【掌編小説】あやかし居酒屋 その伍「徳利、逃げる」
第一夜その伍 徳利、逃げる
「お造りはお断り」
そう墨で書かれた貼り紙は、アマビエさまの席のすぐ後ろで、たいそう真面目な顔をして揺れていた。
顔があるわけではない。
けれど、この店では貼り紙もまた、何かを見張っているように見える。
瑠璃は、アマビエさまの前に置かれたもずく酢と海ぶどうと寒天寄せをもう一度見て、それから小さく息を吐いた。
「……よかった。ちゃんとお客さまだった」
「君は少し心配しすぎだね」
「だって、居酒屋よ?」
「居酒屋だねぇ」
朔夜は徳利を手に取り、盃へほんの少しだけ酒を注いだ。
橙色の灯りが、白磁の肌をぬるりと撫でる。棚に並んだ器や小皿が、湯気の向こうでひそひそ笑っているようだった。
その時だった。
ことり。
カウンターの上で、徳利が小さく震えた。
瑠璃が目を瞬かせる。
「……朔夜」
「うん」
「今、動いた?」
「動いたね」
徳利はもう一度、ことり、と揺れた。
それから、徳利の胴の脇から、ひょろりと細い腕が二本出た。
続いて、底のあたりから足が二本出た。
瑠璃は箸を持ったまま固まった。
徳利は、困ったような小さな目で朔夜を見上げた。
見上げて、しばらく迷って、次の瞬間、きゅっと口を結んだような顔をした。
そして逃げ出した。
「徳利って逃げるの?」
「少なくとも、これは逃げるらしい」
徳利はカウンターの木目を小走りに進んだ。
古い白磁の体が、橙色の灯りを受けてつやりと光る。小さな足は意外に速く、置かれた小皿の影をくぐり、箸置きの脇をすり抜け、冷えた盃を盾にするように回り込んだ。
瑠璃が慌てて身を乗り出す。
「待って、落ちる、落ちるわよ」
「おや。逃げる先のことまでは考えていない顔だ」
朔夜は笑って、座ったまま指を伸ばした。
慌てるでもなく、掴むでもなく。
ただ、逃げ道の先に、長い指先を一本、そっと置く。
徳利はその指先の前でぴたりと止まった。
朔夜と徳利が、しばらく見つめ合った。
徳利の小さな顔は、ますます困った。
朔夜の顔は、ますます面白がっていた。
「……朔夜、いじめてない?」
「人聞きが悪いね。僕はただ、話を聞こうとしているだけだよ」
「徳利と?」
「この店では、徳利にも事情があるらしいからね」
徳利は、ぷるぷると震えた。
それから、朔夜の指先を避けるように、胴を斜めに倒した。
するり。
「逃げた」
「逃げたね」
「止められなかったの?」
「止めなかった、と言ってほしいな」
瑠璃が笑いをこらえる間にも、徳利は必死だった。
盃の影を抜け、皿の縁を回り、湯気の立つ煮物鉢の前で一度立ち止まる。どうやら、熱いものは苦手らしい。
その背中――背中と言ってよいのかはわからないが、とにかく徳利の丸い背に向かって、朔夜が低く声をかけた。
「そんなに逃げなくても、飲み干したりしないよ」
徳利は振り返った。
疑っている顔だった。
瑠璃はとうとう吹き出した。
「信用されてない」
「心外だな。僕は品よく飲む方だよ」
「品よく飲む人は、徳利にまで疑われないと思う」
「瑠璃」
「なあに」
「今夜の君は、少し辛口だね」
「居酒屋だもの」
「うまいことを言う」
朔夜がくすりと笑った、その隙だった。
徳利は最後の力を振り絞るように、カウンターの端へ向かって駆け出した。
小さな足が、ぽて、ぽて、ぽて、と木の上を打つ。
もう少しで端に届く。
落ちる、と瑠璃が思った瞬間。
ひょい。
横から伸びてきた手が、徳利の首をつまみ上げた。
白い指ではない。
少し毛深く、軽く、いかにも慣れた手つきだった。
「おやおや。逃げ酒とは景気がいいねぇ」
カウンターの少し先。
巨大な油揚げの前に、にこにこと笑う狐の常連が座っていた。
徳利は不本意そうな顔でぶら下がっている。
狐はその徳利を軽く揺らし、朔夜の方へ向けて、愛想よく首を傾げた。
「一献、どうだい」
朔夜は、笑った。
瑠璃は、もう帰れない気がした。
その話は、また次の夜にする。

【付喪神(徳利)】
器物は百年を過ぎると精が宿り、悪さをするようになるのだという。
中世の頃より、概念として現れるようになった存在。
かつては節分になると人々は、化けそうな古道具を道端に捨てたのだとか。
この頃より消費文化ってあったんですね。
本日より、公開します。人外ものの異世界ファンタジーです。
よろしくお願いします。
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