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多面体をつくる(多面体をつくる 第18回/全18回)

     サウンド・ライブラリとの入出力をソフトウェア上で接続することに成功したのは、やはりレキとマグの支援によるものだった。接続そのものは分かってみれば難しいことではなかった。プログラム上で緑の基板の上で起動済みのソフトウェア・シンセサイザーの通信ポートをプロセス名から検索し、そこに信号を送り込むようになっていた。定義ファイルに書かれたプロセス名に紐づくソフトウェアの管理プログラムでをサウンド・ライブラリを入力ソースとして指定し、オーディオ・ジャックから出力するように設定を変えた。すべてはコマンドラインから制御できるので、スイッチを入れてシステムが立ち上がった時に自動で呼び出されるようにすることも難しくはなかった。大抵のことは振り返れば大したことではないと昔の上司だった男に言われたことを思い出す。
     ところが音を出力することはそう簡単ではなかった。データとしての波形は最後には空気を震わせる波となり鼓膜に届く必要がある。それがどんなに小さな、例えば外耳から鼓膜に至るまでの指先ほどもない空洞であったとしても、空気が震えなければ聴こえない。その最後の数ミリを詰めることはとても難しい。そして私の責任とはその数ミリがもたらす連続した波を起こすことだ。
     今では私は何を思い出し、何を忘れているのかも分からなくなっていた。留まっているものなど何もなく、わずかに覚えていることもやがては完全に忘れてしまうのかもしれなかった。しかしそれでも何かをつくり書いていくという振る舞いを普段の身体の動きにする以外の方法はない。大きなものに祈り続けるために、そして思い出し続けるために、私はつくっては書き、試して壊しては書く。これからもその振る舞いを続けることを止めないだろう。
     多面体が音を出した瞬間は、ごく当たり前の日常の一部としてやってきた。
     その時私はいつもと同じように朝から机に向かいコードを書き、画面のバッファを埋め続けるログから処理の流れを追いながら、数列がコンソールに出力されるのを眺めていた。もう何十回も繰り返した全体の洗い直しを再び済ませたところだった。シンセサイザーのシリアルポートが開かれ、バイト配列に変換されたメッセージが接続されていた。オーディオ出力との連携も問題ないことは確認済みだった。全ての可変抵抗やスイッチは導通しており、それらのデバイスからの入力値は小さなディスプレイに数値として表示されている。ボリュームを回すとそれらの数値が増減することが確認できる。スイッチのうちの二つは異なる音声チャネルに割り当てられており、それらが並行して音を出すことで合奏ができる仕組みになっている。入力は撮影された動きをキャプチャーすることで作られたモザイクのパターンであり、動きを検知した輪郭の画素に整数値が割り当てられている。動きがあるとその数値が大きくなる。画素の格子の高さが音のピッチに、横幅が音色に置換される。透明の蓋の上に置かれたものの輪郭や、斜めに立てた状態でカメラに映ったものの動きによって、音を鳴らすことが意図されている。
     実体として鼓膜を震わせる音が鳴った瞬間、何がそれまでと違ったのか私には分からなかった。大きなものを数ミリだけ押し上げることができた瞬間は、ごく些細なことによって持たらされたとしか思えなかった。少し前にショートしていた回路を修正したからかもしれないし、キャパシターを付け替えて出力する電圧を上昇させたからかもしれない。あるいは祈り続けた結果なのかもしれない。多くの行為が含まれる祈りがあるのだ、と私は棟梁に言ってやりたかった。棟梁は仕方がないという表情を浮かべながら頷いてくれるだろうか。
     レキとマグは音が出たことについて何も言わなかった。何も言わないことが二人にとっての静かな祝福であることが私には分かった。
    「もうこの部屋にいなくてもいいのよ」
     レキの瞳はこれまでで一番深い色になり、私をじっと見つめた。
     衝動的に私は留まることを選びそうになった。この仕事が終わり部屋から出たら、レキと私が同じものを見つめることはもうないだろう。もちろん彼女はそのことが分かっていて私に出ていくように促しているのだ。感傷だと言われればそうかもしれないが、私にはこの生活を、この物体に向かい合わせになってきた日々を終えて部屋を出ていくことはひどく不安なことに思えた。このやるせなさに浸されながら、荒野のような場所でこの先やっていくことが正しいことだとは思えなかった。しかし私は思い直す。大きなもののためにつくっている限り、私は思い出し続けることができる。そして私は同じものを隣で見ていられる相手のもとに戻らなければならない。まだ間に合うかは誰にも分からないが、そのかけがえのないものを取り戻すために、一歩を踏み出しながら考えなければならない。
    「さよなら」と私は言った。
     レキは唇を歪めて慣れなさそうに笑顔をつくった。マグも気弱そうな笑みを浮かべた。私は二人の笑顔を目に焼きつけようとした。つくっている最中にしか彼女たちは存在しない。次に何かをつくるときには二人はもういない。新しい仕事のための支援が必要になったとしても、私はそれを自分で手に入れなければならないだろう。二人がこれまで私を助け共に祈ってくれたからこそ、その先に次の一つを積み上げようと思うことができる。二人のことをこれからも私は思い出し続けるだろう……私は最後に二人に何か気のきいたことを言いたかった。しかし二人はそのまますっと消えてしまった。もう部屋の中には何も残っていなかった。部屋に残っているのは出来上がった多面体と仕事道具と余った資材だけだ。それらが雑然とした部屋の外観とともに残っているのも、もう少しの間だけだろう。去ってしまった人々の笑顔の気配がまだ残っている部屋の中で、私は一人で座っていた。
     斜めに立った多面体を正面に置き、鏡に向かって話しかけるように顔をカメラに向ける。右手の中指が青いノブを右方向に回し、同時に左手の親指が白いノブを左に回して固定する。鉄板の上に表示されたディスプレイには私の上半身がモザイクになって表示されている。白いボリュームが左に回るに従ってモザイクの幅が大きくなり、私を表す解像度は荒くなる。今では私の上半身は、高さ十個、幅十五個の画素となり離散した数値に置き換えられている。それは多面体が捉える私の一つの断面だ。
     紫色のダイヤルを回しながら、青いスイッチを押し込んだ時、その一音が鳴る。白い部屋の中に響き渡る轟音が空間を浸し埋めるようだった。周りの空気がゼリーのように固く、私はその中でかろうじて動いているような気がした。解像度は低い。深夜まで働きタクシーに乗って帰るとき、揺れと疲れに挟まれてそういう感覚になったことが何度もある。タクシーと酔っ払いと道路工事をする労働者以外は動くものが感じられないガラス越しの外の景色が、世界を固まった重たいものに変えてしまう夜がある。ゼリーのような夜に澄んだ音が響く。
    (了)

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