
誰かの凱旋
あらすじ
大手製薬会社アイダ製薬社長の次男坊、相田隆平はその中途半端な自立心から、親と絶縁してしまう。妻となった美咲とも離婚し、美咲が引き取った娘の養育費すら滞納するというクズっぷりを遺憾なく発揮していた。
そんなある日、美咲から呼び出される。滞納している養育費を一括で払うか、誘拐計画に手を貸すか。養育費に関しては成立調書があるため、差押えもあり得る。金はない。親には頼れない。
誘拐のターゲットは八歳男児。美咲、おまえもたいがいクズだな! と感心しつつ、隆平はその計画に手を貸すことにする。
五十音順だと絶対に一番になれる自信があったんだけど、高校三年生のときに「相内」って苗字のやつと同じクラスになって負けたんだ。
そんなくだらない話を聞いてころころ笑っていたあの子はどこへ行ったのだろう。
「ねぇ、聞いてんの」
「ああ、まあ」
駅前のこぢんまりとした喫茶店。窓際の席。テーブルを挟んだ席には元妻。くだらない話によく笑ってくれて、そのまま結婚して離婚した、最愛だったはずの女性。
「でもな、美咲」
「呼び捨てにしないで」
相田隆平はこっそりとため息をつき、ぬるくなったコーヒーに口をつけた。味などわからない。
美咲との出会いは運命的だった。国際的にも有名な企業であるアイダ製薬創業家の次男坊である隆平は、なにもしなくとも女性に囲まれた。隆平自身に魅力があったわけではないことは自覚している。みんな、隆平の持っている金、厳密には隆平の親の金が目当てで近寄ってくるのだ。
親の会社になど入りたくない。俺は俺で別の道を行く。そんなことを言ってそこそこレベルの大学へ進学。毎月二十万円ほどの仕送りを受けながら一人暮らし。三十歳となるいま振り返ってみると、なんとも立派な「自立」だ。
美咲とはその大学で知り合った。同い年で、美人で、よく笑う子だった。隆平がアイダ製薬の次男坊であることなど知らず、恋愛関係に発展した——はずだった。
大学を卒業して、すぐに結婚するつもりだった。親とは関係のない企業へ内定も決まり、結婚相手も自力で見つけた。胸を張って両親へ美咲を紹介したのだが、そこで思いがけないほどの反対にあった。
おまえは騙されている。あんな女は、うちの金目当てに過ぎない。
そんなことを言われても、いまさら引き返せないところへきていた。美咲のお腹には子どもがいたのだ。両親は、そのお腹の子も堕胎させろと言った。
腹を立てた隆平は、両親と縁を切った。あんたらなんかいなくとも、俺は幸せな家庭を築いてやる。
そう、美咲とお腹の子さえいれば、あとはなにも——。
「これくらいのこと、即断しなさいよ」
美咲の責めるような声に、隆平は我に返った。店内には相変わらずのんびりとした空気が流れている。離れた席についた中年男性がちらりとこちらを見た。美咲の地声はでかい。
「もうちょい、声を小さくしようか」
「情けない男ね。あの人、イヤホンなんかしてるからこっちの声なんか聞こえちゃいないわよ」
たしかに、客の中年男はイヤホンをしていた。美咲が舌打ちをする。
「これくらいのこと、即断即決できなくてどうするの」
「これくらいって、おまえ」
「おまえ?」
「いや、きみ」隆平は声をひそめて言った。「きみ、これは重大犯罪だよ」
「親との縁を切るのは即断したくせに」
そうだ。親との絶縁は勢いよくやった。そして親とだけ縁を切ったつもりが、美咲との縁も切れた。ようは、美咲もまた隆平の両親の持っている金が目当てだったのだ。絶縁直後はまだ修復する目があると美咲は思っていたのだろう。大学卒業と同時に籍も入れたし、無事に子どもも生まれた。女の子だった。
女の子だとわかったとき、「女の子って、父親に似るって言うよね」などと口にしたのを覚えている。あのとき、美咲は「えー、やだぁ」などと軽く言っていたが、あの「やだぁ」はわりと切実に嫌だったのかもしれない。
「そういえば、いつも手帳を持ち歩いてたでしょ。あれちょうだい」
「唐突だな。追い剥ぎかよ」
「咲良にあげるの」
咲良は、隆平と美咲の間に生まれた子の名前だ。美咲から一文字とって、咲良。
「いやいや」隆平は苦笑した。「小学生が手帳なんかもらって喜ぶかよ」
「父親が愛用してる物を渡されたら喜ぶわよ。あの子、あなたの書いた文字なんか見たことないんだから」
「文字以前に顔も見たことないだろ」
「そう。だから写真も撮る」
そう言って、美咲はスマホのカメラを隆平に向けてきた。抵抗する間もなく、シャッターが切られる。たぶん、いまの感じだと連写された。冴えない顔をしているのは自覚している。そんな写真を娘に見られるのはなんとなく嫌だが、どうしようもない。美咲の機嫌を損ねるほうがよっぽど面倒だ。
「あー、咲良は元気か」
一応、聞いてみると鋭い視線が返ってきた。
「興味ないくせに」
そう言われると返す言葉がない。長女の咲良とはもう七年も会っていない。いま八歳になったはずだ。
離婚するとき、紙切れ一枚で決着する協議離婚は嫌で、離婚調停へ持ち込んだ。親権の取得は難しい。相談した弁護士にそう言われ、親権についてはわりとあっさり諦めた。となると養育費の支払いについて決めなければならない。
日本では養育費の不払いが横行している。差し押さえというのもなかなか難しい。とはいえ、できないことはない。養育費の支払いについて取り決めた判決文か、成立した調停調書があればできてしまう。隆平の場合は、調停調書が存在する。
月額八万円を、長女が二十歳になるまで。
養育費の算定表通りならば、もっと少ない金額にすることもできた。だが、まだ若かった隆平は虚勢を張って同意してしまった。手取り二十万円程度しかなかったのに。
最初の三ヶ月ほどは意地になって払った。四ヶ月目に四万円しか振り込めず、しかし美咲がなにも言ってこなかったことをいいことに不払いとなった。それはいまも継続している。
年間九十万円超を、約七年滞納。計算したくもない数字が弾き出される。咲良に会いたいという気持ちがないわけではない。写真くらいは見せてくれてもいいじゃないか。そうも思う。だが、この大きな金額の不払いという引け目が、隆平を黙らせていた。下手に要求をして、養育費のことを蒸し返されたらまずい。だから沈黙をしてきたというのに、こうして呼び出されてしまった。養育費の件で話があるから来い、と言われたら抵抗する術がなかった。
「そういや、再婚とかしてないのか」
どこぞの金持ちとでも再婚していてくれれば、隆平の債務である養育費はちゃらになる——気がする。
「してないわよ。なに、よりを戻せるとでも思ってるの?」
まさか「養育費を払いたくないから再婚でもしていてくれるとありがたいと思った」などと言えるはずもなく、隆平はたじろいだ。
「いや、ほら、きみ『岩渕』って名字嫌がってたじゃん。だから——」
「そんな理由で再婚なんかするわけないでしょ。話を逸らさないで」美咲は苛立ったようにテーブルの上をこつこつと叩いた。「即金で五百万円用意するか、言われた通りにするか。いま、決めなさい」
そう言って美咲はカフェラテを一口飲んだ。そのカフェラテの支払いもおそらくは隆平がする。五百万円の前では誤差の範囲だが、その程度すら苦しいのが現状だ。
五百万円。用意できるはずもない。大学を卒業して就職した企業はすぐに辞めてしまった。そこから職を転々とし、最近ようやく正社員として働き始めたばかりだ。
「いや、どっちも無理というか」
「ハザマ運輸の社長さん、曲がったことが大嫌いなんだってね」
暗に、隆平の新しい勤め先を知っているのだと言っているのだ。言うほど「暗に」でもないが。つまるところ、隆平の給与の差し押さえなどいつでもできるということだ。法律上、養育費の差し押さえは給与の半分までいける。そんなことをされたら生活は成り立たない。
「うまくいかないと思うんだけど」
一応言ってみたが、美咲は不敵な笑みを浮かべた。
「絶対にうまくいくから、あんたは計画通りに動けばいいだけ」
うまくいくはずがない。日本の警察はそんなに甘くはない。隆平はそう思ったが、美咲が怖くて言えなかった。
コーヒーカップを口につけて、中身がもうないことに気がついた。唸るようなため息が出る。引き受けるしかないのか。
「悪い話じゃないでしょ」美咲は薄く笑った。「平穏のために誘拐を」
隆平は頭を抱えた。元妻が持ちかけてきたのは、誘拐計画だった。
ターゲットの名前は深津健太郎。八歳の男児。つまり、美咲は自分の娘と同い年の子どもを誘拐しろと言ってきているのだ。人の心がないのか。しかし、養育費の不払いという負い目がある以上、そんな指摘はできるはずもなかった。年齢からすると、娘の咲良の同級生ということだろう。もしかしたらクラスメイトかもしれない。
美咲は娘のクラスメイトに金持ちの子がいることを知り、この誘拐計画を立てたのだろうか。ありそうなことだ。だが、あまりにも軽率ではないか。警察が動いたら、あっという間に特定されそうな気がする。
隆平はこの誘拐計画の全容は知らされていない。知らないほうがあなたのため。そんなことを言ってはぐらかされた。あの美咲が元夫のことを思いやるとも思えないが、仮に逮捕に至った場合、ただの駒であったほうが罪は軽い。たぶん。それに、美咲の言いなりになっていたという客観的な事実もある。あの喫茶店で、隆平は手帳を持っていかれた。奪われたと言ってもいい。十年以上愛用してきたものだ。立場が弱かったという傍証にはなるだろう。
隆平のやることはシンプル。まずは下校途中の健太郎に声をかける。おじさんのおうちでプレイステーションやろう。その台詞で誘うよう厳命されている。この健太郎という子は、プレイステーションに強い思い入れでもあるのだろうか。
だとしても、だ。仮に健太郎がプレイステーションが大好きな子だったとしても、初対面の知らない人についてくることはあるだろうか。なさそうに思える。防犯ブザーを鳴らされて終わり。誘拐はあえなく失敗し、不審者情報がメールで回覧される。
「別にいいか」
隆平はひとりごちた。隆平としては、この誘拐がうまくいってくれなくてもいいのだ。美咲の要望に従って、忠実に実行しようとした。だが美咲の描いた計画が甘く、うまくいかなかった。その責を負わされることはあるまい。
事前に健太郎の顔写真などがほしかったが、それは渡されなかった。人違いをしたら一大事だろう、と一応の抗議はしたものの、人違いをしなくても一大事である。
浦橋市浦橋一丁目の住宅街の一角。声をかける場所は、地図で具体的に指示された。
美咲が言うには、その時間にその道を歩く小学生は健太郎以外にはいないという。茶色いランドセルを背負い、大きめのトートバッグを肩にかけた、青いニット帽の男の子。ランドセルやトートバッグはともかく、青いニット帽はどうなのだろう。そんなもの、その日の気分によってかぶったりかぶらなかったりしそうなものだ。
見つけられなかったら、それはそれとしてそのまま報告するしかない。よくよく考えてみれば、こんな重大な犯罪行為を持ちかけてきた時点で、美咲自身も隆平に弱みを握られたようなものなのだ。そこまで弱気になってすべて言いなりになる必要などないのではないか。
美咲は、誘拐を実行する地点のすぐ近くのウィークリーマンションを用意していた。誘拐のための拠点だ。隆平は昨夜そこに泊まった。この計画のために会社も休んだ。
十二月。まだ十七時になったばかりだが、もう日は落ちている。住宅街の路地は、点々と設置された街灯に寂しく照らされている。隆平は近隣の住民のような顔をしてぷらぷらと歩いた。ダウンジャケットに、ジーンズ。怪しくはないだろう。
隆平は内心の緊張を押し殺して歩いた。もう少しで、指定された路地に着く。自然に、自然にと念じながら、角を曲がる。念じていること自体が不自然だが、どうしようもない。誘拐など、初めてやるのだ。
いた。
茶色いランドセルに大きめのトートバッグ。それに青いニット帽。偶然そこまで一致する小学生もいないだろう。とぼとぼ、と表現するのが適切な背中がゆっくり進んでいる。いなければ、そこで話は終わりだったのに。しかし見つけてしまった以上、声をかけないわけにはいかない。とっとと声をかけて、失敗しておしまい。それでいいだろう。
「あー、こんにちは」
ちょうど街灯の真下で、隆平は声をかけた。目線をあわせるように腰を落とすと、大きな瞳が探るように隆平を見返してきた。少し古びたスタジャンに、ジーンズ。知らないメーカーのスニーカー。金持ちの家の子には見えない。
「ええと、深津健太郎くん?」
一瞬、迷うような素振りを見せた後、頷いた。彼で間違いないようだ。いまのところ、防犯ブザーを鳴らそうという様子は見られない。
「あの、いきなりこんなこと言われてもあれだろうけど、おじさんの家で、プレイステーションやらない?」
「やる」
「え?」
意外な返答に、思わず立ち上がった。健太郎の目が、隆平を見上げる。
「ええと、おじさんの家で、なんだけど」
「うん」
いやいやいや、そうはならないだろ。
声をかけた隆平のほうが狼狽した。こんな雑な誘い文句に乗ってくるとは思わなかった。
「えっと、あの。じゃあ、うちに来る?」
「うん」
おかしなことになった。当初の計画通りといえばそうなのだが、こんなにあっさりとついてくるとは。徹底した不審者対策を重ねた結果、不審者という概念が忘れられたのだろうか。天敵のいない島で育った鳥のように。あるいは、健太郎は両親からネグレクトを受けていて、居場所がない、とか。しかしまだ八歳の子が家を出る決断をできるものだろうか。疑問ばかりが隆平の脳内に溢れる。
「じゃあ、行こうか……?」
自分で誘っておきながら、どうしても語尾に疑問が滲む。健太郎はまったく警戒する様子もなく、隆平の横を歩く。
十分もせずにウィークリーマンションに到着した。普通のマンションと見分けはつかない。
「さあ、どうぞ」
ドアを開けてやると、健太郎はやはり警戒する様子もなく部屋に入っていく。見ている隆平のほうが不安になるくらい、無警戒だ。人に慣れた野良猫でももう少し警戒しそうなものだが。
ウィークリーマンションというのは初めて利用するが、家具家電は備えつけのものがあるので便利だ。もちろんそのぶん割高なのだが、今回ここの料金は美咲が払っているはずだ。まさか誘拐の片棒を担がせた挙句、その費用まで請求してくるようなことはあるまい。
「あ」
思わず声をあげると、健太郎が振り返った。シンプルな部屋の中を見ていて、隆平はようやく思い至った。
「この部屋、プレステないわ」
ここへ誘い込むのに「プレイステーションやらない?」と言っていたのに、肝心のプレイステーションが用意されていなかった。誘拐を実行することばかり気にかけていて、そこを失念していた。
だが健太郎は気にする様子もなく、ソファに腰かけた。
「あー、テレビでも見るか」
隆平はリモコンを操作し、テレビをつけた。ニュース番組がいくつか。政治家の不正献金がどうとか、以前あった凶悪事件の初公判のこととか。八歳の子どもには難しい話だ。三十歳の隆平にもよくわからない。他のチャンネルでは、少し前に流行ったドラマの再放送。これも子どもが観て喜ぶようなものではない。
「えっと、健太郎くん。スマホは持ってる?」
「持ってない」
「じゃ、おじさんのを貸してあげよう」
まだ八歳の子どもだ。スマホを渡したところで悪用などはしないだろう。
「やりかたわかんない」
スマホを手渡された健太郎は、困ったような視線を隆平に向けた。明るい室内で、初めてきちんと目があって、初めて気がついた。
「きみ、女の子みたいな顔してんな」
言った瞬間、隆平は自分の失言に気がついた。健太郎が、顔を隠すように俯いたからだ。ニット帽を深くかぶって、室内でもそれを脱がないことから容姿にコンプレックスがあることに気がつくべきだった。
あんたは失言が多い。そう言ったのは美咲だ。いや、美咲以外にも何人かに言われたことがある。
まだ幼いとはいえ、男の子が「女の子みたいな顔してんな」などと言われて嬉しいわけがない。自分が子どもの頃、そんなことを言われたら傷ついただろう。それなのに、なにも考えずに口にしてしまった。健太郎のこの様子からして、普段から言われていることなのかもしれない。
ああ、そういうことかもしれない。健太郎が、初対面の隆平に簡単についてきた理由。家庭でも、そんな心ない言葉をかけられているのではないか。男らしくない。それは男児にとってアイデンティティが揺らぐほどのマイナスになり得る。別にいいじゃん、と思うのは大人だけだ。家に居場所がなくて、帰りたくない。そんなふうに思ってとぼとぼと歩いていたら、都合よく知らないおじさんが声をかけてきた。健太郎からしたらそういうことだったのかもしれない。
「あー、そうかロックされてるもんな」
自分の失言を塗りつぶしたくて、隆平は意識して明るい声をあげた。健太郎に渡したスマホはロックされている。普段は指紋認証で解除しているのだが、もちろん健太郎の指紋では解除できない。
「パスコード……えっと、暗証番号ってやつなんだけど、そこに1、1、2、9、3、9って入れてみて」
「1、1……なんの数字?」
「え、だから暗証番号……。ああ、数字の意味か。娘の——」
隆平は言いかけて口をつぐんだ。なにも、人質に個人情報を与える必要はない。「1129」は娘である咲良の誕生日だ。十一月二十九日。「39」は「咲良」という名前からとった。隆平は、暗証番号を決めるときにだいたい娘の誕生日を使っていた。四桁なら「1129」。スマホのパスコードは六桁なので、「3」と「9」を加えた。覚えやすく、推測されにくい。あと、娘のことを忘れてなどいない、という言い訳として。誰に対しての言い訳か。自分に対してだ。俺は最低な男じゃない。そう、自分に言い聞かせてきた。養育費すら払っていないのに。
「『いい肉、サンキュー』って意味」
「ふうん」
自分から訊いたくせに、健太郎はさほど興味もなさそうにパスコードを入力した。ロックを解除されたスマホの画面に、いろいろなアプリのアイコンが並ぶ。
「その、いちごのやつ、おもしろいよ」
いちごのアイコンが表示されているのは、少し前に一瞬だけ流行したパズルゲームだ。ストロベリークエスト。通称、ストクエ。隆平はすぐに飽きて放置したが、隆平のスマホに入っているゲームはそれくらいしかない。古いスマホを騙し騙し使っているのでこれ以上アプリは増やしたくない。
健太郎はさっそくストクエに集中している。そこまでおもしろいゲームではないが、普段あまりゲームなどをやらせない方針の家庭なのか、健太郎は画面に釘づけになっている。
それにしても。
ここからどうすればいいのだろう。誘拐が成功するパターンを真面目に考えていなかった。明日の予定は決まっている。浦橋臨海公園へ行くのだ。関東随一の広さを誇る自然公園。電車で二十分ほど移動することになる。誘拐をしている最中であることを考えると、あまり監視カメラの類に映るようなことはしたくないのだが、これは美咲の指示だから仕方ない。
それよりも、食事だ。隆平が食べるためのものはいくつか置いてあった。だが子どもが口にするようなものはない。まさか誘拐が成功するとは思っていなかったからだ。あるのはカップラーメンと、菓子パン。育ち盛りの子に、そんなものを食べさせていいのだろうか。八歳児がなにを食べるのかわからない。まさか離乳食ということはあるまいが。
どこかファミレスにでも連れていって、お子様メニューでも頼むか。いや、あまり出歩くのはよくない。そういえば、着替えはどうするのだ。男児の着るものなど用意していない。歩いて五分ほどのところに小さなスーパーがあったはずだ。あそこまで行って、探してみるしかないだろう。
「ちょっと出かけてくる」
人質を部屋に一人にしておくのは不安ではあるが、健太郎の様子を見るに逃げ出したりはしなさそうだ。いや、逃げ出してくれるほうがありがたいくらいだ。まだ始まったばかりだというのに、もう精神的に疲れてきてしまっている。緊張感がないのでうっかりしそうになるが、いまは誘拐という重大犯罪を実行している最中なのだ。正直なところ、もうやめたい。
「どこに行くの」
健太郎がスマホから目をあげる。
「ちょっと、そこのスーパー」
「一緒に行く」
健太郎が、スマホを差し出しながら言った。どうする。
「まあいいか」
まだ誘拐してからさほど時間は経っていない。美咲もまだ脅迫なり金の要求なりはしていないだろう。そこらを警察官がうろうろしている可能性は低い。というかたぶん、美咲のあの様子からするに、健太郎の家族は警察に訴え出たりはしないという自信がある気がする。美咲がいくら無鉄砲でも、警察が動いてうまくいくと考えるのとはないだろう。美咲は、隆平の家が資産家であると調べたうえで、知らないふりをして近づいてくる程度には計算高い。
部屋を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。寒い。隆平はダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
「寒くない?」
「ん」
健太郎はどっちなのかわからない返事をして、階段を降り始めた。隆平もそれに続く。人質が先に立って歩くのはどうなんだ、とも思ったがすぐにどうでもよくなった。隆平と健太郎の吐く白い息が、一瞬で消えていく。
小さなスーパーには、若い女性店員が二人いた。隆平と健太郎が店に入った瞬間だけおしゃべりを止めて「いらっしゃいませ」とは言ったが、すぐに興味を失ったようにおしゃべりに興じ始めた。あまり仕事熱心ではないほうがいい。隆平と健太郎がどういう関係なのか邪推でもされたらたまらない。
「なに買いに来たの」
健太郎が見上げてくる。
「晩飯と、おまえの着替え。——と思ったんだけど、さすがに子ども用の服なんかないな」
「着替え、あるよ」
「いや、ないだろ」
「持ってる。トートバッグに」
「そうなの? なんで」
「ママが——」
健太郎は言いかけて、口をつぐんだ。ママが、なに? 隆平はそう問いかけようかとも思ったがやめておいた。ホームシックになられても困るし、あまり話したくなさそうだったからだ。
「じゃあ着替えの心配はいらないんだな」
「うん」
「そうか。じゃあ晩飯選ぼうか。なんでも好きなもん、買っていいぞ」
「作らないの?」
「あー、おじさんは料理とかあんまりしないもんで」
実際、一人暮らしは十年以上しているが、自炊というものはほとんどしたことがない。大学生の頃、米を炊くのに失敗して以来、やらなくなってしまった。合理的な判断だと自分では思っていた。なにせ炊飯器に米を入れ忘れたのだ。水だけ入れてスイッチをオンしたほどなのだから、どんな失敗をやらかすかわかったものではない。肉とじゃがいもを入れ忘れて肉じゃがを作るくらいのことはやりそうだ。
「健太郎は、できるのか?」
「できる」
健太郎はこともなげに言った。それは得意げというわけでもなく、ただ事実を述べただけといった感じだった。
「へえ。まだ八歳なのにすごいね。なに作れるの?」
「コロッケとカレーとシチューと肉じゃがと」
「ちょちょちょ、そんなに?」隆平は慌てた。「最近の学校、そこまで教えてんの」
「学校じゃない。家で」
隆平は、はっと息を呑んだ。これはあれだ。あれ。横文字の——そう、ヤングケアラーとかいうやつだ。まだ子どもなのに、家事を背負わされている。親が病気だとか、あるいは単にやる気がないだとかの状態で、家事ができない、やらない。だから幼い子どもが代わりにやる。
なんやかんや言っても、隆平は恵まれた子ども時代を過ごしてきた。資産家の息子だから当然と言えば当然なのだが、周囲を見回してもそんなクラスメイトなどはいなかったと思う。だからヤングケアラーという概念を知ったときにはショックを受けた。まさか、そんなことになっている子どもが、この日本にいるとは俄かには信じられなかった。
そうなると、いろいろと説明がつく。そうだ。美咲は営利目的で誘拐をするような女じゃない。美咲は、健太郎の置かれているひどい家庭環境から、救いたかったのではないか。最初に健太郎を見たときに、あまり金持ちの家の子には見えないと思ったのもそのはずた。美咲は身代金が目当てではなく、健太郎を救い出すことを目的としている。おそらくは、警察や児童相談所が動かなかった。だから、元夫を使って健太郎を救うことにした。だとしたらそこの根っこには正義がある。
誘拐は犯罪だ。犯罪だが、健太郎が望んだ場合はどうなのだろう。無理に首根っこを捕まえて引きずってきたわけではない。というかおそらく、健太郎自身には、美咲のほうから説明があったと考えるのが自然ではないか。この道で声をかけてくるおじさんについていきなさい。そんなことを言っていたのかもしれない。それならばあんなに簡単についてきたのも納得がいく。
この推測が当たっているのならば、たしかに誘拐事件として警察が動くことはないのかもしれない。いまごろ、美咲は健太郎の両親と一人で対峙して話し合いをしているのだろうか。
「料理、得意なんだな」
そんなことを口にし、隆平は微笑んでみせた。
「得意っていうか、できる……」
「したいならしたらいいけど、今日は食べたいものを選んでいいぞ。おじさん、大人だからなんでも買ってあげられる」
健太郎の透き通った目が、隆平を捉える。無理をしているのを見透かされているようで、なんとなく居心地が悪い。
「これがいい」
健太郎の指差した先には、小ぶりなおにぎりがあった。具なしの、塩おにぎり。定価八十円のものに、「レジにて半額」のシールが貼ってある。
隆平は、ぐっと言葉に詰まった。
隆平に娘が生まれて八年。つまりは親になって八年。親としての自覚などないし、責任感もない。
だから隆平は、子どもが遠慮するのを目にしたとき、こんなにいてもたってもいられないような気分になるものだとは、この瞬間まで知らなかった。
「なんでもいいんだ、健太郎。そこの弁当だろうが、お菓子だろうがジュースだろうがなんでもいい。この店じゃなくてもいい。どこか、高い店にでも行こうか? ラーメンでも、ハンバーグでも、カレーでもなんでもいいんだぞ」
こんないい子が、家庭内で居心地の悪い思いをしていいはずがない。
「じゃあ、これ」
健太郎が指差したのは、菓子パンだった。子どもの栄養だとか健康だとかそういうことを考えるとあまりよくはないのだろうが、今度は遠慮したわけではなく本当にそれが食べたいのだと隆平は感じた。百五十円。
「他には? 明日の朝食べるぶんも買っておこう」
「時間は大丈夫?」
「時間? まだ——」
スマホをポケットから取り出して時間を確認する。まだ十八時二十分。
——十八時二十分。
なにか予定があったようななかったような。
「あっ!」
思わず叫んだ。美咲に電話をかけなければならなかったことを忘れていた。ようは進捗の連絡。十八時ちょうどにかけるよう言われていたのに、すっかり忘れていた。
「健太郎、ごめん。ちょっと待ってて。電話かけなきゃならないの忘れてた」
「ん」
スマホの通話アイコンをタップし、「184」をつけてから美咲の番号へかけた。非通知通話だ。万が一、なにかあったときに隆平まで捜査の手が及ばないように、との配慮だろう。やはり美咲は思いやりのある女性だ。あの頃、離婚だなんだと争ったときにはお互い若かった。あれから年月を経て、隆平はろくに成長しなかったが、美咲は母親になっていた。他人の子の心配までするほどに。
『遅い!』
一回目のコール音が鳴った瞬間、美咲の怒声が隆平の鼓膜を打った。
「ごめん、忘れてて」
『忘れてたぁ? あんた、緊張感ないんじゃないの』
「まあ、あれだ。計画は順調にいっているから、心配しなくてもいい」
『ああ、そう。なんで連絡が遅れたの』
「いや、いま健太郎とスーパーに来てんだけど。メシとか買いに。え、駄目だったかな」
少し間があく。
『——まあ、いいわ。二人で買い物してて忘れちゃったわけね』
返ってきたその声には笑いのようなものが滲んでいた。やはり優しい女性だ。健太郎が、ちゃんと食事を摂らせてもらえる環境にあると知って安心したに違いない。
『んで、他に報告は?』
「あー、美咲がなにをやろうとして」
『美咲?』
「ああ、えっと」面倒くさいな、という言葉はかろうじて飲み込んだ。「きみがなにをやろうとしているのかわかったよ。救いたかったんだな、健太郎を。ヤングケアラーってやつなんだろ」
電話の向こうで絶句している様子が伝わってくる。図星だったらしい。
「きみの優しさはわかっているよ。ありがとう。明日は浦橋臨海公園へ行けばいいんだよな」
『——ええ、まあ、そう。遅くとも十時には着くように家を出て、二十時までは園内にいて』電話の向こうで、美咲は咳払いをした。『あと、なにか話すことはない?』
なんだろう。そう言われると、伝え忘れたなにかがあるような気がしてそわそわする。教師に叱責を受ける子どものような気分で黙っていると、美咲のほうから口を開いた。
『なんか、おもしろい話をしてよ』
「いま?」
いまそんな話をするのはおかしいだろう。誘拐は進行中だ。隆平の緊張をほぐそうとしているのだろうか。
「あー、俺さ、『相田』って苗字だから五十音順の——」
『ねえ、その話のオチを知ってるんだけど。知らなくてもおもしろくないし』
「なんだよ」隆平としては鉄板ネタなのに。「もう切るぞ」
『ちょっと待って。もう少し、声が聞きたい』
「はあ?」
なにを言っているのだろう。あまりにらしくない発言に耳を疑う。
「それってまさか、よりを戻したいとか」
『うわキモい。黙ってて』
声が聞きたいと言ったのは美咲のほうなのに、黙るよう言われてしまった。
「おい、切るぞ。健太郎を待たせてるんだ」
『もう少し。あと三分くらい』
なんの時間だ。
「なあ、本当になんなんだ」
その質問には答えず、電話の向こうで美咲はぶつぶつとなにか言っている。
「なあ——」
『もうオッケー。あと、ここから先は一切連絡しないでね』
「ああ、わかっているけど」
通話は唐突に切れた。健太郎は、隆平が通話を終えるのをじっと待っていた。
ウィークリーマンションへ戻り、向かいあって食事を摂った。夕飯に菓子パンなんか買い与えてよかったものかいまだ悩んでいたが、健太郎がおいしそうに食べているのを見て、たまにだからいいか、と思うことにした。
「風呂、どうしよっか」
八歳児というのは、一人で風呂に入れるものだろうか。隆平自身の記憶を辿ってみると、どうもその頃には兄と一緒に入っていた覚えがある。二歳上の兄は、隆平の面倒をよく見てくれた。
「じゃあ、一緒に入ろうか」
「やだ」
思いがけない即答に、言葉が続かない。
「一人で入れる」
「ああ、そう。いや、大丈夫?」
子どもは静かに溺れると聞いたことがある。
「いつも一人」
「そうなんだ……」
まだ八歳の子が、いつも一人で風呂に入っているというのもなかなか切ないところでもある。バスタブには少なめに湯を溜めた。これでも溺れるときには溺れるだろうが、本人が一緒に入るのを嫌がっているのだから仕方ない。
「じゃあ、気をつけて」
風呂に送り出すには少々大袈裟な気がしたが、そう言って送り出した。青いニット帽をかぶったまま、健太郎は脱衣所に入っていく。
「シャンプーとか好きに使っていいよ。タオルはそこらへんに置いてあるやつ、適当に使っていいから。洗ってあるから汚くないよ」
「うん」
風呂場のドアが開閉する音がかすかに聞こえ、次いでシャワーの音がした。
「健太郎?」
風呂場に入って、しかもシャワーを使っているのだ。隆平の声が聞こえなくても不思議ではない。だが、不安だ。世の親御さんたちは、こんな不安な気持ちで風呂上がりを待っているものなのだろうか。
シャワーの音が止まった。それだけで不安になる。いま、この瞬間に溺れているのではあるまいな。単にバスタブに浸かっているだけなのだろうが、声も出せずに溺れている健太郎の姿を想像したら我慢ができなかった。
「健太郎!」
隆平が大きめの声をあげると、ドアの向こうからくぐもった声が返ってきた。
「なに?」
「あー、無事ならいいんだ」
「落ち着かない」
「だよね」
その後も隆平はそわそわとしながら、部屋の中をうろうろと歩き回った。しばらくして、風呂場のドアが開く音が聞こえ、脱衣所で体を拭いているような気配を感じてようやく隆平はソファに座った。とりあえず、風呂場で溺れることはなかったようだ。
ほっとした途端、眠気に襲われる。昨夜はこの慣れない部屋で眠ったこともあり、眠りが浅かった。誘拐を実行するために気が昂っていたというのもある。五分だけ。五分だけ寝よう。そしたら風呂入って、布団敷いて、健太郎を寝かしつける——八歳の子は寝かしつける必要があるのだろうか。
まどろみの中で、隆平の耳はドライヤーの音を捉えていた。最近の子は、髪を乾かすのにちゃんとドライヤーを使うのか。変なところに感心しているうちに瞼が閉じてきた。
はっ、と目を開けたとき、隆平は自分がどこにいるのか、すぐには把握できなかった。あのウィークリーマンションだ。たしか、健太郎が風呂からあがるのを待っていて、その間に眠ってしまったのだ。壁掛け時計は、一時を指していた。
——一時。どっちの?
窓から見える空は真っ暗だ。つまり午前一時。五分だけのつもりが、六時間くらい寝てしまった。隆平の体の上には、ブランケットがかけられていた。自分でかけた覚えはないので、健太郎がかけてくれたのだろう。
「——健太郎」
いない。逃げたのか。
「参ったな」
ソファにどかりと腰かけ、クッションに頭を乗せて違和感に気がついた。高すぎる。健太郎は、クッションに隠れるようにして眠っていた。まるで胎児のように丸くなって。なにもこんな狭いところで寝なくても。しかも、青いニット帽をかぶったまま寝ている。隆平が寝落ちする前、たしかにドライヤーの音を聞いた覚えがある。わざわざ髪を乾かしたあと、ニット帽をかぶってから寝たということか。頑ななまでにニット帽をかぶり続けるのには意味があるのだろうか。子どもというのは、たいした意味もなく物事にこだわるようなところがあるので、あまり深い意味はないのかもしれないが、やはり気になる。
——虐待。
その二文字が脳裏に浮かび、陰鬱な気分になる。あの隠された頭部には、ひどい傷があるのではないか。そう考えると、こうして小さくなって眠っている姿にもなんらかの意味を見出してしまう。
こっそり、その青いニット帽を外してしまおうかとも思ったが、やめておいた。いま、こうして健太郎がすやすやと眠っているのは、隆平に対してある種の信頼があるからだ。寝ている間に、こっそり体を調べようなどということをしないという、信頼。まだ出会って数時間。隆平のなにを見て信頼に足る大人だと判断したのかはわからない。養育費の支払いすらしない、無責任な大人だと知ったらがっかりするだろうか。隆平はそっと体を起こし、布団を敷いた。起こしてしまわないよう、慎重に健太郎を抱きかかえ、布団に入れてやる。
「参ったな」
ついさっきも口にしたその言葉をまた口にした。夜はゆっくりと朝に近づいていた。
浦橋臨海公園は、浦橋臨海公園駅という、そのままの名前がついた駅の目の前にあった。東京ドーム約二十個ぶんの、広大な自然公園。臨海と名がついているだけあって、最奥部は海に面しているらしい。
日本有数の大きさを誇るという大観覧車が遠くに見える。せっかくここへ来たなら乗っておきたいところだ。ぽつりぽつりと雲が浮く晴天で、風もない。観覧車に乗るにはうってつけの日だ。
「観覧車だな。あとで乗ってみるか」
「うん」
ごく短いやりとりながら、本当の親子のような気持ちになっていた。
浦橋臨海公園のエントランス脇には交番があり、いまも中年の警察官が立番をしている。まさか、目の前を通っている二人が誘拐犯と人質だとは夢にも思うまい。隆平はそう思いながらも、自身の動きがぎこちなくなるのを感じていた。表情もこわばる。あの警察官が、なんらかの職業的神通力のようなものを発して職務質問を仕掛けてくるかもしれない。そうされたらアウトだ。うまく切り抜けられる自信はない。
斜め前を歩く青いニット帽を見ながら、不自然にならないよう歩く。そうしているうちに、健太郎が警察官に助けを求めたらどうしよう、などという考えがふと頭に浮かび、一人動揺する。いま健太郎が「助けて」と叫べば、すべてが終わる。
「大丈夫?」
健太郎が振り返って、隆平を見上げる。
「大丈夫」
「ほんとに?」
その無垢な目を見ていると、少なくともいま警察官に助けを求めるようなことはなさそうに思えた。健太郎はきっと、美咲がなんのために隆平に連れ去らせたのかをきちんと理解している。
——平穏のために誘拐を。
あの喫茶店で、美咲はたしかにそんなことを言っていた。あの「平穏」とは、隆平の平穏ではなく、健太郎のための平穏を指していたのではないか。
そう思うと、今日は深いことを考えずに二人で過ごすべきであるように思えてきた。立番をしている警察官の視線は隆平たちのほうを見てすらいなかった。客観的に、怪しい二人組だとは見えなかったということだ。ベテランっぽい雰囲気の警察官のお墨付きがもらえたような気持ちになり、少し余裕ができた。
「どうする、健太郎。行きたいところ、あるか」
交番を通り過ぎたところで、そう声をかけてみる。この浦橋臨海公園内には水族館や野鳥園まである。
「観覧車、乗ってみたい」
「そうだな。高いところから周りを見て、そんで次に行くとこ決めよう」
順路通りに歩き、観覧車を目指す。あまりの大きさに距離感が狂う。すぐそこにあるような気がしていたが、実際に歩いてみるとなかなかたどり着かない。なんとなく、順路よりも脇道のほうが早くたどり着ける気がする。
「こっちの道、行ってみるか」
二人で脇道に入り、進んでいく。脇道の両側は木々がうっそうと生い茂っている。人間の手が入っていない原生林、という説明書きが途中にあった。たしかに、野鳥らしき鳴き声が聞こえる。
直線的に観覧車へ向かえそうな気がしていたが、実際に歩いてみると脇道はうねっていて、なかなか観覧車へ着かない。まだ明るい時間帯だからいいが、暗くなってからは少し怖いかもしれない。心霊的なあれも心配だが、犯罪が起こっても人目につきにくいような暗い道だ。実際、「ちかん出没注意」とか「不審者を見かけたら一一〇番」などという看板が立っている。
「逆に遠回りだな、これ」
隆平がこぼすと、健太郎が見上げた。
「ね」
この子は、怒ったり泣いたりすることはないのだろうか。いま、こうやって余計な遠回りをしているのは完全に隆平のせいだ。逆の立場だったら、ちょっと嫌味を口にしている自信がある。
少し前を歩く青いニット帽。この子は、大人に対して本音をさらけ出すことができなくなっているのではないか。そんなことを思ってしまう。そういう家庭環境に育ってきたのではないか、と。
しばらくうねうねと歩いていくと、ようやく観覧車の根本までたどり着いた。人はまばらにしかいない。愛想よく客をゴンドラ内へ送り出している係員の手前に、券売機が設置してある。三歳以上は一律で八百円。子ども料金という区割りはないようだ。ふと見ると、健太郎がポケットから財布を取り出している。コインくらいしか入らないような、小さな財布。それを見ていると、なんだか泣きそうになってしまった。
「おいおいおい、そんなの、払おうとしなくていい」務めて明るい声を出す。「おじさんが払うから」
隆平は健太郎を制し、チケットを二枚買った。それを係員に手渡す。「いってらっしゃいませ」という声を背に、赤いゴンドラに乗り込んだ。健太郎は、もの珍しそうにゴンドラの内部を眺めている。ゆっくり、ゆっくりとゴンドラは上昇していく。約二十分ほどかけて一周すると案内があった。臨海公園というだけあって、海の眺望は抜群だった。遠くには船が航行しているのも見える。
「あれ」
健太郎の声に振り返ると、彼は海とは逆側にある鳥類園のあるほうに目を向けていた。
「なんだ、なにかいたか」
珍しい鳥でもいたのかと思って言ったのだが、健太郎の返答は意外なものだった。
「知ってる人がいた気がする」
「知ってる人?」
隆平も健太郎の視線の先を追ってみるが、そもそも健太郎の言うところの「知っている人」というものを知らないのでどれのことを指しているのかわからない。
「学校の友達?」
「親戚の人、かな。たぶん、人違いだと思うけど」
なんとも曖昧な言いかただ。
考えてみれば、いま隆平は誘拐という大犯罪を実行している身だ。もちろん、美咲の優しさから発生しているものなので、法律はどうであってもそこに正義があることに疑いはない。だが、客観的にはどうだ。誘拐以外のなにものでもない。未成年者略取というやつか。通報されたら一発でアウト。たまたま、事情を知らない親戚とやらが、知らない男に連れられている親戚の子どもを見かけたらどうだ。訝しむだろう。誰だろう、と誰何するのは自然なことだ。このまま観覧車が一周して、降りたところに警察が待ち構えている。一気にそこまでいかなくとも、その親戚とやらが待ち構えていて質問責めにされるかもしれない。そんなことを想像しただけで、背筋が寒くなる。
「怖いな」
思わず口をついて出たその言葉に、健太郎が敏感に反応した。
「高いところ、怖いの?」
「あ、いや」
隆平がなにか言う前に、健太郎の両手が隆平の左手を包んできた。
「手、握っててあげる」
小さな手から、体温が伝わってくる。なんだ、これは。これでは大人と子どもが逆ではないか。頂点を通過したゴンドラは、ゆっくりと下降していく。
泣きそうになっている隆平をよそに、ゴンドラは出発地点に戻った。外からドアを開けてもらい、地上に降り立つ。おかえりなさいませ、という係員の声に軽く会釈をし、観覧車から離れる。降りる瞬間だけ手は離れたが、降りたあとはまた手をつないだ。傍から見たら、普通の親子に見えるに違いない。
「さて、次はどこ行こうか」
涙声にならないよう気をつけながら、言う。
「トイレ行きたい」
「ああ、そうか。気がつかなくてごめん」
園内には点々と公衆トイレが設置されている。適当に歩いてみても、どこかしらトイレを見つけることはできる。観覧車のすぐ近くにもトイレはあった。八歳児は、とくにトイレの補助は必要ないだろう。普通に、就学している年齢だ。多機能トイレと男子トイレが併設してあるタイプだった。こういう場合、男子トイレとされている側には小便器しか設置されていない。
「男同士、連れションといくか」
「こっち入る」
健太郎は多機能トイレのほうを指差した。赤と緑のボタンが縦に並んでいて、その上にある「使用中」のランプは消灯している。幸い、誰も使っていないようだ。
「……そうか。じゃあ、またあとで」
健太郎が多機能トイレに入っていくのを見届け、隆平は男子トイレに入った。思った通り、小便器が二つ並んでいるだけのトイレだった。
しかし。風呂のときといい、なんとなく男同士になることを避けられているような気がする。純粋に大のほうをしたかっただけかもしれないが。
用を足し、洗面台で手を洗っていると、鏡に写った自分の顔が自然と目に入る。我ながら、情けない顔をしている。自信なさげな、迷子のような顔。そしてふと気がついた。鏡の中の自分の顔が、昨日、声をかけたときの健太郎に似ている。似ているわけはないのだが。
隆平は男子トイレから出て、多機能トイレのドア前に立った。さすがにまだ出てこないだろう、と思ったところでおかしなことに気がついた。使用中ならば、「使用中」と書かれたランプが点灯しているはずだ。しかしいま、そのランプは消灯している。中から鍵をかけ忘れているのだろうか。
「健太郎?」
大きめの声で呼びかけてみる。返事はない。ノックを三回し、もう一度呼びかけてみるが、やはり返事はない。なにか、嫌な予感がする。
「健太郎、開けるぞ」
中に入っていたら気まずいな、と思いつつ、「開」のボタンを押す。ゆっくりと開いたドアの先、車椅子でもそのまま入れるような広いトイレには、誰もいない。いくら八歳の体が小さかろうが、隠れるようなスペースは見当たらない。
「健太郎」
がらんとしたトイレの中に、隆平の声が響く。トイレの周囲をぐるりと回る。いない。いるわけがない。膝の力が抜ける。そういうことだよな、とその場にへたり込みそうになった。
健太郎は逃げたのだ。いま、隆平の目が離れた隙を突いて、おそらくは公園入口にあった交番へ向かって走っている。
ならばなぜ、入ってくるときに警察官へ助けを求めなかったのか。簡単な話だ。すぐ横に隆平がいたからだ。仮に助けを求めた場合、隆平がどう動くのか予測がつかなかった。もしかしたら、暴力的な手段に出るかもしれない。そんな危惧もあったのだろう。昨夜も逃げるチャンスはあったはずだが、真っ暗な屋外へ出るのは危険だと判断したのか。
なんのことはない。健太郎は、逃げるチャンスを窺っていたのだ。隆平が男子トイレに入ったのを見計らって、多機能トイレから飛び出して逃げた。そうでなければ説明がつかない。
観覧車の中で、健太郎は「知っている人がいた気がする」などと言っていなかったか。あれは「気がする」のではなく、実際にいたのではないか。それで、その人がまだ近くにいたので助けを求めた。そんなことを想像すると、それが正解であるように思えてきた。
観覧車の中で手を握ってくれたのも、隆平を油断させるためのものだったのか。あんなことでまんまと嬉しくなってしまった自分があまりにも惨めだった。
健太郎を探すのは諦めた。美咲は怒るだろう。給与や口座の差し押さえもされてしまうに違いない。ただ、いまの隆平にはそんなことが些事であるようにすら思えた。心を通わせることができたと思っていたのに。
とぼとぼと歩いていて、ふと思った。健太郎は、この順路を通って交番へ向かっただろうか。来るときは、隆平が近道をしようとして脇道を通ってきてしまった。その道を通って交番へ行こうとはしていないだろうか。「ちかん注意」とか「不審者を見たら一一〇番」といった看板があったことを思い出す。こんな道を、子どもが一人で通ったとしたら危ない。例の知り合いとやらが一緒だったらいいのだが、それはあくまでも隆平の想像に過ぎない。実際には一人で逃げている可能性もある。
もう一度人質にしようとは思わないが、健太郎が危ない目にあうのだけは避けなければならない。未練がましいと思いつつも、隆平は脇道のほうを歩き始めた。鮮やかな青いニット帽に、スタジャンにジーンズ。それがどこか茂みにでも連れ込まれていないか。
そうやって歩き始めてすぐ、隆平の目の端が人工的な青を捉えた。二度見をするようにそちらへ目をやると、二十メートルほど先、茂みの中に小太りの男がしゃがんでいる。いま捉えた青は、その小太りの男の手の中にあった。青いニット帽。脱がされかけたスタジャン。
「——おいっ!」
その叫びが自分のものであると、隆平は一瞬遅れて気がついた。三十年生きてきて初めて聞く、威嚇するような声。小太りの男が振り返る。その向こうに、驚いたように目を丸くした健太郎の顔もあった。
「ちがっ!」小太りの男が叫んだ。「違うんです!」
なにが違うというのか。誰がどう見ても変質者だ。隆平は足元の悪い茂みの中を走った。横から突き出た枝が顔を叩いたが気にならなかった。ぐんぐんと近づき、手の届く場所まで走っていく。そのままの勢いで、隆平は小太りの男の顔面を殴った。ばちん、という音が周囲に響き、小太りの男は尻餅をついた。
「やめて!」
叫んだのは健太郎だった。小太りの男に追撃しようと振りかぶった隆平の拳は、中途半端なところで止まった。子どもの見ている前で暴力はよくない。それはそれで虐待だ。その隙に、小太りの男は這うようにして逃げ出した。隆平はそれを追おうかとも思ったが、それどころではなかった。ぐるぐると思考が回り、うまくまとまらない。
——きみ、女の子みたいな顔してるな。
誘拐した直後、自分が言った言葉が脳裏をよぎる。
頑なに脱がなかった青いニット帽。それはいま、茂みの上に放り出されている。ニット帽に隠されていた、長い髪。長い髪の男児など珍しくもない。だが、こうして見てみると、疑いようもない。
「健太郎、おまえ」
無垢な瞳が隆平を見つめている。
「やっぱり女の子だったんだな」
健太郎——いや、当然その名前は偽名だ。彼女は、なにかを耐えるかのように唇を噛んでいた。その顔は、ついさっき鏡の中に見たものにやはり少し似ていた。
——女の子って、父親に似るって言うよね。
過去の自分がそんな軽口を叩いていたのを思い出す。そしてようやく、隆平は理解した。
「きみの誕生日、わかったよ」
自分がかつて口にしたこと、思ったことが次々と脳裏に浮かんでは消える。
——暗証番号を決めるときにだいたい娘の誕生日を使っていた。
「きみの誕生日は、十一月二十九日で」
——岩渕って名字嫌がってたじゃん。
「本当の名字は岩渕で」
——美咲から一文字とって咲良。
「本当の名前は咲良で」
さっきまで「健太郎」と呼ばれていた彼女、咲良はじっと黙っていた。
「俺の娘だ」
残酷なことをした。目を離して、変質者に襲われたこともだが、実の娘がずっと近くにいるのに、まったく気がつくことができなかった。いま、こうして咲良の様子を見るに、彼女は最初から知っていたようだ。だから、あんなにも簡単についてきたのだ。指定されたあの言葉、「プレイステーションで遊ばない?」は合言葉だったのか。
美咲がこんな馬鹿げた誘拐劇を仕込んだ理由はわかる。彼女は、元夫に娘を会わせたかったのだ。しかしその元夫は娘の写真すら要求してこない。ならばいっそ、誘拐させよう。「健太郎」という偽名を名乗らせ、男児であるかのように振る舞わせた。たったそれだけの偽装で、隆平が気がつかなかったらそれまで。もう完全に縁を切ってしまうつもりだったのだろう。
「ごめんな」
隆平が言うと、咲良は微笑んだ。
「なんで謝るの」
「全然気がつかなかったし、俺は、払うべき金も払わないで逃げてた」
養育費のことを言ったのだが、咲良には理解ができないようだった。美咲が、隆平のことを悪く言わなかったことがわかる。あの気の強い元妻は、娘が父親のことを忌避してしまわないよう、気にかけてくれていた。
「ごめんな」
もう一度言うと、咲良は困ったように笑った。
「よくわかんないけど、いいよ」
この先の人生は、この子のために使おう。仕事も選ばないし、絶縁してしまった両親に助けを求めよう。土下座だろうがなんだろうが、してやる。そう誓って涙を流す隆平の手を、咲良はそっと握ってくれた。
◇
ボイスチェンジャーを通した声で、脅迫文を読み上げる。ただし、脅迫者らしからぬ、申し訳なさそうな声で。
「ええ、よくわかっていないんです。よくわかっていないんですが、五千万円を星風グリーンパークの奥の、ええと東六番トイレってところに置いていけ、ということです。そこの故障中になってる個室に放り込んでおけ、と」
電話の向こうでは、こちらの性別すらもわかっていないだろう。電話の相手は、相田隆蔵。アイダ製薬の社長。いま、電話で話している限り、とても数千人の社員を抱えた大物とは思えない。なにが立志伝中の男だ。ただの爺さんではないか。岩渕美咲は込み上げる笑いを飲み込み、いかにも困ったことに巻き込まれた一般人であるかのように振る舞った。
「よくわかんないんですけど、お願いします。今日の午後六時までにって話なんですけど」
『わかった。なんとかする。わかったから、声だけでも聞かせてくれないか』
「無理なんです、本当に、ごめんなさい。東六番のトイレに、お願いします、と伝えるように言われただけなんです、ごめんなさい」
まだ隆蔵はなにか言っていたが、美咲はそのまま通話を切った。もう少し緊張するかと思っていたが、思いのほか簡単に実行することができた。
元夫である相田隆平は真相に気がつくだろうか。いや、気がつくことはあり得ない。
失敗する可能性が低く、万が一失敗したとしても罪に問われない誘拐。それが今回の計画だ。元夫は底の抜けたぼんくらだから、自力で真相にたどり着くことはあるまい。
いま、本当に誘拐されているのはその相田隆平だ。美咲の元夫であり、アイダ製薬社長の次男坊。人質としては申し分ない。
美咲の人生は、もっと楽に進んでいくはずだった。アル中の父親とギャンブル中毒の母親のもとに生まれ、逆風の中で育ってきたが、幸いなことに容姿には恵まれた。売春を重ね、小金持ちになった美咲は、奨学金を借りて浦橋大学へ進学した。そこに相田隆平がいた。わかりやすい男だった。
そこへうまいことつけ入ることができたのは僥倖だった。隆平の親のことなどまったく知らないふりをし、知ったあともそんなことはどうでもいいとばかりに振る舞った。隆平は美咲を運命の相手だと勘違いし、一気に結婚の方向へと舵を切ってくれた。
隆平の両親が反対するのは目に見えていた。あれだけの資産家だ。息子の結婚相手の素性はきっちりと調べるだろう。案の定、隆平の両親は大反対した。それはむしろ追い風になるはずだった。反対されればされるほど、隆平は反発して美咲を手放さなくなる。いつまでも思春期を引きずっているような幼さのある隆平の思考は手に取るようにわかる——はずだった。
まさか、本当に両親と縁を切ってしまうとは夢にも思わなかった。高額当選した宝くじを意図的に捨てる者がいないように、恵まれた家庭環境を捨てる者などいるはずがないと思い込んでいた。甘ったれた人生を送ってきた相田隆平という男は、まるでなにかのあてつけであるかのように実の両親と縁を切ってしまった。
信じられないほど馬鹿な男だ。お人好しで世間知らずで人当たりはいいが、多分に独善的なところのある男。そして思い込みも強かった。
隆平のほうから離婚調停を申し立て、親権や養育費について合意をし、離婚は成立した。
それでも、美咲の手元には咲良という子どもが残った。隆平は頼りにはできないが、咲良の祖父である相田隆蔵との繋がりは切れたわけではない。隆蔵の長男、次期社長と目されている相田隆一は独身であり、当然子どもはいない。隆蔵の唯一の孫が咲良なのだ。
だから美咲は隆平のことを悪くは言わなかった。本当は、咲良に言い聞かせてやりたかった。おまえの父親は、馬鹿だ。間抜けだ。世間知らずの、非情な男だ。
そうはせず、あくまでも自分は夫のことを純粋に愛していた女を演じた。そして月に一度程度の頻度で、咲良を連れて隆蔵に会いに行った。隆平という実子を抜きにして、自分の居場所を作る。それが美咲の狙いだった。
おおむね成功してきたと思う。咲良を連れていくたびに、「少なくて申し訳ないが」などと言いつつ、隆蔵は封筒を渡してくれた。毎回、十万円。隆蔵からしたら小銭のようなものだろうが、美咲からしたら大金だ。
それと、細々と続けているホステスの仕事の稼ぎをあわせれば、娘一人育てるのはなんとかなっていた。幸い、格安の家賃でアパートを借りることもできた。どういうわけか、入居時には六万円を提示されていたのに、実際に住み始めたときには四万円になった。美人だから割引してくれたのだろうか。あるいは、幼児を連れたシングルマザーに同情したのか。いずれにせよ、得することだから深くは考えなかった。
古いアパートだが、入居時にフルリフォームしてくれた。居心地は悪くないが、無事身代金を手に入れたらとっとと引っ越すつもりだ。
経済界で知らぬ者はいない、相田隆蔵。だが、美咲からしたら時流に乗っただけの年寄りだ。そんな年寄りをうまく転がし、財産を奪ってやりたい。相田隆蔵が済んだら、次は別の金持ちをたぶらかして伴侶の席にでも座る。
さっきかけた電話で、今日の夕方六時までに、星風グリーンパークの東六番トイレへ五千万円を放り込んでおくように指示した。星風グリーンパークは、浦橋臨海公園のすぐ近くにある巨大公園だ。そこの東六番トイレというのは、半年ほど前から使用禁止になっている。元からほとんど使われていなかったためか、故障したまま放置されている。そこの個室へ五千万円を放り込ませる。美咲がこれを取り出し、家へ持ち帰る。そして再度相田隆蔵へ電話してやるのだ。浦橋臨海公園内を探せ、と。公園内を探せば、人質となっていたはずの隆平がアホ面して歩いているのを見つけることができるだろう。
仮に、警察へ通報されたとしても問題はない。あくまでも美咲は「咲良を誘拐した犯人」に脅されて指示に従っただけ。その脅迫電話は、昨夜の十八時二十分頃にかけられている。非通知の通話だったが、警察が調べれば隆平のスマホからかけられたものであるのはすぐにわかるだろう。そして、通話内容まではわからない。隆平から美咲への七分ほどの通話が、脅迫電話だったということにする。もちろん、ボイスチェンジャーにより、誰からかかってきていたのかはわかっていなかったと言い張る。
今回の計画で、やきもきしたのはこのときだけだ。十八時にかけろと何度も念を押しておいたのに、あの馬鹿は二十分も遅れてかけてきた。目の前にいたら胸ぐらを掴んでいるところだったが、理由を聞いて笑いそうになった。咲良を連れてスーパーまで行っていたという。隆平は、咲良を誘拐したという証拠を自ら増やしてくれた。
子どもを連れて歩き回れ、などという指示をしたら不自然だと考えて控えていたのだが、自主的にやってくれたというのだ。つくづく間抜けな男で助かった。通話の時間を稼ぐために、つい「もっと声を聞いていたい」などと口にしてしまったのは我ながら失笑ものだったが、あれは仕方ない。よりを戻したがっている、馬鹿な女だと思われただろうか。
馬鹿な女だと思われてもかまわない。むしろ利用してやる。小学生の娘を育てる、三十歳のシングルマザー。知り合う男はみんな、「無計画に子どもをつくった馬鹿な女」というレッテルを貼る。もちろん面と向かって言われることまではないが、そう思っているのは間違いない。警察もそう判断するだろう。だから、それを逆手に取る。
馬鹿な女だから、愛する娘を誘拐されて、警察に届け出ることもなく、犯人の要求に唯唯諾諾と従ってしまった。脅迫電話をかけてきたのが元夫だとは夢にも思わなかった。いつの間にかドアポストに知らないスマホとボイスチェンジャーが入っていたので、指示に従ってそれを使って脅迫の電話をかけた。電話の相手が、元夫の父親である相田隆蔵であったことも気がつかなかった。
それらの言いぶんはきっと信じてもらえる。なにせ、無計画な馬鹿女なのだから。実際のところ、かなり計画的にやれたと思う。そして幸運にも恵まれた。足がつかないという「飛ばし」のスマホも、不良外人らしき男に声をかけてみたら簡単に手に入った。
時刻は正午になろうとしていた。隆平は、連れている子どもが自分の子だと気がついただろうか。気づいたところでなんの問題もない。女児を誘拐するのは抵抗があるかと思ったので、男児ということにしたが、さすがに女児であることには気がついただろうか。いや、あいつは馬鹿だから——。
美咲の思考は、外階段を上がってくる足音によって中断された。古いアパートだ。人が来ればすぐに察することができる。しかも、少なくとも二人ぶんの足音がしたように思える。美咲を訪ねてくる者がいるはずもない。宅配便が来る予定もないし、郵便物は下にある集合ポストに投函されるのが通常だ。
ゆっくりと近づいてきた足音は、美咲の部屋の前で止まった。息を潜める。誰だろう。ドアスコープもないドアなので、玄関先まで行ったところで廊下の様子はわからない。可能性としては、家賃の督促だ。月額四万円程度とはいえ、ここ二ヶ月は滞納している。だが、その程度でわざわざ管理会社の者が来るだろうか。しかもこんな、重要な日に来るというのは、あまりにもタイミングが悪い。
がちゃり、と音がして、美咲は目を見開いた。かけてあった鍵が、外側から開錠されたのだ。まさかこんな古いアパートに、空き巣が来たのか。いや、そんな簡単にピッキングなどできるものか。いまの感じだと、合鍵でも使ったとしか思えない。やはり管理会社の者が来たのか。いや、だとしてもノックくらいするだろう。いきなり開錠するとは考えにくい。
自分自身の荒い息がうるさい。なにが起こっているのかわからない。開錠されたドアは、十センチにも満たない隙間を開けたところで、チェーンロックに阻まれた。頼りないそのチェーンだけが、美咲の部屋を閉じていた。
チェーンロックは中に人がいることを示す。空き巣ならば諦めるはずだ。
しかし次の瞬間、大型の鋏のようなものの先端が差し入れられ、あっさりとチェーンを両断した。役目を果たせなかったチェーンは、おもちゃのようにドアの横にぶら下がる。
声も出なかった。自分の部屋に入るかのように、男が入ってきた。その顔を見て、美咲は固まった。
「お、おとうさん……」
相田隆蔵だった。ついさっき、脅迫の電話をかけた相手。美咲は混乱した。なぜこの人がここに。隆蔵のうしろから、体格のいい、スーツ姿の男が入ってきた。その男も土足のままだった。
「仕事というのは、段取りが九割だ。段取りさえしっかりしていれば、たいがいのことはなんとかなる」
隆蔵の声は落ち着いていた。
「な、なにを、なにをおっしゃっているのか」
「誘拐計画ね。悪くはなかった。悪くはなかったけど、段取りがいまいちだったね。だが、悪いところをつらつらと指摘されても嫌な気分になるだろうから、まずはいい点を指摘しよう」隆蔵が煙草を口に咥えると、隣に立つスーツ姿の男がライターで火をつけた。「本当に隆平を誘拐したと信じさせるために、隆平の手帳を送ってきたね。あれはよかった。昔から使っていたものだから、隆平のものだと私も家内も知っていた。私の連絡先は、あの手帳から得たのかな。そして同封されていた写真。あれは隆平を脅した喫茶店で撮ったものだね。背景を加工してぼかしていたけど、なんともまあ、隆平が冴えない顔をしていて、本当に誘拐されているような感じが出ていたよ」
——あれは隆平を脅した喫茶店で撮ったものだね。
がつんと頭を殴られたように、思考が停止する。誘拐の計画が知られている。なぜ。どうして。
「おそらく、この計画はきみの頭の中にだけあった。どこにも証拠は残していない。喫茶店で隆平を脅したときも、メモを取ることすら許していなかった。口頭で伝えたのみ。あとになって隆平が『元妻に脅された』と言ったとしても、証拠はない。だけどね」隆蔵は紫煙を吐き出した。「そんなときこそ、周囲に気を配らなければいけない。あの喫茶店、少し離れた席に中年男がいただろう」
美咲の反応を待つように、隆蔵は言葉を切った。少し離れた席の、中年男。いた。イヤホンをした、冴えない男。
「あれはうちで雇った調査員だ。きみたちの会話はすべて、録音してある」
ぐらぐらと目の前が揺れる。それが事実なら——いや、事実なのだろう——計画は最初から把握されている。
「どうして……」
そうだ。どうして、調査員などというものがそこにいたのか。いつから。いつから疑われていた。
「段取りがすべて、と言ったろう。このアパートの契約をしてすぐ、改装工事が入ったのを覚えているかい」
あった。たしかに、改装工事を待ってから入居した。
「あれはうちがやったんだ。孫娘が住むところの耐震基準や清潔さというのが気になってね。きみがこの物件を選んだ直後に、私の知人がオーナーになった。オーナーが変更になった件も通知があったはずだ。そして家賃も安くなっただろう。相場よりだいぶ安くした。きみたちが出ていかないようにね。おっと、誤解しないでくれよ。盗撮やら盗聴なんてことはしていない。あくまでも、合法の範囲で観察していただけだ」
なにも言葉が出てこなかった。計画はすべて失敗。そして土足で踏み込んできた男二人。逃げられない。殺される。
「……あ、あの、ご、ご、ごめんなさい。あた、あたし」
子どもみたいな謝罪が口をついていた。歯の根があわない。
「そんなに怯えるな。ただ、覚えておきなさい」隆蔵は煙草を床に落とし、踏み消した。「違法行為を仕掛けたら、相手も違法行為で返してくる。きみのような犯罪者は、そこのところの認識に甘えがある。相手が、合法の範囲でやり返すに過ぎない、と思っていなかったかい」
美咲は震えることしかできなかった。いま、美咲を見下ろしている隆蔵の顔は、孫娘に目尻を下げている好々爺と同一人物だとは思えないほど厳しいものだった。
「悪い点は他にもあるんだ」隆蔵は続ける。「あまりにも簡単に『飛ばし』のスマホが手に入ったと思わなかったかい。あれも、うちの仕込みだ。気づくべきだったね。計画がとんとん拍子に進んでいるときは、誰かの作為を疑わなければいけない」
美咲は呼吸困難になりそうだった。全部、隆蔵の手のひらで転がされていた。土下座でもすれば許されるだろうか。しかし美咲は指一本すら動かすことができなかった。
「うちの秘書をやっている田中くんを知っているだろう」
田中。たしかにそんな人がいた。隆蔵のところへ遊びに行ったとき、咲良の遊び相手になってくれた。いや、彼がいまの話となんの関係があるというのか。
「浦橋臨海公園では、田中くんが監視役としてついていたんだよ。動画を撮りながら、隆平と咲良ちゃんのあとをつけていたんだ。隆平は田中くんのことを知らないからね。だが、その動画を見ていたら、どうにも咲良ちゃんが寒そうで。こちらから指示を出したんだ。咲良ちゃんの服の中とニット帽に、使い捨てカイロを貼ってやれと」
なんの話を聞かされているのかわからない。わからないが、口を挟む気にもなれなかった。
「咲良ちゃんは賢いよ。田中が離れたところから手招きしたら、隆平がトイレに行くように誘導して、目が離れた隙に駆けてきたんだよ。だが、田中は段取りの悪い男でね。咲良ちゃんと合流してから、使い捨てカイロのパッケージを開けたりしてたもんだから、隆平に見つかって殴られたんだ。変質者と間違われたんだな」
なにがおもしろいのか、隆蔵はくすくすと笑い、中腰になって美咲の目を覗き込んだ。目が笑っていない。
「怪我人、一人だけで済むかどうかはきみ次第だ」
「……つ、つまり、あたしにどうしろと」
「咲良ちゃんの親権を手放し、隆平のもとによこしなさい」
たったそれだけのこと。それで許されるのならば、悪い話じゃない。
悪い話じゃない? 本当に?
咲良の笑顔が頭に浮かぶ。あの子とはもう、会うことができないのだろうか。奪われる、と認識した瞬間から、こんな計画に娘を使った後悔が込み上げてくる。
だが、隆蔵の提案を拒むことなどできるはずもなかった。
「返事は?」
いまはただ、目の前にいる相田隆蔵という男が恐ろしかった。
美咲が頷くのを見ると、隆蔵は満足そうな笑みを浮かべた。
運が良かっただけの老人。美咲は相田隆蔵のことをそう評していたが、間違いだ。
美咲は、ギャンブル中毒の母親を見下していた。勝てる見込みのない賭けを続けている馬鹿な女。だが、まさにいま自分自身が馬鹿な賭けをして、そして負けたことに気がついた。
せめて咲良の目には、馬鹿な母親として映っていませんように。そう祈ることしかできなかった。