
手の届く時間の中で 温泉津
手の届く時間と人の美
温泉津温泉に泊った。
この町では、時間がまだ手の届くところに置かれていた。
街並みは独特な雰囲気を持っていて、
よくある寂れた温泉街とは違う。
宿場町でもない。
銀山で稼いだ金を、惜しみなく落としていく
旦那衆。
この町は、そのためにあったという。
最盛期には宿が四十軒。着物屋も多い。
わずか数百メートルの中で、
生活も、遊びも、すべてが完結していた。
夕食までのあいだ、少し近所を歩く。
古い食器を売る店先に、
抹茶と和菓子をいただける、という張り紙があった。
宿の中居は言っていた。
明治のもので、良いものがあると。
店の奥には、古い着物を現代風に仕立て直した品が並ぶ。
洗い張りがきちんとされているのだろう、
布は、時間を経ているのに軽い。
主人の女性は、七十代半ばくらい。
総白髪のセミロングを無造作にまとめている。
整えているわけではないのに、どこか艶やかで、品がある。
妻が品を見ているあいだ、
その人は、温泉津の成り立ちを話しはじめた。
銀山と、この町の関係。
取り止めもなく、というより、
話しているうちに、順番がほどけていくような語り方だった。
どこか、懐かしんでいるようにも聞こえる。
けれど、その懐かしさは、
まだ、手の届くところに置かれている。
話しているのは過去のことのはずなのに、
店の中では、どれも現在の出来事のように聞こえた。
その人には、色気があった。
年齢とは関係のない、
外側の形でもない、
時間をそのまま引き受けたような静かな艶。
見ているのに、どこか触れてはいけない気がする。
そういう距離の中にある美だった。
妻が選んだ磁器は、どれも手描きだった。
それを見て、婦人は言う。
「食洗機は使えませんよ」
少し笑いながら、けれど、その言葉には迷いがなかった。
白地に、花。
藍と、少し滲んだような赤。
線は揃っていないのに、どこも崩れていない。
均一ではないことが、かえって整って見える。
指でなぞれば、わずかな凹凸がありそうな気がする。
時間が、表面にとどまっているような手触り。
「蔵がいくつかあってね、まだ整理しなくちゃいけないの」
婦人はそう言った。
整理、という言葉のわりに、
急いでいる気配はなかった。
ここにあるものは、片付ける対象というより、
まだ、手の届くところに置かれているものだから。
店の奥には、茶道の茶碗もいくつか並んでいた。
萩焼らしい器が目に留まる。
見せてもらう。
畳に腰を落とし、
道具を拝見するときの姿勢になる。
手に取ると、どこか見覚えがある。
家にある萩焼に、よく似ている。
粒子の粗い土に、白い釉薬が溶け、流れる。
その曖昧な境目に、目がとまる。
そこで、ふと口にする。
彼女も、茶道の講師をやっています、と。
その一言で、空気が変わった。
それまで、私に向けられていた言葉の調子が、
少し奥へ引かれていく。
二人のあいだで、別の会話が始まる。
私は、自然と外に出る。
けれど、不思議と疎外感はなかった。
理解できない言葉が行き交うあいだ、
私は通りの方に目を向ける。
声は背中で続いている。
入っていけないのではなく、入らなくていい場所だった。
境目にいた午後
せともの屋を出ると、温泉津の通りはまた静けさを取り戻していた。
さっきまで手に取っていた器の手触りが、まだ指先に残っている。
時間がわずかに遅れて触れてくる。
そのまま坂を上がり、
龍御前神社へ向かった。
石段は短いが、町との距離が少しずつ切れていく。
振り返ると、瓦屋根と海が低く広がっている。
生活の時間が、下に溜まっている。
拝殿に手を合わせて、帰ろうとしたときだった。
中から、手招きをされた。
年配の男性がひとり、
「中、見ていくか」と言う。
靴を脱いで上がると、空気が変わった。
赤い幕の向こう側。
外とは別の時間が、そこにあった。
床には、衣装が広げられている。
朱の布に、円の文様。
まだ誰も袖を通していないのに、すでに形がある。
その横に、畳まれた衣装の束。
重なった布の厚みが、そのまま時間の厚みに見える。
さらに奥に進むと、面が並べられていた。
石見神楽の面。
鬼の顔、獣の顔。
歯をむき出し、角を立てている。
けれど、それらはすべて床に寝かされている。
まだ、誰の顔にもなっていない。
男性が一つひとつ説明してくれる。
これはどの演目で使うのか、どの場面で現れるのか。
話は穏やかで、長く続けてきた人の言葉だった。
ひと通り見終わったあと、
男性は「こっちだ」と言うように、奥へ奥へと歩いていく。
ひょいひょいと軽い足取りで、こちらを振り返りもしない。
まだ何かあるのかと、私と妻は顔を見合わせて、その後をついていく。
廊下を曲がり、もう一つ奥へ――と思ったところで、
男性はふっと引き戸を開けて、そのまま中へ入っていった。
トイレだった。
私と妻は、しばらく立ち止まり、顔を見合わせる。
小さく笑った。
それ以上、奥はなかった。
私たちはそのまま引き返し、
もう一度、さっきの拝殿に戻った。
さっきまで見ていた面は、変わらずそこにある。
衣装も、同じ形で広げられている。
何も起きていないのに、
少しだけ現実に戻された気がした。
金曜日だった。
本来なら、ここで舞が始まるのは明日の夜だという。
私は、舞を見ていない。
けれど、ここには確かに何かがあった。
神話に触れかけて、
ほんの少しだけ、日常に引き戻されたような時間。
その境目に、しばらく立っていた気がする。
戻ってきたはずなのに、
どちら側にいたのかは、少し曖昧なままだった。
屋上テラスで交わした、短い会話
夕食を終え、向かいにある薬師湯へ向かった。
番台には、中年の女性がひとりいた。
風呂の入り方と、屋上のテラスの使い方を説明される。
言葉は丁寧だが、どこか素っ気ない。
機嫌に触れないように置かれているような言い方だった。
分からないまま頷き、暖簾をくぐる。
脱衣場は、レトロという言葉がそのまま残っている。
時間が、途中で止まったような空間。
人はいない。
浴室に入ると、茶色の温泉成分が縁にこびりついた浴槽がひとつ。
使われてきた時間だけが、そこに残っている。
湯に浸かる。
少し熱い。だが、悪くない。
洗い場は、ほとんど機能していない。
長く居る場所ではないのだと、体が先に理解する。
しばらくして外に出ると、
妻もほとんど同じタイミングで出てきた。
言葉を交わすでもなく、少しだけ顔を見て、頷く。
ここでもまた、
時間が止まっているように思えた。
浴室の脇から、上のテラスへ続く階段がある。
踏むたびに、ところどころ軋む。
途中に、フリーのアイスコーヒーが用意されていた。
ありがたい、と思う。
紙コップを手に、そのままテラスへ出る。
夜が開けている。
頭上には、わずかに星。
春の空気はやわらかく、湿り気が視界を邪魔しない。
目を落とすと、温泉街の屋根が重なっている。
瓦の曲線が、暗がりの中でかすかに光を拾っている。
ところどころに灯りが残っている。
白い建物の窓、古い木造の壁、
それぞれが別の色で、静かに浮かんでいる。
電線が、夜空を横切っている。
整いすぎていない線が、この町のかたちをそのまま引き受けているように見える。
遠くで、車の音が一度だけ通り過ぎた。
それきり、音はない。
ベンチに腰掛ける。
コーヒーをひと口飲む。
言葉は出てこない。
出す必要もない。
ただ、しばらく景色を見ていた。
ベンチに腰掛けていると、
ふと、人の気配に気づいた。
向こうのベンチに、さっきの番台の女性が座っている。
休憩の時間なのかもしれない。
しばらくして、こちらに声をかけてきた。
「どちらからですか」
少しだけ、トーンが違う。
「神戸です」と答える。
神戸はいいところですね、と言う。
干渉されないから、と続けた。
少し間があって、
「私、ここで生まれたのですけど、今は大阪なんです」
と、静かに付け加える。
わたし、この街が……。
そのあと、彼女は一度だけ、こちらをまっすぐに見た。
それ以上は、語らなかった。
夜の空気は変わらない。
屋根の重なりも、灯りも、さっきと同じ場所にある。
ただ、見えているものの輪郭が、わずかに変わる。
ふるさとを愛する人と、そうでない人。
どちらも、この町の中にある。
女性は、ゆっくりと立ち上がり、
階段を降りていった。
軋む音が、ひとつずつ遠ざかる。
階段を降り、外に出る。
夜の空気は、来たときと変わらないはずだった。
宿へ戻る道を歩く。
灯りの位置も、建物の並びも、
さっきと同じはずなのに、どこか違って見える。
理由は分からない。
まだ——
この町の時間は、手の届くところにある。
そう言い切るには、何かが少しだけ残っている。