『雪夫人絵図』に漂う没落の匂いと、溝口健二の狂気
──偽物を許さない本物の名建築を、朝の特等席から眺める
おはようございます。今日も雨ですね。まるで梅雨のように鬱陶しい気分です。
今朝は少し早起きをして、自分で朝ご飯を作ったんですよね。こういう日は滅多にない、珍しいことなんですけれども。ご飯を食べ終わって、まだ時間があったので、映画でも観ようと思い立ったんです。ちょうど妻は仕事が休みで、ゆっくり休んでいますから、今がチャンスだなと思って。
それで、YouTubeを呼び出して、主演の女優である小暮実千代さんの伝記を何気なく見てみたら、まあ、本当にびっくりしてしまいました。
彼女はたしか、七十二歳(享年七十三)で亡くなられているんですよね。人生の最後の方では映画の出演がどんどん少なくなっていったんですけれど、実は彼女には、素晴らしいライフワークがあったということが分かったんです。
戦後の当時、満州などから命がけで日本人の引き揚げが行われる中で、小さな子たちをどうしてもそのまま連れて帰ることができず、子供の命のために、現地の人に預けざるを得なかった悲劇的な状況があったそうなんです。小暮実千代さんはその引き揚げ孤児たちの過酷な現実を目の当たりにして激しく胸を痛め、その子たちの姿をしっかり目に焼き付けたのだそうです。彼女は亡くなるまで、子供たちの情報をノートに書き留めながら、何度も中国に渡っては孤児たちを探し求め、救済のためにあらゆる尽力を尽くしていたということなんです。彼女にこれほど深く、尊い歴史があったとは、本当にびっくりしてしまいました。彼女自身、このことを表沙汰にせず、ひた隠しにしていたそうなんですね。
そんな彼女の映画での妖艶な演技の奥にある本物の気品に触れたくなって、今朝は溝口健二監督の『雪夫人絵図』を観てみようと思い立ったんです。
観始めてみると、これがまた本当に素晴らしい。日本で言うところの貴族の没落の歴史のようなものですね。イタリアで言えば、あのルキノ・ヴィスコンティ監督の映画にも通じるような、人間の悲しい運命の匂いが画面からプンプン漂ってくるんです。
でもね、何より私の目を釘付けにしたのは、この舞台になった熱海の建物だったんですよ。物語の中でものちに旅館になっていくんですけれど、これがとにかく物凄い規模の建物なんです。
この劇中に登場する素晴らしい建物は、静岡県熱海市に今も実在する名邸「起雲閣(きうんかく)」という、大変貴重な日本の文化財なんです。映画が公開された一九五〇年からは、実際に最高級の旅館として営業を開始して、多くの文豪たちに愛される伝説の宿になったという、もの凄い歴史を持っているんです。画面に映るあの美しいステンドグラスや、不思議な「ローマ風浴室」のディテールはセットではなく、すべて本物の姿なんですね。
でもね、この画面をじっと見つめているうちに、私の頭の中で、すっかり眠っていた古い記憶のピースが猛烈な勢いでカチッと音を立てて噛み合ったんですよね。
そうだ、間違いない。
確か十年ちょっと前、会社の旅行でみんなと行った、あの圧倒的な規模の宿はまさにここだったんだ、と。
劇中では小暮実千代さんと上原謙さんがあの見事な庭を歩いているわけですけれども、まさか自分が会社の旅行で見学に訪れて、知らず知らずのうちに同じ庭を歩くことになるとは、あの時はまるで思ってもみないことでした。 まさか、あの時みんなで賑やかに歩いた畳の廊下や、見上げたステンドグラスが、昭和二十五年に溝口監督がカメラを回したそのものの空間だったなんて、今、猛烈に驚いているんですよ。
実は映画の中では、主人公の雪夫人と、お相手の彼が「これからこの建物を旅館にしてみたらどうですか」と話し合うところで、私は観るのを止めていたんです。まだ後半の三分の二が残っている状態なんですよね。今朝はこの湧き上がる感動をエッセイに仕上げたくて、途中で残しておくことにしたんです。
このあと、リビングが空いたら、また続きを観ようと思っています。
それにしても、溝口健二監督という人は、本当に驚くべき映画監督ですね。とにかくディテールを圧倒的なエネルギーで、恐ろしいほど細密に仕上げてくるんです。
あの赤穂浪士の四十七士を描いた『元禄忠臣蔵』という映画。あの中で描かれる江戸城の「松の廊下」などのセットと言ったら、もう今の時代では絶対につくれない、私たちの想像を遥かに超えるものなんです。当時の名カメラマンや美術監督の新藤兼人たちと共に、なんと原寸大の本物の木造建築として完全再現してしまったという、とんでもないエピソードが残っているんですよね。簡単なその場しのぎの嘘を絶対に許さない。そんな溝口監督の凄まじい執念を、私はもう一度じっくり見返して、そのリアルな空気感に殴られてみようと思っているんです。
世界にわずか三十四本しか現存していない溝口監督の映画ですが、その一本一本に、これだけの狂気的な美しさと人間の五感を揺さぶる学びが詰まっている。皆さんもぜひ、YouTubeでこの世界をじっくりと覗いてみてはいかがでしょうか。
私は、もう普通のテレビ番組は一切観ないんですよ。これまでテレビは単なる「退屈な箱」になっていたんですけれど、こうしてFire TVを挿してじっくりとYouTubeを観るようになってから、我が家のテレビは極上の映画館へと生まれ変わりました。
シニアの皆さんも、たっぷり時間があると思います。もし時間が有り余っているなと感じる日があれば、ただテレビを流し見するのをやめて、こんな風に名作や世界の巨匠の狂気に浸る時間を、じっくりと楽しんでみてはいかがでしょうか。毎日の暮らしがワクワクドキドキするものに変わって
いくこと間違いありませんよ。
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