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傷を癒す、倧人の隠しルヌト

    あらすじ
    か぀お゚リヌト公務員だった鈎朚淳47歳は、職堎の凄惚なパワハラによっお心を病み、瀟䌚のレヌルから匟き出された。珟圚は地元の団地で䞀人暮らしをし、障害者幎金ず日雇い劎働で食い぀なぐ日々。アルマヌニなどのハむブランドの服で身を鎧うこずだけが、圌が蟛うじお自尊心を保぀ための手段だった。

    ある日、最は地元の図曞通で、小孊校時代の同玚生・高橋癟合47歳ず数十幎ぶりの再䌚を果たす。分厚い牛乳県鏡がトレヌドマヌクの圌女もたた、東京のオフィスでの過酷ないじめにより粟神を壊し、閉鎖病棟での入院を経おいた。今は「土は決しお嘘を぀かない」ず、実家の畑で泥たみれになりながら、すがり぀くように蟲䜜業に没頭しお生きおいる。

    小孊生の頃、攟課埌の教宀の片隅で、ゲヌム『月颚魔䌝』の隠しルヌトや迷宮の抜け方をこっそりず教え合った二人。倧人になり、共に瀟䌚ずいう迷宮で深く傷぀き「正芏ルヌト」から倖れおしたった圌らは、互いの痛みに匷く匕き寄せられる。

    最はブランドの鎧を脱ぎ捚お、䜜業着姿で癟合の畑ぞ通うようになる。䞍噚甚にクワを握り、共に土に觊れる静かな時間の䞭で、二人は少しず぀凍り぀いおいた心を溶かし、生きる枩もりを取り戻しおいく。

    やがお老いの波が抌し寄せた時、二人は䞀぀の決断を䞋す。それは、芪族にこれ以䞊の負担をかけず、か぀千絵が最期たで愛する土に觊れ続けられるよう、実家の土地を売华しお「蟲園付きのバリアフリヌ斜蚭」ぞ共に入居するずいう、二人で芋぀けた新たな『隠しルヌト』だった。


    第䞀章 亀わらない孀独ず、錆び぀いた鎧

     鈍色の雲が䜎く垂れ蟌める空の䞋、立お替えられお真新しくなった団地の䞀宀で、男はベランダから芋慣れた景色をがんやりず芋䞋ろしおいた。 今幎で47歳になる。30代の半ばで実家を逃げ出し、幌い頃に䜏んでいたこの団地に戻っおきおから、ちょうど10幎ずいう歳月が流れおいた。
     圌が実家を出たのには理由がある。 高校2幎生の時に䞡芪が賌入した䞀戞建おでの暮らしは、心を病んだ圌にずっお息が詰たるものだった。結婚生掻に砎れお出戻っおきた3歳幎䞊の姉、そしお折り合いの悪い䞡芪。 か぀お地元の垂圹所に勀めおいた圌は、広報課ぞ異動した盎埌、10歳幎䞊の先茩から受けた凄絶なパワハラによっお心身をすり枛らし、瀟䌚のレヌルから無惚に匟き出されおしたったのだ。4幎間耐え抜いた末に逃げるように退職しお以来、定職が1幎ず続いたこずはない。 珟圚、圌の现々ずした生掻を支えおいるのは、30歳の頃に手続きをした障害者幎金基瀎幎金二玚ず、タむミヌで芋぀ける日雇い劎働、そしお株で少しず぀増やした100䞇ほどの貯えだけだった。
     真新しくなった団地の階段ですれ違う時、䞡芪䞖代の䜏人たちは圌を芋お「あの家の息子さんね」ず小声で噂をする。男は自分が団地内でひそかに有名であるこずを知らない。ただ、誰ずも目を合わせないようにしお静かに息を朜めおいる。
    鏡の前に立぀ず、か぀おのスマヌトだった䜓型は厩れ、ぜっこりず出た腹ず、癜髪が亀じり现く無造䜜に䌞びた髪が目に入る。 瀟䌚的な居堎所を倱い、䜕者でもなくなっおしたった自分。その珟実から目を背けるように、男は倖出する際、必ず「鎧」を纏った。 ゚ンポリオ・アルマヌニのシャツに、ディヌれルのゞヌンズ。 日雇いの仕事に向かう時も、ひっそりず街を歩く時も、圌は仕立おの良いメンズファッションで身を固める。それは、ひび割れた自尊心を守るための、圌にしか分からない悲しい防具だった。


    第二章 小孊生時代 

     小孊生時代。昭和の面圱が色濃く残る、垂川垂立倧野小孊校。 5幎生になった高橋癟合は、クラスの男子党員から「奜きだ」ず公蚀されるほどの存圚だった。芪の蚀い぀けでいく぀もの塟や習い事を掛け持ちし、賞状を総なめにする優等生。しかし、その内面には、男子たちを自宅に招き入れお遊ばせるような、無邪気で優しい玠顔があった。
     圌女の家には、圓時ただ珍しかった「ニュヌファミコン」ず、ファミコンず同時にカシャリず音を立おる「ディスクシステム」の2点機胜は珍しかった。攟課埌になるず男子たちがこぞっお集たり、テレビ画面を囲むのが日垞だった。
     しかし、同じ5幎1組の鈎朚最が、その熱狂の茪に加わるこずは䞀床もなかった。 最は重床のアレルギヌ性錻炎を抱えおいた。毎日ずいうわけではないが、䞀床スむッチが入るずズルズルず錻をすすり続け、ポケットに詰め蟌んだチリ玙を手攟せなくなる。䞀郚の男子からは「錻氎垂らし」ずからかわれる、気匱ないじめられっ子だった。
    そんな圌が、マドンナである癟合の家ぞ遊びに行く勇気など持おるはずもない。だが癟合は、教宀の隅で錻をかむ最に、どこか特別な印象を抱いおいた。 最の着おいる服は、決しお高玚なブランド品ではなかった。しかし、厳栌な母芪の培底した管理のおかげで、襟元にも袖口にも、シミひず぀、泥汚れひず぀なかったのだ。い぀も真っ癜に掗い䞊げられ、パリッずアむロンが圓おられおいる。その䞍自然なほどの枅朔さが、泥たみれで駆け回る同玚生たちの䞭で、最の気匱な孀高を際立たせおいた。
    そんな亀わらないはずの二人が、ただ䞀床だけ、秘密の橋を架けたこずがある。 圓時、少幎たちを絶望の淵に叩き蟌んでいたアクションゲヌム『月颚魔䌝』。最はどうしおもそのゲヌムがやりたくお、癟合の家に頻繁に出入りしおいた男子の䞞山に頌み蟌んだ。

    「なあ、䞞山  高橋さんの『月颚魔䌝』、しばらくやらないなら貞しおくれないかな」

     数日埌、䞞山を経由しお最の手元にやっおきたカセット。最はそれを倢䞭でプレむしおいた。倕暮れが近づく、オレンゞ色に染たった教宀でのこずだった。 「鈎朚くん。䞞山君から聞いたよ。月颚魔䌝、どこたで進んだ」
    䞍意に頭䞊から降っおきた声に、最は肩を跳ねさせた。芋䞊げるず、癟合が、少し恥ずかしそうに、けれど真っ盎ぐに最を芋䞋ろしおいた。
    「あ、うん  最初の狂骚は倒したんだけど、そのあずの地䞋の迷路で迷っちゃっお」最が瞮こたりながら答えるず、癟合は嬉しそうに目を现めた。 「あそこ、ややこしいよね。私、裏技の本で芋たんだけどね、あそこの迷宮は、右、右、巊っお進むんだよ。そうするず隠しアむテムがあるの」
     
     埌日、自分のお小遣いをはたいお同じ゜フトを買いに走った。同じゲヌムを癟合ず攻略するずいう秘密の遊び。しかし、むンタヌネットなど存圚しない時代。誰もいない攟課埌の教宀。二人は机に頭を寄せ合い、倢䞭でゲヌムの攻略法を話し合った。最は、錻がムズムズしおくるのを必死で堪えた。たたに出る錻氎を今ここで垂らすわけにはいいかない。シミひず぀ない癜い袖口を握りしめながら、自分だけに向かっお秘密のルヌトを教えおくれる癟合の暪顔を、痛いほどの緊匵感ずずもに芋぀めおいた。
    癟合にずっおも、その時間は特別だった。家に来る男子たちはみんな「可愛い癟合」や「ゲヌムをさせおくれる癟合」を芋おいた。けれど最は違う。圌は、癟合が倧切にしおいるゲヌムの䞖界そのものを、同じ熱量で真剣に楜しもうずしおくれおいた。

     鈎朚は幌䜓連ずいうサッカヌクラブに所属しおおり、その足技は本物だった。たあ、そこでもいじめられっ子だった蚳だが、小孊校で女子抜きで行われた男子だけの激しい詊合。最は長い手足を滑らかに操り、盞手ディフェンダヌを次々ず抜き去っおいく。そしお迎えたコヌナヌキックのチャンス。鈎朚が振り抜いた右足から攟たれたボヌルは、鋭くカヌブを描き、回転のかかったボヌルはキヌパヌの手を匟いお盎接ゎヌルネットを突き刺した。

    「うおおお 鈎朚、マゞですげえ」

    男子たちの熱狂は、週明けの孊校で「噂を広める男の子たち」の口を通じお、瞬く間に女子たちの耳ぞず届けられた。 「ねえ、鈎朚くんっお、サッカヌめちゃくちゃ䞊手いんだっお」 「普段倧人しいのに、なんかギャップあるよね」

     女子たちが色めき立぀声を、癟合は教宀の隅で静かに聞いおいた。自分の家には来ない、い぀も小綺麗で気匱な男の子。でも、男子の間で英雄のように隒がれ、私ずは『月颚魔䌝』の秘密の通路を知っおいる男の子。胞の奥で、ちくりず甘い痛みが走った。

     その日の倜、高橋家の食卓。祖母がお茶を淹れながら、ふず口を開いた。 「今日、鈎朚さんずころの奥様ずお䌚いしたのよ。本圓に厳栌でしっかりしたお家だわ。最くん、普段は頌りないかもしれないけど、い぀もシミひず぀ない綺麗なお掋服を着せおもらっお  ああいう環境で育った子はね、将来間違いなく化けるわよ」
    癟合は黙っお箞を動かしおいた。 「癟合。あなた、倧人になったらああいう子を婿にもらいんしゃい。きっず間違いないから」 「  䜕蚀っおるのよ、おばあちゃん。関係ないじゃない」

     顔を真っ赀にしお蚀い返しながらも、癟合の脳裏には、倕暮れの教宀で「右、右、巊」ず囁き合った、枅朔なシャツの少幎の姿が鮮明に焌き付いおいた。ネットも䜕もない時代、あの黄色いカセットのドット絵の䞭に、二人は確かに、誰にも邪魔されない二人だけの秘密の橋を架けおいたのだ。
    しかし、この淡い初恋の予感は、小孊校6幎でのクラス替えによっお無慈悲に断ち切られる。同じ教宀で空気を共有するこずのなくなった二人は、亀わるこずのないたた䞭孊校ぞず進孊しおいくこずになるのだった。
     
    第䞉章 䞭孊時代

     垂川垂立第五䞭孊校の校舎は、倧野小孊校のそれよりもいくぶん無機質で、コンクリヌトの匂いが匷かった。
     小孊6幎生でのクラス替えを境に、最ず癟合の接点はぷ぀りず切れた。䞭孊でも同じクラスにはなれず、癟合は男子ぞの人芋知りをこじらせ、牛乳県鏡の奥の瞳を䌏せおバドミントン郚に没頭しおいた。
    シャトルが激しくコヌトを行き亀う。 癟合のペアであり、同じバドミントン郚の芪友――安倍矎䜳。 URに䜏む矎䜳は、色癜で、県鏡をかけない黒髪のポニヌテむル。癟合ずは察照的に勝気で、駅前の進孊塟に通う掻発な才色兌備だった。

     郚掻の䌑憩䞭、二人は䞊んでポカリス゚ットを飲んでいる。 「はヌ、疲れた 癟合、今のスマッシュ鋭すぎ。䜕かのストレス発散」 矎䜳の声は、アニメのキャラクタヌのような独特のハスキヌボむス。本人は「ガラガラしお可愛くない」ず嫌がっおいたが。

    「あ、そういえばさ。私のクラスの鈎朚最っお、癟合ず同じ小孊校だったよね」 癟合の心臓が小さく跳ねる。 「え うん  倧野小で、5幎たで同じクラスだったけど。䜕で」 「あい぀さ、普段はいっ぀も錻炎で錻いじられ散らかしお頌りないんだけどさ。孊玚委員䌚ずかディベヌトになるず、急に話の決定力っおいうの マゞで頭の回転早くお、男の子たちを䞀蚀で黙らせるんだよね。ちょっず䞀目眮いおるんだ、私」
    癟合は、シャトルの矜を芋぀めながら、小さく呟いた。 「  鈎朚くん、サッカヌも、すごく䞊手かったんだよ」 「ぞえ そうなんだ。なんか意倖。孊校の成瞟も良いし、䞍思議な奎」 友達である矎䜳の口から語られる最の姿に、癟合は遠い小孊校の蚘憶を重ねおいた。

     しかし、最の「初恋」は、たさにそのハスキヌボむスの矎䜳に向けられおいた。 äž­å­Š1幎生でやっおいた孊玚委員の委員䌚で同じく別クラスの孊玚委員の矎䜳の声を聞いた瞬間から、最の胞は鳎り止たなかったのだ。盞倉わらず錻はいじられおはいたが、塟のおかげで成瞟の良かった最は、矎䜳ず察等に話せる時間が嬉しかった。

     䞭孊2幎生のクラス替えで矎䜳ず䞀緒になった鈎朚は思わずガッツポヌズをしたものだった。東䞭では倧抵の委員に぀いおは男子ず女子それぞれから䞀名ず決められおいたものだった。䜕か瀺し合わせを付けたわけでもない。時にはじゃんけんをしあい耇数人から決めたこずもあった。しかし、䞀孊期・二孊期・䞉孊期。どの孊期でも最ず矎䜳が同じ委員になるのだった。

     䞭孊䞉幎になるず、赎任しおきた音楜講垫が担任ずなった。特に䜕をするわけでもなかったが、担圓の音楜の授業ではしきりに音楜以倖にも最近取り入れられる週䌑二日制の匊害などを熱心に語る熱血先生だった。季節は倏。秋に音楜祭があるずいうこずで䜕の曲をやるか。孊玚委員の二人がクラスメヌトに尋ねるのだった。音楜に関しおは流行の音楜で、譜面はかなり難しい物だった。倚くの者は自分にはできないず諊め適圓にひくこずがあった。そんな䞭、い぀もピアノの矎䜳ず䜙ったバスアコヌディオンを担圓するこずになった最。鈎朚は絶察音感があるわけでも、音楜の知識がある蚳でもない。しかし、単音を鳎らすこずずバスアコヌディオンの音色、そしお䜕より矎䜳のピアノず合わせおひくこずが非垞に楜しかった。緎習はハヌドだった。やる気を芋せた最に音楜講垫は鈎朚独自の譜面を甚意した。矎䜳ず合わせお最倧限バスアコヌディオンの魅力を䌝える譜面だった。圓然、党䜓緎習の前の個人緎習では矎䜳ず最が合わせお緎習するようになる。ピアノに関しおは人䞀倍厳しい矎䜳。最はなんずか぀いおいくので粟いっぱいだった。音楜祭圓日、舞台袖で、倧きなバスアコヌディオンを肩に担ぐ最。緊匵で、たた錻がムズムズしおくる。 それを察しお、矎䜳がすっずティッシュの箱を差し出す。 「ほら、鈎朚くん。本番䞭にズビズビやったら合図聞こえないからね。ちゃんず今かんどきなよ」 「  ありがず、矎䜳」

     ステヌゞの幕が䞊がる。 矎䜳の叩く瑞々しいピアノの旋埋。それに重なるように、最が重いアコヌディオンの蛇腹じゃばらを倧きく広げ、力匷い䜎音を響かせる。二人の息は完璧に合っおいた。 䜓育通の片隅、クラスの女子たちず䞊んで客垭に座る癟合。牛乳県鏡の奥で、ステヌゞの䞊で、矎䜳のピアノず完璧なシンクロを芋せる最の姿を芋぀めおいた。二人の挔奏が終わり、割れんばかりの拍手が湧き起こる。芋事に賞を授䞎された䞉幎䞀組の二人が舞台䞊で顔を芋合わせお笑っおいた。

     癟合は、その眩しさに、ただ小さく拍手を送るこずしかできなかった。

     やがお冬が来お、残酷な受隓の季節が蚪れる。 才色兌備の矎䜳は、その蚀葉通りに進孊校の東葛食高等孊校ぞ芋事に合栌し、眩しい光の䞭ぞ去っおいった。 䞀方で、芪から「枅楚で確実な道」を望たれた最ず癟合が受隓したのは、専修倧孊束戞高等孊校だった。
    合栌発衚の日、結果を芋に行くために二人は束戞駅ぞず向かった。 もちろん、玄束などしおいない二人が、䞀緒に合栌発衚を芋に行くわけではなかった。 癟合が先に駅ぞ向かい、駅の駐茪堎に自転車を止めおいた。その胞には、芪の期埅に応えなければならないずいう重圧ず、少しの䞍安が枊巻いおいた。 䞀方で、たたたた埌から駅にやっおきた最は駐茪堎に預けるお金がなく、駅前のロッテリアのずころに自転車を止めおいた。圌もたた、重い足取りで向かう電車を埅っおいた。田舎の電車は䞀本逃すず次を埅぀ず30分近くた぀のはざらである。駅で向かいがけに䞁床泣きながら垰っおいく癟合ずすれ違った。冷たい冬の颚が吹く掲瀺板の前に立぀。 最の結果は䞍合栌。
    たあ、自分の偏差倀ずは栌䞊の孊校で挑戊ではあったので仕方なしず思っおいた。垰りの電車の䞭、時代的にはただはやっおないCDプレヌダヌで音楜を聎きながらであった。

    「たあ、通孊のこずを考えたらこんな遠くは無理だろ。萜ちおよかったのかもしれない。」

     マックのずころに止めた自転車はなくなっおおり、慌おたものだが幞い裏手にあるゎミ捚お堎に矅列された自転車をみ぀け東䞭ぞ向かう。高橋は萜ちたのかなそんなこずを考えながら䞭孊校に戻っおいくのだった。幞い、父芪は私立の孊費を払わなくお枈んだ芪孝行物ず飄々ず蚀っお慰めた。
    二人は目を合わせるこずもなく、それぞれの挫折を抱えお、別々の檻ぞず歩き出す。最は囜府台高校ぞ、癟合は囜府台女子孊院ぞ、矎䜳は東葛食高校ぞ。

     亀わらなかった軌跡は、就職氷河期ずいうさらに過酷な冬ぞ向けお、静かに離れおいくのだった。

    第四章 高校時代

     千葉県立囜府台高等孊校。 公立高校の総合孊科の1期生ずしお入孊した鈎朚最の高校生掻は、劇的な身䜓の倉化から始たった。高校生になっおすぐに受けたレヌザヌ治療のおかげで、幌い頃から自分を苛み、いじめの暙的にさせおきた重いアレルギヌ性錻炎をようやく克服したのだ。

     い぀もポケットに詰め蟌んでいたチリ玙の束から解攟され、183センチの長身に60キロ前埌ずいう、たるでモデルのようなスマヌトな䜓型を手に入れた最。しかし、長幎のコンプレックスで凝り固たった圌の心たでは、すぐには倉わらなかった。シミひず぀ない枅朔な服に身を包みながらも、圌は高校ずいう新しい瀟䌚の䞭で、目立たない「陰キャ」ずしお静かに息を朜める道を遞んだ。
     
     圌が攟課埌の居堎所ずしお遞んだのは、郚宀棟の片隅にある「コンピュヌタヌ郚」だった。 そこで最は、ひず぀の運呜的な衚珟方法ず出䌚う。圓時、䞖の䞭でひそかに流行し始めおいた、DTMデスクトップミュヌゞックだ。
     
     䞭孊時代、たたたたベヌスラむンをなぞるこずに興味を芚えた鈎朚は、高校生時代のバンドブヌムの䞭、倚くの人間が゚レキギタヌを遞ぶ䞭゚レキベヌスを遞んで緎習をしおいた。それは圌のアむデンティティヌになりえるものであった。

     幎の離れた郚掻の先茩から教えられるたた、最は薄暗い郚宀で、モニタヌの青い光に照らされながらMIDIの打ち蟌みに没頭するようになった。画面䞊の五線譜にひず぀ひず぀音笊を眮いおいく。それは、厳栌な母芪の干枉も、カヌストの冷たい芖線もない、圌だけの自由な聖域だった。䞭孊の音楜祭で、安倍矎䜳のピアノに合わせお錆びた蛇腹じゃばらを響かせたあの頃の感芚が、電子の音ずなっお最の手元に蘇っおいく。圌は次第に、自分のオリゞナル曲を玡ぎ出すこずにすべおの情熱を泚ぎ蟌むようになっおいった。
    䞀方、同じ教宀の窓際、倕暮れの光が差し蟌む垭に、江守ゆみは座っおいた。

     ゆみは、黒髪のストレヌトボブがよく䌌合う、男子生埒たちの間では誰もが振り返るほどの矎人だった。過去の傷のせいだろうか。圌女は男子から凄たじい人気を集めおいながらも、決しお自分から目立぀ような「陜キャ」ではなかった。むしろ、クラスの賑やかな茪から䞀歩匕いた、圱に隠れおいるような物静かなキャラクタヌだった。その誰も觊れられないような静かな「圱」こそが、圌女をいっそう特別で、神秘的な矎少女に芋せおいた。
    ゆみが所属しおいたのは、吹奏楜郚だった。 圌女は幌い頃からピアノを匟いおきた経歎があり、郚掻の合奏ではい぀も静かに鍵盀に向かっおいた。
    攟課埌、最がコンピュヌタヌ郚の郚宀でヘッドホンを銖にかけ、モニタヌにオリゞナル曲のコヌドを打ち蟌んでいるず、遠くの音楜宀から、窓䌝いに埮矎䜳ピアノの旋埋が聞こえおくるこずがあった。 それは激しい曲ではなく、どこか寂しげで、内にこもるような矎しいノクタヌン倜想曲の調べだった。

    あ、このピアノ  

     最は䜜業する手を止め、青い光に照らされながら、窓の倖の倕空を芋䞊げる。 それが、同じクラスの江守ゆみが叩く鍵盀の音だずいうこずは、なんずなく気づいおいた。圌女も自分ず同じように、目立たない物陰の隅で、音楜ずいう蚀葉にできない感情を吐き出しおいるのではないか。そんな淡い芪近感が、最の胞をかすめる。

     鈎朚は特別な音楜理論を知っおいる蚳でもなかったが。独孊で図曞宀でピアノ゜ナタの歎史などを孊び、同時にピアノずいう楜噚の難しさを知るこずになる。ある日、気分がのった鈎朚は自宅のパ゜コンで䞀曲だけピアノオンリヌの曲を䜜った。その日は培倜で䞀日で䜜り切った。

     しかし、二人の䞖界が亀わるこずは、高校生掻の3幎間で䞀床もなかった。 圌らは総合孊科の1期生ずしお、3幎間ずっず同じクラス、同じ空間で空気を共有しおいた。それなのに、互いに深い「圱」を抱え、DTMずピアノずいう音楜の现い糞で繋がりかけおいながらも、蚀葉を亀わすような存圚にはなれなかったのだ。廊䞋ですれ違うずき、ゆみの黒髪のボブが揺れ、最の胞が少しだけドキドキする。ただそれだけの、名前も぀かない関係だった。
    最がモニタヌの青い光の䞭で孀独なメロディを玡ぎ、ゆみが音楜宀の隅で静かに鍵盀を叩いおいた、あの煌めくような、しかしひどく痛かった高校時代。

    か぀お小孊校の攟課埌に、カセットケヌスを挟んで「右、右、巊だよ」ず秘密の攻略ルヌトを教えおくれたあの少女――高橋癟合は、久喜女子高校ずいう、男子のいない別の檻の䞭で、誰にも心を蚱せないたた、さらなる孀独の深淵ぞず静かに沈み蟌んでいた。

    「おい。女子高の文化祭に忍び蟌んでお前の同玚生を玹介しおくれよ。」

     同じパ゜コン郚で遊ぶ暋口から鈎朚は無理難題を蚀われおしたった。

    「んなこず蚀ったっお、女子高に行った奎で知っおる奎なんか䞀人か二人しかいないぞ」

     いるっおこずはいいんだなず無理やり囜府台女子孊院の文化祭に行った二人だが文化祭に高橋の姿はなく、ただ萜ち蟌む暋口ずほっずする鈎朚であった。

     そしお迎えた、高校2幎のある倜 。 最にずっお、「バンドマン」ずしおの初めおのラむブハりス出挔の倜だった 。 ラむブは倧盛況だった 。狭い空間に充満する熱気、肌を震わせる倧音量、そしお眩しい照明。最はステヌゞの最前線に立ち、確矎䜳手応えを感じながら、芳客の奥底たで届くような重䜎音を響かせた 。

     興奮の䜙韻が冷めやらぬたた、重い機材ケヌスを肩にかけ、冷たい静寂が包む倜道を䞀人で歩いおいた時のこずだ 。 ふず、最の脳裏にひず぀の蚘憶がフラッシュバックした。 あ  今日、阿倍さんの誕生日だ 。 䞭孊時代、圌女のハスキヌボむスに惹かれ、共に完璧な和音を響かせた初恋の少女 。あらかじめ甚意しおいたプレれントなど䜕もなかった 。しかし、初めおのラむブを倧成功させたこの党胜感ず高揚感が、最の背䞭を匷く抌した。どうしおも、今の自分のこの熱を、圌女に䌝えたかったのだ 。

     最は倜遅くたで開いおいる街の花屋ぞ駆け蟌み、少し気恥ずかしさを芚えながらも、小綺麗な花束を䞀぀買い求めた 。 自転車のペダルを匷く螏み蟌み、阿倍が䜏むURの団地ぞず急ぐ 。倜の団地はひっそりず静たり返っおいた 。 さすがにこの真倜䞭にむンタヌホンを鳎らすわけにはいかない 。最は足音を忍ばせお階段を䞊がり、圌女の自宅のドアの前たでたどり着くず、その暪のささや矎䜳スペヌスに、そっず花束を眮いた 。 「阿倍さん、誕生日おめでずう。  俺、今日初めおのラむブをやったよ」 。 心の䞭でそう誇らしげに呟き、最は静かにその堎を埌にした 。暗闇に残された色鮮や矎䜳花束は、圌にずっお䞍噚甚で真っ盎ぐな、愛の蚌の぀もりだった 。

    ――しかし、阿倍はその花束を、少しもこころよく思わなかった 。 圓時の圌女の瑞々しい才気の䞭には、ただ「恋」ずいう䞍確矎䜳感情を理解する機胜が備わっおいなかったのだ 。 翌朝、ドアを開けお自分のあずかり知らぬ真倜䞭に眮かれた花束を芋぀けた瞬間、圌女の背筋に冷たいものが走った。それはロマンチックな驚きなどではなく、埗䜓の知れない意思の重さに察する困惑であり、明確な「恐怖」だった 。 「䜕これ  気持ち悪い。たるでストヌカヌじゃない  」 。
    それたで、䞭孊時代には時折自転車で匟むように話しながら垰っおいた二人の関係は、その倜を境に完党に、そしお残酷なたでに途絶えた 。阿倍は最の奜意を拒絶し、圌ず顔を合わせるのを避けるように、垰り道をバス通孊ぞず倉えおしたったのだ 。

     この決定的な拒絶は、高揚感の絶頂にいた最の心を、谷底ぞず真っ逆さたに突き萜ずした。真っ盎ぐな奜意が「気持ち悪い恐怖」ずしお凊理されたショックは、最の粟神に壊滅的な深手を負わせた 。 俺は、拒絶されたんだ。芋䞋されおいるんだ その日を境に、最は深刻な「女性恐怖症」を発症しおしたう 。すれ違う女性の芖線が、笑い声が、すべお自分をあざ笑い、拒絶しおいるように思えお、ひどく怯えるようになった 。
    音楜が圌に䞎えた自信は、たった䞀倜にしお、圌を氞遠の孀独ぞず閉じ蟌める呪いぞず倉わっおしたった。その深い傷心は長く尟を匕き、その埌進孊した倧孊生時代を通じおも、最に圌女ができるこずはただの䞀床もなかったのである 。

    第五章 就職氷河期

     バブル経枈の厩壊。その䜙波が最も冷酷な圢で瀟䌚を凍り぀かせおいた1990幎代埌半から2000幎代初頭、䞖間はそれを「就職氷河期」ず呌んだ。倧孊のキャンパスは掻気を倱い、リクルヌトスヌツに身を包んだ孊生たちは、底の芋えない䞍況の沌を這い回っおいた。城西倧孊の経枈孊郚を卒業した鈎朚最もたた、その暗黒の時代に瀟䌚ぞず攟り出された䞀人だった。「䜕十瀟受けたっお、箞にも棒にもかからない。俺たちの代は、生たれながらにバツが぀いおいるようなものだ」呚囲の友人たちが次々ず心を折られ、掟遣劎働やフリヌタヌの道ぞ流れおいく䞭、最は生真面目さず持ち前の知性を振り絞り、必死に机にしがみ぀いた。か぀お垂川垂立第五䞭孊校や囜府台高校の孊玚委員䌚で芋せた、頭の回転の速さず抜矀のディベヌト胜力。それを唯䞀の歊噚にしお、圌は地元である千葉県垂川垂の職員採甚詊隓ぞず挑んだ。倍率は数癟倍ずいう、たさに針の穎を通すような倧激戊だった。結果は、合栌だった。その報せを聞いたずき、厳栌で滅倚に息子を耒めない䞡芪の顔に、これたでにない安堵の笑みが浮かんだ。高校二幎生の時に䞡芪が賌入した垂の䞀戞建おの実家には、芪戚からの祝いの電話が鳎り響いた。結婚生掻に砎れお出戻っおきた䞉歳幎䞊の姉・和矎も、「公務員なんお最高じゃない、これで䞀生安泰ね」ず、矚望の混じった声をあげた。最自身、これでようやく地獄のような就職掻動から解攟され、平穏な人生のレヌルに乗るこずができたのだず確信しおいた。183センチの長身に、圓時は60キロ前埌のスマヌトなモデル䜓型。未来は茝いお芋えた。誰もが矚む「人生の正解」を、自分は自力で掎み取ったのだず、誇らしささえ抱いおいた。入庁第䞀幎目、最が配属されたのは垂立図曞通だった。静寂に包たれた通内、静かに挂う叀い玙の匂い。最の仕事は、郷土資料の敎理や利甚者の貞出察応など、穏やかで芏則正しいものだった。幌い頃からアレルギヌ性錻炎に苊しみ、高校時代のレヌザヌ治療でようやく克服したものの、どこか内向的で人混みを奜たない最にずっお、図曞通の環境は倩囜のように思えた。䞀蚀䞀蚀、䞁寧に利甚者に接する圌の仕事ぶりは、呚囲の職員からも奜感を持たれおいた。このたた、この静かな䞖界で定幎たで勀め䞊げるのだろう――そう信じお疑わなかった。

     しかし、公務員の䞖界の「人事異動」ずいうシステムは、個人の適性や望みを無慈悲に螏みにじる。わずか䞀幎埌、最の元に䞋された蟞什は、垂圹所の花圢であり、最も激務ずされる「広報課」ぞの異動だった。「鈎朚、お前は倧孊でも経枈をやっおきたし、文章のセンスもある。䜕より、ディベヌトで鍛えた論理的思考があるから、広報課でも即戊力ずしお期埅されおいるぞ」䞊叞からの蚀葉に、最は緊匵で喉を鳎らしながらも、「がんばりたす」ず答えるし矎䜳かった。それが、圌を埅ち受ける終わりのない地獄ぞの入り口だずは、知る由もなかった。

     広報課のオフィスは、図曞通の静寂ずは察照的に、垞に電話のベルが鳎り響き、怒号ず締め切り前の焊燥感が充満する戊堎だった。そこで最の「指導係」ずしお就いたのが、圓時で十歳幎䞊の先茩瀟員、小林だった。小林は垂圹所内でも有名なしごき魔であり、完璧䞻矩者、そしお極端にピラルキヌを重んじる男だった。氷河期をくぐり抜けお「゚リヌト面」しお入っおきた若手職員の錻をぞし折るこずに、異垞な執念を燃やしおいた。「おい、鈎朚。この広報誌のレむアりト、䜕だこれは。お前の頭の䞭はドブ氎でも詰たっおるのか?」毎朝の打ち合わせの垭、小林の声が響くたびに、最の胃は雑巟のように絞られた。最が培倜同然で曞き䞊げた蚘事の原皿は、小林の元に持っおいった瞬間に、䞀文字も読たれるこずなく目の前でゎミ箱ぞず投げ捚おられた。「やり盎し」「やり盎し」「ゎミを曞くな」。具䜓的な修正の指瀺は䜕もない。ただ、粟神を削り取るための眵詈雑蚀だけが、オフィス䞭に響き枡る。他の同僚たちは、小林の狂気のような怒りの矛先が自分に向くのを恐れ、芋お芋ぬふりをしおパ゜コンの画面に目を萜ずした。「倧孊たで出お、こんな簡単な仕事もできないのか。皎金の無駄遣いだ。お前みたいな無胜を雇うために、垂民は玍皎しおるんじゃないんだよ」小林の嫌がらせは、次第に陰湿さを増しおいった。他の職員がいる前で、最だけを机の前に3時間以䞊も立たせたたた眵倒し続ける。広報の取材業務では、わざず間違った機材やスケゞュヌルを教え、珟堎で倱敗するず「すべお鈎朚の自己管理䞍足」ずしお凊理した。倜、実家に垰宅しおからも、小林からの執拗な業務連絡ずいう名の叱責電話が鳎った。受話噚を持぀最の手は、恐怖で现かく震えおいた。(俺が悪いんだ。俺の胜力が足りないから、小林さんは教育しおくれおいるんだ......)生真面目すぎる性栌が、自らをさらに远い詰めた。か぀お自信に満ち溢れおいた最のプラむドは、小林ずいう圧倒的な暎力の前に、粉々に打ち砕かれおいった。パワハラが始たっお二幎が過ぎる頃、最の身䜓には明確な異倉が珟れ始めおいた。

     倜、ベッドに入っおも、小林の怒鳎り声が耳の奥でリフレむンし、䞀分も眠るこずができなくなった。激しい動悞ず、理由のない恐怖感が絶え間なく襲う。朝、垂圹所の玄関が近づくだけで、胃液を吐き戻すようになった。䜓重は急激に萜ち、か぀おの健康的な䜓型は圱を朜め、目の呚りには真っ黒なクマがぞばり぀いた。それでも、最は「ここで蟞めたら、せっかく掎んだ公務員の地䜍を倱う。氷河期に逆戻りだ。䞡芪を倱望させるわけにはいかない」ずいう執念だけで、ボロボロの肉䜓を動かし続けた。だが、心はずっくに限界を迎えおいた。

     4幎目を迎えたある秋の朝、最は぀いに自宀の垃団から起き䞊がるこずができなくなった。身䜓が鉛のように重く、指䞀本動かすこずができない。涙が理由もなく溢れ、枕を濡らした。携垯電話から鳎り響く、垂圹所からの着信音。その音が、悪魔の咆哮のように聞こえた。圌は頭から毛垃を被り、ただ震えおいた。病院での蚺断は、重床の粟神疟患――う぀病だった。医垫からは「これ以䞊の勀務は䞍可胜です。すぐに䌑職しおください」ず告げられた。䌑職期間を経お、最は逃げるように久喜垂圹所を退職した。4幎あたりで、圌の「゚リヌト人生」はあっけなく幕を閉じた。実家に戻った圌を埅ち受けおいたのは、冷酷な珟実だった。折り合いの悪い䞡芪からは「根性が足りない」「せっかくの公務員を棒に振るなんお」ず癜い目で芋られ、出戻りの姉からも「あんたが働矎䜳いず、この家の雰囲気が悪くなる」ず容赊ない蚀葉を济びせられた。家の䞭に、圌の居堎所はどこにもなかった。その埌、少し䜓調が戻っおは別の仕事を詊みた。事務職、配送、軜䜜業――。しかし、小林から受けた心の傷、人間ぞの根深い恐怖心は消えず、どの職堎に行っおも「たた怒鳎られるのではないか」ずいう予期䞍安に襲われ、定職は䞀幎ず続矎䜳かった。瀟䌚のレヌルから完党に匟き出され、圌は自分が「萜䌍者」になったのだず絶望した。

     20代の埌半、実家で匕きこもり同然の生掻を送っおいた最を芋かねた粟神科の䞻治医から、ある堎所ぞの通所を勧められた。それが、地元の粟神科医療機関が運営する「デむケア」だった。デむケアの扉を開けたずき、最は匷い敗北感を芚えた。そこには、自分ず同じように瀟䌚で深く傷぀き、立ち止たっおしたった人々が、ただがんやりず時間を過ごしおいたからだ。しかし、ここには小林のような怒号も、匵り詰めた締め切りも、自分を倀螏みする冷たい芖線もなかった。ただ、静かな時間が流れおいた。最は䜕をするでもなく、斜蚭の䞀角で他の通所者ずオセロをしたり、ただお茶を飲んで過ごした。気づけば、数幎ずいう歳月が、その灰色のオアシスの䞭で流れおいた。最が30歳になったある日、長幎圌の担圓をしおいたデむケアのベテラン職員が、面談宀で䞀枚の曞類を広げた。「鈎朚さん。垂圹所を蟞めおから、もう䜕幎も定職に就けない状態が続いおいたすよね。ご実家ずの関係も、お話を聞く限りかなり限界に近いず思いたす。そろそろ、これからの経枈的な自立のために、手続きを考えおみたせんか」手枡されたのは、『障害者幎金』の申請曞だった。「幎金......ですか? 俺みたいな、五䜓満足で、ただ心が匱いだけの人間が、そんなものをもらっおいいんでしょうか」最は躊躇した。幎金を受け取るずいうこずは、囜から正匏に「瀟䌚で働けない者」ずしお烙印を抌されるような気がしたからだ。未だに残る、か぀おの公務員ずしおのプラむドが邪魔をした。しかし、職員は優しく、だが確固ずした口調で蚀った。「これはね、鈎朚さんが瀟䌚の激しい波の䞭で、䞀生懞呜戊っお、傷぀いた蚌なんですよ。埌ろめたく思う必芁なんおどこにもありたせん。これからの人生を、自分の足で静かに生きおいくための、囜が甚意しおくれた『呜綱』なんです」その蚀葉に、最の目から堰を切ったように涙が溢れた。小林に壊されたあの4幎間、そしおその埌の暗闇の10幎間、誰も自分の苊しみを「戊った蚌」などず蚀っおくれなかった。芪でさえも、ただの怠け者扱いだった。

     ようやく、自分の傷を認めおもらえる堎所に出䌚えたのだず感じた。職員の手厚いサポヌトのもず、䞻治医に重床の就劎困難を瀺す蚺断曞を䜜成しおもらい、煩雑な圹所の手続きを䞀぀ず぀進めた。か぀お広報課で培った、曞類を読み解く胜力が、皮肉にもこの時だけは圹に立った。半幎埌、最の元に䞀枚の通知曞が届いた。【障害基瀎幎金 二玚 支絊決定】二玚。それは、劎働によっお生蚈を立おるこずが著しく困難であるずいう蚌明だった。支絊される金額は、決しお莅沢ができるような額ではない。しかし、実家に1円も入れられず、芪の脛をかじりながら針のむしろのような日々を送っおいた最にずっお、それは䜕よりも重い、絶察的な安心の切笊だった。(これで......実家を出られる。䞀人で生きおいける)この障害者幎金ずいう名の静矎䜳呜綱を手に入れたからこそ、圌は35歳の時、か぀お幌い頃に䜏んでいた、あの垂の団地ぞず戻る決意を固めるこずができたのだ。

    第六章そしお、図曞通の片隅で 

     䞡芪や、出戻っおきた姉ず暮らす実家の息苊しさに耐えかね、35歳で高校2幎たで䜏んでいた団地ぞず逃げ蟌んだ。 47歳になった今は、タむミヌで日雇いの仕事をしながら、株で蓄えた100䞇円ず幎金でひっそりず息を朜めおいる。モデル䜓型は倱われ、ぜっこりず出たお腹を気にしおいるが、鎧のようにアルマヌニやディヌれルを身にたずい、必死に自尊心を守り続けおいた。

     䞀方の癟合は、芪の勧めで理由も深く語らぬたたお芋合い結婚をしたが、子䟛ができなかったこずなどもあり離婚。実家に戻り、䞡芪の蟲䜜業を手䌝う日々を送っおいる。䌚瀟時代の名残でUVケアだけは怠らないが、ナニクロを着おすっぎんで土に觊れる生掻は、男性や瀟䌚ぞの恐怖を抱える圌女に、わずかな安らぎを䞎えおいた。

     47歳。人生の折り返し地点で、瀟䌚から決定的に匟き出された2人。
    ある日、癟合はい぀ものように、愛読する珟代日本文孊を借りに垂立図曞通ぞ向かった。そこはか぀お、最が1幎間だけ働き、唯䞀心が安らいだ堎所。 最もたた、ふず懐かしさに誘われるように、団地を出おその図曞通ぞず足を向けおいた。
    静寂に包たれた本棚の隙間。 すっぎんで牛乳県鏡をかけた女ず、ブランド服で身を固めた癜髪亀じりの男。 青毛小孊校の教宀で、カセットの秘密を共有した2人の止たっおいた時間が、今、再び静かに動き出そうずしおいた――。

     垂立図曞通の空気は、い぀もどこか冷え冷えずしおいお、ペヌゞを繰るわずかな音だけが床に吞い蟌たれおいく。 47歳になった鈎朚最は、郷土資料の棚の前に立ち、所圚なげに背衚玙を眺めおいた。癜髪亀じりの现い髪を少し長めに䌞ばし、昔に比べおいくぶん膚らんでしたったお腹を隠すように、ブランド物のシャツの裟を敎える。垂圹所を蟞めおから10数幎、タむミヌの単発バむトず幎金二玚の受絊で食い぀なぐ日々に、このブランド服だけが圌のちっぜけなプラむドを守る最埌の防壁だった。

     ふず、珟代日本文孊の棚の陰から、䞀人の女性が歩み出おくるのが芋えた。 黒髪で牛乳県鏡の姿。小孊生の男子生埒たちの矚望の芖線を䞀身に济びおいたあの髪型。しかし、その面圱を残したたたの女性の顔には、隠しきれない色濃い疲劎が刻たれおいた。 高橋癟合だった。
    「 高橋、さん」 最の口から、掠れた声が挏れた。 癟合はびくりず肩を揺らし、手に持っおいた文庫本を萜ずしそうになりながら、最を振り返った。 「あ  鈎朚、くん  」 「久しぶり、だね。元気  にしおた」 最の䞍噚甚な問いかけに、癟合は痛々しいほどの薄い笑みを浮かべた。 「元気  そうに芋える矎䜳。私は、盞倉わらず。ここ、久喜でおじいちゃんずおばあちゃんの面倒を芋ながら、なんずか生きおるよ」 その现い指先、そしお叀びたカヌディガンの袖口から芗く手銖の现さは、圌女が珟圚、どれほど過酷な日垞を送っおいるかを無蚀で物語っおいた。

     二人は図曞通を出お、近くの寂れた喫茶店ぞず向かった。 泚文した冷めたコヌヒヌを前に、癟合は芖線を萜ずしたたた、ぜ぀りぜ぀りず話し始めた。高校ず倧孊を卒業した埌、粟神を病み今は実家で蟲業をしおいるず。ナニクロのしゃれっ気のない服装でありながら色癜で牛乳県鏡の華奢な姿の圌女に鈎朚は久しぶりに安堵感を感じるのだった。

    第䞃章 逃避行の果お、共有された痛みの茪郭

    ​ 久喜垂立図曞通での予期せぬ再䌚から、鈎朚最ず高橋癟合の時間は少しず぀、しかし確実に動き始めおいた。

    ​ 二人は連絡先を亀換し、週に䞀床、図曞通の近くの喫茶店や、癟合の畑の近くにある暩珟堂堀で䌚うようになった。それは若い頃のような情熱的なデヌトずは皋遠い、傷぀いた獣同士が互いの傷を舐め合うような、静かで臆病な逢瀬だった。
     
    ​「俺は、瀟䌚から逃げ出したんだ」
     
     ​ある日の午埌、最はコヌヒヌカップを芋぀めながらぜ぀りずこがした。゚ンポリオアルマヌニのシャツの袖口を無意識にいじりながら、圌は自分の過去を語った。垂圹所広報課での、先茩・小林からの終わりのないパワハラ。心が壊れ、朝起き䞊がれなくなったこず。35歳で䞡芪の家を飛び出し、高校2幎生たで暮らしおいたあの団地ぞ逃げ蟌んだこず。
    ​癟合は、化粧気のないすっぎんの顔を静かに圌に向け、その蚀葉を䞀぀䞀぀拟い集めるように聞いおいた。
    ​
    「私も東京のカヌド䌚瀟でね、私も心を壊したの」
     
    ​ 癟合もたた、分厚い牛乳県鏡の奥の瞳を䌏せ、自らの過去を打ち明けた。営業トップずいう栄光の裏で受けた陰湿ないじめ。耳元で鳎り止たなくなった幻聎。閉鎖病棟の冷たい空気。そしお、逃げるように実家ぞ戻り、理由を深く語らぬたた終わらせたお芋合い結婚のこず。
    ​二人は、互いが「瀟䌚のレヌルから決定的に匟き出された萜䌍者」であるこずを隠さなかった。最にずっおのブランド服は、瀟䌚の芖線から自分を守るための薄っぺらな鎧であり、癟合にずっおの土いじりずロシア文孊は、珟実の喧隒から逃れるためのシェルタヌだった。
    ​
    「高橋さんの土の匂い、萜ち着くよ。垂圹所の、あの息の詰たるコピヌ機の匂いずは党然違う」
     
    「鈎朚くんこそ。そのアルマヌニ、意倖ず䌌合っおる。昔からシミひず぀ない服を着おたからかな」
     
     ​四十代埌半ずいう、䞖間䞀般では「立掟な倧人」ずしお完成されおいるはずの幎霢。しかし、圌らの内面はあの就職氷河期で傷぀いた二十代のたた、立ち止たっおいた。だからこそ、二人は誰よりも深く理解し合えた。嘘を぀かず、匷がらず、互いの欠萜を埋め合わせるように惹かれ合っおいった。
     
    ​第八章47歳の珟実ず、アルマヌニの綻び
     
    ​ 季節が秋から冬ぞず倉わろうずしおいたある日、それは突然起こった。
    ​その日、二人は久喜駅前のファミリヌレストランで、遅めのランチをずっおいた。最がタむミヌでの短いアルバむトを終えた埌のこずだった。

     䞍意に、最の顔から血の気が匕き、圌は胃のあたりを匷く抌さえおうずくたった。
     
    ​「鈎朚くん どうしたの」
     
    「痛っ  腹が、割れるように  」
     
    ​ 尋垞ではない脂汗を流し、息も絶え絶えになる最。癟合はパニックになりかけながらも、震える手で救急車を呌んだ。
     
    ​ 搬送先の総合病院。蚺断は、長幎の極床のストレスず䞍芏則な生掻が匕き金ずなった「急性胃朰瘍の穿孔せんこう」だった。緊急の内芖鏡凊眮ず、数日間の入院が必芁だず告げられた。
     
    ​ 凊眮が終わり、鎮静剀で朊朧ずする最が運ばれた病宀。看護垫が、付き添っおきた癟合に事務的なトヌンで尋ねた。
     
    ​「あの、入院の手続きず、今埌の治療方針のご説明があるのですが  ご家族の方はいらっしゃいたすか 身元匕受人のサむンが必芁になりたしお」
     
    ​ その蚀葉に、ベッドの䞊の最がわずかに身をよじり、匱々しい声で遮った。
     
    ​「  芪は、呌びたせん。呌べないんです」
     
    「しかし、鈎朚さん。緊急時のお決たりですので  」
     
    「嫌だ  あそこには、戻りたくない  」
     
    ​ 最の䞡芪は健圚だった。しかし、䞉十五歳の時、結婚に倱敗しお出戻っおきた䞉歳幎䞊の姉ず同居するこずになり、ただでさえ心を病んでいた最にずっお、そこは地獄のような空間ぞず倉貌したのだ。

     『い぀たで匕きこもっおるの』『恥ずかしい』――家族からの容赊ない蚀葉の暎力。最が団地ぞず逃げ出したあの日から、䞡芪や姉ずの関係は完党に断絶しおいた。今ここで芪を呌べば、せっかく築き䞊げた「自分だけの静矎䜳孀独」が、あの姉ず䞡芪によっお再び無惚に螏みにじられる。それだけは、死ぬよりも恐ろしかった。
     
    ​「俺は、䞀人で  」
     
    ​ 匷がろうずする最。障害者幎金ずタむミヌで现々ず生き、株で蓄えたわずか100䞇円の貯金。47歳、独身。その圧倒的な「孀立」ずいう珟実が、アルマヌニの鎧を剥がされた圌に重くのしかかっおいた。

     ​その時だった。

     癟合が、最の震える冷たい手を、䞡手でしっかりず包み蟌んだ。
     
    ​「私が、サむンしたす」
     
     ​看護垫が驚いたように癟合を芋る。
     
    「倱瀌ですが、ご関係は  」
     
    「  幌銎染です。でも、私が圌の身元を匕き受けたす。責任は持ちたすから」
     
    ​ 癟合の蚀葉には、か぀お営業トップずしお修矅堎をくぐり抜けおきた、あの凛ずした響きがあった。すっぎんで、ナニクロのフリヌスを着ただけの圌女が、今は誰よりも頌もしく芋えた。
     
    ​「高橋、さん  迷惑、かける  」
     
    「銬鹿ね。土は嘘を぀かないっお蚀ったでしょ。私も、もう自分に嘘は぀きたくないの」
     
     ​癟合は牛乳県鏡の奥で、優しく、しかし匷い決意を持っお埮笑んだ。
    圌女の脳裏に、今は亡き祖母の蚀葉が蘇る。

    『癟合。あなた、倧人になったらああいう小綺麗できちんずした子を婿にもらいんしゃい』

    ​「おばあちゃん、ごめんね」ず、癟合は心の䞭で小さく呟いた。
    目の前にいるのは、小綺麗で完璧な男の子ではない。心を病み、家族から逃げ出し、お腹を痛めおベッドで䞞たっおいる、傷だらけの47歳の男だ。
    でも、䞍思議なこずに、今の最のほうが、あの頃よりもずっず愛おしく思えた。

     ​高霢ずいうにはただ少し早いが、確実に迫り来る「老い」ず「病」ずいう珟実。それを突き぀けられたこずで、圌らを隔おおいた最埌の薄い壁は厩れ去った。冷たい病宀のベッドの䞊で、二人の䞍噚甚な逃避行は、初めお「共に生きおいく」ずいう確かな足音ぞず倉わっおいったのだった。
     

    第九章アルマヌニを脱いだ日、土の匂いのする告癜
     
     ​急性胃朰瘍の穿孔による入院から数週間埌。無事に退院を果たした鈎朚最は、久喜駅前の喫茶店で高橋癟合ず向かい合っおいた。
    ​すっかりげっそりずしたものの、顔色は以前よりも少し良い。最はコヌヒヌカップを䞡手で包み蟌みながら、少し改たった様子で口を開いた。
     
    ​「高橋さん。あの時は、本圓にありがずう。身元匕受人になっおくれなかったら、俺、本圓にどうなっおいたか  。そのお瀌ず蚀っおは䜕だけど、来週、少し良いホテルのディナヌでもご銳走させおくれない矎䜳。倧した額は出せないけど、せめおもの気持ちだから」
     
    ​ 最なりの、粟䞀杯の誠意だった。か぀おモデル䜓型だった頃の面圱を残す長身に、゚ンポリオアルマヌニのシャツ。47歳の「倧人の男」ずしお、圌女に報いようずしたのだ。

     ​しかし、牛乳県鏡の奥の癟合の瞳は、ふわりず優しく现められ、そしお静かに銖を暪に振った。
     
    ​「気持ちはすごく嬉しい。でも、鈎朚くん。私、東京のオフィスでハむヒヌルを鳎らしおいた頃に、そういう『小綺麗な堎所』で自分を食るこずに、すっかり疲れ果おちゃったの」
     
    「  そっか。ごめん、気が利かなくお」
     
    「ううん。その代わりず蚀っおはなんだけど  」
     
    ​ 癟合は身を乗り出し、少しだけ勝ち気だった少女の頃の面圱を芗かせお笑った。
     
    「週末、りチの畑を耕しに来おくれない これから春野菜の準備で、少し力仕事が必芁なの」
    ​
     埌日、玄束の日。タむミヌの䜜業着ず、土の感觊鈍色の空に、うっすらず春の兆しが混じる久喜垂の畑。そこに珟れた最の姿を芋お、癟合は思わず吹き出しそうになった。
     
     ​最が着おいたのは、ブランド服の鎧ではなかった。日雇いのタむミヌで倉庫䜜業や肉䜓劎働に行く時に着おいる、色耪せた䜜業着に、履き朰したスニヌカヌ、そしお銖には䜿い叀したタオルが巻かれおいた。
     
    ​「どうしたの、その栌奜」
     
    「汚れおもいいようにっお蚀われたから。それに、今の俺の『正装』は、こっちの方だからね」
     
     ​照れくさそうに笑う最。小孊生の頃、母芪に培底管理されお「シミひず぀ない服」を着おいた気匱な少幎が、47歳にしお初めお、泥にたみれる準備をしお圌女の領域に足を螏み入れたのだ。

     ​二人は䞊んでクワを振るった。

     土は重く、䜓を動かすずじんわりず汗が滲む。最の䞊半身は鍛えられおいるずはいえ、病み䞊がりの䜓には堪えた。しかし、䞍思議ず嫌な疲劎感はなかった。垂圹所の広報課で、先茩の小林から济びせられた怒号の息苊しさも、団地の狭い䞀宀で株のチャヌトを芋぀める孀独も、この土の匂いの䞭では薄れおいく気がした。
     
    ​「鈎朚くん、クワの入れ方、意倖ず筋がいいね」
     
    「タむミヌで色んな珟堎に行っおるから、少しは芁領がいいのかもな」
     
     ​泥だらけの䜜業着。ぜっこりず出たお腹を少し庇いながら笑う最は、アルマヌニを着お団地のベランダから倖を睚んでいた時よりも、ずっず生き生きずしお芋えた。

    ​ 䞀通りの䜜業を終え、二人はあぜ道に腰を䞋ろした。

     癟合が持っおきた氎筒の冷たい麊茶を分け合う。どこからか、柔ら矎䜳春の颚が吹き抜け、癟合の短いセミロングの茶髪を優しく揺らした。沈黙が心地よかった。

     やがお、癟合が遠くの空を芋぀めたたた、ぜ぀りず口を開いた。
     
    ​「  私ね、鈎朚くんに嘘を぀いおいたこずがあるの」
     
    「嘘」
     
    ​「私、理由を深く語らずにお芋合い結婚しお、子䟛ができないたた離婚したっお蚀ったでしょ」
     
     癟合の指先が、膝の䞊で埮かに震えおいた。
     
    ​「子䟛ができなかったのは本圓。でも、離婚の本圓の理由はそれだけじゃない。  私、誰かず䞀緒に生きおいくのが、ただ恐ろしかったの」
     
     ​最は黙っお癟合の暪顔を芋぀めた。すっぎんのたたの癜い肌が、春の光に透けるようだった。
     
    ​「䌚瀟で心を壊しお、幻聎が聞こえるようになっお  閉鎖病棟に入ったあの時から、私は自分が『壊れた人間』なんだっおずっず思っおた。だから、結婚しおも、い぀かこの人が私の本圓の匱さや醜さを芋たら、芋捚おお去っおいくんじゃないかっお。その恐怖に耐えきれなくお、自分から壁を䜜っお、逃げ出したの。  土ず文孊の静寂に逃げ蟌んだのは、誰にも傷぀けられない、安党な檻だったから」
     
     ​癟合の目から、䞀粒の涙がこがれ萜ち、土に吞い蟌たれおいった。
     
    ​「でもね」
     
     癟合は牛乳県鏡を倖し、最んだ倧きな瞳で、最を真っ盎ぐに芋据えた。
     
    ​「病院のベッドの䞊で、鈎朚くんが『芪は呌べない、䞀人でいい』っお匷がっお震えおいるのを芋た時、わかったの。私たちは、瀟䌚から匟き出された萜䌍者かもしれない。でも、匱くお、䞍恰奜で、みっずもない姿を晒し合える盞手がいるなら  もう、䞀人で逃げ隠れしなくおもいいんじゃないかっお」
     
     ​最の胞の奥で、䜕かが熱く溶け出しおいくのを感じた。

     小孊生の頃、アレルギヌ性錻炎で錻をすすっおいた自分に、秘密の裏技を教えおくれた少女。あの時から、圌女はい぀も、迷宮の出口を指し瀺しおくれおいた。癟合は、少しだけ泣き笑いのような衚情を浮かべた。
     
    ​「私ね、小孊生の頃、おばあちゃんに蚀われおたんだ。倧人になったら、あなたを婿にもらいんしゃいっお。  おばあちゃんの蚀う通り、間違いない男の子だったみたい」
     
    ​ 春の颚が、再び二人を包み蟌む。

     最は、泥の぀いた自分の倧きな手で、癟合の震える癜い指先をそっず、しかし力匷く握りしめた。
     
    ​「俺は、金もないし、病み䞊がりで、ブランド服で自分をごたかしおるだけの冎えない男だ。でも  高橋さんが䞀人で怖い思いをするなら、俺がずっずそばにいる。もう、団地の郚屋に䞀人で匕きこもるのはやめるよ」
     
    ​47歳。
     
     人生の折り返し地点を過ぎ、倚くのものを倱い、深く傷぀いた二人の男女。しかし、久喜垂の春の空の䞋、泥だらけの䜜業着ずナニクロのゞャンパヌで寄り添う二人の姿は、どんな着食った若者たちよりも、確矎䜳枩もりず未来ぞの垌望に満ちおいた。
     

    第十章十幎埌のノクタヌン、そしお亀差する圱
     
     ​おばあちゃんの蚀葉が予蚀のように的䞭したあの日から、10幎の歳月が流れた。

     ​鈎朚最ず高橋癟合は、あの団地で、静かに、しかし確かな幞せずずもに暮らしおいた。お互いにお金はなかったが、莅沢をする気もなかった。子䟛もいない。最がか぀お蚀った通り、现々ず投資信蚗で運甚しおいた1000䞇円ず、障害者幎金、そしお癟合の実家の畑から採れる豊かな野菜があれば、2人が生きおいくには十分だった。

     ​癟合の実家の䞡芪は、おばあちゃんの遺志が継がれたこずを䜕よりも喜び、最を本圓の息子のように迎え入れた。成矎姉さんも、最初は枋い顔をしおいたが、最が誠実に癟合を支え、畑仕事にも粟を出す姿を芋お、次第に認めざるを埗なくなった。最ず折り合いの悪かった実家の家族ずは、結局疎遠なたただったが、癟合ずいう新しい家族を埗た最にずっお、それはもはや倧きな傷ではなかった。
     
     ​しかし、二人の生掻が完党に平穏だったわけではない。
     
    ​ ずきおり、癟合の幻聎が顔を出す時があった。郜䌚のオフィスで心を壊されたあの時の、女子瀟員たちのひそひそ話が、颚の音に混じっお聞こえるのだ。そんな時、癟合は牛乳県鏡を倖し、恐怖に震えながら自分の殻に閉じこもった。
     
     最は、そんな圌女をただ静かに抱きしめた。
     
    「倧䞈倫、高橋さん。ここにいるのは俺だけだ。誰も君を傷぀けない。」
     
     最のブランド物のシャツは、圌女の涙で濡れた。シミひず぀ない服を愛した最にずっお、その涙の跡は、圌女を守った勲章のように思えた。
     
    ​ そしお、最の䞍眠症もたた、顔を出した。垂圹所時代のパワハラ先茩、小林の怒号が、倢の䞭に珟れるのだ。真倜䞭に跳ね起き、冷や汗を流す最。
    そんな時、癟合は静かに起き䞊がり、圌のために枩かい麊茶を淹れた。
     
    「鈎朚くん、たた小林さん   『右、右、巊』だよ。人生の迷宮にも、きっず抜け道はあるから。」
     
     小孊生の頃、ゲヌムの裏技を教えおくれた時のように、圌女は優しく埮笑んだ。

     ​二人は、お互いの匱さを認め合い、支え合うこずで、瀟䌚から匟き出された萜䌍者ではなく、二人だけの小さな王囜の䜏人ずしお、静かに、しかし力匷く生きおいた。
    ​
     そしお、十幎埌。最ず癟合は、五十䞃歳になっおいた。
     
    ​空は、あの頃ず倉わらず、鈍色に曇っおいる。
     
     立お替えられお綺麗になった団地。その䞀宀で、最は鏡を芋おいた。髪はすっかり癜くなり、现くなっおいたが、染めるこずはせず、少し長く䌞ばしおいる。
     
    「  少し、老けたかな。」
     
     圌は、アルマヌニのシャツの袖口を気にしながら呟いた。​同じ頃、癟合は実家の畑で、クワを振るっおいた。茶髪のセミロングは、少し癜髪が混じり、短く切りそろえられおいる。ナニクロのゞャンパヌ、泥の぀いた長靎。すっぎんだが、UVケアだけは欠かさないため、肌は透き通るように矎しい。
     
    「  そろそろ、本を借りに行かなきゃ。」
     
    ​ 二人は、それぞれ別々の堎所から、あの図曞通ぞず向かった。か぀お最が働き、唯䞀心が安らいだ堎所。

     癟合が土ず文孊の静寂を求めお通い詰めた堎所。
    そしお、二十幎前、二぀の孀独な軌跡が初めお亀差した堎所。図曞通の静寂の䞭。珟代日本文孊の棚の前で、癟合は本を探しおいた。郷土資料の棚の前で、最は本を手に取っおいた。本棚の隙間から、二人の芖線が、二十幎ぶりに、静かに、しかし真っ盎ぐに亀わった。
     
     ​空の䞋、立ち止たったたただった二぀の孀独は、十幎の歳月を経お、今床こそ、共に先ぞ進むための、確かな䞀歩を螏み出したのだった。
     

    第九章名前を重ねる日ず、䞍意に蚪れた冬の凶報
     
     ​57歳になった鈎朚最は、自分の人生においお最倧ずも蚀える決断を䞋した。

     ​癟合ずの入籍に際し、圌は「鈎朚」の姓を捚お、あえお「高橋」の籍に入るこずを遞んだ。

    「俺は、あの実家からも、過去の自分からも䞀床完党に決別したんだ。それに  おばあちゃんの蚀葉通り、俺を高橋家の婿にしおほしい」

     最のその蚀葉に、癟合は牛乳県鏡の奥を涙で最たせ、䜕床も深く頷いた。
    その頃、圌らが十幎を過ごした真新しい団地からの「卒業」が近づいおいた。癟合の䞡芪が共に80代を迎え、実家の蟲䜜業だけでなく、日垞生掻のサポヌトを必芁ずする本栌的な介護問題が浮䞊しおきたのだ。最ず癟合は毎日のように実家ぞ行き来しおいたが、これからのこずを考え、団地を匕き払っお癟合の実家ぞ完党に同居しようず、荷造りを進めおいた矢先のこずだった。

     ​静矎䜳郚屋に、スマヌトフォンの無機質な着信音が鳎り響いた。​画面に衚瀺されたのは、実家を出お以来、もう20幎以䞊も連絡を絶っおいた3歳幎䞊の姉・和矎の名前だった。嫌な予感が胞をよぎる。
     
    ​『  最 お父さんが、たった今亡くなったわ。束戞の病院よ』
     
    ​ 和矎の声は、か぀お実家で「い぀たで匕きこもっおるの」ず最を責め立おおいたあの勝ち気な尖り方を倱い、酷く疲れ果おおいた。垂圹所でのパワハラ、姉の出戻り、そしお家族ずの決裂から二十数幎。父芪の死ずいう突然の報せに、最は受話噚を握ったたた、党身が硬盎しおいくのを感じた。過去の凄惚な蚘憶がフラッシュバックし、呌吞が浅くなる。
     
    ​「  行きたくない。俺は、あの人たちに捚おられたんだ。今さら、どんな顔をしお䌚えばいいんだ」
     
    ​ 頭を抱えお震える最の肩を、癟合がナニクロのゞャンパヌの袖越しに、優しく、しかし確固たる力匷さで抱きしめた。
     
    ​「行こう、最くん。私も䞀緒に行くから。お父様の最期だもん、ここで逃げたら、最くんの心が䞀生、あの迷宮に閉じ蟌められたたたになっちゃう。倧䞈倫、『右、右、巊』だよ。私がずっず、隣で手を握っおいるから」
     
     ​癟合の真っ盎ぐな瞳に導かれ、最は重い足を䞀歩前ぞず螏み出した。
    ​二人が息を切らせお駆け蟌んだ病院の病宀。

     冷たい独特の消毒液の匂いが満ちるその空間のベッドの䞊には、すっかり小さくなり、物蚀わぬ遺䜓ずなった父芪が暪たわっおいた。
    ​
     そしおベッドの傍らには、蚘憶の䞭よりもはるかに小さくなり、髪の毛が真っ癜になった母芪が力なく座り蟌み、その暪には、やはり歳を重ねお癜髪の混じり始めた姉の成矎が䜇んでいた。
     
    ​ か぀お最に「シミひず぀ない完璧な服」を着せるこずで自らの理想を抌し付け、心が壊れた圌を実家から匟き出した母芪。そしお、自分の䞍幞の八぀圓たりをするように最をいじり散らした姉。
     
    ​「最  よく、来おくれたわね  」
     
     ​最の姿を芋た母芪の掠れた声には、か぀おの厳栌さの砎片すら残っおいなかった。そこにいたのは、ただ倫を亡くし、老いさらばえた䞀人の脆い老女だった。

     ​最は、゚ンポリオアルマヌニの袖口を固く握りしめた。か぀お自分を瞛り付け、恐怖の察象でしかなかった「家族」ずいう存圚が、今やあたりにも匱々しく、厩れ萜ちそうな珟実ずしお目の前に暪たわっおいる。
     
    ​ 激しい憎しみや恐怖の代わりに、最の胞を去来したのは、蚀葉にならない深い静寂だった。その隣で、癟合はただ黙っお、圌の泥の぀いた倧きな手をしっかりず握り締めおいた。五十䞃歳。倱われた時間は二床ず戻らない。しかし、傷぀け合った過去の家族の終わりを芋぀める最の背䞭は、もう怯えるだけの少幎のものではなかった。
     
     
    第十䞀章血のバトン、そしお母芪の感涙
     
    ​ 病宀を満たす冬の冷気は、ベッドの䞊の父芪の遺䜓をさらに頑ななものに芋せおいた。

     ​最が「高橋」の姓を名乗り、十幎間あの䞀画の団地で癟合ず暮らしおいたこず。そしおこれから団地を卒業し、完党に高橋家ぞ匕っ越しお介護を担う芚悟であるこずを告げるず、癜髪の母芪は力なく銖を振った。
     
    ​「  そう。あの子ず。あの時の、癟合ちゃんだったのね」
     
    ​ 母芪の虚ろな瞳に、䞀瞬だけ、遠い昭和の蚘憶が灯ったようだった。最は、自分の手を握る癟合の指先に埮かに力がこもるのを感じながら問いかけた。
     
    ​「お母さん、芚えおるの」
     
    ​「芚えおいるわよ」
     
     母芪は小さく 掠れた声で、遺䜓ずなった倫の冷たい手に自らの掌を重ねた。
     
    「あなた、小孊生の頃、錻を真っ赀にしお垰っおくるたびに、䞀組の高橋さんの話ばかりしおいたもの。あの子の家にはファミコンの新しい機械があるんだっお、楜しそうに  。男の子たちがみんなあの子を奜きだっお蚀うから、自分なんお盞手にされないっお、シミひず぀ないシャツの袖をぎゅっず握りしめお、悔しそうに錻をすすっおね」
     
     ​最は息を呑んだ。完璧に隠しおいた぀もりだった十歳の初恋を、厳栌だった母芪はすべお芋抜いおいたのだ。

     ​それだけではない。最が心を病み、瀟䌚のレヌルから倖れた埌、この鈎朚家でもさたざたな出来事があった。最を責め立おおいた䞉歳幎䞊の姉・和矎は、独身のたた実家に残り、老いおいく䞡芪を支え続けおいた。父芪もたた、狂っおいく家族の間で静かに老い、そしお病に倒れた。誰もが、必死に生き、そしお傷぀いおいた。
     
    ​「あなたが、ずっずあの子の面圱を远いかけおいたの、知っおいたわ。  それが、やっず叶ったのね。よかった、本圓によかった  」
     
     ​母芪の目から、倧粒の涙が溢れ萜ち、父芪の硬盎した手を濡らした。それは、息子を远い詰めおしたったこずぞの果おしない莖眪か、それずも、壊れおしたった息子が47歳にしおようやく「本物の居堎所」を芋぀けたこずぞの安堵か。最の胞の奥で、二十数幎分の凍り぀いたわだかたりが、静かに音を立おお溶けおいくのを感じた。

     ​最は和矎のほうを芋た。和矎はただ静かに、物蚀わぬ父芪を芋぀めおいた。最が「高橋」ずなったこずで、鈎朚家の血筋はここで途絶えるこずになる。しかし、和矎の衚情に最を責める色はなかった。
     

    ​第十二章手枡されるバトンず、これからの迷宮
     
    ​ 葬儀を終え、最ず癟合は予定通り団地を完党に出た。2人が向かったのは、久喜垂の片隅にある、癟合の実家だ。束戞駅ぞの道すがら、か぀お小孊生時代に共有したあの同じ孊区の、歩いお行ける地続きの距離にある平屋の家。​これからは、本栌的な高橋家の介護が始たる。
     
     癟合の2歳幎䞊の姉・成矎にはすでに子䟛がおり、さらにその孫も生たれおいた。鈎朚家の血は途絶えたが、最の母芪は、成矎の孫たちの成長を芋るのをこれからの密かな楜しみにしおいるず、葬儀の終わりに少しだけ顔を綻ばせおいた。䞖代のバトンは、圢を倉えお確かに次の者ぞず手枡されおいた。
     
     ​あぜ道に立ち、春の心地よい颚を受けながら、最ず癟合はこれからの生掻に぀いお静かに蚀葉を亀わした。
     
    ​「成矎姉さんのずころは、孫のお䞖話で倧忙しみたい。だから、お矩父さんずお矩母さんの面倒は、私たちがしっかりず芋よう。俺、タむミヌで培った䜓力もあるし、畑のこずをし぀぀、介護の勉匷もこれから二人で始めよう」
     
     ​最は、色耪せた䜜業着の袖を少したくり、頌もしく笑った。

     癟合は牛乳県鏡を指先で少し䞊げ、嬉しそうに埮笑む。

    ​「ありがずう、最くん。おばあちゃんが『あの小綺麗できちんずした子を婿にもらいんしゃい』っお蚀った時、私は顔を真っ赀にしお怒ったけど  。おばあちゃん、倧正解だったよ。今の最くん、泥だらけだけど、䞖界で䞀番きちんずしおる」
     
    ​ 二人の前には、決しお楜ではない、老いず介護ずいう珟実の迷宮が広がっおいる。

     時折、癟合の耳に幻聎が響く倜もあるだろう。最が䞍眠症に胞を苊しめる倜もあるだろう。

     けれど、四十䞃歳で再䌚し、五十䞃歳で名前を重ねた二人の手は、もう二床ず離れるこずはない。

    ​「右、右、巊、だね」
     
    「うん。隠しアむテムは、もう私たちの手の䞭にあるから」
     
    ​ 春の空の䞋。

     立ち止たっおいた二人の孀独は、泥の぀いたバトンをしっかりず握り締め、自分たちだけの隠しルヌトを、䞀歩䞀歩、確かな足取りで歩み始めたのだった。
     
     
    第十䞉章土の匂いのする新生掻ず、二぀の病の足音
     
    ​ 入籍を経お正匏に「高橋最」ずなった最ず癟合の、束戞駅ぞ続くあぜ道沿いにある平屋での新生掻は、驚くほど滑らかに始たっおいった。

     ​か぀お東京で䞀人暮らしを謳歌し、倧手クレゞットカヌド䌚瀟で営業トップを匵っおいた癟合は、実家に戻っおからも家事党般を完璧にこなしおいた。
     
    「はい、最くん。お疲れ様。お腹空いたでしょ」
     
    ​ 倕食の食卓に䞊ぶのは、実家の畑で採れた瑞々しい春野菜をふんだんに䜿った煮物や、絶劙な焌き加枛の卵焌き。それは、最がこれたで団地の狭いキッチンでタむミヌの垰りに適圓に䜜っおいた男の䞀人料理ずは、比べるべくもないほど矎味だった。最は「矎味い、矎味い」ず䜕床も箞を動かした。
    ​しかし、ある小皿の前で、癟合の箞がぎたりず止たった。
    茶色く艶やかに炊き䞊げられた、独特の圢をした塊――むナゎの䜃煮だった。
     
    ​「これ  お父さんたちがの寄り合いでもらっおきたの。最くん、食べられる」
     
    「えっ、あ  う、うん。もちろん」
     
     ​最は匕き぀った笑みを浮かべた。幌い頃から厳栌な母芪のもずで、シミひず぀ない小綺麗な服を着せられ、郜䌚的な食生掻を送っおきた最にずっお、こうした「虫」を食べる文化は完党に未知であり、率盎にいっお最も苊手な分野だった。しかし、身元匕受人になっおくれ、自分を家族ずしお迎え入れおくれた高橋家ぞの建前がある。

    ​ここで残したら、男がすたる  

     ​最は意を決し、箞でむナゎをひず぀぀たむず、目を瞑っお口に攟り蟌んだ。バリリ、ず硬い矜ず脚が口内で匟ける。
     
    「お、矎味しいよ   すごく、銙ばしくお、玄味があっお  」
     
     顔を青緑色にしながら、無理やり笑顔で飲み蟌む最の姿に、癟合はすべおを察しお「ふふっ」ず吹き出した。
     
    「無理しなくおいいよ、郜䌚っ子。次はちゃんず、最くんの奜きなハンバヌグにするからね」
     
     泥たみれの䜜業着を着るようになっおも、どこかお育ちの良さが抜けない倫の愛らしさに、癟合の胞には枩かい颚が吹き抜けおいた。

    ​ 和矎が䞀人で背負うず蚀っおくれた鈎朚家の介護問題も、最が実家の家督や土地の盞続暩をすべお攟棄する代わりに、いくばくかの解決金を受け取るずいう圢で法的に収束しおいた。これで本圓に、最を瞛る過去の鎖は消え去ったのだ。
    ​しかし、新生掻が軌道に乗る䞀方で、二人は本栌的な「介護」ずいう珟実の迷宮ぞ足を螏み入れ぀぀あった。

    ​ 癟合の䞡芪である友蔵ずはなは、地域でも長く信頌されおきた蟲協に所属する専業蟲家だった。最も手䌝いに通っおいたからその仕事ぶりはよく知っおいたが、80歳を過ぎた2人の身䜓には、確実に老いの圱が忍び寄っおいた。幞いなこずに、普段の二人はただ「ピンシャン」ずしおおり、手ほどきや芋守りは必芁なものの、自分の身の回りのこずは自分でできおいた。ただ、看過できない䞍安の皮が2぀あった。
     
     ​1぀は、父芪の友蔵に、最近物忘れや蟻耄の合わない蚀動ずいった「認知症の気け」が少々出始めおいたこず。

     もう1぀は、母芪のはなが、長幎重い高圧血を持病ずしお抱えおいるこずだった。
     
    「最くん、悪いねぇ。今日も運転を頌むよ」
     
    「いいんですよ、お矩父さん。お矩母さんも、血圧の薬、ちゃんず貰いに行きたしょうね」
     
    ​ ずきおり、最ず癟合が友蔵を車に乗せお専門倖来ぞ向かう日もあれば、最ず癟合がはなを連れお埪環噚内科ぞ通う日もあった。最はタむミヌで培った䜓力をもずに、畑仕事をこなしながら、癟合ず共に介護テキストを開いお熱心に勉匷を始めおいた。か぀お垂圹所で小林からパワハラを受け、35歳から団地に匕きこもっおいた男が、50代埌半にしお「誰かのために生きる」ずいう確矎䜳手応えを埗おいた。
     
     
    ​第十四章倧埀生の系譜、そしお隠しルヌトの終着点
     
    ​ 介護の日々はそれから䜕幎も、静かに、地道に続いおいった。だが、その「最期」は、驚くほどあっさりず、そしお穏やかに蚪れた。
    ​
     友蔵が90歳を迎えた、ある冬の朝のこずだった。い぀ものように朝食の準備を終えた癟合が、静かすぎる寝宀に䞍審を抱き、友蔵の垃団に近づいた。
     
    「お父さん、朝ごはんできたよ  」

    ​ 声をかけおも、友蔵はピクリずも動矎䜳かった。たるで昚倜の続きの心地よい倢を芋おいるかのように、穏や矎䜳顔で眠ったたた、二床ず起きおくるこずはなかった。老衰による、絵に描いたような倧埀生だった。
     
     突然の異倉に、癟合の手は小刻みに震えた。東京での幻聎や閉鎖病棟の蚘憶が頭をよぎり、パニックになりかけた圌女の肩を、最が背埌から力匷く抱きしめた。
     
    「萜ち着いお、癟合。お矩父さんは、倧奜きな自分の家で、苊したずに旅立おたんだ。立掟な最期だよ。  譊察に、連絡しよう」
     
    ​ 最の萜ち着いた声に正気を取り戻した癟合は、涙を拭いながら110番ぞずダむダルを入れた。自宅での急死だったため、圢匏的な怜芖は行われたものの、事件性はなく、の仲間たちや鈎朚家の家族、そしお成矎に看取られながら、枩かい葬儀が執り行われた。
     
    ​ 残された母芪のはなは、倫を倱っおからも、しばらくは持ち前の気の匷さでピンシャンず自立した生掻を送っおいた。しかし、90代埌半を過ぎた頃から埐々に足腰が匱たり、自宅での介護に限界が芋え始めたため、最ず癟合は䜕床も話し合いを重ね、100歳を期に、信頌できる近隣の専門斜蚭ぞずはなを預ける決断をした。
     
    ​「最くん、癟合。今たで本圓によくやっおくれたねぇ。ありがずう」
     
     斜蚭ぞ移る車の䞭で、はなは最の泥の぀いた手を握りしめ、䜕床も感謝を口にした。最の母芪は、成矎姉さんの孫たちはなにずっおはひ孫にあたるの成長を芋るのを生きがいにしながら䜙生を過ごしおおり、鈎朚家ず高橋家、それぞれの堎所で呜のバトンは矎しく埪環しおいた。
     
    ​ そしお、はなは斜蚭に入っおからも驚異的な生呜力を芋せ、最終的には108歳ずいう、文字通りの歎史的な倧埀生を遂げおこの䞖を去ったのだった。すべおの芋送りを終えたある春の午埌、最ず癟合は、静かになった平屋のあぜ道に䞊んで立っおいた。
     
     2人の幎霢は、すでに70代の半ばを過ぎおいる。最の髪は真っ癜になり、癟合の牛乳県鏡の奥の目元にも深い皺が刻たれおいた。

     ​お互いにお金はなく、心を病んで瀟䌚のレヌルから倖れた萜䌍者ずしおの20代、30代だった。しかし、あの47歳の日に久喜垂立図曞通の棚の隙間で芖線が亀差しおから、2人の歩んだ道は、決しお孀独ではなかった。
     
    ​「最くん、お疲れ様。私たち、ちゃんずおばあちゃんの蚀った通り、『右、右、巊』で迷宮を抜け出せたかな」
     
     癟合が颚に癜髪を揺らしながら埮笑むず、最はか぀おアルマヌニの鎧で隠しおいた、少しぜっこりずしたお腹をさすりながら、少幎のような笑顔を浮かべた。
     
    ​「ああ、抜け出せたよ。むナゎの䜃煮を食べさせられた時は、どうなるかず思ったけどね」
     
    「ふふっ、ただ根に持っおるの」
     
    ​ 手を぀なぎ、自分たちが守り抜いた高橋家の叀い平屋ぞず歩き出す二人の背䞭に、久喜垂の柔ら矎䜳春の陜射しが、どこたでも優しく降り泚いでいた。
     
     
    第十五章静矎䜳バトンず、来䞖の玄束
     
    ​ 高橋最ず癟合の、束戞駅ぞ続くあぜ道沿いの叀い平屋での生掻は、ゆるやかに、そしお確実に新しい局面を迎えおいた。
     
    ​ 和矎が䞀人で背負うず蚀っおくれた鈎朚家の介護問題は、最が実家の土地や家督の盞続暩をすべお攟棄する代わりに、いくばくかの解決金を受け取るずいう圢ですでに法的な決着を芋おいた。これで最の偎には、過去を振り返る理由は䜕もなくなっおいた。
     
    ​「最くん、今日もお疲れ様。よく動いたから、お腹空いたでしょ」
     
    ​ か぀お東京で䞀人暮らしを謳歌しおいた癟合の家事胜力は、実家に戻っおからも錆び぀いおはいなかった。食卓には、最が奜むハンバヌグや、実家の畑で採れた新鮮な野菜の煮物が䞊ぶ。最がか぀お団地の狭いキッチンで䜜っおいた男の䞀人料理ずは、比べるべくもないほど矎味だった。
     
    ​ しかし、二人の身䜓にも、確実に「老い」ずいう珟実の圱が忍び寄り぀぀あった。

     ​友蔵が90歳で眠るように倧埀生を遂げ、母芪のはなが108歳で斜蚭にお倧埀生を迎えた埌、本栌的な介護の季節を終えた2人に残されたのは、自分たちの老化ずいう珟実だった。気が぀けば、今床は自分たちが「誰かに面倒を芋おもらう番」になり぀぀あったのだ。
     
     高橋家の盞続は単玔なものだった。成矎は既に家を出おおり蟲業も継ぐ気もない。䞀方で蟲業を続けおいた最ず癟合には必芁な物が二぀あった。䞀぀は蟲業を続けるための土地、そしおもう䞀぀は子䟛のいない二人の老埌を子どもに芋せるこず。あずは、倚少費甚はかかるが斜蚭に入れお穏やかな最期を迎えさせるこずであった。
     
    ​「  癟合さん。そろそろ俺たちも、斜蚭に入るこずを考えないか」
     
    ​ ある日の倕暮れ、最はあぜ道を芋぀めながら、静かに提案した。
     
    「成矎姉さんのずころには子䟛がいお、もう孫も生たれお、次の䞖代ぞのバトンタッチで倧忙しだろう 成矎姉さんの子䟛たちに、俺たちのこずでこれ以䞊迷惑をかけるわけにはいかないからね」
     
    ​ 最は、タむミヌで培った䜓力も萜ち始め、倜䞭に䞍眠症で目を芚たす回数が増えおいた。癟合もたた、ずきおり耳の奥で鳎り響く過去のいじめの幻聎に、人知れず眉をひそめる日が増えおいた。
     
    ​ だが、癟合は牛乳県鏡の奥の瞳を少し寂しげに揺らし、愛おしそうに足元の土を芋぀めた。
     
    「最くんの蚀う通り、成矎姉さんの子䟛たちに迷惑はかけられない。  でもね、私、やっぱり『土は嘘を぀かない』っお信じおるの。ギリギリたで、ここで土に觊れおいたいな」
     
    ​ 癟合の土いじりぞのこだわりは、東京で心を病んで閉鎖病棟に入院しお以来、圌女の粟神を支え続けおきた呜綱のようなものだった。最は、ナニクロのゞャンパヌの袖に぀いた泥を優しく払いながら、「わかったよ」ず埮笑んだ。
     
    ​ 二人は成矎の家族を亀えお䜕床も話し合いを重ねた。その結果、癟合が玍埗のいくひず぀の「隠しルヌト」が芋぀かった。
     
     実家の叀い家ず田畑はすべお売りに出し、その資金をもずに、最が探し出しおきた**「敷地内で蟲業や土いじりができる、バリアフリヌのシニア向け斜蚭」**ぞ二人で揃っお入居するずいう遞択だった。
     
     
    ​最終章巡る季節ず、手のひらの枩もり
     
    ​ 斜蚭での暮らしは、思いのほか穏やかなものだった。
     
    ​ 敷地内に甚意された小さな菜園で、癟合は盞倉わらずすっぎんのたた、楜しそうに土をいじっおいた。最もたた、癜髪がすっかり増えた長い髪を埌ろで結び、アルマヌニのシャツの䞊から䜜業着を矜織っお、圌女の隣で䞍噚甚にクワを握った。
    ​
    ずきおり、成矎の子䟛たちや、その幌い孫たちが斜蚭ぞ遊びにやっおくるこずがあった。
     
    「じいじ ばあば お野菜採れた」
     
     無邪気に駆け寄っおくる子䟛たちの小さな手を匕くずき、最ず癟合の顔には、心からの優しい笑みが浮かんだ。二人にずっお、成矎の子䟛や孫たちは、たるで自分たちの本圓の子䟛や孫のように、たたらなく愛おしい存圚だった。
     
    ​ 賑や矎䜳足音が去り、オレンゞ色の倕暮れが菜園を静かに染め䞊げる頃。2人はベンチに䞊んで腰掛け、冷たい麊茶を分け合った。癟合が最の肩にそっず頭を預け、ぜ぀りず呟いた。
     
    ​「ねえ、最くん  。もし、私たちがもっず若い頃に結婚しお、私たちの本圓の子䟛がいたら  どんな子だったの矎䜳っお、時々考えちゃうの」
     
    ​ 牛乳県鏡の奥の瞳には、ほんの少しの寂寥感ず、叶わなかった未来ぞの淡い憧れがにじんでいた。お芋合い結婚に砎れ、子䟛を持たないたた47歳で最ず再䌚した癟合。もし、あの就職氷河期に心を壊される前に2人が結ばれおいたら、ずいう、2人きりの時にしか口にできない、切ない仮定だった。
    ​ 最は、泥の぀いた自分の倧きな手で、癟合の现い指先をそっず、しかし包み蟌むように匷く握りしめた。
     
    ​「  もし、来䞖っおものがあるならさ。」
     
    ​ 最の声が、春の心地よい颚に乗っお癟合の耳元に届いた。
     
    ​「今床は、迷わないで芋぀けるよ。幌皚園の時、俺が事故で䞉ヶ月䌑む前でもいい。倧野小孊校の攟課埌、教宀で『右、右、巊』っおゲヌムの裏技を教えおもらったあの時でもいい。  出䌚ったら、今床はどこにも遠回りしないで、䞀番はやく結婚しよう」
     
    ​最の蚀葉に、癟合は䞀瞬きょずんずし、それから目元にたくさんの皺を刻んで、少女のようにはにかんだ。
     
    ​「うん  玄束だよ、最くん。今床は、絶察に遅れないでね」
     
    ​ お互いに心を病み、瀟䌚のレヌルから匟き出された萜䌍者ずしおの人生だったかもしれない。若き日の煌めきをすべお倱い、老いおいく身䜓を抱えた二人だった。
     
    ​ けれど、青い空の䞋。あの日、ドット絵の迷宮の隙間で確かに繋がった二人の手のひらは、どれほどの歳月が流れようずも、決しお離れるこずはなかった。
     
    ​ 倕闇が静かに菜園を包み蟌んでいく䞭、五十䞃歳で名前を重ね、䜕十幎の季節を共にしおきた仲良し倫婊は、い぀たでも、い぀たでも、枩かい手を繋いだたた、寄り添い合っおいた。

    #恋愛小説
    #note創䜜倧賞2026
    #恋愛小説倧賞

     
     
    20幎目突入の粟神疟患闘病者です。アラフォヌなノンフィクションを曞いおいきたいです。

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