
そういえばあのとき
みちすがら意識がとんで駆けまわっていたら、「くたばれ」のひとことで起こされた。
目のまえには見覚えのある景色とすれちがう発話者。ナナシさんの視線は彼方へと微動だにせず、振り向いた私に気づいているのかいないのか、そんなことはお構いなしといった前進具合にやり逃げ感は否めない。
罵倒のビンタは居眠り生徒を注意する先生より語気はよわく、雪山で遭難中に連れを鼓舞する「寝たら死ぬぞ!」とは真逆の、初対面にしては重い刑の宣告だった。
おそらく現実の私は前方一点を睨めつけながら直進する殺戮マシーンさながらの鬼気迫る表情をしていたと思う。一方あたまのなかでは、マンションの非常階段に鎮座するネコにビビッてしかたなくエレベーターにひとり乗る閉所恐怖症だった5歳児のすがたで、沈思黙考夢想中だった。
さっき薬局からでたところで記憶はとぎれている。ここに来るまで、少なくとも3つの信号を通りすぎ1つの歩道橋をわたったはずだけれど覚えがない。からだはオートマチックに赤で止まり青で進み、ゆきかう人びとを避け(避けられ)、階段を昇り降りしたのだろう。行進のあいだ空想にひたる私はある結論に至ろうとしていた、けれど驚いた瞬間に雲散してしまった。
物思いにふける発端となったのはGoogle、彼奴のせいというかおかげというか。なんとなく親友だったFの名前でググったら本名でYouTube配信しているのをみつけ、顔出しはしていなかったけれど声や喋り癖、話の内容から完全にF本人であることがわかった。
ぬめっとした感覚におそわれる。再生が進むとじょじょに胃液が喉元までせり上がってくるかのように吐き気をもよおす。心が身に遅れて気がついた。スナップ写真で切りとったかのような、昔そのままの代わり映えしないFの様態にショックをうけていることに。
理由はわからない。なぜ検索したのか見つけたのか聴いたのか。なぜ一緒に経験したさまざまな場面や思い出より先立って悪寒がしたのか。虫唾が走る。Fにも私にも。でもなぜだかわからない。隔絶された過去と現在、その距離を縮めるのがこわい。振りかえるのもおっかなびっくりである。
Fは親友であると同時にあこがれの対象で、聴く音楽や着る服、部屋のレイアウトからなにまでマネしていた。Fはそれをみるたびに嫌がった。
Fと並んで歩いているとおこぼれにあずかる機会にたびたびでくわす。通りすがりの人らから好意的なヒソヒソ話がきこえてひとり得意げになったり、縁日の露店のおじさんからサービスでおまけしてもらったり、ときには見知らぬ人に千円札をわたされるリアル投げ銭を目撃した。
これまた当時の私は「おなじものが欲しい」と反射的にほしがる。私も浴びたい貰いたい。注目、喝采、優越、捧げ物すべてかっさらいたい得したい。でもそれはティーンエイジャー特有の錯覚であると、いまの私(5歳児のすがた)なら理解できる。
偶像から削りでたダストミストを副流煙と知らずに吸っていたのだ。中身はがらんどう、空っぽで、ハリボテの表面に桃源郷をうつしだす蜃気楼の罠にかかっている。自分は一体なにが欲しいのかわからない状態そのものの不安がみえず、それは生きているかぎり永遠につづく性質をたずさえていることを認めない。その代用、身代わりとなる生贄的儀式が「夢をみる」をみる行為である。
子どもってときどき意味不明なことをいいますよね。聞いてるフリして頷いていても「ちゃんときいてる?」と勘づくからあなどれない。だれかに考察してもらいたいけどそんな物好きはいないだろうし、身からでたサビなので自分で拾い直そう。
とりあえずよくわからないから「モテたくてバンドを始めてたらたまたま売れた。さいしょの欲望に飽きてつぎはアイドルからアーティストとして認められたくなった。ポップな曲調から前衛芸術のようなノイズを奏でるようになり、ファンは離れていった。悲しいね」と仮解釈した。
なにが悲しいのだろう。結局ずっと承認欲求に囚われているから、人は離れていっても自分たちのやりたい音楽をつくっているからいいじゃん、とはならないから? まわりの人や環境に選ばされている受け身な態度であるのに、みずから望んですすんで得た結果だと誤認しているから? 本当にやりたいことじゃない?
本当とはなんぞや? 本当の自分、本当の願望、本当の感情、本当の愛、本当のはなし、ホントウノホントウニホントウハ…………。
『本当』こそだまし絵の錯視なんじゃない。映画の感想ひとつとっても観る時期や体調によって好きと嫌いを行きつ戻りつするし、イマイチとおもっていた作品がオールタイムベストに確変することもある。いまという連なりのなかで生涯をすごす以上、とりたててひとつの本当をとりだす意味はない。
といってもFの変わらなさにネガティブな感情が噴出したのはなぜか。共感性羞恥じゃない、ノスタルジーじゃない、二三の出来事をすぐ一般化する単純な「わかった気になるロジック」への警戒でもない。到底受け入れがたい事実がいくつも隠されている、そう直観するから忌避したい、でも気になって口内炎をいじくる舌をとめられない。
「あなたって変わらないね」、このひとことを好意と捉えるか悪意と捉えるか。事実として細胞がいれかわるが如く人は常に運動することで物理的平衡を保つ。この場合の変わらないとは死ではなく相手が自分に対していだくイマージュである。他者の精神にうつる自分のすがたをのぞきみる行為。ひるがえって、Fにうつる私のすがたに対する、人こそ人の鏡であることの拒絶反応、でもない。
変わっているはずなのに変わっていない、現在にいたるFの人生の余白を勝手に想像して、悲しさでマスターベーションする自分。親友として想起するのではなく目を背けたくなる汚物、不都合で厄介な臭い物として蓋をしようとする自分。再会するイメージより断固として二度と関わりたくない、躊躇なく見捨てようとする自分。でもなんとかしてあげたいと思いあがる傲慢さ、覚悟のなさ、無力さが一瞬で今晩の献立にとってかわる自分。
クズであると自己一般化したくなるよ。他人にくたばれと言われるより自分自身に拒絶されるほうがショッキングだ。言い訳する意欲も逃げ場もない。昨日の私と今日の私は根本的にちがう人間だとおもってないとやってられない。ニューロンの片隅に変わらない記憶が保存されているのではなく記憶はひきだされるたびに複雑な過程をへて再構築される、だから本当の記憶は存在しない、あるのはいまの連続だけであると。
事実なんて感情に上書きされてしまえばどうでもよくなる。感情はほかのなにより優先されるファストパスをたずさえ、理性は平常心とセットじゃないとコンセントを抜かれた扇風機のように役立たずで、感情だけが不戦勝でトーナメントを勝ちすすむ。
このままじゃ、どこまでも墓穴を掘って奈落に沈んでいく勢いなので話題を変えてみる。エモーショナルオナニーをしているだけではFをあそこまで背ける理由が見当たらない。5歳児いわく『「夢をみる」をみる身代わり行動』は不安を生贄に生きている実感を無効化するといっていた。
ゲーム実況配信者を熱心に追いかけるファンを想像するとわかりやすいかもしれない。人生もゲームも自分ではプレイしない。配信者が注目され成功する喜び、保証されている報酬やキャラのレベルアップ、誹謗中傷も死に覚えもすべて自分の経験値になるかのような共鳴的依存関係。安心安全でいつでも離脱可能なアバターである配信者に同化して感じる熱狂はホンモノである。しかし現実の時間は砂時計のようにひっくり返すことはできない。
実際に私はYouTuberに人生をのっとられかけたことがある。その人はほぼ毎日長時間生配信をしていた。当然すべてを観ることはできないので、旨味を凝縮した切り抜き動画を1.5倍速で再生して追いかけることで満足する。でもあるとき、個人的に思い出深いゲームタイトルをその好きな配信者が実況プレイしはじめた。
最初はいつものように狂信者が作るダイジェスト動画を観ていたけれど、だんだん動画化されるまでのタイムラグを待てなくなり、生配信のほうをのぞくようになった。
次第にリアルタイムで観れないときは生配信のアーカイブを倍速で全部視聴し、のちに動画化された切り抜きも全部観る。見知った内容を2周3周かさね反芻する快楽で時間が溶けていく。生活全般が眺める行為に侵食されていく。
発見といえば切り抜き動画編集者の凄みだけである。ちょっとしたおもしろモーメントも見逃さず生の臨場感も損なわず、なかった伏線があらわれ自然な流れに収斂されていく軌跡を描く構成力。ひとりもしくはチームで運営しているのかわからないけれど、本当に過去の配信を含めたすべてをチェックしていなければとても作れない。お金だけが目的だったらもっと効率の良いやり方があるのにそれをしない。その姿勢に配信者へのリスペクトと愛を感じた。
話が脱線した。ともかくやっとゾッとしたのですよ。喜びや苦しみ、爆笑、驚き、敗北感、達成感、感慨うるすべての感情とそれにともなう五臓六腑に響き沁みわたる身体連鎖反応がバーチャルなるものに回収されていくことに。おまけ付きのオモチャが主役でお菓子は食べられずに捨てられてゆく。
自分固有の人生を歩んでいるという感覚が極めて薄いやん、と大量の時間を投下して気がついた。そりゃ座って他人の一挙手一投足を眺めて歓喜しているだけだからね。いやもはや他人という感覚すら麻痺してリアルフレンズにちかい癒着状態、疑似家族のような関係を一方向的に築いていた。
パラソーシャルな関係は始めから詰んでいる。相手を必要としていないのに相手を求めるという根本的に解消されない構造をもっている。もっといえば、人間を人間だと信じて疑わない残酷さ、一般化された人間像から生まれる物差し「人とはこういうものだ」のなかに流動的な人間観が含まれない。アクリルスタンド化された対象不在の物体を愛でることで慰める。客体が主体化して主導権を奪われバランスを失う。果たして片翼でどこまでゆけるというのか…………
と、頭でっかちな5歳児が申しております。
あれ? なんのはなしをしていたんだっけ? これFを拒絶する理由と関係ある? いつもそうだ。頭で考えていると感覚がうすれて鈍ってくる。境界、境目をうしなって混ざって最後には霧消してしまう。消えたことも忘れて。だれかいてくれれば、覚えてくれていれば。ひとりがいいのにひとりはいやだ。
だれもきいてくれない。だれもこたえてくれない。いまどこにいるのかもわからない。
本当は5歳児だけじゃない。さっきからいろんな歳月の自分が顔をだしていっちょ噛みしてくる。マジカオス。だれでもいい、なんでもいいからこの子らを止めてくれ。私はもう。もうなにも、考えたくない。
ついてるわよ
目をつぶって転寝しかけていたら、見知らぬおばあさんが肩をたたいて駅に着いたことを知らせてくれた。ありがとうございますと言って座席から立ち上がり駅名もみずにホームドアをまたいだ。
親切な人もいるもんだね。しかしなぜ、この駅で降りる人であろうと察知したのだろう。大正解です、だいすき、名もなきマアム。
そういえばあのときも、あたまのなかでブツブツいいながら気絶しかけていたな。空きっ腹に酒をそそぎつづけたせいで昏迷寸前の状態になり、終電ギリギリになって急いで店を出たはよいが歩くこともままならず、電車はあきらめて近くのファミレスに入った。
アイボリーの光沢を放つL字の硬い皮張りのソファにうなだれて、ひんやり気持ちよく意識が溶けかけようとしていたら、「ここで寝ちゃダメだ」と両脇に腕を突っ込まれて上体を起こされた。
もうなにをされても動けないよと声にならない声でうったえるも店から引きずり出される。背中にからだを乗せられ空中に浮く足。恥ずかしさと申し訳なさのあいだで揺れる。あとでありがとうと伝えたっけ? 記憶がない。
おぶられたすがたを鳥瞰したら、登山案内人シェルパが背負う荷物にしか見えないだろうな。いや、ふたりとも米粒にしかみえないか。
吹雪ふきあれるヒラヤマ、辺り一面、砂と岩石しかない砂漠、真っ青で地平のみえない海、真っ暗で平衡感覚のない宇宙空間、の真ん中でひとり漂う。想像しただけでとんでもなくこわいわ。
これ全部やったことがある人類って正気じゃないよ。でも名も知らないだれか、無名の人たちがサバンナから砂漠へ、山をこえ谷をわたり、イカダで海へとびださなかったらいまの私たちは存在しなかった。歴史書には刻まれない無数の存在が私を運んでくれていたんだ、そう考えるとからだが熱くなってきた。
私にとってFもそのひとりだったのかもしれない。
10年後のいまごろも、おそらく、おぶられることはないだろうけれど、こうしてまだ一緒にいられるのだろうか。たぶん会う頻度も減ってそれぞれ別の環境で私の知らない人たちと新たな関係を築いているんだろうな。
と思っていたのに、あれから一度も会わないままそれ以上のときがすぎた。
そこに私はいない。私のいない場所で時間で起こるFの出来事すべてを知りたい。そして余すことなく全部ほしい。すべて私のもの、私がつくった、私がやったことにしたい。
きもちわるい。親が子どもに自分が叶えられなかった夢を託す呪いのようで気分がわるい。子は分身でも願望器でもレリックでもない。ナルシシズムの陶酔につきあってスイセンの養分になってたまるか。
いいかげん、相反する私と私を行き来する『ひとり芝居』にもつかれてきた。話しかけてもあなたはいない、不在に酔っていて本当によいのか。
インターフォンが鳴り、助けてくれと顔にかいてあるFがそこにいた。
「なかに入れて、直接顔をみて話がしたい」
おもわずドア越しに酷い言葉を投げつけてしまった。けれどあのとき私も…………
Fがいたから私がいたのでもなく私がいたからFがいたのでもない。どちらでもあったしどちらでもない。もつれた糸をほどいて喰っていく。所詮すべてストーリーテラーにもっていかれるのなら、こっちから喰い破ってくれよう。
自分の人生だ。背負うなんてあたりまえだ。極論、すべての責任なんてとれやしない、でもそれを放棄するのはちがうだろう。この世界はいままで起こらなかった出来事で築かれていくのだから、端から捨てるなんて選択肢はもちあわせていない。
脳内会議で満足してはなすのを止めるのはやめだ。からだを動かさずにやった気になるな。やってしまうまで未来はわからない。あきらめるのをあきらめろ。やぶれかぶれはいやだ。ところきらわず行けばいい。迷っても行けよ、行けばわかるさ。
本当はあのとき私も会いたかったよ。無下にしてごめん。「おまえと話している自分が惨めだ」なんて言わなければよかったよ。ゆるしてほしい。「がんばってね」、悪者になりきれずにとってつけたひとこと。
あれを最後の言葉にしたくない。ならまた会って謝って、はなしのつづきをふたりで再生する、これしか方法がおもい浮かばない。
さあ、いこう、こわいままで、いこう。
改札を出てとびだそう。
今度は自分の足で。
いま目のまえの光景にとびこめ。
のぞき穴じゃなく顔と顔をあわせて。
あのときへ。あの場所へ。あのひとへ。