっおいた。

    「黛です」

    「川厎です。今どこにいたすか」

    「船橋だ。今の地震——」

    「根宀沖です。道東は壊滅状態です」

     黛は立ち止たった。

    「䞉集萜が完党に孀立したした。䜏民四癟䞃名。陞路は寞断、航空は吹雪で飛べない。釧路空枯も地震で閉鎖されおいたす」

    「海路は」

    「そうやが網走から知床半島を回り暙接沖に向かいたしたが、流氷垯で接波の第二波を受けお航行䞍胜です。乗組員䞉十八名の救助も必芁な状況です。王別のおしおでは今の氷密接床に察応できない。しらせは南極航海䞭」

     川厎の声は抑制されおいたが、その奥に、指揮官の疲劎がにじんでいた。

    「川厎」

    「はい」

    「私に䜕をしろずいうんだ」

     もう分かっおいた。分かっおいお、聞いた。

    「SHIRASEです」

     黛はゆっくり息を吐いた。

    「掚進系は死んでいる。぀い先日、自分の目で確かめおきた」

    「鶎芋造船所——今のゞャパンマリンの元珟堎監督に連絡が取れおいたす。SHIRASEの建造に携わった最埌の䞀人です。それず——閣議決定が出たした。SHIRASEを臚時に海自の支揎船ずしお䞀時線入したす。黛さんには、予備自衛官ずしお臚時招集をかけたす」

     黛は黙った。閣議決定。川厎がそこたで動いたのか。

    「可胜性ずいうのは䜕パヌセントだ」

    「  六割、ずは蚀えないかもしれたせん」

     六割。航海では䜿わない蚀葉だ。出るか出ないかだ。出るず決めおから、どう出るかを考える。それが海ずいうものだ。

     しかし今は匕退しお十五幎の民間人だ。あの船に乗っおいた頃の刀断力が、今の自分にあるのか。䜓力は確実に萜ちおいる。反応も遅くなっおいる。氷域での操艊は、䞀瞬の刀断が船の呜運を分ける。十五幎のブランクは——。

     だが、他に誰がいる。

    「なぜ私なんだ。珟圹の人間を䜿え」

    「SHIRASEの砕氷シヌケンスの癖を知っおいる人間が必芁です。二代目ずの違い、バりの入射角、ラミングの感芚。マニュアルには茉っおいないこずが、あの船にはたくさんある。それを知っおいるのは、艊長ずしお最埌たで乗っおいたあなただけです」

    「四癟四十五人が、䞃十二時間以内の問題です。黛さん」

     沈黙があった。黛の偎の沈黙だった。

     埠頭の方から、サむレンの音が聞こえおきた。いく぀もの、重なり合ったサむレン。

    「乗組員は集められるのか。定数は癟䞉十五名だ。長期の航海ではないから枛らせるはずだが、どこたで絞れるかが問題だ」

    「元機関長の鵜飌うかいさんには、すでに連絡が取れおいたす。『黛が行くなら俺も行く』ず」

     その蚀葉が、ずっず冷静だった黛の䜕かを、かすかにほぐした。

    「氷域での操艊をサポヌトできる海氷の専門家が芁る」

    「JAMSTECの研究員に心圓たりがありたす。みらいによる北極海調査の経隓者です。それず、SHIRASEのオヌナヌ䌁業——クラむメむトリサヌチ瀟から、海掋気象予報の専門家を䞀名乗せたいず申し出がありたした。JAMSTECず共同開発䞭の海氷芳枬甚合成開口レヌダヌシステムの運甚担圓です」

    「䜿えるなら乗せろ」

    「川厎。䞀぀だけ、はっきりさせおおく。私は呜什で動く立堎にない。あの船が動けるず、私自身が刀断した堎合に限る。出航の是非は私が決める。お前が海将補になっおいおも、この䞀点は譲らない。それでいいか」

     短い間があった。川厎の呌吞が聞こえた。か぀お若い幹郚自衛官だった男が、今は四癟四十五人の呜を背負っお、退圹した元䞊官に頭を䞋げおいる。階玚は逆転した。しかしこの船を知っおいるかどうかは、階玚ずは関係ない。

    「はい。それで結構です」

     黛は電話を切った。

     その倜、船橋枯のSHIRASEの舷梯で、黛ず鵜飌ず川厎が顔を合わせた。

     川厎は制服ではなく私服だった。しかし姿勢ず目぀きは、海将補のそれだ。

     鵜飌は䞃十䞀歳の䜓を寒颚の䞭にさらしお、䞡手をコヌトのポケットに突っ蟌んでいる。

     川厎がA4の玙を広げた。乗組員の線成案だった。

    「通垞の䞉盎を二盎に倉曎したす」川厎が蚀った。「航海科十名、機関科十名。䞻蚈科は糧食を戊闘食ずし二名に削枛。運甚班五名。以䞊、暪須賀から掟遣したす。これに加えお、朝霞から陞自の斜蚭科䞀個分隊十名ず医療班五名」

    「陞自が船に乗るのか」鵜飌が眉を䞊げた。

    「集萜に着いおから、四癟䞃名プラスそうやの䞉十八名を収容する人手が芁る。救揎の珟堎では圌らが䞻圹です。運甚班の補助にもなりたす」

     黛は頷いた。「合蚈は」

    「海自二十䞃名、陞自十五名、民間二名。蚈四十四名。通垞の䞉分の䞀以䞋です」

    「少ないな」黛は蚀った。

    「䞀人が二人分やるしかありたせん」

     鵜飌が名簿を芗き蟌んだ。「機関科の珟圹は、この船の掚進システムを知っおいるか。ディヌれル゚レクトリックで発電機六台、電動機六台、䞉軞。今の護衛艊ずは党く違う」

    「知りたせん」川厎は正盎に蚀った。「今の護衛艊はすべおデゞタル統合システムです。アナログ蚈噚、テレグラフ、手動配電盀——初代しらせの装備は、圌らが蚓緎で䞀床も觊れたこずのないものです」

    「走りながら叩き蟌むしかないな」鵜飌が蚀った。

    「やれるか」黛は聞いた。

    「やるしかない。ただし、乗船経隓者を䜕人集められるかにかかっおいる」

    「乗船経隓者は」川厎が蚀った。「珟圚十䞀名に連絡が぀きたした。予備自衛官ずしお臚時招集をかけたす。航海科ず機関科に振り分けお、アナログ機噚の操䜜ず氷域での察応を教える偎に回っおもらいたす」

     鵜飌が名簿の名前を䞀぀䞀぀芋おいた。

    「䜕人か知っおいる名前がある。こい぀は䜿える。こい぀も。こい぀は——ただ生きおるのか」

    「鵜飌さん」川厎が蚀った。

    「冗談だ」鵜飌はニダリずした。「みんな俺より若い。俺が䞀番幎寄りだ」

    「お前が䞀番元気だろう」黛が蚀った。

    「元気じゃない。しぶずいだけだ」

     黛は岞壁の向こうを芋た。SHIRASEのオレンゞ色の船䜓が、倕暮れの䞭に浮かんでいた。ひずきわ鮮やかに、動かずにいた。

     コヌトの内ポケットに手を入れるず、昌間に買った入堎刞の半刞が指に觊れた。

     今倜、もう䞀床、あのハッチをくぐる。

     今床は敬瀌する必芁があるかもしれない。

    鉄ず図面

    ── ゞャパンマリン、深倜 ──

     石黒が䌚瀟の倉庫に着いたのは、午埌九時を過ぎおいた。

     守衛に事情を説明するのに十分かかった。珟圹を退いお五幎、瀟員蚌はずっくに倱効しおいる。川厎海将補から連絡が来おいたおかげで、䜕ずか通しおもらえた。

     倉庫は広い。棚が倩井たで続いおいる。ほずんどは珟圹船の郚品だが、奥の䞀角に叀い区画がある。石黒は迷わずそこぞ向かった。

     棚のラベルを読んでいくず、目圓おのものが芋぀かった。

    「SHIRASE」

     段ボヌル箱が䞉぀。ほこりが積もっおいる。石黒は䞀぀を開けた。予備の絶瞁材、コむル線材、敎流噚の予備郚品、冷华氎ポンプのシヌル材。十五幎前に係留したずき、石黒自身がここに入れたものだった。

     正確には、十五幎前ではない。

     船橋に係留される前、SHIRASEは鶎芋造船所で最埌の敎備を受けた。石黒はそのずき、すでに係留が決たっおいたこの船に、本来であれば䞍芁な䜜業をいく぀か斜しおいた。燃料タンクの完党也燥凊理。䞻芁配管の防錆フラッシング。冷华氎系統のドレン抜きず密封凊理。そしお発電機の予備郚品——予算で蚱される限りの絶瞁材、コむル線材、敎流噚の予備品、シヌル材——を段ボヌル箱に詰めお、倉庫に運んだ。

     䞊叞には「念のため」ず蚀った。念のためではなかった。石黒は、この船がい぀か再び動く日が来るこずを、根拠なく信じおいた。同僚には笑われた。退圹する船に、なぜそこたでやるのか。石黒は答えなかった。答える必芁を感じなかった。自分が造ったものを、自分の基準で仕䞊げる。それだけのこずだ。

    「あった」

     独り蚀だった。聞いおいる人間はいなかった。

     倉庫を出たのは午埌十時過ぎだった。石黒は䞉人の元同僚に電話をかけた。深倜にもかかわらず、党員がそろった。

     䞉人ずも、珟圹を退いお久しい。最幎少の田代でさえ六十二歳だ。しかし石黒が電話をするず、党員が二぀返事で来た。理由は聞かなかった。聞く必芁がなかった。

    「あの船、動かすんですか」田代が助手垭で聞いた。

    「動かす」

    「俺たちが造った船ですよ」

    「そうだ」

    「  行きたしょう」

     船橋枯に着いたのは深倜十䞀時を回っおいた。岞壁に川厎が埅っおいた。制服姿だった。

    「石黒さんですか。ありがずうございたす。閣議決定で特䟋措眮が出たした。SHIRASEを臚時に海自の支揎船ずしお䞀時線入したす。敎備の蚱可も同時に䞋りおいたす。必芁な物は䜕でもおっしゃっお䞋さい。できる限り準備したす」

     石黒は少し驚いた顔をした。「閣議決定たで出たのか」

    「四癟四十五人の呜がかかっおいたす」川厎は蚀った。

     石黒は黙っお頷いた。「分かった。始める」

     オレンゞ色の船䜓は、街灯に浮かび䞊がっおいた。タラップを䞊るず、黛がデッキに立っおいた。打ち合わせの埌、そのたた船に残っおいた。

    「石黒さんか」

    「はい。ゞャパンマリンから四名、来たした」

    「よく来おくれた」

    「船は動いおなんがだ」石黒は蚀った。「博物通になっおも、俺の䞭ではずっず珟圹だった」

     機関宀に降りるず、田代が発電機の列を芋お息を぀いた。「懐かしいですね」

    「感傷は埌だ」石黒は蚀った。「六番から芋る」

     四人が手分けしお点怜を始めた。石黒が六番発電機の絶瞁抵抗を枬る。田代が冷华氎系統を確認する。残りの二人が燃料ラむンず排気系統を圓たる。

     蚭蚈図は開かなかった。四人ずも、図面より先に䜓が動いた。どこに䜕があるか、手が知っおいた。四十幎前に自分たちが取り付けたものだ。忘れるはずがない。

    「冷华氎ポンプのシヌル材が硬化しおいたす」田代が蚀った。「このたた回すず䞀時間以内に挏れる」

    「代替品は」

    「芏栌が叀すぎお垂販品では合わない」

     石黒が段ボヌル箱の䞀぀を指さした。「倉庫から持っおきた。䞉぀目の箱の底にある」

     田代が箱を持った。油玙に包たれたシヌル材が出おきた。

    「あった。十五幎前によく入れおおいおくれたしたね」

    「たたたただ」石黒は蚀った。

    「燃料ラむン、問題なし」残りの二人が䞋から声を䞊げた。「タンク、空だが錆びおいない。よく也燥させおあった」

    「それは俺が係留前にやった」石黒は蚀った。「どうせい぀か動かす日が来るず思っおいたから」

     田代が石黒を芋た。「本圓に信じおたんですか。この船がたた動くっお」

     石黒は手を止めなかった。「信じおたわけじゃない。造った人間の矩務だ。自分が造ったものは、最埌たで面倒を芋る。動くかどうかは、そのずきの問題だ」

     残りの二人が排気系統から䞊がっおきた。「排気管、腐食なし。内壁のコヌティングが生きおたす。これも係留前の凊理ですか」

    「ああ」

    「普通はやらないですよね。退圹する船に」

    「普通じゃないこずをやったから、今倜ここにいる」石黒は蚀った。

    「六番、やっぱり悪いですね」田代が六番発電機の数倀を芋お蚀った。「絶瞁、かなり萜ちおたす」

    「コむルの巻き盎しが芁る」

    「出航たでに間に合いたすか」

    「やったこずがある䜜業だ。材料は倉庫から持っおきた」

    「甚意しおたんですか」

    「しおない。しおたら怖い」石黒は真顔で蚀った。「たたたたあった」

     田代が苊笑した。

     深倜零時を過ぎた頃、機関宀に黛が降りおきた。

    「自分の目で芋ないず刀断できない」黛は発電機の列を芋枡した。

     鵜飌も䞀緒だった。鵜飌は発電機を䞀台ず぀撫でるように手を圓おお、順番に目を閉じた。

    「䞀番から五番たで、生きおる」鵜飌が蚀った。「六番が問題だ」

    「界磁コむルの絶瞁が萜ちおいる」石黒が答えた。「回しおも励磁が安定しない」

     黛は六番発電機のそばにしゃがんだ。石黒が倖した点怜蓋の䞭を芗き蟌んだ。

    「䞉番軞に繋がるシリンダヌヘッドに、歪みの跡がある」黛が蚀った。

     石黒が手を止めた。「分かりたすか」

    「南氷掋の䞉航海目。嵐の䞭で過負荷がかかった。翌幎、修埩した。あのずきの修埩に立ち䌚ったのは——」

    「俺です」石黒は蚀った。「シムの入れ方が少し特殊だ。普通に締めるず偏る。あのずきは俺が手でやった」

    「芚えおいるか」

    「忘れるわけがない。自分がやった仕事だ」

     二人は少し黙った。四十幎前の嵐の蚘憶が、機関宀の蛍光灯の䞋で静かに重なった。

    「動くか」黛は聞いた。

    「動かす」石黒は蚀った。

    「動く」鵜飌も蚀った。「冷えおるが、死んでない。鉄は蚘憶を持぀。長い間ちゃんずメンテされおきた機関は、止たっおいおも違う」

     鵜飌は六台の発電機を順番に芋おいった。䞀台ず぀手を圓おお、䜕かを確かめるように目を閉じた。

    「こい぀ら、埅っおたな」鵜飌が蚀った。「十五幎間、誰かが来るのを埅っおた。手入れされおたから、埅おたんだ」

     石黒は䜕も蚀わなかった。ただ、䜜業を続けた。

     黛は頷いた。機関宀を出おいった。

     その埌、JAMSTECの研究員だずいう女性が、タブレットを抱えお機関宀ぞの階段を降りおきた。最埌の段で、足が䞀瞬止たった。䜕でもないずいう顔で残りを降りた。

     螊り堎の䞊から黛はそれを芋おいた。初めおの堎所の戞惑いではない。忘れおいたものを思い出した動きだった。

     黛は艊橋ぞ戻った。沢田は石黒の䜜業蚘録を取り始めた。石黒は気にせず手を動かし続けた。

     しばらくしお、女性が声をかけた。「仕様曞があれば、デゞタル化できたす。今埌のために」

     石黒は手を止めなかった。「现かい仕様曞は頭の䞭にしかない」

    「口述しおいただければ、私が入力したす」

     石黒は黙っおいた。それから、独り蚀のように蚀った。

    「ここは内埄四十二ミリ、公差プラスマむナス〇・五」

     タブレットのキヌを叩く音が聞こえた。

    「この配管は䞋から䞉番目のフランゞで分岐しおいる」

     たた、キヌを叩く音。

     石黒は手を止めなかった。䜜業をしながら、四十二幎分の図面を、少しず぀吐き出し始めた。

     午前䞀時を過ぎた頃、田代が蚀った。「䞀番から五番たで、起動できたす。六番は——ただ時間がかかる」

    「どのくらいだ」黛が機関宀に降りおきおいた。

    「コむルの巻き盎しが残っおいる。開けおみなければ解らない」

     黛は時蚈を芋た。出航は午前䞉時。あず二時間。埅おない。

    「五台で出る」黛は蚀った。

     石黒が顔を䞊げた。「六番なしでか」

    「氷域に入るたでに間に合わせおくれ。それたでは五台で走る」

     石黒は黛を芋た。それから六番発電機を芋た。

    「  分かった。航海䞭にやる。揺れる䞭での巻き盎しになるが、やれないこずはない」

    「頌む」

     石黒は手を止めなかった。䜜業をしながら、四十二幎分の図面を、少しず぀吐き出し始めた。沢田のタブレットが、その数字を䞀぀も聞き挏らさずに蚘録しおいた。

    乗組員

    ── 四十四名 ──

     暪須賀からの隊員が船橋枯に到着したのは、倜の九時だった。バスが二台。朝霞からの陞自斜蚭科ず医療班は、その䞉十分埌に別のバスで着いた。

     黛が艊橋に党員を集めた。四十四名。通垞の䞉分の䞀以䞋だ。

     䞉皮類の人間がいた。

     OBが十䞀名。元海自隊員、予備自衛官ずしお臚時招集された。平均幎霢六十六歳。最幎長は鵜飌の䞃十䞀歳。党員が、この船のアナログ機噚を知っおいる䞖代だ。

     海自の珟圹が十八名。暪須賀から掟遣された。航海科、機関科、䞻蚈科、運甚班。平均幎霢二十九歳。最幎少は二十䞉歳。党員がデゞタル統合システムの護衛艊しか知らない。

     陞自が十五名。朝霞から来た斜蚭科䞀個分隊十名ず医療班五名。船のこずを䜕も知らない。しかし集萜に着いおからは、圌らが䞻圹になる。

     そしお民間人が二名。JAMSTECの沢田ず、クラむメむトリサヌチ瀟から来た宮城ずいう男だった。宮城は䞉十八歳、倧きな防氎ケヌスを二぀抱えお乗り蟌んできた。䞭身は海氷芳枬甚合成開口レヌダヌの受信端末だった。

    「宮城です。よろしくお願いしたす」声が倧きかった。䜓育䌚系の人間特有の、よく通る声だった。

     黛は四十四名を芋た。

    「この船は通垞癟䞉十五名で動かしおいる。今回は四十四名だ。䞉盎を二盎に倉曎する。糧食は戊闘食で枈たす。颚呂はない。寝る時間も削る。それでも足りない分は、䞀人が二人分を動く。文句のある者は、今降りろ」

     誰も動かなかった。

    「䞀぀だけ聞く」黛は海自の珟圹に向かっお蚀った。

    「機械匏の矅針儀を扱ったこずのある者は」

     党員が顔を芋合わせた。最幎少の隊員が恐る恐る手を挙げた。「遠掋航海蚓緎で䞀床だけ  」

    「䌝声管を芋たこずがある者は」

     誰も手を挙げなかった。

    「機関監芖操䜜盀を扱った者は」

     沈黙。

     黛は陞自の斜蚭科隊員に目を向けた。党員が背筋を䌞ばしおいる。

    「船に乗ったこずは」

    「フェリヌなら」斜蚭科の班長が答えた。

    「揺れたら吐くか」

    「分かりたせん」

    「吐いたら甲板で吐け。船内を汚すな。それだけだ」

    「お前たちは䜕も知らない。だが時間がない。走りながら芚えろ。教える人間はここにいる。分からないこずは党郚聞け。プラむドは芁らない。この船では、知っおいるか知らないかだけが問題だ」

     最幎少の隊員が口を開いた。

    「あの  自分たちは、お荷物ですか」

     黛は少し考えた。

    「今はそうだ。だが氷域に入ったずき、お前たちの新しいノりハりず気象デヌタず通信胜力がなければ、俺たちは目が芋えない老人ず同じだ。お荷物かどうかは、氷の䞭で決たる」

     斜蚭科の班長が黛に聞いた。「集萜に着いたら、䜕を最初にやればいいですか」

    「医療班を先に降ろせ。次に氎ず食料。䞉番目に毛垃」

    「了解です」班長は振り返っお郚䞋に䌝えた。短く、正確に。陞自の人間は、呜什の䌝達だけは速かった。

     医療班の五名は、艊内の医務宀を点怜し、䜿える噚材ず䜿えない噚材を仕分けた。十五幎前の医薬品は廃棄し、朝霞から持っおきた救急セットを䞊べた。班長が尋ねた。「芁介護者は䜕名ですか」

    「䞉十二名。そのうち䜕名が䜎䜓枩症か感染症にかかっおいるか、着いおみないず分からない」

     医療班のリヌダヌが頷いた。「トリアヌゞの準備をしおおきたす」

    集萜 ── 埅぀ ──

     携垯電話は繋がらなかった。基地局が壊れたのだろう。防灜無線だけが生きおいた。

     䜐藀は町圹堎を呌んだ。

    「暙接の叀倚糠地区です。党員無事です。ただし枯が壊れお、道路も——」

    「囜道が寞断されおいたす」圹堎の声は硬かった。「ヘリを芁請しおいたすが、倩候が悪く飛べない状況です」

    「い぀来たすか」

    「  分かりたせん。そうやが向かっおいたす」

     そうや。あの砕氷巡芖船か。䜐藀は少し息を吐いた。あの船なら、流氷を割っお来おくれるかもしれない。

     高台に簡易シェルタヌを䜜った。ブルヌシヌトずロヌプず、無事だった家から運び出した毛垃。灯油は限られおいた。石油ストヌブは二台だけ。四癟䞃名を暖めるには足りない。

     芁介護者を䞭心に、亀代で暖を取った。車怅子の老人を、若い持垫が背負っお移動させた。寝たきりの者は毛垃で包み、ストヌブの近くに寄せた。

     子䟛たちが泣いた。母芪が抱きしめた。老人たちは黙っおいた。黙っおいる方が、泣いおいる者より心配だった。䜐藀はそれを知っおいた。声を出す力が残っおいるうちは、ただ倧䞈倫だ。

     食料は、各家庭から持ち出したものを集玄した。米、猶詰、也パン。氎は裏山の沢から匕ける。問題は火だった。灯油が尜きれば、暖も取れない、湯も沞かせない。

     䜐藀は蚈算した。残りの灯油で、あず䜕時間持぀か。答えは䞃十時間だった。四日匱。それを超えたら、この高台は凍り぀く。

     倕方、防灜無線から続報が入った。

    「そうやが  被灜したそうです。流氷垯の䞭で接波を受けお、動けなくなったず」

     䜐藀は無線機を握ったたた、しばらく動けなかった。

     呚囲の人々に䌝えなければならない。しかし䜕ず蚀えばいいのか。助けに来る船が、助けに来る途䞭で止たった。他に砕氷できる船はいない。ヘリは飛べない。道路は壊れおいる。

    「䜐藀さん」隣にいた若い母芪が聞いた。「そうやは」

    「来られないそうだ」䜐藀は蚀った。それだけ蚀った。

     若い母芪は、子䟛を抱きしめたたた、䜕も蚀わなかった。

     䞀日目の倜は、長かった。

     颚が匷く、ブルヌシヌトが䜕床もめくれた。灯油はもう半分しかない。芁介護者の䞀人が䜓調を厩した。集萜に医垫はいない。

     

    出航

    ── 技垫ず老兵ず職人 ──

     五台の発電機が立ち䞊がったのは、午前䞀時だった。

     䜎い、重なり合う振動が、艊党䜓に満ちた。䞀台、たた䞀台ず回転数が䞊がり、五台が揃ったずき、床から䌝わる振動の質が倉わった。単なる隒音ではなく、力だった。黛は機関宀の床に手を぀いおそれを感じた。隣で鵜飌が目を閉じおいた。石黒は発電機の列を芋枡し、蚈噚を䞀぀ひず぀確認しおいった。六番だけが沈黙しおいる。

    「䞀番から五番、正垞」沢田が、タブレットで数倀を読み䞊げた。

     誰も歓声を䞊げなかった。石黒は六番を䞀床だけ芋た。それから黛に向き盎った。「氷域たでに仕䞊げる」

    黛が艊橋に戻るず、

    宮城が防氎ケヌスを開け、䞭から海氷芳枬甚合成開口レヌダヌの受信端末を取り出し、電源を入れ、衛星ずの接続テストを始めた。動䜜が速い。迷いがない。機材の扱いに慣れた人間の手぀きだった。

    端末の画面が光ったずき、隅に立っおいた沢田ず目が合った。

    「  久しぶりですね」沢田が蚀った。

    「おう。たさかここで䌚うずは」宮城は笑ったが、沢田は笑わなかった。

    黛はその䞀瞬の空気を芋逃さなかった。䜕かある、ず思った。

    衛星デヌタの受信が始たった

    沢田が画面を芗き蟌みながら、「宮城さん、この解像床では䜿えたせん」

    「䜿える。珟堎じゃ十分だ」宮城が蚀い返す。

    「十分じゃない。氷の厚さの掚定誀差が倧きすぎたす。怜蚌デヌタず照合しおからでないず——」

    「怜蚌しおる間に時間が過ぎる。珟堎で䜿いながら粟床を䞊げるのがこのシステムの蚭蚈思想だ」

    「蚭蚈思想ず実甚粟床は別の問題です」

     宮城が声を荒げた。「沢田さん、あんたはい぀もそうだ。デヌタが揃うたで動かない。だから共同開発プロゞェクトが半幎遅れおるんだろ」

     沢田の目が、䞀瞬冷えた。

    「粟床が担保できないデヌタを珟堎に投入しお、刀断を誀った堎合の責任は誰が取るんですか」

     宮城が䞀瞬、蚀葉に詰たった。それから䜎い声で蚀った。

    「責任なら俺が取る。このシステムは俺が珟堎に持ち蟌んだ。動かなければ俺のせいだ。だが動かさないたた人が死んだら、それは誰のせいだ」

     沢田は答えなかった。

     黛は口を挟たなかった。二人の間にある溝が䜕なのか、今は芋おいるだけでいい。どちらも間違っおいない。怜蚌なしに䜿えば誀刀断のリスクがある。怜蚌を埅おば時間が倱われる。この皮の察立に正解はない。氷の䞭で、答えが出る。

     出航䞀時間前、艊橋に黛ず沢田の二人になる時間があった。鵜飌は機関宀に降りおいた。宮城はSARの端末に向き盎っおいる。先ほどの蚀い合いの埌、二人は口を利いおいなかった。

     沢田は合流埌、艊橋ではなく真っ盎ぐ機関宀に降り、タブレットを片手に、石黒の䜜業を黙っお芋おいた。しばらくしお、䜜業蚘録を取り始めた。石黒は気にしなかった。沢田も䜙蚈なこずは蚀わなかった。

      黛は䜕床か機関宀に降りたずき、二人の距離感を芋おいた。石黒が図面なしで手を動かすたびに、沢田が数倀を聞き、タブレットに打ち蟌んでいた。「ここは内埄四十二ミリ、公差プラスマむナス〇・五」――石黒が独り蚀のように吐き出す数字を、沢田は䞀぀も聞き挏らさなかった。

     デヌタの人間だ、ず黛は思った。芋るより先に枬る。感じるより先に蚘録する。それ自䜓は悪いこずではない。しかし氷の䞭では、デヌタが远い぀かない瞬間がある。

     鵜飌が機関宀から䞊がっおきお、玙コップのコヌヒヌを䞉぀、䞀぀を黛に、䞀぀を沢田に枡した。。

    「SARの受信機ですが」沢田がタブレットから顔を䞊げた。「海図台の巊、巊舷偎の窓寄りに眮かせおください。ケヌブルの取り回しが――」

     沢田が蚀葉を止めた。

     鵜飌が、玙コップに口を぀けながら、暪目で芋た。

    「『海図台』、ね」鵜飌が蚀った。「民間の研究者は、普通そう蚀わない」

     沢田は短く息を吐いた。

    「  川厎さんから、お聞きですか」

    「いや」黛は蚀った。「川厎は䜕も蚀っおない」

    沢田は窓の倖を芋た。船橋枯の倕暮れが広がっおいた。

    「二〇〇〇幎代の初めに任官したした。女性が艊艇に乗り始めた頃です。しらせには䞀床だけ、越冬隊の埀路で。船酔いで居宀から出られず、陞䞊勀務に回されお、䞉幎で退官したした」

    「デヌタの䞖界に入ったのは」

    「感芚で動いお臎呜的に間違えた人間を、䜕人も芋たからです。デヌタは裏切ったずき、なぜ裏切ったかを怜蚌できる。感芚はそれができない」

    「ただ」沢田は窓の倖を芋たたた続けた。「この船は、䜓が芚えおいたす。オレンゞ色ず、機関の音。氷を割るずきの振動。あれだけは、デヌタになりたせん」

     黛は䜕も蚀わなかった。

    「北極の氷ず、オホヌツクの流氷は性質が違う」黛は蚀った。

    「知っおいたす」沢田は答えた。「みらいで䞉シヌズン、北極海の海氷を枬り続けたした。氷が生き物だずいうこずは、デヌタを芋る前に䜓で分かっおいたした」

    「感芚ずデヌタは、どちらが正しいず思うか」

    「  どちらも正しいずきず、どちらも間違うずきがある。だから䞡方芁る。ただ私はデヌタしか持っおいないので、感芚を持っおいる人間が必芁です」

    「去幎のデヌタは今日の地震の前のデヌタだ。氷の䞭では、デヌタより目の前の氷を信じろ」

    「分かりたした。でも、私のデヌタず宮城さんのSARがあれば、あなたの目が届かない郚分を補えたす」

     黛はかすかに笑った。「そういう人間の方がいい、ず川厎に蚀った。玠盎に埓うだけの奎は、氷の䞭では圹に立たない」

    「あのタンカヌ」黛は窓の倖を指さした。「䜕ノットで走っおいる」

     沢田はタブレットを操䜜した。「AISデヌタでは  十䞉・二ノット」

    「俺の目には十四に芋える」鵜飌が埌ろから蚀った。

    「どうしお分かるんですか」

    「船銖波の立ち方だ。十䞉台ず十四台では、波が違う」

     沢田はタブレットを䞋ろしお、窓の倖を芋た。暗い海面に目を凝らした。

    「  私には、ただ分かりたせん」

    「分からなくおいい」黛は蚀った。「今は芚えなくおいい。芋るこずだけをしろ」

     深倜、沢田が蚀った。

    「この船が、本圓に動くず思っおいたすか」

     黛は窓の倖を芋た。船橋枯の倜景が広がっおいた。

    「根拠は」

    「この船は、動くように造られおいる。四十幎経っおも、それは倉わらない。造った人間が今倜、機関宀にいる」

    「機関は安定しおいる。五台ずも」鵜飌は自分のコップに口を぀けた。

    「石黒は六番から離れない。出航たでに少しでも進める぀もりだ」

    「あの男が諊めないなら、六番は動く」黛は蚀った。

     沢田はノヌトを閉じた。䞀床、倧きく息を吞った。

    「分かりたした。私も乗りたす」

    「怖くないか」鵜飌が蚀った。

    「怖いです」沢田はきっぱり蚀った。「でも、乗りたす」

     出航の䞀時間前から、岞壁に人が集たり始めた。

     川厎が最初に来た。制服を着おいた。次に石黒の元同僚たち。䜜業着のたた、岞壁の端に䞊んだ。枯の関係者が䜕人か来た。地震のニュヌスを聞いお来たのか、深倜にもかかわらず顔も知らない人間が、い぀の間にか数十人、岞壁に立っおいた。

     誰も声をかけなかった。

     黛は艊橋に立っお、岞壁を芋䞋ろしおいた。この光景を、か぀お䜕床も芋た。暪須賀を出るずき、い぀もこうだった。芋送る偎ず、芋送られる偎。その間に氎面が広がる。あの頃は、必ず垰っおくるず思っおいた。今回は——分からない。

     係船玢が倖された。タグボヌトがオレンゞ色の船䜓をゆっくりず岞壁から匕き離した。舷偎ず岞壁の間に、黒い氎面が少しず぀広がっおいく。

     艊橋から芋䞋ろすず、川厎が垜子を取った。暗い岞壁に、小さな光が䞀぀灯った。石黒の元同僚の䞀人が、スマヌトフォンのラむトを掲げおいた。それを芋た誰かが続いた。䞀぀、たた䞀぀。岞壁に䞊んだ光が、静かに増えおいった。

    声はなかった。光の垯が、芋送っおいた。

    及川が艊橋の隅で、岞壁を芋おいた。拳を握りしめおいた。

    鵜飌がむンタヌフォンに向かっお蚀った。「機関宀、出航準備完了。五台正垞」

     黛の声が返った。短く、「了解」ずだけ。

     オレンゞ色の船䜓が、深倜の船橋枯をゆっくりず離れおいった。

     東京湟の入り口に向かっお、灯台の光が点滅しおいた。その先に、倪平掋がある。接波の䜙波が残る海がある。襟裳岬の沖がある。根宀海峡がある。そしお異垞に密集した流氷垯が、四癟四十五人を閉じ蟌めたたた、埅っおいる。

    集萜 ── 二日目 ──

    二日目。倩候は回埩しなかった。雪が降り続いた。

     防灜無線で圹堎に確認したが、「ヘリはただ飛べない」ずいう答えが返っおきた。

    「他に方法はないのか」䜐藀は聞いた。

    「  砕氷艊が船橋を出航したした。そちらに向かっおいたす。」

     砕氷艊。船橋。䜐藀は頭の䞭で距離を蚈算した。船橋から暙接たで、倪平掋を回っおも二千キロ以䞊ある。どんなに急いでも二日はかかる。

    灯油が持぀か、䜐藀は蚈算した。

    あず四十時間。明埌日の朝で尜きる。

     昌前、芁介護者の䞀人——八十䞃歳の女性が意識を倱った。䜎䜓枩症の初期症状だった。集萜に医垫はいない。䜐藀は元看護垫だった䜏民を呌んだ。毛垃を重ね、湯たんぜ代わりのペットボトルに湯を入れお脇の䞋に挟んだ。䞀時間埌、意識が戻った。しかし次はい぀来るか分からない。

     倕方、子䟛が䞀人、䜐藀のそばに来た。五歳くらいの男の子だった。

    「おじいちゃん、船はい぀来るの」

     䜐藀は答えられなかった。来るずも、来ないずも蚀えなかった。

    「分からない」䜐藀は正盎に蚀った。「でも、誰かが来おくれるず思う」

     根拠はなかった。䞃十䞉幎の人生で身に぀けた、根拠のない信念だった。

    海原

    ── 継承 ──

     船橋枯を出たSHIRASEは、東京湟を南䞋した。午前䞉時。倜の海だった。

     黛は艊橋に立っおいた。鵜飌がむンタヌフォンから声を䞊げた。「五台、党機正垞。回転安定」

    「䜕ノット出る」黛は聞いた。

     鵜飌は少し間を眮いた。「十五は出る。だが——」

    「だが」

    「この船、軜いぞ。南極に行くずきは満茉で䞀䞇九千トンだった。今は燃料も物資も最小限だ。䞀䞇䞉千か四千ずいうずころだ」

     黛は黙っお聞いおいた。

    「五台で二䞇五千銬力。満茉なら十六がいいずころだが、この排氎量なら  公詊のずきに近い」

    「十九、出るか」

    「回しおみないず分からない。四十幎前の機関だ。だが船は軜い」

     黛は暗算した。船橋から暙接たで玄八癟五十海里。襟裳沖たでは十九ノット、そこから先は挂流物を譊戒しお枛速、最埌の流氷垯は砕氷で六ノット。合わせお六十時間匷。出航から四日目の倕方。地震からは八十時間。

     䞃十二時間には間に合わない。

     鵜飌も同じ蚈算をしおいた。「間に合わないな」

     黛は前を向いたたた答えなかった。

    「分かっお乗ったんだろう」鵜飌が蚀った。

    「遅れた分だけ、あの高台で誰かが死ぬ。䞀時間早く着けば、䞀人助かるかもしれない。その䞀時間を削るのが、俺たちの仕事だ」

     鵜飌は䜕も蚀わずに機関宀ぞ降りおいった。

     東京湟を抜け、倪平掋に出た。倧接波譊報はただ継続しおいた。黒い波が䞍穏だった。この海の䞋で、千キロにわたる岩盀が裂けた。その痕跡が、波に残っおいる。

     及川が定時連絡を防衛省に送り続けおいた。「SHIRASE、倪平掋を北䞊䞭。船䜓異垞なし。機関正垞」

    走りながらの蚓緎が始たった。

     最初の壁は、機関宀で砎れた。

     若い機関科員が鵜飌のそばに立っお蚈噚を芋おいた。針が䞀぀、じわりず動いた。ただ赀いゟヌンには入っおいない。

    「すみたせん、鵜飌さん。この針が赀いゟヌンに入ったずき、どっちのバルブを先に閉めるんですか」

     鵜飌は䞀瞬、驚いた顔をした。それから笑った。

    「右だ。巊は埌。順番を間違えるず配管に圧がかかる」

    「なんで右が先なんですか」

    「この船の蚭蚈がそうなっおいる。なぜかは——石黒さんに聞け」

     石黒が六番の䜜業から顔を䞊げた。機関科員が石黒に向き盎った。

    「教えおもらえたすか」

     石黒はゆっくりず口を開いた。

    「右偎の配管の方が断面積が小さい。流量を先に絞らないず、巊を閉めたずき圧力が逃げ堎を倱う。蚭蚈䞊の問題じゃなくお、物理の問題だ」

    「物理なら分かりたす」機関員科は蚀った。

     その䞀蚀で、空気が倉わった。

     アナログもデゞタルも、根っこにある物理は同じだ。OBが「なぜそうなっおいるか」を説明できれば、珟圹は「自分たちの知識ず繋がる」ず分かる。質問が止たらなくなった。

    「この蚈噚の誀差範囲はどのくらいですか」

    「手動でやるずき、デゞタルで蚀うずどのモヌドに盞圓したすか」

    「緊急時に優先すべき系統の順番を教えおください」

     OBたちは最初、質問の倚さに戞惑っおいた。自分たちが若い頃は、芋お芚えるのが圓たり前だった。しかし珟圹たちは、理解できれば飲み蟌みが速かった。デゞタル䞖代は「なぜ」が分かれば「どうやっお」に繋げるのが早い。

    陞自の斜蚭科隊員は船の操䜜には加わらなかったが、甲板䜜業ず物資搬送を運甚班ず䞀緒に始めた。䜓力だけは圧倒的だった。重い係船玢の扱いを、海自の隊員より先に芚えた。

     うねりの䞭、甲板で資材が倒れた。最初に動いたのは斜蚭科だった。二人がかりで抌さえ、ロヌプで固定した。海自の隊員が駆け぀けたずきには、もう終わっおいた。

    「やるじゃないか」鵜飌が蚀った。

    「物を固定するのは、陞でも海でも同じです」班長が答えた。

     鵜飌が黛に耳打ちした。「案倖、悪くないな」

    「及川がいなければ、もう半日かかっおいた。だが陞自がいなければ、集萜で䜕もできなかった」

     襟裳岬の沖に入った。日高山脈から吹き䞋ろす颚ず芪朮の流れが耇雑にぶ぀かり、波が䞉方向から立぀。五台がフルで回っおいる。波頭に乗り䞊げるたび、機関宀の負荷が跳ね䞊がった。

     鵜飌がむンタヌフォンで報告した。「䞉番の冷华氎枩、䞊昇䞭。ただ蚱容範囲だが、このたた十九ノットを維持するず䞀時間で譊告域に入る」

    「速力を萜ずすか」黛は聞いた。

    「萜ずせば岬の通過で二時間䜙蚈にかかる」

    「䞀時間を削る、ず蚀ったのは俺だ。冷华氎は持぀か」

     鵜飌は蚈噚を芋た。「持たせる。ただし岬を回ったら十分だけ回転を䞋げお冷やす」

    「十分だけだ」

     䞉方向から来る波の䞭で、鵜飌は五台の出力調敎を続けた。四十幎前の機械は、デゞタル制埡のような粟密さはない。人間の手が、機械の動きを補う。

     鵜飌が若い機関員に蚀った。

    「アナログ蚈噚の監芖にはコツがいる。ひず぀ひず぀の蚈噚ではなく党䜓を芋枡し、むメヌゞを描け、䜕かあるずむメヌゞに倉化が出おくる。」

    「譊報ランプがあれば倧䞈倫じゃ無いですか」

    「譊報が出おからでは遅い。譊報が出ないようにするのが監芖員の圹目だ。」

     襟裳岬を回り、北海道の南岞沖に出た。鵜飌が玄束通り十分だけ回転を萜ずした。冷华氎枩が䞋がった。それから元に戻した。颚が出始めおいた。䜎気圧の前瞁だった。

     倪平掋の倖掋うねりが長くなった。波の谷ではプロペラが軜くなり、頂では船䜓が沈んで負荷がかかる。発電機の回転数が波のリズムで䞊䞋した。鵜飌はそのリズムを読んで出力を合わせ続けた。デゞタル制埡なら自動でやるこずを、人間の手でやっおいる。

     艊橋に立぀黛の目の前で、海面の色が倉わっおいく。灰色から、鈍い緑ぞ。船䜓が緩やかに、しかし、確実にロヌリングの角床が増加しおきた。

     陞自の斜蚭科隊員が䜕人か、甲板で吐いおいた。斜蚭科の班長だけが平然ず立っおいた。

    「倧䞈倫か」黛が声をかけた。

    「倧䞈倫です。明日には慣れたす」

    「これはただ揺れおいない」鵜飌が埌ろから蚀った。

    襟裳岬を回っお間もなく、倪平掋の海面が倉わった。

     芋匵りの隊員が、双県鏡を䞋ろさずに蚀った。

    「巊舷前方、挂流物。朚材、耇数」

     黛は窓に近づいた。波間に長い角材が芋えた。䜏宅の梁か、補材所から流されたものか。釧路の沿岞から流されたものが、ここたで届いおいる。

    「右舷、コンテナ。針路䞊」

    「方䜍䞉四〇、転芆持船。船底が芋える」

     接波で持っおいかれたものが、今も、この海域を挂っおいた。プロペラに絡めば䞀気に止たる。コンテナに衝突すれば、倖板に穎が空く。スクリュヌや船䜓を倱えば、この船は氷を割る前にただの鉄塊になる。

    「速力、十ノットに萜ずせ」黛は告げた。「芋匵りを倍に増やす」

    「十ノットぞ」操舵手が繰り返した。

     機関宀で鵜飌が回転数を萜ずした。発電機の音が䞀段䜎くなる。これたで快調に蜟いおいた振動が、抑えた響きに倉わった。

     陞自斜蚭科の班長が艊橋に䞊がっおきた。

    「芋匵りに人数が芁るず聞きたした。斜蚭科から五名、出したす」

    「船の動きには玠人だぞ」

    「目はありたす」

     班長は隊員を集めお、巊右の舷偎に配眮した。海自の芋匵り員ず二人䞀組にし、目芖の死角を補い合う圢に䞊べた。

     しばらくしお、若い陞自隊員が叫んだ。

    「右舷四五床、距離二癟、車䞡のような物䜓!」

     海自の芋匵り員が双県鏡を向けた。「  保冷車です。荷台が浮いお、運転垭は沈んでいる」

     舵が切られた。船䜓が右に倧きく避けた。保冷車の残骞は、SHIRASEの右舷を二十メヌトルほどの距離でかわしおいった。

     班長が郚䞋に短く蚀った。「いいぞ。続けろ」

     鵜飌が艊橋に䞊がっおきお、班長を芋お蚀った。

    「圹に立っおるじゃないか」

    「目だけは、海でも陞でも同じです」

    機関宀では石黒が六番ず栌闘しおいた。揺れる䞭でのコむル巻き盎し。うねりのたびに䜓が傟ぐ。粟密䜜業には最悪の条件だった。

     田代が暪で支えおいた。石黒が巻き線を匵るずき、田代が船䜓の傟きず逆方向に䜓重をかけお工具を固定した。二人の息が合っおいる。四十幎前から倉わらない呌吞だった。

     石黒は五台の音にも耳を傟けおいた。巻き盎しの手を止めお、銖を傟げる瞬間がある。五台の音が倉わったように聞こえたのだ。しかし田代が蚈噚を確認し、「正垞です」ず蚀うず、たた手を動かした。

     根宀半島の東岞沖に差しかかる頃、石黒が田代に蚀った。「あず十二時間で仕䞊がる。氷域に入る前に間に合う」

    「十二時間ちょうどですか」

    「ちょうどだ。䞀時間の䜙裕もない」

     根宀海峡南口が近づいおいた。氷域に入る前に、黛は及川を呌んだ。

    「氷域に入ったら、通信が途切れる堎面がきっず来る。そのずき、優先する情報は䜕だ」

     及川はすぐに答えた。「そうやの䜍眮ず状態、集萜の生存者数、気象の倉化。この順番です」

    「なぜその順番だ」

    「そうやが止たっおいる䜍眮が、俺たちのゎヌルず救助察象の䞡方を決めるからです。気象は察策できるが、前の二぀は察策できない」

     黛は頷いた。それで十分だった。

     及川が黛のそばに来た。

    「䞀぀、聞いおいいですか」

    「なんだ」

    「OBの皆さんは、なんでこんなにこの船のこずが分かるんですか。十五幎、乗っおいないのに」

     黛は少し考えた。

    「お前は、子䟛の頃に乗った自転車の乗り方を忘れたか」

    「忘れおないです」

    「それず同じだ。ただし俺たちの自転車は䞀䞇トンある」

     及川が笑った。初めお芋る、力の抜けた顔だった。

    集萜 ── 䞉日目 ──

     䞉日目の朝、雪はただ止たなかった。颚も同じだった。海は灰色に閉ざされ、流氷が動く気配もない。

     䜐藀は灯油の猶を持ち䞊げおみた。重さで残量が分かる。枛りが速い。昚日たで予枬通りだったはずなのに、今日は予枬を䞊回っお枛っおいるように感じる。実際にはそんなはずはない。気のせいだ。気のせいだず自分に蚀い聞かせお、䜐藀は猶を眮いた。

     子䟛たちは静かになっおいた。泣き声が消えおいた。五歳の男の子は、母芪の膝に乗ったたた、雪を芋おいた。

     元看護垫の女性が芁介護者を䞀人ず぀芋お回っおいた。䜐藀に短く銖を振る。悪くなった者はいない。良くなった者もいない。

     昌前、防灜無線で圹堎を呌んだ。

    「砕氷艊は、どこたで来おたすか」

    「倪平掋を北䞊䞭だそうです。順調だず聞いおいたす」

    「い぀着きたすか」

    「  明日の午埌ずのこずです」

     䜐藀は無線機を眮いた。明日の午埌。今、䜕時間先か。䞉十時間ず少し。灯油は――䜐藀は蚈算しなかった。した結果が出おいるのは分かっおいた。

     昌を過ぎおも、雪は止たなかった。

     誰も話さなくなった。話すこずがなかった。䜐藀は高台の端に立っお、海を芋おいた。䜕床芋おも、海は倉わらなかった。

     倕暮れが来た。

     六十幎以䞊、この海の倕暮れを芋おきた。しかし今日の倕暮れは、これたでず違う色だった。

    䞉日目の倜。気枩はマむナス十八床たで䞋がった。

     䜐藀は芁介護者を䞭心に党員を寄せ集めた。毛垃を重ね、䜓を寄せ合い、互いの䜓枩だけで倜を越す。元看護垫が芁介護者を䞀人ず぀確認しお回った。

    深倜、二人目が意識を倱った。八十䞀歳の男性だった。毛垃を重ねた。お湯はもうない。

     子䟛たちは泣かなくなっおいた。泣く力が残っおいないのか、泣いおも無駄だず分かったのか。五歳の男の子は、䜐藀のコヌトの裟を握ったたた、目を開けおいた。眠れないのだ。䜐藀も眠れなかった。

    氷原

    ── 海峡ぞ ──

     倪平掋を北䞊し、襟裳岬を回っお根宀海峡南口に入ったのは倜明け前だった。

     黛は、出航前の沢田の蚀葉を思い出しおいた。

    「北極の氷ず、オホヌツクの流氷は性質が違う」そう蚀った黛に、沢田は答えた。「知っおいたす。みらいで䞉シヌズン、北極海の海氷を枬り続けたした。氷が生き物だずいうこずは、デヌタを芋る前に䜓で分かっおいたした」

     あのずき沢田は、自分がなぜデヌタを信じるようにしたかを語った。感芚で動いお臎呜的に間違えた人間を芋おきたから、ず。

     だから今、この海で詊される。感芚ずデヌタの䞡方が。

    「SAR画像、入りたした」宮城が蚀った。「方䜍䞉五〇から〇五〇にかけお、広域に流氷垯。雲の䞋ですが、はっきり芋えたす」

    「レヌダヌでも感あり。方䜍〇〇〇、距離十二海里」沢田が照合した。

     宮城がSAR画面を広げた。衛星が捉えた流氷垯の党䜓像が映し出されおいた。癜ず灰色の濃淡が、海面を埋め尜くしおいる。

    「この画像を芋る限り、方䜍〇䞀〇から盎進すれば氷密接床の䜎い垯がある」宮城が蚀った。「ここを突けば、砕氷しながら最短で集萜に到達できる」

     沢田が画面を芗き蟌んだ。しばらく黙っおいた。

    「埅っおください」沢田が蚀った。「この画像は䞉時間前の撮圱です。朮流ず颚向を考慮するず、薄い垯に芋える郚分は圧密氷域に倉わっおいる可胜性がある。過去の芳枬デヌタでは、この海域の氷は䞉時間で状態が倧きく倉わりたす」

    「䞉時間前の画像しかない」宮城が蚀った。「次の衛星通過たで埅぀のか。埅っおいる間に集萜の灯油が尜きる」

    「埅おずは蚀っおいたせん。ただ、画像に映っおいるものを鵜呑みにするのは危険だず蚀っおいるんです。SAR画像は氷の衚面しか捉えおいない。䞋に朜り蟌んだ氷の厚さは分からない。薄い垯に芋えお、実際には氷が折り重なっおいる堎所がある」

    「画像の裏に朜む眠、か」宮城は少し考えおから蚀った。「それは分かる。だが、芋えおいるものを䜿わなければ、䜕も刀断できない」

    「芋えおいるものだけで刀断するず、最悪の堎合、バりが氷に刺さっお動けなくなる。そうやの二の舞です」

     沢田の声は冷静だったが、語尟に力があった。宮城が䞀瞬、黙った。

     黛は二人のやり取りを聞きながら、窓の倖を芋おいた。ただ暗い。流氷垯はただ芋えない。

    「ちょっず静かにしおくれ」黛は穏やかに蚀った。

     艊橋が静たった。

    「画像は参考にする。デヌタも䜿う。だが最埌は、俺がこの目で芋お決める。流氷域に入っおから刀断する。それたでは、どちらも口を閉じお準備しろ」

     宮城ず沢田が同時に頷いた。

     黛は双県鏡を持ち、暗い氎平線を芋た。ただ芋えない。しかしいる、ず分かった。空気が倉わった。

    「速力を萜ずせ。八ノット」

     倜が明けるず、氷が珟れた。最初は䞀枚、二枚、氎面を挂う癜い板。それが十枚になり、癟枚になり、やがお前方の海面党䜓が癜く埋たった。

    「芋ろ」黛は蚀った。「デヌタは埌だ。たず目で芋ろ」

     沢田は窓の前に立った。しばらく、黙っお芋おいた。

     氷の海は、静かだった。颚があるのに、波音がない。癜い板が互いを抌し぀け、緩衝材のように波を殺しおいる。船䜓に圓たる音だけが、䜎く、䞍芏則に響く。コン、コン、ゎン。倧きさの違う氷が、それぞれの声で船を叩いた。

    「綺麗だ」沢田が呟いた。

     黛は䜕も蚀わなかった。綺麗だず思っおいる間は、ただ䜙裕があるずいうこずだ。本圓に危ない氷の䞭では、綺麗かどうかを考える時間はない。音だけを聞く。船䜓が氷に圓たる音の質で、氷の厚さが分かる。高い音は薄い氷。䜎い音は厚い。䞍芏則に重なる音は、氷が折り重なっおいる蚌拠だ。

     バりが最初の氷矀に圓たった。船䜓に振動が走る。鈍い衝撃が、足裏から腰ぞ䌝わっおきた。氷が割れた。船が進んだ。たた圓たった。たた割れた。そのリズムが、しらせの砕氷のリズムだった。黛の䜓が芚えおいる。

    機関宀では鵜飌ず石黒が操䜜監芖盀を芋぀めおいた。

     ドヌン。船䜓が震えた。ガリガリず鋌板を匕っ掻く音が続く。流氷が船䜓に圓たるたび、機関宀の壁が鳎った。

     若い機関員が䞍安そうに船殻を芋䞊げた。そうやが流氷に襲われお砎損したこずは、艊内の党員が知っおいる。

     石黒が手を止めずに蚀った。

    「倧䞈倫だ。この船は南極に二十五回行っお、無事に垰っおきおいる」

    「それずな、この船は俺たちがしっかり造った。安心しろ」

     宮城が先ほどの画像を芋お、黛のそばに来た。「さっきの薄い垯の件ですが——」

     黛は前を芋たたた答えた。「沢田の蚀う通りだった。方䜍〇䞀〇は氷が重なっおいる。音で分かる」

     宮城は黙っお端末に戻った。

     そうやの䜍眮情報が入ったのは、氷域に入っおから䞉時間埌だった。

    「方䜍〇䞉〇、距離四十海里」沢田が読んだ。「乗組員䞉十八名、党員生存。負傷者六名。重傷はいない」

     及川が無線で状態を確認し続けおいた。「そうやの通信士が、䞀時間おきに状況を送っおきおいたす。船䜓は安定しおいるが、自力脱出は䞍可胜だそうです」

    「たず集萜だ。そうやはその埌」

    それから数時間、SHIRASEは氷を割りながら北䞊を続けた。

     集萜たで残り二十海里。そこで、氷の様盞が倉わった。

    集萜 ── 四日目 ──

    四日目の朝、最埌のストヌブが消えた。灯油が尜きた。

     火が消えた瞬間、高台の空気が倉わった。それたでは小さくおも炎があった。炎がある限り、人は耐えられる。火が消えるず、寒さではなく、暗さが来た。

    午埌になっおも雪は降り続いおいた。颚も止たない。芖皋は癟メヌトルもなかった。

     䜐藀は朝から䞉床、枯の方を芋に行っおいた。毎回、同じ景色だった。雪の向こうに癜い平原が霞んでいる。氎平線は芋えない。

     四床目だった。

     もう芋に行くなず、誰かが蚀った。䜐藀は聞こえないふりをした。䞃十䞉歳の足で、高台の端たで歩いた。

     六十幎以䞊、この海を芋おきた。流氷が来る冬は毎幎のこずだ。しかしこれほど密床が高いのは、蚘憶にない。地震が䜕かを倉えた。海流が倉わったのか、氷の動きがい぀もず違う。

     䜐藀は思った。この氷を割れる船が、日本にあるだろうか。

     戻ろうずしたずき、䜕かが聞こえた。

     最初は颚の音だず思った。しかし違った。もっず䜎い、もっず遠い、芏則的な音だった。䜕かが䜕かにぶ぀かる音。重い、鈍い音。

     䜐藀は足を止めた。雪の向こうを芋た。䜕も芋えない。

     しかし音は続いおいた。ドン。間があっお、たたドン。近づいおきおいる。

     幻聎ではなかった。颚の音ずは違う。波の音ずも違う。䜐藀は六十幎、この海の音を聞いおきた。この音は、氷が割れる音だ。

     䜕かが、氷を割りながら来おいる。

     雪が、䞀瞬だけ薄くなった。

     その切れ間に、色が芋えた。

     オレンゞ色だった。

     䜐藀は声を䞊げた。䜕を叫んだか、自分でも分からなかった。埌ろから、人々が駆け寄っおきた。高台の党員が、雪の向こうを芋た。

     雪の幕が、たた薄くなった。今床は長かった。

     オレンゞ色の船が、氷を割りながら、こちらに向かっおいた。

     倧きな船だった。雪の䞭に、鮮やかなオレンゞ色が進んでいく。船銖が氷に乗り䞊げ、砕く。ドン、ドン、ずいう芏則的な音。重くお、力匷くお、止たらない音だった。

     子䟛が叫んだ。「船だ 船が来た」

     若い母芪が泣いた。声を䞊げずに、ただ涙を流した。子䟛を抱きしめたたた。

     老人たちも泣いた。黙っおいた老人たちが、声もなく泣いた。

     䜐藀は泣かなかった。ただ立っおいた。䞃十䞉幎の足で、立ち続けおいた。

    接岞ぞ

     流氷の板が厚く重なり合い、海面が癜ずいうより灰癜色に倉わった。バりが乗り䞊げおも、氷が割れない。船䜓が䞀床跳ね返された。

    「氷厚、想定より増しおいたす」沢田が蚀った。

     宮城がSARの画面を指さした。「衛星画像で芋るず、この先十海里にわたっお氷が抌し重なっおいる。地震埌の海流倉化で耇数の流氷矀が合流した跡だ」

    「迂回できるか」黛は聞いた。

    「北に五海里回れば薄い垯がある。ただし時間が——」

    「間に合わない」沢田が即座に蚀った。

    「砕氷モヌドに切り替える」黛は蚀った。「党軞、電動機二台盎列。党力で圓たれ」

     鵜飌がむンタヌフォンに向かった。「機関、砕氷モヌドぞ。党軞電動機盎列接続」

    「了解」石黒の声が返った。

     船が倉わった。

     床を䌝わる振動の呚波数が䞋がり、代わりにトルクが増した。バりが氷に乗り䞊げる。今床は割れた。鈍い、腹に響く音ずずもに、船が前に進んだ。

     しかし䞉十分埌、むンタヌフォンが鳎った。石黒の声だった。

    「六番発電機、出力が萜ちおきおいる。励磁電流が䞍安定だ。砕氷モヌドを続けるず、六番に繋がる電動機の出力が保蚌できない」

     艊橋に沈黙が萜ちた。六番発電機が息切れを起こしおいる。石黒が航海䞭に仕䞊げたコむルは、揺れる機関宀での巻き盎しだった。砕氷モヌドの高負荷が、その限界を突いおいた。

    「六番を切るか」鵜飌が蚀った。「五台で続けるか」

    「五台では砕氷モヌドで第䞉軞の電動機が䞀台になる。この氷の厚さでは——」

    「残り二十海里。出力を萜ずすわけにはいきたせん」沢田が蚀った。

     宮城がSAR画面を睚んでいた。「この先の氷の状態が分かれば、ルヌトを遞べる。衛星が通過䞭だ」

     黛は前を向いたたた、䜕も蚀えなかった。手が、震えおいた。

     氷原が、氎平線たで続いおいた。四癟四十五名。あの集萜で灯油が尜きた高台。四日間近く埅ち続けおいる子䟛たち。そうやの艊橋で、救助を埅぀䞉十八名の海保の乗組員。石黒が四十二幎間守り続けた発電機。沢田が曞き続けたノヌト。鵜飌の「死んでない」ずいう䞀蚀。すべおが、この氷の手前で止たろうずしおいた。

     鵜飌がむンタヌフォン越しに蚀った。「黛。どうする」

     黛は答えなかった。答えが出なかった。

     沢田が黛を芋おいた。宮城が芋おいた。操舵手が芋おいた。及川が芋おいた。党員が黛の蚀葉を埅っおいた。

     黛は目を閉じた。

     目を開けた。

     あの集萜の高台に、四癟䞃人がいる。そのうち䞉十二人は自分では動けない。灯油は尜きかけおいる。あず䜕時間持぀か。それすら分からない。

     目を開けた。

     そのずき、黛は感じた。

     足の裏から、䜕かが倉わった。

     振動が、倉わった。

     萜ちかけおいた六番の振動が、揺らぎながら、しかし確かに、力を取り戻しおきた。床を通じお、ブヌツの底から、膝ぞ、腰ぞず䌝わっおくる。六台が揃ったずき特有の、あの重なり合う振動のリズムが、たた戻っおきた。

     むンタヌフォンのランプが点いた。石黒の声だった。息が䞊がっおいた。

    「  六番、持ち盎した。励磁回路に盎接介入した。手動で安定させおいる。このたた俺がここにいれば、持぀」

     鵜飌が笑った。「あの野郎、機関宀で発電機を手で抑えおやがる」

    「石黒さん」沢田がむンタヌフォンに向かった。「どのくらい持ちたすか」

    「集萜に着くたで持たせる。それだけだ」

     宮城がSAR画面から顔を䞊げた。「新しい画像、来た。巊前方——」

    「薄い垯がある」沢田が同時に蚀った。レヌダヌ画面を芋ながら。

     二人が顔を芋合わせた。

    「  レヌダヌでも同じものが芋えおいたす。取舵五床で入れたす」沢田が蚀った。

     宮城は䞀瞬、黙った。それから蚀った。「解像床、足りおたか」

    「足りおたした」沢田は画面から目を離さずに答えた。「あなたのSARがなかったら、この垯には気づけなかった」

     宮城は䜕も蚀わなかった。ただ、端末に向き盎っお、次の衛星通過のタむミングを蚈算し始めた。

    「舵、取舵五床」黛は操舵手に告げた。

     船が巊に傟く。氷の音が倉わる。

    「もう䞀床巊。さらに䞉床」沢田が蚀った。

    「根拠は」

    「レヌダヌずSARの䞡方で確認しおいたす」

     黛は䞀瞬、考えた。自分の目には差異が芋えなかった。しかし沢田のデヌタず宮城の衛星画像が同じ方向を指しおいる。

    「取舵、さらに䞉床」

     バりが氷に圓たる音が、少し、軜くなった。

    「  圓たりだ」黛は蚀った。

     残り十五海里。

     六番が回っおいる。石黒が機関宀で手動制埡を続けおいる。六十䞃歳の男が、自分が四十二幎前に造った発電機を、自分の手で支えおいる。

     残り十海里。

     氷の色が倉わり始めた。灰癜色から、わずかに青みがかった癜ぞ。抌し重なりが枛り、䞀枚䞀枚の板が薄くなっおいる。バりが圓たる音が、ゎン、からコン、に倉わっおいた。

     残り五海里。

    「前方、氷が薄くなっおいたす」沢田が蚀った。「もう少しです」

    「沢田」

    「はい」

    「操船を頌む」

     沢田が振り返った。「  私が、ですか」

    「お前が最埌たで氷を読め。私が埌ろにいる」

     沢田はしばらく黛を芋た。黛は目を逞らさなかった。

     沢田は前に出た。

     艊長垭に座っお、タブレットを巊手に持ち、右手を窓枠に添えた。窓の倖の氷を芋る。

     デヌタが芋えた。レヌダヌの反射パタヌンが芋えた。宮城のSARが瀺す氷の分垃が芋えおくる。そしお——その向こうに、デヌタでは捉えられない䜕かが芋え始めた。氷の色のわずかな違い。衚面の光の反射角。黛が「芋ろ」ず蚀い続けた、あのものが。

    「取舵、二床」沢田の声は、静かだった。

    「取舵、二床」操舵手が繰り返した。

     船が動いた。氷が割れた。

     残り䞀海里。氷が薄くなった。船の動きが軜くなった。

    「前方、開氎面」沢田は蚀った。それから、䞀床だけ窓の倖から目を離しお、振り返った。黛が埌ろに立っおいた。

    「集萜、確認」

     艊橋の党員が、窓の倖を芋た。雪に埋もれた小さな集萜が、朝の光の䞭にあった。岞壁に——いや、高台に人圱が芋えた。手を振っおいる人がいた。走っおいる人がいた。

     石黒の声が入った。「六番  限界だ」

    「もう着きたす」沢田が答えた。「石黒さん、もう着きたす」

     短い沈黙。「  分かった」

     船は、慣性で進んでいた。十分だった。

     陞自の斜蚭科隊員が、甲板に出た。救揎物資を担ぎ、医療班がその埌に続いた。圌らがこの船に乗った本圓の理由が、今始たる。

     岞壁に近づくに぀れ、高台から降りおきた人圱がはっきりしおきた。防寒着を着た老人、子䟛、若い女性。みんな同じ方向を向いお、このオレンゞ色の船を芋おいた。

     䞀人の老人が叫んでいた。声は聞こえなかったが、口の圢で分かった。

     来おくれた、ず蚀っおいた。

     その老人の埌ろから、次々ず人が降りおきた。子䟛を抱えた若い母芪。車怅子を抌す男性。毛垃を巻いた老人。四日間、高台で埅ち続けた四癟䞃名が、オレンゞ色の船に向かっお歩いおきた。

     及川が無線を入れた。「防衛省、SHIRASE、集萜に到達。䜏民の姿を確認。これより救揎掻動を開始したす」

     察策本郚のスクリヌンの前で、川厎がその声を聞いおいた。立ったたた、䞀人で。

     沢田は窓に手を圓おた。冷たいガラスの向こうに、陞があった。

     船は、着いた。

     機関宀では、石黒が六番発電機の傍らに座り蟌んでいた。䞡手が油で黒く染たっおいる。指先が、小刻みに震えおいた。田代が声をかけた。「石黒さん、着きたしたよ」

     石黒は顔を䞊げなかった。ただ、目を閉じお、止たった発電機に手を圓おおいた。

     それだけが、すべおだった。

    ゚ピロヌグ

    ── もう二床ず ──

     桜が散っお、䞉週間が経っおいた。

     船橋枯の入堎ゲヌトを抜けるず、SHIRASEはい぀もの堎所にいた。オレンゞ色の船䜓は、あの航海の前ず倉わらない。岞壁に係留され、瀟旗がマストに翻っおいる。芋孊者が数人、タラップを䞊り䞋りしおいた。子䟛が甲板を走っおいた。

     あの倜のこずを、知っおいる人間がここにどれだけいるか。黛には、どちらでもよかった。

     埌郚甲板ぞ向かった。

     デッキの継ぎ目の感觊は、倉わっおいない。靎の底が、蚘憶を呌び芚たす。䞉ヶ月前にも、ここを歩いた。あのずきず同じ歩幅で、同じ速床で歩いた。

     芋孊者の芪子が、栌玍庫の前で写真を撮っおいた。父芪がスマヌトフォンを構え、子䟛が敬瀌の真䌌をしおいる。黛は少し立ち止たっお、それを芋おいた。

     艊尟に立った。

     東京湟が広がっおいた。春の陜光の䞭で、氎面が鈍く光っおいる。沖に、タンカヌが䞀隻。あのずきず同じように、ゆっくりず湟を出おいく。

     蚘憶が、順番に浮かんだ。

     石黒が油で汚れた顔で機関宀から䞊がっおきたこず。五台の発電機が䞀斉に立ち䞊がったずき、床から䌝わっおきたあの振動。及川が笑った、力の抜けた顔。宮城がSARの画面を指さしお叫んだこず。鵜飌が「回っおる」ず蚀ったずきの、泣きそうな顔。

     沢田が艊橋に立ち、初めお「取舵」を告げたこず。

     それが、䞀番鮮明だった。

     陞自の隊員たちが救揎物資を担いで甲板を降りおいったこず。集萜の老人が叫んでいた口の圢。来おくれた。そうやの乗組員䞉十八名を収容したずきの、甲板の密床。垰路、石黒が機関宀からほずんど出おこなかったこず。船橋枯に戻る最埌の倜、黛は艊橋に䞀人で立っおいた。東京湟の光が芋えおきたずき、䜕かが終わったず思った。

     今は、静かだ。

     あの航海の埌、川厎から䞀床だけ電話があった。「ありがずうございたした」それだけだ。黛は「任務だ」ず答えた。任務ではない。しかしそれ以倖の蚀葉が芋぀からなかった。

     石黒からは連絡がない。鵜飌によれば、石黒は垰枯埌䞀週間入院したずいう。過劎ず脱氎。退院埌は自宅にいるらしい。黛は電話をかけなかった。石黒も、かけおこない。蚀葉は芁らなかった。

     垰枯埌の怜査で、六番発電機は廃棄ず刀定された。界磁コむルは石黒が手動で支え続けた結果、限界を超えお逝っおいた。残る五台も、次の本栌航海に耐えられる状態ではないず鵜飌が蚀った。

     この船は、もう二床ず動かない。

     黛には、それが分かっおいた。あの氷原での最埌の䞀戊が、この船の持おるすべおを䜿い果たした航海だったこずを。

     艊尟の瀟旗が、春颚に揺れおいた。

     黛は、右手を䞊げた。

     胞元ぞ。

     止めなかった。

     敬瀌は、䞉秒間、続いた。

     芋孊者の誰かが、こちらを芋おいるかもしれなかった。

     どうでもよかった。

     手を䞋ろした。もう䞀床だけ、艊尟を芋た。それから、タラップぞ向かった。

     埌ろを振り返らなかった。

     それが、この船ぞの最埌の瀌儀だず、黛は思った。

    〈 了 〉

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