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【創作大賞2026応募作品】届かなかった言葉 ――祖母を探し続けた日々――

    「自己紹介

    で書いた『あの頃』の、私とおばあちゃんの物語です。あの激動の転機の中で、私がどうしても見つけたかった、大切な人との記憶を綴りました。」

    第一章 祖父母の家

    ​祖母が亡くなったことを知ったのは、一年以上経ってからだった。
    私は何も知らなかった。最期に会うことも、葬儀に参列することもできなかった。祖母がどこで眠っているのかさえ分からなかった。
    ​それでも私は祖母を探した。会いたかったからだ。ただ、もう一度だけ。
    「みーちゃん」
    そう呼んでくれた祖母に会いたかった。
    ​私が生まれ育ったのは、北関東南部の田畑に囲まれた小さな集落だった。春になれば麦畑が風に揺れ、夏には青々とした田んぼがどこまでも続く。冬になると遠くの山々から吹き下ろす冷たい風が頬を刺した。その風景にはいつも祖父母がいた。母方の祖父母、両親、弟、妹、そして私。七人で暮らす家は決して裕福では無かったが、幼い私には十分すぎる程、賑やかだった。
    ​祖母は朝が早い人だった。まだ空が白み始める頃になると、毎朝、「みーちゃん、散歩行くよ」と優しく声を掛けてくれた。雨の日も長靴を履いて傘をさして出かけた。眠い目を擦りながら外へ出ると、朝露に濡れた草の匂いがした。祖母は道端に咲く花や草の名前を一つ一つ教えてくれた。祖母と手を繋いで歩く農道は特別だった。祖母の手は少しゴツゴツしていたが、温かかった。近所の人に会うと祖母は誇らしげに「みーちゃんと散歩してるんだよ」と自慢した。その笑顔を見るのが私は好きだった。
    ​私は祖父にもとても可愛がられて育った。祖父は日曜大工が好きで、鉄棒が苦手だった私の為に、庭に鉄棒を作ってくれた。夏になると色々な夏祭りにも連れて行ってくれた。金魚すくいで一匹も取れない私に「大丈夫だ。じいちゃんがいるから」と言って手を引いてくれた。失敗しても叱らない。祖父は私にとって、大きな木のような安心できる存在だった。
    ​買い物へ行く時は祖母の自転車の後ろの荷台に乗せてもらった。祖母の背中にしっかり捕まりながら、ガタガタと揺れる道を走る。祖母は「好きなの一つだけ選びな」と言ってくれた。私は後ろの荷台で揺られながら空を見上げた。祖母の背中にしがみつきながら見る空は、いつも少し広く見えた。
    ​そんな穏やかな日々の中で弟が生まれた。私は姉になったことが誇らしく、どこへ行くにも一緒だった。弟は私にとって大切な宝物だった。
    ​あの日のことは、幼かった私の記憶にも不思議な位残っている。夕方、歩行器に乗った弟が、近くに置いてあった急須へ手を伸ばした。次の瞬間、急須が倒れて熱湯が一気に飛び散った。私の左足に焼けるような痛みが走った。家の中は大騒ぎになったが、偶然近所に住んでいた看護師さんがすぐに処置をしてくださった。大人になり、自分も看護師になった今ならわかる。あの日あの方がいてくださったのは奇跡に近かった。
    ​火傷の傷は長い間残ったが、私はその後も弟の側にいた。この時の私はまだ知らなかった。数年後、その弟がもっと大きな病と闘う事になる事を。

    ​第二章 祖父母の家を離れた日

    ​弟が白血病と診断されたのは、三歳の頃だった。きっかけは下がらない高熱だった。
    家の空気が重くなり、母は台所で泣いていた。弟が入院してからの日々は一変した。母が病院へ向かう日は、車が見えなくなるまで見送った。家に戻ると、私は双眼鏡を持ち出して病院がある方向を何度も覗いた。それ程、弟の事が大好きだった。
    ​私は祖父母と過ごす時間が増えた。学校から帰ると祖母が台所に立っており、遠足には大好きな青のり入りの卵焼きを作ってくれた。祖父母は「みーちゃんは、じいちゃんとばあちゃんの子だと思って育てているんだよ」と言ってくれた。
    ​祖母は弟の病気を治したい一心で、自分の貴金属まで手放した。お稲荷さんを祀り、霊媒師に相談してお祓いも受けた。私も寝る間を惜しんで千羽鶴を折った。家族は適合者を探し、唯一私だけが適合した。しかし、移植の日を迎える前に、弟の病気は進んでしまった。
    ​平成四年一月十四日。夜中に母からの電話で起こされた。祖父の車で病院へ向かう車内は重い空気が流れていた。病室へ入った瞬間、私は目の前の光景に息を呑んだ。弟は沢山の機械に囲まれ、必死に呼吸をしていた。母が泣き叫び、機械の音が変わった。
    私の大好きだった宝物の弟は、七歳というあまりにも短い人生で旅立って行った。
    ​弟が亡くなってから、家の中は変わってしまった。特に祖母は毎日お墓へ通う一方、昼間に寝込んだり、慣れないパチンコへ通うようになった。母と祖母の口論も増え、私が小学五年生になる頃、両親は祖父母の家を出て狭いアパートへ引っ越す事を決めた。帰る場所を失う寂しさに、私は車の窓から小さくなっていく家を見つめていた。
    ​新しいアパートでの生活は辛かった。母の苦しみの矛先はなぜか私に向かい、私だけが叱られ、我慢させられる場面が増えた。学校では友達の前で頑張って笑顔を作ったが、家にも学校にも自分の居場所が無い様な気がした。さらに父がギャンブルで七百万円の借金を抱え、夜中に闇金が家の戸を叩く音に震える夜もあった。
    ​最終的に借金を返済したのは父方の祖父母だった。その代わり、年末に帰省した長野の祖父母の家で、私は早朝から冷たい水で家中の拭き掃除をさせられた。他の親戚の子どもたちが眠る中、「なぜ私だけなのだろう」という疑問を抱きつつも、私が我慢すれば良いのだと自分を納得させていた。
    ​高校受験が近づく頃、「自分で生きて行ける力が欲しい」という気持ちは年々強くなっていった。私は母の反対を押し切り、「看護師になりたい」という強い意志で看護学校を受験し、合格した。「漸く自分の人生を歩き始められる」そんな気持ちだった。

    ​第三章 自分の人生を歩き始める

    ​看護学校を卒業し、私は看護師として手術室へ配属された。初めて患者さんの最期に立ち会った時、病院の廊下で泣き崩れる家族の姿を見て、弟を亡くした日の事が一気に巻き戻された。看護師になったからといって悲しみに慣れる事はなかったが、弟を失った経験があるからこそ、苦しんでいる人の気持ちに寄り添えるのだと思えるようになった。
    ​そんな頃、海外赴任中の父から国際電話が入り、四十歳を過ぎた母の中絶手術に付き添うよう言われた。命が失われる現場を知っていた私は複雑な思いを抱えながらも、ただ黙って付き添った。さらに、東京の大学を中退すると言い出した妹の説得や、その後の金銭的援助も私に委ねられた。気付けば私は、家族の問題をすべて自分の問題として背負い込み、息が詰まりそうになっていた。
    ​そんな時に主人と出会った。主人は、私の家庭環境ではなく私自身を見てくれた。誰かの期待に応え続けなくてもよいと思えたのは、主人が初めてだった。
    ​結婚を決意した際、両親へ「結婚します」と電話で報告した。しかし、出た母は開口一番「あんたなんか結婚に向いていない」と言い放ち、さらに私を脅すような口調で呼び出そうとした。恐怖で身体が固まり、涙があふれて受話器を主人に渡した。主人はただ私の背中をさすり続けてくれた。
    ​その温かさに触れた時、私は初めて「一人で戦わなくてもいいのかもしれない」と思った。弟の死も、父の借金も、私が背負うべきものではなかった。「私は私の人生を生きていい」と思えた時、目の前に続く道がようやく見えた。結婚後、長男が生まれた。守るべき存在ができた事で、私の人生は少しずつ変わり始めていた。

    ​第四章 届かなかった言葉

    ​東日本大震災の後、私たちは主人の実家の敷地内にある家へ引っ越した。その頃、私は娘を妊娠していた。
    ​そんな折、伯父から一通の手紙が届いた。そこには父方の祖母が亡くなった事と、私を「親不孝者」「裏切り者」と責める言葉が並んでいた。両親の連絡を無視して葬儀に来なかったという誤解だったが、私は危篤も葬儀も何も知らされていなかった。反論しても新たな争いになるだけだと思い、私は悔しさを飲み込んで手紙をしまった。
    ​やがて娘が生まれた。息子は妹の誕生を誰よりも喜び、側を離れようとしなかった。その姿は、私が欲しかった温かい家族の風景そのものだった。
    ​その後、義両親との関係に小さな誤解が積み重なり、将来の二世帯住宅の計画は立ち消えになった。私は人間関係の難しさを痛感しながらも、主人と話し合い、自分たちの家を建てる決意をした。今度こそ、家族が安心して帰って来られる場所を作りたかった。
    ​自分たちの家を建てて半年ほどが過ぎた五月のある日。子どもたちに鯉のぼりを見せたくて、生まれ育った祖父母の家の近所にある公園へ向かった。その時、突然激しい胸騒ぎがして、近くにある弟のお墓へと向かった。
    ​そこには、前年の八月に亡くなったという祖父の名前が新たに刻まれていた。頭が真っ白になった。私は何も知らされていなかったのだ。後でおばあちゃんと再会してから知ったが、母たちは何度連絡しても葬儀に来なかったらしい。私は祖父の墓石を見つめながら、あの日感じた胸騒ぎは、祖父が私に宛てて知らせてくれたのではないかと思えてならなかった。

    ​第五章 もう一度おばあちゃんに会えた日

    ​娘が五歳になる頃、ママ友に誘われて始めたバレエ教室をきっかけに、私が高校生まで習っていたピアノの先生の御実家と不思議な縁で繋がった。
    何十年ぶりかに再会したピアノの先生は、私を見るなり「おばあちゃんがね、みーちゃんに会いたがっているよ」と教えてくれた。
    ​会いたかった。けれど、結婚の際、事実ではない噂を信じた祖父母に反対されて以来、疎遠になっていたため足がすくんだ。しかし勇気を出して、久しぶりに祖母の家へ向かった。
    ​庭で作業をしていた祖母は、私に気づくとあの懐かしい笑顔になり、「ずっと会いたかったんだよ。あの時は反対しちゃってごめんね。ずっと謝りたかった……」と言ってくれた。ずっと心の奥に刺さっていた棘が抜けていく気がした。「私もずっと、おばあちゃんに会いたかったんだよ」と、声が震えた。
    ​祖母は私をお茶で迎えてくれ、「みーちゃんが小学生の時にこの家を出てからも、ずっと心配していたんだよ。幸せそうで安心した」と何度も頷いてくれた。後日、祖母は主人にも直接謝ってくれ、長い間感じていた心の重さが少し軽くなった。
    ​帰り際、祖母は何度も「また来てね」と手を振った。失われた時間は戻らないけれど、あの日の祖母の笑顔は、私の心に残り続けている。

    ​第六章 取り戻した時間

    ​祖母と再会してからの日々は穏やかだった。可能な限り毎週のように顔を合わせ、子どもたちも祖母を「ばあちゃん」と慕った。祖母はひ孫たちの顔を見るたびに目を細め、近くのコンビニへ連れて行ってはお菓子を買ってくれた。
    ​娘には「小さい頃のみーちゃんにそっくりだよ。〇〇が結婚するまで、ばあちゃん頑張るからね」と笑っていた。私は「おばあちゃんなら百歳まで生きるよ」と笑って返した。本気でそう思っていた。
    ​祖母は一人で畑を耕し、祖父と弟のお墓へ毎日欠かさずお参りしていた。土に触れることが好きだった祖母の手は、いつも少し黒かった。「今年は良くできたよ」と収穫した季節の野菜を持たせてくれることもあった。一人暮らしではあったが、近所の人たちとの交流もあり、決して孤独ではなかった。
    ​会いたい時に会えること。話したい時に話せること。それがどれほど幸せなことなのか、当時の私はまだ知らなかった。取り戻した時間が、永遠に続くものだと信じていた。

    ​第七章 違和感の始まり

    ​令和七年の正月過ぎ、祖母から突然かかってきた電話に出た。しかし、受話器から聞こえてきたのは、私の知っている優しい祖母の声ではなかった。
    「みーちゃんは、ウチに来ると、ばあちゃんの物を色々勝手に盗んで行くから、もう……ウチには来るな!」
    身に覚えのない話だった。反論する隙も与えず、祖母は激しい口調でさらに続けた。
    「ばあちゃんに何かあっても、みーちゃんには頼まないから。山形が面倒見てくれるって言ってるから大丈夫だから」
    一方的に電話は切れた。
    ​看護師として多くの患者さんを見てきた今の私なら、それが認知症の初期症状である『物取られ妄想』の一種かもしれないと冷静に気づけただろう。けれどあの時の私は、ただの一人の孫だった。いつも味方だった祖母からの突然の拒絶に恐ろしいほどのショックを受け、「来るな」という強い言葉が胸に深く刺さり、私は祖母の家へ行くことができなくなってしまった。
    ​連絡も取れずに数ヶ月が過ぎた、令和七年五月二十九日のことだった。
    仕事を終えてスーパーの駐車場に車を停めると、携帯が鳴った。相手は祖母の住む地域の民生委員の方だった。
    「先月、おばあちゃんが、近所の〇〇さんのお宅へ行った時に突然倒れたみたいで……。〇〇ちゃんの写真を持って訪ねて行ったみたいなんだけどね、救急車で運ばれた後、どこの病院へ行ったのか分からないんだよ……」
    ​私は言葉を失った。私を拒絶したはずの祖母が、私の写真を持って歩いていた。そして、誰も付き添わない救急車で運ばれ、どこの病院にいるかも分からない。釈然としない暗い引っかかりが、私の胸の奥底に澱のように溜まっていった。

    ​第八章 真実との再会

    ​それから、何一つ新しい情報がないまま一年以上の時間が過ぎて行った。
    そして、令和八年四月。私は娘を通じてピアノの先生に祖母の事を尋ねてもらった。先生は祖母の家を見に行ってくれたが、娘から聞いた話に胸が激しくザワついた。
    庭は草が生い茂り、畑も荒れ、家の中には布団が敷きっぱなしのまま、祖母の気配だけが完全に消えていたという。
    ​「このままではいけない」
    そう思った私は、令和八年五月十五日、意を決して役場へ向かい、祖母の戸籍を確認した。
    受け取った書類を恐る恐る開いた瞬間、息が止まった。祖母の戸籍謄本は、除籍謄本になっていた。
    「令和七年四月十八日死亡」
    ​祖母は亡くなっていた。それも、一年以上前に。民生委員さんから電話をもらったあの令和七年五月の時点で、おばあちゃんはもう、この世にいなかったのだ。
    ​おばあちゃん、あの最後の電話は、認知症のせいで心が苦しくなっていただけだったんだね。看護師でありながら、なぜあの時、そのSOSの可能性に気づいてあげられなかったのだろう。実の孫としてのショックに目を奪われ、おばあちゃんの脳と身体の悲鳴に気づけなかった自分が、悔しくてならなかった。
    ​私は祖母が今どこにいるのか知りたくて、市役所へ問い合わせた。少しずつ真実が見えてきた。
    おばあちゃんが言っていた「山形」とは、おばあちゃんの生まれ故郷のことだった。あの最後の電話で「山形が面倒見てくれる」と叫んでいたのは、誰の力も借りられなくなったおばあちゃんが、認知症の霧の中で、最後に縋ろうとした心の拠り所(故郷)だったのかもしれない。
    ​救急車の中でたった一人だったおばあちゃんは、そのまま誰にも看取られることなく寂しく息を引き取り、令和七年四月二十二日に火葬され、今はある共同墓地で眠っているのだという。
    ​祖母は生前、毎日のように祖父と弟のお墓へ通っていた。それなのに、祖母自身は別の場所で眠っている。
    「じいちゃんと弟のところへ、行きたかっただろうに……」
    その現実はあまりにも切なく、私は再び涙した。けれど同時に、祖母の居場所が分かったという一つの救いもあった。会いに行く事ができる場所が、ようやく見つかったのだ。

    ​第九章 辿り着いた場所

    ​お墓参りの当日、午前中に祖父と弟が眠っているお墓に「おばあちゃんに会って来るね」と報告してから、午後に祖母がいるお寺へ向かった。
    ​ピアノの先生と一緒に、祖母の眠る共同墓地(無縁仏)へ着いた。住職さんは「間違いなくおばあちゃんはここの墓地にいます。いつでも会いに来てください」と静かに仰ってくださった。
    どこに骨が埋まっているのか、その在処を探したが、合祀されているため見つからなかった。私は苦しさと愛おしさが混ざり合い、お墓の前で泣き崩れた。
    皆でお線香をあげ、手を合わせた。
    「やっと会いに来られたよ。今まで、本当にありがとう」
    ​私たちは、祖母を祖父や弟と同じお墓に入れる方法はないのかと住職さんに尋ねた。
    「骨はもう残っていません。名前を刻む方法はありますが、お孫さんが背負う事ではないと思いますよ」
    住職さんの言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。骨さえ、もう残っていなかったのだ。
    ​生前、祖母は「みーちゃんには、迷惑かけないようにするから」と言っていた。もしかしたらこうなる事も承知していたのかもしれない。そう思った時、不思議と心が軽くなった。「ここへ来れば、誰の目も気にせずおばあちゃんに会えるんだ。おばあちゃんがそうしてくれたんだ」と思えた。
    ​帰る時、祖母はいつも私たちの車が見えなくなるまで手を振って見送ってくれていた。いつも、私が見えなくなる最後の瞬間まで見届けてくれていたのだ。
    ​祖母と会えない期間は何年もあった。それでも会う度に、祖母は言葉よりもその生き方で多くの事を教えてくれた。そして私は、その背中から沢山の愛を受け取っていた。
    ​もう会う事はできない。それでも祖母はこれからも、私の人生を静かに照らし続けてくれるのだろう。
    私は空を見上げた。梅雨の晴れ間の青空がどこまでも広がっていた。その向こうで、おばあちゃんが笑っている気がした。
    ​もう、おばあちゃんを探さなくていい。
    おばあちゃんはずっと、私の心の中にいたのだから。


    ​あとがき

    ​私は祖母の死を知った時、祖母との思い出を書き残したいと思いました。けれど書き進めるうちに、自分自身の人生を振り返る時間にもなりました。
    弟の死、家族との葛藤、看護師になったこと、結婚し母になったこと、そして祖母との再会と別れ。振り返れば苦しいこともありましたが、そのどの場面にも祖母から受け取った確かな愛情がありました。
    ​祖母から受け取った優しさを、今度は私が子どもたちへ繋いでいきたい。祖母はもういませんが、私に残してくれたものは今も私の中で生き続けています。
    おばあちゃん、私をずっと愛してくれてありがとう。おばあちゃんが育ててくれた私として、私はこれからも、前を向いて生きていきます。


    ​エピローグ ――受け継がれていくもの――

    ​祖母は特別な言葉を多く語る人ではなかった。けれど、どんなに辛いことがあっても働くこと、家族を大切にすること、人を恨み続けないこと。その生き方そのものが私への教えだった。
    ​人生には、どうしても届かない言葉がある。誤解されたまま終わることも、会いたい人に会えなくなる日もある。けれど、それでも人は生きていく。受け取った愛を抱きながら。
    ​おばあちゃん。私を育ててくれてありがとう。あなたが守ってくれた命は、今もここにあります。そして、その愛はこれからも私の家族へ受け継がれていきます。
    ​空を見上げる。北関東の広い空は、子どもの頃と変わらない。風が吹き、畑の匂いがする。その風の向こうで、祖父と弟と一緒に、おばあちゃんが笑っている気がした。
    「みーちゃん」
    そんな声が聞こえた気がして、私は少しだけ笑った。
    ​(おわり)


    「最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。もしよろしければ、あなたとおばあちゃん(ご家族)との思い出や、読んで感じたことを一言だけでもコメント欄で教えていただけたら、とても励みになります」

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

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