
ベーシストは晩御飯の献立を考える(多面体をつくる 第4回/全18回)
「……ひとつ聞いていいですか」
「もちろん」
びくっと顔をあげて男はこちらを見た。恍惚とした自分の話から急に引き戻されたようにも、あるいは不意に質問がきてまごついているようにも見えた。その両方かもしれない。唇が半ば開き、歯並びが悪い口の中が見えた。
「この部屋はあなたたちが準備したもので、ここで僕は仕事をすることが決まっている」
そう言って私が彼の目を見返すと、男は軽く頷いた。彼の瞳は色がさらに薄くなったように見えた。
「自分の位置づけに自覚的になる必要があるとあなたは言っている」
「そのとおり」男はほっとしたように言って、こちらに向かって微笑んだ。「やっていく中で学べばいいし、失敗を恐れずに取り組んでほしいとも思っているんだよ」
「聞きたいのは、なぜ僕がそう言った、どうやら決まっているらしいことに従わなければならないのか、ということです」
男は黙って、私の顔を見つめた。
「正直なところ、なぜ自分がここにいるのか、よく分からないんです。上がどう言っているとか、位置づけだとかは何だっていいんです。それよりも、自分がなぜここにいるのか、それについてできる限りのことを知っておきたいんですがね」
そのまま時間が過ぎた。男はそれから口を開いた。
「ひどいね」
そう言って男は眉をひそめ、私の目を軽く睨み、ピクリと自分で何かに気がついたかのようにドアの方を見ると、また私の顔を見つめた。
「いつもひどいけど、今回は特にひどい。自分が何を言っているのか、理解しているのかい?自分の意思で作ったものを、自分で認められないのに、それをあんたはまるで誰かのせいにしようとしているみたいだ」
そう言われて私は赤くなった。自分がまるで恥知らずの子どもにでもなったような気がしたのだ。
「そんなことは自分の中で消化してもらしてもらうしかない。いいかい?これはあんたが望んで、あんたが思う通りに手に入れた仕事なんだ。それを一体、誰のせいにしようっていうんだ?」
男の視線から逃れるようにして目をそらし、机の上に置かれた物体を眺めた。透明の蓋に薄く埃が被っているのが見えた。
「まずやり遂げるという気持ちにならないと、何も始まらないよ」男は苛立たしげに言った。「少し俺も優しくなり過ぎたのかもしれない。あんたを甘やかして、当面の間だけいい気分にさせるような優しさは、あんたから喜びを奪うことと同じだ。長い目で見た時の本当の喜びを奪うような優しさは、俺の側の甘えだ。俺はそのことを深く反省しているよ。こんな言い方をするのは、個人的にはとても辛いんだ」
男はいまだに私の顔を見ていなかった。彼は机の上を物体を睨みつけていた。男がこの物体に何を見ているのか、私にはやはり分からなかった。芝居じみていると思ったが、もちろんそんなことは口には出さなかった。
不意に、またびくりと体を震わせるようにすると、男はドアの方を見た。それから、またヘラっと笑いを浮かべ、私の目を覗き込んだ。
「とにかく、早く作り上げるんだ。何をどこまで、どうやって作るのか、あんたには分かっているはずだ。分からなければ思い出すだけでいい。あるいは、手を動かしながら考えればいい。わかるよね?」
そう言うと男は腰掛けていた窓枠から部屋の床に飛び降りた。足がひょろりと長いので、実際にはただ片足ずつを床に下ろしただけだった。そのまま数歩で部屋を横切り、ドアを開いて部屋の外へと出て行った。ドアを閉めながらこちらに向けた顔は取り澄ましてはいたが、思い出したかのように照れたような微笑みを作って私に向けた。ドアが閉まったあと、錠を下ろすゴトンと言う重たげな音がした。この部屋は、外から施錠できるようになっているのだ。
私は閉じたドアをしばらく見ていた。誰かがまたドアノブを回して入ってくるかもしれないと思ったからだ。
しかし何も起こらなかった。ドアの向こうからは何も聞こえて来なかったし、ドアノブが回る気配もなかった。部屋の中には私の息づかいが充満してくるようだった。
私は椅子を回して硬いクッションに身を預けた。
*
眠っている間にウッドベースを弾く男の夢を見た。
男はのっぺりとした顔立ちをしている。肌は浅黒い。彼が家庭を持ち子供も出来てからはしばらく会っていないが、よく知っている古い友人だ。
ベースの音はくぐもって部屋の中に響いていた。高音を強調しないセッティングであり、したがって弦を指で弾く時の倍音も目立たない。抑揚のきいたベースラインは、あまり自分から意見を主張しようとしない彼自身によく似ている。
私たちは音楽スタジオらしいところにいた。壁には鏡が貼ってあり、丸椅子に座っている私の姿が見えた。鏡に映る自分の顔を見て、嫌な奴だなと思った。何かを言い淀んでいるような顔つきをしている。それに比べてウッドベースの男の方は健康的な汗をかいている感じがして好感を持てる。
「技巧派のベーシストは、ある一音をベースラインの中に配置しようとする。それはメッセージであり演奏者の意図だ。ベーシストに限ったことじゃない。テクニックを身につけた演奏者なら楽器を選ばず容易にそうすることができる」
スタジオのモニタースピーカーからしゃがれた声が聞こえている。ラジオだろうか。歌うようなナレーションだが、聞き取りづらい英語である。目の前にいるベーシストについて解説しているのだ、と私は思った。音楽スタジオにラジオが流れていることも、DJが目の前にいる男について解説していることも、夢の中では当たり前のことに思えた。
「音楽というのはメッセージの連なりであり、そこには意図がある。こうありたい、こう歌いたい、こういうつもりで弾きたいっていう意図があるんだ。意図を伝えるためには演奏技術が必要だ。しかし技術よりも大事なことがある。僕の言っていることがわかるといいんだけど」
ナレーションが機嫌良さげに歌うように話す間も、ベーシストはウッドベースを弾き続けた。なんの変哲も無い淡々としたフォービート。シンコペーションを入れたりもしない。
「意図は本来、いやらしいものだ。手癖やフレーズが要求する一音を、どうしてもその一音を自分の奏でる一連のラインの中に入れずにはいられない、長年プレイしていると、そういう欲望をむき出しにしている奴が時々スタジオにやってくる。一定の割合でそういう連中は生まれてくるらしい。そいつらの音は意図にまみれている。演奏を、個人の欲望の上に成り立たせようとしているんだ。意図があること自体が悪いわけじゃない。一音には意味があり、意味を成り立たせるための意図はあってしかるべきだ。もちろん意味などない方が自然で、音楽はただその時に流れているだけのものだという見方もある」
ベーシストにもこのラジオは聞こえているはずだが、彼は淡々と4ビートを刻み続けていた。音は全くぶれなかった。
「あるいは全く逆に、主張のなさが主張であるという演奏スタイルを貫くプレイヤーもいる。それは、確かな技術に支えられているが、それだけではない。枯れて乾いた感性が、それを可能にさせる。感性の年齢の方が身体の年齢よりも重い。ただし枯れすぎた感性は自己模倣の壺に閉じ込められがちだ。新しいものを取り込むにはエネルギーがいるんだ。とはいえ余程のカラカラに乾いた境地に至ったとしても、人となりっていうのは滲み出てくるものでもある」
男は汗をかきながら4ビートを鳴らし続けている。まるでこのDJの声も一つの楽器みたいだった。ナレーションが歌のように聞こえてくる。
「意図にまみれるのも感性の中に閉じるのも、どちらかだと言い切れるものではない。そこには必ずグラデーションがある。そして音楽はそんなただ音の波が繋がっている中にあるだけのものだ。それで君は一体いま、何を考えて演奏しているんだ?……おーい……君!」
演奏を止めない友人にナレーターは食い下がった。
ベーシストは楽器を扱っている右腕と左腕の動きを止めた。それから周りを見渡した。短い髪の毛についた汗が彼のシャツの上に落ちた。
「そこのベースを弾いている君のことだよ!そうだ、君だ。君は演奏しながら何を考えているんだい?」
「晩御飯のおかずです」ベーシストは事もなげに言った。「焼き魚には大根おろしを添えたいなとか、味噌汁の具材には豆腐を入れようとか」
楽器が支えていた通底音がなくなったまま、そのベーシストの言葉は宙ぶらりんになって、私の夢の中に浮かんでいた。
「クールだ」DJは言った。
「食べることは生きることだ。そこには意図も感性も含まれている。そのミキシングの中で人は生きている。そんな君にはこの曲を聞いてもらおう。ライ・クーダーのあまりにも有名なアルバム、チキン・スキン・ミュージックから『中産階級のブルース』」
友人には生活の通底音は見つかったのだろうか。その後の彼はどう過ごしているのか、あるいはどう過ごすべきなのか。彼はまだベースを弾いているのだろうか。このDJは知っているのだろうか。私はその友人にとても会いたいと思った。がちゃがちゃした弦楽器のイントロの上から、重たいツービートのリズムセクションが覆いかぶさってくる。
*