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がんばれ、ちーたん

    あらすじ:主人公・ちえみ(ちーたん)は、家族に愛されて育つ幼い女の子。物語は彼女の視点で、牛専門の獣医師として多忙ながらも深い愛情を注ぐ父、明るく家族を支える母、二人の兄との何気ない日常がユーモアたっぷりに描かれる。父は命と向き合う仕事に誇りを持ち、家族との限られた時間を大切にしていた。しかし、父はある日突然、心臓発作でこの世を去る。時は流れ、大人になり家を巣立つ日を迎えたちえみは、母から父が自分の成長を綴った日記を受け取る。そこには父の尽きない愛情と家族への思いが刻まれていた。父の姿はもうないが、その愛は家族の中で生き続け、ちえみは「がんばるよ」と心の中で父に語りかけ、新たな人生へ歩み出す。エピローグでは、母もまた子どもたちの自立を見届け、亡き夫との思い出を胸に、自分自身の新しい人生を歩み始めようと決意する。

    最終回:がんばれ、ちーたん。

    これから始まる物語は、世界で一番愛された私のお話し。

    「おはよーちーたーーーーーーーん!!!!」

    小鳥のさえずりが耳に心地よく、キラキラした光が差し込んだ静かな部屋。
    少しずつ外の世界につながろうとした私は、またしてもこの男の大きな声でみけんにしわを寄せるはめになった。ただでさえ目が小さい私の顔は、さぞひどい仕上がりになっていたことだろう。朝の挨拶としては落第点のけたたましいこの声で、穏やかな朝は終焉を迎えることとなる。

    この声の主の名前は佐藤和人。昭和62年に宮崎で生まれたこの男は、就職を機に鹿児島で暮らし始めた。もう社会人になって12年目になるいわゆる中堅社員だ。いまだに失敗も多く、役職に見合った働きができているかは微妙らしい。私のことを溺愛してやまない父親(チチ)だ。そういえば、今年は念願の新入社員がやってきたらしく、心底喜んでいる。

    「ちょっと!まだ寝てたじゃん!起こさないでよ!せっかくこれから洗濯物干そうと思ってたのにー。」

    私よりもチチにいら立っているこの女性の名前は佐藤舞。旧姓は田中。結婚したら苗字が変わるからそれまでの我慢!と思っていたが、結局は佐藤姓に落ち着いてしまった。「よくある苗字からの卒業」という母親(ハハ)の夢は、どうやら私に引き継がれるらしい。苗字の問題は本人にとっては結婚するかどうか悩むくらい深刻な問題だったらしいが、それでも結婚して10年が経ってなお、チチとは仲良くやっている。今は専業主婦だが、仕事はバリバリこなしていたらしい。私はそのころの母親のことは知らないが、チチは「働く姿に惚れた」とよくニヤニヤしながら言っている。たぶんハハが結婚後も働いていたらいわゆる「バリキャリ女子」になっていたに違いない。人生とは不思議なものだ。

    説明を忘れていたのだけれど、私は父親のことはチチ、母親のことはハハと呼んでいる。どうやら両親がそう呼ばせようと教育した結果らしい。発案者はチチだ。

    「大人になったときに『うちのパパは~』なんて言ってたら恥ずかしいっしょ?でもさ、パパママ言ってたのにいきなり『うちの父は~』って言うのも慣れないと恥ずかしいっしょ?だから最初っからチチ&ハハって呼ばせてたらいいじゃんか!」

    まあ、一理ある。この考え方には少しだけ関心した。
    チチは自分の父親と母親を「ちち」「はは」と呼ぶことに相当苦労したらしい。面接の練習で一番たいへんだったことはそこだったようだ。志望動機やら、人生のターニングポイントやら、自分の強みやら、本当はそうしたことを考えつくのが大変なのに、この人の苦労は他人から見たら結構軽い。

    そんな私のチチとハハの騒がしいやりとりを意に介すこともなく、私の横で寝っころがっている二人の男は長男の基樹と次男の豊樹。いつものことだが、これだけ騒がしいのによく寝てられるもんだ。基樹は今年から小学生になったばかり。保育園に通っていたときはもっと寝られていたのに、いまでは30分も早く家を出なければいけない毎日に早くもうんざりしている。平日は人生のどん底にいるような顔つきでダラダラとベッドから出ていくことが多いが、今日もきっとそうなのだろう。2つ下の豊樹は昔っから朝が弱い。オムツを脱がされようが、脇をこちょこちょをされようが、夢の世界からはなかなか戻ってはこない。朝の第一声はいつだって「ねむたい」だ。

    そして、さっきからずっと一人であなたに話し続けている私の名前はちえみ。末っ子にして佐藤家待望の女の子だ。この家族の誰からもかわいがられている、二足歩行を始めたばかりの赤ちゃんだ。ニコニコとよく笑うかわいい女の子なのだが、まだこの口からは何の言葉も紡げない。出てくるのはヨダレだけ。早くかわいい声を聴いてもらいたいというのに、何とももどかしい。もときにともき、そしてちなみと両親はラッパーでもないのに子どもの名前で韻を踏んだ。ただ、長男がもときで次男がとよきだから、私には「こより」とか「よもぎ」とかの候補が上がっていたらしい。最終的にはハハが軌道修正を行い、少しルールを外れたちえみで決まったらしいのだ。私はこの名前が気に入っているから、ハハの一言には感謝している。こよりは鼻につっこまれるアレだし、よもぎはお餅に混ぜて食べるに限る。

    そういえば、どうしてこんなに朝早くチチが私に話しかけているのだろう。

    どうやら深夜にお産があって今帰ってきたらしい。

    「深夜にお産」ってなんじゃらほい。

    最初はよくわからなかったけど、どうやらそれがチチの仕事なんだそうだ。

    チチはウシの治療を専門にしている獣医師で、とあるうちから車で10分くらいのところにある診療所で働いている。獣医と聞けば、手術着や白衣を着て動物病院で働いている姿を思い浮かべるけれど、チチはまったくそんな働き方をしていない。

    私だって、獣医師と聞けば動物病院の先生をすぐに思い浮かべてしまう。きれいな病院、受付のスタッフ、静かに流れるオルゴール、白衣やスクラブを着た獣医師や動物看護士、そのどれもが牛の獣医師にはないものらしい。チチにあるものといえば、1台の車とそこに詰め込まれたたくさんの薬や謎の道具たちだけだ。「ウシは病院に来てくれないんじゃ!」と笑いながら車に乗り込んで牧場へと走っていく。たくさんの薬や道具がぎっしりと乗せられた車はいつも牛舎のにおいがする(さすがに、「くさい」はかわいそうだからオブラートにつつんだよ)。

    そんなチチは牛乳に描かれた牧草を食むウシのイラストを見て「これが普通だと思われてるんだよな~」といつもぼやいていた。草原でウシが伸び伸びと過ごしているような状況は、実は少数派らしい。牧場と聞けば、草原があって、牛は放牧されていて、小鳥のさえずりと青い空がセットだと思っていた。ところが、たいていは牛舎の中で管理されているのが普通なのだ。牛舎と呼ばれる建物の中に、いくつも部屋があって、その枠の中で何頭かの牛が一緒に暮らしている。フツーの人たちが描くイメージとのギャップは相当大きいのではないだろうか。熊本の阿蘇地域や北海道では放牧が珍しくないが、広い土地が必要だし、管理する手間もかかるから、一般的には舎飼い管理が業界ではフツーなのだ。

    病気になったり調子が悪くなったりしたウシの診察や治療をすることがチチの仕事。そもそもウシって病気になること自体、びっくりだ。まあ、人間だって子どもはカゼひくし、大人だってよくわからないストレスでお腹を壊す。ウシだって生きているんだから、そんなこともあるんだろう。

    仕事中のチチを見ることはあまりないけど、仕事の話をしてくれるチチのことは好きだった。

    「なあ、ちえみ!今日のお産はほんと大変だったんだ!足がまがっててさ!チチがいなかったら死んでたぞ!」

    声帯にボリューム調整機能がついていない彼は、私を耳鳴り一歩手前のギリギリの状況に追い込んでいく。この男は疲れを知らないのだろうか。いや、他者への思いやりという人間が持つべき大切な感情が欠けているのかもしれない。

    どうやら、お母さん牛がどんなに頑張っても、子牛がなかなか出てこないから心配になった飼い主が深夜に電話をかけてきたらしい。子牛は両方の前足が曲がっていてうまく出てくることができず、お母さんウシも相当疲れていたようで、すぐに子牛を出さないと母子ともに危ない状況だったというのだ。今日は12月5日。外はきっと寒かっただろうに、私を抱きかかえるその手はとても温かかった。

    「それはもうあざやかな手つきでさ!すすす~っと曲がった足をスーパーマンみたいに伸ばしてさ!あとはロープを足と顔に巻いて…」

    「そんなこと言ったってちーたん分からないってば!」

    チチの話を遮るようにハハが割り込んできた。
    ハハ、ありがとう。これがないと、チチはいつまで経っても仕事の話が止まらない。

    「そんなこと言われったってさー。昨日は忙しくってたいへんだったんだよ?お産に急患に。夜だってまた呼ばれたじゃんか。ちーたんでエネルギ―補給しないとやってられません!」

    チチは、いつも仕事が忙しい。朝が早いくせに夜は遅い。みんなが寝てからもこうして呼ばれていなくなることがある。休みの日は寝てることが多いし、寝る前は意外に機嫌も悪い。休みの日に家族旅行に行く予定だって何回かキャンセルになってるし、チチがいないおでかけの記憶ばかりが残っている。仕事の日は仕事で忙しいし、休みの日は終わってない仕事で忙しい。私が大人になるのを嫌がるようになったのは、この人のせいであることは間違いない。

    大人って仕事しかしてないじゃん。

    つまんないよ。そんなの。

    ちなみに、チチはもともと犬や猫のようなペットを治療する獣医師になりたかったらしい。飼っていた犬を先生に治療してもらった、とか、父親が獣医師だった、なんてことはない幼稚園の先生と看護師の両親のもとに生まれたチチは2浪の末に大学進学を勝ち取った。なのに、なぜかウシの治療を専門とする診療所で働いている。農家さんと気さくに語る獣医師に感銘を受けたことが理由らしい。2浪までして入学したのに、そんなにコロッと気が変わってしまうものなのだろうか。とくにチチの母親は息子の進路変更にかなり残念がっていたらしいが、まあ、そこで働いて今でも続いているんだから別に誤った進路ではなかったんじゃないだろうか。

    あ、そういえば。
    そろそろ私のことも紹介しておいた方がいいのかな。しゃべってばっかりでごめん。ついこの間、生まれて初めての誕生日を迎えてから半年が過ぎたばかりの女の子がこの私。

    二足歩行が楽しすぎて、いつも意味もなく家のなかをウロウロするのが最近の楽しみなんだ。歯だって生えてるし、おしゃべりもできるんだよ。

    たとえばさ

    「おあよー」
    「ばいばい」
    「こっちー」
    「こいこい」
    「ぉいしー」
    「ィたいー」
    「うまっ」
    「ねー♪」

    とくにお気に入りは「ポンポン!」

    こういいながらお腹たたくと、どんな大人も笑うんだ。100%!絶対の自信があるよ。
    すごいでしょ。

    あとね。リズム感だってすごい。
    ドラマとか、映画とか、CMとか、とにかく音楽が流れたらどんなにおいしいごはんが目の前にあってもすぐに反応できるんだ。

    両腕をあげて振ったり、腰を振ったり、ヘッドバンキングしたり、ダンスのバリエーションはめっちゃ多いんだ。笑顔をふりまくのも忘れない。プロ意識も高め。

    特に腰の使い方がうまいってチチはよくほめてくれる。将来有望なんじゃないかな。

    よく笑う女の子は、誰からも好かれる。
    さみしくなって両手を上げれば、誰だって私のことをすぐに抱き上げてくれる。

    眉を八の時にしながら「すいたー」って言えばすぐにおやつが出てくるし、時間がくれば頼んでなくてもごはんが出てくる。なんて恵まれた環境なのかって思う。

    ただひとつ不満なのは、チチの寝かしつけがあんまり上手じゃないことかな。
    抱っこがあんまり得意じゃないのよあの人。チチの肩は私の顎にフィットしない。ウトウトまではするんだけど、そこから深い眠りに進もうとするとどうも寝心地が悪くて嫌になる。ウトウトまではチチでもいいんだけど、そこから先はハハの抱っこじゃないとダメだね。

    のけぞって「ハ~ハ~!!」って叫ぶしかないんだけど、そのときのチチの顔は少し寂しそうにしてる。

    夜はとくに相性が悪いんだ。

    でもしょうがないじゃん?
    チチの肩が私のフェイスラインにはまらないんだよ。こればっかりは仕方ない。


    わたしを溺愛しているチチは、朝だろうと夜中だろうと電話が鳴ればどこかへ行ってしまう。


    「牛は病院に連れていけないからな。こっちが行くしかないんだよ。」
    って、よく言ってたな。
    そもそも牛が病気になるのだって驚きだ。雄大な牧草地で草をもぐもぐしながらゆったり過ごしていると思っていた牛は、牛舎と呼ばれるたてものの中で飼育されていて、農家さんや牧場のスタッフがエサを与えていることを知らなかった。たぶん、この人が父親じゃなかったら一生そんな世界を知らずに生きていたんだろうと思う。みんなと同じように、牧場でウシを見て、乳しぼり体験をして、それで終わり。ウシには全身が真っ黒な種類がいることも、オスはミルクを出さないことも、茶色い毛のウシを「あかげ」と呼ぶことも、和牛と国産牛が違うことも、お尻から手を入れる行為が直腸検査っていう立派な診察技術のひとつだってこと、体温計は脇じゃなくて肛門に入れることも、下痢が激しいとお尻の痛みでしっぽが上がることも、コクシジウムっていう寄生虫がいることも、何も知らずに大人になっていったに違いない。そんなこと知ってる女の子ってきっと少ないんじゃないのかな。

    別に知らなくても幸せに生きていけたはずだけど。

    もう少しだけ、チチの話を続けさせてほしい。

    動物病院で仕事をしているわけじゃないんだけど、いちお診療所っていうのはあってそこに出勤してた。朝は基樹を小学校に送っていって、そのまま出勤。雨が激しい日も風の強い日も、朝は毎日欠かさず連れていってたみたい。夜はみんな寝ちゃうからさ。子どもたちと話時間はチチにとっては貴重だったみたいだよ。出勤したらまずはミーティング。病院長の竹元先生、所長の那須原先生、同僚の笹本先生、それから新しく入社したばかりの有村先生、事務員の林田さんと村木さんと今日の打ち合わせ。その後はみんなが診療車って呼ぶトヨタのプロボックスでそれぞれの農場へ出発していく。それのくり返し。

    電話が鳴って、呼ばれて、牛舎にいって、牛を診て飼い主と話して、牛を触って、聴診器をあてて、薬を用意して、注射をして、また車に乗りこんで次の場所へ移動。それのくり返し。毎日同じことの繰り返しなんて、私には耐えられないな。大人ってみんなこんな毎日を過ごしていて、どうして気が狂わないのか本当に不思議だ。

    そういえば、1日の始まりはものすごいハグで始まる。抱きかかえられて、抱きしめられて、ほっぺをくっつけられて、鼻をこすり合わせて、また抱きしめられて。朝はこれのくり返し。私はこのルーティンが嫌いじゃなかった。毎日同じことなのに、チチが鼻をこすり合わせるたびによく笑っていた。何がそんなにおもしろかったんだろう。ケタケタとよく笑っていたし、チチが鼻を当てにくるのをニヤニヤしながら待っていたふしもある。チチは私を空高く抱き上げて、私が普段目にできないような視点から世界を見せてくれた。力強いその腕に抱かれる瞬間は、遊園地のジェットコースターに乗ったときに近い、でも全然違う興奮を味わうことができた。懐かしいなぁ。

    あとさ、お風呂に入れてくれるのもほとんどチチだったよ。夜はほんとうに遅いんから、みんながご飯食べ終わってあとは寝るだけってなってからお風呂。みんなもチチとのお風呂は楽しみにしてた。「1人じゃ服脱げない!」って切れ散らかす基樹と、めんどくさがってふてくされてる豊樹、そしてオムツがパンパンなままお尻を振っておちゃらけている私を1人ずつお風呂へといざなっていく。それはもう華麗な手さばきだった。気づけばみんな裸になって頭からお湯をかぶっている。髪の毛は速やかに洗われ、ワンプッシュでモチモチ泡が出るボディソープで体を洗い終わるまでに数秒しかかからない。

    「ちょっと!ちゃんと洗ってよ!」

    いつもハハのそんな怒号が飛び交っていた。

    「タイパっていうやつよ!できるだけ短い時間でタスクをこなせる奴が勝ちよ!!」

    「なにそれ!意味わかんない!!!!」

    大人の大きな声と子どもたちの笑い声が湯けむりの充満した部屋に響く。
    もしかしたら、お風呂場で毎晩ケンカしている家族だなんて思われていたかもしれない。チチは声が大きいし、ハハは声がするどい。

    チチはよく「怒ってんの?」ってハハに聞いていた。

    ハハはよく「は?怒ってないし」って言い返してた。

    どう考えても怒っているように思える返しだが、本当に怒っていないのだから驚かされる。

    「そうやって聞かれるとムカついてくる」

    と、よく返していたなそういえば。だから、チチが聞くまでは本当に怒っていないのだ。

    逆に本当に怒っているときはどうなるんだろう。
    想像しただけでおむつ濡れそう…。

    「ハハの笑顔はかわいいよなー。もっと見たいから、チチもがんばらないと」。
    お風呂場ではそんなことをよく私に語り掛けていた。本人に言ってあげた方がよかったんじゃないかな。今さらだけど。

    お風呂場ではおもちゃの取り合いでいつも男どもがけんかを始める。最初は仲良く遊んでいるのに、いつしか遊びたいおもちゃがかぶり、ひっぱりあい、そこからたたき合いが始まり、しまいには豊樹が泣かされる。タイムリープでもしてるのかと思うほどに同じパターンだったのだが、最近は豊樹もやり返せるようになってきた。年中さんというのはこれまでと一味違う。ときどき基樹が泣かされて、チチに助けを求めることもある。まあ、大人に助けを求めながらも「いかに自分が被害を受けたか」をしっかりと説明しているあたり、長男は長男で知恵がついてきている。この二人はいつまでケンカを続けるのだろうか。いつしか思いやりが育ち、協調性を身にまとい、譲り合いができるまでに成長する日が来るのだろうか。それとも、激しいぶつかり合いを回避するために適度な距離感を保てるようになるのだろうか。どちらに進むかは想像もできないくらいに、激しいやり取りが目の前で繰り広げられている。

    背中を激しくたたくのはいただけないし、腕にかみつくのもよくないよ。おにいたち…。

    でも、その時間しか家族の時間がなかったって言えば確かにその通りかも。

    チチは助けたウシの話は楽しそうに話してくれたけど、ときどきひどく落ち込んでるときもあった。「目の前でウシが死んじゃうことだってあるんだ。」そう言ってうなだれてる日だってもちろんあった。目の前の命を助けるために、一生懸命に治療する。それでも助けられない命がある。お産だって、100%無事に生まれてくるわけじゃない。牛肉はいつだってスーパーに売っているし、牧場にいけばかわいいウシにいつでも会える。でも、それって当たり前じゃないんだ。生まれる瞬間から生きるか死ぬかの戦いは始まっていて、そこで終わってしまう命だってある。その後だって病気になる機会は何度もやってくる。お母さんと別れるとき、乳離れしないといけないとき、知らない他のウシたちと同じ場所で過ごさないといけないとき、住んでいる場所が変わるとき、どんどんエサを食べ続けて体がどんどんおおきくなるとき、ミルクをいっぱい出さないといけないとき、少し体に無理がくれば、私たちと同じように体調を崩す。「大丈夫?」と気にかけてくれる誰かがいれば救われるように、見つけてくれる飼い主がいて、治療をしてくれる獣医師がいて、初めてその命はつながっていける。気づかれるのが遅れたり、治療がうまくいかなければ、その命はどこかで終わってしまう。ウシの命は当たり前じゃないってことは、繰り返し繰り返し耳にした気がする。

    どうしたってうまく食べられないし、よくこぼすし、私は食べ物で遊ぶのも好きだ。

    気に入らないものは投げるし、スライスされたキュウリはにぎって中の種を取り出すのがおもしろい。

    トマトはにぎりつぶせばジュースが飛び出すし、ピーマンは…あれは食べるものじゃなくて床に少しずつばれないように落とすものだ。

    たべもので遊んじゃだめでしょ!!!

    って、チチはよく怒鳴っていた。
    あまり多くはない食事の席で、和気あいあいと家族団らんってのが世間的には好ましいのに、そんな時間にも大声を忘れないとは。

    食事は楽しく!
    がモットーのハハは、そのたびに嫌な顔をする。

    わたしも怒られるのは嫌いだ。

    たべものって言われても、おもちゃと何の違いがあるのか分からない。

    手にとって握れるし、持ち上げられるし、投げられる。
    やろうとおもえばつぶせるし、ちげることもできるし、くっつけることもできる。

    まあ、冷たかったり温かかったりするのは大きな違いか。

    わたしには、この世界のものに対する認識ってやつが大人とは異なることを理解していただきたい。

    ちなみに、大声で注意されてもよく分からないんだよ。

    うるさいなー
    なんか機嫌わるそうだなー

    くらいしか読み取れない。
    これはわたしが悪いんじゃなくて肉体と精神の発達の問題。

    年齢を重ねて、少しずつ大人に近づいていくらしいから、それまでゆったりと待ってくれ。チチよ。

    今日は給料日で、チチの好きなコーラと焼き肉が晩御飯のメニューだった。

    新入社員の活躍で少し昼間の業務が減ってきたらしく、最近はチチが帰ってくるのが早い。
    ばんごはんをみんなで食べる機会も増えてきたし、疲れ切って不機嫌な姿もめっきり減った。

    新入社員には感謝しかない。

    コーラめがけて基樹と豊樹が突進してきたもんだから、ペットボトルが激しく波打つ。
    やつらは大人の世界へのあこがれが半端ない。

    別にコーラは大人でもなんでもないんだけど、それに気づいてはいないようだ。

    幼稚園で友だちとケンカした話
    先生とつくった変身ベルトの話
    学校のプールで1番に泳ぎ切った話
    国語の音読で先生に褒められた話

    別に道端で倒れていたおばあさんを助けなくても、テストで100点を取らなくてもいい。
    どんなことだってチチもハハも「すごい」って言ってほめてくれる。

    褒められると、いい気分になる。
    基樹も豊樹も、得意げになってもっともっとお話しを聞かせてくれる。

    ようちえんとか、がっこうっていうのは相当おもしろいところらしい。
    わたしはまだいけてないのだが、そろそろデビューできるんじゃないだろうかといつもそわそわしている。

    豊樹のお迎えで幼稚園に行く時はほんとうに楽しい。

    こどもたちがいっぱいいて、とっても広い庭でみんなが大声で遊んでいる。

    あんなに走り回っても、あれほど大きな奇声をあげても、だれも怒ってないし怒られていない。

    回りに大人はいるんだけれど、ニコニコしている。
    なんなら大人も一緒に遊んでくれているし、大人が遊びを発明してくれたりする。

    あそこはこの世で唯一のパラダイスだ。

    幼稚園に通うようになった私をイメージしながら、気づいたら体が左右に揺れていた。
    ウキウキ感がとまらくなってしまったらしい。

    そんな私を見て、チチもハハも笑ってくれた。
    佐藤家に笑顔をもたらすのは、いつも私なのだ。

    おなかいっぱいになったし、みんなを笑顔にするっていう大きな仕事を終えた私はどっぷりと疲労感に襲われた。

    フォークをにぎったまま、重たい頭が落ちてこようとするのを何とかこらえているが、そろそろ限界かも。

    チチに抱っこされて、ソースでべちゃべちゃになった手も足を洗われて、たくさんの米粒がウロコのようにみっちりついた洋服を一瞬で脱がされて、いい香りのするパジャマにすっぽりお着がえ。

    あっという間にベッドへ直行できる状況が整った。

    なのに、大嫌いな歯磨きタイムが始まった。
    意識は朦朧だというのに、このときは力が出る。
    口だってあけてやるもんか。

    抵抗は試みたものの、チチのテクニックに完敗し、大人しくはを磨かせてやった。
    今日はこのくらいにしておいてやろう。

    また抱きかかえられた私の顎は、なぜか今日はチチの肩にフィットした。

    あたたかい。
    少しだけお肉の焼けたにおいがするその服に触れながら、チチの体が揺れるのに任せてウトウトとし始める。

    いつもはここからだんだんと不快感がおしよせてきて、チチいや~!!!ってなるんだけど

    おかしいな。
    今日はすごく気持ちがいいや。

    もしかして、このまま寝てしまうのかな。
    なんだか、目の前の世界が少しずつ

    ぼやけてきて

    薄暗くなってきた気がする。



    小鳥のさえずりが耳に心地よく、キラキラした光が差し込んだ静かな部屋。
    なぜか、小さいころの思い出が夢になって現れたみたいだ。チチと話をしたことなんて、ほとんど覚えていないのに。いつの記憶なんだろう。彼の声も、手の温もりも、思い出そうとするけれど、もう夢の世界につながることはできなかった。現実に戻ろうか、もうすこし粘ってみるか、自問自答しながらしばらくぼんやりと外を眺めていた。

    どうやらもう起きるしかなさそう。朝の澄んだ空気を深く吸い込み、モヤモヤした気持ちをすべて吐き出し起き上がる。少しきしむベッドも、参考書がぎっしり並んだ本棚も、壁際にもたれかかったぬいぐるみも、いつだってそこにあったものが、今日は少しい愛おしい。

    「おっ。いよいよ来ちゃったね、今日が。」

    なぜか早くに目が覚めてしまったのに、ハハはもう起きていた。朝の挨拶より先に、そんなセリフから今日が始まった。

    いつものようにトーストとコーヒー。
    ハハの淹れるコーヒーは私とチチのお気に入りだった。これがないと一日が始まらない。

    「明日からはここで1人になっちゃうね」
    言葉にして、少しだけさみしくなった。私は、ハハを1人にしてしまう。

    「何言ってるのよ。あんたたちがいつまでも家にいる方が嫌だわ。ごはんの準備もしなくていいし、気楽なもんよ。」

    そういって笑うハハの顔はいつもと変わらなかった。コーヒーカップをやさしく包むその手にはこれまでの月日が刻まれていて、その白く小さな手をいとおしく思った。

    私は今日、この家を出ていく。
    大人になったチチがそうしたように、「働く」ってことをいよいよ自分の人生の中心に据え置く時期がきたのだ。ずっと暮らしてきたこの家も、日常ではなくなってしまう。落書きが残る壁も、朝露に濡れた芝も、窮屈に並べられた家族写真とも、今日でしばらくお別れだ。

    「これ、あなたが大人になったら渡そうと思ってとっておいたの。」

    ハハがキッチンの引き出しから取り出した小さな箱には、たくさんのノートが詰められていた。

    「なにこれ?めっちゃ古いじゃん。令和7年????私が生まれた年?」

    「これ…あなたのチチの日記みたいなもんかな。ちなつが生まれてから、突然『日記書く!』って気合い入れちゃって。あなたが生まれたのがよっぽど嬉しかったんだろうね。少しでも記録に残しておきたいんだって。日記なんて書くタイプじゃないし、何やらしても三日坊主だったのにね。これだけは続いたんだよ。その結果がこれ。」

    何気なく手に取った1冊は、私が生まれたその日から始まっていた。

    ―天使っているんだね!-

    何この書き出し…。
    思わず吹き出してしまう。

    力強く走り書きされたその文字に思わず笑ってしまった。

    「あなたは覚えてないかもしれないけど、そういう人だったの。あなたのこと、本当に大好きだったのよ。」

    チチは本当に私のことを愛してくれたらしい。
    実感はないし、顔だって思い出せない。でも、なんでだろう。そのノートにつづられた文字たちは私の胸をじんわりと暖かくしていった。

    ここには私がもっていないものが詰まっている。存在しない私の記憶。チチが見た私の姿。私が知らないチチの気持ち。欠けたピースをひとつずつ手にとるように、1ページ1ページとゆっくりとめくっていく。

    時にはハハとの出会いを懐かしんでみたり
    子どもたちのケンカがいかにくだらないかバカにしてみたり
    熱が下がらない豊樹を深夜に病院に連れていってくれたり

    私が生まれたことを世界中の神様に感謝したり

    仕事のグチまで書かれていたこともあったけど、その日記にはハハと私たちとの思い出が書き連ねてあった。

    旅行中に嘔吐して急遽帰宅?
    お風呂場ではしゃいでこけて大量の鼻血事件?
    腕にかみつき豊樹号泣!

    ・・・

    「どうやら知らないところで迷惑をかけていたらしいね」
    記憶にない私は、過去の私に代わってハハに詫びをいれた。

    「あー。そんなことあったね。忘れてたわ。」
    そういってハハはケタケタと笑っていた。

    この日記は、あのころと私をつなげてくれる。

    「これ、持っていってもいいかな」

    「うん。そうして。」

    もう荷物はたいてい送っていて、今日はリュックひとつ持っていくだけ。
    そのリュックもつれていきたいものでギュウギュウになっていたけれど、この日記をなんとか詰め込んだ。

    2冊しかないその日記は令和8年の6月4日を最後に白紙ばかりが続いていた。

    チチは突然私の世界から消えた。
    大病を患ったわけでもなく、誰かを救って命を落としたわけでもない。

    夜の間に心臓が突然その働きを止めた。
    ウシの命は当たり前じゃない。そういっていたチチの命も、同じように当たり前じゃなかった。

    いってきます。
    いってらっしゃい。

    ハハの背中越しに見えたチチは、いつもと変わらない笑顔をこっちに向けている。私を朝一で不機嫌にさせていたその声も、空高く抱き上げてくれたその腕の力強さも、思い切りだきしめてくれた手の暖かさも、何もかも思い出せないけど。

    がんばれ!ちーたん!!
    聞こえるはずのないその声に少し驚いたけど、私は軽やかに一歩踏み出した。

    がんばるよ、わたし。
    見守っててね、チチ。

    終

    エピローグ:基樹と豊樹とこれからの私

    「ほー。こんなに広い部屋だったのかー。」

    久しぶりに帰ってきた息子たちは、荷物のなくなった自分たちの部屋を見つめてこう言った。

    「そうだね。おもちゃも、参考書も、ゲームも、物であふれてましたから。それはそれはお片付けが大変でしたよぉ?」

    おちょくるように言ってやった。バツが悪そうにリビングに戻る背中を見て、本当によく成長してくれたなーと思う。我ながら今日を迎えるまでよくがんばったよ。

    ちなみがいなくなってからしばらくして、基樹と豊樹がかえってきた。お兄ちゃんは医療機器メーカーの内定が決まっているし、次男は「世界を見たい」と言って海外留学を決めてきた。「働きたくない」が口癖の次男の将来が心配になることもあるが、基樹が言うには「あいつなりに大人になるってことをちゃんと考えている」らしい。もう子どもっていう年齢でもないから、親がいつまでも口を出すのはよくないだろう。バイトもして単位もとって、この2年間大学やバイト先から何の問い合わせもないのだから、自分の生活の面倒を見ていることをしっかり評価してやろう。

    「これ!俺の名詞。かっこいーでしょー」

    仏前に手を合わせたあと、得意げに遺影に見せたその名刺には、シンプルなデザインで社名と彼の所属する部署が書いてあった。よくわからないカタカナが連なっていない名刺でちょっとだけほっとした。最近のカタカナは仕事の内容がどうもイメージしづらいのだ。

    「ついにお兄も大きな歯車のひとつになってしまうのかー」

    「おい。なんだよそれ。あのな。歯車っていうのはな・・・」

    「はいはい。小さな歯車も大きな歯車も、そのすべてがかみ合って初めて大きな機械を動かせるんだ!でしょ?」

    「その通り!俺たちみたいな歯車が完璧にはまって仕事をこなしてるから、世界が日々動いていけるんだよ。

    「ちょっと待ってよ。まだ仕事してないじゃんか。」

    「そりゃあお前もおなじだろうが!」

    この感じ、いつぶりだろう。遠くの大学に通っている二人が、こうしてこの家で顔を合わせることは年に数回しかない。二人とも仲良くやってくれているみたいで安心する。私はこの子たちのことが本当に大好きなんだなぁ。あなたも見てる?立派に育ってくれたよ。私たちの子どもたち。

    あなたが亡くなってからもう16年が経つなんて、いまだに信じられない。

    急にいなくなっちゃうんだから、たいへんだったんだよ。
    いつもと何にも変わらない朝に、あなたは起きてこなかった。さよならも言わずに、冷たくなってたんだよね。勝手に心臓止まっちゃってさ。別に病気があったわけでもないっていうのに。「おやすみ」が最後の一言だなんてさ。

    あまりに突然でパニくっちゃって、救急車呼ぶのすらできなくて

    子どもたちも当時のことを今でも思い出せるくらいだから相当怖かったんだろうね。

    ただただ大声であなたの名前を呼ぶ私を、こどもたちもおびえながら見つめてた

    私1人でどうやって生きていけばいいの?

    私1人でどうやってこの子たちを育てていけばいいの?

    遠くにいかないでよ
    そばにいてよ

    目を覚ましてよ

    どれだけ叫んだんだろうね。
    気付いたら病院で看護師さんに名前を何度も呼ばれてさ。
    それまで、ずーっと問いかけに反応できなくてただただ座っていたんだって。

    夜中にいろんな人に迷惑かけたなー。

    あなたを失ったさみしさと、これからの生活への絶望と、1人で遠くへ行ったあなたへの憎しみと、いろんな感情が押し寄せてきたあのとき。夜中だっていうのに、病院の蛍光灯が部屋全体を照らしていてまぶしかったなー。

    「おはよ!」ってうるさい声も、今ではもう聴くことができないね。
    ケンカの種だったのに、ケンカすることもできなくなって。
    こどもたちの成長も、悩みも、私のつらいことも嬉しいことも一番に聞いてほしいあなたは、

    いない

    どんなときも笑った写真を見つめることしかできないし、それを見て思い出の中のあなたに語りかけることしかできない。

    気付いてる?
    白髪もシワもいっちょ前にどんどん増えていったんだよ。
    あなたばっかり、あのころもまま。

    子どもたちもすっかり変っちゃったから、今出会ってももう気づかないかもね。
    でも大丈夫、私もあの子たちも、あなたのことはしっかり覚えてるから。
    私たちが見つけてあげる。

    そっちで首長くして待ってなさい。

    今となっては遠い昔の記憶だけど、我ながらよくがんばったわ。
    あなたはそうやっていつも笑ってるけど、伝わってるの?この苦労続きだった日々のこと。

    「何チチのこと見て笑ってるの?」

    「え???」

    「いや、ずっと遺影見て笑ってるからさ」

    「あ。ごめん。ちょっと昔のこと考えてた。」

    あなたとわたしの3人の子どもたち。
    気が付けば、みんな大人になってしまってもう子どもではなくなった。
    わたしもハハを卒業するころなのかもしれない。残されたこの家で、これからどうやって生きていこうか。ママ友とセレブランチでもするのか?暇をもて余してしまうのか?それとも気軽におひとり様旅行でもやってやろうか。いや、いっそのことインフルエンサーでも目指す?何気なくアップした動画がバズって一晩で有名になっちゃったりして。

    「子育て」と「今日を生きること」にどっぷりと全集中してきた私には、やり残したこと、やりたかったことがたんまりある。「子育て終えたらやるリスト」なんてものが100均のノートにはびっしりと書いてあって、読んでみたら笑っちゃう。それこそ、どれからやるべきか頭を抱えてしまうくらいに。

    なんだか不思議な感じ。

    1日に何度もおむつを替えたり、ケンカを止めに入ったり、洗濯物の山を眺めてため息をついたり、こどもの悩みごとを聞き出すのに苦心したり

    そんなことをすることはもうないのか。
    子どもたちが巣立った瞬間から、親としての私はもう役目を終えてしまった。

    でも、もっと前から子供たちはもう親なんて必要がないステージに入っていたのかもしれない。それなのに、私が気づかないふりをしていただけだったのかも。

    私を見上げていたお兄ちゃんたちは、気づけば私を見下ろすようになった。

    かわいい女の子だった彼女も、いつの間にか私の知らない社会をもって、その中で自由に大きく羽ばたいていた。

    ときどき、そんなあの子たちをうらやましく思った。
    わたしが無くしたものをまだ持っているような、日ごとに新しいものを手に入れてくるような、とにかくキラキラしててまぶしかった。

    笑っちゃうね。
    こどもたちに嫉妬してたのかもしれないなんて。

    だからかな。
    今度は私も自由に飛んでみたいなんて思うようになってるのは。

    でも、今は少し休もうか。
    これまでずっと走り続けてきたんだし、あなたとの思いでに浸るのも悪くないんじゃないかなって思うんだ。
    あなたがいなくなったあのときから、私の時間は進んでいるようで、止まってる。

    親としては進まないとどうしようもない現実が襲ってきたけど、あなたの妻としてはまだ1秒だって時間が進んでいないと思う。

    ずっと年をとらないあなたの姿を思い出すだけの毎日が続いているの。
    しかも、つらいときにばっかり思い出す。

    これからはさ、私が幸せな時にあなたと会いたいんだ。
    あなたと過ごしたキラキラした時間を、私が思い出したいときに思い出すんだ。

    ゆっくり起きた朝でもいい
    少しウトウトしてきたランチの後でもいい

    この家でゆっくりとコーヒーを飲んでいる間だったいい

    まだまだあなたと過ごす時間が私には必要な気がする

    だって、あの子たちがいなくなったこの家は
    ちょっと静かすぎて気持ち悪いくらい。
    あなたの大きな笑い声がないと、寂しいの。

    笑っちゃうよね。あんなにうるさいって怒鳴ってたのに、いまだにそんな声が恋しいと思っちゃうなんて。

    まいったな。

    子離れができないのは覚悟してたけど、あなた離れもまだできてない。
    重症だな、こりゃ。

    そんなことを1人で思っていたら、自然に笑い声が漏れてしまった。子どもたちがいないリビングで1人で笑っているなんて。こんな姿は恥ずかしくて見せられないなー。

    わたしが一人だちできるまで、少しだけつきあってよ。
    あなたにはたっぷり時間があるんでしょ?

    そういえば、2人だけで行った新婚旅行の写真とかひっぱり出してみようか。
    わたしの脳から消えかけているものがあるかもしれない。

    思い出の整理ってやつも、やりたいことリストに追加だな。
    なんだか少しワクワクしてきた。

    これからの時間をどんどん積み重ねていける気がする。楽しいことも、悲しかったことも、大声で笑いあったことも、あの子たちの未来も、なにもかも。

    また、2人で。

    終


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