
何者にもなれなかった私の、創作が終わらなかった話
プロになれると疑ってなかった青い春
残念な中学時代と同人活動
「将来は自分が書いた漫画をアニメ化することです!」
中学生になった最初の自己紹介で、羞恥心皆無でそうのたもうたのは私だ。
夢や目標をすでに持っているといえば聞こえはいいが、ただの夢見がちで妄想癖のある小学生上がりともいえる。
当時は気付いていなかったが、今思い出してみると周囲はドン引きしていたと思う。
いくら最近まで小学生だったとはいえ、中学生になったら多少は現実的に将来を考えるように求められるからだ。
高校受験とかね。
そんな中で堂々と自分の夢を語った私はある意味、勇者だったかもしれない。
なぜならみんなが高校受験に向けての内申点やテスト対策を考えているときに、「どんな漫画を描こうか?」と想像を巡らしていたのだから。
しかも当時は『同人』を知ったばかりだったため、いかにして少ない小遣いの中、同人誌を作って即売会に参加するか、そればかり考えていた気がする。
残念な中学生である。
また中学生ともなれば、恋の一つや二つも経験しそうなものだ。
けれど私が恋したのは二次元だった。
三次元には興味なかった。
非常に残念な中学生である。
まぁ、これもまた青春の1ページに違いはない。
私の人生におけるターニングポイントだったのは間違いからだ。
たとえ大人になってから後悔したとしても、当時の私は純粋に楽しんでいた。
間違いなく『同人』という創作活動を謳歌していた。
未知の世界に足を踏み入れ、それがとてつもなく広大で、かつ自由に。
されども努力を強いられる世界が、なんともいえず向上心を掻き立てられる。
私にとって『同人』との出会いがあったからこそ、今日までの創作活動における原点を作り上げたと言えるかもしれない。
挫折をした漫画投稿
「同人活動をしていれば自然とプロデビューできる」
当時、痛い中学生として確固たる立ち位置にいた私は、漫画雑誌への投稿はまだ考えていなかった。
というのも、毎回コミケで必ず新作を買っていた同人作家さんがプロデビューを果たしていたからだ。
今でこそ「壁サークルの大手だったから出版社の目にとまった」と、そう考えることができるし、そもそもとして、その同人作家さんが本当に面白い漫画を描いてて絵も上手かった。
そして、影で人知れず努力をしていたから、プロデビューができた、と言える。
でも無学でただの中学生だった私には、それを理解することは到底できない。
単純に「同人をやってれば、そのうち漫画家になってるっしょ」と脳天気に考えていたため、それ以降の、本来やるべき努力を怠ってしまったのだ。
ほんと、向上心という言葉を、当時の自分に叩きつけてやりたい。
その間違いに気付いたのは、お恥ずかしながら大人になってからである。
高校と大学の時ももちろんイラストを描いていたが、部活やバイトが忙しくなってしまったというのもあり、活動らしい活動をすることはなかった。
もし本気でプロデビューを目標にしているのであれば、この次期が大事だったはずだ。
頑張っていれば、もしかしたら未来が変わっていたのかもしれない。
ないかもしれないが。
なぜ学生のうちに漫画投稿をするべきと思ったのか?
それは漫画雑誌への投稿にも、年齢制限があることを理解したからに他ならない。
社会人になってからようやく漫画を出版社へ投稿し出すが、私は他の投稿者と比べて明らかに年上だった。
一応、応募要項に年齢制限を設けられてはいないが、私は“育成”という観点から、すでに除外対象であったわけだ。
もちろん、将来性や才能があれば、私の年齢でも拾い上げてもらえる。
しかし、私はそのどちらも持っていなかった。
ただ絵を描ける人。
ストーリーを作れる人。
出版社の目にとまるような異彩を放つ人材ではなく、ただの凡人。
これが、学生の時からの努力を勘違いした人間の、結果である。
いや、才能がないのであれば、妥当な到達点だ。
「話の内容はいいんですが、絵がね……」
投稿した漫画への批評の一部に、私の考えたストーリーに対する一定の評価はしてもらえたものの、肝心の絵が未熟であるという指摘があった。
当時の私の年齢は20代半ばだったと思う。
もし、この年齢ではなく、中学生のあの頃から絵の練習をし続けていたらどうだったのだろうか。
15歳から毎日のようにデッサンをし、絵柄を模索し、ひたすら上達するよう努力を惜しまなかったら、10年後のこの時、どう評価してもらえたのだろうか?
ワンチャン、画力があれば他の道を切り開けたかもしれない。
それが今でも頭によぎる。
ないことを考えても仕方がないが。
SNSでの創作活動
個人ホームページから始まるネット投稿
プロになる道を打ち破られ、私のペンが折れたのか?
答えはノー。
そうならなかったのは、時代のおかげである。
私が高校生になった時、急速にインターネットが普及していって、これまでアナログだけだった世界が電子によって無限に広がりを見せ始めていた。
覚えている人はいるだろうか?
『ファインドアウト』『ファンロード』といった古の文化を。
自分が好きなアニメやマンガ、ゲームといったキャラクターを描いて投稿したり、同士を求めて手紙のやり取りなどができる、要はマンガ・イラスト投稿型の雑誌のことである。
まさに、同人活動をやっている人間のために存在している素晴らしい雑誌だった。
私も何度か投稿し、掲載してもらったことがある。
かつての同人活動は、こういったアナログで他者への発信や交流を図っていた時代だったのだ。
そう、「だった」としている通り、今ではもう過去の話である。
大学生の時、バイトの後輩が自作のホームページを見せてくれたことで、SNSという存在を知った。
自分でイラストやマンガを描くぐらいだ、“自作”というワードを敏感に聞き取った私は、もちろん自分でホームページを作ることに興味を持ち、そこからズブズブとインターネットという大海へ漕ぎ出していくことになる。
当時の自作ホームページは、無料で作れるサイトに登録し、そこのサービスを利用するというのがメインだった。
これは、今のnoteやその他無料ブログといったものとすでに同じである。
利用開始は簡単。
だからこそ、大変な漫画投稿から逃げ、ネットの世界に飛び込んだのかもしれない。
結局のところ、私が”プロ“になれなかったのは、安易に創作活動できる場を求めたゆえなのだ。
当然の成り行きと言える。
自作ホームページ界隈では、横の繋がりが多い。
なんせ自分の興味ある分野で開始したホームページだから、おのずと同様のことをやっている人間と、自然と顔見知りになっていくものだからだ。
これは同人活動となんら変わりはない。
自分が好きなジャンルを制作し、発信しているという点において大差はない。
違う点を上げるとすれば、それはもちろん使い勝手の良さだろう。
アナログ時代は投稿し、掲載をしないことには誰からも見つけてもらえない。
もしくはレターセットを用意し、切手を購入して手紙を書くアクションを起こさないと前に進めない。
しかしインターネットというデジタル時代に突入したら、携帯やパソコンさえあれば誰とでもすぐに繋がることができる。
私の漫画投稿のタイミングが遅くなったのも、こうした時代の変化によるところが大きかったかもしれない。
プロの漫画家になる道を、思いっきり逸れていったからだ。
真新しいことへの興味と好奇心を抑えきれない、若気の至りといえば聞こえはいいが、よそ見をしていたことに違いはない。
だが、もちろん、ここで出会えたものもある。
思い返してみると、創作活動をアナログからデジタルへ移行したことで、私の活動人生は大きな転機を得た。
個人ホームページ作りは、同人活動と同様に非常に楽しいものだった。
HTMLタグを使ったレイアウトはパズルのようで、うまく噛み合って理想通りのページが出来たらすごく嬉しかった。
ある種の達成感もある。
何もないところから自分で築き上げるその様子は、創作となんら変わらない。
だから一つできるようになると、次も挑戦してみたくなる。
個人ホームページを立ち上げたあと、新たに試みてみたのは、自分が描いたイラストをサイトに載せることだった。
もちろん、いくら個人ホームページとはいえ、不特定多数の人に自分のイラストを見られることへの恐怖はあった。
当時から一応ネットリテラシーというものを自然と身につけていたことで、晒されたり、誹謗中傷への不安が多少なりともあったからだ。
携帯から始まった小説投稿
そういうこともあり、大手が作ったコミュニティサイトへの参加はかなり時間がかかった。
今でこそ平気でSNSを利用している私だが、当時はインターネットという大海へ漕ぎ出したばかり。
個人ホームページという、井の中の蛙状態だった私が果たして外部サイトの荒波に耐えることができるだろうか? と。
しかし、恐怖よりも好奇心が勝ったのだ。
きっかけは『携帯小説』である。
かつて『携帯小説』ブームがあったことを、『ファインドアウト』と同様、どれくらいの人が覚えているだろう。
今でこそ小説投稿サイトはその存在を知られているが、実は当時から気軽に個人が小説を投稿できるサイトがあったのだ。
そういう創作系の流行を見過ごさなかったのは、私自身が創作活動をしている人間だったからだろう。
「『携帯小説』に、私もチャレンジしてみたい!」
ストーリーを考えることにおいて、漫画だけでなく小説でも可能である。
しかも当時の『携帯小説』は、誰でも気楽に投稿できる土台がすでに出来ていたため、私が漫画やイラストのみならず、小説の世界にまで足を踏み入れるのに躊躇いはなかった。
漫画だとプロットやネーム、下書き、ペン入れといった数々の工程を踏まないと作品として完成しないが、小説ならば文章だけで勝負することができる。
その点の打算もあったのは間違いない。
なんせ普段から頭の中は妄想であふれかえっているのだ。
効率よく吐き出していくためにも、小説への挑戦は私にとって必然であり、不可欠だった。
そうして初めて書いた小説が、現在Talesでも読める『先輩!!』というわけだ。
そしてこれが、私が個人ホームページからSNSへと活動の場を広げるきっかけにもなった。
SNSで小説を連載していると、創作活動メインのコミュニティサークル参加へのお誘いを受けたりする。
そこでは私と同じように小説を書いている人が集っており、意見や情報交換など、日々やり取りされていた。
当時の私はSNSに出たばかりで右も左もわからなかったため、最初はみんなに着いて行くのがやっと。
でも頑張ってコミュニティサークルに参加したのは、創作活動に関して話せる相手が欲しかったからである。
そのため、積極的にコミュニケーションをとっていった。
コミュ障であるのにも関わらずに、だ。
我ながらよく行動に起こせたと思うが、前述したとおり、創作活動の話を誰かとしたかったから頑張れたのがある。
なんせ創作活動は孤独な作業であるため、ふと寂しさを覚える時があった。
だから同じ人と繋がり、自分は一人ではないと感じたかったのかもしれない。
リアルで創作活動の話ができる人間は、かなり稀少だったためだ。
だからよけいにSNSで、仲間を求めていたのもある。
文師と絵師
SNSでの創作活動は、最初は『文師』として行っていた。
ちなみに『文師』というのは、当時そのSNSサイト内で『小説を書いている人』として使用されていた言葉だ。
逆にイラストを描いてる人間は『絵師』と呼ばれていた。
『絵師』の反対として『文師』だったのか。
今ではその語源を確かめることは出来ないが、おおよそ当たっていると思う。
文でも絵でも、それぞれで活動している人間の呼称はかなりあるため、呼称を一つ固定されればそこはさすがSNS、瞬く間にその呼称がメインで使われていく。
私も当初は小説をメインに活動していたこともあり、その場では『文師』としてしばらく振る舞っていた。
だがその仮面は早々に『絵師』になる。
途中で気付いたのだが、『小説に載せるイラストが欲しい』という『文師』が多いということ。
イラストが描ける人間を見つけると、こぞって『文師』たちが群がる。
こう書いてしまうのは、私がもともと『絵師』だからだろう。
イラストを投稿した人に対してのコメントが、「描いてください!」一色なのを見かけた時は恐怖を覚えた。
そのため、私がイラストを描けることを表にすることは、すぐにはなかった。
『文師』たちからの反応が怖かったというのもあるが、単純に私程度のイラストは通用しないとも思っていたためだ。
しかし、人間魔が差すこともある。
「そこまでイラストが求められているのであれば、私が描いたイラストはどう評価してもらえるだろう?」
と、承認欲求がうずいてしまった。
結果として、そのSNSサイトで私は『絵師』という立場を確立することになった。
想像していたより、私が描いたイラストは“見れる”ものだったらしい。
多くの人から「上手い」と褒められ、「ぜひ、描いてほしい」と言ってもらえた。
でも自分のイラストを褒められると同時に、私の中で苛立ちも起きた。
なぜなら、最初は『文師』として活動していたからだ。
絵は見られるけど、文は見てもらえない。
その落差が現実的過ぎてショックを受けた。
勉強不足はもちろん、重々承知している。
私の書いた小説が、読むに値しないものだった、それは未熟であるとして受け止めるべきもの。
だが、小説もがんばって書いているのに、イラストだけ見られる。
当然だ。
求められているのは面白い小説ではなく、無償提供してもらえそうなイラストだったのだから。
当時はイラストを描ける人間の立場は非常に弱かった。
「描けない人のために、描ける人間が提供するのが義務である」と、搾取したい側の都合いい主張がまかり通っていたためである。
だがそれももう過去の話。
現在では『絵師』の主張と権利がハッキリしている。
しかし当時の『絵師』への扱いがあまりにも酷すぎて、SNSにおける私の創作活動を考えざるをえなくなったのは間違いない。
SNSでの創作活動は、私にとって“自分は一体何者なのか”を経験させてくれた場だったと思う。
それは決してプロだとかアマチュアだとかの話ではなく、“自分がどういう創作活動家なのか”ということを、向き合わせてくれたものだった。
そう、私は一丁前にプロ意識だけはあったのだ。
何者でもないにも関わらず。
創作活動ができない
出産による自分時間の喪失
最初のSNSでの創作活動を経て、サークルを抜け、私は個人活動を再開させた。
投稿先はあいかわらずSNS。
しかも一つだけではなく、複数のサイトを跨ぐという拡大をみせたが、この時は誰かと創作活動について話すのではなく、少しでも自分の作品を多く作ることに集中していた。
というのも、前述の『絵師』でほとほと嫌気が指したというのもある。
もちろん有意義な交流もたくさんあり、他者のかけがえのない作品に出会えたりもしたが、『文師』とはもう関わりたくなかったのが大きい。
自然と足が遠ざかっていってしまったのは、仕方がなかったのか無責任だったのか。
それは今でも迷うところであるが、交流の代わりに自分の時間が増えたのは確かだった。
「さぁ、また自分の作品をどんどん作っていくぞ!」
そう思っていた矢先に、私の妊娠が発覚した。
待望の第一子だ。
半年ほどで産休に入り、出産の準備をするかたわら、創作活動はその後も続けていく。
時間をもてあましていたため、ギリギリまでイラストを描いていたのは、私が根っからの創作好きになってたからだろう。
しかし、出産してから状況は一変する。
我が子の世話でいっぱいいっぱいになってしまい、創作する時間はほぼゼロ。
2~3時間おきの授乳はもとより、着替えやオムツ換え、掃除、洗濯、食事の支度など、自分のことはそっちのけで育児と家事に奔走する日々が始まった。
始めはそれでもまったく苦ではなかったものの、子どもがある程度大きくなってくると、輪をかけて手がかかるようになり、次第にストレスが溜まっていったのは私だけじゃないと思いたい。
確かに我が子は可愛いが、年がら年中「あー! あー!」とせがまれ続けられるのはきついものがある。
自分の時間というより、自分の思考を根こそぎ子どもに持っていかれてしまう。
それは、自分のことを考えることすら出来なくなってしまうということ。
いくら親であっても、自分を顧みないで生きていくことは、決して耐えられるものではなかったのだ。
だから休みが必要ということで、なにがなんでも創作活動を再開させようと試みた。
創作活動をすることが唯一、私にとって没入できる時間であり、また、息抜きでもあったからだ。
でもなんの因果か、そう簡単に創作活動をすることができなかった。
なぜなら、子どものアトピーがひどかったからである。
それはもうひどかった。
どのくらいひどいのかといえば、ほぼ全身がケロイド状態だった。
同時にアレルギーもあり、通常の育児にプラスして、子どものケアをする必要があった。
この時すでに育休期間も終わって職場に復帰していたこともあり、私の自分の時間はますますなくなっていた。
皮膚科で処方された外用薬を子どもに塗ってあげたあと、包帯を巻いて保護してあげる。
その後キッチンに立ち、子どもが食べられる食材を下ごしらえをして、翌日の保育所へ持っていく弁当を用意する。
それの繰り返しの日々。
創作はおろか、休んでいる暇もなかった。
創作について考えることすら、当時はできる状態ではなかった。
病気の発覚
さらに追い打ちをかけたのが、私も病気になってしまったことだ。
『脊髄腫瘍』という脳腫瘍よりも発症率が低く、あまり聞き覚えのない病気である。
私の場合は歩行障害などの神経症状がもろに出ており、杖を用いても、だんだんと足に力が入らなくなる。
しまいにはそのまま転んで立てなくなってしまうほど、症状を悪化させてしまっていた。
運が良かったのは、この病気で本格的に歩けなくなる前に、子どものアトピーが良くなっていったことだ。
足を引きずりながら子どもを皮膚科へ連れて行ったりしたが、限界を迎える前に改善できたのは大きかった。
不幸中の幸いである。
まぁ正直、ここに至るまでがとうに限界で、異常事態ではあるが。
見かねた実家の母がいろいろと手を貸してくれたが、旦那方家族は知らぬフリだったのを今でも忘れてはいない。
よくもまぁ、足を引きずっている嫁に天ぷらを揚げさせようとしたり、あちこち歩き回る旅行を組んでくれたものだ。
この借りはもちろん、あとで返させてもらった。
病気を盾にし、思う存分創作をするという口実を得る形で。
転んでも、ただでは起きない。
“何者”にもなれなかった私が、創作をやり続けた結果
手帳との出会いで全てが変わる
それまでの私は、本当の意味で自分のことを考えていなかったと思う。
中学の頃の同人活動しかり、初めてのSNSでの創作活動しかり、投稿漫画しかり。
真面目に、真摯に、自分とちゃんと向き合ってきていなかった。
そう気付いたのは、病気が発覚する前に本屋で偶然目にした、『手帳』に関する雑誌を興味本位で購入したことにある。
イラストや文章は集中する時間を持てずにいたため、なかなかやれずにいたが、『手帳』は生活に直結できるものだ。
当時の私は『手帳』といえばスケジュール管理しか思いつかなかったのだが、その雑誌に掲載されているさまざまな『手帳』の使い方を知り、目からうろこが落ちた。
日記、デイリーログ、ハビットトラッカー、読書ログ、子育てログ、コラージュ、手帳デコなどなど。
ひとえに『手帳』と言っても、書く内容はスケジュールだけではない。
なんでも書くことができる。
それこそ、自分の心の奥にあるものも書き出せる。
イラストや小説は書けないが、自分のことは書ける。
創作がうまくできない中で、まさに、新たに開かれた道であり、世界だった。
『脊髄腫瘍』の手術後、私は創作活動を再開させるよりも前に、まずは『手帳』によって自分の現状を把握し、ライフスタイルを整えることから始めた。
手術は成功したが、症状を悪化させてしまったせいで後遺症が残ったためだ。
もう無理することはできない。
人間、そんな状況に陥ることでようやく自分と向き合うらしい。
私も例にもれなく、これまである意味蔑ろにしていた自分の生き方を真っ正面から見つめ直すことで、“自分”という人間を改めて知ることができた。
それは私が、本当に創作が好きらしい、ということ。
前述したとおり、どんな時でも創作が私の中から消えなかったことにある。
たとえ育児が大変でも、病気になったとしても、「いかにして創作をやることができるか?」を常に考えていた。
それこそ、『文師』との関わりの中で一時は筆を折りかけたこともあったが、結局まだ創作をやろうとしている。
つまりは、私の人生そのものが創作無くして語れないのだ。
理由なんてない。
ただ創作活動が好き。
それだけだ。
そのことを『手帳』を使って、見つけることができたのである。
私は“何者”でもなく、ただの“クリエイター”
ここで気がかりなのが、ずっと創作活動をし続けても、未だに私は“プロ”になっていないということだ。
厳密にはまったく仕事がなかったわけではない。
企業から依頼されたイラストと漫画案件を、いくつかこなしたことがある。
個人でも、イラストの注文を受けたことが何度もあった。
しかしそれだけで、私は“何者”でもない。
ただのパート勤務の主婦で、一児の母で、妻であるという肩書きしかない。
SNSで見かけるイラストレーターや漫画家と名乗るほどの依頼をこなせてはいないし、小説が書籍化されたわけでもない。
そもそも創作で生計を立てるまでに至っていない。
ただの創作好きが高じた一般人である。
そこが妙に引っかかってしまった。
創作活動はしているが、果たして私は一体“何者”なのか?
その疑問に対する回答は、『手帳』を通じて始めたYouTubeによる動画投稿だった。
そう、『個人ホームページ』や『携帯小説』の時と同様に、“今”流行の動画投稿にも目覚めてしまったわけだ。
あれが駄目ならこれをやる、という軌道修正ではない。
単純に面白そうだから始めてしまった。
それだけである。
「物事を一から作っていくって……どれだけ好きなんだよ」
「大変な作業を嬉々としてやるとか……変態か」
と、自分でも呆れてしまうが、面白そうだし、実際やってみて楽しいのだから仕方がない。
なんなら今では、noteでこうしてエッセイまで書きだしている。
真性の創作好きと自負して構わないだろう。
それだけなら断言できる。
つまりは“クリエイター”。
そう、私は“クリエイター”なのだ。
私自身が“何者”かではなく、“何かを生み出せし者”という意味で。
中二病か。
中二病だ。
この歳でその病に再びかかるとは思いもしなかった。
だけど“クリエイター”という言葉なら、すごくしっくりきている。
べつに創作で生計を立てられているわけではないが、実際にいろいろ制作しているのだから“クリエイター”として名乗ることは許してもらいたい。
「お前、なんでもいろいろやってんなぁ~」
「姉ちゃんはマルチでやっているよね」
友人と妹からのお言葉である。
私に近しい人間だが、クリエイティブとは縁の遠い人たちからすると、私はそう見えているらしい。
確かにイラストが描け、漫画が描け、小説も書いたことがあり、個人ホームページを作成できるし、動画編集もできる。
ここにくるまで紆余曲折あったものの、その過程で作れるものが増えていった。
それらは間違いなく私が得たものであり、これからの創作活動に役立てられるものでもある。
かつて私は、“プロ”にならなければ“何者”にもなれない、と思っていた。
しかし、今の世の中は“プロ”になれなくても、自分の創作物を他人に見せることが簡単にできる。
それはつまり、誰でも“何者”かになれるということ。
自称でもいいじゃないか。
こういうのは言ったもん勝ちであり、やれたもん勝ち。
できたもん勝ちである。
ならば、とことん楽しむまでである。
だが、手広くやり過ぎるのも考えものだったりする。
現に私の場合、体がいくつあっても足りていない。
それぞれの更新が滞りがちなのは、さすがに危機感がやばい。
影分身や、ドッペルゲンガーを作る方法が、どこかにないだろうか。
うん、これは現実逃避だ。
ひとまずこのエッセイを書き終わったら、次の制作に入る。
私は“クリエイター”だから。