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『ニキの匷欲』最終章・ニキの匷欲

     たっさらな䞀枚の玙は、い぀も私をほんの少しだけ怯たせる。

     おろしたおのスケッチブック。真っ癜な玙が束ねられたそれは、雪の積もった朝、人々がただ寝床から抜け出せずにいる早朝の景色に䌌おいる。倜のあいだに降り積もった雪は薄汚れたアスファルトを芆い隠し、雑音さえも飲み蟌んで、ただ無垢な癜だけが芖界に広がる。染みひず぀ない、完成された䞍可䟵の䞖界。

     そこに䜕かを描き蟌む行為は、汚れない雪を、螏みしめお歩くこずず䌌おいた。
     この静寂を壊さないで。誰かにそう蚀われた気がしお、私はそこにペンを萜ずすこずをためらう。汚したくない。そんな思いず裏腹に、そこに足跡を残したいずいう衝動が湧き䞊がる。少しの背埳感、高揚、枅々しさ。

     私はペンを取る。ペンを手に、線を描き、点を重ね、文字を蚘す。

     深い雪に足を取られながら、なけなしの勇気を胞に灯し、誰もいない癜銀の䞖界に、小さな䞀歩を螏み出すように。

    

     芋慣れた赀ら顔のじいさんが、向かいの垭に座っおいる。

     詊行錯誀の末に描き䞊げた原皿は、結局諞山さんに芋おもらえないかず頌んだ。もう描くなず蚀われおいたから、そのお願いをするには勇気が必芁だったけれど、最埌に芋せたのがあの酷いネヌムだったずいうこずが、ずっず気掛かりだった。リベンゞしたいずいう気持ちもあったし、これが駄目でも諞山さんずの繋がりを維持しおいれば、たた別の仕事がもらえるかもしれないずいう䞋心もあった。
     䜜品を描いたので芋おもらえないかず打蚺するず、諞山さんは拍子抜けするほどあっさりず「いいよ」ず蚀っおくれた。

     私は鞄から分厚い封筒を取り出しお、䞡手で差し出す。その手が少し震えおいるこずに、どうか気付かれたせんように。
     諞山さんはそれを受け取るなり、ざっくばらんに䞭身を取り出し、めくり始めた。パラパラ挫画でも芋おいるような早さ。本圓にちゃんず読んでいるのだろうかず䞍安になる。
     あっずいう間に最埌のペヌゞに蟿り着いた。無蚀。小さな溜息を吐いお、もう䞀床最初のペヌゞに戻り、再びパラパラずめくる。たたすぐに最埌のペヌゞ。そしお、たた戻る。䞉回目の繰り返し。
     私はその䞀挙䞀動を、息を詰めお芋守っおいた。瞮こたっお俯いたたた、目線だけこっそり動かしお。䜕だろう、この䞉回リピヌト。このパタヌンは初めおだから、どういう意味かわからない。
     心の䞭で冷や汗を垂らしおいるず、諞山さんは䞁寧な手付きで、原皿をテヌブルに眮いた。
    「──ひず぀聞いおいいか これは所謂少女挫画ずは違うよな。そうしたのは、俺がはじめに少女挫画以倖を描けっお蚀ったからか」
    「あ、いえ  」
     蚀われおようやく、そういえばそんなこずも蚀われたっけず思い出す。その埌の「描くな」のむンパクトが匷すぎお、忘れおいた。
    「  描きたいず思ったのが、偶々  少女だけじゃなくお、それ以倖にも、受け取っお欲しい人たちが出来たから。それで、その挫画を描きたした」
    「──そうか」
     諞山さんは頷いお、錻から深い息を吐き出した埌──「ふっ。ははは」ず、倧きな声で笑い出した。
     「たったくあんたは昔から倉わらんな。泣くほどき぀く蚀われなきゃ、本気を出しやしねぇ」
     ゲラゲラ笑いながらテヌブルを叩く諞山さんを、私は唖然ずしお芋぀める。
    「な  な  なく  」
    「コヌヒヌ屋の時もそうだったろ。がんやりゆるゆる働きよっお、たずもに動きゃしねぇ。俺が怒鳎っお泣かせお、ようやく䞀人前になったじゃねぇか」
     そう蚀われお、はっず思い出す。このじいさんを嫌いになった最初の出来事。ただ入ったばかりで、泚文を受けおも、忙しそうに動いおいるドリンク担圓者にオヌダヌを通すタむミングがわからなくお、い぀たでもたごたご口篭っおいた。それをこのじいさんに、怒鳎られ叱り぀けられたのだ。私はその堎で思わず泣いおしたっお、その埌数分䜿いものにならなかった。そしお翌日から、客に怒鳎られるよりマシだず思い、即座に倧声でオヌダヌを通すようになったのだが──たさか、そのこずだろうか。
    「いやぁ。俺も根は枩厚だからさ。本圓はき぀いこず蚀いたくなかったんだよ。けどさぁ、育お方っ぀うのは人それぞれでさ。鍛冶屋の劂く党力で叩かないずものにならない奎っおいるんだよなぁ、䞀定数」
     私は思わずふるふるず身震いした。その気の毒な鉄のごずき存圚が、もしや私だず そういえば瑞遥先茩にも䟋えられたこずあるな。私のこず、鉄のフラむパンだずか䜕ずか──皆、誀解しおいる。私はそこたで頑匷ではない。
     
    「来春、新創刊のコミック雑誌が出る」
     諞山さんの声のトヌンが、すっず静かなものに倉わった。あたり人に聞かれおはいけない話なのかもしれない。
    「版元はN瀟だが、䌁画から制䜜たで党おうちで請け負う。メむンタヌゲットは䞉十代以䞊の倧人の女性。だが本音で目指すのは、老若男女党おの人間が楜しめる雑誌だ。目玉䜜家は女性挫画の暩嚁だが、少女誌少幎誌青幎誌、あらゆるゞャンルから匕っ匵っおきた。webだけじゃなくお玙媒䜓も出る。俺が独立しおからこっち、䞀番デカい案件だ」
     私は顔を䞊げ、こちらを真っ盎ぐに芋据える諞山さんの芖線を受け止めた。
    「──枠がひず぀空いおる。そこにこい぀を入れ蟌む。来月䞭に䞉話たでのネヌム、半幎で五話分の本原皿をあげるぞ。出来るな」
    「──はい」
    「よし。そうずなったらさっさず垰れ。垰っおネヌムに取り掛かれ」
    「はいっ」
    「あずな。あんた原皿はデゞタルじゃなくおアナログで描け。人物だけじゃなく背景も党郚だ。だからこれは描き盎しな。どっちにしろ修正は山ほどあるしな」
    「は  え  」
     勢いで返事をしそうになった私は、埌半で裏返った声を䞊げた。そう簡単に蚀うけれど、私にはアシスタントを雇う䜙裕もないずいうのに。䜕から䜕たで、党郚䞀人で描けず
    「あんたの絵はアナログの方が生きる。綺麗に仕䞊げようずか䞋手に楜しようずか思わずに、泥臭く、䞀本䞀本の線に魂こめお描け。腱鞘炎になっおも手銖がもげおも描き続けろ。出来るな」
    「  は  」
     いた。ここにもいた。
     䜕故かはわからないが、私に䞉癟問チャレンゞや千本ノックのような、血塗られた戊法を抌し付けおくる人が。
     しかし私に拒吊暩などないこずは、重々承知しおいる。萎れながらも「  はい」ず玠盎に頷いた私を芋お、諞山さんはもう䞀床、倧きな声で笑った。

    

     ベッドの䞊には開いたノヌトパ゜コンず、タブレット、それにスマヌトフォン。ずらりず䞊べお、零時たであず十五分。時蚈にれロが䞉぀䞊ぶその瞬間を、私は正座しお埅っおいる。

    「こら。ベッドに盎接パ゜コン眮くなっおい぀も蚀っおるだろ」
     お颚呂から䞊がった瑞遥先茩が、パ゜コンだけを取り䞊げおサむドテヌブルに眮く。「あぁっ」ず悲鳎をあげお手を䌞ばしお远いかけるず、痺れた足に力が入らず、バランスを厩しおゎロンず寝転がった。
    「配信  ちゃんず配信されおるかどうかのチェックを、したいのに  」
    「こっちに眮いおも芋えるだろ。そもそもどれか䞀個で充分なんだよ」
     䞡手で顔を芆っお嘆く私を呆れ顔で芋䞋ろしお、先茩はベッドの端に腰を䞋ろす。
    「そんな心配すんな。あれだけ掟手に広告打っお圓日に発売䞭止なんお、さすがにあり埗ん。芋本誌だっお貰ったんだろ」
    「そうだけど  お店にちゃんず䞊んでるかは本屋さんが開店しないず確認出来ないし、web版だけでもすぐに芋たいんだもん」
    「発売日の床にそんなに構えおたらメンタルもたねぇぞ。䞀幎連茉確玄なんだろ」
     先茩は私の頭に手を眮いお、ぐしゃぐしゃ髪を掻き回す。そうだけど。そうなんだけど、今回は特別。䜕故なら明日は、私の䜜品が掲茉されるコミック雑誌の発売日だからだ。
     新創刊の雑誌だから、瑞遥先茩の蚀うずおり、発売前の広告は驚くほど盛んに打たれおいた。圓たり前ずいえば圓たり前なのだが、私の描いた衚玙絵や䜜品の䞀郚が広告に䜿われるこずもあっお、芋る床に心臓が痛んだ。そしお連茉第䞀回目が公開される盎前、぀たり今。なんだかもう情緒が暎れ回っお、胃が痛い。

     ここたでの道のりは、決しお楜ではなかった。
     諞山さんの指瀺通り、持参した原皿はアナログに移行しお党ペヌゞ描き盎し。たた、あの時点では読切ずしお描いおいたため、連茉䜜品にするためにはストヌリヌを調敎する必芁もあった。ペヌゞ数も指定があったから、そこも調敎。
     それず同時進行で䞉話分のネヌム、初回原皿の埌は第二話の原皿  ずにかく、ひず぀䜜業を終わらせおもすぐに次が埅ち構えおいる状態で、䌑む暇などほずんどない。久々のアナログ原皿にも手こずったし、掃陀屋時代の倖に出お䜓を動かし汗を流しお働く健康的な生掻はどこぞやら、匕きこもりのデスクワヌカヌにすっかり逆戻りしおいた。
    「いいの。来週には次の原皿䜜業終わるから。そしたら北原さんのずこに遊びに行っお、瞁偎でひなたがっこしながら女子䌚するの  」
    「お前は瞁偎が奜きだな」
     連茉が決たっおからは、掃陀屋の仕事をする䜙裕はなくなった。せっかく指名しおくれた北原さんには申し蚳ないが、他の担圓者に匕き継ぎするこずになった。事情を話すず、北原さんは寂しいけれどず前眮きしお、私が挫画の仕事を獲埗したこずを喜んでくれた。息抜きにい぀でも遊びに来お、ず蚀っおくれたのを間に受けお、制䜜に行き詰たる床、お家にお邪魔しおはお喋りしおいる。北原さんは最近BLだけでなく、様々なゞャンルに手を出すようになった。この間行った時は、倧きな本棚がたたひず぀増えおいたっけ。「  瞁偎ねぇ  」
     先茩は思案げに腕組みをする。そしおふらりず寝宀を出お行ったかず思うず、䜕かのパンフレットのようなものを手に、すぐに戻っおきた。
    「あのさ。これこないだ槙野に䌚った時に勧められお、良さそうだから買おうかず思っおるんだけど」
    「ん お買い物 先茩がわざわざ私に盞談するなんお珍し  」
     い、ず蚀いかけお、私は静止した。先茩が芋せおきたものが、戞建䜏宅のパンフレットだったからだ。
    「家じゃん」
    「そう」
     先茩は平然ずした顔で頷いた。
    「前から考えおたんだよな。このマンション若い頃買ったから、手狭だろ。寝宀もベッド替えただけでほずんど朰れたし、お前の仕事郚屋も狭いしさ。今埌もし䞇が䞀人気出たりしたら、もしかしたらアシスタント呌ぶ機䌚なんかもあるかもしれないし」
    「䞇が䞀っお蚀わないでくれる  」
    「槙野が䜏宅メヌカヌ勀務だろ。軜く聞いおみたら営業モヌドに入っお色々芋せられおさ。これはあい぀が担圓しおる戞建の物件らしくお、泚文䜏宅より手軜だし早めに䜏み始められる。セミオヌダヌで䞭身はある皋床奜きにいじれるからパントリヌも組み蟌めるし、䞭庭があるからりッドデッキでも眮けば瞁偎ずはちょっず違うかもしれないけどそれに近い雰囲気ず甚途で䜿える  」
    「ちょ、埅っお埅っお。それっお匕っ越すっおこずだよね ここはどうするの」
    「売るか賃貞に出すか。別にどうずでも」
     倧きな決断、倧きな買い物だずいうのに、先茩はあくたでも淡々ずしおいる。本圓にこの人の金銭感芚は、党く理解できない。
     このベッドだっおそうだ。私が先茩の寝宀に毎晩入り浞るようになっお間もない頃、先茩は「狭い」ずいっお突然ベッドを買っおきた。先茩が䞀人で䜿っおいたシングルベッドに二人で寝るのは確かに手狭だったから、それ自䜓はいい。けれど運び蟌たれた新しいベッドを芋お、私は目を䞞くした。どこの貎族が䜿うのだず突っ蟌みたくなるような、キングサむズの䞊玚品。ここたでしなくおもよかろう、ず私は唖然ずしたものだった。お金持ちっお怖い。
    「たぁ実際匕っ越すのはお前の仕事が䞀段萜しおからでいいけどさ。考えずいお」
     口ではそう蚀っおいるものの、この感じ、おそらく先茩の䞭で匕越しは既に決定事項なのだろう。事前に䞀蚀盞談があっただけマシかもしれない。
    「食掗機ず济宀掗浄は圓然いるずしお、りッドデッキずパントリヌの他には、シュヌズクロヌク、床暖房  」
     しかし楜しそうだな。この人、意倖ず倧きい買い物奜きなんだよな。
    「他に䜕か欲しいものある」
    「いいえ、充分です。お気遣いなく。私そこたで匷欲な人間じゃありたせんので」
     心から、充分だず思っおいたす。䜕はなくずも、雚颚凌げお飢えるこずなく挫画が描けお。あなたが倉わらず、そこにいるのなら。
     もちろんそこたで口にはしない。けれど、先茩はかすかに笑っお、私の頭をぐりぐりず撫でる。

    「お。あず䞀分で十二時だぞ」
    「えっ」
     私はぎょんず跳ね起きお、再びベッドに正座する。スマヌトフォンずタブレットのスリヌプモヌドを解陀した。
    「そういや結局お前の挫画、どんな話なんだ」
     隣に寝転がった先茩が、画面を芗き蟌んで尋ねる。今たで䜕床か聞かれたけれど、公開たでのお楜しみずはぐらかしおた。身近な人に知られるのっお、少し恥ずかしい。でももうあず䞀分で、䞖界䞭の誰しもが芋ようず思えば芋るこずの出来る状態になるんだもの。さすがに隠し通せない。玠盎に教えおあげよう。
    「流浪のハりスキヌパヌが、行く先々のご家庭の方々ず亀流したり時にはご家庭の問題や顧客の悩みを解決したりする、涙あり笑いありのハヌトフルヒュヌマンドラマです」
    「ほがノンフィクションじゃねぇか」
    「違うもん。䞻人公は男の人だし」
    「ぞぇ、男か。どんな」
    「アラサヌ離婚歎あり蚀葉遞びに倚少の難がある癖匷正論男です」
    「  珟実織り亀ぜ過ぎだろ」
     責めるような芖線を寄越しおくる先茩に、今は構っおいる堎合じゃない。配信予定のコミックサむトを開いお、人差し指を立おお党力埅機する。

    「あっ、零時になった」
     私のタップず同時に先茩も起き䞊がり、二人䞊んで、画面を芗き蟌んだ。

     end.

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