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ご先祖様社会見学――エピソード1 細川家の扉


    ※この物語は、夢の記憶と史実をもとにした創作です。登場人物名は一部変更しています。


    ご先祖様社会見学

    エピソード1 細川家の扉

    ※この物語は、夢の記憶と史実をもとにした創作です。登場人物名は一部変更しています。


    人には、誰しもご先祖様がいる

    人には、誰しもご先祖様がいます。

    父がいて、母がいて、そのまた父と母がいて。
    1代、2代、3代とさかのぼっていくうちに、その数は静かに、しかし驚くほど大きくふくらんでいきます。

    10代さかのぼれば、理論上は1,024人。
    20代さかのぼれば、1,048,576人。
    30代さかのぼれば、1,073,741,824人。

    もちろん、実際の家系では同じ人が重なることもあるので、単純にこの人数になるわけではありません。
    それでも、何代もさかのぼれば、そこには想像もできないほど多くの人の人生があります。

    名を残した人もいたでしょう。
    名もなき村人として、土を耕した人もいたでしょう。
    刀を握った人。
    船に乗った人。
    商いをした人。
    祈った人。
    逃げた人。
    守った人。

    そして誰にも知られず、ただ懸命に生きた人もいたはずです。

    さて、今宵の案内人は、霊能者しょうさん。

    浅草の主催者さんが開いた、少し不思議な企画。
    それは、参加者のご先祖様を1代ずつたどり、その先にいる誰かに、そっと打診してみるというものでした。

    「あなたの子孫が、あなたの時代を見に行ってもよろしいですか」

    受け入れられた者だけが、そのご先祖様の暮らしを、仕事を、時代を、まるで社会見学のようにのぞくことができる。

    現実ではない。
    けれど、嘘でもない。

    しょうさんのご先祖様社会見学は、いつもその境目から始まります。

    今夜、扉が開くのは、誰の家系でしょうか。

    それでは、ご先祖様の世界へ。
    ほんの少しだけ、足を踏み入れてみることにいたしましょう。


    2つの扉

    私、大山塞膳の場合、しょうさんが最初に立ち止まったのは、8代前でした。

    しょうさんは、目を閉じるようにして、私のご先祖様を1代ずつたどっていきました。

    1代前。
    2代前。
    3代前。

    その声は静かで、まるで古い井戸の底へ石を落とし、その音が返ってくるのを待っているようでした。

    やがて、しょうさんが言いました。

    「8代前に、細川家に関わる方がいらっしゃいます」

    細川家。

    その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴りました。

    もちろん、私自身にそんな自覚があったわけではありません。
    歴史の教科書に出てくるような大名家と、自分の人生がつながっているなど、普通に考えればあまりにも遠い話です。

    けれど、この不思議な場では、なぜか疑う気持ちが起こりませんでした。

    しょうさんは、そこで終わりませんでした。

    さらに奥へ。
    さらに深く。
    1代、また1代と、血の流れをたどっていきます。

    やがて、しょうさんは静かに言いました。

    「16代前にも、細川家に関わる方がいらっしゃいます」

    8代前。
    そして、16代前。

    私の家系には、2つの扉が開いていました。

    私はてっきり、近い方の8代前から訪ねるのだと思いました。
    ところが、しょうさんは少し考えるように目を閉じ、それからこう言いました。

    「まずは、16代前から訪ねましょう」

    「近い方からではないのですか」

    私が尋ねると、しょうさんは静かに首を振りました。

    「8代前の世界を見るには、その前に見ておいた方がよい時代があります」

    「その前の時代?」

    「はい。細川家が九州へ入り、この土地に根を下ろそうとしていた頃です」

    それが、16代前。

    まだ熊本藩として落ち着く前の、戦国の名残が色濃く残る時代でした。

    しょうさんは、その16代前のご先祖様に打診してくれました。
    子孫である私を、その時代へ迎え入れてもよいか。
    暮らしを見せてもよいか。
    仕事を見せてもよいか。
    その世界の空気に、ほんの少し触れさせてもよいか。

    しばらくして、しょうさんは静かにうなずきました。

    「受け入れてくださるそうです」

    その言葉を聞いた次の瞬間、私は妙な乗り物に乗っていました。


    空飛ぶ見学車

    良く言えば、観覧車のゴンドラから屋根だけ外したようなもの。
    悪く言えば、大八車の荷台に椅子を取り付けただけのようなもの。

    立派な乗り物ではありません。
    霊界の特別な乗り物というには、少し手作り感が強すぎます。

    けれど、不思議と不安はありませんでした。

    私が椅子に腰を下ろすと、その乗り物は音もなく、ふわりと浮かび上がりました。

    前を見ると、しょうさんが空を飛んでいます。

    まるでスーパーマンのように体をまっすぐに伸ばし、こちらを振り返ることなく進んでいきます。
    その約30m後ろを、私の乗った不思議な荷台がついていく。

    見えない糸で引っ張られているようでした。

    下を見ると、地上の風景がそれなりにはっきり見えます。
    高すぎるわけではありません。
    おそらく、上空100mほどでしょう。

    家並みが見えました。
    道が見えました。
    人の暮らしの気配が見えました。

    けれど、進むにつれて、その景色は少しずつ変わっていきます。

    現代の建物が遠ざかり、道路の形が古びていく。
    色が変わる。
    屋根が変わる。
    町の輪郭が、ゆっくりと昔へ戻っていく。

    私は空の上から、時間が巻き戻っていくのを見ていました。

    それは映画でも、博物館でもありません。
    ましてや観光旅行でもありません。

    ご先祖様の時代を見に行く、社会見学でした。

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    しょうさんに導かれ、空飛ぶ見学車で時代をさかのぼる。

    16代前 豊前の空へ

    しょうさんに導かれ、私の乗った奇妙な荷台は、さらに深い時代へ入っていきました。

    空気が変わりました。

    地上から立ちのぼってくる気配が、どこか硬い。
    人の声も、馬のいななきも、荷車の軋む音も、すべてが張りつめているように感じられます。

    眼下には、まだ私の知る熊本の町はありませんでした。
    整った城下町も、平和な江戸の町並みもない。

    川があり、港があり、土の道があり、荷を運ぶ人々がいます。

    家紋の入った長持。
    槍を担ぐ若い武士。
    俵を積んだ荷車。
    不安そうに子どもの手を引く女たち。

    大名家の移動というものは、殿様が馬に乗って堂々と進むだけのものではないらしい。
    家臣がいて、家族がいて、道具があり、文書があり、米があり、馬があり、鍋や布団まである。

    家ごと、土地ごと、暮らしそのものが動いていました。

    「ここは、熊本ではありません」

    前を飛んでいたしょうさんが、風の中でそう言いました。

    「豊前です。細川家が九州へ入ってきたばかりの頃です」

    豊前。

    その地名を聞いても、私はすぐには実感できませんでした。
    ただ、目の下に広がる景色は、明らかに戦国の終わりをまだ引きずっていました。

    勝った側の家であっても、そこにいる人々の顔は明るくありません。
    戦が終わったからといって、翌日から平和になるわけではないのでしょう。

    新しい土地へ移り、新しい人々と向き合い、知らない村の田畑を調べ、誰が味方で、誰がまだ心を許していないのかを見極めなければならない。

    しょうさんが少し高度を下げました。

    私の乗り物も、それに引かれるように降りていきます。

    やがて、私たちは川沿いの広い場所へ近づきました。
    そこには、仮の陣所のような建物があり、何人もの男たちが忙しく動き回っていました。

    武具を運ぶ者。
    荷札を確認する者。
    馬の手綱を引く者。

    そして、板の上に紙を広げ、筆を走らせている男がいました。

    「見えますか」

    しょうさんが言いました。

    私は身を乗り出しました。

    その男は、30代後半から40代前半くらいに見えました。
    派手な甲冑は身につけていません。
    腰には刀を差していますが、戦場で名を上げる武士というより、筆と帳面のほうが似合う人でした。

    男のそばには、木箱がいくつも積まれていました。
    箱には札が結ばれています。

    御文書。
    家中名寄。
    村方覚。

    ところどころ読める文字だけで、私はぞくりとしました。

    これは、引っ越しではない。
    大名家の命を運んでいるのだ。

    武器や米だけではありません。
    誰がどの家に仕え、どの土地を与えられ、どの村からどれだけの米が上がるのか。

    そうした記録がなければ、家は家として動かない。

    しょうさんが静かに言いました。

    「あの方です」

    私は思わず、息を止めました。

    「あの方が、16代前のご先祖様ですか」

    「はい。細川家に仕える下級の武士です。名を、佐伯源左衛門としましょう」

    しょうさんは、少し言葉を選ぶように続けました。

    「大きな戦で名を残した方ではありません。けれど、家を支える仕事をしていた方です。文書を扱い、荷を改め、人の名を記し、新しい土地で暮らしが崩れぬように働いていました」

    私は、源左衛門を見つめました。

    有名な武将ではありません。
    歴史の本に大きく名前が載る人でもありません。

    けれど、その背中は、不思議と大きく見えました。


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    16代前、細川家が九州へ入った頃の仮陣所。

    地上見学、開始

    源左衛門が空を見上げました。

    その目が、本当に私を見たのかどうかは分かりません。
    けれど、私はなぜか背筋を伸ばしていました。

    そのとき、しょうさんが私の横でぽつりと言いました。

    「そろそろ、降りてもよいそうです」

    「降りる?」

    私は思わず聞き返しました。

    「はい。ここからは、見るだけではありません」

    「いや、ちょっと待ってください。降りるって、あそこにですか」

    私は眼下の村を指さしました。
    田んぼがあり、土の道があり、刀を差した武士がいて、村人たちが不安げな顔で細川家の一行を見ています。

    どう見ても、気軽に観光気分で降りていい場所ではありません。

    「大丈夫です」

    しょうさんは、いつもの調子で言いました。

    「ご先祖様が受け入れてくださっています」

    「大丈夫の基準が高すぎませんか」

    私の抗議は、風にさらわれました。

    次の瞬間、屋根のないゴンドラとも、大八車の荷台ともつかない乗り物が、ふわりと地上へ向かって降りていきました。

    心の準備というものは、だいたい間に合いません。

    気づけば私は、村の外れの土の道に立っていました。

    足元は、当然ながら土でした。
    革靴でもスニーカーでもなく、いつの間にか私は草履のようなものを履かされています。
    服装も、現代のものではありませんでした。
    地味な小袖のような着物に、腰には小さな袋。

    なぜか、そこそこ時代になじむ格好になっています。

    「これ、いつ着替えたんですか」

    「細かいことを気にすると、社会見学は進みません」

    しょうさんは涼しい顔で言いました。

    たしかにその通りかもしれません。
    不思議な体験では、説明不足のほうが自然なことがあります。

    「私は何者という設定なんですか」

    「遠縁の者、ということで」

    「雑ですね」

    「便利ですから」

    しょうさんは、にこりともせずにそう言いました。

    そこへ、源左衛門がゆっくりと歩いてきました。

    私は思わず固まりました。

    ついさっきまで上空から見学していた16代前のご先祖様が、今、目の前にいる。
    歴史の人物というより、汗をかき、土の上を歩き、帳面を抱えた1人の人間として、そこに立っています。

    源左衛門は私を見ました。

    「そなたが、未来より来た子孫か」

    いきなり核心を突かれました。

    私は口を開けたまま、うまく返事ができませんでした。

    「あ、はい。たぶん、そうです」

    「たぶんとは何だ」

    「私も仕組みがよく分かっていなくて」

    源左衛門は眉をひそめました。

    「未来の者は、己の出自も曖昧なのか」

    初対面から手厳しい。

    私は慌てて頭を下げました。

    「大山塞膳と申します。私から数えて16代前のご先祖様だと聞いております」

    「16代」

    源左衛門は、その言葉を口の中で転がすように繰り返しました。

    「それほど先の世まで、わしの血が残るのか」

    その声は、少しだけやわらかくなりました。

    私は胸の奥が熱くなりました。

    「はい。残っています」

    そう言うと、源左衛門はしばらく黙りました。

    遠くで、田の水音がしました。
    村人たちの声も、馬の鼻息も、風に揺れる草の音も聞こえます。

    やがて源左衛門は、ふっと短く息を吐きました。

    「そうか。ならば、無様なところは見せられぬな」

    「いえ、むしろ普段の生活を見せていただければ」

    「普段の生活など、面白いものではないぞ」

    「それが見たいんです」

    源左衛門は、不思議そうに私を見ました。

    「未来の者は、物好きだな」

    まったくその通りだと思いました。

    しょうさんが横から言いました。

    「今回は、社会見学です。仕事と暮らしを見せていただきます」

    「社会見学とは何だ」

    源左衛門が尋ねました。

    私は少し考えました。

    「子どもが工場とか役所とかに行って、仕事の様子を見て学ぶ行事です」

    「子どもが役所を見るのか」

    「はい」

    「未来は暇なのか」

    「いえ、そういうわけでは」

    源左衛門は首をかしげました。

    「まあよい。見るだけで済むと思うな。ここに来たからには、少しは手を貸してもらう」

    「えっ」

    「帳面を持て」

    そう言って、源左衛門は私に分厚い帳面を渡しました。

    ずしりと重い。

    未来から来た子孫に与えられた最初の役目は、16代前のご先祖様の荷物持ちでした。

    ご先祖様社会見学。

    それは、思ったよりも土くさく、思ったよりも重く、そして思ったよりも実務的なものでした。


    水路の見学

    源左衛門は、数人の家臣とともに、近くの村へ向かいました。

    その日の仕事は、村方調査でした。

    新しい土地を治めるには、まず知らなければならない。
    田がどれだけあるのか。
    畑がどれだけあるのか。
    誰が耕しているのか。
    どの家にどれだけの働き手がいるのか。
    水はどこから引くのか。
    争いはないか。
    年貢は取れるのか。

    歴史の本では、何万石を与えられた、と簡単に書かれます。
    けれど、その何万石の中には、数えきれないほどの田畑があり、村があり、家があり、人がいます。

    それを1つずつ確かめる仕事があったのです。

    村の入口に着くと、1人の男が待っていました。
    日に焼けた顔に、深いしわが刻まれています。村の名主らしい。

    名主は丁寧に頭を下げました。

    「ようこそお越しくださいました」

    声は丁寧でした。
    けれど、その奥には硬さがありました。

    新しい領主の家臣が来る。
    それは村にとって、小さな出来事ではありません。
    年貢はどうなるのか。
    土地はどう扱われるのか。
    前の支配者と何が変わるのか。

    村人たちの顔には、そうした不安が浮かんでいるように見えました。

    やがて、一行は田のそばに立ちました。

    名主が説明します。

    「このあたりは水の便がよく、毎年それなりに米が取れます。ただ、去年は雨が多く、少し崩れたところがございます」

    源左衛門はしゃがみ、土を指でつまみました。

    「水はどこから引いている」

    名主が川の方を指さします。

    「あちらの堰からでございます」

    「上の村と争いは」

    名主の表情が、わずかに曇りました。

    「……少しばかり」

    「少しとは、どれほどだ」

    源左衛門の声は静かでした。
    怒鳴るわけでも、責めるわけでもない。
    だが、逃げ道を与えない声でした。

    名主はしばらく黙り、それから低い声で言いました。

    「水の取り分でございます。日照りの年は、上の村が多く取ります。こちらも黙ってはいられませぬ」

    その言葉に反応するように、近くにいた若者が前へ出ました。

    年は20代前半ほどでしょうか。
    日に焼けた顔に、いかにも気の短そうな目をしています。

    「また上の村の話を聞くだけで終わるんですか」

    名主が慌てて止めました。

    「太吉、控えろ」

    太吉と呼ばれた若者は、唇を噛みながらも止まりませんでした。

    「上の村はいつもそうです。日照りになると、うちの水口を締める。夜のうちに水を変える。下の田が枯れても、自分たちは知らぬ顔です」

    源左衛門は太吉を見ました。

    若い家臣の1人が、すぐに前へ出ようとします。

    「百姓の分際で」

    源左衛門は短く言いました。

    「黙れ」

    若い家臣は、はっとして口を閉じました。

    源左衛門は太吉へ向き直りました。

    「名は」

    「太吉です」

    「下の村の者か」

    「はい」

    「言い分は聞く。だが、怒鳴れば水が増えるわけではない」

    太吉は悔しそうに顔を伏せました。

    私は、その横で帳面を抱えながら思いました。

    これは単なる水路ではない。
    生活そのものなのだ。

    現代でいえば、水道、電気、道路、職場の設備、会議室の予約。
    いや、会議室はさすがに軽すぎるかもしれません。
    けれど、人は限られたものを奪い合うとき、どうしても険しくなる。

    源左衛門は名主に言いました。

    「上の村へ行く」

    「今からでございますか」

    「片方の言い分だけで帳面には書けぬ」

    そうして私たちは、上流の村へ向かうことになりました。


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    村方調査で、水路と田畑を確かめる源左衛門。

    上の村にも言い分がある

    上流の村は、下の村より少し高い場所にありました。
    同じ川の水を使っているのに、村の空気は少し違います。

    下の村が、怒りを溜め込んだ顔をしていたのに対し、上の村の人々は、どこか警戒するような目でこちらを見ていました。

    上の村の名主もまた、丁寧に頭を下げました。

    「水のことで下の村から訴えがあった」

    源左衛門が言うと、名主はすぐに顔を曇らせました。

    「やはり、その件でございますか」

    「やはり、とは」

    名主はしばらく迷ったあと、言いました。

    「下の村は、自分たちばかり被害者のように申します。ですが、こちらにも言い分がございます」

    そのとき、上の村の若者が前へ出ました。

    「下の村は、うちの者が見ていない夜に、水口を勝手に広げました」

    「嘉助」

    名主が止めました。

    若者は嘉助というらしい。
    太吉より少し年上に見えました。顔つきは落ち着いていますが、目には怒りがあります。

    「黙っていられません。上の村ばかり悪者にされては困ります」

    嘉助は源左衛門を見ました。

    「日照りの年は、上の田も苦しいんです。水が豊かにあるなら、誰も争いません。下に流せと言われても、こちらの田も枯れる。下の村は、自分たちの田だけを見ている」

    その言葉に、太吉が反応しました。
    どうやら下の村から何人かが、私たちの後をついてきていたようです。

    「何だと」

    太吉が前へ出ました。

    「おまえらが水を止めるからだろうが」

    嘉助も一歩前に出ます。

    「先に水口を壊したのはそっちだ」

    「壊してない。広げただけだ」

    「同じだ」

    「違う」

    2人の距離が近づきました。

    若い家臣が、今度こそ刀に手をかけかけます。

    源左衛門は静かに言いました。

    「刀から手を離せ」

    「しかし、佐伯殿」

    「水の争いを、血の争いに変えるな」

    その言葉で、その場の空気が一瞬止まりました。

    源左衛門は太吉と嘉助を見ました。

    「どちらにも言い分がある。だから、どちらかの言葉だけでは足りぬ」

    それから、私を振り返りました。

    「大山塞膳」

    「はい」

    「未来では、このような時、どうする」

    また来た。

    私は帳面を抱えたまま、少し考えました。

    現代なら、まず現地確認。
    関係者立ち会い。
    記録を残す。
    取り決めを明文化する。
    後から言った言わないにならないようにする。

    ただし、それをそのまま言うと、また未来は面倒だと言われそうです。

    「まず、事実と気持ちを分けると思います」

    「事実と気持ち」

    源左衛門が繰り返しました。

    「はい。下の村が怒っているのは気持ちです。上の村が困っているのも気持ちです。それとは別に、実際に水口がどうなっているか、誰がいつ見たか、どのくらい水が流れているかを確認します」

    太吉が眉をひそめました。

    「怒っているのが悪いのか」

    「悪いわけではありません」

    私は慌てて言いました。

    「ただ、怒りだけで決めると、あとでまた揉めます」

    嘉助が少しだけこちらを見ました。

    「では、どうする」

    「両方の村の人が立ち会って、水口の位置を決める。勝手に動かせないように、杭か石で目印をつける。日照りの時の取り決めも、できるだけ先に決めておく」

    「先に決める?」

    源左衛門が聞きました。

    「はい。水が足りなくなってから決めると、みんな余裕がなくなります。現代でも、会議室の予約を当日取り合うと揉めます」

    言った瞬間、しまったと思いました。

    「会議室とは何だ」

    源左衛門が聞きます。

    「ええと、偉い人やそうでもない人が集まって話し合う部屋です」

    「それを取り合うのか」

    「はい」

    「未来は、部屋でも争うのか」

    「かなり争います」

    太吉と嘉助が、なぜか少しだけ笑いました。

    「水と部屋を同じにするな」

    嘉助が言いました。

    「すみません。例えが軽すぎました」

    源左衛門は、わずかに口元を緩めました。

    「だが、言いたいことは分かる」

    そう言うと、源左衛門は2つの村の名主を呼びました。

    「明朝、両村立ち会いで水口を見る。太吉、嘉助、そなたらも来い」

    「私たちもですか」

    太吉が驚きます。

    「怒る者ほど現場を見よ。見ずに怒ると、怒りだけが育つ」

    嘉助は黙ってうなずきました。

    源左衛門はさらに言いました。

    「決めたことは文に残す。名主だけでなく、立ち会った者の名も書く」

    太吉が少し不安そうな顔をしました。

    「俺の名もですか」

    「そうだ」

    「字は……」

    「読めぬなら、印でよい。だが、そこにいたことは残す」

    私はその言葉に、胸の奥が少し熱くなりました。

    人は、名を書かれなければ、いなかったことにされる。

    まだその言葉を聞く前でしたが、源左衛門の仕事の本質は、すでにそこにありました。

    翌朝、両村の名主、太吉、嘉助、数人の家臣、そして私たちは水口へ向かいました。

    源左衛門は土を見て、水の流れを見て、古い杭の跡を見つけ、両方の話を聞きました。

    下の村は確かに水が足りていない。
    しかし上の村も、勝手に水を止めていたわけではなく、自分たちの田を守ろうとしていた。
    さらに、下の村の若者が水口を少し広げた形跡もありました。

    太吉はうつむきました。

    「……俺です」

    太吉が小さく言いました。

    「夜に、少しだけ広げました。下の田が枯れそうで」

    嘉助が顔を赤くしました。

    「だから言っただろう」

    太吉が言い返そうとした瞬間、源左衛門が手を上げました。

    「責めるのはあとだ。まず、どうするかを決める」

    源左衛門は、上の村と下の村の名主を交互に見ました。

    「水は争えば濁る。だが、決めずに流せば、また争う。今ここで、目印を決める」

    杭が打たれました。
    石が置かれました。
    水口の幅が確認されました。
    日照りの時には、交代で水を流す日を決めることになりました。

    完全な解決ではありません。
    おそらく、また揉めるでしょう。

    けれど、少なくとも今日は、刀は抜かれませんでした。
    太吉も嘉助も、最後には渋々ながら同じ紙の前に立ちました。

    源左衛門は、その場で記録を取りました。

    両村立ち会い。
    水口の位置。
    杭の数。
    石の目印。
    太吉の申し出。
    嘉助の申し立て。
    名主の確認。

    そして、最後にこう書きました。

    双方、後日の争いを避けるため、これを覚えとする。

    私はその文字を横から見ていましたが、ほとんど読めませんでした。

    「どうだ、読めるか」

    源左衛門が聞きました。

    「達筆ですね」

    「また逃げたな」

    「現代の教育にも限界があります」

    「未来の者は、便利な言い訳を持っている」

    本当に、返す言葉がありませんでした。


    源左衛門の家

    その夜、私は源左衛門の仮住まいへ招かれました。

    家というより、仮の住まいです。
    柱も壁も、まだどこか落ち着いていない。
    荷物は隅に積まれ、道具の置き場所も決まりきっていません。

    細川家が新しい土地へ入るということは、家臣たちの家族もまた、知らない土地へ移るということでした。

    源左衛門の妻は、静かな人でした。

    派手なことは言いません。
    ただ、客である私に深く頭を下げ、握り飯を出してくれました。

    白い米だけではありません。
    少し雑穀も混じっていたと思います。
    けれど、手で握られたそれは、驚くほど温かく感じました。

    私は、少し遠慮しながら受け取りました。

    「ありがとうございます」

    妻は微笑みました。

    「遠いところから来られたとか」

    私はしょうさんをちらりと見ました。

    しょうさんは、例によって何も助けてくれません。

    「はい。かなり遠いところから」

    「どれほど遠いのでしょう」

    「時間で言うと、400年くらい」

    言った瞬間、源左衛門がむせました。

    妻は目を丸くしました。

    「よく分かりませぬが、とても遠いのですね」

    「はい。かなり遠いです」

    源左衛門が私をにらみました。

    「余計なことを言うな」

    「すみません。隠し方が分からなくて」

    妻は、なぜか少し笑いました。

    「あなたの遠縁には、変わった方がいらっしゃるのですね」

    「遠すぎる縁だ」

    源左衛門が言いました。

    私は握り飯をかじりました。

    現代のコンビニのおにぎりとは、もちろん違います。
    海苔も、具も、包装もありません。

    それでも、その握り飯は忘れられない味でした。

    物が少ない。
    明かりも少ない。
    夜は暗い。
    けれど、そこには暮らしがありました。

    源左衛門の幼い子が、文書箱の近くをうろうろしていました。

    「それは触るな」

    源左衛門が言うと、子どもはびくっとして手を引っ込めます。

    「父上の大事な箱?」

    「ああ。大事な箱だ」

    「米より?」

    「米とは違う大事さだ」

    子どもはよく分からない顔をしていました。

    私は少し笑いました。

    妻は私に尋ねました。

    「未来では、女も学ぶのでしょうか」

    その問いは、突然でした。

    私は少し考えました。

    「はい。女の人も学校へ行きます。文字も学びますし、仕事をする人もたくさんいます」

    妻は、しばらく黙りました。

    「そうですか」

    その声には、驚きと、少しの寂しさのようなものがありました。

    「よい世なのでしょうね」

    私はすぐには答えられませんでした。

    「よいところもあります。でも、悩みがなくなったわけではありません」

    「悩みは、未来にもあるのですか」

    「あります。かなりあります」

    妻は、少しだけ笑いました。

    「人は、どこまで行っても人なのですね」

    その言葉に、私は何も言えませんでした。

    外へ出ると、夜空が広がっていました。

    星が多い。

    腹が立つほど多い。

    現代の空ではなかなか見えない星が、ここでは当然のように輝いています。

    私は軒先に座り、しばらく空を見ていました。

    源左衛門が横へ来ました。

    「未来では、夜は明るいのか」

    「はい。かなり明るいです」

    「星は見えるか」

    「場所によります。町ではあまり見えません」

    源左衛門は空を見上げました。

    「便利になると、見えなくなるものもあるのだな」

    その一言は、妙に胸に残りました。


    消えた文書箱

    翌朝。

    文書箱が消えました。

    最初に気づいたのは、源左衛門の妻でした。

    「あなた、箱がございません」

    その声は大きくありませんでした。
    けれど、部屋の空気が一瞬で変わりました。

    源左衛門はすぐに立ち上がりました。

    「どの箱だ」

    「奥に置いた、御文書の箱です」

    源左衛門の顔から、血の気が引いたように見えました。

    箱があったはずの場所には、何もありません。

    昨日、水口の取り決めを書いた帳面。
    両村の名。
    太吉と嘉助の立ち会い。
    水口の目印。

    それらを入れた文書箱です。

    若い家臣たちが騒ぎ出しました。

    「下の村の者が盗んだのでは」

    「いや、上の村かもしれぬ」

    「昨日の取り決めを消すつもりでは」

    その言葉を聞いて、私は嫌な感じがしました。

    疑いは、火より早く広がる。

    昨日、やっと少しだけ収まった上の村と下の村の争いが、ここでまた燃え上がりそうになっています。

    源左衛門は言いました。

    「まだ決めるな」

    「しかし、佐伯殿」

    「決めるな、と申した」

    その声で、周囲は静まりました。

    私は足元を見ました。

    土。
    足跡。
    雨。
    軒下。
    荷車の跡。

    現代なら、監視カメラや指紋やスマホの位置情報があるかもしれません。
    しかし、ここには何もありません。

    いや、何もないわけではない。

    私は、足跡の横に落ちている小さなものに気づきました。

    細い藁の切れ端。
    それから、黒っぽい泥。

    このあたりの土とは、少し色が違う気がしました。

    「源左衛門さん」

    「何だ」

    「この泥、昨日の水路のところの泥と似ていませんか」

    源左衛門がしゃがみ込みました。

    彼は指先で泥をすくい、においを嗅ぎました。
    そして、少し眉を動かしました。

    「水路の泥だな」

    「やっぱり」

    私は少しだけ得意になりました。

    「現代の捜査では、現場に残ったものを見るんです。証拠というか、手がかりというか」

    「未来でなくとも見る」

    即答されました。

    得意になった自分が恥ずかしい。

    私たちは水路へ向かいました。

    その途中、太吉の姿が見えました。

    彼は、こちらを見るなり目をそらしました。

    その動きは、あまりにも分かりやすかった。

    若い家臣が声を上げます。

    「太吉。おまえ、何か知っているのか」

    太吉は唇を噛みました。

    「知らねえ」

    「目をそらしただろう」

    「知らねえって言ってるだろ」

    空気がまた硬くなります。

    下の村の者たちも集まり始めました。
    上の村からも、嘉助たちが来ています。

    嘉助が太吉を見ました。

    「やはり、おまえか」

    「違う」

    「昨日、水口を広げたのもおまえだった。今度は文書箱か」

    太吉の顔が赤くなりました。

    「違うって言ってるだろ!」

    一気に、喧嘩になりそうでした。

    源左衛門が前へ出ました。

    「太吉」

    その声は、怒鳴っていないのに場を止めました。

    「知らぬなら、そう言えばよい。知っているなら、今言え」

    太吉は震えるように拳を握りました。

    「……見ました」

    「何を」

    「箱を」

    周囲がざわつきました。

    若い家臣がまた前へ出ようとします。

    源左衛門は手で制しました。

    「どこで見た」

    太吉は水路の方を指さしました。

    「朝早く、川のところで。草に引っかかっていました」

    「なぜすぐ言わなかった」

    太吉はうつむきました。

    「言ったら、俺が盗んだと思われると思った」

    誰もすぐには言葉を返せませんでした。

    太吉は続けました。

    「昨日、水口のことで揉めた。俺は夜に水口を広げたことも言った。そんな俺が箱を見つけたなんて言ったら、絶対に疑われる。だから……」

    「だから、黙っていたのか」

    源左衛門が言いました。

    太吉は小さくうなずきました。

    「箱はどうした」

    「流れたらまずいと思って、草むらへ引き上げました。でも、怖くなって、そのまま……」

    私たちは太吉の案内で、川沿いの草むらへ向かいました。

    やがて、そこに文書箱はありました。

    泥に汚れてはいましたが、蓋は閉じています。
    鍵も壊されていません。

    画像

    源左衛門は慎重に箱を開けました。

    中の文書は、一部が湿っていました。
    しかし、読めないほどではありません。

    源左衛門は深く息を吐きました。

    「よく引き上げた」

    太吉は驚いたように顔を上げました。

    「怒らないんですか」

    「黙っていたことは怒る。だが、箱を川から上げたことは別だ」

    太吉は、何とも言えない顔をしました。

    そのとき、源左衛門の妻が小さな声を上げました。

    家の近くから、幼い子が泣きそうな顔でこちらを見ていたのです。

    源左衛門はその子を見ました。

    「おまえか」

    子どもは、ぽろぽろと涙をこぼしながらうなずきました。

    「父上の大事な箱だから……夜、雨が降ってきたから、濡れたらいけないと思って……」

    子どもは、父の大事な箱を雨から守ろうとしたのです。

    ただし、箱は重かった。
    子ども1人ではどうにもならず、外へ出したところで転がり、川の方へ落ちかけた。
    そのまま水路へ落ち、朝になって太吉が見つけた。

    誰も盗んでいませんでした。
    けれど、誰もすぐに助けを呼びませんでした。

    子どもは、大事なものを1人で守ろうとした。
    太吉は、疑われるのを恐れて1人で抱え込んだ。

    源左衛門は、子どもの前にしゃがみました。

    「文書は大事だ」

    子どもは泣きながらうなずきました。

    「だが、1人で持つな」

    「はい」

    「大事なものほど、1人で抱えるな。必ず誰かを呼べ」

    それから源左衛門は太吉を見ました。

    「太吉」

    「はい」

    「そなたも同じだ」

    太吉は顔を伏せました。

    「疑われると思ったなら、なおさら早く言え。黙れば、疑いは大きくなる」

    「……はい」

    源左衛門は、濡れた文書を慎重に取り出しました。

    「人の名も、言い分も、約束も、濡れればにじむ。だから、守らねばならぬ」

    その言葉は、文書の話でありながら、人の心の話にも聞こえました。

    大事なものほど、1人で抱えるな。

    仕事でも、家族でも、心の中の重さでも。
    現代の自分に、ぐさりと刺さる言葉でした。


    なぜ受け入れてくれたのか

    文書箱の騒ぎが落ち着いたあと、源左衛門は私を家の裏手へ連れて行きました。

    そこには、小さな畑と、荷を置くための粗末な小屋がありました。
    まだ移ってきたばかりの仮住まいなので、整っているとは言えません。
    それでも、妻が少しずつ場所を決め、道具を置き、暮らしの形を作ろうとしているのが分かりました。

    太吉と嘉助は、少し離れたところで気まずそうに立っていました。

    2人はまだ仲直りしたわけではありません。
    水争いは、今日ですべて解決したわけでもありません。

    けれど、文書箱が見つかり、誰も盗人にされずに済んだことで、少なくとも今日は刀も鍬も振り上げられずに済みました。

    源左衛門は、濡れた文書を広げて乾かしていました。

    私は、ずっと気になっていたことを聞きました。

    「あの」

    「何だ」

    「なぜ、私を受け入れてくれたのですか」

    源左衛門は、すぐには答えませんでした。

    「しょうさんが、ご先祖様に打診してくれたと聞きました。子孫が見に行ってもよいか、と。源左衛門さんは、それを受け入れてくれた。けれど、なぜなのかなと思って」

    源左衛門は、手元の土を指で少しなぞりました。

    「わしは、名を残す者ではない」

    その声は、静かでした。

    「殿のように国を動かすわけでもない。戦場で大きな手柄を立てたわけでもない。歌や茶で人に知られるわけでもない。わしの名は、いずれ帳面の中に小さく残るか、あるいはそれも失われる」

    私は黙って聞きました。

    「だが、毎日、誰かの名を書いている。誰がどの家に仕えるのか。どの村にどれだけの田があるのか。誰が水に困り、誰が橋を直さねばならぬのか。そういうことを書いている」

    源左衛門は、遠くの村の方を見ました。

    「人は、名を書かれなければ、いなかったことにされる。言い分を書かれなければ、言わなかったことにされる。約束を書かれなければ、約束しなかったことにされる」

    私は胸の奥が少し締めつけられました。

    「だから、書く。わしは、人を残す仕事をしているつもりだ。名を残すのではない。人がいたことを、できるかぎり残す」

    その言葉は、私の中に深く入ってきました。

    私は今、文章を書こうとしている。
    自分の体験や、夢や、不思議な出来事や、心に残ったことを、どうにか言葉にしようとしている。

    それは、源左衛門の仕事と、どこかでつながっているのかもしれません。

    「未来から来た子孫だと聞いたとき、正直、最初は奇妙だと思った」

    源左衛門は、少しだけ私を見ました。

    「しかも、空飛ぶ荷台で来た」

    「そこは私のせいではありません」

    「泥にはよく転ぶ」

    「それは私のせいです」

    源左衛門は、少し笑いました。

    「だが、16代も先の者が、わしを見に来たという。そのことが、不思議でならなかった」

    「不思議、ですか」

    「ああ。わしのしていることは、今日明日のための務めだ。村が乱れぬように。家中が乱れぬように。子が飢えぬように。それだけだ。未来の者に見せるような、立派なものではない」

    「でも、私は見たいです」

    私はすぐに言いました。

    「有名な人もすごいと思います。でも、毎日を支えた人がいなければ、未来にはつながらないと思います」

    源左衛門は、しばらく黙っていました。

    やがて、小さくうなずきました。

    「だから、受け入れた」

    「え?」

    「そなたが、名ではなく、暮らしを見に来たからだ」

    私は息をのみました。

    「有名な者を探すだけなら、わしのところへ来る必要はない。殿や、その近くにいる者を見ればよい。だが、そなたは泥の道を歩き、水路を見て、文書箱を探し、握り飯を食った」

    源左衛門は、私を見ました。

    「人は、誰かに見られて初めて、自分のしていたことの意味を知ることがあるのだな」

    その言葉に、私は何も返せませんでした。


    8代前の扉へ

    別れの時が近づいていました。

    源左衛門は、余った紙の端に、私の名を書きました。

    大山塞膳。

    その文字は、私が現代で見慣れている自分の名前とは、どこか違って見えました。
    形が違う。
    筆の運びが違う。
    字そのものが、こちらの時代の空気をまとっています。

    私は書道をしていたので、筆にはそれなりに親しみがあります。
    けれど、源左衛門の書く文字は、単にうまい下手では片づけられないものでした。

    くずし字。
    文書の作法。
    言い回し。
    何をどこに書き、どこを省き、どこに敬意を置くのか。

    現代の書道とは、似ているようで、まるで違います。

    「筆は使えるようだな」

    源左衛門が言いました。

    「はい。一応、書道をしていました」

    「ならば、この文を読め」

    そう言って、源左衛門は帳面の一部を私に見せました。

    私は身を乗り出しました。

    そして、固まりました。

    読めない。

    文字は美しい。
    流れるようで、無駄がない。
    しかし、現代人の私には、何が書いてあるのかほとんど分かりません。

    「……達筆ですね」

    私は逃げました。

    源左衛門は目を細めました。

    「読めぬのか」

    「雰囲気は分かります」

    「雰囲気で文書を扱うな」

    正論でした。

    源左衛門は、私の名を書いた紙をそっとこちらへ向けました。

    「大山塞膳。これで、そなたもここにいた」

    私は胸の奥が熱くなりました。

    この紙は、本物の歴史には残らないのかもしれません。
    現代に持ち帰れるわけでもないのかもしれません。

    それでも、16代前のご先祖様が、私の名を書いてくれた。

    その事実だけで十分でした。

    「ありがとうございます」

    私は深く頭を下げました。

    源左衛門は言いました。

    「未来の者よ。戻ったら、忘れるな」

    「何をですか」

    「有名でない者も、生きていたということを」

    「はい」

    「それから」

    「はい」

    「古い字も少しは読めるようにしておけ」

    最後まで、きちんと宿題を出す人でした。

    そのとき、部屋の中に風が入りました。
    紙がかすかに揺れ、火の明かりが揺らぎ、壁も、文書箱も、源左衛門の姿も、少しずつ遠ざかっていきます。

    しょうさんが、私の肩にそっと手を置きました。

    「大山さん、そろそろです」

    「戻るのですか」

    「いったん、上へ」

    次の瞬間、私はまた、あの奇妙な乗り物に座っていました。

    下を見ると、源左衛門の家が小さくなっていきます。
    仮住まい。
    文書箱。
    握り飯を作ってくれた妻。
    泥の道。
    水路。
    上の村と下の村。

    そして、太吉と嘉助。

    2人はまだ離れた場所にいました。
    けれど、さっきより少しだけ近い位置に立っているように見えました。

    すべてが、少しずつ遠ざかっていきます。

    「しょうさん」

    「はい」

    「これで現代に戻るのですか」

    しょうさんは、前を向いたまま答えました。

    「いいえ。もう1つの扉へ向かいます」

    「8代前ですか」

    「はい」

    16代前へ向かう前に、最初に見つかっていた扉。
    細川家が、すでに熊本藩として根づいた後の時代。

    「16代前は、細川家が九州へ入ってきたばかりの時代でした」

    しょうさんは言いました。

    「次は、細川家が熊本藩として根づいた後の時代です」

    下の景色が、ゆっくり変わり始めました。

    戦の気配を残していた土地が、少しずつ整っていく。
    土の道が、町の筋へ変わる。
    ばらばらだった家並みが、城下町の形を帯びていく。

    遠くに、大きな城の影が見えました。

    熊本城。

    私は息をのみました。

    16代前の源左衛門たちが、泥の中で守ろうとしていたもの。
    文書に残し、水路を調べ、村人の不満を聞き、家族を連れて新しい土地に根を下ろそうとしていたもの。

    その先に、どんな世の中が生まれたのか。

    今度は、それを見に行くのです。


    8代前 熊本藩の扉

    熊本城下の空は、16代前の豊前の空とは違っていました。

    眼下には、整った町筋が見えました。
    道が走り、家並みが並び、川が流れ、寺があり、武家屋敷らしき区画があります。

    細川家は、もうこの土地に根づいている。

    そう感じました。

    ただ、その落ち着きの中に、別の緊張がありました。

    戦の緊張ではありません。
    暮らしの行き詰まり、財政の苦しさ、古い仕組みを変えようとする人々の張りつめた空気。

    「この時代の細川家は、戦ではなく、学問で藩を立て直そうとしています」

    しょうさんが言いました。

    やがて、私たちは城の近く、武家屋敷が並ぶあたりへ降りていきました。

    地上に降りると、目の前に1人の男が立っていました。

    年は40代前半ほど。
    背筋が伸びています。
    着物は派手ではありませんが、姿勢に隙がない。
    刀を差しているものの、武張った感じは薄い。

    むしろ、目の鋭さが印象的でした。

    この人は、筆で人を斬るタイプだ。

    なぜか、私はそう思いました。

    男は私を見るなり、言いました。

    「そなたが、未来から来た子孫か」

    また、いきなり核心でした。

    私は頭を下げました。

    「大山塞膳と申します」

    男は静かに名乗りました。

    「佐伯景膳」

    画像
    8代前・景膳との出会い

    佐伯。

    その名字を聞いた瞬間、私は16代前の源左衛門を思い出しました。

    「源左衛門さんと同じ……」

    景膳は目を細めました。

    「その名を知っているのか」

    「はい。16代前で、お会いしました」

    景膳の表情が、わずかに変わりました。

    「なるほど。あの実務の血が、そなたのところまで残ったというわけか」

    「実務の血」

    「佐伯の家は、派手な家ではない。だが、紙と人と役目を粗末にしなかった」

    その言葉に、私は胸が熱くなりました。

    源左衛門が文書箱を守っていた姿が浮かびます。
    水路を見て、村人の言い分を聞き、人の名を残そうとしていた姿が浮かびます。

    景膳は続けました。

    「そして、我が家には細川の血も少し流れている」

    私は思わず顔を上げました。

    「やはり、そうなのですか」

    「やはり?」

    「私の見た体験では、細川家と血縁がある感じがしていました」

    景膳は、少しだけ笑いました。

    「感じ、か。未来の者は、ずいぶん曖昧な言い方をする」

    「現代では、断定するといろいろ問題があります」

    「面倒な世だな」

    「かなり」

    景膳は、私をじっと見ました。

    「たしかに、我が家は細川本家そのものではない。だが、遠く細い筋ではあるが、血はつながっている。そのために得をしたこともあれば、損をしたこともある」

    「損もあるのですか」

    「血筋というものは、飾りではない。周囲から見られる。比べられる。期待される。時には、使われる」

    景膳の声は静かでしたが、重みがありました。

    「では、誇りではないのですか」

    私が聞くと、景膳は少しだけ首を傾けました。

    「誇りではある。だが、誇りだけでは腹はふくれぬ。藩も立ち直らぬ。人も育たぬ」

    いきなり厳しい。

    源左衛門とは、気難しさの種類が違いました。

    源左衛門は現場の泥の人でした。
    景膳は、理屈と学問の人です。

    景膳は私に向かって言いました。

    「未来の者よ」

    「はい」

    「未来は、少しは賢くなったか」

    いきなり大きな質問でした。

    私は言葉に詰まりました。

    「道具は、かなり賢くなりました」

    「人は?」

    痛いところを突いてきます。

    「人は……あまり変わっていないかもしれません」

    景膳は、うなずきました。

    「正直でよい」

    「褒められた気がしません」

    「褒めてはいない」

    やはり気難しい。

    景膳は、城の方を見ました。

    「この時代の細川家は、戦で名を上げる時代ではない。藩をどう立て直すか。人をどう育てるか。学問をどう役に立てるか。それが問われている」

    「学問、ですか」

    「そうだ」

    景膳は歩き出しました。

    「ついて来い。社会見学であろう」

    私は思わず、しょうさんを見ました。

    「この言葉、8代前にも伝わっているんですか」

    しょうさんは平然と答えました。

    「便利な言葉は、時代を越えます」

    本当に便利すぎる。


    時習館の前で

    景膳に連れられて、私は熊本城の二の丸へ向かいました。

    そこには、藩士らしき男たちが集まっていました。
    年配の者もいれば、若い者もいます。
    紙を持つ者、書物を抱える者、何かを相談している者。

    皆、ただの武士というより、役目を持った実務の人たちに見えました。

    その中に、少し離れて立っている若者たちがいました。

    「彼らは?」

    私が小声で尋ねると、景膳は答えました。

    「学ぶ者たちだ」

    「藩校ですか」

    景膳が私を見る。

    「その言葉を知っているのか」

    「現代にも、歴史の中で藩校という言葉が残っています」

    「ほう」

    景膳の目が少しだけ鋭くなりました。

    「では、未来では我らの試みは知られているのか」

    「細川重賢公の改革や時習館のことは、知っている人は知っています」

    「知っている人は、か」

    まずい。

    もっと立派に言うべきでした。

    景膳は少しだけ鼻で笑いました。

    「未来の者は、相変わらず正直だな」

    「すみません」

    「謝ることではない。知らぬ者が多いなら、それだけ書き残す者が足りなかったということだ」

    そう言って、景膳は前へ進みました。

    時習館。

    その名は、ただの学校名ではありませんでした。
    この時代の熊本藩にとって、それは藩を立て直すための大きな仕掛けだったのでしょう。

    刀だけでは藩は支えられない。
    家柄だけでも、人は育たない。
    学び、考え、役目を果たす者を増やさなければならない。

    景膳は、その現場に関わっていました。

    「佐伯殿」

    1人の年配の藩士が声をかけてきました。

    「名簿の件、どうなりましたか」

    景膳は懐から紙を取り出しました。

    「こちらに。家格ごとの整理だけでは足りませぬ。学力、素行、役目への向き不向きも見ねばなりませぬ」

    年配の藩士は、少し渋い顔をしました。

    「しかし、家格を軽んじるわけにはいきますまい」

    「軽んじるとは申しておりませぬ」

    景膳の声は静かでしたが、芯がありました。

    「ただ、家格だけで席を決めれば、学ぶ場が家の飾りになります。藩を立て直す場にはなりませぬ」

    私は、そのやり取りを聞きながら、思わず背筋を伸ばしました。

    これは、現代にもある話です。

    肩書き。
    学歴。
    家柄。
    年齢。
    部署。
    序列。

    そういうものが人を測る物差しになる。
    もちろん、全部が悪いわけではありません。
    けれど、それだけで人を見れば、本当に力のある人や、これから伸びる人を見落とす。

    景膳は、まさにそこを見ているようでした。

    年配の藩士は低い声で言いました。

    「佐伯殿は、細川の血を引く筋ゆえ、そのようなことを申せるのではありませぬか」

    空気が、少し固まりました。

    景膳は、静かに答えました。

    「細川の血を引くからこそ、申しております」

    景膳は続けます。

    「血は、上に立つための飾りではありませぬ。藩のために使わねば、ただの古い言い伝えです」

    私は息をのみました。

    「家格ある者が学ばず、家格なき者が学ぶ機会を得られぬなら、藩は内から痩せます。財が乏しければ、なおさら人を育てねばなりませぬ」

    その言葉は、8代前の熊本城下の空気に、すっと刺さりました。

    景膳は、細川家の血を誇っている。
    けれど、それに寄りかかってはいない。

    血があるから偉いのではない。
    血があるから、働かなければならない。

    そう考えている。

    その姿は、16代前の源左衛門とつながって見えました。

    源左衛門は、名もなき人の名を文書に残そうとした。
    景膳は、名もなき才能を学びの場へ上げようとしている。

    同じ佐伯の家の中で、役目が少しずつ形を変えているのだ。


    細川の血

    時習館の前でのやり取りが終わると、景膳は私を城の石垣が見える場所へ連れて行きました。

    熊本城の石垣は、ただ大きいだけではありません。
    近くで見ると、圧があります。
    石が積まれているというより、時間そのものが積まれているように感じられました。

    景膳は、しばらく無言でその石垣を見上げていました。

    「大山塞膳」

    「はい」

    「そなたは、細川の血と聞いて、何を思った」

    いきなり本題でした。

    私は少し迷いました。

    「正直に言えば、驚きました。それから、少し誇らしい気持ちもありました」

    景膳はうなずきました。

    「それでよい。血に誇りを持つこと自体は、悪くない」

    私は少し安心しました。

    しかし、景膳はすぐに続けました。

    「ただし、誇りだけなら、床の間の飾りと同じだ」

    やはり甘くはない。

    「我が家は、細川本家ではない。殿の座に近い家でもない。だが、遠く細い枝として、確かに細川につながる血を受けている」

    景膳は、城の方を見たまま言いました。

    「母方をたどれば、細川の庶流に行き着く。表の系図では太く書かれぬ枝だ。だが、血は流れている」

    私は黙って聞きました。

    夢の中で感じた、細川家と血縁があるような感覚。
    それは、殿様の直系という派手なものではなく、こういう細い枝のようなものだったのかもしれません。

    「細い枝でも、枝は枝ですか」

    私が聞くと、景膳は少しだけこちらを見ました。

    「枝は細くとも、根につながっていれば水は通う」

    その言葉に、胸の奥が静かに鳴りました。

    景膳は続けました。

    「だが、水が通うからこそ、枯れてはならぬ。曲がっても、折れても、次の芽を出さねばならぬ」

    「それが、血を受け継ぐということですか」

    「そうだ」

    景膳の声は静かでした。

    「血筋とは、威張るための札ではない。人を見下すための道具でもない。むしろ、問われるものだ」

    「問われる?」

    「そなたは、その血で何をするのか、と」

    私は答えられませんでした。

    現代で「血筋」という言葉を聞くと、少し身構えます。
    家柄や身分の話は、今の感覚では扱いが難しい。
    誇りにもなるが、差別にもなる。
    自信にもなるが、重荷にもなる。

    景膳は、まるで私の迷いを見透かしたように言いました。

    「未来では、血筋という言葉は嫌われるか」

    私は苦笑しました。

    「嫌う人もいます。大事にする人もいます。ただ、血筋だけで人を判断するのは、よくないとされています」

    「それは正しい」

    意外にも、景膳はすぐにそう言いました。

    「当然だ。血だけで人が決まるなら、学問など要らぬ。役目も要らぬ。努力も要らぬ。そんな世は、すぐに腐る」

    私は少し驚きました。

    「では、血筋は何のためにあるのですか」

    私が聞くと、景膳は少し考えました。

    「忘れぬためだ」

    「忘れぬため」

    「己がどこから来たのか。誰が苦労してここまでつないだのか。何を受け取り、何を次へ渡すべきなのか。それを忘れぬためにある」

    景膳は石垣へ目を戻しました。

    「細川の血を引くなら、細川家の栄えだけを見るな。そこに仕えた者、支えた者、泣いた者、名を残さなかった者まで見よ」

    私は、16代前の源左衛門を思い出しました。

    泥の道。
    水路。
    文書箱。
    握り飯。
    子どもの涙。

    あれも、細川家の歴史の一部でした。

    殿様の名前だけが歴史ではない。
    その下で働いた無数の人たちもまた、歴史だった。

    「景膳さん」

    「何だ」

    「私は、血筋を誇ってもいいのでしょうか」

    景膳は少しだけ間を置きました。

    「誇れ」

    その答えは、意外なほどまっすぐでした。

    「ただし」

    やはり続きがありました。

    「誇るなら、学べ。誇るなら、働け。誇るなら、名もなき者を軽んじるな。誇るなら、自分より弱い者を踏むな。誇るなら、次の世に何かを渡せ」

    景膳の声は、静かに石垣へ響きました。

    「それができぬ誇りは、ただの虚勢だ」

    私は深く息を吸いました。

    「厳しいですね」

    「血筋とは、本来厳しいものだ」

    「もっと、ロマンのある話かと思っていました」

    景膳は少し笑いました。

    「ロマンだけで藩は救えぬ」

    「それはそうですね」

    「だが、ロマンがなければ人は動かぬ」

    私は顔を上げました。

    景膳は、城の方を見ていました。

    「だから、細川の名は重い。人の心を動かす力がある。だが、その名に酔えば、目が曇る。名を使うなら、酔うな」

    私は、その言葉を胸にしまいました。

    細川家と血縁があるかもしれない。
    夢の中では、たしかにそう感じました。

    それはうれしい。
    誇らしい。

    でも、それはゴールではない。

    むしろ、そこから問いが始まる。

    自分は何を学ぶのか。
    何を残すのか。
    誰を支えるのか。

    そのとき、景膳が急に言いました。

    「未来では、血のつながりを調べる術はあるのか」

    私は少し考えました。

    「あります。DNA検査というものがあります」

    「でぃー、えぬ、えー?」

    景膳が、初めて完全に困惑した顔をしました。

    私は少し楽しくなりました。

    「血や唾液などを調べて、遺伝的なつながりを見る技術です」

    「血を見て、先祖が分かるのか」

    「ある程度は」

    「それは、陰陽師の術か」

    「いえ、科学です」

    「未来は、科学という名で怪しいことをするのだな」

    否定しきれません。

    「でも、DNAで分かるのは、血のつながりの一部です」

    私は言いました。

    「それだけでは、その人が何を考えて、どう生きたかまでは分かりません」

    景膳は、満足そうにうなずきました。

    「そこだ」

    「そこ?」

    「血は、つながりを示す。だが、生き方までは示さぬ」

    景膳は私の方を向きました。

    「細川の血が流れているかどうか。それを知って喜ぶのはよい。だが、それで終われば、ただの珍しい話だ」

    私は黙りました。

    「大事なのは、その血を知った後で、そなたが何をするかだ」

    また、重い問いが来ました。

    ご先祖様社会見学は、観光気分で来ると、時々こうして真顔で心を突いてきます。

    景膳は続けました。

    「細川家は、武だけの家ではない。学問も、文化も、政も重んじた家だ。ならば、その血に触れた者は、自分の中にも問わねばならぬ」

    「何をですか」

    「そなたは、何を学び、何を残し、誰を支えるのか」

    私はすぐには答えられませんでした。

    景膳は、それでよいというように、少しだけ目を細めました。

    「すぐ答えられる問いは、たいてい浅い」

    「現代では、すぐ答えることを求められます」

    「だから未来は忙しそうなのだ」

    「はい。とても」

    「忙しい者ほど、問いを持て。問いを持たぬ忙しさは、荷車の車輪と同じだ。回るだけで、どこへ向かうか分からぬ」

    私は、言葉を失いました。

    この人は、時々さらっとひどく深いことを言います。


    名簿の中の火種

    景膳が時習館の名簿に、井手小弥太の名を残すと決めたことは、思った以上に周囲をざわつかせました。

    井手小弥太。

    年は13か14。
    身なりは決して立派ではありません。
    家格も高くない。

    けれど、彼は景膳の問いに対して、まっすぐに答えました。

    「分からぬから、学びに来ました」

    その言葉を、私は妙に忘れられませんでした。

    現代では、分からないことを分からないと言うのは、簡単そうで意外に難しい。
    会社でも、学校でも、家庭でも、分かったふりをした方がその場をしのげることがあります。

    だが景膳は、そこを見逃しませんでした。

    「分からぬと正直に申せる者は、伸びる」

    そう言って、小弥太の名を残したのです。

    ところが、それを面白く思わない者たちがいました。

    その日の夕刻、景膳は藩の役人たちが集まる部屋へ呼ばれました。
    私としょうさんも、少し離れた場所からついていくことになりました。

    部屋の中心にいたのは、50代ほどの男でした。
    顔は細く、目は鋭い。
    着物も身のこなしも整っていますが、どこか冷たい印象があります。

    景膳が小声で教えてくれました。

    「大槻主膳。家格を重んじる者だ」

    名前に「膳」がついています。

    景膳。
    主膳。
    そして私、大山塞膳。

    なぜか膳が多い。
    この時代、食事処に来たような気分になりかけましたが、もちろん口には出しませんでした。
    出したら景膳に怒られます。

    大槻主膳は、景膳を見るなり言いました。

    「佐伯殿。名簿の件、少々行き過ぎではありませぬか」

    画像
    井手小弥太を名簿に残すかどうか、景膳は反対派と向き合う。


    「どの件にございましょう」

    「井手小弥太のことです」

    来た。

    大槻主膳は、紙を1枚手に取りました。

    「井手家は下士の家。時習館は藩の子弟を育てる場とはいえ、誰彼かまわず入れてよい場ではありますまい」

    「誰彼かまわず入れた覚えはございませぬ」

    景膳は穏やかに答えました。

    「では、なぜ井手小弥太を」

    「問うた答えがよかったからです」

    「若造の口先で、家格を越えさせると?」

    部屋の空気が固くなりました。

    景膳は、声を荒げませんでした。

    「家格を越えさせるのではありませぬ。学ぶ機会を与えるのです」

    「同じことです」

    「違います」

    景膳の声に、少しだけ刃が入りました。

    「家格は家格。役目は役目。学びは学びです。それをすべて同じ箱に入れてしまえば、中で腐ります」

    私は、思わず心の中でうなりました。

    景膳は、言葉が鋭い。

    刀を抜かない。
    しかし、切っている。

    大槻主膳の眉が動きました。

    「佐伯殿は、細川の血を引く縁者筋ゆえ、そのように理想を語れるのでしょうな」

    また、その話です。

    細川の血。

    景膳にとって、それは誇りであり、重荷であり、問いでもある。

    私は景膳の横顔を見ました。

    怒るのかと思いました。

    だが、彼は静かでした。

    「私は、細川の血を引く縁者筋だからこそ申しております」

    部屋の中が、少しざわつきました。

    景膳は続けました。

    「血を誇るなら、藩を細らせてはなりませぬ。家格を守ることは大事です。だが、家格を守るあまり、人材を見落とすなら、それは藩を守っているのではなく、己の席を守っているだけです」

    大槻主膳の顔が険しくなりました。

    「言葉が過ぎますぞ」

    「過ぎた言葉を申しました。お詫びいたします」

    景膳は頭を下げました。

    しかし、そのあとすぐ顔を上げました。

    「ですが、取り消しはいたしませぬ」

    強い。

    私は、思わず息を止めました。

    現代なら、これはなかなかの会議です。
    いや、現代でもここまで言える人は少ない。

    大槻主膳は低い声で言いました。

    「では、佐伯殿は下士の子を重く見て、由緒ある家の子を軽んじると」

    「いいえ」

    景膳は即座に否定しました。

    「由緒ある家の子であっても、学ぶ者は重く見ます。下士の子であっても、怠ける者は退けます。見るのは家ではなく、学ぶ姿勢です」

    「きれいごとですな」

    「きれいごとを実務に落とすのが、改革でございましょう」

    その言葉に、私は胸が熱くなりました。

    景膳は、学問を飾りにしようとしていない。
    改革を言葉だけにしようとしていない。

    実務に落とす。

    16代前の源左衛門が、村の水路を見て、土を触り、人の顔を見たように。
    8代前の景膳は、若者の目を見て、問いへの答えを聞き、名簿の中から可能性を拾おうとしている。

    やっていることは違う。
    けれど、根は同じでした。

    その時、大槻主膳が私の方を見ました。

    「ところで、その者は何者ですかな」

    しまった。

    私は、できれば壁と同化したかった。

    景膳が答えました。

    「遠縁の者です」

    「先ほどから黙っておりますが、ずいぶん奇妙な目をしている」

    奇妙な目。

    たぶん、現代人の目です。

    大槻主膳は私に言いました。

    「そなた、名は」

    私は頭を下げました。

    「大山塞膳と申します」

    「大山。そなたはどう思う」

    来た。

    来てしまった。

    私は心の中でしょうさんを見ました。
    助けてほしい。

    しょうさんは、部屋の隅で静かに微笑んでいました。
    まったく助ける気がない。

    景膳も私を見ています。
    余計なことを言うなと言った本人が、今度は止めない。

    私は観念しました。

    「恐れながら」

    声が少し上ずりました。

    「私のいたところでは、人を選ぶときに、肩書きや家柄だけでなく、その人が何をしようとしているかを見ることが大事だと言われます」

    大槻主膳が眉をひそめました。

    「その割に、そなたの言葉は頼りないな」

    痛い。

    「はい。私自身、できているとは言えません」

    部屋の何人かが、少し反応しました。

    私は続けました。

    「ただ、分からないと言える人は、学べる人だと思います。分かったふりをする人は、その場では立派に見えますが、あとで周りを困らせることがあります」

    大槻主膳は黙っています。

    「井手小弥太殿は、分からないから学びたいと言いました。それは、家柄とは別の力だと思います」

    言い終えたあと、私は自分の心臓が少し速くなっているのを感じました。

    現代人として、江戸中期の藩士たちの前で意見を言う。
    これはなかなかの無茶です。

    大槻主膳は、しばらく私を見ていました。

    「そなたも、分からぬことが多そうだな」

    「はい。かなり多いです」

    正直に答えるしかありませんでした。

    すると、景膳が少し笑いました。

    「そこは取り柄です」

    褒められたのかどうか微妙でした。

    大槻主膳は、再び景膳に向き直りました。

    「そこまで申すなら、井手小弥太を残すとして、その責を誰が負う」

    部屋の空気が変わりました。

    責。

    これが本題なのでしょう。

    誰かを引き上げるなら、結果の責任を誰が持つのか。
    才能を見たと言うなら、その才能が本物でなかった時に誰が責めを受けるのか。

    景膳は、まっすぐ答えました。

    「私が負います」

    迷いがありませんでした。

    「井手小弥太が怠け、学びを粗末にし、他の者の妨げとなるなら、私が名簿から外します。ですが、学ぶ意志があるうちは、場を与えます」

    大槻主膳は、景膳をじっと見ました。

    「細川の血を、そのような子の後ろ盾に使うおつもりか」

    景膳は静かに言いました。

    「使えるものは使います」

    私は驚きました。

    景膳は続けました。

    「血筋を飾っておくだけなら、床の間の壺と同じです。藩の役に立たぬなら、何の意味もありません」

    沈黙が落ちました。

    長い沈黙でした。

    やがて、大槻主膳は小さく息を吐きました。

    「そこまで申すなら、よろしい」

    景膳は頭を下げました。

    「ありがとうございます」

    「ただし、井手小弥太が問題を起こせば、佐伯殿にも責を問いますぞ」

    「承知しております」

    大槻主膳は、私の方をちらりと見ました。

    「そして、その遠縁の者にも、少しは学ばせた方がよい」

    私は背筋を伸ばしました。

    「私ですか」

    「いかにも、分からぬ顔をしておる」

    かなり当たっています。

    景膳が言いました。

    「そのつもりです」

    「え」

    私は景膳を見ました。

    「明日から、そなたにも時習館の講義を聞かせる」

    「私もですか」

    「社会見学であろう」

    また出ました。

    便利すぎる言葉です。


    時習館入門

    翌朝、私は本当に時習館へ連れて行かれました。

    景膳が言った「そなたにも時習館の講義を聞かせる」という言葉は、冗談ではなかったらしい。

    現代人である私は、心のどこかで、こういう流れは雰囲気だけで済むと思っていました。

    ご先祖様社会見学。
    見て、聞いて、少し感動して、少し考えて帰る。

    その程度だと思っていました。

    しかし、8代前のご先祖様は甘くありません。

    「座れ」

    景膳は短く言いました。

    目の前には、若い藩士子弟たちが並んでいます。
    その中には、井手小弥太もいました。
    小弥太は私を見ると、少し驚いた顔をしました。

    「大山殿も、学ばれるのですか」

    「そのようです」

    「未来の方なのに?」

    「未来の人間にも、分からないことはたくさんあります」

    そう答えると、小弥太は真面目な顔でうなずきました。

    「それなら、ともに学びましょう」

    なんて素直な子なのでしょう。

    私は少し感動しました。

    その横で、家格の高そうな若者が私をちらりと見ました。
    昨日、井手小弥太が残されることに不満そうだった者です。

    「未来から来た遠縁の者、ですか」

    言い方に棘があります。

    私は曖昧に笑いました。

    「遠縁というか、かなり遠いです」

    「どのくらい遠いのです」

    「8代ほど」

    若者は眉をひそめました。

    「それは遠すぎませぬか」

    まったくその通りでした。

    景膳がこちらを見ました。

    「余計な話をするな」

    「はい」

    私は慌てて正座しました。

    しかし、ここで早くも問題が起きました。

    正座が、きつい。

    現代でも正座くらいできる。
    そう思っていました。

    だが、講義が始まる前から、足に不穏な気配があります。
    周りの若者たちは涼しい顔で座っていますが、こちらはすでに足の親指あたりが危ない。

    しょうさんは部屋の後ろで、穏やかに座っていました。
    姿勢がきれいです。
    たぶん、案内人には足がしびれるという概念がないのでしょう。

    景膳が、手にした書物を開きました。

    「本日の問いは、学問は何のためにあるか、である」

    いきなり大きい。

    昨日から、景膳は問いが大きい。

    「書を読むためか。役目を得るためか。家を高めるためか。藩を救うためか。それとも、己の愚かさを知るためか」

    最後だけ少し刺さります。

    私は、すでに足のしびれで己の弱さを知り始めていました。

    景膳は若者たちを見渡しました。

    「村上新吾」

    昨日、小弥太に少し反発していた若者です。

    「はい」

    「答えよ。学問は何のためにある」

    村上新吾は少し考えました。

    「武士として、正しい道を知るためにございます」

    「悪くない」

    景膳はうなずきました。

    「だが、正しい道を知ったとして、歩けなければどうする」

    村上新吾は黙りました。

    景膳は次に、小弥太を見ました。

    「井手小弥太」

    「はい」

    「そなたはどう思う」

    小弥太は緊張した顔で答えました。

    「分からぬことを、分からぬままにせぬためだと思います」

    景膳の目が少しやわらぎました。

    「それもよい」

    そして、なぜか私を見ました。

    嫌な予感がします。

    「大山塞膳。未来の者は、どう答える」

    来た。

    やはり来た。

    私は足のしびれをこらえながら、必死に考えました。

    「現代では、学問は、選択肢を増やすため、と言われることがあります」

    「選択肢」

    景膳が繰り返します。

    「はい。知らないと選べない。知っていれば、別の道を選べるかもしれない。そういう意味です」

    景膳は少し黙りました。

    「悪くない」

    珍しく、最初から否定されませんでした。

    私は少し安心しました。

    しかし、景膳はすぐに続けました。

    「だが、選ぶ力がなければ、選択肢が多いほど迷う」

    痛い。

    現代人にとても痛い。

    「未来は、選択肢が多いのか」

    「多すぎるくらいです」

    「ならば、未来の者は迷いも多かろう」

    「はい。とても」

    景膳は、静かにうなずきました。

    「ならば、学問は選択肢を増やすだけでは足りぬ。選ぶ己を育てねばならぬ」

    私は、その言葉に少し黙りました。

    現代では、情報は多い。
    道具も多い。
    選べるものも多い。

    けれど、何を選ぶのか。
    なぜそれを選ぶのか。

    その軸がなければ、人は迷い続ける。

    8代前の講義が、普通に現代の自己啓発より刺さってきます。

    景膳は書物を閉じました。

    「では、次に読む」

    若者たちが姿勢を正しました。

    私も慌てて姿勢を正しました。

    その瞬間、足がしびれました。

    完全に来ました。

    右足が、もう自分の足ではありません。
    左足も、時間の問題です。

    景膳が書物の一節を読み上げました。

    言葉は分かるようで分からない。
    漢文のようでもあり、訓読のようでもあり、現代の授業とはまるで違う。

    私の頭は、内容よりも足のしびれに支配されていました。

    「大山塞膳」

    また呼ばれました。

    「はい」

    声が裏返りかけました。

    「今の箇所、どう受け取った」

    どう受け取ったも何も、足がほぼ消滅しています。

    しかし、それを言うわけにはいきません。

    「ええと……人は、学んでも、それを行いに移さなければ意味がない、ということでしょうか」

    景膳は、少し目を細めました。

    「ほう」

    当たったのか。

    自分でも驚きました。

    「続けよ」

    続けるのか。

    私は、もう勢いで話すしかありませんでした。

    「知っていることと、できることは違います。現代でも、正しいことを知っていても、なかなかできない人は多いです。私もそうです」

    景膳は黙って聞いています。

    「だから、学問は頭に入れるだけでなく、日々の行いに落とすものなのかなと思いました」

    景膳は、ゆっくりうなずきました。

    「よい」

    私は内心ほっとしました。

    しかし、ほっとした瞬間、足の感覚が完全になくなりました。

    まずい。

    私は少し姿勢を変えようとしました。
    その動きが、思ったより大きかった。

    体がぐらりと傾きます。

    「おっと」

    次の瞬間、私は横に倒れました。

    画像
    未来人、時習館で正座に敗れる

    若者たちが一斉にこちらを見ます。

    小弥太が心配そうに身を乗り出しました。

    「大山殿!」

    村上新吾は、笑いをこらえています。

    景膳は、無表情で私を見下ろしました。

    「何をしている」

    「足が……」

    「足?」

    「しびれました」

    部屋の空気が、一瞬止まりました。

    そして、数人の若者が小さく笑いました。

    景膳はため息をつきました。

    「未来の者は、座ることも学ばねばならぬのか」

    「はい。大きな課題です」

    「では、今日の学びに加えておけ」

    「何と書けばよいでしょうか」

    「姿勢を保つには、足腰も要る」

    その通りでした。

    しょうさんが後ろで静かに言いました。

    「体験型ですから」

    私は床に倒れたまま答えました。

    「便利な言葉で片づけないでください」

    小弥太が私を助け起こしてくれました。

    「大丈夫ですか」

    「ありがとうございます。足が別人になっています」

    「足が別人?」

    小弥太は本気で心配しています。

    私は少し申し訳なくなりました。

    「大丈夫です。しばらくすると戻ります」

    「未来の方は、不思議な病をお持ちなのですね」

    「病ではありません。正座です」

    村上新吾がとうとう吹き出しました。

    それにつられて、他の若者たちも少し笑いました。

    講義の場に、ほんの少しだけ柔らかい空気が流れました。

    景膳はそれを止めませんでした。

    しばらくして、景膳が言いました。

    「笑うのはよい。だが、覚えておけ」

    若者たちは姿勢を正しました。

    「人は、どれほど立派なことを言っても、足がしびれれば倒れる」

    なんという教訓でしょう。

    「志も同じだ。大きな志を掲げても、それを支える日々の体がなければ倒れる。学問も、役目も、藩政も同じだ。大きな言葉ほど、足元を見よ」

    私は、しびれた足をさすりながら、妙に納得してしまいました。

    まさか自分の正座失敗が、講義の教材になるとは思いませんでした。

    景膳は続けました。

    「大山塞膳は、未来の者である。道具も知識も、我らより多く持つ世から来た」

    若者たちの視線が、また私に集まります。

    「だが、足はしびれる」

    そこを強調しなくてもいい。

    「つまり、人は時代が変わっても、弱さを持つ。弱さを知らぬ学問は、人を見誤る」

    部屋の空気が変わりました。

    笑いから、静かな納得へ。

    景膳は、私をただ笑い者にしたのではありませんでした。
    私の失敗を、学びに変えたのです。

    「井手小弥太」

    景膳が呼びました。

    「はい」

    「今日、大山塞膳から何を学んだ」

    小弥太は真剣に考えました。

    「未来の方でも、足はしびれるということです」

    部屋にまた笑いが起きました。

    景膳も、ほんの少し口元を動かしました。

    「それもある」

    それもあるのか。

    小弥太は続けました。

    「それから、分からぬことや弱いところがあっても、学ぶことはできるということです」

    景膳はうなずきました。

    「よい」

    村上新吾が、少し控えめに手を上げました。

    「佐伯殿」

    「何だ」

    「では、家格ある者も、ない者も、弱さを持つという点では同じなのでしょうか」

    景膳は、村上新吾をじっと見ました。

    「そうだ」

    村上新吾は少し黙りました。

    昨日は、小弥太に対して明らかに不満を持っていた若者です。
    だが今、その顔には少し違う色が浮かんでいました。

    「ならば、学ぶ場では、家格だけで強いふりをしても意味がないのですね」

    景膳の目が、わずかにやわらぎました。

    「ようやく入口に立ったな」

    村上新吾は、深く頭を下げました。

    私はその様子を見て、胸の奥が温かくなりました。

    時習館とは、ただ書物を読む場所ではない。
    人が自分の弱さを知り、他人の可能性を見る場所でもあるのだ。


    そろばんの音

    時習館の次に景膳が私を連れて行ったのは、講義の場とはまるで違う場所でした。

    そこは、役所のような建物でした。

    中へ入ると、空気が違います。

    紙の匂い。
    墨の匂い。
    そして、そろばんの音。

    ぱちり。
    ぱちり。
    ぱちぱちぱち。

    画像
    理想を支えるのは、紙代、米代、そしてそろばんだった。

    あちこちで、男たちが帳面に向かい、米の量、銀の額、人足の数、紙の枚数を計算しています。

    時習館の前では、学問とは何か、人をどう育てるか、血筋をどう使うかという話をしていました。

    しかし、ここではもっと生々しい。

    いくらかかるのか。
    どこから出すのか。
    誰が負担するのか。
    足りないなら、何を削るのか。

    私は思わずつぶやきました。

    「急に会社っぽくなりましたね」

    景膳が振り返りました。

    「かいしゃ?」

    「現代の仕事場です」

    「未来にも、金で揉める場所があるのか」

    「あります。むしろ、だいたい揉めます」

    景膳はうなずきました。

    「ならば、未来も変わらぬな」

    私は否定できませんでした。

    奥の部屋に、勘定方らしき男がいました。

    年は50代くらい。
    目の下に疲れがあり、頬は少しこけています。
    しかし、指先だけは異様に速い。

    そろばんを弾く音が、ほとんど小さな雨のようでした。

    「佐伯殿」

    男は顔を上げました。

    「また時習館の件ですか」

    声に、少しだけ疲れがにじんでいます。

    景膳は平然と答えました。

    「そうです」

    「学ぶ者が増えれば、紙が要ります。紙が増えれば、墨が要ります。灯りも要ります。師も要ります。建物の手入れも要ります。すべて、ただではございませぬ」

    「承知しております」

    「承知しておられる方ほど、よく増やされる」

    勘定方の男は、深いため息をつきました。

    私は、思わず親近感を覚えました。

    この人は、時代は違うが、完全に予算管理の人です。
    理想を語る人の横で、現実の数字に胃を痛めている人だ。

    景膳が私に言いました。

    「この方は、野村弥平。勘定方だ」

    私は頭を下げました。

    「大山塞膳と申します」

    弥平は私を見ました。

    「どちらの方で」

    景膳が即座に答えました。

    「遠縁の者です」

    また出た。
    便利な設定です。

    弥平は、私の顔をじっと見ました。

    「遠縁にしては、ずいぶん時代の違う顔をされていますな」

    鋭い。

    景膳が咳払いしました。

    「細かいことはよい」

    「細かいことを拾うのが、勘定方の務めでございます」

    この人も手強い。

    景膳は、懐から名簿を取り出しました。

    「時習館に入れる者を、数名増やしたい」

    弥平の顔が、さらに疲れました。

    「またですか」

    「またです」

    「佐伯殿。藩の財は、井戸ではございませぬ。汲めば減ります」

    「だからこそ、人を育てるのです」

    「人を育てるにも、米が要ります」

    このやり取りは、まったく笑えないほど現実的でした。

    現代でも、よくあります。

    人材育成が大事です。
    教育が大事です。
    研修が必要です。
    しかし予算はありません。
    時間もありません。
    人も足りません。

    私は、思わず口を挟んでしまいました。

    「どの時代も、人材育成の予算は厳しいんですね」

    景膳と弥平が同時にこちらを見ました。

    しまった。

    また余計なことを言った。

    景膳が目で「黙れ」と言っています。
    弥平は逆に興味を持ったようでした。

    「未来でも、そうなのですか」

    「はい。人を育てるのは大事だと言いながら、忙しいから後回しにされることが多いです」

    弥平は、深くうなずきました。

    「未来の勘定方も苦労しておられる」

    「かなり」

    「酒でも酌み交わしたいものです」

    私は少し笑いました。

    景膳は苦い顔をしました。

    「話を戻します」

    弥平は帳面を開きました。

    「では、増やす者の数を」

    「5名」

    「多い」

    即答でした。

    「せめて3名に」

    景膳も即答しました。

    「4名」

    「では、間を取って2名」

    「減っているではありませんか」

    私は思わず突っ込んでしまいました。

    弥平が、ちらりと私を見ました。

    「交渉とは、そういうものです」

    現代でもたまに見るやつです。

    景膳は、名簿を広げました。

    「この5名は、いずれも見込みがあります」

    弥平は、そろばんを弾きながら言いました。

    「見込みで飯は食えませぬ」

    「だが、見込みを捨てれば藩は細ります」

    「見込みを拾いすぎれば、今が倒れます」

    2人の言葉は、どちらも正しかった。

    私は少し困りました。

    景膳の気持ちは分かる。
    学ぶ意志のある若者を、家格や貧しさで切り捨てたくない。
    藩の未来のためには、人を育てる必要がある。

    だが、弥平の言うことも分かる。
    紙代、食費、師への手当、建物の維持。
    すべて現実の負担です。

    理想と予算。

    これは、江戸時代でも現代でも、なかなか仲が悪い。

    景膳が私を見ました。

    「大山塞膳」

    嫌な予感がしました。

    「未来の者なら、どうする」

    また無茶ぶりです。

    私は、しばらく考えました。

    現代の会社なら、費用対効果、優先順位、試験運用、スポンサー、奨学金、段階導入。
    いろいろな言葉が浮かびます。

    しかし、この時代にそのまま言っても通じません。

    「ええと……いきなり5名を正式に入れるのではなく、まずは一定の期間だけ試しに学ばせるのはどうでしょうか」

    景膳が眉を動かしました。

    「試しに」

    「はい。たとえば3か月だけ講義を受けさせて、その間の姿勢や伸びを見ます。そのうえで正式に残す者を決める」

    弥平がそろばんを止めました。

    「3か月なら、費えは抑えられますな」

    景膳は少し考えました。

    「仮入学のようなものか」

    「はい。現代では、試用期間とか、トライアルとか言います」

    「とらいある?」

    「試し、です」

    弥平はうなずきました。

    「試しならば、こちらも飲みやすい」

    景膳は名簿を見ました。

    「だが、試しの間に家格ある者から横槍が入れば、下士の子は萎縮する」

    「そこは、景膳さんが守るしかないと思います」

    私がそう言うと、景膳は私をじっと見ました。

    「簡単に申すな」

    「すみません」

    「だが、その通りだ」

    弥平は、そろばんをまた弾き始めました。

    「3か月、5名。紙と墨は最小限。書物は共用。灯りは既存のものを使う。師への追加手当は……」

    そこで弥平は深く息を吐きました。

    「ここが痛い」

    その言い方があまりにも現代の経理担当に近くて、私は少し笑いそうになりました。

    「何がおかしい」

    弥平が私を見ました。

    「いえ、未来にも同じような方がいます」

    「優秀な方ですか」

    「とても大事な方です」

    「ではよい」

    弥平は少し満足そうでした。

    景膳は言いました。

    「師への手当は、私の分から少し回す」

    弥平の手が止まりました。

    「佐伯殿」

    「何です」

    「それをされると、こちらが止めにくくなります」

    「では、止めねばよい」

    弥平は、しばらく黙っていました。

    「細川の血を、そのようなところにも使われますか」

    弥平の声には、からかいではなく、どこか敬意がありました。

    景膳は答えました。

    「血は飾りではない、と申しました」

    弥平は帳面に何かを書き込みました。

    「では、3か月。5名。仮に学ばせる。正式な取り立ては、その後の評定で決める。紙と墨は節して使う。書物は共用。追加手当の一部は佐伯殿の分から回す」

    景膳はうなずきました。

    「それでよい」

    「よくありません。苦しいです」

    弥平は即座に言いました。

    「ですが、できぬとは申しません」

    その言葉に、私は胸の奥が温かくなりました。

    弥平も、反対していたわけではない。
    藩の金を守る立場として、簡単にはうなずけなかっただけなのです。

    景膳が人を育てたいように、弥平は藩を倒さないように守っている。

    役目が違う。
    だからぶつかる。
    でも、目指す先が完全に違うわけではない。

    建物を出ると、景膳は私に言いました。

    「今日の勘定方で、何を学んだ」

    私は少し考えました。

    「理想を形にするには、お金と実務が必要だということです」

    「他には」

    「反対している人が、必ずしも敵とは限らないということです」

    景膳の目が、少しだけやわらかくなりました。

    「それでよい」

    「弥平さんは、景膳さんの邪魔をしているのではなく、藩を守っていたのですね」

    「そうだ」

    景膳は言いました。

    「志ある者ほど、反対する者を敵と見やすい。だが、反対の中には、守るための反対もある」

    その言葉は、現代の私にもよく刺さりました。

    新しいことをしようとすると、反対する人がいる。
    つい、分かってくれない人、古い人、邪魔する人と思ってしまう。

    でも、中には本当に現場を守ろうとしている人もいる。

    「もっとも、ただ邪魔をする者もいる」

    景膳が言いました。

    「そこも現代と同じです」

    「ならば、見分ける目を持て」

    「はい」

    「そのために学ぶ」

    時習館の講義が、ここでもつながりました。


    何を残すのか

    時習館の講義が終わり、勘定方のそろばんの音も遠ざかると、私は夕方の熊本城下を歩いていました。

    景膳は少し先を歩いています。

    私はその背中を見ながら、16代前の源左衛門を思い出していました。

    源左衛門は、泥の道を歩き、水を見て、人の名を帳面に残していました。
    景膳は、城下の中で、名簿を見て、若者の才を拾い上げようとしていました。

    1人は文書で人を残す人。
    もう1人は学びで人を育てる人。

    時代は違う。
    役目も違う。
    けれど、確かにつながっている。

    「大山塞膳」

    景膳が足を止めました。

    「はい」

    「そなたは、未来で文を書くと言ったな」

    「はい」

    「ならば、そなたの役目は、それかもしれぬな」

    「役目、ですか」

    景膳はうなずきました。

    「佐伯の家には、文書の血がある。人の名を残し、言い分を残し、役目を残す血だ。細川につながる血もある。学び、治め、人を育てることを問う血だ」

    その言葉を聞きながら、私は胸の奥が静かに熱くなっていくのを感じました。

    「では、大山塞膳。そなたは何を残す」

    また、その問いでした。

    だが今度は、少しだけ答えられる気がしました。

    「有名な人だけではなく、名もなき人が生きていたことを残したいです」

    景膳は黙っています。

    「源左衛門さんのような人。景膳さんのように、名簿の片隅に小さな名前を残そうとした人。握り飯を作った人。水路で怒っていた太吉さん。上の村で言い分を持っていた嘉助さん。分からないから学びたいと言った小弥太さん。そういう人たちを書きたいです」

    景膳は、少し目を細めました。

    「それでよい」

    「よいのですか」

    「よい。だが、忘れるな」

    「何をですか」

    「人を書くなら、人を道具にするな」

    その言葉は、まっすぐ胸に刺さりました。

    「道具にする?」

    「感動するための道具。己を飾るための道具。物語を面白くするためだけの道具。人をそのように扱えば、書いたものは軽くなる」

    私は、すぐには返事ができませんでした。

    景膳は続けました。

    「人には、その人の暮らしがある。その人の恥もある。誇りもある。言いたくないこともある。書く者は、それを忘れてはならぬ」

    「難しいですね」

    「難しい」

    景膳は、あっさり認めました。

    「だから学ぶのだ」

    私は、熊本城の石垣を見上げました。

    書くということ。
    残すということ。
    誰かの人生に触れるということ。

    それは、思っていたよりもずっと重い。
    ただ面白くすればよいわけではない。
    ただ不思議にすればよいわけでもない。

    16代前の源左衛門は、文書箱を守った。
    8代前の景膳は、名簿に小弥太の名を残した。
    そして私は、現代でこの出来事を書こうとしている。

    それなら、私にも守るべきものがある。

    「大山塞膳」

    「はい」

    「そなたは、未来でよく迷うか」

    私は思わず笑いました。

    「かなり迷います」

    「ならば、よい」

    「よいのですか」

    「迷わぬ者は、たいてい人の痛みに鈍い」

    景膳の言葉は、いつも少し厳しいのに、どこか救いがあります。

    「ただし、迷うだけでは進まぬ」

    「はい」

    「迷いながら、書け。迷いながら、残せ。迷いながら、人を見よ。迷っていることを隠すな」

    私は、深くうなずきました。

    「分かりました」

    「本当に分かったか」

    「たぶん」

    「たぶん、か」

    「現代人は、すぐ断定するとあとで困るので」

    景膳は、少し笑いました。

    「便利な逃げ方だ」

    「よく使います」

    「使いすぎるな」

    「はい」


    志を持ち帰る

    夕暮れの熊本城下を、景膳はゆっくり歩いていました。

    私はその少し後ろをついていきます。

    足のしびれはようやく消えていました。
    けれど、今度は頭の中がしびれているようでした。

    血筋とは何か。
    学問とは何か。
    志とは何か。
    人を残すとは何か。

    8代前のご先祖様は、ずいぶん重い宿題を次々と出してきます。

    「大山塞膳」

    景膳が足を止めました。

    「はい」

    「そなたは、細川の血を感じたと言ったな」

    「はい」

    「その感覚を、疑う必要はない」

    景膳は、熊本城の方を見ました。

    「だが、血を証明することばかりに心を奪われるな」

    私は黙って聞きました。

    「血の証は、時に人を強くする。だが、時に人を縛る。自分は何者かを知ろうとして、かえって今の自分を見失うこともある」

    その言葉は、静かでしたが鋭かった。

    有名なご先祖様に会いたい。
    細川家とつながっているなら知りたい。

    それは自然な気持ちだと思います。

    けれど、そこだけに心を奪われると、きっと何かを見落とす。

    源左衛門が見せてくれた、泥の道。
    文書箱。
    水路。
    握り飯。
    太吉と嘉助。
    名もなき人たち。

    景膳が見せてくれた、時習館。
    名簿。
    小弥太。
    新吾。
    弥平のそろばん。
    紙代をめぐるため息。

    それらは、血筋の証明書ではありません。
    生きた人たちの気配でした。

    「血は、入口だ」

    景膳が言いました。

    「入口、ですか」

    「そうだ。入口に立っただけで、屋敷を知った気になるな。門をくぐり、庭を見て、台所を見て、蔵を見て、働く者を見て、ようやく家の一部が見えてくる」

    私はうなずきました。

    「この社会見学も、そうでした」

    「ならば、少しは学んだな」

    「少しは」

    「少しでよい。多く学んだと言う者ほど、たいてい怪しい」

    8代前のご先祖様は、最後まで手厳しい。

    景膳は、懐から小さな紙を取り出しました。

    そこには、私の名が書かれていました。

    大山塞膳。

    源左衛門が書いてくれた文字とは、また違う。
    景膳の字は、きりりとしていて、どこか理知的でした。

    画像
    血を探してここへ来たなら、志を持って帰れ。

    「そなたは書道をしていたと言ったな」

    「はい」

    「ならば分かるだろう。字には、その者の癖が出る」

    「はい」

    「文にも出る」

    私は顔を上げました。

    景膳は続けました。

    「そなたが未来で書くものにも、そなたの癖が出る。迷いも、欲も、見栄も、優しさも、全部出る」

    私は何も言えませんでした。

    「だから、整えよ。字を整えるように、心も整えよ。だが、整えすぎて人の匂いを消すな」

    その言葉は、書く者への教えのようでした。

    「人の匂い、ですか」

    「そうだ。きれいなだけの文は、床の間の花と同じだ。悪くはないが、腹はふくれぬ」

    「景膳さんは、たとえが容赦ないですね」

    「容赦するために呼ばれたのではない」

    たしかに、しょうさんが連れてきたご先祖様は、みんな優しいだけではありませんでした。

    源左衛門も、景膳も、私を甘やかすために現れたわけではなかった。
    見せるべきものを見せ、問うべきことを問うために、そこにいたのです。

    景膳は紙を折り、私には渡さず、自分の懐へ戻しました。

    「持ち帰るのは、この紙ではない」

    「では、何を持ち帰ればよいのですか」

    「志だ」

    その言葉は、前にも聞きました。
    けれど今度は、もっと深く響きました。

    「血を探してここへ来たなら、志を持って帰れ」

    景膳は言いました。

    「細川の血に触れたと思うなら、細川の名に酔うな。佐伯の家に触れたと思うなら、文書箱だけをありがたがるな。源左衛門に会ったなら、人の名を粗末にするな。私に会ったなら、学ぶ者の小さな火を見落とすな」

    私は、深く頭を下げました。

    「はい」

    「そして、そなた自身の世で、そなた自身の役目を探せ」

    「私の役目……」

    「そうだ」

    景膳は、私をまっすぐ見ました。

    「ご先祖様をたどる旅は、過去を飾るためのものではない。今を正すためのものだ」

    胸の奥に、ずしりと来ました。

    景膳は続けました。

    「書くなら、面白く書け」

    私は思わず顔を上げました。

    「え、そこですか」

    「読まれぬ文は、閉じた箱と同じだ」

    「文書箱ですね」

    「そうだ。中に大事なものが入っていても、誰も開けねば届かぬ」

    景膳は、少しだけ口元を緩めました。

    「笑いも入れよ。人は笑うと、少し心を開く。だが、笑わせるために人を軽んじるな」

    私は、深くうなずきました。

    それは、この物語そのものの教えでした。

    歴史を重く書きすぎれば、読者は息が詰まる。
    軽くしすぎれば、ご先祖様に失礼になる。
    その間を、笑いながら、でも大切なものを落とさずに歩く。

    難しい。
    けれど、やってみたい。

    しょうさんが、静かに近づいてきました。

    「大山さん」

    その声を聞いた瞬間、胸の奥が少し寂しくなりました。

    「時間ですか」

    「はい。そろそろ戻りましょう」

    景膳は、しょうさんを見ました。

    「案内人殿」

    「はい」

    「この者は、未来でちゃんと書くのか」

    しょうさんは、少し笑いました。

    「書くと思います」

    「思います、では困る」

    「では、書きます」

    しょうさんがそう言うと、景膳は満足そうにうなずきました。

    私は少し慌てました。

    「私の意思は」

    「問われているのは、そなたの意思ではなく、そなたの志だ」

    景膳の言葉は、最後まで逃げ道がありませんでした。

    風が吹きました。

    熊本城下の音が、少し遠くなります。

    町人の声。
    武士の足音。
    時習館の若者たちの声。
    そろばんの音。
    遠くで鳴る犬の声。
    夕飯の支度をする匂い。

    それらが、少しずつ薄くなっていきました。

    私は、景膳に向かって頭を下げました。

    「ありがとうございました」

    「礼を言うなら、書け」

    「はい」

    「血ではなく、志を書け」

    「はい」

    「それから」

    「はい」

    「古い字も学べ」

    やはり、最後にも宿題が来ました。

    私は笑いました。

    「分かりました。そこも努力します」

    「努力では足りぬ。続けよ」

    「はい」

    景膳は、満足したようにうなずきました。

    その姿が、少しずつ遠ざかります。


    現代へ

    気づけば私は、またあの空飛ぶ見学車に座っていました。

    屋根のないゴンドラ。
    あるいは、大八車の荷台に椅子をつけたような乗り物。

    最初に見たときは頼りなかった。
    けれど今は、この奇妙な乗り物が少し好きになっていました。

    しょうさんが前方へ浮かび上がります。

    その約30m後ろを、私の乗った見学車が、見えない糸に引かれるように進んでいく。

    下を見ると、熊本城下が広がっていました。

    景膳が、石垣の近くに立っています。
    こちらが見えているのかは分かりません。
    けれど彼は、まっすぐ空を見上げていました。

    私は、乗り物の上から深く頭を下げました。

    源左衛門。
    景膳。
    細川の血。
    佐伯の実務。
    文書箱。
    時習館。
    太吉。
    嘉助。
    小弥太。
    新吾。
    弥平のそろばん。

    すべてが、私の中で1本の線になったわけではありません。
    むしろ、たくさんの糸が絡み合ったままです。

    でも、それでよいのかもしれません。

    家系とは、まっすぐな線ではなく、絡まりながら続いてきた糸の束なのだろう。

    その糸の先に、今の私がいます。

    「しょうさん」

    私は前を飛ぶ案内人に声をかけました。

    「はい」

    「私は、本当に過去へ行ったのでしょうか」

    しょうさんは、すぐには答えませんでした。

    風の音だけが聞こえます。

    やがて、しょうさんは言いました。

    「現実ではないかもしれません」

    「はい」

    「けれど、嘘でもないでしょう」

    私は目を閉じました。

    その言葉は、この旅のすべてを表している気がしました。

    現実ではない。
    けれど、嘘でもない。

    手元には、景膳が書いてくれた紙はありません。
    源左衛門の文書もありません。
    細川の血を証明する印もありません。

    けれど、胸の中には確かに残っています。

    有名でない者も、生きていた。
    血を探して来たなら、志を持って帰れ。
    人を書くなら、人を道具にするな。
    読まれぬ文は、閉じた箱と同じだ。
    大事なものほど、1人で抱えるな。

    次に目を開けたとき、私は現代にいました。

    電気の明るさ。
    部屋の静けさ。
    遠くで聞こえる車の音。
    手元にあるスマホ。

    一瞬前まで、私は8代前の熊本城下にいたはずでした。
    なのに、今は何事もなかったように現代へ戻っています。

    私は、自分の手を見ました。

    そこに、景膳が書いてくれた紙はありません。
    源左衛門が記した私の名もありません。
    文書箱の泥もついていません。

    それでも、指先にかすかに墨の感触が残っているような気がしました。

    気のせいかもしれません。

    けれど、ただの気のせいとして片づけるには、あの体験はあまりにも鮮明でした。

    私はスマホを手に取りました。

    画面は当然のように明るくなりました。
    16代前の人が見れば、妖術と言うでしょう。
    8代前の景膳なら、たぶん1度は興味を示しながら、最後にはこう言うに違いありません。

    「道具が賢くなっても、人が賢くなるとは限らぬ」

    その声が聞こえた気がして、私は少し笑いました。

    そして、メモを開きました。

    何から書けばよいのか分かりませんでした。

    空飛ぶ見学車のことか。
    しょうさんが30m前を飛んでいたことか。
    源左衛門の文書箱か。
    太吉と嘉助の水争いか。
    景膳の時習館か。
    細川の血か。
    足のしびれか。

    どれも書きたい。
    どれも残したい。

    けれど、最初の1行は自然に浮かびました。

    人には、誰しもご先祖様がいます。

    私は、その1行を打ち込みました。

    それから、少し手を止めました。

    この物語を、どう書けばよいのだろう。

    重くしすぎれば、読みづらい。
    軽くしすぎれば、失礼になる。
    霊的に寄せすぎれば、怪しくなりすぎる。
    歴史説明に寄せすぎれば、資料のようになってしまう。

    そう考えたとき、景膳の言葉を思い出しました。

    「読まれぬ文は、閉じた箱と同じだ」

    そうだ。

    文書箱は、開けてもらわなければ意味がない。

    ならば、少し面白く書こう。
    少しユーモラスに書こう。
    でも、人を道具にはしない。
    笑わせるために、ご先祖様を軽く扱わない。

    あの人たちが生きていたことを、できるだけ丁寧に、けれど読んでもらえる形で残そう。

    指が止まりませんでした。

    いや、正確には、ときどき止まりました。
    止まって、迷って、戻って、書き直しました。

    それでいいのだと思いました。

    景膳は言っていました。

    迷いながら、書け。
    迷いながら、残せ。
    迷いながら、人を見よ。

    私は、迷いながら書きました。

    源左衛門のこと。
    文書箱のこと。
    子どもが親思いで箱を動かしてしまったこと。
    太吉が疑われるのを恐れて黙っていたこと。
    嘉助にも言い分があったこと。
    景膳が細川の血を飾りではなく、誰かを支えるために使ったこと。
    井手小弥太が「分からぬから学びたい」と言ったこと。
    村上新吾が少しずつ変わっていったこと。
    弥平がそろばんを弾きながら、藩を守っていたこと。
    そして、私が時習館で足をしびれさせたこと。

    そこは、どうしても外せませんでした。

    人は、どれほど立派なことを言っても、足がしびれれば倒れる。

    景膳の言葉は、たぶんこの物語の大事な柱になる。

    私は、ふと自分の足を見ました。

    現代の床の上にある自分の足。
    もうしびれてはいません。

    けれど、不思議なことに、あのときのじんじんした感覚だけは、まだ少し残っている気がしました。

    現実ではない。
    けれど、嘘でもない。

    私は、その言葉を画面に打ち込みました。

    現実ではない。
    けれど、嘘でもない。

    しょうさんのご先祖様社会見学は、いつもその境目から始まる。

    打ち終えた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなりました。

    細川の血を証明するものは、今の私の手元にはありません。
    源左衛門や景膳が実在したという古文書も、ここにはありません。
    夢だったのかもしれません。
    ただの想像だったのかもしれません。
    不思議な体験として、説明のつかないものだったのかもしれません。

    けれど、私にとっては、もうどうでもよかった。

    大事なのは、証明することだけではない。

    あの体験から、何を受け取ったのか。
    それを、これからどう生かすのか。
    そして、何を次へ渡すのか。

    私は、画面の最後にこう書きました。

    私は、血の証を持ち帰ったのではない。
    志を、持ち帰ったのだ。

    そこで手を止めました。

    窓の外は、現代の夜でした。
    街灯があり、車の音があり、スマホの画面が明るく光っています。

    8代前の熊本城下の星空とは、まるで違います。

    けれど私はその夜、遠いご先祖様たちと同じ空の下にいるような気がしました。

    源左衛門。
    景膳。
    名前を聞けなかった人たち。
    そして、これから出会うかもしれない、まだ見ぬご先祖様たち。

    ご先祖様社会見学は、きっとこれで終わりではありません。

    人には、誰しもご先祖様がいる。

    ならば、扉はまだ、無数にある。

    今夜、扉が開くのは、誰の家系でしょうか。

    それでは、ご先祖様の世界へ。
    ほんの少しだけ、足を踏み入れてみることにいたしましょう。

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

     
     
    会社員、技術者、そして書き手。仕事、旅、人との出会い、歴史、夢。現実の奥に埋もれた物語を拾い、ノンフィクションと創作の間を行き来しながら書いています。

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