
「JFKテープ」第三回(抜きつ抜かれつ・猿島騒動・御巣鷹の真実・エピローグ・あとがき)
【あらすじ】
1945年、原爆が刻んだ歴史のシーケンス。錯視の罠が不発核の存在を隠し、キューバ危機を克服したケネディがそのタブーに挑んだ。凶弾に倒れる直前、JFKテープと名付けられた録音テープの正体。
時を経て、その録音テープはある航空機事故の遺族へと渡る。平凡な女子大生・斉藤翔子は、テープの和訳を頼んだ友人の失踪を機に、123便事故の闇を追う警察官・森本と引き合わされる。友人の捜索が進む中、JFKテープはネットオークションに懸けられ、数十億の値を付け暴騰していく。その裏側では、在日米軍と日本政府が奪還へ不穏な共闘を組んでいた。
東京湾を人質に、国家と森本のディールが始まる。
驚愕の地政学ミステリー。連載第3回。
『抜きつ抜かれつ』
夜が明けた。眩いばかりの光の帯が、窓を通して輝いて見える。今日の昼過ぎには、驚くばかりの大金が彼の口座へと入ってくるはずだ。
彼はベッドの横で、まだ寝息を立てている彼女の横顔を、醒めた目付きで見つめている。枕元のテーブルには、長時間作用型の睡眠導入剤ベンゾジアゼピンの空箱と、空になったワイングラスがある。ベンゾジアゼピンは比較的安全な睡眠薬だが、アルコールを併用することで、まれに健忘を引き起こす副作用がある。健忘とまでは行かなくとも、大量摂取と合わせることで、丸一日眠りに付かせることくらい訳もない。
「良い子だから、そのまま、夢の途中でいろよ」
彼は彼女の耳朶にそっと唇を近づけると、小さく呟いた。
午前6時55分。翔子は身支度を調え、里村達が来るのを待っていた。結局、昨夜は一睡も出来ずに過ごした。
微かに期待していた努からの連絡は、一つも入らなかった。このまま自分一人で、努のことや博美のことを考えていても、結論らしきものは何も見えてこないだろう。結局、努や博美と顔を交え、本音を戦わすことでしか、この救いようのない不信感は拭えないに違いない。
家の電話が鳴った。
<もしもし>里村の声が聞こえた。
「もしもし」同じように言葉を返した。
「……」ほんの暫くの沈黙の後に、二人で同時に名を名乗った。
<すみません。タイミング、悪いですね俺って>
「本当に。でも、お互い様」
<もう、家の前まで来ています。決心は着いているでしょうか?>まるで、プロポーズか愛の告白かのように、緊張した声だった。
「はい」翔子は何かを吹っ切るように言葉を切った。
昨晩と同じ食卓の上で、里村が用意した盗難届に署名をする。
盗難届の記載項目に、必要事項を書き込んでいると、「昨日お預かりしたカセット・プレーヤーですが、もう暫く時間を下さい。うちのスペシャリストが、細心の注意を払って修復しているんですが、もう少し時間がかかるらしいので」と、里村が報告した。
「今日、この後、どんな風に捜査するんですか?」翔子は正面から、里村の目を見据えるように言った。
里村は気圧されて、「ああ、はい。この後、森本が捜査令状を取ります。その令状を持って携帯キャリア会社に向かい、そこで加藤努の現在位置を特定します。車のナンバーも分かっていますから、相手に気付かれさえしなければ早めに捕まえられると思います」と、捜査手法まで喋っていた。
「それなら今日一日、その捜査に私も立ち会わせて下さい」
これが彼女の狙いだったのだろうか。整った顔立ちがより引き締まって、後には引かないという決意を示しているようだった。
「駄目だと、断ったら?」里村は、負けじと言い返した。
「それに、まだ捺印していないの」翔子が、顎を引いた。
知り合ってから今日で三日だが、里村には初めから変わらない翔子の印象がある。それは自分の母親に似た、奥に秘めた芯の強さだ。
里村の母は極普通の専業主婦だが、仕事熱心でお人好しだけが取り柄の父を陰で支え、これまで何とか一家は平穏に過ごしてきた。どちらかといえば気の弱い方の父は、時としてお人好しが災いしてトラブルに巻き込まれることもあったが、そんな時は決まって母の出番で、上州名物嬶天下と空っ風を絵に描いたような夫婦だった。
「分かりました。好きにして下さい」里村は無理に止めなかった。考えてみれば、森本も、里村も、松浦も、この捜査には個人の単位で参加しているようなものだ。どれだけの危険が待ち受けているか想像も付かないが、彼女ならそれも受け止められるだろう。仮に、彼女の身に危険が迫ったときは、自分が白馬の騎士になって守って見せよう。
二人は表へと出た。里村は翔子を車の後席に乗せると、森本の待つ警視庁へと出発した。
覆面パトカーの無線が鳴った。ダッシュボード脇のスピーカーから、ひび割れた声が響く。
<おい、里村。何、もたもたしてるんだ!>聞こえてきたのは松浦の声だった。里村は後席の翔子を気遣いながらマイクを取る。
「何ですか松浦さん。今、そっちへ向かってますよ!」里村も負けじと怒鳴り声で答えた。
<そっちって、どっちだ!>
「だから、警視庁ですってば!」
ガチャガチャと雑音がして、<里村、森本だ。すまないが東新橋のハードバンクモバイルまで来てくれないか。少し事情が変わってな>と言う声がした。
「場所変更ですね。そちらへ直行します」相手が森本だと落ち着いて話が出来る。里村はマイクのスイッチを切った。
東新橋のハードバンクモバイルには、8時少し前に着くことが出来た。建物に近づくと森本と大きな鞄を肩から下げた松浦がパトカーの前に立っている。ここまでは本庁の車に乗ってきたらしい。
松浦が後席の翔子に気付いた。額の上に手を乗せると、大袈裟に天を仰いだ。森本は構わず、助手席に回り込む。
「松浦、早くしろ。置いて行くぞ!」と言い放った後「里村警部補、何で民間人を乗せた」と厳しい口調で聞いた。
明らかに不機嫌な森本の横顔に、一瞬反論しようと里村が口を開きかけたとき、後ろのドアが勢い良く開いた。
「まあ、良いじゃないか。考えたら人手、足りてないんだろう?」松浦が後席に入ってくるなり、片眼でウィンクする。
「そういう問題じゃ……」森本が言いかけたとき、「どちらへ向かいますか」里村が勢いよく聞いた。
「成田方面!急いでくれ!」松浦が片手を突き上げた。
里村がアクセルを踏み込む。4人を乗せた車は、朝の混み合う道路を千葉へと向かって走り出した。
首都高速に乗った辺りで、森本と松浦がそれぞれ時計を確認した。
「そろそろだな」松浦が言った。
「ああ、あと一分だ」森本が頷く。
その会話を聞いていた里村が、不思議そうな顔をした。
「何かあるんですか、あと一分で」
「最近の若者は、これだから好きになれないのよ。間もなく8時15分だろう?」松浦の口がへの字になる。
「今日は広島の原爆記念日だ。8時15分は原爆が炸裂した時間だ」森本が真っ直ぐ前を見た。
「黙祷!」松浦が大声を出した。
里村がミラー越しに後ろを見ると、松浦につられて翔子も胸の前で掌を組み、祈るようなポーズをしている。助手席の森本も静かに瞼を閉じていた。
「僕もやるんですか?」里村が不安そうな声を出した。
松浦の手が後ろから伸びて里村の頭を軽く叩いた。
「お前はやらなくていいよ。危ないだろう。黙祷終わり!」その声を合図に、森本と翔子が目を開けた。
男の名前は加藤努という。彼は親が付けた努という名前が好きになれなかった。努力の努、力を尽くして行なう、という文字の持つ意味が嫌いなのだ。彼はいつも名前を呼ばれる度に、何故こんな卑屈な名前を付けられたのだろう、と悲しくなった。
いつかこの名前とも決別して、これからの自分に相応しい名前を付ける。そのことを伝えた人間が二人いた。その一人が、今ここで深い眠りに付いている金井博美だ。
努という名前の改名について、博美は肯定的だった。
「貴男には“将″とか“武志″という名前が合うわね。私なら“武士″を選ぶ」夜、ベッドの中でそう呟くと、艶めかしく躰を寄せてきた。
努が改名を相談したもう一人の相手、それが翔子という彼にとっての女神だった。しかし彼女は、努のこの気持ちを、何一つ理解しようとしなかった。いや、出来なかったという方が正解かもしれない。
「努って名前、好きだよ。人って、変えちゃいけない運命ってあるんじゃないかな。親から与えられた運命、その一つが名前なんだと思う」努は混乱した。彼の意に反して、その言葉に重みと、暖かみを感じたからだ。
あの日、翔子にJFKテープを見せられた時から、これを金に替えるプランが、努の頭脳の中で目まぐるしく組み上がっていった。翔子からJFKテープを受け取った博美も、このテープの価値を理解する一人だった。博美から連絡を受けた努は、JFKテープを使ったマネーゲームを彼女に説明し、協力を求めた。
あの日、翔子が博美を訪ねたその後、努は博美のマンションへ呼び出された。
「明日、金沢から両親が来るの。私の就職祝いなんだけど、貴男も出てね」それが彼女の条件だった。
「ゲームに勝てば、大金が手に入るんだ。就職なんて辞めちまえよ」そう言う努に、博美は冷ややかにこう返した。
「貴男はゲームがしたいだけ。生活感の希薄な男性よ。私は女だから保険が欲しいの」それは、努にとって耐え難い屈辱の言葉だった。
<ゲームに必要なのは、この女じゃない。あの古臭い、一本のカセットテープだけだ>努の凍るような瞳に博美は沈黙した。
朝方、努がシャワーを浴びている隙に博美は電話をかけた。努が予想した通り、自分との関係を翔子に暴露するつもりなのだ。
努は用意しておいたスタンガンで、博美を背後から襲った。博美は小さな悲鳴を上げると、そのまま意識を失った。意識朦朧とする彼女を愛車に乗せ、代々木のマンションまで連れ帰った。博美が一旦覚醒した後も、睡眠導入剤を飲ませて、その日一日眠りに着かせた。
努が博美の真意を知ったのは、翔子からの電話を受けた時だ。博美は、自分との関係を暴露しようとしたのではなく、努のマネーゲームを告発しようとしたのだ。
<どちらにしたって、この女の評価が変わる訳じゃない。利用するだけ利用してやるさ。そして、今の俺に必要なのは時間だけだ>努は心の中でそう呟くと、ベッドサイドのデジタル時計を睨んだ。
「AM8:15」
「バーン!」
努は、8時15分を示したデジタルの表示に向け、右手を伸ばすと、拳銃を模った腕先を跳ね上げた。努の視線の先には、モクモクとキノコの形をした雲が、大空高く舞い上がる姿が見えているのかもしれない。
「こちらも色々ありましたけど、そちらも何かあったんですか?」ハンドルを操りながら里村が聞いた。
「色々とは?」松浦が逆に訊ねた。
「後で説明します」里村が答え難そうに言った。
「今、しろよ」時間はたっぷりある、そう言いたげな松浦の表情だった。
「私です。私が、捜査に参加させなければ盗難届を取り下げると言ったんです」堪らずに翔子が口を挟んだ。
「脅されたんだ」ははーんという顔をして、松浦が里村に言った。
「脅しました」翔子が答えた。松浦の目がゆっくりと閉じて、下顎がダランと伸びた。
「松浦さん達は何があったんですか?令状を取るはずじゃなかったんですか?」
「まあ、堅いこと言うな。管理官がな、こういう場合の捜査の常道ってやつをお使いなすったんだ」
「違法、捜査ですか?」
「お前。そんな際どい事、民間人の前で言うんじゃないよ」松浦が里村の頭を軽く叩いた。
「違法捜査じゃない。任意の捜査協力だ。時間がなかったんでな」堪らないという風に森本が割って入る。
「捜査関係事項照会書とやらを提示して、捜査協力してもらったんだ。だから違法じゃないんだと。遣り手だろう、管理官」
捜査関係事項照会書とは捜査に必要な事項を公的機関や民間企業に照会・報告を求める書類で、裁判所が発付する捜査令状の様な強制力は持たない。
「携帯キャリア会社から、移動体通信の基地局情報を教えてもらう事にした。加藤の携帯が通信状態になれば、その電波をキャッチした基地局を、こちらに教えてくれるという訳だ」松浦が脇に置いた大きなビジネスバッグを叩きながら言った。
「携帯の場合、基地局のカバーするエリアが広いため、かなりアバウトだと聞きましたけど、大丈夫ですか?」言葉とは裏腹に里村の表情は少しも心配を感じさせない。
「ああ、その通りだけどな。三点測定法といって、近隣の基地局三つを選んで、その電波の強弱から推定するんだ。それだと半径数百メートルの精度で特定できるようになる」今度も、鞄を叩きながら松浦が答えた。
「加藤は金井博美と一緒だ。車は赤のアルファロメオ。かなり目立つ車に乗っている」森本が表情を崩さずに言った。
「それで、現在は成田のどの辺ですか?」
「昨夜のデーターだが、成田空港の近くだ。まあ、予想通りだな、森本先生」
「空港近くのホテルに泊まり、入金を確認したら海外にでも出るつもりだろう」森本が答える。
「ところでお二人は、加藤努と金井博美の顔は知っていましたっけ?」ここぞっとばかりに里村が突っ込んだ。
「ああ、それなんだが。工藤警部補が入手出来次第、メールで送ってくれる。それまでは、残念だが分からない」ポーカーフェイスで森本が答えた。
「見切り発車、だろ?」松浦がそう言うと、車内は急に無言になった。
警視庁公安部の寺島警視監は、JFKテープを所持する人物の特定を急いでいた。JFKテープそのものはインターネット・オークションに懸けられていて、その締め切りまで僅か4時間を残すのみだった。
捜査そのものが、昨晩急遽決まったものだから苦戦は覚悟の上だ。それでも、多くの手がかりについて虱潰しに当たれば、必ず核心に辿り着くという自信があった。事実深夜には、インターネット・オークションの運営会社から、JFKテープの出品者情報を入手していた。
その報告を見た寺島は、その時点で事件の早期解決に手応えを感じた。何故なら、出品者は都内に住む金井博美という女子大生だったからである。直ぐに該当者の裏を当たると、程なくして問題が発覚した。金井博美本人の姿が見当たらないのである。人物を特定できたのが日曜の深夜に近かったため、聞き込み等で彼女に関する情報を集めきれていない。
捜査員をマンション周辺に張り込ませたが、博美が帰宅する気配はなかった。明け方になって、博美の所持する携帯電話から現在地を割り出すため、携帯キャリア会社より通信記録を入手した。
しかし博美の携帯電話は、日曜の早朝、東京都渋谷区代々木駅周辺からの発信を最後に、電源が切られた状態が続いている。
朝7時になって、金沢の実家に電話を入れて様子を伺ったところ、博美は失恋からの傷心旅行に出ているらしいことが分かった。訊き出したのは、クラスメートに扮した公安の女性捜査員だ。博美の両親は昨日、博美のマンションがある東京から金沢へ戻ってきたという。
「傷心旅行が本当かどうか」寺島はデスクの上に置かれた金井博美の写真を見て、そう呟いた。
博美が目を覚ましたら、いったいどんな顔をするのだろう。悔しがって、何もかも翔子に喋るのだろうか。いや、プライドの高い博美は、自分が騙され努に捨てられたとは決して言わないだろう。 努の部屋で目を覚ました彼女に、「君が失踪したことになって、警察沙汰になっている。僕の人生も、もうお仕舞いだ」と泣きついた。
我ながら上手く演技できたと、努は自画自賛した。案の定、博美は結婚を条件に努の芝居に付き合った。努の弱みを握った、その征服感が博美の心慮にも油断を与えた。それを努は見逃さなかった。
「傷心旅行じゃなく、新婚旅行に出ましょうよ」博美は勝ち誇ったように言うと、何度も躰を重ねてきた。
この時、博美が求めたものは、保険ではなく結婚へ繋がる既成事実だったのかもしれない。それだって、もうじき必要なくなる。彼女が拘る既成事実は、もはや過去の出来事になり、共通の友人を裏切ったという、ちょっぴり重たい感傷を引きずるだけで済んでしまうだろう。
マネーゲームに勝利するためには、彼自身法的にも安全でなければならない。
<俺は二人の女を欺いただけで、法の裁きを受けることなど一つもしていない>
努は、そう自分に言い聞かせると、部屋の大きな姿見に映し出された自分の姿を、上から下まで眺め回した。
首都高速湾岸線を成田に向かう途中、里村達の車は渋滞に捕まった。
森本が咳払いを一つして、赤色灯を屋根に載せる。けたたましくサイレンが鳴ると「警察車両が通過します。道を空けて下さい」と、森本がマイクで連呼した。
「これがあるからな。警察は辞められないんだよ」と、沈黙を作った松浦が言う。
「ところで、こうなった経緯なんですが……」里村が大声で聞いた。「こうなった経緯?何が聞きたいの?」松浦が言う。
「ですから、令状も取らず、加藤や博美の写真も持たないまま、こうして成田まで走っている理由です。行き当たりばったりみたいで」
「言うね。行き当たりばったりだとよ。せいぜい見切り発車なら許せるけどね」
「だって、不安じゃないですか……」
「余計なお客さん、乗せたからな」森本の言葉に、荒んでいた頃のような毒があった。
「まあまあ、止めろよ二人とも。お互い、想定外は起こるもんなんだ。いちいち目くじら立てるんじゃないよ」松浦が二人を諭すように言った。翔子の物憂げな視線は、窓の外に張り付いたまま動かない。
「こうなった経緯はな。昨夜からの公安の動きだ。どうやら公安が動き出している。既に金井博美には辿り着いた。令状を取ったり、所轄に捜査協力を求めたり、こっちが派手な動きを取れば、たちまち連中は嗅ぎ付ける。公安より先に加藤達を押さえるんだろう?見切り発車でもしかたないんだよ!」森本が、今にも爆発しそうな感情を抑えるように言った。
「これで分かっただろう。時間との勝負なんだ」松浦が続く。
「すみませんでした。事情を知らないのに。申し訳ありません!」里村が真っ直ぐ前を向いたまま謝った。
「おら、そこのベンツ!もっと左に寄れ!」森本がマイクで怒鳴った。
オコーナーが不在の参謀長室で、パウエル中尉は部下のスミス少尉と共に、NSAからの報告書に目を通していた。オコーナーは、昨晩行われた日本側との折衝の件で、アメリカ大使館を訪ねている。
報告書の内容は、全方位警備システムと、アメリカに本拠を置くブラック・オイル社との傍受記録だった。エシュロンの運用はアメリカ側だけなので、NSAの傍受記録もあくまでブラック・オイルを介したものに限定されている。
三年前から始まった傍受記録は、想像以上に膨大な量だ。しかも、コンピューターで閲覧可能な電子記録ではなく、全て記録紙に落とされている。分厚い紙の束を前に、パウエルの瞼が自然に落ちた。
傍受記録に目を通す傍ら、時折気になって、インターネット・オークションの入札状況を覗いてみた。9時の時点で、4億8千万円の値が付いていた。少なくとも入札の一つは、昨日この場で協定を結んだ内閣官房のものだ。無事落札した場合、その費用は日本政府が負担する事になっていた。
スミス少尉が、新しい書類の束に手を伸ばしながらディスプレイを覗き込んだ。
「一体、幾らの値が付いているのですか?この数字が金額?」漢字の読めないスミスは、パウエルに訊ねた。
「450万ドルと、いったところだ。この先もどこまで上がるか見当が付かない」パウエルが、やれやれというように天井を睨んだ。「JFKテープの値を吊り上げているのは、アメリカ政府とゴメスだとネットでは騒いでいます」スミスが眉を顰めた。
インターネットの掲示板やブログサイトでは、ゴメスという秘密組織がケネディ暗殺の黒幕だと盛んに騒いでいる。その証拠品であるJFKテープを手に入れるため、当然ゴメスもオークションに参加しているだろうと、ネットの間では噂されていた。
「ゴメスが参加しているのなら、JFKテープは勿論、それをオークションに出した持ち主の命も危ないな。テープは幾らでもコピーできるわけだから。但し、ゴメスが参加していればの話だが」パウエルは、最後の言葉に力を入れた。
「ゴメスは参加していないと?」スミスが訊いた。
「ああ。ゴメスとアメリカ政府が張り合う必要はない。世に出したくないという目的は同じなんだから。だが、その話はお終いだ」そう言ってパウエルは会話を締め括った。スミスは大きく縦に首を降ると、手に取った報告書の束を、どさっと机の上に置いた。
パウエルは視線を再びNSAの報告書に切り替えた。特に変わった内容もなく、凡庸な業務報告が続く。報告者も、経理や総務のマネージャークラスが多い。時々、全方位警備システムの重役の名前が出るくらいだ。
突然、文章の中にYokosukaNavyBase(横須賀海軍施設)の文字を見つけた。MikasaPort(三笠港)やMonkeyIsland(猿島)の文字も出てくる。
パウエルは、隣で報告書の山と格闘するスミス少尉に「面白い文章が見つかったよ」と、肩を叩いた。文章は全方位警備システムの子会社から、ブラック・オイル社の幹部に宛てられたものだった。
「国より猿島の正式な払い下げを受けて、同島の管理運営及び三笠港と猿島を結ぶ航路の営業権を市から正式に委託された。猿島は横須賀海軍施設から直線で2キロの距離にある」日付は2007年2月23日、今から6ヶ月ほど前だ。
メールの送り主は、株式会社トライゾーンの代表取締役K・Okadaで、受取人はブラック・オイル社幹部Robert・Richer(ロバート・リシェ)であった。本社幹部への報告にしては、随分とぞんざいな文章に思えた。立場がまるで逆のように見えるではないか。
猿島は東京湾随一の天然の島で、幕末から昭和にかけて砲台のある軍艦島であった。この司令部がある横須賀海軍施設とは、直線で2キロしか離れていない、まさに目と鼻の先にあった。
戦後は砲台が撤去され、岩釣りや海水浴客が出来るリゾート施設に生まれ変わった。夏真っ盛りの今日などは、近くの三笠港からの海水浴客で一杯だろう。
会社案内によると株式会社トライゾーンは、この猿島のリゾート開発とこの海域周辺の遊覧船事業を業務にするデベロッパーとある。株式の全ては、全方位警備システムが所有していた。パウエルは部下のスミス少尉に、株式会社トライゾーンの全通信記録を精査するよう命じた。
森本達を乗せた車が、ようやく首都高速から東関東自動車道へと入った。ダッシュボードのデジタル時計は、9時15分を示している。JFKテープのオークションが終了するまで4時間を切っていた。
「工藤からのメール、まだか?」森本が後ろの松浦に聞いた。
「まだだね。もうそろそろ加藤の会社から、写真の一枚も送ってきていい筈なんだけどな」携帯を覗きながら松浦が答えた。その携帯をポケットに仕舞おうとした時、例のビートの効いたロックが流れてきた。
「おっ、噂をすれば工藤ちゃんだ。もしもし、松浦です」松浦が頷いた。
「やっぱりそうか。で、写真の方は?えっ?送り方が分からない……」
携帯を片手で塞ぎながら、「やはり加藤のやつ、休暇を取っていたぞ。予定では一週間だそうだ。それと、写真は手に入れたんだが、メールで送るにはどうすればいいかって聞いてるぞ。どうする?」と、森本に聞いた。
「教えてやってくれ」目を瞬かせながら森本が答える。
松浦は携帯に口を当てると、深呼吸を一つして話し始めた。
「写真をスキャナーで取り込めるか?えっ?分からない。コピー機とどう違うのかって?それじゃ、携帯のカメラで撮れませんか?えっ?携帯にカメラ付いてない……FAXで送る?ちょ、ちょっと待ってくれ。折り返し連絡するから」松浦は携帯を折り畳むと、「どうするよ、化石のような警官だぜ」と呆れたように翔子の顔を見た。里村の肩が、笑いを押し殺して震えている。
「彼の写真なら、あります」翔子が携帯を出して広げた。
「おっ、イケメンだなあ。里村、負けてる」画面を覗いた松浦が言った。
「そんな事、どうでもいいじゃないですか!それより、彼女がいてくれて助かったでしょう?」里村の言葉に森本が小さく頷いた。
「お嬢さん。金井博美の写真もありますか?」森本が聞いた。
「ええ。持っています」翔子の目が、生き生きと輝きだした。
金井博美のマンションに張り付いていた公安の捜査員達が、管理人立ち会いの下、部屋に躍り込んだのは午前9時だった。令状なしの任意捜査だが、思いの外管理人の説得に時間がかかってしまった。管理人によれば、一昨日も警察が来て、指紋を採ったり、写真を撮ったり、監視カメラの事まで調べたという。
その後博美の両親が、「娘は旅行に出ただけでした。年頃の娘だけに大騒ぎしたことを後悔しています。どうか穏便に」と、平身低頭して金沢に帰ったと、この管理人は話して「だから、警察が二度も来るのはおかしい」と、なかなか首を縦に振らなかったのである。
一昨日の土曜日、既に金井博美は失踪騒ぎを起こしていた。翌日になって、本人から連絡があり、両親が捜索届けを取り下げたため騒ぎは一段落した。ここの所轄は大井署である。大井署にも、金井博美に関する捜査資料があるだろう。必要となれば、所轄の資料も提出させればいい。
恐らく両親が後片付けをしたのだろう、博美の部屋は綺麗に整頓されていた。捜査員は真っ先に、葉書や手紙、電話器のメモリー、そしてパソコンを調べ出した。
パソコンは、起動後のログイン画面でパスワードの入力を求められた。セキュリティーがかかり、パスワードを知る者以外アクセスできない。大井署の警官達も、結局は諦めた経緯がある。
捜査員の一人が小型のノートパソコンを接続して、中のデーターを丸ごとコピーした。彼は馴れた指使いでキーボードを操作すると、セキュリティーが解除されて、コピーされたコンピューターのデーターは、全て閲覧可能になった。
更に捜査員は、コピーされた博美のコンピューターの″ゴミ箱″を開くと、空になった″ゴミ箱″を、あるソフトを使って復元してしまった。″ゴミ箱″のフォルダーの中に、みるみる内に、削除されたはずのファイルの山が再現されていく。
「主任!これを見て下さい」コンピューターを操作する若い捜査員が叫ぶと、寝室を見ていた、精悍な顔付きの男が近付いてきた。
「JFKテープの翻訳文です。それと、メールの遣り取りの一覧ですが、翻訳文を添付ファイルにして送った相手がいます。アドレスは、<tajiri@pot.co.hk>仲間でしょうか?」
「このアドレスのメールを全て精査して、相手の手がかりを見つけ出せ」
主任と呼ばれた捜査官の檄が飛んだ。立ち会ったマンションの管理人は、捜査員達の手際良さや、一糸乱れぬ統率力に、ただ圧倒されていた。
成田の市街へと車が入ったとき、時計の針は10時少し前を示していた。車は東関道を降りて、国道295号をゆっくりと移動する。
後席の松浦は、鞄の中から取り出したノートパソコンを広げ、画面を凝視している。画面には、成田の詳細地図の上に三本のアンテナマークが立っていた。
車はヒルトン成田を通過して、全日空ホテルの手前に差し掛かった。右手前方には聖マリア記念病院が見える。
「病院を少し過ぎたところで停めてくれ」松浦が言った。
「この近くなのか?」後ろを振り向き森本が尋ねた。
「昨日の午後10時24分に誰かと話している。それがこの近くだ」
男達の視線が翔子に集まった。
「私じゃありません」きっぱりとした言い方だった。男達の視線が気まずそうに散った。
「その後は、その後の通話はないのか」と、森本が聞いた。
「それより、誰と話ししたか分からないんですか?それが分かれば……」里村が尤もな意見を言った。
「里村警部補。捜査令状じゃないんだ。任意の場合、被疑者以外の個人情報は公開されない」堅い口調で森本が言った。
「そういうことだ。ちなみに通話は、その後一度もない。それより、この近くには宿泊施設がごまんとある。それを片っ端から当たるか、それとも、もっと絞り込むか、どっちに決める?」松浦が楽しそうに言った。
「絞り込めるんですか?」里村が聞いた。森本も意外そうに松浦を見ている。
「彼女に一肌脱いで貰えばね」松浦が、ニャッと笑う。
「それは駄目だろう」森本が真顔になった。
「変な想像すんなよ。いい年こいて」松浦が森本を冷やかした。
「電話をかけるんですね、彼に」翔子が言った。
「御名答。他に考えられんくらい大正解。嫌だね、あのオジさん。変な想像しちゃって」
「冗談で言ったに決まってるだろう!」森本が、真顔で否定した。
「まあまあ、彼女なら加藤も安心して受けるじゃないですか。そうすれば直近の正確な位置が掴める訳です」里村が得意そうに解説した。
男は外の景色を眺めていた。窓越しに見える夏の空は、青い空気に白い雲が浮かんで、まるで絵本でも見ているかのようだった。その青い空気を切り裂いて、巨大なジェット機が雲の中へ吸い込まれて行く。
男の瞳は、あの白い雲の中に希望の国でも見ていたのだろうか。彼の瞳は少年のように輝き、その輝きの奥には不純物の欠片もない氷のように透明な欲望の炉があった。
彼は、机の上に広げたノートパソコンに向かった。既にインターネットのブラウザーソフトが立ち上がっている。オークションの画面が表示され、現在の価格には10億6900万円の値が付いていた。男は満足そうに、その価格を口に出して復唱した。
テーブルの上に置いた携帯電話のイルミネーションが光った、それに合わせるように、強いバイブレーションがテーブルの脚を介して床にまで伝わる。
夢から覚めた気分だった。努は不機嫌そうに携帯を取り上げると、発信番号を確認した。彼は躊躇っていたが、結局電話には出なかった。これまで何事も理詰めで動いてきたくせに、この時だけ妙に勘が働いた。
いや、あと数時間、数時間だけ下手に動かなければ、バラ色の現実が待っている。努はもう一度、窓の外へ視線を移すと、白い雲の中に消えていくジェット機を恍惚の表情で見送った。
電話をかける翔子の表情が曇った。
「駄目だわ。やっぱり出ない」もう一度かけ直そうとするのを、隣の松浦が止めた。
「もういいですよ。何度もかけ直すと、かえって怪しまれる」
「気付かれたのかな」里村が呟くように言った。
「仕方ない。この近くのホテルを、片っ端から当たろう。取り敢えず車をどこかに入れてくれ」と、森本が言った。
昨夜の10時過ぎに確認された電波の位置から、最も近い宿泊施設はマロウドインターナショナルホテル成田だった。
マロウドインターナショナルホテル成田は、地上13階、客室数800、収容車数801台を誇る重厚な造りのホテルだ。建物の敷地内にある広大な駐車スペースは、夏休み真っ盛りとあって、8割方埋まっている。
車を止めたところで、森本が班を二つに分けると言い出した。
「今、10時20分。あと2時間が勝負になる。成田の宿泊施設はこの空港周辺だけでも10は下らない。そこで班を二つに分けよう。俺と松浦の爺さんが、比較的近くに固まっている日航ウインズと東横イン、そしてホテル日航成田を徒歩とタクシーで当たる。里村とお嬢さんはここを含めて、全日空ホテルと成田エアポートホテルを当たってくれ。お互い、加藤本人だけでなく、博美や加藤の車を見つけたら直ぐに報告すること」
「俺達年寄りが歩くのかよ。それより、お前と里村が刑事コンビで、私とお嬢さんが民間コンビの方が……」と、不満そうに松浦が言うと「松浦さん、警察手帳持ってないでしょ。何かの時、聞き込み出来ないじゃないですか」と、里村がやり返した。
「了解しました。若者は若者同士、年寄りは年寄り同士。張り切りましょう」そう言うと松浦は、勢い良くドアを開け外に飛び出した。上着を助手席に残し、森本が後に続く。二人は客待ちのタクシーを見つけると、足早に乗り込んだ。
放送スタジオ4階にあるスタッフルームで、尾崎が上沼と打ち合わせをしていると、アナウンス部の竹上が部屋の入り口から顔を覗かせた。手招きで尾崎を呼び寄せると、小声で「例のJFKテープ、10億超えたぞ。うちも狙っていたらしいが、どうやら諦めたらしい。それじゃ、俺急ぐから」と、竹上は片手を振りながら廊下の奥へと消えた。
尾崎は席に戻ってくると、「うちはJFKテープ、諦めるらしいです。10億を超えたらしいんで」と、上沼に伝えた。
上沼が机の上にあるテレビのスイッチを入れた。他局の情報番組が、JFKテープの事を取り上げている。
番組の女性司会者が、<とうとう、10億円を超えたようですね。インターネットの掲示板にはどのような反応が出ているのでしょう。レポーターの黒田さん?>と、カメラの向こうへ呼びかけた。切り変わった画面にインターネットの巨大掲示板サイトが映し出される。上沼が興味津々という風に視線を合わせた。
<書き込みには、ゴメスに関するものが多いですね。ある女性タレントのブログから火が着いたゴメスという組織。ゴメスがJFKテープを落札したいがためアメリカ政府と入札争いしている、という内容が増えています。ここら辺はネットならではでしょうか>と、若い女性レポーターが答えた。表情は内容に会わせるように、緊張と不安を表出していた。
テレビから視線を外した上沼の目は、尾崎を見ると自信たっぷりに微笑んだ。
「カオリの影響は絶大だね。ところでゴメスとかいう連中は、今でも暗躍しているのかな?テープを落札した人間は、命が幾つあっても足りないね」と皮肉っぽく言った。
尾崎はゴメスという得体の知れない組織が、ケネディの暗殺だけでなく日本のある大きな事件にも絡んでいるような、危険な想像を巡らせている。それは言葉にするまでもなく、新日本航空123便事故に対してであった。
「上沼さん、その事ですけど。やっぱり俺はJFKテープを持った人間が123便に乗っていたと思うんです」そう話す尾崎の目は真剣だった。
昨晩、安井の口から彼の恩師に当たる鷹縞教授の話を聞いた。鷹縞教授は安井と同じ物理学の教授だったが、太平洋戦争末期の原爆投下に疑問を持ち、密かに考えを纏めていたという。それは学術的なものではなく、反核の純粋な動機からだった。鷹縞教授は長崎生まれの被爆者だったのである。
鷹縞は極近しい人間だけに、広島と長崎以外に原爆が落ちている可能性を伝えていた。しかし殆どの人間は、それを無視するか黙殺してきた。安井もまた、その一人だったという。
1995年の阪神淡路大震災で鷹縞教授は亡くなった。彼の追った幻の原爆は、今、ようやくその正体を明かそうとしている。
「シンちゃんが拘っているのは鷹縞教授が言っていたという、証拠の品と証人のことだろう?確かにそれがJFKテープだった可能性は高いと思うよ。だけど、それならば何故今になって出てきたんだろうね?どうしても、そこが釈然としないんだよ」上沼は腕を組んで苦笑いをした。
「ところで、今日は6日だね。広島の原爆記念日だ。Cスタジオで特番のリハーサルやっているよ。参考までに、見ておこうか」上沼は勢いよく立ち上がって、足早に部屋を後にした。
4階にあるCスタジオは、今日の夜に組まれた生放送のリハーサルで活気付いていた。局を代表する女性ニュースキャスターをメインに、被爆経験のある有名人や、原爆に詳しい学識者の顔が並ぶ。
Cスタジオならではのバーチャルセットが、被爆直後の広島を、62年後の現代にタイムスリップしたかのように生々しく映し出した。そして、ステージの両脇には、広島に落とされた実物大のリトルボーイと長崎に落とされたファットマンが、それぞれを投下したエノラ・ゲイとボックスカーの縮尺モデルと共に展示してあった。広島と長崎の街を壊滅させた二つの原爆にスタジオの演出照明が当たると、辺りはハレーションを起こしたように眩しく輝いた。
この二都市より前に、もうひとつの原爆が落とされていた。その原爆は、今も東京湾のどこかで静かに眠っているに違いない。安井はその事を一刻も早く公表し、警鐘を鳴らせと言った。そしてその役割はマスコミやジャーナリズムにあるという。
上沼と尾崎はその提言にどう答えるべきか考えている。いや迷っていた。
「きっとJFKテープには、ブロウフィッシュの正体がケネディ本人の言葉で語られているんでしょうね」尾崎は溜息を吐くと残念そうに言った。
「ああ、間違いないよ。ただそれが無くても、僕達は今まで知った事を伝える責任と使命がある。そうだろ?」上沼が弱気な尾崎の肩を叩いた。
「カオリが推理したゴメス、安井教授のブロウフィッシュ原爆説、そしてJFKテープと123便事故。これを徹底的に調査しようじゃない。僕が責任持って番組作るからさ」
尾崎はこれまでの不満や鬱憤が、嘘のように消えて行くのを感じた。それは自分とは最も遠い所にあると思っていた上沼という存在のおかげである事も、今では認められるようになっている。尾崎は上沼に向き直ると深く一礼した。
NSAから送られてきた全方位警備システムの傍受記録に目を通していたパウエルは、全方位警備システムの完全子会社トライゾーンに注目していた。全方位警備システムは、他にも運送会社と小さな航空会社を所有している。何れも貴重な物資の輸送を、自前で行うための子会社という位置付けであった。
その点で株式会社トライゾーンは、他の二つと大きく異なっている。業務内容の中心は、この3月に正式に業務委託された猿島施設の運営と管理であった。船舶による輸送はそれに付属する形で存在しているに過ぎない。
株式会社トライゾーン、設立:2005年10月、代表取締役:岡田一郎(カズオ)、所在地:新宿アイランドタワー、資本金:1億円、従業員数:25名、という会社のプロフィールからはとてもその実態は見えてこない。
トライとブラック・オイルの間に交わされたメールを精査していたスミス中尉は、「2nd Sarushima search, unable to find Sarushima off the northwest coast(第2次猿島捜索、猿島北西沖発見できず)」という短い記録を見つけた。日付は4月10日と記されている。続いて一カ月後の5月10日、「Third search for Sarushima, unable to find Sarushima off the southeast coast(第3次猿島捜索、猿島南東沖発見できず)」という、トライからブラック・オイルへ宛てた短い文章が見つかった。ページを先に戻して見ると3月17日付けのメールに「First search for Sarushima, unable to find Sarushima off the northeast coast(第1次猿島捜索、猿島北東沖発見できず)」の記述が見つかった。スミス少尉は猿島捜索という言葉が引っかかって更に追っていくと、7月14日付けで「4th search for Sarushima, 1561 was discovered about 2km off the east coast of Sarushima, near the Uraga Suidou route.(第4次猿島捜索、猿島東方沖約2キロ、浦賀水道航路近くで1561を発見)」という文面を見つけた。スミス少尉は更にページを捲る。
そして最後のページに「Recovery of 1561 failed, large-scale salvage must be prepared.(1561の回収に失敗、大型サルベージの用意が必要)」という記述を見つけた。日付は7月31日、今から6日前のことだ。これ以降、ブラック・オイルとトライゾーンの間に遣り取りはない。
これらの通信を繋げれば″四度に渡る猿島周辺の捜索で、1561を発見するものの、回収に失敗した″と読み解ける。
スミス少尉はインターネット・オークションをモニター中のパウエルを呼んだ。
「パウエル中尉。トライゾーンの通信記録を精査したところ、面白いものを見つけました」スミスはそう言うと、パウエルに猿島捜索の件と1561に関して報告した。
1561、この在り来りの数字こそ何かを示す重要な暗号のような気がして、パウエルは両手で顔を押さえると、押し付けた顔を上下に軽く揺すった。
「1561、1561、1561……。スミス君、君はこの数字に何か心当たりはないか?」と、パウエルは訊いた。
スミスは首を捻ってコンピューターのデーターベースを参照するが、あまりに漠然としていて絞り込めない。インターネット検索でも似たような結果になった。二人は途方に暮れたように顔を見合わせた。「誰か、物知りを仲間に呼びましょう」スミスが助っ人を要請する。パウエルは考え顔になると、ポンと手を叩いてデスクの電話を取った。「良い助っ人が見つかったぞ」パウエルは番号を押すと、デートの相手が出るのを心待ちにした。
里村と翔子が、二件目の成田全日空ホテルに移動したとき、ちょっとしたトラブルが起こった。
駐車場が一杯で、時間待ちの行列が出来ていた。里村は行列には付かず国道の路肩に車を止めた。
「翔子さん、車をお願いできますか?」急場しのぎの軽々な判断だった。
「はい、免許証は持っていますけど……」
「いえ、路上駐車は拙いんで、もし取り締まりが来たら動かして下さい。あっ、警察無線は切っておきますので」
里村はそう言い終えると、翔子にハンドルを譲り、ホテルの建物へ脱兎のごとく駆けていった。
里村が戻るまで、どのくらい時間がかかるだろう。最初のマロウドインターナショナルでは20分も使ってしまった。
翔子は溜め息混じりに何気なく視線を動かした。外の景色は相変わらず強い日差しを浴びて、きらきらと輝いて見えた。
ゆっくりと視線を戻しかけたとき、助手席の背もたれに引っかけた森本の上着が今にもずり落ちてくるところだった。手を伸ばして食い止めるより速く、服はシートの上に落ちた。落ちた拍子に小さな物体が、座席と床の隙間に滑り込んだ。翔子は手探りでその物体を探した。軽いプラスティックの感触が指の先に伝わると、それを摘むように引っ張り出す。薄い長方形のケースを開くと、中からカセットテープが出てきた。
テープの上に貼られたラベルには「Walter・Brown」という文字が記されている。昨晩、里村達に預けた壊れたカセットプレーヤーの中に入っていた物に違いない。既にテープは取り出してあったのだ。
疑念と不快感が渦巻いてくるのが分かった。今日の朝、里村はカセットプレーヤーからまだテープは取り出せていないと言ったはずだ。しかし、現実にはこうして森本の上着の中に仕舞ってあった。
翔子は意を決すると、そのテープを車のカセットデッキに挿入した。車の中を囲むように備わったスピーカーから、男の声が流れてきた。初めて聴くその声質は、ほんのり温かく懐かしい響きだった。
大井町にある金井博美のマンションでは、捜査主任の酒井警部が渋面を作って携帯に話しかけていた。
「そうです。どうやら<tajiri@pot.co.hk>というアドレスを持つ人間が博美の共犯者のようです。ですから、<pot.co.hk>というドメインを調べて欲しいんです。そうです、サーバーの登録者か管理者を当たれば…いいえ、こちらでは出来ません。それと!」
言葉を続けようとしたが、せっかちな上司が先手を打つように電話を切った。携帯を耳から離し、「ツー・ツー・ツー」という音を確認すると、彼は携帯を二つ折りに畳んで閉じた。
どちらにせよ、ここで出来ることはやり尽くした。博美のパソコンに残ったメールの解析から、辛うじてJFKテープの翻訳文を送信した相手が割り出せそうだった。ヘッダー情報から特定したプロバイダーは、中国のものだった。
メールアドレスの発行は<pot.co.hk>という香港のドメインから出されている。恐らく香港特有の、個人が管理・運営する小規模のレンタルサーバーか自宅サーバーかもしれない。
そのドメイン登録情報にアクセスできれば、博美の共犯者に辿り着くことが可能と思われた。
それより遙かに気がかりなことがあった。金井博美が<tajiri@pot.co.hk>というアドレスに送った二度目の添付ファイルの内容である。メールの解析をしていた若い捜査員が気付いたそのファイルは、やはりJFKテープの翻訳文であったが、それはインターネットに出回っているものとは違う内容であった。
ケネディの独白にも思えるその中身は、太平洋戦争末期に、広島・長崎以外にも原爆が落とされていたことを宣言する内容であった。
酒井はこの翻訳文を見つけた若い捜査員に堅く口止めをすると、金井博美のパソコンデーターを格納したノートパソコンを大切そうに抱えた。
ホテル日航成田、東横イン成田と調べ歩いた森本と松浦は、さすがに疲労困憊という表情を隠せない。二件のホテルに関しては見事に空振りだったことも気持ちを更に重たくしていた。
最初のホテル日航成田まではタクシーで移動したが、次の東横インまでは距離が近すぎると、タクシーの運転手に断られた。
いよいよ最後のホテル日航ウインズまで、足をがくがくさせながら松浦は歩く。
「22年前とは、偉い違いだ」と、森本が喘ぎ声を出した。
「お互い様だ。俺は足腰、お前は心臓か?」松浦が止まって腰に手を当てた。
「それにしても」汗を拭う森本の顔を、振り返った松浦の視線が怪訝になる。
「今日のお前さん、少しおかしいぞ。確かに里村と翔子ちゃんは今にもくっつき……」松浦の胸を森本が押した。
「そんなんじゃない。お前の台詞じゃないが、いい年こいて横恋慕なんてしてないよ」
松浦との長い付き合いを森本は誇りにさえ思っている。世間的に呼ぶなら、親友や同志といった関係になるのだろう。義兄弟と呼んだっていい。十代で両親を亡くし、たった一人の妹からも見放された森本には、肉親以上の温もりを松浦の旺盛な器量に感じていた。
だから、倖の事も話してきた。倖を超える女はもう現れない。それが松浦への答えの全てだ。それを、もう一度叩き付けてやりたいと思った。
「俺はただ、民間人を巻き込みたくなかっただけだ」
松浦はそれに答えようともせず、腰に手を当てながら先を歩いている。
無理のある言い訳だと分かっている。<翔子の協力なしにここまで来ることはなかった。彼女を巻き込むようにしたのは他ならないお前だろう?>松浦の背中が、それを伝えてきた。
「それと、ここでの件が済んだら後で聴かせたいものがある」松浦の背中に向かって森本が声を上げた。
「期待しないで待ってるよ」松浦が手を振った。22年前、御巣鷹の尾根に登ったとき、途中で引き返していったあの時の後ろ姿にそっくりだと思った。
電話をしてから10分あまり、軍医のジョンストン少尉が長身を揺らしながら参謀長室に入ってきた。年長の軍医に敬意を払うと、パウエルはそそくさと「1561」という数字のことを尋ねた。
勿論、この全く要領を得ない質問に軍医は面食らうより前に、何かの悪戯ではないかと警戒した。普段のパウエルには、そういう人を喰った傾向があったからだ。
「中尉殿、先日の探偵みたいには行かないぞ。うっかり1561が逢引きのモーテルの部屋番号だなんて言いだしたら、そこに女房が立っていた、なんて話しじゃないだろうな」とジョンストンが軽口を叩いた。
「軍医殿、大まじめなんだ。これを見てくれ」パウエルがNSAから届いた傍受記録の分厚い束を見せる。
<1561の回収に失敗、大型サルベージの用意が必要>
「これがどうした。猿島って、そこの島のことか?」軍医がのんびりと話す。
「この1561が何か知りたい。考えてくれ」パウエルが一刻も早くとばかりに、1561という数字を指さした。
「えっ?何で私なんだ」ジョンストンが、戯けてパウエルとスミスを見比べる。
「あんたが、この海軍基地で一番物知りだからだよ。ついでに一番記憶力が良いからさ。だから、あんたしかいない」パウエルが軍医を持ち上げると、ジョンストンは満更でもないという表情で、パウエルの椅子に座り直した。
ジョンストンは1561という文字に記憶を振り向けた。どこにでもある、ありふれた番号だ。直ぐに思い付いたのはオメガ社の高級腕時計だった。
「ハワイでお付き合いした彼女にプレゼントしたのが、1561だ。こんがり焼けた肌にとても良く似合っていた」緊張感がないわけではない。これが軍医にとって最良の思考法なのだろう。
「文面からは馴染まないな。大型サルベージという言葉を使っている。もっと大きく重い物のはずだ」パウエルがアドバイスする。
「なら、耐火金庫。1561Bというのがあるぞ。ただしBが付くがね」軍医の調子が上がってきた。
「なら、それも候補に入れよう。続けて」パウエルが言った。スミスは同意するように頷いてみせた。
「車やバイクには無いな。飛行艇にそんなのがあったぞ。確か、156-1ハイフン付きじゃ駄目か?」
「それは駄目だ、違いすぎる」パウエルはきっぱりと切り捨てた。
「それじゃ、医療用のCTスキャナー。モデル1561CTだったな確か」
「CTスキャナーですね。モデル1561CT」パウエルの隣からスミスが確認した。
「ちょっと待てよ。モデル1561。モデルが前に付いても良いのか?」数字の前に文字を付けた時、ジョンストンの脳裏に引っかかるものがあった。
「それは構わないでしょう。大抵、省きますけど」
パウエルに違和感はなかった。工業製品の場合などモデルと数字の組み合わせは自然だし、またモデルという言葉を省略する事も至極当然と思える。
しかし、ジョンストンの様子は違っていた。一心に何かを模索して、その断片を捕らえつつあるようだった。
苦い記憶の欠片……しかしそれは、何故かとても近い存在に思える。
モデル1561……モデル1561……突然、嫌な勘が走った。
「おい、あったぞ凄いのが!」軍医の顔に困惑の色が浮かんだ。パウエルとスミスは、次の言葉を待った。
「モデル1561は、ファ、ファットマンのことだ」ジョンストンの言葉は小刻みに震えていた。
目の前にそびえる日航ウインズは、この10月を最後に営業を終了するとあって、このホテルならではの夜景を楽しもうと訪れる宿泊客で一杯だった。
フロントで携帯の画面に映る加藤と博美の写真を見せる。
ここも期待する返事は返ってこなかった。サングラスや帽子の簡単な変装をするだけで、この混雑するフロントでは記憶に残らないのも無理はなかった。
宿泊リストの方も夏休み期間とあって、若いカップルの占める割合は半端ではなかった。最後に車の車種とナンバーを告げた。ここのフロントも、駐車場の管理会社に連絡を入れ確認を取っている。
「お客様。お探しのお車が見つかりました」草臥れた靴元を見ていた森本と松浦の顔が上がった。
「本当ですか?持ち主の氏名と部屋を教えて下さい」森本が聞いた。
「かしこまりました。お客様は″三浦義弘″様と″瞳″様御夫妻です。部屋は722号室でございます」フロント係は、笑顔のまま教えてくれた。
「今は、いや、今も部屋にいますか?」森本が声を潜めるように聞いた。
「はい。お二人ともまだお部屋です。宿泊は明日までの予定ですから」森本に安堵の表情が浮かんだ。フロント係に礼を述べると、里村に連絡するよう松浦に伝えた。視線の先にあるフロントの大きな壁時計は、11時50分を示していた。
酒井警部から報告を受けた公安部の通信傍受室は、<pot.co.hk>というドメインを持つサーバーを捜索していた。
捜索の結果、サーバーはドメイン通り、香港に置かれていることが分かった。インターネットの世界は、物理的距離と情報的距離が一致しない。また、自分を特定させないための偽装という事もあり得る。仮に偽装だとしたら、それは想像以上に効果を上げているといえた。金井博美とその共犯者を追いつめるには時間が必要であり、偽装工作は充分に時間稼ぎをしているからだった。
「あと一時間で、こいつに辿り着くことは不可能だ。そろそろこちらも、真剣に時間稼ぎを考えようじゃないか」
室長の鮫島が、提案とも指示とも取れる曖昧な発言を部下達に残して部屋の外へと消えた。
正午きっかりに、里村と翔子が日航ウインズのフロントに現れた。
二人とも慣れない捜査で疲れたのか、松浦や森本以上に暗く元気がなかった。
「時間はあと一時間しかない。逆に言えば、加藤達はここの722号室で、JFKテープの落札金額が確定するのを心待ちしているに違いない。油断しきっている今が、捕らえる絶好のチャンスになる」森本が周囲に目を配りながら早口に話した。里村が小さく頷いた。
「それじゃあ、作戦を話そう。俺と松浦が部屋に踏み込む。里村とお嬢さんは、ここの地下にある駐車場で、加藤のアルファロメオを見張っていてくれ。時間は12時30分……」と、そこまで言いかけた時、里村が口を挟んだ。
「お言葉ですが、メンバーを入れ替えて下さい。722号室へは管理官と僕で行きます。駐車場へは松浦さんと斉藤さんでお願いします」
「ここまで来て何だよ。さては、喧嘩でもしたのか?これだから近頃の……」松浦が茶化すのを森本が手で止めた。
「それでも構わんが、理由があるのか?」
「ありません。ただ、自分は警察官です。被疑者と対峙するのは自分の使命だと思いました」里村の目は真剣だった。
森本は里村の強い視線を受け止めると、「分かった。足手纏いにならないように付いてこい」と言った。
12時を少し回った頃、寺島警視監は通信傍受室の鮫島警視正から報告を受けた。鮫島は現状では金井博美から先へは辿り着けないと結論し、従ってオークションそのものを停止させようと進言した。
オークションそのものを停止させてしまえば、金井博美やその共犯者は目的である金を得ることが出来ない。そうなればもう一度振り出しに戻せる。それが鮫島の狙いだった。
寺島警視監の前にあるノートパソコンには、JFKテープのオークション画面が表示されている。落札の締め切り時間が一時間を切った時から、入札価格の更新が頻繁になった。
昨夕行われた横須賀での日米協約で、JFKテープのインターネット・オークションの落札責任者は神山内閣情報官が受け持っている。他の競合相手より、少しでも高値を付けて落札することがJFKテープを第三者に渡さない最後のボーダーラインといえた。
12時の時点で、最高入札額は神山内閣情報官の入札した59億1000万円が表示されていた。それから5分、10分と経過するに連れて、入札価格はついに60億を超え、現在は70億を突破している。神山内閣情報官の神経質そうな顔が、更に歪んで青ざめる様子が目に浮かんだ。
「君の考えを支持しよう。オークションの終了直前にサーバーを停止させてくれたまえ」鮫島は自分にはない寺島の決断力に心の中で敬意を表した。
神山内閣情報官はコンピューターのディスプレイを見つめ、連続して溜息をついていた。
昨夕の日米協約では、非公式ながら日本のエシュロン参加への約束を取り付けた。勿論その見返りとして、JFKテープの回収がアメリカ側から要請されたのである。JFKテープを確実に手にするには、インターネット・オークションで競り落とすことだった。それまでに、公安が出品者の特定と拘束なりに辿り着ければそれに越したことはないが、それは時間との戦いであり、達成できる可能性も高いとは思えなかった。
少し前に寺島警視監から、成り行き次第でオークションそのものを停止させる計画があると打診された。
12時の時点では、神山の提示した金額が辛うじて最高入札額を保っていた。しかし、ものの10分で、その提示額は遙か下へと繰り下がってしまった。
エシュロン参加への切符代が、果たして幾らなら不釣り合いでないのか。その説明理由を考えるとき、神山が当初想定した切符代はあまりに安過ぎたのかもしれない。
寺島警視監の計画は、神山の困惑を救済する意味でも良策だったと言えるだろう。
12時20分、ついに入札額は90億を超えた。
「入札者は中東の衛星テレビ局です」入札者のIDを解析していた通信傍受室の捜査官が報告した。
「中東の衛星テレビ局か」鮫島は舌打ちした。
相手が中東の衛星テレビ局となると、何があっても落札させる訳にいかない。マスコミの衣を纏う彼等の本音は明確な反米であり、JFKテープが米国叩きの材料に用いられることは火を見るより明らかだった。何より彼等には、オイルマネーという豊富な資金源がある。入札での苦戦は必至だろう。
「室長、準備できました。いつでもサーバー攻撃は可能です」部下の一人が報告した。
鮫島はオークションの終了直前、DDOSというサーバーに負荷をかけるサイバー攻撃を仕掛けて、オークションそのものを停止させる準備を進めていた。
「開始してから停止させるまでの所要時間は?」
「90秒から120秒です」鮫島は満足そうに笑みを浮かべると、あとは攻撃を仕掛けるタイミングを虎視眈々と伺った。
5分が経過した。最高入札額は99億9000万円のまま止まっている。
神山は100億までの予算確保を内閣官房に打診していた。
当初用意した予算は30億で、間もなく60億まで倍増するよう要求した経緯がある。そう簡単に100億の予算拡大が認められるとは思えなかった。
神山が入札を躊躇っていると、画面に突然<このオークションは終了しました>という文字が現れオークションの終了が宣言された。
森本と里村はエレベーターを降り、722号室の前に立った。
腕時計の針は、12時30分ちょうどを指した。
里村がドアをノックする。
「三浦様、お届け物がございます」里村が緊張からか、微かに声を震わせた。
返事はない。
再びノックをし、「三浦様、奥様にお届け物がございます」と、今度は力を込める様に言った。よく通る声だった。
日航ウインズホテルの地下にある駐車場に、翔子と松浦を乗せた覆面パトカーが止まっていた。
斜め右には、見慣れた赤いアルファロメオが駐車している。この車の助手席に博美を乗せ、努は新婚気取りで海外へ旅立つつもりなのだろうか。
一昨日から今日にかけて、一体どれだけの出来事が翔子の周りで起こったのだろう。親友と心を許してきた金井博美の失踪騒ぎ。生まれて初めての警察による事情聴取。インターネットに流出した実父の遺品。森本や松浦との出会い。そして恋人に限りなく近い存在だった加藤努の裏切り。
心に傷など付かなかったと言えば嘘になる。心を許してきた親友達の裏切りもそうだが、何より実父の遺品を蔑ろにされた悔しさが、彼女の傷心をより深いもにしていた。
助手席に座った翔子の体が、ピンと緊張するのが伝わった。松浦の目が翔子の視線を追いかけた。
ラルフローレンのサングラスをかけ、白い麻のジャケットを羽織った今風の若者が、エレベーターの方から近づいてくる。男は車輪付きのカートに、大きな旅行バッグを載せていた。
「加藤努です」助手席の翔子が、男を真っ直ぐ見つめて言った。
通信傍受室に一瞬静寂が訪れた。
端末に向かう捜査員の手は止まり、キーボードの忙しない音が途切れた。息を呑み、モニター画面に映し出されたインフォメーションに見入った。
<このオークションは既に終了しています>
突然、鮫島のデスクにある受話器が鳴り響いた。部下達が見守る中、強張った表情の鮫島が受話器を取る。
「いいえ、違います。こちらはまだ何も……」そこまで言うと、放心したように受話器を投げ出した。
寺島警視監は突然終了したオークションが、鮫島のサイバー攻撃の成果だと錯覚していた。当初想定していた時間より早かったことに違和感を覚えて鮫島に確認をした。
「オークションの早期終了だと?……」寺島は天井を見上げ唸るように吐き捨てた。
相手の方が一枚上手だった。天下の公安が好きなように弄ばれた事を寺島は自覚した。
世間の注目を集めたJFKテープのオークションは、出品者による早期終了で幕を閉じた。
このオークションでは、出品者は時間内に適正な価格で早期終了することができる。つまりJFKテープの出品者は、更なる値上がりを期待せず、100億円の手前でオークションを閉じてしまったのだ。
反応のない722号室の前で、森本はルームボーイに頼んで、部屋に入ることを決めた。里村に見張りをさせると、自分はフロントに向かい722号室の解錠を要請した。
ルームボーイ立ち会いの下、部屋に入った。若者のカップルには不釣り合いと思える、広く高級なインテリアで満たされた部屋に、女の姿が見えた。広いダブルベッドに横たわった全裸に近い長い髪の女。
「金井博美です。間違いありません!」里村が興奮したように叫んだ。
「し、死んでるんですか?」ルームボーイが聞いた。声同様、足下もがくがくと小刻みに揺れていた。
「いや、眠っているだけです。大量に睡眠導入剤を飲んだらしい」里村が答えた。
「飲まされたと言う方が、正解だな」部屋を見渡しながら森本が言った。
男の足が、赤いアルファロメオの前で止まった。
「一人で逃げるつもり?!」強い、決意に満ちた声だった。音は低い天井とコンクリートの壁に反射して山彦のように響いた。
サングラスに隠れた男の目が、声の主を見つけ出そうと遮二無二動き回る。
「博美はどうするつもり。置いていくの?」翔子の言葉にようやく男の視線が定まった。
「君が?どうしてここに……」
男は幽霊でも見るように、かつての女神を見つめた。
「おっと、彼女だけじゃない。50過ぎのオッさんも一緒だよ。テープ窃盗犯、覚悟しろい!」松浦が遅れて参戦した。
「あんた、誰だ?」
「警視庁科学捜査研究所、主査の松浦です。君に逮捕状が出ている。だから観念しなさい」拍子抜けしそうなほど、飄々とした言い方だった。努の唇が引きつったように捲れ上がり、「邪魔すんなよ、おっさん」と乾いた声が流れ出た。
「じゃあ、仕方ないな。逮捕します」
そう言うと松浦は、加藤の腕を取りに行った。
「松浦さん気を付けて!彼、空手やっていたから」
翔子の声より速く、加藤の回し蹴りが唸った。間一髪、蹴りは空を切るが続いて繰り出された正拳突きが、松浦の脇腹に当たった。松浦の顔が苦痛に歪んだ。加藤が若さと体力に任せて蹴りと突きの乱打を浴びせると、松浦は膝から崩れ落ちた。
勝ち誇った加藤が鼻の頭を掻いたとき、ドンと鈍い音がして車のドアに押し付けられた。サングラスが落ちて冷酷な瞳が顕わになる。堪りかねた翔子が、体ごとぶつかってきたのだ。
加藤は一変、鬼の形相になると翔子の腹に鋭い膝蹴りを入れた。翔子は腹を押さえて床に転がった。
「邪魔すんなよ」加藤は倒れた翔子に尚も蹴りを入れると、床に落ちたサングラスを拾って掛け直した。
「俺はゲームの勝者なんだ。おっと女神なんてのも、もう必要ないぜ。これからは俺自身が勝利の神だからな」勝ち誇った努の目が踞る翔子の目を捕らえた。
「私は、元々あなたの女神なんかじゃないわ。自分勝手なこと、言わないで!」
翔子の強い視線に、努は一瞬たじろぎを見せた。
「待てよ。空手やってんだって?そんな凶器振り回して、か弱い女性に暴力か。オヤジを舐めんなよ!」
ゆっくりと立ち上がった松浦が、ボクシングのファイティングポーズを取った。
「おーい、松浦」、「松浦さーん!」
その時、エレベーターの方向から森本達の声が聞こえた。
その声にもかまわず、加藤が拳を突き出した。松浦はかろうじてガードしたものの勢いに押され腰砕けになった。加藤がとどめとばかりに腕を振り上げた瞬間、姿勢を低くした松浦の頭が弾丸のように飛び出した。
「グシャ」っと鈍い音がして加藤の体が宙に浮き仰向けに落ちていった。彼愛用のサングラスは、優雅な曲線のフレームを残して見事に砕け落ちた。
「すまないな。俺はこう見えても、元相撲部なんだ」そう言った松浦も、腰から後ろに倒れ込んだ。間もなく松浦の視界が闇に包まれるようにブラックアウトした。
「おい、松浦。大丈夫か」
耳元で森本の声が響いた。暫くの間、気を失っていたらしい。森本に支えてもらって何とか起きあがると、あばらの辺りがひどく痛んだ。苦痛で顔が歪む。
少し離れたところで、里村が翔子の頬にハンカチを当てているのが見える。
「俺も、ああいうのがいいな」松浦が言った。
「頭は大丈夫だったんだな。間違いなく、いつものお前だ」森本が呆れたように答えた。
「加藤はどうした?テープは?」松浦が聞いた。
「心配するな。お前の介抱をする前に、叩き起こしてテープのありかを聞いたよ」森本が顎で示す方向を見ると、アルファロメオのサイドミラーに手錠で繋がれた加藤の姿があった。
「テープはお前の言った通り、車のダッシュボードに仕舞ってあったぜ」そう言うと、ポケットの中から金属の四角いケースを出して松浦の手に握らせた。
「物を盗んだやつの6割は、愛車の中に隠すんだ。まあ、統計上だけどな」松浦はケースの中身を確かめると、再び閉じて森本の手に戻した。
里村に付き添われて、翔子が松浦達の前にやって来た。加藤に蹴られた腹を、庇うように歩く姿が痛々しい。
「松浦さん、大丈夫ですか?」申し訳なさそうに翔子が松浦の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫、でもないか。でもオヤジだって、やるときはやるだろう?」
「そうですね。若い人より、よっぽど頼りになります」翔子がそう言うと、隣の里村が二人に申し訳なさそうに頭を下げた。
「テープは無事取り戻しました。これがそうです」森本が掌に乗せた金属ケースを見せた。翔子はそれを一瞥すると、森本の目に視線を移した。森本は掌の上で金属ケースを転がしていたが、小さく頷くとそれを翔子の前に差し出した。
「それ、森本さんにお預けします」と、翔子が言った。視線は真っ直ぐ、森本の目を見たままだ。
「申し訳ありません」唐突に里村が横から入ってくると森本に向かって深々と頭を下げた。森本が何の事やらと里村を見た。
「実は彼女、管理官の上着に入っていたブラウンのインタビューテープを聴いてしまったんです」森本は弾かれたように翔子の顔を振り返った。
昨晩、森本は翔子から預かったカセットプレーヤーの中から、ブラウンのインタビューテープを自力で取り出すことに成功した。今日の朝、森本は取りだしたテープを松浦と里村にも聴かせるつもりでいた。それをしなかったのは、里村が翔子を連れて現れたからだ。それほど衝撃的な内容を、このインタビューテープは持っていた。
「御免なさい。里村さんが車を離れた時、偶然聴いてしまいました。里村さんが戻った時、彼を問い詰めてもう一度二人でテープを聴き返したんです。そして里村さんから森本さん達のやろうとしている事を知らされました。だから今なら森本さん達のやろうとしている事に、素直に協力できそうなんです」事の重大さを理解した、その上での申し出だと森本は受け取った。
森本は翔子がこの件に首を突っ込むことを望んでいなかった。勿論それは彼女が一般市民だということもあるが、死んだ倖の面影を重ねたせいもある。
元々は彼女の友人が失踪したことから始まった。しかし事が進むにつれ、その背後にとてつもなく大きな事件が隠れている事が分かった。森本はその大きな事件の持つ様々な影響を思うと、翔子が首を突っ込む事の危険性を考えずにはいられなかったのだ。
「申し出はありがたいが、これで事件が解決した訳じゃないんだ。これから先は、何が待ち受けているか分からない。これから先は我々だけで……」と、言いかけた。
「それが、翔子さんの実家は横須賀にあるんです」里村が森本の言葉を遮った。横須賀と聞いて森本の顔が曇った。
「猿島は目と鼻の先なんです。原爆と無関係ではありません」思い詰めた目をして翔子が言った。森本は唇を噛んだ。
三人の会話を聞いていた松浦が、しきりに首を捻っている。
「おい。横須賀とか、猿島ってなんだよ。それに、何で彼女が原爆のことを知っているんだ?俺には話しが全然見えないぜ」と、会話に割って入る。その時、パトカーの音が近づいてくるのが分かった。
「その話しは後だ。こいつを先に片付けちまおう」森本が加藤を顎で指した。
駆けつけた制服警官に、手錠姿の加藤努を引き渡した。逮捕容疑は公務執行妨害と暴行傷害。翔子の書いた盗難届には、あえて触れなかった。
睡眠導入剤で今も眠りの中にいる金井博美には、救急車を用意した。こちらも公安の手が伸びている関係で、警察には預けずホテル側に対応を任せた。
病院のベッドで目を覚ましたとき、博美はどう思うのだろうか。聡明でプライドの高い彼女のことだから、事が荒立たぬよう言葉を選んで対応するだろう。そう思えることが、せめてもの救いであった。翔子と里村が、救急車に乗せられる博美の様子を複雑な表情で見送った。
パトカーが引き上げると、松浦が「加藤のやつ、随分殊勝だったじゃないか」と言った。
「ああ、まだ金を取れると思っているんだろう。下手に騒いで、それまでフイにしたくないんだろうな。あの分なら、JFKテープの事は口が裂けても喋らないだろうよ」と、森本が答えた。
「ところで加藤の奴。一体、いくら稼いだんだ?」松浦の目が好奇心で揺れた。
「100億の少し手前だ。但し、口座は凍結されるだろうがね」森本が笑顔で返した。松浦の唇は「100億」と、何度も繰り返している。
「お二人とも、これからどちらに向かうんですか?」運転席に座った里村がクラクションを鳴らした。翔子の姿も後席にある。森本と松浦は、それぞれ元座った席に乗り込んだ。
「なあ、松浦」シートベルトをしながら森本が後ろを振り返った。
「なあに?」翔子に脇腹をさすってもらいながら、松浦は嬉しそうに猫なで声を出した。
「お前さん、ワンダーホーゲル部だったんじゃないのか。いつから相撲部になった?」
「ワンダーホーゲルは高校と大学の時だ。相撲は中学の時でね。超肥満児だったんだ」その遣り取りを聞いて、翔子と里村が声を抑えて笑った。
『猿島騒動』
ここ赤坂にある在日アメリカ大使館に、在日米軍参謀長ジェームズ・オコーナーの姿があった。8時きっかりに濃紺の地味なスーツ姿で現れた彼は、応対に出たモリス副大使と挨拶を済ますと、そのまま応接室へ消えた。
応接室の中に入ると間もなく、オコーナーとモリスは起立したまま一分間の黙祷を捧げた。これはモリス副大使からの提案で、広島に原爆が投下された8時15分に合わせ、犠牲者に哀悼の意を捧げる鎮魂の儀式であった。
原爆投下に対するアメリカ人の評価は、太平洋戦争を早期に終了させる最良の方策だったということで決着している。それは戦争の早期終結という大義名分の下、二つの都市を壊滅させ、数十万に及ぶ市民を犠牲にした加害者側の勝手な言い分に違いない。モリス副大使の心情としては表向きの正当性は兎も角、犠牲になった罪もない人々に対する哀悼の意だけは示したかったのだろう。オコーナーもモリスの提案に異存はなかった。
オコーナーはブロウフィッシュの捜索とJFKテープの扱いを、モリス副大使と協議するためにやってきた。会談は午前から午後にかけて昼食を挟んで行う予定だった。12時から始まった二人だけの昼食会は、岩見内閣危機管理監に関する話題が中心になった。
「どの国家もそうであるように、日本も一枚岩ではない。互いに反目し、牽制し合う勢力の駆け引きの上に辛うじて収まっているだけだ」日本通で知られ、政治の裏側にも詳しいモリスが言った。
「岩見内閣危機管理監が属する組織なり派閥は、どういう性質のものだろう?」
「一つ言えることは、現政権の中では傍流と言うことだな。国粋主義とまでは言わないが、閉鎖的なエリート主義とでも呼ぶべきか。元来、日本は典型的な家系国家だ。血統、家、邑という極めて固定化された価値観が中心にある。能力だの個性だの自由だのは二の次という面が今でも残っている。岩見はそうした価値観の強い人間だ」モリス副大使は淡々と語った。
「岩見はブロウフィッシュの正体を知っていた」オコーナーは小声で言った。
「彼の立場ならあり得るね。彼の父は駐米大使だったし、義兄は防衛長官や官房長官を務めていた」モリスはサバサバとした口調で答えた。
「なるほど。彼が強気になるのも肯ける。ところで、彼はスタンドプレーを好むタイプの人間かね?」オコーナーは昨夜の岩見との遣り取りを思い出していた。
「いいや。彼はチームプレイに徹するタイプの人間だ。影に周りあれこれ策を練るのが得意だが、それはあくまでチームのためだ。滅私奉公という、古臭い日本的価値観の持ち主なんだよ」
モリスの岩見評に、オコーナーは小さく首を傾げた。昨晩の会談で、岩見をスタンドプレーヤーと決め付けたパウエルの真意が分からなくなった。
「ところで、日本ではゴメスの影響力はまだ強いのだろうか?」
「ゴメスの影響?ゴメスは時代に合わせて変異してきた。NATOをはじめ、中東・湾岸諸国といった軍事同盟締結国への影響力は未だ強い。ただ、さっきも話したように日本には独自の……」
モリス副大使がそれに答えようとしたとき、オコーナーの携帯が鋭く振動した。緊急事態を告げるグリーンのランプが点滅している。
「失礼」オコーナーは携帯を耳に当てると、片手でモリスの言葉を遮った。携帯を握るオコーナーの手がじっとりと汗ばむ。短い報告が終了し、オコーナーは黙って携帯のスイッチを切った。
「悪いニュースと面倒なニュースがある。どちらから先に知りたい?」オコーナーが冷めた表情で聞いた。
「どちらも良くないってことだな。それなら面倒な方から聞きたいね」モリス副大使の視線が落ち着かない。
「ブロウフィッシュが見つかった。回収する最後のチャンスだ」オコーナーは眉一つ動かさず言った。
「何てこった!俺の在任中にだと⁉」
「だから″面倒″と言ったんだ。しかし内密に成功させれば、君は″長官候補″だぞ」オコーナーは最後の言葉に力を込めた。モリスの視線がオコーナーの青い瞳の前で止まると、頬の筋肉が綻んではち切れそうな笑顔になった。
「で、悪いニュースとは?」モリスの笑顔はそのまま、目から笑いが消えた。
「JFKテープが第三者に落札された。中東の衛星テレビ局らしい」オコーナーはさらっと言ったつもりだが、それを聞いたモリス副大使の表情はみるみるうちに青ざめていった。
東京に戻る車中、松浦が翔子と森本の遣り取りについて説明を求めた。
「昨晩、斉藤さんから壊れたカセット・プレーヤーを預かった。そのプレーヤーの中に<Brown>と読めるテープがあったのさ。お前さんがあまりに忙しそうだったんで俺が自分で直したんだ。プレーヤーの方は動かなかったけど、テープは取り出せた。それが……」と、言って森本が上着のポケットを探った。
「あのー、こちらです」後席の翔子が手を伸ばして森本にテープを渡した。
「で、そのブラウンさんのテープにはどんなお唄が入ってたの?いや、お話か」松浦の言葉で森本はテープをデッキに挿入した。
「まあ、説明するより聴いた方が早いだろう」
テープが回転し車内に音が流れ出た。カチャカチャとテープを操作する音に続いて「マイクテスト」と若い男の声が聞こえた。翔子の顔が懐かしそうに綻んだ。
「ご紹介に預かりましたウォルター・ケン・ブラウンです」音声はブラウンに変わった。深みのある、重厚な響きだった。
「今日は日本の皆様に敬意を表しまして、日本語でインタビューに応えます」と、笑い声が後に続いた。
「来日の目的は」という石塚の質問に、「日本人が知らなくてはならない原爆の真相を伝えに来ました」と、ブラウンが答えた。
「広島、長崎のですか?」
「いいえ、それは二発目と三発目です。それより前の8月4日に、史上初となる原爆が日本のどこかに投下されていたのです」
少しの間、空白があって「そ、それは本当ですか⁉」と、石塚の取り乱したような声が続いた。
「本当です。裏付ける関係者の証言や資料もあります」
「それらをお持ちなんですか?」
「はい。持参して来ました」
「それはどんな物ですか?」
「作戦任務に当たった搭乗員の証言。これはビデオカメラに収録してあります。そして当時の作戦記録。トルーマン大統領の署名付き作戦指令書もあります」
「でも、その原爆は爆発しなかったのですね?」
「その通りです。そのため、広島と長崎に落としました。しかし、今も不発核は、ある場所に眠ったままなのです」
「不発核…ですか?とても、信じられません…」
「そうでしょう、しかし事実なのです」
「実はこの日本でも、広島と長崎よりも前に原爆が落とされていたと主張する人物がいるのです」石塚の声が興奮のため早口になった。
暫く沈黙があって「説明して下さい」という、重厚で落ち着きのある声が続いた。
「それは自ら長崎での被爆体験を持つ大学教授の話です。彼の主張によると、広島と長崎で使われた二種類の原爆は、使用された順番に矛盾があるというのです。私は専門家ではないので詳しく分かりませんが、核兵器としての完成度が高かったファットマン型より、性能の劣るリトルボーイ型が優先されたのは理に合わないというのです」
「それは面白い。続けてください」ブラウンの声には促すような躍動感があった。
「もしも日本が、広島の原爆を受けて降伏していたら、それは充分あり得たことですが、アメリカは本命であるファットマン型原爆の使用機会を失ったから、というのです。科学に疎い私には、今ひとつ上手に説明できないんですけど…」
「いやいや。私には充分伝わりましたよ。実際にアメリカは、原爆の威力を日本や世界に見せつける必要がありました。核爆弾一発で、人口数十万の都市を壊滅させる、それを証明することが目的だった。しかし降伏した相手に、尚も追加の原爆を落としたとなれば、大量殺戮や無差別殺人という非人道行為として、厳しい批判や追求を受けかねなかった。だからこそ、本命が持つポテンシャルを確認するために、ファットマン型原爆から先に使用したはずだと、そういうことでしょう?」
「そうなんですそうなんです」石塚の安堵するような声が続く。
「正しい洞察力だと思います。確かに、アメリカにとって原爆の本命はファットマン型原爆でした。ひとつ補足するなら、ファットマン型はウラン核に対しても有効な技術だったことです」
「それは、つまり……」石塚の声が助けを求めるように後を引いた。
「端的に言えば、あの丸っこいフグのような姿形の中に、プルトニウムに替えてウランも使えたということです。しかもその場合、リトルボーイに換算すれば5~10個の原爆が造れた。ファットマンベースの原爆はそれだけ効率良かったのです」ブラウンの解説によれば、貴重な高濃縮ウランを非効率なリトルボーイで無駄使いするより、高効率なファットマン型に転換することをアメリカは望んでいたことになる。
「それでは、リトルボーイはファットマンが失敗した時のピンチヒッターだった?」
「そうです。トリニティ実験の成功で、マンハッタン計画の中心人物達は、リトルボーイが使われず、貴重な高濃縮ウランが戻ってくることを心待ちしたはずです」
「納得できる話しです。原爆投下順位の矛盾を指摘した人物にも、是非会って下さい」
「勿論、喜んで。その方の推理は不発核の傍証にもなるでしょうから」
「ところで、何故アメリカは不発核の存在をこれまで公表しなかったのですか?」
「そこです。一番の理由は落とした原爆が見つからなかった事です。戦後GHQは極秘裏に不発弾探しを行いました。不発になった原爆が日本の何処かに落ちている、そんなことが知れたら、ようやく治安や経済が回復しつつあった日本は再び大混乱になる。何より、そんな状況を作りだしたアメリカに非難が集中してしまう。結局、GHQとアメリカは原爆が見つからない場合、黙殺することを選びました」
「そんな、身勝手な!現代の日本は首都東京だけでも一千万を超える人々が暮らしています。それなのに原爆は放置されたままなのですか?それこそ非人道ではありませんか?」石塚の鋭い質問が飛んだ。
「勿論、アメリカにも良心がなかった訳ではありません。むしろ命がけで公表しようとした人間もいました」
「それは誰ですか?」
「ジョン・F・ケネディです」ブラウンの声はそこで強くなった。
「ケネディ大統領ですって?」驚いた石塚の声でテープが歪んだ。
「驚かれるのも無理はないでしょう。しかし本当なのです。彼は東京オリンピックまでに原爆を探し出し、廃棄するつもりでした。私はそれをクリスマスの夜、大統領声明として全世界に衛星生中継する事を提案しました。私はスピーチを書き上げ、大統領はそれを読み上げました」
「それを記録したテープをお持ちなのですね?」
「その通りです」
「ケネディ大統領の暗殺は、そのテープと関係がありますか?」
「良い質問です。ケネディ暗殺に纏わる解釈は様々ですが私は不発核の暴露こそ、暗殺へ繋がる最大の要因だったと考えています。何故なら、不発核の公表はアメリカの核戦略、パックス・アメリカーナを根底から見直す契機になったからです。何より、アメリカの正義そのものが揺らいでしまいます」
「アメリカの面子ですか?」
「それもあります。アメリカが力を行使できるのは正義があるからです。このテープに記録されたケネディのスピーチを聴けば、誰もが正義はアメリカにあるのではなく、ケネディにあると疑わないでしょう。しかし最も大きな理由はある連中を怒らせたことです」
「ある連中?その連中とは誰ですか?マフィア?CIA?」
「マフィアやCIAというのは矮小化された表現です。もっと大きくて強い力がありました。トルーマン大統領が作り上げた、軍事・経済・科学を政府が商品化するしくみです。私達はこのしくみをゴメスと呼びました」
「ゴメス、ですか?」
「単なる呼び名ですが上手く実態を表現したと思いますよ。ゴメスは、 Government Ordnance Monetary Energy Zealot(ガバメント・オードナンス・マネタリー・エナジー・ゼロット) の頭文字から取りました。日本語に訳すと”政府・兵器・金融・エネルギーに群がる狂信者”という感じでしょうか」
「軍産複合体、とは違うのですか?」
「アイゼンハワーが、自己の退任演説で使ったMilitary-Industrial Complexとは近い概念だと思います」
「近い概念、違いは何ですか?」
「説明すると、とても長くなりますので簡略化して話します」
「了解しました。続けてください」
「そもそもは、やはりマンハッタン計画が始まりでした。核開発と原爆製造がもたらした政治・軍事・金融・エネルギー産業を一体にしたタスクフォース、それがゴメスの出発点です」
「タスクフォース?日本語的には臨時チームという意味になりますね」
「そうですね。固定化されない、しかし緊急性や重要度の高い事案に対して、最高峰の人材が集められ最高の結果を出す。別名があるならドリームチームでしょう」
「確かに、マンハッタンプロジェクトはドリームチームでした」
「そうです。ドリームチームは従来の概念を覆すパラダイムシフトを実現しました。このタスクの中心にはテクノロジーがありました。19世紀の蒸気機関とダイナマイトに代わる原子力発電と原子爆弾の発明です。これらを支援するため、金融や政府も力を注ぎました。原爆開発は戦争と軍隊の再構築をもたらしました。法律だって変えたのです」
「法律ですか?」
「はい。アメリカの原子力法がそれです。軍隊の再構築はペンタゴンを見れば明らかです。CIAやNSAの登場もトルーマンが主導したのです。もしゴメスの正体を問われたなら”融通無碍”というのが最も適切かもしれません」
「難解ですね。マンハッタン計画以外、彼らの仕事にはどんなものがありますか?」
「NATO」
「NATO?北大西洋条約機構のことですか?」
「そうです。1949年に発足したNATOは、当初外交条約にすぎませんでした。それが朝鮮戦争を契機に強大な軍事機構へと変貌したのです。既に核保有国となっていたソ連の軍事的脅威に、西側諸国は危機感を募らせていた時期でした。世界大戦と、その後巻き起こった植民地の独立によって、ヨーロッパ諸国は深刻な経済ダメージに喘いでいました。戦勝国であるイギリスやフランスでさえ例外ではなかったのです」
「パックス・アメリカーナの登場ですね」
「その通りです。疲弊したヨーロッパに対し、戦地にならなかったアメリカは、食料・穀物、石油や天然資源、自動車・船舶・航空機などの工業製品に加え、軍事兵器の供給までも可能にする西側唯一の超大国になっていました。朝鮮戦争が始まると、米国は国防予算を従来の数倍に跳ね上げました。膨大な軍事費が、最先端のジェット戦闘機やミサイル、世界初の原子力潜水艦建造に注ぎ込まれたのです」
「それらはアメリカ国内だけでなく、NATOにも使われたのですね?」
「NATOはヨーロッパを包括するといっても過言ではない。米国の兵器体系をNATO加盟国にまで浸透させる。つまり米国兵器の継続的な受注を生む仕組みとして説明できます。これは欧州の防衛力を高めると同時に、米国の国内産業を潤し、米国の技術・部品に依存する強固な軍事協力体制をNATO内に定着させました」
「それを推進・実現させたのがゴメスなのですか?」
「そうです。この軍事機構に格上げされたNATOこそ、ゴメスというタスクフォースが達成した二番目の成果でした」
「そうなると、その次もあるのですか?」
「はい。1970年代の”ニクソン政権”下でのことです。想像できますか?」かつて、ケネディと大統領の座を巡ってライバル関係にあったニクソンの名を出すとき、ブラウンの声に皮肉っぽい響きが加わった。
「ニクソンショックのことですか?ドルと金の交換を止めた……」
「そうです。ニクソン政権下、アメリカは保有する金の枯渇が明白となり、プレトン・ウッズ体制を放棄しました。固定相場制が崩れ変動相場制に代わる中、結果的にドルは下落し、中東発のオイルショックを引き起こします」
「はい。よく覚えています。原油決済はドル建てで行われていたため、ドル価値が下がったことで産油国が得る利益も大幅に減った。そこへ来て、イスラエルとの第4次中東戦争まで重なり、原油価格の暴騰と、イスラエル支援国に対する輸出規制にまで及びました。ただ、これがどうしてゴメスと関わってくるのですか?」
「はい、それを説明します。アメリカはこのピンチをチャンスに変えてしまいます。第三のタスクフォースです。中東情勢は地政学的にも不安定で、サウジアラビアやクウェート、UAE、カタールなどの王政国家は体制維持や安全保障に悩まされていました。先陣を切ったのはサウジアラビアで、王室体制と国の安全保障をアメリカが担い、その代償として原油取引をドルに限定すると同時に、それで稼いだドルを米国債に投資してアメリカに還流させる、という”合意”を結びます。先陣と言ったのは、この合意は他の王政国家も巻き込んで、原油取引のドル建て決済は”OPEC全体の合意”となります。つまり、金本位制から石油本位制(ペトロダラー)への移行を実現したのです」
「凄いスケールです。マンハッタン計画に端を発した勢力が、現在は中東諸国まで影響下に置いているわけです。そんな連中がケネディ暗殺を決めた理由は、不発核の公表だったのですか?」
「そうです。ケネディは本気で核廃絶とゴメスの解体を目指していました。クリスマス・スピーチはその宣戦布告だったのです」
「疑問があります。冒頭の続きになりますが、不発核は、その所在が不明なんですよね?ケネディは探し出す前に暗殺されてしまった……」
「そういうくだりでしたね。そもそもブロウフィッシュの爆撃目標が何処だったのか、そこから始めましょう。当初の爆撃目標は横須賀でした」
「えっ、横須賀⁉本当ですか?」石塚の声が上ずった。
「終戦後、不都合な真実は辻褄の合わない物語で書き換えられました」
「待ってください!横須賀は原爆リストから外されていましたよね?戦後アメリカ軍による再利用を睨み、敢えて温存されたと。違いますか?」
「違います。原爆投下の目標選定で重要だったのは、空爆などにより市街地の大半が破壊されていないことでした。そのため横須賀は大規模爆撃から除外された数少ない重要拠点だったのです」
「いや、それはどうかな?…」短い沈黙の間、何かを捲る音が聞こえた。
「ありました。横須賀空襲、昭和20年7月18日。米英軍500機からなる横須賀市への攻撃が行われ、横浜大空襲に匹敵する大規模な航空攻撃だった、とありますね」石塚の声は力強かった。
「それはメモのようですが?」
「ええ。戦艦長門をご存じだと思いますが、この日本を代表する戦艦長門の特集番組を担当したことがありました。当時長門は横須賀港に停泊中で、横須賀空襲の標的にもなりました。その時の取材メモです」
「なるほど。では、そこに連合軍側の被害は記されていますか?」
「連合軍側の被害ですか?」またしてもページを捲る音が続いた。
「ああ、ありますね。米英軍の被害。喪失14機、死者18名。これが何か?」
「では日本側の犠牲者は?」
「は、はい。軍関係は60名余りが死亡、民間人は死者20名、負傷数十名とありますね。あれ?」石塚の声に明らかな動揺が広がった。
「横浜大空襲の民間人死者は八千から一万人です。被災者は三十万を超しています。対する横須賀は数十人です。これは横浜への攻撃がB29中心の夜間無差別空襲だったのに対し、横須賀は戦闘機を中心とした対空施設や高角砲陣地を目標にした”敵防空網制圧任務”だったからです。横浜や川崎と違い、民家やインフラが目的ではありませんでした。寧ろそこはアンタッチャブルだったのです」
「アンタッチャブル⁉では、横須賀空襲の実態は都市破壊ではなかったと」
「そうです。今回、昭和20年8月の原爆投下前における被災面積の比較データーを持ってきました。これによると広島と長崎は、ほぼ0K㎡。横須賀は対空施設や高角砲陣地が被災したため僅か0.13K㎡です。これは護衛機を持たず、白昼3機程度の小編隊で爆撃する原爆投下部隊にとって、対空火器の無力化は必須条件だったからです。理由は、横須賀が第一目標だったから……」
「そうなのですね。ご指摘ありがとうございます。ブラウンさんの視点から改めて検証したいと思います」
「話を続けます。B29の搭乗員から得た情報では、この日、横須賀上空の対空砲火は熾烈を極めたそうです。本土決戦を前に日本軍の対空兵器も性能を上げていました。VT信管のような高度な技術は完成していなかったものの、速射性や精度を限界まで向上させていたのです。爆撃機は、視界を塞ぐ無数の弾幕と、至近距離で発生する爆圧で機体が安定しないまま、ブロウフィッシュの投下が実行されました。原爆は目標の海軍工廠を大きく外れ、東京湾へと吸い込まれたそうです」
「東京湾、ですか…」
「ですから、占領軍が横須賀を接収したのは至極当然の成り行きだったのです。その後もアメリカは在日米軍を使って、ブロウフィッシュの捜索を続けました。しかしケネディが暗殺されてから、その動きは止まってしまった。今日までの22年間、在日米軍はあろうことかブロウフィッシュの秘密を守り抜く守護神になってしまったのです」
「何ということだ!信じられません」
「返す言葉が見つかりません。ただ…」ブラウンが言葉を詰まらせた。
「ただ?ただ、なんです?」石塚の言葉に咎めるような厳しさがあった。
「ブロウフィッシュが水しぶきに隠れた時、その近くに小島が見えたそうです。その後の調査で、その小島の名前が分かりました」
「小島?その島の名前は?」
「モンキーアイランド」
「猿、島ですか?」
「そうです。その島から数キロメートルの範囲にブロウフィッシュは落ちました」
「でも、落ちた場所の特定はできなかったと……」
「はい。8月30日、米軍は横須賀上陸と同時に日本軍施設を接収しました。この時、猿島も接収されたのです。時間を置かずブロウフィッシュの捜索が行われました。しかし当初の予想とは異なり、不発核の捜索は難航しました。先ず、既に東京湾は日米両軍によって機雷原となっていました。通常の不発弾も多く、捜索チームに被害が続出したのです。そして時が経つにつれ、ブロウフィッシュの発見と回収は、増々困難になったのです」
「時は味方にならなかった?」
「そうです。時間と共に日本経済は回復し、短時間の内に戦前を超える程に成長していました。その復興に大きな影響を与えたのが、他でもない東京湾と浦賀水道です。浦賀水道は日本の大動脈。ブロウフィッシュの発見とサルベージには、少なくとも数週間閉鎖する必要がありました。もしもそうなれば、日本の経済損失は天文学的なものになったでしょう。それに日本政府と東京・神奈川・千葉といった近隣自治体の協力も必要でした。しかしアメリカの立場は逆です。従来通り、何事もなかったように時が過ぎるのを待ちたかった。将来的に探索システムやサルベージ技術が進歩し、アメリカだけの力で回収すれば良い。誰にも知られずにね。そんな風な考え方が主流になったのです」
「随分と身勝手な話だと思います。ところで日本政府に不発核の存在は伝えられなかったのですか?」
「結論から言えば、イエスです。ケネディ政権発足後、猿島の管轄権は在日米軍から日本の大蔵省へ移管されました。ゴメスの影響から切り離すためです。それでも不発核については非公開でした。あくまでクリスマス・スピーチの直前まで、伏せておく計画だったのです」
「結果的に不発核の存在は知らされることもなく、捜索も中途半端なままです。どうでしょう、今年で終戦40年を迎えます。現代の技術なら発見と回収は可能でしょうか?」
「はい。私はそう思います。かつてケネディが話したように、問題は″隠したい″と願う心です。そこを改めることが解決の近道なのです」
「分かりました。大変なお話でした。ミスター・ブラウン。貴方がこうして告白してくれたことを、心より感謝致します。我々はこの貴重な情報を決して無駄にしません。ケネディの願いを必ず届けますよ」石塚の力強い決意を示した後でテープは終わっていた。
森本がテープを止めると、車内に大きな溜め息が広がった。これまで謎だったブラウンの目的と、石塚というジャーナリストの接点が浮き彫りになった。22年も前、ブラウンと石塚はケネディの意志を継ぐように、不発核の存在とゴメスの告発に踏み切ろうとしていたのだ。
「たまげたな。これが、JFKテープの種明かしというわけか。もの凄いスクープじゃないか」松浦が感慨深そうに言った。
「ブラウンが日本に来た目的もこれで分かった。当初は、それすら謎だった」森本が吹っ切れたように言う。
「ちょっと待て、一旦整理させてくれ」松浦は両手を広げると、それを自分のコメカミに持って行った。
「つまり、発端は太平洋戦争時の原爆だった。アメリカさんが最初に落とした原爆は不発弾だった上に、落とした場所まで見失ったわけだ。内緒でこそこそ探したけど、なんと機雷原のせいで遅々として進まなくなった。ま、自業自得ってやつだな」
「松浦さん、相手は原爆ですよ。放射能も出してるんですよ。見つからない訳ないですよ」口を尖らせて里村が言った。それを受けて森本が「なあ科捜研。未来の総監があんな風に言ってるぞ。俺も同感なんだが、言い返す気ないのか?」と突っ込んだ。
「二人とも、お言葉ですが、そう言うのを世間では″素人考え″と言うんです。無知ですよお二人さん」松浦も剥きになって反論した。
「無知?無知ときたか。じゃあ、しっかり詳しく説明してくれ」そう言うと森本は、ポケットを探って煙草の箱を引っぱり出した。
「そもそも東京湾の海底は、場所ごとで地質も地形も全く違っている。湾の中央から北に当たる横浜・川崎・東京・千葉に囲まれた内湾は、粘土や泥、砂のように細かいシルトが堆積した、平坦で軟弱な地層が広がっている。それを囲む港湾周辺は、埋め立てや、浚渫や、河川から流れ出た汚水で、ヘドロが堆積した汚泥層だ。ここらに落っこちていれば、サイド・スキャン・ソナーや磁気センサーで発見することは容易だろう。問題は東京湾の南側、横須賀と君津を結ぶラインの南側だ。ここは一転して、複雑で起伏の大きい岩盤層になる。中央部は南北に浦賀水道が走り、水深も30メートルを超え、100メートルに達する所もある。何が面倒臭いかって言うと、この辺は沈没船やら、撃墜された戦闘機やら、廃棄自動車、鉄くずやスクラップ、鉄筋コンクリートの廃材、崩落して沈んだ廃墟、こんな超粗大ごみで溢れてるんだわ。更に特徴的なのは観音崎より南の外海だ。この湾の出入り口を越した所に、水深500メートルを超す海底谷がある。面倒臭いだろう?」松浦が手を伸ばして森本の煙草を奪い取った。森本も里村も″それが何か?″というように眉一つ動かさない。
「鈍いんだなぁ、これが。あのね、こういうコンクリートや鉄くずの中に、不発弾とかが混じっちゃうと、最新のサイド・スキャン・ソナーでも区別できないんだよ」松浦は煙草を一本抜き出すと、それを口に咥えた。
「放射能は、放射能測れば分かるだろう?」森本が百円ライターを松浦に押し付ける。
「何言ってんのさ。水はプルトニウムが出すアルファ線やガンマ線を遮蔽するんだ。水深10メートルもあれば、ほぼ完璧にブロックされちまう。それに昔とはいえ原爆なんだぜ。核シールドはされているとみるのが筋だ。放射線測定器でも反応しないね。目と鼻の先まで近づけてもな。お分かり?」松浦が自分側の窓を薄く開けると、咥えた煙草に火を着けた。
「なるほどね。アメリカさんもお手上げだったって訳か…」森本の表情はゲンナリとなった。″流石松浦″と労う気すら起こらない、それは里村も同じようだった。
「松浦さん、凄く詳しいんですね」後席の翔子が重い口を開いた。
「確かに。俺や里村には無い取り柄だ」森本が素直に同意した。
「まあ、ブラウンさんが言っていたように、日米が協力して大ローラー作戦をかますしかないだろうな」煙を窓の隙間に吐き出しながら松浦が言った。
「大ローラー作戦て?どんな作戦ですか?」翔子が不安そうに尋ねる。
「海底を片っ端から覗いていくんだよ。こういうのは人間の目で確かめていくのが一番だ。水深が60メートルを超えるようになると流石にきついから、水中カメラとマジックハンドの付いたROVという深海用探査機(ロボット)を使ってもいい。最初は猿島周辺から始めるようになるかな」そう言うと松浦は車の窓を閉じた。
「ところで、あれって、本当に事故だったんですかね?ゴメスとかいう連中の……」
里村が言いかけたとき後ろから松浦の手が飛んだ。里村が頭を押さえた。
「お前は。また物騒なこと言うもんじゃないよ。空気を読みなさい」
里村の言葉に翔子の表情に翳りが差した。
123便事故に関しては、22年経った今でも様々な原因が論じられている。その中にはテロによる爆破説や自衛隊による撃墜説まであり、関係者や遺族を悩ませてきた。
森本や松浦も関係者の一員として、事故の解明に当たってきた。しかし事故後の対応に意図的な隠蔽や改ざんがあったことは否定できないが、事故そのものの原因に陰謀めいた関与があったとは考え難いと思っている。
「如何にゴメスという連中がJFKテープを欲しがったとしても、飛行中の民間機を落とす必要はないだろう。連中が関与したとすれば事故の後だよ。寧ろ、そう考える方が合理的だ。そうだろう松浦?」と、森本が言った。
「その通りだ。ブラウンが持ち込んだJFKテープが、墜落現場から発見されるのを恐れる連中がいた。まあ、それがゴメスってことになるのかな。あれっ?て、ことは森本に監視を頼んだ岩見や、例のオコーナーってやつもゴメスの一味ってことになるぞ。日米のゴメスが牽制し合った?」松浦が混乱を隠すように両手でコメカミを押さえた。
「元締めが一つなら一つの物を奪い合うようなことはしない。ゴメス以外にもJFKテープを欲しがっていた連中がいたって事だ。何もゴメスに限定しなくたって、アメリカ政府自身が抑えにかかったとしても不思議はない。日本政府にしてみれば対米交渉の切り札として様々な使い方が出来るしな。俺や倖は公安側の人間として、オコーナーは恐らくCIAかFBIとして、それぞれがブラウンとJFKテープを追いかけていた。123便が墜落してからは御巣鷹が争奪戦の舞台になったんだ」森本が後ろの松浦を振り向いた。
「アメリカ側でも、追っていた人がいたんですか?」翔子が訊いた。
「うん、まあ。オコーナーっていう人がね……」松浦の言葉が歯切れ悪く返った。隣で翔子が小さく″オコーナー″と復唱した。
「ゴメスは今回の騒動、どう思っているんですかね?」里村が訊いた。
「ゴメス自ら動くことはないだろう。22年前のようにCIAやFBI、或いは在日米軍が動いているはずだ」森本が里村の方を向いた。
「つまり、ゴメスより在日米軍の方が心配って訳だな?」と、松浦が言った。
「ああ。ゴメスとアメリカ政府は表裏一体だ。担当を一つに絞らなければ現場は混乱する。オコーナーがいる以上、俺達は在日米軍を警戒すればいい」森本が一旦話を纏めに掛かった。自分や倖が巻き込まれた背景について考えを及ぼすと、腹の底がズシンと重たくなる。
「管理官、この後どうしますか?松浦さんのトリビアを聞いて、我々では手に負えないことが理解できましたから」運転席の里村が言った。
「おお、ようやく納得したか。ここから先は管理官と里中でやれば。警察官としてさ。俺と翔子さんは降りるってことで」松浦が顔を運転席に突き出し言った。
「私は降りないわ」翔子が松浦に厳しい一瞥をくれた。
「えっ、なんで?」驚いた松浦が二度見する。
「翔子さんの実家は横須賀なんだ。気が気じゃないだろう」森本が言う。松浦は座席に力なく撃沈していった。
「それなら上に報告しますか?このインタビューテープとJFKテープを証拠品として提出すれば、政府も動かざるを得ないでしょう」と、里村が答えた。
「それも、そうだな。それなら政府を強請らなくても済む。まあ、俺としては強請ってみたかったけどな」そう言うと松浦が詰まらなそうに欠伸をした。隣で翔子が怪訝そうな顔つきをした。
「少し待って下さい。その場合、今まで隠されてきた事実はどうなるの?原爆が見つかって掘り出されたら、それでお仕舞い?」翔子が不安そうに訊いた。
「里村の言うように、テープを付けて上に報告すれば彼女の心配する通りになるだろうな。相手が政府だろうが警察だろうが、今まで隠されてきたことをきちんと公開するなんてあり得ない。何事もなかったように済ませるさ」元公安の森本が断言した。
「それでは駄目よ。それこそ命懸けで闘ってきた人はどうなるの?ケネディも、ブラウンも、父も……みんな浮かばれないわ」
翔子の中で、堪えていた何かが切れた。その感情の高まりを抑えるように里村が話しかけた。
「その気持ちは分かります。でも、そのテープが公開された後のことを想像して下さい。日本とアメリカの間に、亀裂が入ることは間違いありません。それも政府間の対立だけじゃない。国民感情として収まらないでしょう。日本人の心に反米感情が膨れ上がる。日米安保なんて消し飛んでしまうでしょう。アメリカの傷手は最も深刻だ。同盟国に対する裏切りばかりでなく、その過ちを償おうとした自国の大統領ですら暗殺した。アメリカの威信や正義なんて地に落ちますよ。ゴメスの存在がその影にあると知れれば、アメリカ中心の軍事同盟も見直され解体にまで進むかも知れない。確実にアメリカは袋叩きです」そんな風になっても構わないのか、と言いたげに里村は言葉を切った。
「パニックは、起こらないよなあ」と、松浦が独り言のように呟いた。
「テープの中でブラウンが話した通り、猿島から原爆が回収されればパニックは回避できるだろう」森本が答えた。
「だったら、里村が言うようにテープは公開しなくても……」松浦が言い掛けたとき、隣の翔子が鋭い視線を向けた。松浦は口に手を当てて欠伸をする振りをした。
「どうして?どうしてそんな事を心配するの?これまで日本が62年間も原爆の事を知らされないで来たのは事実なのよ。仮にたった今、原爆が爆発したらどうなるの?今まで何事もなく来たから、そんな脳天気なことが言えるのよ。日米安保だの、アメリカの威信だの、危険な目に遭わされ続けたのは日本人よ。日本人はその事実を知る権利があるし、私達には知らしめる責任があるの。世界のボスであるアメリカが信頼を失えば、世界秩序が揺らぐなんて誰が決めること?ゴメスとか言う連中?それとも政府の偉い人?在日米軍の司令官?違うわ。私達一人一人、国民が判断する事よ。その国民が本当のことを知らなくて何が判断できるの?」
一介の女子大生が、大の警官三人を前に力説した。小利口な事なかれ主義に浸る寸前の里村は、恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。松浦は欠伸で誤魔化そうとしたが、息を吸うタイミングを誤ったのか「ゴホッゴホッ」と咽返っている。
勝負あった、という感じの空気が車内を満たしていった。森本の胸は清々しい空気で一杯になった。
「如何なる犠牲、如何なる危険を伴おうとも、全ての危険の中で最も大きな危険は何もしないということである」森本のシルキーボイスが響いた。それはケネディの名言の一つだった。
「やるなあ。俺も、同、感、だ。それ、に、比べ、里村は、よ。情けない」咽るのと喋るので松浦の言葉が途切れる。運転席の里村が半分首を傾げながらもその首を縦に振った。
「翔子さんの言葉通りだが、実際そう行動しようとするのは簡単じゃない。現にアメリカ大統領だって暗殺されているからな。行き当たりバッタリには行かない」助手席の森本が言った。
日米両政府の立場よりも今は仲間の安全に気持ちが向いている。こんな気持ちは久々だと、森本は照れ臭くなった。
「作戦、あるん、だろう?」松浦が訊いた。
「先ずは、東京湾から原爆を見つけることだな。正確な位置情報が必要だ。それを確認したらJFKテープを公表しよう」森本が答えた。
「原爆はどうやって引き揚げるんだよ。爆処理に知り合いはいないぞ」
「いや、相手は原爆だ。警察だけじゃ無理がある。ここは最初の作戦通り行こう。JFKテープを餌に政府と交渉する」
「なるほど。応じなければJFKテープをマスコミに公開するって、政府を強請るんだな」
「強請るんですか?」松浦の言葉に翔子が眉を寄せた。
「違いますってば。あくまで交渉ですよ。松浦さん。物騒な言葉使わないで下さい」里村が慌てて訂正した。松浦は面倒臭いとばかりに大きな欠伸をした。
「それで、政府が交渉に応じて原爆を引き揚げても、テープは公開するの?」と翔子が訊く。
「勿論。原爆を見つけて掘り出すのは政府の責務だ。責務を果たせば御褒美が貰えるほど世間は甘くない。そろそろ政府もそんな当り前のことに気付くべきだ」と森本が答えた。翔子が大きく頷いた。
「まあ、作戦は森本管理官に任せるよ。みんな、それで異存ないだろう?」松浦が欠伸の余韻を楽しむように今にもくっつきそうな目蓋を擦った。
運転席の里村が「了解」と大きく声を張った。翔子は小さく微笑むと、「私も森本さんにお任せします」と言った。
車のスピードがゆっくりと上がった。窓の外を流れる町並みは長閑で平和そのものだ。それを象徴するように、松浦の大きな寝息が聞えてきた。隣で翔子が「戦士の休息よ」と、松浦の頭を自分の肩に乗せた。
森本は羨ましそうにその様子を見ると、赤色灯を屋根の上に載せた。サイレンの唸りに合わせるように車は速度をぐんと上げた。
参謀長室に戻ってきたオコーナーに、パウエルがモデル1561と猿島の一件を報告した。1561とファットマンを結びつけたお手柄のジョンストンと、トライの猿島捜索を突き止めたスミス少尉も同席していた。
「灯台下暗しとは、巧く言ったものだ」オコーナーが滑らかな日本語で話した。パウエルは可能な限りの渋面を作ると「随分日本の諺に詳しくなりましたね。それに思いの外上手に喋る」と、当て付けのように言った。日本語の分からないジョンストンとスミスはキョトンとしている。オコーナーはそれに答えず参謀長室の窓から東京湾を眺めていた。
モデル1561とは、第二次大戦末期にアメリカが開発と実用化に成功したプルトニュウム型原爆ファットマンのコードネーム(開発名)である。
モデル1561は直径153センチ、長さ326センチ、重量4647キロという巨大な爆弾だ。そのモデル1561がその破壊力を知らしめたのは1945年8月9日の長崎においてである。
モデル1561の威力は22キロトンで、TNT火薬に換算して22,000トン分の破壊力を持つといわれる。広島に投下されたウラン型原爆リトルボーイの15キロトンを遙かに上回るエネルギーと破壊力であった。
太平洋戦争末期、1945年3月の東京大空襲に用いられた焼夷弾と通常爆弾の総量は1700トンあまり。つまりモデル1561が炸裂した場合、東京大空襲の13倍ものエネルギーと破壊力が一瞬にして放出することになる。
これが全方位警備システムの関連子会社トライによって発見されたものの、回収に失敗したとなれば不幸中の幸いだったと言えるだろう。そしてモデル1561を狙うテロ組織とは、ブラック・オイル、全方位警備システム、株式会社トライゾーンと繋がる企業群の中にある事は間違いない。それはこれまで追ってきたロバート・キムの捜査線上からも疑いようのない事だった。
「差し迫った問題は、モデル1561をどう処理するかだ」オコーナーは一同を見回し言った。
「司令官。連中は、必ずブロウフィッシュの回収に来ます。そこを待ち伏せて、一気にブロウフィッシュとテログループを捕まえたら如何でしょう。何せ62年前の古い原爆です。不発になった原因は起爆用電源の電力不足でしたが、もう一度原爆として使うには分解してメンテナンスしなければなりません。それ相応の技術と設備が必要です。その点、全方位警備システムなら核を扱う人材が揃っています。連中は引き揚げたブロウフィッシュを一旦猿島でメンテナンスするつもりではないでしょうか。今から24時間態勢で見張り、連中がブロウフィッシュを回収したところで一気に取り押さえるのです」数少ない司令官との同席にスミス少尉は自信を漲らせ力説した。
「いや、ブロウフィッシュの回収は一刻の猶予もできません。テロ犯が新たな目標のために原爆をメンテナンスするとは限りません。ブロウフィッシュが不発になった理由はスミス少尉の言うように起電力不足でしたが、逆に言えば、それだけの電力があれば起爆しても不思議ではありません。何よりテロリストの目的が、この横須賀の外という保証はどこにもないのです。仮に連中の狙いが、我々の海軍基地も含むものだとしたらどうでしょう?」パウエルが異論を唱えた。
「ここが、テロの目標だというのですか?」スミス少尉は思わず聞き返した。ジョンストンの視線も落着きなく窓の外を窺っている。
確かに、言われてみればこの横須賀海軍施設は核テロの標的には格好の場所ではないか。ここは在日米海軍の司令部だけでなく、世界に冠たるアメリカ第七艦隊の事実上の母港でもある。数キロ圏内には海上自衛隊横須賀地方総監部や自衛艦隊司令部もあるのだから。
つまりこの基地内に限定することなく、近くの海上、或いは沿岸、そして地上であっても、22キロトンの破壊力を持つ原爆であれば、第七艦隊と日本の海上防衛の中枢に甚大なダメージを与えることが出来るのだ。
オコーナーは二人の部下を見据えると、「原爆の威力は海中でこそ真価を発揮する」と言った。ジョンストンは大きく両手を挙げてそうなったら打つ手無しという風にジェスチャーを示した。
猿島のある位置は、この司令部がある横須賀海軍施設とは直線で1.7キロの距離にある。トライの通信文には″猿島東方沖約2キロ、浦賀水道航路近くで1561を発見″と記されていた。この地点は横須賀基地からは直線で4キロになる。近くの目標物は既に解体された″第三海堡跡″だ。ここが爆心地になった場合、想像を超す被害が想定された。
長崎の場合、爆心地は地上500メートルだったが、これを水深50メートルとみなさなければならない。上空と海中では爆発の影響は全く異なる。長崎への原爆投下から1年後、アメリカはビキニ環礁で同じファットマン型の水中核実験”ベーカー(水深27メートル、21キロトン)″を実行した。その際のデーターをオコーナー達は参考にした。
結論から言えば、水中核爆発は熱線による直接の火災こそ抑えられるものの、「津波に匹敵する巨大な水柱」「あらゆる船舶を破壊する水中衝撃波」そして最悪の「放射性の霧(ベースサージ)」により、東京湾とその沿岸を地獄に変える程の破壊力を持つことが分かった。
水は空気よりも衝撃波を格段に伝え易いため、周囲数キロメートルの船舶は爆風ではなく″底からの強烈な水圧(水撃作用)″によって船底を叩き割られ、一瞬で大破・沈没する。
爆発の瞬間、直径約600メートル、高さ数千メートルに達する巨大な水の筒(水柱)が海面から突き抜ける。この水柱だけで数百万トンもの海水が巻き上がり、崩れ落ちた海水は周囲に″数十メートル級の巨大な津波″を起こし、横須賀、横浜、川崎、房総半島(館山)の沿岸部を直撃して港湾施設を壊滅させる。
崩れ落ちた水柱の根元から、放射性物質を大量に含んだ超高速の″放射性の霧(ベースサージ)″が、津波を追い越すスピードで海面を這うように広がる。この霧を浴びた半径数キロ~十数キロの船舶の乗組員や沿岸の住民は、熱線で焼かれることはなくても、逃げる間もなく致命的な初期放射線を浴びることになる。
更に恐ろしいのは、上空に舞い上がった膨大な水蒸気が、強烈な放射能を帯びた「黒い雨」となり、風に乗って東京湾一帯、東京・横浜・川崎・横須賀・千葉・館山に降り注ぐことだ。熱線による都市の焼失がない代わりに、「目に見えない致命的な核汚染」が首都圏を覆ってしまことになるだろう。
オコーナーはテロ犯より早く、ブロウフィッシュの回収を決断した。
内閣情報調査室は、4部門・2センターからなる情報機関である。
公安調査庁や公安警察、防衛省情報本部といった情報機関と大きく異なるのは、内閣情報集約センターと内閣衛星情報センターを持つ点にある。
内閣情報集約センターは、大規模災害や大事故等の緊急事態における情報の集約・分析・連絡・調整の体制整備を行う部門で、情報集約センターが受けた通報は内閣総理大臣まで報告され初動体制が整えられる。
また内閣衛星情報センターは、情報収集衛星の運用とそれによって得られる画像情報の分析及び、同盟国の偵察衛星による情報収集と画像情報の分析を担当する部署である。
内閣情報調査室のトップは内閣情報官であり、内閣官房長官、同副長官、内閣危機管理監に次ぐ内閣官房の要職であった。
神山内閣情報官の電話が鳴った。勿論、相手が誰か判っている。彼は暫く躊躇ったあげく、電話に背を向け耳を塞いだ。
何十秒、いや何分経っただろう。きつく閉じた両方の掌をゆっくりと緩める。気圧が変化し鼓膜の震える感覚が甦ってきた。微かに音が聞こえてくる。神山はその音が何であるかを悟ると、意を決して受話器を取り上げた。
<JFKテープはどうなった?>岩見内閣危機管理監の重い声が響いた。
「申し訳ありません。制限時間の手前で、落札されてしまいました」相手の声とは対象的に神山の声は甲高く小刻みに振動している。
<金に糸目は付けるなと、あれほど言ったのにかね>普段の岩見からは想像できない程、凄みを含んだ声だ。
「はい。しかし、落札したのは中東の衛星テレビ局らしいのです」神山内閣情報官の声は更に小さく消え入りそうだった。
<なに?中東の衛星テレビ……>岩見は絶句した。
「金で買い戻しますか?」神山の声は消え入りそうな程か細い。
<マスコミは情報の価値を知っている。一度手にした″真実″はそれが″嘘″に塗れるまで手放したりはしない。まして相手が中東となれば金では売るまい>岩見は最後の言葉に力を込めた。
ブロウフィッシュ回収の急務を帯びてパウエル中尉はそれの位置を特定するため、取り敢えず二隻の小型艇を繰り出すことにした。目的の海域は、今は海中に没してしまった第三海堡の直ぐ近くだ。高精度磁気センサー、サイド・スキャン・ソナー、小型ROVを備えたマルチミッション・ボートの外観は、民間のクルーザーとさして変わらない。過密な浦賀水道に接近していても、特に不審に見えることはないだろう。
それから間もなく、マルチミッション・ボートは第三海堡跡で停止すると、捜索用の機材を海中へと投下した。テロリストの監視が懸念されるため、迅速に行動する必要があった。
ブロウフィッシュが確認されれば、後は在日米海軍の特殊浚渫艦を出して今晩中にも回収することになるだろう。
<後は時間との戦いだ>パウエルは固く拳を握りしめた。
サイレンのおかげで警視庁に戻るまでの時間が大幅に短縮された。里村が腕時計に目をやると、時計の針はまだ2時30分に届いていない。
松浦と森本はそれぞれ自分の部署に戻ると、留守中の報告や連絡確認に追われた。二人とも昨日からかなりの時間を私的に使っている。いつも奔放な松浦は兎も角、警視庁の管理官である森本は見過ごしてもらえない立場にあった。
森本達が業務に戻っている間、里村と翔子は松浦に指示されたある作業を森本が用意した会議室の中で実行に移していた。松浦から預かったノートパソコンを会議室のLANに繋ぎ、警視庁のネットワークに接続した。松浦に教わった擬装IDとパスワードを入力して、警視庁のサーバーにログインする。ディスクトップからメールソフトを起動すると、警視庁のドメインを持つメールアドレスが現れた。
里村が森本の考えた文章を素早く入力すると、松浦から預かったメモリーカードのデーターを添付した。締めくくりに送信ボタンを押すと、画面は間もなくホワイトアウトした。
内閣情報集約センター宛てに、一通の脅迫めいたメールが届いた。
<jfk@keishicho.metro.tokyo.jp>というメールアドレスは、間違いなく警視庁の内部から送信されたものだ。
メールの内容は、以下のように記されていた。
Subject:
警告 JFKテープを神より預かりし者
Message:
日本国政府に警告する。世を騒がせたJFKテープは、今我々の手元にある。
JFKテープが誘おうとした事。それは日本に落とされたもう一つの原子爆弾の存在についてである。
その原子爆弾は不発弾のまま、東京湾に浮かぶ唯一の自然島″猿島″の周辺に眠ったままだ。
このメールの内容が嘘でない証拠として、JFKテープの全てを記録した音声データーを添付する。
我々が望むのは原子爆弾の速やかな発見と回収、そして完全な廃絶にある。
我々の申し入れを受諾するならば、一刻も早く猿島周辺を閉鎖し原爆を捜索せよ。
24時間以内に捜索する意図が見えない時には、本物のJFKテープをマスコミに公開する。
日本政府が選択できるのは自ら原爆の捜索と回収をするか、マスコミや世論の圧力によって動かされるのかいずれかである。
Walter・K・Brownの亡霊
最初にこのメールを読んだ担当官は青ざめた。それは、このメールがインターネットを介して送られたものではなく、警視庁とオンラインで結ばれた専用回線だったことからも、単なる愉快犯の悪戯でないことは明らかだったからだ。更に、添付された音声ファイルを再生することでこの脅迫めいたメールの信憑性は飛躍的に高まった。
日比谷近くの喫茶店に、森本と松浦の姿があった。
「お嬢さんと里村、二人だけにして拙いんじゃないのか」コーヒーをブラックで啜りながら、松浦が言った。
「いや。ここからは四人固まっている方が動きづらい。それに斉藤さんはあくまで民間人だからな。金井博美の線から公安が辿り着く可能性も高い。できるだけ実家に居てもらうことにした。里村は彼女を守る騎士役だ。どうにでも動けるよう、大井署の署長に頼んでおいたよ」森本が松浦に向かって説明した。
「俺が言ってんのは、あの二人出来ちまうんじゃないかってことだよ。彼女の方も満更じゃなさそうだし。心配じゃないのか?」松浦が顎を突き出す。
「お似合いだと思うがね」そう言うと森本は手元のアイスコーヒーをストローで啜った。
「なあ、翔子ちゃんて倖に似てるんじゃないのか?」
松浦の言葉に森本がコーヒーを逆流させた。ほれ見たことかと、松浦の目が笑った。
「少しだけ、な。お前さんの方こそ気があるんじゃないのか?それより、例の頼んだやつ出来てるか?」森本は松浦のお節介な性格をやんわり皮肉ると、話の本題を切り出した。
「あれ?気付かなかったか?ちゃんとお前の携帯に設定しておいたぞ」松浦が急に顎を引いた。
「何の話だ?」森本は真顔で聞き返した。
「あれっ?携帯の着メロだろう。自分で出来ないからって俺にやらせたじゃないか。ほら!」松浦は自分の携帯を取り出すと素早く番号を押した。程なくして森本の携帯電話から音楽が大音量で流れ出した。店の中にいる客が一斉に振り向く。
「音、絞れよ。迷惑だぞ。大体、今時そんな泥臭い曲、着メロにする奴なんていないよ」
森本は慌てて携帯の電源を切った。
「泥臭いって、お前さんだって似たようなもんだ!」森本は吐き捨てるように言った。
「馬鹿言え。俺様のはツェッペリンやステッペン・ウルフだ。ニール・ヤングみたいに泥臭くないんだよ」
「いいんだよ。俺はこれが好きなんだ。倖も好きだったんだからな」
「ふん。どうせ極上のロマンティストだよ、お前さんは。きっといつか、黄金にも匹敵する宝物を掘り当てるだろうよ。ま、その頃にはいい爺様になってるだろうがね」松浦は子供っぽくアッカンベーをした。
森本は大きく頭を振って「それは、どうでもいい。俺が言ってるのは写真のことだ。頼むよ、松浦……」と哀願した。
「ああ、そういえば……頼まれてたっけな。そんなの」と、松浦は思い出したように資料ケースを探って、中から封筒を取り出した。
「これが元の写真と、お前さんに頼まれた部分を拡大した写真の二枚だ」森本の困惑を意にも介さず、松浦は封筒を森本に手渡した。森本は中から写真を一枚出して眺めると、「お前さんの技術は凄い!」と驚嘆の声を上げた。
松浦は頭を掻きながら「画像処理アルゴリズムに、メディアンフィルタと隠れマルコフモデルを使ったんだ。幾何学変換とパターン抽出だけではインパルスノイズが出るんでな」と軽く言った。勿論、森本にはその意味がさっぱり分からない。それでも二人は顔を見合わせにっこり微笑んだ。
「それより」松浦は、そこで意味ありげに言葉を切った。森本の表情が元の仏頂面に戻った。
「どうしても追求する気か?」笑顔の奥で松浦の目が鋭いナイフのように光った。森本は黙ってストローを啜る。
「原爆の在処が分かり、JFKテープも然るべきルートで公開する。それで解決じゃ不満か?」松浦はそう言うと、くしゃくしゃになったハイライトの紙箱から煙草を取り出して火を着けた。
「22年前の決着がまだ着いていない。俺にはあの夏の夜に隠された、もう一つの悪意を暴き出す役目が残っている」
森本も松浦に習って煙草に火を着けた。あの世で倖に会わす顔がない、そんな思い詰めた目だった。松浦は、やれやれという顔で森本を見た。
「海兵隊員の靴跡、信号弾の薬莢、ブラウンのアタッシュケース、それとこの写真だ」森本はそう言って、松浦から受け取った封筒を叩いた。
「JFKテープが22年前の事故に纏わる謎を解くなんて、想像も着かないぜ。問題は在日米海軍の参謀長が、はたして会うかどうかだな」松浦が美味そうに煙草を吸った。視線は森本の表情を窺っている。
「会うさ。会うようにし向ける」森本が自信ありげに答えた。
「それであんなメール出したのか。あれじゃ、誰が出したのかバレバレだ」松浦は器用に煙草の煙で輪を作ると、それを面白そうに指で壊している。
「それが狙いだ。あのメールがもう一度22年前の同窓会に導いてくれる」森本はまだ半分残った煙草を、グイッと灰皿に押し付けた。
「そんなもんかね。危険だと思わないのか?」松浦も森本に合わせて、まだ吸いかけのハイライトを揉み消した。
「だから一人で行くんだ。俺にもしもの事があったら、里村と一緒にJFKテープとお嬢さんを頼んだぞ」森本はあっけにとられる松浦の肩を叩き、二人の間に置かれた伝票を取り上げると、それを松浦に押し付けた。
日露戦争時、当時最強を謳われたロシアのバルチック艦隊を撃破して有名になった連合艦隊旗艦″三笠″の名を持つ小さな港がある。勿論そこには三笠の雄姿も保存されていて、この横須賀という都市がいかに海軍と所縁が深いかを偲ばせていた。
この時期、三笠港の桟橋から一時間に一本の割合で運行される、猿島行きの高速連絡船がある。その4時30分の最終便に、神奈川県警と書かれたジャンパーを羽織った数十人の捜査員が物々しく乗り込む姿が確認された。
猿島までの所要時間は10分あまり。連絡船が桟橋に着くと、この船が三笠港に戻る最後の便となる。猿島は宿泊施設のない無人島であったから、この最後の連絡船に乗る予定の海水浴客らは後片付けに余念がなかった。
連絡船で島に上陸すると、直ぐ目に入る建物の集合体は食堂やレンタルショップ、売店の他にシャワールームやトイレ、更に管理人室や資料室からなっていた。
捜査員がそこで働く従業員やアルバイトに不発弾回収について了承を求めると、突然の事に青ざめる者もいたが、粛々と捜査に協力することを申し出た。
島の南側に広がった三日月ビーチと呼ばれる砂浜には、まだ数十人の客が残っていた。捜査員達にとって、この島にいる人間を速やかに退去させることも重要な任務のひとつである。中にはこの物々しい警察の姿を見て何だかんだと悪態を吐く者もあったが、不発弾の捜索を口にすると、皆、温和しく協力的になった。
猿島の特徴のひとつは島の周囲一帯が非常な遠浅で、満潮時には気が付かないが干潮時になると大きな窪みや洞窟が出現するという複雑な地形にあった。特に島の北側に存在する″日蓮洞窟″と呼ばれる洞窟は、遠く江ノ島まで続いているという伝説まである。
こうした地形が猿島を岩場釣りのスポットとして脚光を浴びさせ、今日もかなりの釣り人が腰を落ち着かせていた。中には最終の船にも乗らず、夜釣りを経験して翌朝返るという剛の者もいる。捜査員はこうした釣り人にも、退去の要請をして歩かねばならなかった。
猿島最大の特徴は、この島がかつて軍事要塞だった事にある。猿島要塞とも呼ばれたその名残は、今でも確認することができた。
明治の初期に手がけられたロマネスク様式、煉瓦造ボールド構造からなるこれらの建造はフランス積み煉瓦とも呼ばれ、猿島要塞全体に歴史的価値を与えていた。
島の中央を突っ切るように走る幹道は、全て岸壁を彫り込んで造られ、鬱蒼と茂る木々の屋根と相まって島の外からは全く窺い知ることはできない。幹道の先は更に幾つかのトンネルに連なる地下構造になっていて、その上部には5つの砲台と監視所が配置されていた。
太平洋戦争中ここの5つの砲台には高射砲が備わり、東京や横浜、そしてこの横須賀港に飛来した米軍爆撃機を撃退するため、何度と無く火を噴いたのだろうか。
島を縦断する幹道とそこから枝分かれしたトンネルの脇には、兵舎や弾薬庫、病室や司令室が造られ複雑な迷路のように入り組んでいる。この要塞を隠すように存在している横浜球場4個分といわれる猿島の土中に、不発弾が埋まっている可能性があった。
県警による猿島の警備と海水浴客らの安全な避難が確認されれば、後は自衛隊の不発弾処理部隊による本格的な捜索活動が始まるだろう。
捜査員達は皆、まだ陽の明るい内に自分達の出番が終わってくれることを心の奥で期待しているのだった。
横須賀海軍施設から4キロの海域に、数十隻に上る艦艇が集結しつつあった。これは午後3時30分の時点で横須賀市長から海上自衛隊に宛て、不発弾処理の要請があったためである。
西に傾きだした太陽は、猿島を取り巻く遠浅の海をキラキラとオレンジ色に輝かせていて、急速に数を増し始めた大小の艦艇と不釣り合いなコントラストを見せていた。周囲僅か1.6キロの小さな島を、連合艦隊が包囲するかのように様々な艦艇が集結すると、上空には耳を塞ぎたくなるほど沢山のヘリコプターが舞い出した。
天を突くほどの怒りのせいか、それとも地を舐めるような屈辱感を鎮めるためなのか、能面のように無表情なオコーナーの顔が、良く磨き上げられた参謀長室の窓に映っていた。
極秘裏に掴んだ原爆の在処が、直後に不発弾回収で大騒ぎになるとはどういうことか?オコーナーが講じる手段のその先を、見えざる何者かの影が遮っている。それはまるで、22年前のあの悪夢のようであった。
小型のクルーザーに乗り込んでいたパウエルは、横浜水上警察の警備艇からこの海域を封鎖する故、早急に退去するよう勧告を受けた。
パウエルは穏やかな口調で、何が起きているのか訊ねたところ<太平洋戦争時の不発弾処理作業>と伝えられた。にこやかな表情で勧告に従う振りをしながら、パウエルの内心は当惑と猜疑のため苦々しさで一杯になった。
双眼鏡で覗くと猿島のビーチは、神奈川県警の捜査員達が海水浴客らを横付けした連絡船に誘導しているところが見えた。この異様な光景は、海岸線沿いの至る場所からでも目撃できただろう。それは誰の目から見ても、態とらしく大袈裟な、これ見よがしの行為であった。
お台場にあるサクラテレビの報道スタジオでは、5時から始まるニュースのオープニング映像に横須賀港沖で展開されている自衛隊と神奈川県警による不発弾探しの様子が使われるところだった。
現場上空からの中継映像は、猿島を中心に大小数十隻の艦艇が包囲し緊迫した印象を与えていた。
女性キャスターの顔がアップになり、「今、流れているのは横須賀港の沖に浮かぶ小さな島で起きた不発弾捜索の様子です。後に詳しくお伝えします」と、簡潔に伝えた。ニュースの内容より映像のインパクトを優先させた、テレビらしい演出であった。
森本のデスクにある電話が鳴った。ディスプレイの表示は携帯電話からのものだった。
「もしもし、森本ですが」
<暫くだな。元気なようで、安心したよ>想像通りの声だった。
「やはり貴方でしたか。お久しぶりです。そろそろ来る頃だろうとお待ちしていました」
<ウォルター・ブラウンの名前を知るのは、君くらいしか思い付かなくってね。もうテレビは見たかね?>
「はい」
<感想は?満足したか?>
「いいえ。現物が出てくるまで安心できませんね」
<原爆か。よく場所が分かったな。JFKテープが教えてくれた訳ではあるまい>
「それについては、お話しできません」
<おやおや、歯切れが悪いな。原爆は本当に見つかるんだろうね。ここまでして何も見つからなかったでは済まされんぞ。分かっているのかね>
「それはそちらの努力次第でしょう。こちらには確たる証拠がある。原爆が発見された後、惚けて隠しても無駄ですよ」
<まあ、いいだろう。約束は守った。今度は君の番だ>
「私は何も出来ませんよ。出来る事があるとしたら、暫くの間マスコミに沈黙することぐらいでしょう。不満ですか?」
<それでは話を変えよう。JFKテープが欲しい。幾ら必要だ?>
「売らないと言ったら?」
<国家の大事がかかっていてもか>
「国家の大事?それなら原爆の方でしょう。それを知りながら見過ごしてきたのは国の不祥事以外何ものでもない」
<国益を考えろ!と言うことだ>岩見の語調が急に強くなった。
<原爆を回収出来るなら、何もアメリカと事を構える必要はないだろう。JFKテープはもっと有意義に使うべきじゃないかね?>
「国益という美名の下、国民に犠牲を強いるのが貴方達のやり方だ。その本性をさらけ出す時がきただけですよ」
<ふん。君に説教されるとはな。言いたいことは分かった。何が望みだ?>
「ジェームズ・オコーナーに会わせてもらえませんか?」電話の相手は、意表を突かれたらしく短い沈黙があった。
<在日米軍のオコーナー少将か?彼を知っているのかね>
「私は良く憶えています。彼が私を憶えているか保証は出来ませんが」
<それも、あやふやだな。彼を巻き込んで何をする気だ?もう一度、JFKテープを競りにでも懸ける気かね?>
「御想像におまかせします」
<オコーナーが断ったら?JFKテープに関しては一任されているのでね。まあ、努力はしてみるが>
やはり、岩見とオコーナーは繋がっている。JFKテープに関しては日米双方で協定でも結んでいるに違いない、と森本は想像した。
「オコーナー氏が参加しない場合、この話はここでお仕舞いです。これ以上の交渉をお望みなら、是非、彼が参加するよう説得して下さい」森本はあくまで強気に出た。ここでオコーナーを掴まえない限り、彼に接触する機会は永遠に来ない、そんな気がしたのだ。
<強く出たな。久々に君の顔を見るのも良いだろう。それではまた後で>そう言って電話は切れた。
第三海堡跡から戻ったパウエルは、ブロウフィッシュの捜索状況についてオコーナーに報告した。
パウエルが乗るクルーザーの探査ソナーが、水深50メートルの地点で巨大な構造物とみられる反応を示した。グラフィックモニターには複雑な形状のシルエットが浮かび上がる。数百トンを超す複数の船舶が、折り重なっているように見えた。大きさからすればブロウフィッシュより遥かに大きく形状も全く違う。だが、こうした巨大な構造物の隙間に潜り込んでいる可能性があった。
もう少し確認しようと、探査ソナーに備わる水中カメラに切り替えた。ROVのカメラには劣るものの、モノクロでならそこそこ明るく撮れる。モニターには”くの字”に折れ曲がった貨物船らしき船体と、その上に船底を上にしたもう一艘の船が重なっていた。そして”くの字”に曲がった折り目の間に、お椀を伏せた形の何かが映っていた。どうやらそれは、砂利や砂を更に細かくしたシルト層の中に半身が埋まったものと推定できた。その状況をサカタ上級曹長はキャプチャー画面に収めた。
パウエルがROV投入の準備をしている時だった。横浜水上警察の警備艇が現れ、否応なしに追い払われてしまったのである。
オコーナーが受けた報告内容は、大きな期待が寸前のところで失望へと変わる悪夢そのものだった。パウエルが手渡した一枚のプリントは、たった今、東京湾の海底を撮影したものだ。解像度を高めようとモノクロで撮られたその画像には。折り重なるように横たわる沈没船の隙間に、丸みを帯びたフグの顔が映っていた。
「Blowfish!」オコーナーが言葉にするまでもなく、ファットマンと同じ姿形の”毒フグ”が眠っていたのだ。
オコーナーは、手にしたプリント用紙を机の引き出しに仕舞った。そして御苦労と言ってパウエルの肩を叩くと、ジョンストンの勤務する在日米軍横須賀海軍病院へ向かった。
このところ心労が重なったせいか、オコーナーの体調が優れない事はパウエルも承知していた。
<歯車が狂いだした>理由は分からないが、オコーナーの描く筋書きに狂いが出ていることは間違いない。それはパウエルにとっても同じ事だった。彼には珍しく憔悴し切った表情になると、いつも座るパイプ椅子に腰を降ろし両手で顔を覆った。
突然、パウエルの机にある電話が鳴った。ディスプレイに表示された接続先は「CABINET AFFAIRS OFFICE(内閣総務官室)」とあった。電話を取ると、聞き慣れた岩見危機管理監の声が流れてきた。
『御巣鷹の真実』
2007年8月6日
今日はまだ途中だけど、ここで書き留めておこうと思う。
全てが急転直下した。
逃げかけたツキが、再び手の中に戻ってきた。
貴方の形見は、決して抹殺させたりしない。
最後の舞台が用意された。
その幕を開けるのは僕だ。
親愛なる貴方。あと一息、天国から見守っていて下さい。
まだ、太陽は沈みきっていなかった。水平線の上に微かに飛び出たオレンジ色の弧が、押し寄せる暗闇を寸前のところで食い止めている。横須賀の海に華やかなネオンの灯りが反射して映っていた。幻想的なそれらの光彩とは対照的に、手を伸ばせば掴めそうなくらい近くに、猿島の黒いシルエットが浮かんでいる。洋上には海上自衛隊と神奈川県警の艦船が、その猿島を取り囲むように所狭しと展開していた。
テレビモニターに映る猿島の狂騒劇を、上沼と尾崎が興味津々という表情で覗いている。どうやら二人の関心は不発弾の中身、それにあるようだった。
つい、10分前のことだ。猿島での不発弾探しをテレビで知った安井教授から電話があった。尾崎が電話に出ると興奮した安井の声が響いた。
「君達も見ているんだろう?猿島の不発弾探し」
「どうしたんですか教授、随分興奮して。見ていますよ。うちのヘリも中継していますから」尾崎は笑い混じりに答えていた。
「君達、変だと思わないのか?あれが普通の不発弾探しに見えるかね」安井の声は興奮と言うより怒っているように聞えた。
「いや。随分オーバーだとは思いますけど、防衛省に格上げされたばかりだし、近くにアメリカの海軍基地がありますから。それで大袈裟になったんじゃないですか?」尾崎は曖昧に答えた。
「そうか。私は、何だか嫌な予感がしてね。気のせいだといいんだが……」
安井の声が急に低くなった。列車が線路の上で急ブレーキを踏んだ、そんな感じのトーンだった。
尾崎の笑いが苦笑いになる。気分屋の安井は一体何が気になるというのか、単刀直入に聞きたいと思った。
「教授。何が気になるんですか?」
「まさかとは思うが。あれは、ブロウフィッシュを探しているんじゃないかと、そんな気がしたんだよ」
尾崎は大きく息を呑んだ。そして周りを素早く見回した。いきなり目の前に座る女子社員と目が合った。尾崎は視線を逸らすと、一息吐いて話し出した。
「教授。根拠は何ですか。理由は?」ゆっくりと、静かな響きだった。
「いや、時期的なものだ。あまりにタイミング良過ぎると思ってね。他に根拠はないんだが……」およそ論理的でない言葉が戻ってきた。ただ安井の勘が侮れないことを尾崎は良く知っている。
「分かりました。上沼にも相談してみます。勘以外に分かったことがあったら、また連絡を下さい」尾崎は少し皮肉を込めて言った。
「ああ、いや、こちらこそ済まない。少し早とちりだった。上沼君にも宜しく伝えて下さい。それじゃあ」安井は申し訳なさそうに電話を切った。
テレビ画面はコマーシャルに切り替わった。安全を謳い文句にした原発のCMが流れている。
「何とも言えないよね。確かに東京湾というのが気になるけど、横須賀の近くは通常の機雷や不発弾も多く出る所だしね。それに原爆を探しているなら、あんな大袈裟にやらないんじゃない?寧ろ極秘裏に、こっそりとやると思うよ」サングラスの奥で、上沼の目が期待外れというように力無く瞬いた。
「今回は安井先生の勘が外れている方に夕飯賭けるよ。シンちゃんは?」不発弾探しに興味が無くなったのか、上沼はテレビのスイッチを切ると出口の方へと歩き出した。
「俺も、同じです。今回賭は成立しませんね」尾崎はそう答えながら上沼の後に続いた。
在日米軍横須賀海軍基地のやや手前で車を降りた森本は、単身、歩哨の立つゲートへと歩き出した。大きな目をした黒人の兵士に向かって、森本はある人物の名前を告げた。黒人兵士は隙のない動作で有線電話を取ると、森本の出した人物の名前を復唱した。その声を掻き消すように、マスコミのヘリが頭上を通り過ぎる。腕時計に目をやると、時計の針は午後7時を示すところだった。
横須賀基地の参謀長室には、既に岩見内閣危機管理監の姿があった。先日の来訪とは違い、今日の岩見は緊張のためか畏まった表情が支配的だった。
「大変意外な展開になりました」応接椅子に腰を降ろした岩見は、得意の英語で話しかけた。オコーナーは無表情のまま小さく頷いた。
「青天の霹靂とは、この事です。不発弾探しに名を借りた原爆探しが始まった。なぜブロウフィッシュがここにあると?」オコーナーは能面のような表情のまま淡々と話した。その響きには岩見に対する不信が滲み出ていた。
岩見は不発弾回収に至る簡単な経緯を、パウエル中尉に伝えておいた。その通訳件秘書として、いつもオコーナーの傍にいるパウエルの姿が見えない。何より、今日の会談を持ちかけた森本の姿もなかった。
岩見は少し違和感を憶えてオコーナーに訊ねた。
「オコーナー少将、森本警視の姿が見えないようですが?」
オコーナーは眉を上げると「森本?何のことでしょう」と、意外な程素っ気なく言った。
岩見はつい数時間前、パウエル中尉と電話で話したばかりだった。その時は森本の要請通り三者会談を開くことを条件に、JFKテープを回収するという方向で話しを伝えた。事実その電話から30分後、パウエル中尉から三者会談の了承を伝える電話があった。会談の場所と時間は、その時パウエルから聞いたものだ。
<オコーナーに話しは伝わっていないのか?>頭の中で疑惑が渦巻いた。
「オコーナー少将。パウエル中尉の姿が見えませんが?」
岩見の声は上擦っていた。得体の知れない不安からか岩見はネクタイを緩めにかかった。
コンコンと分厚い扉を叩く音に続いて、「パウエル中尉です」という声が聞こえた。
「入りたまえ。お客様がお待ちかねだ」オコーナーが少し苛立つように言った。
扉を開けてパウエル中尉が姿を見せると、その後からスーツ姿の森本が現れた。森本は岩見に一瞥くれると真っ直ぐにオコーナーを睨んだ。
パウエルが岩見の座る応接椅子の前で立ち止まると、森本はオコーナーの席まで一気に歩を進めた。
「Do you remember my face?(俺の顔を覚えているか?)」
森本はオコーナーの前に顔を突き出して言った。お前は憶えていなくても俺は忘れていない、そんな挑むような表情だ。
森本を見上げたオコーナーの瞳に、一瞬強い衝撃が走るのが見えた。その強い衝撃は次の瞬間、何かを悟ったように冷静になると、今度は一転、鋭い飛び出しナイフのように威嚇的な光を帯びた。目まぐるしく変わるオコーナーの目の表情に森本は違和感を憶えた。
オコーナーの自分を見つめる瞳の奥に、あの日の記憶らしきものは微塵も感じられない。驚きこそ見られたが、今、オコーナーの瞳に浮かんでいるものは、森本へのあからさまな敵愾心だ。
オコーナーは急に森本から視線を外すと、起立したままのパウエルを鋭く睨んだ。
「中尉。こんな話は聞いていない!今すぐこの男を摘み出したまえ」雷が落ちたと表現したくなるほどの迫力だった。一瞬パウエルの体は縮こまり、目蓋がきつく閉じられた。
短い沈黙の後に、パウエルが声を振り絞るように言った。
「いいえ。それは出来ません。司令官は森本警視と話すべきです」
オコーナーは、一瞬、何が起きたのか分からないというように改めてパウエルの顔を凝視した。口は真一文字に結ばれ、目は真っ直ぐにオコーナーを捉えている。その目には微かだが涙が滲んだように見えた。
「君も下がりたまえ。この席に相応しくない」自らの右腕とさえ思ってきた男だ。オコーナーの言葉は強い失望の色で染まった。
「いいえ。それもお断りします。私は、この席に留まる権利があります」パウエル中尉の言葉は、次第に力強さを増している。森本や岩見にもその毅然とした響きが伝わってきた。
「今ここで、君を解任する。それで、君がここに残る理由はなくなった。それとも、他に留まる理由があるというのかね?」オコーナーが怒りを押し殺すように言った。オコーナー同様、森本や岩見にもパウエルの真意と、この後の展開がまるで読めなかった。
「私は、ウォルター・ブラウンの息子です」
あまりにも意外な答えに、この部屋の空気が一瞬で動きを止めた。
虚を突かれて、森本と岩見は互いに顔を見合わせた。
それに対しオコーナーは思い当たる節でもあったのか、大きく目を見開き、あっと息を飲み込んだ。
暫くの間、尤もそれは数秒足らずのことだったが、オコーナーの目は確実にブラウンの面影を視線の先に重ねていた。すると、それまでオコーナーを包んでいた怒りの炎が、今、急速に弱まるのを森本は感じた。
「Is there evidence that you are Brown's son?(あなたがブラウンの息子であるという証拠は?)」この場の流れを確かめるように岩見が口を開いた。パウエルは静かに頷いた。
「ここからは、ミスター森本に合わせて日本語で話しましょう。私がブラウンの息子である証拠なら、後で御披露します。何よりオコーナー司令官が、その事実を一番良く御存知のはずだ」
パウエルの問い掛けに、オコーナーは無言で答えた。それはパウエルの問いへの否定ではなく、肯定を前提にしていることは明らかだった。
「それはどうかな。私の関心はブラウン家の家族構成ではない。どうだろう、今日の集まりの主催者から順番に話しを片付けてもらおうじゃないか」
パウエルの言葉を引き取った岩見が、先ず日本語で答えた。次いでオコーナーに向かって流暢な英語を使った。「My concern is not a family structure of the Brown family. Let's start from Mr. Morimoto's business.」
「ミスター岩見。日本語で構わない。あなたの提案通り、ミスター森本の話しから始めてもらおう。パウエルの件は後回しだ」
この部屋の主は、何を決心したのか大きく息を吐き出すと、腕を組んで目の前の森本を睨んだ。
森本は敢えてそれを外すと、パウエルに視線を向けた。パウエルは小さく頷いた。どうやら二人は既に気脈を通じているのだろうと、岩見は目を細めてこの芝居の成り行きを見守ることにした。
「JFKテープは、私の手元にある」森本が息むように言った。
「何故、君の手に?」
納得いかないという目をしてオコーナーは言った。それは岩見やパウエルも同じだった。
「ブラウンはJFKテープを、この日本で公表するつもりだった。信頼すべき仲間が、この日本にいたからだ」森本は3人の顔を見回すように言った。
「JFKテープは、ブラウンから仲間のジャーナリストに渡っていた。そればかりでなく、ブラウンは原爆の落とし場所も、その仲間に伝えていた。彼等はスクープが欲しかったわけじゃない。ケネディの意志を伝えたかったんだ。原爆の脅威から横須賀を救おうとしていたんだ」森本の言葉にパウエルが唇を噛んだ。
「ゴメスとやらが、あんたらの黒幕か?」森本がオコーナーに向かって挑むように言った。
「1985年当時、確かにゴメスの力はまだ残っていた。だからこそ我々は、ゴメスにJFKテープが渡らぬようブラウンを監視した」オコーナーが感情を抑え淡々と話した。
「あんたはゴメスと相反する立場にいたとでも言うのか?」
「当時ゴメスは、アメリカの思惑ともかけ離れた存在になっていた。彼らの目的は、アメリカや同盟国に対する働きかけではなく、全世界がターゲットになっていた。彼らにとってイデオロギーや体制など既に問題ではなくなっていた。信じられないかも知れないが、敵対していた中国にもメンバーは存在した」
森本には殆ど理解しがたい話だった。しかし、自国の大統領でさえ抹殺する連中だ。森本に理解できなくても不思議ではない。
「旧ソ連や中国でさえメンバーがいたのなら、同盟国の日本にゴメスの手先がいて当然。そういうことかね?」岩見が改めてオコーナーに向き直った。オコーナーは無言だった。
「なら、あんたはブラウンを尾行していた俺達が、ゴメスの手先だと思ったってわけだ。そんな話、誰が信じる?」
オコーナーの眉がぴくっと動いた。ようやく彼は、森本との出会いについて思い出したようだ。
森本が上着の胸ポケットから葉書大の写真を二枚取り出して、オコーナーの前に差し出した。
「俺が今日ここに来たのは、ブラウンやケネディに比べてあんたが如何に卑劣な男か、ひん剥くためだ。この写真を見れば、俺の言いたいことが分かるはずだ!」森本は目の前のオコーナーをあからさまに挑発した。
オコーナーは森本の置いた二枚の写真を、隙のない目付きで手に取ったが、突然その視線が止まった。オコーナーは険しい表情で、森本とパウエルを交互に見た。
「この写真は、あの123便が墜落する直前に、乗客の一人が撮影したものだ」森本はオコーナーが手にした一枚の写真を指差した。
その写真は、ジャンボ機の内部を後方から前方に向かって撮影したもので、酸素マスクを掛けて座る乗客達の後ろ姿が写っている。
「この写真に、ブルーのジャケットを着た金髪の人物が写っているだろう。この男のマスクを押さえた右手を拡大した写真がこれだ」
森本は写真を掴むオコーナーの右手を捻り上げた。オコーナーの顔が苦痛に歪むのと同時に、手にした写真が床に落ちた。
ゆっくりと近づいたパウエルがそれを拾い上げると、その写真には、黄色い酸素マスクを押さえた右手がはっきりと映し出されていた。その甲には、オコーナーの右手にあるケロイドの傷痕と、全く同じ模様が浮かんでいた。
芝居の成り行きを傍観するつもりでいた岩見が、思わず飛び上がった。応接椅子を蹴るように飛び出すと、パウエルの側に寄って彼の手にした写真を食い入るように見た。
「馬鹿な!馬鹿な!」岩見が幽霊でも見るように、苦悶するオコーナーの顔を眺める。
「説明してもらおうか。墜落したジャンボ機に乗っていたはずのあんたが、何故ここにいるのか。その理由を!」容赦ない森本の声が響いた。
オコーナーは顔を顰め椅子から立ち上がると、森本の腕を一瞬で振り解いた。格闘術ではアメリカの方に一日の長がある。彼は振り解いた方の手を、何度も握ったり開いたりして動かすと、鑞のように白くなった腕は瞬く間に赤味が戻った。
「私は幽霊ではない」オコーナーは前を向き小さく言った。
「幽霊なんかより、ずっと質が悪い」憎悪を凝縮させた目で森本は睨付けた。
「あんたはブラウンを追って123便に乗った。狙いはブラウンの持っていたアタッシュケースだ。あんたは123便が墜落したとき、奇跡的に助かった乗客の一人だった。事故機が墜落するまでの30分あまり、あんたは何らかのかたちで在日米軍と連絡を取った。勿論、最悪の場合に備えて救出してもらうためだ」
森本の言葉が拳となってオコーナーに振り下ろされる。
「やがて在日米軍の救出ヘリが現場上空に現われると、三人の海兵隊員が降りてきた。彼等はちゃんと墜落現場に降り立ったんだ」
岩見が、声にならない声を出した。森本はそれを目で押さえると、一気呵成に言葉の拳を打ち込んだ。
「彼等はあんたとブラウンのアタッシュケースを捜した。結局、アタッシュケースは見つからず、あんたとブラウンだけを助け出し、造林小屋近くの峠まで移動した。そこから信号弾を打ち上げ、再び飛来した回収用のヘリに乗って地獄から天国へと舞い戻ってきた。違うか!」ぐうの音も出まいと、森本は最後の言葉を腹の底から絞り出した。
「そうではありません!」
突然だった。弾かれるように、森本と岩見の視線はパウエルに向かった。それまで唇を噛んで何かを堪えていた男が、ようやくその真意を口にした。
「よせ、パウエル!」
「いいえ、司令官。全て話すべきです。今、話してください。あの人のためにも……」
森本と岩見の視線がパウエルとオコーナーを交互に捉えた。オコーナーは、コーナーに追いつめられたボクサーのように立ち尽くしている。パウエルは、そのボクサーに付くセコンドのようだった。
「パウエル君。君はその真相をよく御存知のようだ。オコーナー少将が話せないなら君が代わりに話せばいい。森本の話が真実ならば、私も貴方達に失望する」と、岩見が割って入った。
オコーナーは小さく頭を振って腰を降ろすと、両方の腕を力無く膝の上に置いて沈黙した。
森本はパウエルの表情を窺った。彼は暫くオコーナーの方を見ていたが「分かりました。私が参謀長に代わってお話しします」と、声を高めて言った。心なしか、その声は震えていた。
パウエルがゆっくりと話し始めた。
「1985年の夏、ウォルター・ブラウンはJFKテープを携え、単身この日本にやってきました。JFKテープはアメリカの重要機密であり、直ちにブラウンを追って当時CIAの捜査官だったジェームズ・オコーナーが日本へ派遣されたのです。
ブラウンは来日した翌日、JFKテープが入ったと思われるゼロハリ社のアタッシュケースを持ち、当時の羽田東京国際空港へと向かいました。オコーナー捜査官はブラウンが搭乗する便と同じ航空券を求め、その機に乗ったのです」
森本が大きく息を吐いた。何か言いたそうに口を動かしかけたが、直ぐに止めた。
「離陸して間もなくのことです。機体は既定高度に向け上昇中でした。
オコーナー捜査官は機体の中央後部、ギャレーの前に座席があったそうです。巨大なジャンボ機は前方のエリアにもギャレーがあり、キャビン全体の視認性は良くありませんでした。ただ同じエリアにブラウンもいたので、監視に問題はなかったようです。
この時、機体後部から響く軋み音と、断続的に伝わる強い振動に、少なからず不安を覚えたとのことでした。
機体が水平飛行に移った頃、若い女性がキャビンアテンダントに付いて席を移動してきました」
岩見の顔が俄かに曇った。その様子をパウエルは注視した。
「女性が席に着いた直後、機体後部でメリメリっという破壊音と、ドーンという爆発音が立て続けに起きました。
酸素マスクが落下し、日本語と英語のプリレコーデッドアナウンスが流れました。機内に軽い混乱が起きたそうです。
客室乗務員は、乗客達に酸素マスクの装着を援助し始めました。オコーナー捜査官は自力で装着しましたが、プリレコーデッドアナウンスが伝える緊急降下は起こりませんでした。寧ろ機体姿勢は右への傾きとその戻りの繰り返しで、パイロット経験を持つオコーナーは、操縦系統にダメージがあると直感したそうです。
機内の温度低下や与圧低下を感じたのは一瞬で、急減圧が起こっている様子は感じられませんでした…この時。この時…」パウエルの声が急に詰まった。
「この時、日本語も英語も通じない外国人がいて…彼等は不安と恐怖でパニックを起こしていました」パウエルは言葉を止め、一瞬唇を嚙んだ後、再び話し出した。
「大声で喚く彼らの前にブラウンがマスクもせず手ぶらやってきたそうです。ブラウンが中国語で話しかけると、彼らは落ち着きを取り戻し、ブラウンの手ほどきで酸素マスクを着け直すことができました。
航空機の酸素マスクは、初めに酸素マスクを強く引いて、酸素発生源になる固形酸素に点火させなければなりません。中国語を話す乗客達はただマスクを被ったままだったので、新鮮な酸素が出なかったのだろうとオコーナー捜査官は思ったそうです」
あのブラウンらしい行動だと森本は思った。この一連の話はオコーナーしか知り得ないものだ。パウエルとブラウンの関係を知らなかったオコーナーが、密かに話してしまった掟破りの内緒話だったのだろう。
「騒動が収まって、ブラウンは自分の席に戻りました」
パウエルの話は、これまで伝わってきた123便の機内状況と違っている。パウエルは自分の父親について知る数少ないエピソードだったに違いないが、警察官としてこの機に乗った加納倖と、同じ目的を持っていた森本と岩見の胸中は複雑だった。
「何故だ。事故の公式報告とは違う」森本が岩見に問いかけた。今までの嚙みつくような獰猛さは息を潜めていた。
「最後まで聞こうじゃないか。世間ではもっと過激な陰謀論だって流れているんだ」岩見は森本の目を見て言った。
「パウエル君、続けてくれ。私は知りたい」岩見の視線はパウエルへと移った。
「ええ、続けます。オコーナー捜査官が腕時計を見た時、時刻は18時30分を少し回ったところでした。この後、機体の方向が変わるのをはっきり認識したそうです。しかし機体姿勢は安定せず、左右にゆっくりと回転するダッチロールような動きが続いていました。機首が大きく上下するフゴイド運動も続いていました。ただ、立っていられないというほどではなく、何かに掴まってなら移動も可能でした。
状況が変わったのはそれから十分後です。今までの機首が上下するフゴイド運動と違い、機首を下げながら本当の降下が始まりました。機体は螺旋を描くように360度回りながら降りていきました。乗客から相次いで悲鳴が上がったそうです」
パウエルの独白が続く中、オコーナーは背を向け、カーテンで閉じた変哲のない窓に視線を投げ出した。それは、自ら語り聞かせた古い記憶の断片を、セピア色に染まったシネマでも見るように。
「マスクからの酸素は既に止まっていました。夕暮れが迫り地上の明かりが見える中、湖が視界に映ったそうです。機体は安定していて平穏な時が訪れていました。
この時、機内スピーカーから<ポーン、ポーン、ポーン>と、3回連続してチャイム音が流れました。オコーナー捜査官は、これが緊急着陸チャイムだと認識したそうです。
それが合図であったかのように、客室乗務員がハンドマイクを使って救命胴衣の着用を指示し始めました。乗客達は不安そうな表情ながら、互いを手伝ったり忙しなく動いていました。
スチュワーデスの声で”高度は下がっています。間もなく酸素は要らなくなります”という機内アナウンスがありました。その時、スチュワーデスの一人がブラウンを探しに来たそうです。オコーナー捜査官は”悪い予感”がしたそうです」そこでパウエルは話を止めた。視線は窓の外を向いているオコーナーの背中に向かっていた。オコーナーの頭はその視線に応えるようにゆっくりと降りて戻った。
「救命胴衣を着けたブラウンが、スチュワーデスと一緒に前方のエリアに向かった時です。一人の女性が彼らの後に続きました。爆発音の直前に移動してきたあの女性でした」
森本は緊張した。それは岩見も同じだった。
「咄嗟に、オコーナー捜査官も後に続きました。前方のギャレーを超えたところで西洋人の一団が、客室乗務員を取り囲んでいるのが見えました。オコーナー捜査官が捉えた彼等の言葉はドイツ語でした。かなり強い口調で説明を求めているようでした。
先に到着したブラウンはドイツ語で会話を初めていました。オコーナーが移動中から、また機体は揺れ始めていました。会話が白熱する中、またしても大きな揺れが起こり、バランスを失ったブラウンは床に崩れるところでした。間一髪、オコーナー捜査官が後ろでブラウンを抱え止めたそうです。
その時、ブラウンが相手していた3人のドイツ人が、アッパーデッキに繋がる階段に向かったのです。彼らの目的はコックピットに違いありませんでした。
ドイツ人の彼らは、この機がハイジャックされたと疑っていたのです。
”Warte. Bitte geh nicht weiter!(待ちなさい。これ以上先に行かないでください!)”ブラウンの後に付いていた女性が、強いドイツ語で彼らの前を塞ぎました」
パウエルの話を聞きながら、岩見の表情に轍のような波紋が広がった。
「”この機はハイジャックされた疑いがある(Dieses Flugzeug wird verdächtigt, entführt worden zu sein.)”と、彼らはテロを指摘しました。それに対して彼女は”あなた達がコックピットに押しかけても、乗員以外誰も見つかりません(Selbst wenn man ins Cockpit eindringt, findet man dort außer der Besatzung niemanden.)例え支援を提供したとしても、混乱を招くだけです。操縦室は正常に機能しており、地上との無線連絡も維持されています(Selbst wenn ihr Unterstützung leistet, wird das nur Verwirrung stiften. Das Cockpit funktioniert und der Funkkontakt mit dem Boden wird weiterhin aufrechterhalten)”と答えました。彼らの一人が”あなたは誰だ?私達を止める権限でもあるのか?(Wer sind Sie? Haben Sie die Befugnis, uns aufzuhalten?)”と問い直したそうです」パウエルは大きく息を吸うと、日本人二人の顔を一瞥した。
「彼女は動じる様子もなく、”私は日本の警察官です(Ich bin Polizist in Japan.)”と、上着のポケットから警察手帳を提示したそうです。そして隣の客室乗務員に何かを伝えると、客室乗務員は機内電話を取り上げ乗客の方へ向けました。
ドイツ人達は耳を寄せて、それを注意深く聞いていたそうです。
流れてきたのはコックピットの信じがたい喧噪でした。地上との交信音、咆哮する警報音、そして満身創痍になって飛び交う傷だらけの日本語!これらが流れ出てくると猜疑心で一杯だった彼らも、その絶望的な戦いを受け止めたのか、”地上も諦めていないようだ。私たちの運命は機長に預ける他にない。自分の出来ることに専念しよう(Es scheint, dass auch auf der Erde nicht aufgegeben wurde. Unser Schicksal liegt in den Händen des Kapitäns. Ich werde mich auf das konzentrieren, was ich tun kann.)”と伝へ、”ありがとう。あなたも無事でありますように(Danke. Ihnen auch gute Gesundheit.)”と言って去って行きました。
ブラウンは、彼を支えたオコーナーには何の謝意も示さず、事態を収拾して戻ってきた彼女に”素晴らしい機転だ。それに完璧なドイツ語でした”と賛辞の言葉を伝えたそうです」パウエルは彼とオコーナーだけが知る小さなエピソードを感慨深く語り終えた。
沈黙を破って岩見が口を開いた。「彼女は、日本の警察官だ。そこにいる男のバディ(相棒)だった」と、堪えきれず加納の正体を認めた。パウエルは何かを悟ったように森本の顔に視線を向けた。
「ミスター岩見、話を続けても良いですか?」落ち着いていて、どこか物憂げな響きがあった。岩見は静かに頷いた。それまで後ろを向いていたオコーナーが、3人に対峙するようゆっくりと振り向いた。哀愁を帯びたその重たい表情には、この物語の主人公として務め上げねばならない覚悟が宿っていた。
「コックピットクルーの悲壮な戦いをインターホン越しに知ったオコーナーは、機体が誰の手にも従っていないことを悟り、内心愕然としていました。スチュワーデスの声で”急に着陸する場合が考えられます。管制塔からの交信はキャッチ出来ております”とのアナウンスが流れました。
3人は揺れの激しい機体を移動しながら、それぞれ自分の席に戻る寸前でした。別れ際ブラウンが、オコーナー捜査官に”あなたに助けられたのは2度目だね。3度目がないことを神に祈るよ”と言ったそうです」
一瞬、森本の古い記憶が蘇る。東京国際空港で交わった3人の刹那。あの日あの時の後悔が、今尚縛り続ける記憶の鎖になっていた。
「席に着いて周りを見ると、ライフジャケットの装着は概ね完了していて、乗客達は緊急着陸時の衝撃緩和姿勢を学んでいるところでした。山岳地帯に入ると、機体は更に高度を落としました。フゴイド運動が強くなり、機首の上下が激しくなりました。ダッジロールのせいで、機体は右へ左へと揺れ動きました。123便は、糸の切れた凧のように誰の手にも従っていない事は明白でした。
失速警報が鳴り響いていたそうです。悲鳴が上がりました。その時です。さっきの女性がブラウンを連れて、後方へ移動しようとしたのです。ブラウンはオコーナーを見つけると”早く来い”と手招きしました。オコーナーは立ち上がってブラウンの後に続きました。客室乗務員も制止することはありませんでした。とてもそんな余裕はなかったのです。
最後尾のエリアは空席があり、3人はそれぞれがバラバラに席に着いたそうです。ブラウンの手を引いた女性は、機が墜落した場合、機首や主翼付近が最も危険だと判っていたのでしょう。
スチュワーデスの声で”交信はちゃんと繋がっております”とのアナウンスが流れました。英語のエマージェンシーコールが流れていました。それから間もなくして、123便は急降下して山肌に激突していったのです」そう言うとパウエルは、目蓋を閉じ、下を向いたこの話しの主人公に寂しげな目を向けた。
三笠公園に集まった野次馬達を、制服姿の警官が規制し始めた。どうやら、猿島の不発弾探しは一段落付いて、いよいよ次のステージに移行することを予感させた。
漆黒の闇と化した横須賀の空に、一際、巨大な二つの影が飛来した。遠く岩国からやってきた、海上自衛隊が誇るMH53E、通称シードラゴンと呼ばれる掃海ヘリコプターである。メインローターを含めると、その全長は30メートルを超え西側最大の機体を誇る正に大海の龍であった。
シードラゴンの巨体が猿島の上空に現れると、近くを旋回していたマスコミの取材ヘリが、蜘蛛の子を散らすように飛び去った。シードラゴンの登場で力付けられたのか、海上を埋めた艦艇のライトが一段と明るくなった。
オコーナーがゆっくりと立ち上がった。彼は壁伝いに歩いて窓の傍に立つと、長く引かれたカーテンを一気に開け広げた。
森本達の眼前に、横須賀の海が現れた。海上は無数の艦船が灯す明りと、海上に向けられたライトの光で美しく輝いている。その中央に上空を飛ぶヘリが放つ光の帯と、海上の艦船から向けられたサーチライトで、猿島のシルエットが幻想的に浮かび上がっていた。
オコーナーの瞳は眼前で展開する猿島の様相を、22年前の御巣鷹に重ね合わせた。それは不思議なほど似通った光の交差だった。猿島に注がれるオコーナーの目は、哀しいほど遠くを見ている。
「墜落直後、私は暫くの間意識を失っていた」オコーナーが自ら口を開いた。
パウエルの方を向き直ると、御苦労と言うように小さく頭を降って労った。パウエルはその意味を理解すると、唇を噛み目礼で答えた。
「私は、顔の皮膚が熱くなるのを感じて意識を取り戻した。至る所で火災が発生し、一部は私の直ぐ近くにまで迫る勢いだった。私は機体の一部に下半身を挟まれ、身動きが取れなかった。助けを求めて周りを見渡したが、目に映るものは機体の残骸と、引き裂かれ押し潰された幾つもの死体だった。出血と激痛で、再び意識が遠退いたとき、聞き慣れたHH53ヘリの音が聞えた。轟音は明らかに近くなっている。私は必死に手を振り声を上げた。ヘリから地上を照らすサーチライトの帯が見えた。一瞬、眩い光が射して、その中に人のシルエットが浮かんだ。それは、あの女性だった」
<まさか!>
脳天を貫くような衝撃が、森本を襲った。まさかという言葉を、胸の奥で何十回も繰り返し叫んだ。しかし口に出すより前に、それは消えた。
衝撃を受けたのは森本だけではなかった。森本同様に言葉を失った岩見は、その視線をオコーナーの哀しげな瞳に張り付かせた。
「彼女は自分の肩に、誰かもう一人担いでいた。彼女はサーチライトに向かって大きく手を振っていた。ヘリがホバリングの体制に入り、巻き起こった上昇気流で再び火勢が強くなった。彼女は肩に担いだ男を降ろすと、私のところへ駆け寄って、挟まれた私の体を機体の破片から引き出そうとした」
オコーナーは、そこまで一気に話すと、また遠くを眺めるように視線を窓の外に向けた。森本はこの瞬間、オコーナーが見せる遠い目の正体が何であるのかを悟った。それは、倖との思い出に浸る自分の目と同じ輝きだということを。
「体が機体から抜け出たとき、ヘリはホバリングしていたが、そこから三人の海兵隊員が降下してきた。彼らが着地すると、ヘリは再び上昇して暗闇の彼方へ飛び去ってしまった」
誰ともなく、大きな溜息が聞えた。岩見の荒い息づかいが、その後に続くのが分かった。
「問題はその直後に起きた。ヘリが上昇に転じた際、発生したダウンウォッシュ(吹き下ろし)のせいで火勢は一気に強くなった。私達の近くで爆発が起きた。私の記憶はそこで途切れた」
オコーナーの声が、その時の恐怖を物語るように大きく震えた。いつの間にか、森本の掌は汗でびっしょりと濡れている。
「私が再び意識を取り戻したのは、墜落現場が見渡せる峠のような所だった。私は、海兵隊員の背中に担がれていた。目を懲らすと、遠くに墜落現場が見えた。それは、オレンジ色に上がる火が幾重にも連なって、炎で出来た橋ようだった。それから間もなくして現れた、厚木基地所属の特殊救難チームのヘリに私は吊り上げられた。私がヘリに収容された時、既に先客がいる事に気が付いた。それは、彼女と彼女が助けたもう一人の男だった」
森本は、自分の推理が大筋で正しかったことを確認した。しかし、それ以上に自分の想像が無機的で、貧相で、矮小なことに気付かされた。オコーナーが語る現実の前に、それは憐れなほど哀しい、自分勝手な妄想に過ぎなかったと。
「彼女のおかげで、私はこうして生き延びることが出来た。森本の写真への答えは、それで全てだ」オコーナーは毅然と言った。しかし、それ以上拒むような冷たさは感じられない。寧ろ、何もかも洗いざらい吐き出すことを厭わない、さばさばとした潔さがあった。
森本は言葉を探していた。この物語に、まだ続きがあることは分かっている。ただ、その先を知るのが怖かった。
この部屋を訪れるまで、森本の心を支配していたのは、22年前ブラウンの逮捕に纏わるオコーナーへの恨み辛みだった。ここに来て、オコーナーの威風堂々とした制服姿を目にした時、せめてその想いだけでも叩き付けてやりたいと思った。
しかし、今の森本にはそれだけの怒りも憤りも残っていない。それは、生に懸けようとする直向きな倖の生き様を垣間見たからだ。
参謀長室の窓が、急に明るくなった。猿島で何か大きな動きがあったらしい。海自の掃海ヘリから照射されたサーチライトが、猿島と横須賀基地の中間を結ぶ海面に集中する。いつしか森本の視線も窓の外へと移っていた。
倖のあの遠い目。あの遠い視線の先に見ていたものは何だったのか?果して自分は倖と同じものを見ていたのだろうか?
それを確かめることさえ、臆病な自分はもう何十年も諦めてしまっていた。
<刹那にかける儚くも強い絆>
オコーナーの遠い目は、自分の知らない真実の倖を見てきた目なのだ。それは、混じりもののない純粋な未来を信じる目だ。そしてそれは、直向きで、澄んでいて、何よりも温かい。
今森本は、鳥肌が立つほど冷たい血液が、心臓から押し出されてくるのを感じていた。<俺はオコーナーに嫉妬している>と。
猿島の周囲に展開した横浜水上警察の5隻の警備艇が、近くを航行する民間の船舶を規制している。既に陽は落ちて辺りは真っ暗だが、大集結した数十隻の艦艇が放つサーチライトを浴びた海面は、真昼のように明るくなっていた。
在日米海軍のアベンジャー級掃海艦二隻が、海上自衛隊に協力するという名目で猿島の東側を捜索していた。二隻の掃海艦が放つサーチライトが一点で止まると、その海面が一際明るく輝いた。
不発弾捜索に当たっていた海上自衛隊の司令本部に、在日米海軍所属の掃海艦から入電があった。
「どうやら、在日米海軍のアベンジャー級掃海艦が大型の不発弾を見つけたようだ。近くを捜索中の全艦艇に、協力させるように伝えろ」捜索作戦の司令本部から、参加全艦に無電が打たれた。
猿島の東側に大きな動きがあった。
既に移動中のヘリ二機から、数丈の光の帯が伸びて海上の一点で静止する。そこが目印のように、艦艇群も移動してきた。それを遠巻きにしていた報道のヘリも、艦艇群の動きに合わせて移動する。猿島周辺の光源は、横須賀の海岸線からは猿島を挟んだ反対側の海域へと移りだした。遠退いた光の帯は猿島のシルエットを、ぼんやりと幻想的に浮かび上がらせている。
突然、オコーナーの机にある電話が鳴った。緊急を意味するグリーンのランプが点滅している。
「パウエル。君が出たまえ」オコーナーが重厚な声を響かせた。パウエルは一瞬躊躇ったが、踵を合わせ敬礼をするとオコーナーの声に従った。
電話で二言三言遣り取りをした後、パウエルは岩見の名を呼んだ。岩見は電話を代わると、反対の耳を手で塞ぎながらその報告を聞いた。最後に彼は「御苦労様」と力強く言って電話を切った。
「たった今、ファットマン型の不発弾を発見したそうだ。見つけたのは協力を申し出た在日米海軍の掃海艦だ。万歳!万歳!」
岩見が両手を突き上げ、人目も憚らずはしゃぐように言った。珍しい事だと、森本は思った。こんな岩見を、今の今まで一度も見たことがない。
オコーナーが座ったまま、パウエルの右手を強く握った。言葉ではない、労いの表現だった。パウエルはその場に泣き崩れた。今のこの男には、父の意志を継いだ達成感よりも自分を信頼してきたオコーナーに対する、償いの気持ちで一杯だったのだろう。
「これで一つ、肩の荷が下りた」岩見が「パン」と一つ手を打った。
「もう一つのお荷物について、聞かしてもらいたいのだが構わないかね?」岩見は同意を求めるように他の3人を見回した。
誰も反対の意思を示さないことを確認すると、「パウエル君。これでブロウフィッシュは回収されるわけだが、君も森本と同様JFKテープの公開を望むかね?」岩見はパウエルに悩ましげな視線を送った。
パウエルは静かに立ち上がると、入り口の近くにある自分のデスクへ向かった。
「これは父が付けていたノートです」パウエルが手に取ったのは、厚みのある、しっかりとした装丁のノートだった。表紙には″Walter・K・Brown″と直筆で記した文字がある。
「2年前、母が亡くなる時に手渡されました。それまで、私は父について殆ど知りませんでした。白人の母と、黒人とのハーフだった父は、周囲から祝福される結婚ではありませんでした。遠い昔、両親は離婚して、父とはそれ以来、一度も会ったことがないのです。父が死んだ後も、母はその事を教えませんでした。父のことを知ったのは、母が病に倒れてからです。病床の中で、ぽつりぽつりと話してくれました。その中で、父がケネディのスピーチライターだった事を初めて知らされたのです」そう話すと、パウエルはオコーナーに視線を向けた。岩見と森本は静かに頷いた。
「パウエル。君がブラウンの息子だということを伏せていた理由は、JFKテープなんだろう?」と、オコーナーが言った。
「その通りです。母から渡されたノートの中に、JFKテープの草稿がありました」
パウエルがノートを捲り、あるページを開いた。それを岩見の方へ差し出すと、「ミスター岩見。これが私の、ブラウンの息子であるという証拠です」と言った。岩見はそれを手に取ると視線を走らせた。
「確かに、JFKテープの内容と一致している。これだけで君がブラウンの息子という証明にはならないが、疑う理由もない」
岩見はそう言うと、ノートを広げたままパウエルの手に戻した。パウエルはノートを森本にも差し出したが、森本は首を横にして断った。彼を疑っていないし、オコーナーの話の余韻がまだ途切れず残っていたからだ。
「私は父のノートから、JFKテープの存在を知りました。そして生前父が、どれだけブロウフィッシュのことを危惧していたか、悩んでいたのかを知ったのです」パウエルがブラウンのノートに視線を落とした。
「そのノートの中に、ブロウフィッシュの落とし場所も書かれていたのだろう?」
オコーナーが、お見通しというような顔をした。パウエルがその言葉の意味を探る前にオコーナーが言葉を繋いだ。
「テロは君のでっち上げだ」
パウエルは絶句した。短い沈黙の後、パウエルが観念したように話し出した。
「そうです。ブロウフィッシュを狙うテロ組織は、全て私が捏造したしたものです」
森本は意味が分からず、二人の会話をただ聞くだけだった。岩見は心当たりでもあるのか、パズルを当てはめるように目まぐるしく頭を回転させているようだ。
「君の狙いは、JFKテープを取り返すことだったのかね?」オコーナーが訊いた。
「私はJFKテープがNSAにあるものと思っていました。だから先ず手元に取り返したいと考えたのです。しかし本心は、JFKテープを公開することでした。何故ならそれが父の願いだったからです」
森本の目は、パウエルの畏まった表情に釘付けになった。倖の願いとは、倖の想いとは何だったのだろう……
「私はテロをでっち上げ、ブロウフィッシュがテロ組織に狙われていると見せかけました。適当な時期に、ブロウフィッシュの落とし場所を提示し、在日米海軍の手で回収させる計画でした」パウエルは真っ直ぐにオコーナーを見ている。曇りのない澄んだ瞳をしていると、森本は思った。森本の横で「うーん」という岩見の唸り声がした。
「その後どうするつもりだったのかね?」
「回収船ごと隠す計画でした。そしてブロウフィッシュとJFKテープの交換を要求する犯行声明を、アメリカ政府に出すつもりでした」そう言ってパウエルはがっくりと肩を落とした。
「君の計画は頓挫した。しかしブラウンの信念は、君だけでなく他の人々にも伝わっていた」オコーナーはそう言って森本に視線を向けた。
「ミスター森本。JFKテープは公開するのですね?」パウエルが念を押すと、森本はゆっくりと頷いた。
この横須賀基地を訪ねる前、警視庁にある森本の電話が鳴った。電話の相手はパウエル中尉だった。彼はオコーナーの秘書と名乗ったが、会話の内容はとてもオコーナーの考えを代弁しているとは思えなかった。パウエルは森本に、JFKテープを公開する意志があるかを訊ね、公開するつもりがあるならオコーナーに会わせると約束した。
実際、ここのゲートを潜るまで森本は半信半疑だったが、パウエルと直接会うことでその疑念は晴れていった。
「君もJFKテープの公開は譲らないというわけだ」岩見が悩ましげな視線をパウエルに向けた。
「さて、それなら」と、岩見はオコーナーに向かって「もう一つの秘密についても話してもらいたいね。22年前あの御巣鷹から助け出されたブラウンと、私の部下がその後どうなったかを」と先を促した。
オコーナーの視線は暫くの間岩見を捕らえていたが、吹っ切るように森本の方を向くと「わかった」と、短く言った。
何故だか分からないが、この瞬間森本は全身が震えるのを感じた。
そしてオコーナーは静かに話し始めた。
「私達は、ここ、米海軍横須賀病院に収容された」オコーナーは力強く言った。岩見とパウエルは互いに見合わせ、森本は何かの啓示を受けたように大きく息を吐いた。
「今日、ここで森本と再会したのは、きっと彼女の取り計らいなのだろう。だから、私はもう抗わない」オコーナーの声は澄み切った空のように淀みがなかった。
「続けてくれ。彼女のために」この時森本は、オコーナーと同じ土俵に立とうと決心した。オコーナーは静かに頷いた。
「私は、左足と肋骨、それに下顎を複雑骨折した上、腎臓の片方が破裂していた」オコーナーはそこで言葉を切ると、改めて森本の暗い瞳に視線を重ねた。
「彼女は可燃物の破裂に巻き込まれ、頭部を損傷したらしい。私より遙かに重傷で、病院に収容された時、既に意識は無かった」
森本の心は″やはり″という想いで一杯になった。こうなるよう倖の運命は決まっていたのだ。彼女が予感して、自らを奮い立たせてきた哀しい運命。森本はそう自分に言い聞かせても、無念さだけが込み上げて思わず両手で耳を塞いだ。倖の最期の瞬間から、また逃げ出そうとする自分がいた。
「私達が救出されると、在日米軍司令部はちょっとしたパニックになった。私達を救い出した英雄の正体が、日本の警察官と分かったからだ。在日米軍は事態の収拾に困惑した。日本政府に、私や彼女を救出したこと自体極秘にしていたからだ」
岩見の口から、低く唸るような溜め息が漏れた。
「彼女が助け出したもう一人とは誰だったのかね。ブラウンではなかったのか?」岩見はその答えが分っているかのように問いただした。
「父ではありませんでした」突然、パウエルが力のない声で答えた。
森本と岩見の視線が集まると、彼は表情を引き締め「事故から数日後、遺体の一部が確認されたことを、政府は極秘に知らせてきたそうです。父は、日本ではなく祖国で死んだことにされました」と説明した。隣でオコーナーが静かに目を伏せた。
「そうだったか。残念だ。では加納が救出した人物は誰なのかね?」岩見はパウエルに同情を示しながらも追求を諦めない。視線は再びオコーナーの口元へと向けられた。
「私にも分らない。たぶん彼も私が誰かなんて知らないだろう。私達を救い出した彼女ですら、知らなかったと思う。彼女がしたことは、そういうことだったんだ」
オコーナーは腕を組み直して話すと、更に「岩見危機管理監。22年前に起きたあの事故は、日米両政府にとって長く深い疑念を生んできた。それはあの夜、あの暗闇の中で、何が起こっていたのかお互いが疑心暗鬼になっていたからだ」と、言葉を続けた。
「その通り。日本側も在日米軍の動きを牽制した以上、あの夜に起きたことを混ぜっ返すことは出来なかった。結果的にそれが新たな不信を生むことになった」岩見はチラッと森本に目をやった。森本はまだ俯いていた。
「事故から二週間、私はようやく車椅子で動けるようになると、真っ先に彼女の病室へ向かった。病床の彼女は人工呼吸器の力を借りていた。医師団から彼女の病状について伝えられたとき、私は絶望と奇蹟を知ることになった」
奇蹟という言葉が森本の心を捉えた。
<奇蹟?何が奇蹟なんだ?>
森本の顔がゆっくりと上がると、深く重い葛藤のせいか彼の表情は何十歳も老けて見えた。オコーナーはしっかりと森本の目を見ている。
二人の間に、短く、そして息の詰まるような沈黙があった。見守る岩見とパウエルの息遣いも、遠慮するように途切れがちになった。
「彼女は妊娠8週目だった」
森本の目が、一瞬大きく瞬いた。言葉の意味を確かめるように、小さく唇を動かそうとした。しかし、言葉にはならなかった。息苦しさを感じて、思わず胸に当てた手のひらに、激しく波打つ心臓の鼓動が伝わってきた。
「彼女の意識は戻っていなかったが、彼女の身体は新しい生命を宿していた。医師団と米国政府は彼女と彼女の新しい生命を、アメリカ本土で治療する選択をした。日本政府には、勿論内密で」
森本は今、あの日空港で倖が別れ際に残した言葉を思い出している。脳裏に甦る、子供のように素直な倖の目。そして胸の奥で、ある言葉が何度も木霊した。
「この仕事が終わったら、相談したいことがあるの」倖は、倖は、分かっていたのか!
「彼女は翌年、八か月で女の子を出産した。意識は戻らず危険な出産だった。彼女は……彼女は……」
オコーナーの声が詰まり、嗚咽を堪える息音だけが聞こえた。
「赤ん坊の泣き声が聞こえたのか、一瞬目を開けると、我が子を見詰めながら静かに息を引き取った」
静寂の中に、少し早い秋の訪れを思わせる、小さな虫の羽を摺り合わせるような音が響いている。
それは誰のものでない、この部屋の全てから聞こえてくる、すすり泣きの合唱のようであった。
オコーナーが、悪い方の足を引き摺って自分の机に戻った。そして決心したように引き出しを開けると、一目で年代物と分かる濃いグリーンのアルバムを出して広げた。
ページを捲る度に、オコーナーの目から透明な粒が滴り落ちてアルバムの上を濡らした。彼は自分の腕でひとしきり目を擦った後、反対の腕で濡れたアルバムの表面を丁寧に拭った。
オコーナーの唇が声にならないように小さく動くと、傍らに立つパウエルの目が読み取ったのは、感謝と別れを意味する言葉だった。
オコーナーはアルバムの中から写真を一枚取り出すと、まだ衝撃から覚めきらない森本の前に歩み寄った。
「これが……」
オコーナーは一旦言葉を切って「君の令嬢だ」と、森本の肩を叩いて言った。
森本は震える手でその写真を受け取った。写真は驚くほど重たく感じられて、それまでの震えが嘘のように収まった。
虚ろだった目の焦点がようやく合うと、そこには倖の面影があった。長く伸ばした髪型こそ違っていたが、スーッと通った鼻筋や引き締まった口元は倖そのものだ。
「君を一目見て、NANAの父親だと分かった。NANAの目とそっくりだ」オコーナーの瞳には、既に敵愾心は無く、ただ寂しさだけを漂わせている。
「ナナ……」森本は思わず呟いた。
「彼女の名だ。私が付けたんだ」
「彼女を育てたのか?」
「私の養女にした。倖の子だ。他の誰にも預けられるものか」
「ナナは、立派に育ったんだな」
「自慢じゃないが、どんな娘より父親思いだ」
「そうか……」
森本はオコーナーの目を真っ直ぐに見た。自分でも不思議な程、怒りも憎しみも、嫉妬さえ感じなかった。
「ボーイフレンドは?」
「沢山いる。どいつもこいつも頼りない若造だが、NANAの選んだ相手なら文句は言わない。ただ……」
「ただ?」
「いいや。この話の続きはまた今度だ。今は、お互いの立場を確認するに留めよう」オコーナーはそう言うと、表情を引き締め、在日米軍参謀長の顔になった。
ナナという娘が辿った21年に渡る軌跡は、今ここで語り尽くせるものでないことは明らかだった。たった今知った事実に、森本の心はまだ感傷に揺れていたが、オコーナーの人物像を見極めようと気持ちを切り替えた。
「いいだろう。倖とナナのことは、後で嫌と言うほど尋問してやる。覚悟しておいてくれ」
オコーナーは苦笑しながら頷くと、「岩見危機管理監。これがあの忌まわしい夜から始まった物語の、もう一つの素顔だ」と、言葉を向けた。
「まったく。私の人生で今夜ほど驚きの連続だったことはない。同時に、人間らしさを味わう貴重な時間だったことも認める。それでも危機管理なんて因果な役目を引き受けたばっかりに、脳味噌は黙々と処理しなきゃならないことに向かい合っている。私の言い分も、少しは聞いてもらいたいね」
岩見は目にハンカチを当てると、丁寧に折り畳んで上着の胸ポケットに仕舞った。そんな仕草が、今の彼には少しも気障ではないと、そう感じる自分自身を森本は不思議に思っている。
「ブロウフィッシュは見つかった。森本やパウエルのおかげと言いたいところだが、その手柄は自衛隊にでも譲って頂こう」
そんな手柄が欲しいわけじゃないと、パウエルが今にも食ってかかりそうになるのをオコーナーが目で止めた。思わぬ形で先日の借りを返され、パウエルは口をへの字に結んだ。
パウエル達の遣り取りを横目で見ながら、「我々の掴んだ情報によると、JFKテープを落札したのは中東の衛星テレビ局だ。この情報はアメリカ大使館にも公式に伝えねばならない」と、心底悔しそうな表情を浮かべて岩見が言った。
急にオコーナーがパウエルの肩に手をかけて笑い出した。パウエルも口元を綻ばせ声を出して笑った。
今、二人の目は、この知恵者に対する尊敬の光で溢れている。岩見は森本に見えるよう、子供っぽく両手でVサインを作ると得意そうに笑みを浮かべた。
暗闇が包む中、今や無数に膨れ上がった艦艇の灯りと、それらが照射するサーチライトをバックに、ぼんやりと浮かび上がる猿島のシルエットは、真夏の幻想を見るように神秘的だった。
三笠公園を埋めた多くの人々は、前日行われた横須賀開国祭の余韻を引きずるように、目の前で行われている猿島の狂騒劇に目を奪われている。その人々の輪の中に、里村と翔子の姿があった。
「本当に動き出したのね」翔子が感慨深そうに言った。生暖かい潮風が、彼女の黒い髪を揺らした。
「なんだか、夢でも見ているようですね」隣に立つ翔子の横顔を見ながら、里村は思わず溜息を漏らす。
里村の記憶は、この三日間の出来事を、翔子との出会いから振り返って見ている。
まさに、日本中を席巻したJFKテープの秘められた記憶。その記憶を今に甦らせたのは、命を懸けてJFKテープを翔子に繋げた父の思いだったに違いない。
「今日は8月6日なんですよね」里村が呟くように言った。
「60年以上も前に、広島に原爆が落ちて、何十万という人間が死んだわ。本当ならこの横須賀でも、誰も気付かないうちに原爆が破裂したかも知れない」翔子は海を見つめている。
「翔子さんのお父さんて、凄い人だったんですね。何十年も経ってこんなに沢山の人を救ったんですから。誰も気付いていないけど」里村の、少し上気した話しぶりに斜め隣にいたカップルが不思議そうな顔をした。
「ええ。ほんの短い間だったけど、実の父に見守られているようだったわ」翔子の髪を潮風が撫でた。
翔子はこの数日、自分が与えられた役割と必死に向き合おうとしていた。
世間知らずの生意気な大学生が、父親の遺品と出会うことで巻き起きた数奇な出来事。JFKテープと名付けられた一本の古いカセットテープに、日本中が熱狂し翻弄された数日間。その渦中に翔子はいた。
友人達の裏切りと決別、そして新たな出会い。それらは果たして単なる偶然なのだろうか。
翔子は今、こうして光の交差に浮かび上がる猿島の外貌を、過去の記憶と重ねていた。それは亡き父の部屋から始まった。父の部屋に置かれた古いレコード盤とオーディオ装置。イルミネーションに照らされた昭和という時代の面影。回転するレコード盤に針を降ろしたときの感触。音が出る瞬間の胸が詰まるような感動。音楽に浸る恍惚とした時間。言葉に出来ない感動がそこにはあった。
父が残した思い出と温もりの欠片。それを感じるだけで涙が溢れた。遺伝子上の繋がり、と嘯いてきた自分が恥ずかしかった。肌の温もりも、体臭も、声も、何一つ無い父の記憶。それでも今なら、父の魂に向かって愛していると叫ぶことが出来るだろう。いや、そうしたい衝動で胸がはち切れそうだった。
隣に立つ、少し頼りない里村といると、不思議とそんな素直な気持ちになれた。
「里村さん。私、父のこと心から愛しています」
潮風に乗って翔子の心の旋律が聞えてきた。里村は翔子の横顔に、出会った頃には見られなかった大人の気配を感じて、そっと彼女の頬にキスをした。
まだ強い光で明るく輝く窓を、オコーナーがカーテンで塞いだ。「さあ。ここの幕も、閉じるとしよう」
とてもサバサバとした響きだった。オコーナーを除く三人の視線が彼に集まった。
「岩見危機管理監が言うように、JFKテープは中東の衛星テレビ局が落札したのだ。彼らは反米的だ。モリス副大使も頭を痛めることだろう」オコーナーは、お手上げという風に、肩を窄め両手を小さく広げた。
「望むなら、彼らがJFKテープの公表を48時間待ってくれるとありがたい。何故なら、我々と日本政府がアメリカ大統領を説得するのに必要な時間だからだ」オコーナーが岩見の目を窺った。
「中東発としてJFKテープを暴露されるより、大統領自ら公表する方が遙かに印象は良いと思うがね。勿論、日本政府も大統領の説得に力を注がねばならない。そうなるよう努めることが、私の仕事というわけだ」
岩見の顔に、自信と誇りが戻っている。森本はこの男の懐の深さが、ようやく解り始めていた。
「中東のテレビ局次第だな。48時間待つかどうか」そう言うと岩見は、森本の顔に視線を合わせた。
「今の俺は、人間が大好きでね。誰彼構わず信用しちまいそうだ。明後日の午後9時、これがタイムリミットだ」森本が岩見とオコーナーに向かって宣言した。
パウエルがオコーナーに向き直って「私にもお手伝いを」と、最後の奉公を願い出た。
「君の処分は既に決まっている。君の掴んだガセネタで、危うく軍を動かすところだった。これ以上、仲間を巻き込むべきではない。それに、日本的な幕引きもここでは許されない」パウエルを見るオコーナーの目が、寂しそうに瞬いた。
パウエルにはテロをでっち上げるため仲間達の協力があった。ブラック・オイル社の幹部ロバート・リシェ、CIA捜査官ロバート・キムが中心メンバーだ。彼ら二人は個人的繋がりだけで、パウエルに芝居の理由を尋ねることもなく協力してくれた。
軍における作戦や命令の捏造は、極刑にも値する重罪である。主犯は勿論のこと、協力者も厳罰は免れない。
パウエルは最後に彼らにまで害が及ばぬよう、セーフティーネットを用意した。それは、パウエル自身が単独犯であるという遺書を認め、自らの死を持って幕を引くという日本的筋書きだった。しかしそれも、全てオコーナーは見通していた。
パウエルはオコーナーに向かって、敬礼をした。優雅で、僅かな揺るぎもない見事な敬礼だ。それを見た森本も、それが当然であるように、オコーナーに向かって敬礼をした。帰り支度をしていた岩見が、一転真剣な表情になると、警察官時代を彷彿とさせる美しい敬礼をして続いた。
オコーナーは三人を見渡すと、小さく手を翳し、短い敬礼で答えた。
参謀長室を出た岩見とパウエルが、深い木立に囲まれた通路を肩を揃えて歩いている。勿論、オコーナーと森本の二人にするため一足先に部屋を出てきたのだ。
空にはまだ、航空灯を点けたマスコミのヘリコプターが旋回している。
八月の濃い緑に染まった草木が、今日一日の熱気を冷ますかのように新鮮な香りを放っていた。
「君もこれから職探しだな。今日が、ここで最後の夜というわけだ。どうだろう。良かったら私が一杯御馳走するが?」と、岩見が前を向いたまま話した。
「そうですね。将校クラブに行くとしましょうか。あそこならバーボン一杯で帰る気になれる」パウエルは下を向いたまま答えた。
「連れない男だな。一杯で済むと、本気で思っているのか」
「いいや。でも、そうしなきゃ。朝まで、いいや死ぬまで、あの人から離れられそうにありませんから」
パウエルは小さく溜め息混じりにそう言うと、夏の夜空に当てもなく視線を泳がせた。
「ナナを、育ててくれてありがとう」
オコーナーは自分の机に半分腰をかけるような姿勢で森本の言葉を聞いた。こんな行儀の悪い姿勢をとるのは、それこそ何十年ぶりだろうと、そんなことを思いながら森本の言葉を受け止めようとしていた。
「君の大切な家族を奪った男。そんな風に言われると、覚悟していた」
「もしも、そう言ったら?」
「言葉だけなら、いくらでも耐えられるさ」オコーナーは顔を歪めて自虐気味に言った。どうせなら、そう言ってもらった方が楽だと、そんな風に思っているようだった。
「花嫁の父になることを夢見てきたんだ。君にボーイフレンドのことを聞かれたとき、胸が締め付けられるほど苦しくなった」
オコーナーは、もう一度机の引き出しを開けると、再び古いアルバムを取り出して広げた。
「一歳の誕生日から、欠かさず撮ってきた。肌の色も、髪の色も、瞳の色だって違っているが、私の娘だと胸を張って育ててきたんだ」
オコーナーの複雑な心情を映し出して、彼の表情は石を投げ入れた水面のように揺れた。
「俺には、何もなかった。あの日から、失うものさえ持っていなかった。だから、返して欲しいとは言わない」
そんな言葉が森本の口から出た。自分にはオコーナーのような時の重みさえない。恋人の終焉も、我が子の存在さえも、今まで知らずにいたのだ。
「22年前、俺は全てを諦めてしまった。倖の死という事実だけを受け入れて、彼女の願いも、彼女が託した未来も、きちんと掴んでやれなかった」
「確かに君は、呆れるほど鈍感な男だ」
オコーナーは森本の手を取ると、アルバムの間から取り出した薄い栞のようなものをそっと乗せた。
「倖の警察手帳に入っていた。君に返すよ」
森本が手のひらの中に見たものは、小さな七夕の短冊だった。色褪せて少し滲みの出た文字は、見覚えある倖の筆跡に違いなかった。
<良き人の 肩にもたれて 七夕夜 永遠に続けと 流れ星>
もう、終わりの文字は滲んで読めなかった。懐かしい倖の字を目に焼き付けたいと思っても、溢れた涙が邪魔をしてそれを拒んだ。可笑しいくらい森本の目から涙が溢れ出て、拭っても、拭っても、指先を伝わって滴り落ちた。
彼女の願いとは、あの日、あの夜、二人で見上げた七夕の空に架かる、天の川にあった。一年に一度しか逢えない織り姫と夏彦の二人が、永遠に逢える事を願って……
オコーナーが森本の肩にそっと手を回した。
「君にNANAの写真を見せるとき、私は彼女にお別れの言葉を言った。君に娘を渡すつもりはないが、彼女に紹介するつもりはある。彼女さえ気に入れば、花嫁の父親役は譲っても良い」
8月7日は、仙台をはじめとする東日本や関東地方に多く見られる、七夕祭りの開催日に当たっている。本来の七夕から一月遅れになる今夜、森本はひとり自宅マンションのベランダから、薄く微かに広がる光の帯をぼんやりと眺めていた。
もう、そろそろ、彼の携帯電話が鳴るはずだった。
「もう、そろそろ」そう思いながら時間はどんどん過ぎて、かれこれ一時間近くも、ここで夜風に当たりながら煙草をふかしている。
箱に残った最後の一本を咥えようとしたとき、右手に用意した携帯電話が鳴った。それはあの、哀愁を帯びたニール・ヤングの歌声だった。
<ハロー>、続いて<もしもし?>
明るく屈託のない声がした。その声を耳にしただけで、俺の胸は押し潰されるほど苦しくなる。言葉は直ぐに出てこなかった。
<もしもし?森本さん、ですか?>
彼女の声が、少し戸惑うような調子に変わった。安心なことに、とても自然な日本語だった。その響きはどこか懐かしく、誰かのものに似ていた。
「はい。森本です」ようやく言葉が出た。ひどく緊張した声だ。
<初めまして。私、NANAと言います>
「初めまして……」、「ナナ……」言葉が続かず途切れた。彼女の名前を呼ぶ時、一瞬生じた躊躇いが、どれだけ長く感じられたことだろう。
「お父さんより、日本語が上手だね」
<……誉められて嬉しいわ。日本語は子供の頃から習っていましたから。父も習ってたのよ>
それを聞いて、いかにもオコーナーらしいと俺は彼に心底感謝した。
「お父さんにはお世話になった。感謝しています」それだけじゃない。言葉には出さないが焼きもちだって焼いている。
<父に世話になったという人は沢山いるの。でも父は、あなたにお世話になりましたと、感謝していますと、私に言ったわ。だから電話をかけてみたの>
彼女はまた、屈託のない声で話した。大らかに伸び伸びと育てられたのだろうと俺は思った。
「自慢の娘を、写真で見せてもらったよ。君の写真だ。とてもチャーミングだったよ」早く実物を見たい。そんな衝動が走った。
「でもお父さんとは、肌の色も髪の色も違って……」少し意地の悪い質問を俺は口にした。その事に対する彼女の素直な反応が知りたかったからだ。
<私はオコーナーの養女です。でも、そんなことは気にしていないわ。森本さんはそんなことを問題にしているの?>
とても毅然とした言い方だった。やはり倖にそっくりだ。
「いや、失礼。ナナの言う通りだ。そんなこと、問題じゃなかった」そうだ。本当にそんなこと問題じゃない。俺はナナからも、倖からも叱られている気がした。
「お父さんと離ればなれで寂しくないかい?」何とも、複雑な心境だ。どんな答えが返っても、俺は心苦しくなるに決まっている。
<もう21よ。親離れは出来ているわ。この冬には日本にも行くつもり。その時は森本さんのところを訪ねなさいって、父に言われたの。お世話になれるかしら?>
全く予想もしていない言葉だった。顰めっ面したオコーナーの顔が目に浮かぶ。
「ナナさえ、僕を気に入ってくれればね」俺にとって、精一杯格好をつけた台詞だった。天国で倖が、やっぱり垢抜けないと、笑ったように思えた。
<女性に答えを言わせるのは紳士のすることじゃないわ。断るのなら自分から。それも今のうちよ>
「勿論、断ったりしない。断るもんか。君を、心から歓迎するよ」
<約束よ。忘れないでね、パパ>
猿島の不発弾回収が大々的に行われた翌々日、森本は斉藤翔子を伴って赤坂にある在日アメリカ大使館を訪れた。
就職活動用に作った地味なリクルートスーツに身を包んだ翔子は、以前に比べて大人っぽく見える。成熟した美しさは大使館の中でも一際目を引いた。
会議室に通された二人は、そこでモリス副大使と岩見内閣危機管理監と会った。
森本が想像したように、岩見は翔子を一目見ると、二度三度と目を瞬かせた。翔子の姿に、加納倖の面影を重ねたのだろう。
やや遅れて、ティム・パウエル元海軍中尉が姿を見せた。彼は明るいイエローのジャケットに、青のシャツというカジュアルな服装だった。
岩見の紹介で顔合わせが終わると、モリス副大使が流暢な日本語で「先ほど、大統領が決断をされました。日本時間の本日正午、JFKテープに関する重大声明を発表します。在日米海軍のオコーナー司令官から、貴方達に直接その件を伝えるようにと言付かりました」と、一同を見回しながら言った。
岩見がその言葉を補足するように、「JFKテープを落札した中東のテレビ局が時間を制限していてね。時差の関係でこうなった。ケネディのスピーチは既にデジタルコピーされ、オンエアの準備に入っている。我々の願いはJFKテープが辿った数奇な運命が、決して外部に漏れ出ないことだ」と、念を押した。
日本中を賑わしたJFKテープの話題は勿論今も健在で、オークションの落札者と噂される、中東の衛星テレビ局に注目が集中していた。
「この件に尽力した、オコーナー少将の名誉のためにも、是非お願いしたい」モリス副大使が深く頭を下げた。
「JFKテープの返還は、求めないのですか?」パウエルがモリス副大使に訊いた。
モリスは顔を上げ「相手は中東の衛星テレビ局です。返還を求めるつもりはありません」と、毅然と答えた。
「オコーナー司令官は、どうされるのでしょう?」眉を潜めて翔子が訊いた。一度の面識もない相手だが、感受性の強い彼女はオコーナーの処遇が気になっていたのだろう。
「栄えあるアメリカ軍人として、相応しい身の処し方を選ぶでしょう。しかしそれは、貴方達とは関係のないことです」モリス副大使は声を押し殺して言った。言い終えた後、彼は硬く唇を噛んだ。パウエルはその言葉を聞くと、同じように唇を噛みしめた。
突然、岩見が場を締め括るように「皆さん。御苦労でした。日米はこれから、今までにない苦難の時代に入るでしょう。それを最小限に留めるためにも、誰かが責任を被らなくてはならなかった。ここに来られなかったオコーナー参謀長は、全ての責任を取って日本を去るでしょう。彼はその事で我々に何も語っていないが、私はその事を伝えないわけにいかない」と告げた。
一足先に大使館を後にしたパウエルと翔子は、お互いに握手をして別れた。22年前、彼等の父親がしたように、彼等も心の絆を結んだに違いない。
パウエルの行く先にはハロルド・サカタ上級曹長やスミス少尉の姿があった。
それを見送る翔子の元へ里村が駆け寄った。二人は肩を寄り添うように歩いて行く。颯爽とした翔子の後ろ姿は、自信に溢れ希望の芳香を放っているようだ。今の彼女なら、どんな苦難や困難にも臆することなく立ち向かって行くだろう。
森本はその様子を大使館の窓から眺めていた。
「君も彼女に倖の姿を重ねていたんだろう?」背中で岩見の声がした。森本はそれには答えず、ポケットに入れた七夕の短冊を、そっと握った。
岩見は森本の背中に、「君はオコーナーのおかげで、お咎めなしだ。定年までこの国に尽くせばいい」と言った。暫くしてドアの閉まる音が響いてきた。
突然、森本の携帯が響いた。耳に当てると、聞き慣れた松浦の濁声が聞えた。
<もしもし>
「何だ。お前さんか」
<何だとは、連れないな。どうせ、一人ぼっちなんだろう?俺が迎えに行ってやろうと思ってな。昼飯おごってくれ>
「ああ、おごってやる。正午にアメリカ大統領の重大発表があるらしい。それでも見ながら、ウナギでも食おう」そう言って森本は電話を切った。
大使館を出ると、外は青空が広がっていた。真上に近い太陽はどこまでも熱く、嘘のない輝きを放っている。森本はその光を浴びると、思う存分胸の奥まで空気を吸い込んだ。
2007年8月8日
天国の父さん。今日、アメリカ大統領が重大な声明を発表する。
1963年12月25日、故ケネディ大統領がテレビ演説する予定だった、核廃絶に向けたスピーチが、全世界に向けて公表されることになった。
それに先立って、遠く離れた横須賀の海で、あの忌まわしい原爆が引き揚げられた。
父さんが残してくれたノートのおかげで、多くの人々が救われたんだ。
間もなく、世界中に、あのJFKテープが流れる。
父さんが、ケネディと一緒に作り上げた平和への願いが、世界中へと伝わる。
僕が知る、JFKテープが辿った数奇な運命は、残念だけど公表はしない。
何故なら、誰よりも深く、ケネディとアメリカを愛した人が、悲しむことになるからだ。
彼は最後に、こう話してくれた。
アメリカ人の心にも、恩讐という言葉があるのだと。
以下の人々に、心から感謝を捧げる。 ティム・ブラウン
ジェームズ・オコーナー、ロバート・ジョンストン、ハロルド・サカタ、ロバート・リシェ、ロバート・キム、ケビン・スミス、
岩見宗護、石塚秀仁、斉藤翔子、森本孝志、加納倖、ナナ・オコーナー
『エピローグ』
8月8日午前10時55分。サクラテレビの報道デスクに、K通信社から記事の一斉配信があった。記事の発表元は防衛省で、その内容は一昨日横須賀沖で展開された不発弾回収に関するものだった。
「海上自衛隊横須賀地方総監部の発表による」
8月6日 神奈川県横須賀市猿島の沖合で実施された、太平洋戦争末期に米軍機より投下された不発爆弾の発見に関する報告。
捜索区域:神奈川県横須賀市猿島内、及び周辺二キロの海域。
発見場所:横須賀市猿島、北西700メートルの沖合、水深16メートルの海底。
経緯:8月6日午後3時50分 当該自治体(横須賀市)首長より不発弾の発見と回収・処理の要請。同8時37分、協力艦 アベンジャー級掃海艦「ガーディアン(在日米海軍所属)」により不発爆弾を発見。翌々日8月8日午前9時53分 掃海艦「しらね」 (海上自衛隊所属)により引き揚げ回収。
不発弾種:パンプキン型と呼ばれる通常爆弾 重量4774キロ。現在、海上自衛隊横須賀基地にて検証処理中。
業務用複合機から出てきた用紙には、以上の文面と二種類のカラー画像が印刷されていた。カラー画像は鮮明で、一種は猿島とその周辺の海域に展開した艦艇群を空撮したもの。もう一種は、海上自衛隊の掃海艦に引き揚げられる不発爆弾を近距離から撮影したものだった。
これを手に取った担当デスクは、眼鏡越しにざっと目を通すと、「これ、11時30分のニュースに突っ込んで!」と大声で怒鳴った。ついさっき、内閣官房を通じて午後からアメリカ大統領の緊急声明があると通知があったばかりだ。その重大メッセージの前に処理しておくべき些末な事柄の一つと、このニュースは判断された。
用紙は暫く広い部屋の中を彷徨った挙げ句、尾崎の席までやってきた。尾崎は数日後に迫った<新日本航空123便事故・特別報道番組>の追い込みで、目も回る忙しさだった。
向かいの席に座る女子社員が「これ、11時30分のニュースに入れなきゃならないんです。尾崎さん、原稿書いて下さいよ」と、ぶっきらぼうに言った。以前から何かと借りのある相手だった。
尾崎は面倒臭そうに「俺も昼までに、台本直さなきゃならないんだよ。これで借りはなしだぞ」と、手だけ出してそれを受け取った。
彼女が席に戻ると、その用紙に視線を走らせた。記事を読む尾崎の視線が止まり、次いで写真に釘付けになった。
「はぁー?パンプキンだって!」広い部屋に、尾崎の素っ頓狂な声が鳴り響いた。
JFKテープ 完
『あとがき』
本作『JFKテープ』の物語の骨格は、2007年のオリジナル執筆段階から私の脳内に存在していた。しかし当時、どうしても埋まらない「歴史の空白」があった。
その答えを導き出したのは、執筆から長い年月を経た今、最新のAIを用いた情報分析技術によって歴史の断層を再構成した結果だった。
先ず最初に、『何故、一回も実験していないリトルボーイが最初に使用されたのか?』という問いに、ほぼ100%の確率で帰ってくる答えがある。
『構造が単純で、実験などしなくても確実に爆発するから』という答えだ。
本当だろうか?
答えは否である。
本文でも触れたが、アメリカで製造されたウラン235の塊64キログラムのほぼ全てがリトルボーイに使用された。実験に使えるウランなど、どこにも無かったというのが真実だ。
また、構造が簡単で確実に起爆する、というのも間違いだ。
リトルボーイが採用したガンバレル型は、起爆しやすい分暴発も起こしやすい。このため確実に起爆する『衝撃信管』や『接地信管』は絶対に使えなかった。事実、リトルボーイはこれらを全て排除している。代わりに使用されたのが高度計、気圧センサー、レーダー、そして信管との組み合わせからなる『レーダー信管』であり、これはファットマンに採用されたものと同類のものだ。因みにファットマンには衝撃信管が4つ追加されていた。
では、具体的にどの機体とどの機長が横須賀爆撃を実行し得たのか?そのタイムテーブルを検証してみよう。
公式の歴史において、1945年8月3日から5日までのテニアン島は、翌6日の広島作戦へ向けた「準備のための作戦休止(スタンドダウン)」期間とされている。いつものパンプキン(模擬原爆)の投下は休止となり、特別任務の機体やクルーを除いて短い休息日に充てられていた。
8月4日、マリアナ諸島テニアン島のノースフィールド飛行場に設置された臨時のシアター(映画館ハット)で行われた第509混成群団の第1回公式ブリーフィングは、それまでの軍の常識を覆す異様な緊密さと厳戒態勢の中で執り行われた。
開始時刻:8月4日 15時00分(現地テニアン時間)
終了時刻: 同 日 16時00分過ぎ(約1時間強で終了)
参加人数:部隊の全人員ではなく、徹底的に選別された極少数のメンバーのみが入室を許された。入口には銃を持った憲兵(MP)が立ち、厳重なIDチェックが行われた。
主要指揮官・高官:ポール・ティベッツ大佐(第509混成群団司令官)
ウィリアム・パーソンズ海軍大佐(兵器開発責任者)
ワシントンから派遣された軍高官および科学者数名
選抜された6つの飛行クルー(計60〜70名程度)
8月6日の広島作戦(センターボードⅠ作戦)に直接従事する機長および搭乗員たち(エノラ・ゲイの正規機長ロバート・ルイス大尉や、伴走する観測機グレート・アーティストの機長チャールズ・スウィーニー少佐、ストレート・フラッシュの機長クロード・イーザリー大尉ら)。
※前述の通り、残りの9組の機長や、硫黄島バックアップを命じられたチャールズ・マクナイト大尉らは部屋から完全に締め出され、蚊帳の外に置かれた。
会議内容の要約:会議は、ティベッツ大佐の「君たちが訓練してきた理由が、今日ついに明かされる」という言葉から始まり、それまで隠蔽されていた作戦の輪郭が初めて現場に提示された。
①新兵器の破壊力の提示:ティベッツはスライドに「細長い、見慣れない形状の爆弾(リトルボーイ)」の写真を映し出し、これが「これまでの人類の常識を超える怪物理兵器」であることを告げた。彼は「この爆弾1発には、TNT火薬20000トン相当の破壊力がある」と明かしたが、この段階でも「原子爆弾(Atomic Bomb)」という具体的な単語や核分裂の仕組みは、徹底した秘密保持のため伏せられた。
②投下手順と離脱プロファイルの厳命:爆発時の凄まじい衝撃波(ショックウェーブ)から機体と搭乗員の命を守るため、投下直後に機体を「155度急旋回」させて急速離脱する特殊な飛行プロファイルが改めて強調された。
③特殊要員の役割説明:兵器技術者であるパーソンズ大佐が教壇に立ち、飛行中の機内で爆弾の最終接続・回路監視を行う手順や、随伴する科学観測機が果たすべきデータ計測(気圧、衝撃波測定)の重要性について解説を行った。
④ターゲットリストの開示と気象の条件:広島、小倉、長崎などの候補地が正式に告げられ、迎撃を避けるため「日本軍が少数機と侮って無視する高高度からの隠密目視爆撃」を徹底すること、そして気象観測機(イーザリー大尉ら)が先発して雲の状況を報告する手はずが確認された。
この会議は、それまで「パンプキン(模擬原爆)」の投下訓練を何十回も繰り返してきた精鋭の飛行士たちに対し、本番直前になって「誰も見たことがない細長い代物(リトルボーイ)」を突如突きつけるという、現場に凄まじいサプライズと戸惑いを与えた歴史的かつ異様な1時間となった。
さて、この異様な原爆会議の前後で起きていたことを炙り出すと、以下のような可能性が出てくる。
8月5日、第509混成群団司令部から「作戦命令第35号(Operations Order No. 35)」が正式に下りる。これによりティベッツ率いるエノラ・ゲイが広島爆撃を敢行することになった。では、本編にあるような『横須賀』をターゲットにしたファットマン型原爆の投下は物理的に可能だったのだろうか?
8月3日深夜から翌4日にかけて、チャールズ・スウィーニー少佐とそのクルーによる横須賀爆撃は充分可能だったばかりでなく、15時開始の第一回目ブリーフィングにも参加可能だった。以下に飛行スケジュールを記す。
4日午前0時過ぎにテニアンを離陸、午前6時台に横須賀へ到達、そして午前7時過ぎ、ファットマン型原爆の投下。不発確認後引き返し、午後1時(13時)頃にテニアンへ帰還という極限の弾丸スケジュールが浮かび上がる。尚、作戦命令書はパンプキン爆弾投下の例に習い『特殊作戦名』が記入されたものと推察できる。
補足:長崎での原爆投下に際し、原爆投下機の機長だったチャールズ・スウィーニーは、カーチス・ルメイ将軍から酷く罵られたことは有名だ。一応の成功にもかかわらず、写真・映像記録機「ビッグ・スティング」との合流失敗や、燃料タンクの不具合による沖縄への緊急着陸、目視爆撃ではなくレーダー爆撃をとったことへの責めにしては過剰過ぎるとの声が主流だ。
このマンハッタン計画組のスウィーニー少佐への低評価の源流は、実は長崎に先ずる横須賀での失敗があるとみるのはうがち過ぎだろうか?