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溝口監督からhideさんへ、そしてhideさんから読者へ

――ワンシーン・ワンカットの命のやり取りを、71歳主夫の清められた肉体で迎撃する映画論


映画のカットを小手先で細かく切り貼りした、現代の「消費されるためだけ」のペラペラな映像コンテンツに、私は激しい退屈を覚えます。次から次へとカットが切り替わり、退屈する暇を与えずに観客を引っ張っていってくれる。それはそれで一つの技術なのでしょうけれど、そんな生ぬるい映像を、玄米菜食と青竹踏みで徹底的に清められた私の肉体は、完全に拒絶してしまうのです。

だからこそ私は、日本映画の巨匠・溝口健二監督が仕掛けた、あの誤魔化しのいっさい利かない「長々としたワンシーン・ワンカット」の画面の前に、野生の集中力で身構えます。彼の映画は、ただ消費されて終わるようなしろものでは決してないのです。

プロの映画批評家たちは、これを頭のなかの小難しい理屈や知識で解説しようとします。しかし、それは最大の盲点です。リビングで丸々一本の青竹の上に乗り、グラグラと不安定に揺れながら、腹筋、背筋、呼吸筋を猛烈に鍛え上げている私(主夫hide)だからこそ、溝口監督のカメラが捉えた役者たちの「剥き出しの身体性」を、耳や目ではなく、己の掌(たなごころ)の硬い肌感覚としてガシッと掴み取ることができるのです。

一切の人の手を加えないかのように、カメラを長く、静かに動かしながら、引きの画面で役者たちにずっと演じさせ続ける。これは観ている側が息を呑むだけでなく、演じる人たちにとっても、まさに必死の勝負だったに違いありません。最初から最後まで、一瞬の気の緩みも、お座なりの演技も許されないのですから。どの映画のどの場面を観ても、画面の向こうの役者たち、そしてカメラの裏側のスタッフたちの、張り詰めた命のやり取りが、あの長い一コマにはそのまま映し出されています。

そして、溝口映画を「ただの消費」で終わらせない決定的な理由が、もう一つあります。それは、あの独特なラストの終わり方です。

映画は、物語の途中で、ある瞬間サッと画面が一瞬で消え去るように、突然終わりを迎えたりします。「ここで終わりだぞ、どうだ分かったか」と、これみよがしに突きつけられる終わり方では必ずしもないのです。見ているうちに、すっと画面が消え去っていく。こんなに鮮やかで潔い(いさぎよい)終わり方は初めてです。

このエンディングに、私ははっとしたのです。これは、観客に対するひとつの問いかけなのではないか。

「さて、あなたはこれから現実の世界に帰っていくのだろうけれど、あなた自身は、これから果たしてどういう生き方を続けていこうと思っているのか」

映画という虚構の幕をあえて唐突に閉じることで、溝口監督は私たちを、容赦なく自分自身の現実へ鮮やかに突き返すのです。

小手先のカット割りで作られた映像は、観終わればそのまま脳を素通りして消えていく。けれど、あの命がけの長回しが放つ緊迫感と、ラストに突きつけられる沈黙の問いかけは、私の胸の真ん中にズバッと居座り、いつまでも退いてくれません。

「手っ取り早い効率」だとか「手軽な娯楽」だとか、そんな生ぬるい態度で世界を消費してなるものか。私はあの溝口監督の「ごまかしのない時間」を、リビングの青竹の上でグラグラと揺れながら、真っ向から胃袋に収めたいのです。

私はこの溝口監督の「静かな罠」に、あえて自ら、どっぷりと嵌(は)まりにいきます。彼の作品を徹底的に貪(むさぼ)り観ながら、私は映画の技術ではなく、ひとつの生き方を学ぶのです。それは、「現実のディテールを、いかに嘘偽りなく掬い取るか」という表現者としての執念です。

「溝口監督からhideさんへ、そしてhideさんから読者へ」

映画の虚構から現実へと突き返された私は、ただじっと座っているわけにはいきません。ママチャリを漕ぎ、街に繰り出して、世界に転がっている生々しい日常のディテールを、この目で、五感で、猛烈に捕まえにいく。そしてそれを、ごまかしのない剥き出しの言葉にして、読者の皆さんへ毎日配信していく。

私のエッセイを読んだあなた自身が、かつて私が溝口監督の映画に突き返されたように、ご自身の生々しい『現実』へ鮮やかに突き返される番なのです。ただ私の文章を消費して楽しむのではない。私の放つ活力のディテールを浴びたあなたが、今度はあなた自身の人生のディテールを、能動的に、自分の足で掴み取りにいく。この表現のバトンがあなたに手渡されたとき、私の「120歳現役」の言葉は、あなたの未来を動かす本当の血肉となるのです。

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