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愉悦部の日常-君と僕は何度も今日を繰り返す-

    (あらすじ)大日方信一は、甘美な世界の終わりを夢観て悦に浸る男子中学生。妄想癖のある彼には異能力が付与されていて、愉悦に浸れない辻褄の合わない結末をやり直さなければならない。友達がいない者同士の聖川ひじりと連むことになり、バッドエンドの九月十五日を繰り返す。彼女は嫌悪するものを無かったことにする能力を持っていて、組織に狙われていた。大日方信一は、空想と現実の区別がつかないなりに、彼女を助けて、愉悦に浸ろうとするが、何度も同じで、組織に捕まってしまう。タイムリープを繰り返しながら、彼の愉悦を完璧な形で、成就するまでの物語。

    ※かげる名義で書いてる作品です


    (本文)


     九月十五日。とある中学校の教室にて。愉悦部所属、中学二年、大日方信一おおびがたしんいちは、妄想に耽っていた。
    『今日は、どんな愉悦に浸ってやろうか』
     教室の片隅で、彼は思い浮かべる。
     僕が、物語の主人公だったら、この世界を、どのように描くのだろう、と。
     どうせなら、バトルものがいい。この世界には悪の組織が蔓延っていて、世界の終わりも近い。彼らは異能力を使い、僕らの日常を脅かしている。異能力の存在は公に知られていなくて、実は、僕はその能力を授かっている。このことを、この教室のみんなは知らない。
     みんなが、この平穏な日常を過ごしていられるのは、僕が影で暗躍しているからなのだ。その異能力の効果を開示するにはまだ、早い。だって。
    「その力を発揮する時、既に決着がついているのだから」
     その時までにとっておこう。
     教室の片隅で、呟く彼は、友達がいなかった。
     愉悦部の部員は一人、否、彼は帰宅部である。
     登下校中は、ずっと孤独で空想に浸っている。
     周りからは、なにを考えているわからない生徒という評価を受けており、関わり合いを控えるクラスメイトは少なくない。
     彼は、時折り、世界の終末を想像する。
     そこには、世界で二人しかいない。人類は滅んだのだ。彼女と彼は、手を握って、この世界の廃墟を探索する。いずれ、いらないものとなったものたち。
     それを、見物することによって、心の平穏を保っていたのだ。退廃した先に、彼ら二人が残った。見上げた先の青い空も白々しい、未来を嘲笑うかのように思えた。
     食べ物は、先人が遺した缶詰めで生きていける。それよりも、大事なのは、彼らが生・き・て・い・る・意・味・を探すことだった。
     なぜ、彼と彼女だけが人類として生き残っているのか。それには、どんな意味があるのか。その生の理由付けが、彼らには必要だった。何のために生まれて、何のために死ぬのか。
     死んだら、僕らはどうなるのか。
     そんなことを、考える暇もないくらい、彼と彼女は、愛し合っていたというのに。
     ある時、彼らの前に宇宙人と名乗る人間が現れた。
     自らを指し『宇宙からやってきた』と言った。
     そして、残酷な真実を語る。
     この世界の真実を。なぜ、この世界は滅んだのか。それは彼女の特異な能力によるものだと説明する。彼女の能力は嫌・悪・す・る・も・の・を・無・か・っ・た・こ・と・に・す・る・というものだった。もし、世界を取り戻したければ、彼女を犠牲にするしかない。世界と、一人の少女の命。どちらを選ぶかと、彼は問われた。昔のことを覚えていない、故郷のことを忘れて、目の前の恋人のことしか考えられない彼は、少女の命を優先した。
     彼は、彼女のことを、何も知らない。昔のことは、パズルのあった筈のピースが抜け落ちているように、欠けている。どうやって、彼女と知り合ったのかも、覚えていない。
     宇宙人と名乗る存在は、未来のために、たった一人の愛する彼女を殺すように要求する。さもなくば、彼女を宇宙に連れて行って軟禁すると。宇宙人は、まるで、絶滅危惧種を保護するかのように、公然とした正しさを説いた。
     やがて、地球人の生き残りの彼は、人類史として幕を閉じる最後の決断をしたのだ。愚直で、一途な、人類最後の愚かな選択。それを、咎めるものは、彼と彼女二人以外には存在しない。
     こうして、儚くも、世界は終わりを告げた。
     一人の少女によって世界は終わった。
     歴史が繰り返されるように、過去も繰り返される。
     つまり、僕が、生きているこの世界も、あの時代の生まれ代わりなのだ。あったかもしれない、パラレルワールド。誰もが『彼』であり、『彼女』なのだ。加害者になれるし、被害者になれる。誰だって、誰かの代わり。代替品なのだ。
     その真実を知っているのは僕だけ。
     大日方信一は、教室の片隅でほくそ笑んでいる。
     僕は、『全て』を手中に収めている。僕の能力にかかれば、ワ・ル・モ・ノ・を殲滅をすることなど造作もない。
     普段は、変哲のない学生をやっているが、まだ真の実力を発揮していないだけなのだ。
     彼は、愉悦だった。しかし、なにかが足りない、と感じている。
    『ふむ、愉悦には、人間の不幸が必要ではあるな』
     足りなりなら、増やせばいい。人間の不幸を、想像するのだ。彼は、嗜虐心をそそるキャラクターを思い浮かべた。すると、ふと、隣りの席に座った聖川ひじりかわひじりに目がいった。
    「……ふう。大日方くん。また、やってるの? 空想」
     話しかけてきた女子は、太い眉と、大きな垂れ目がトレードマークのクラスメイト。
    「話しかけているんだから、返事くらいしなさいよ。全くもう、ため息しかでないわ」
     僕が彼女の顔をじっと見つめて、その次に、白いブラウスの袖からはみ出た手首に目を向ける。
     なるほど。
    「他人の不幸は、最大級の愉悦」
    「はあ? 何言ってんだか知らないけど、次の授業まで、一緒に行かない? 私、友達いないんだよね。そっちもでしょ?」
     友達がいない者同士、仲良くやろうということか。
     まあ、わからないではない。彼は、愉悦に浸りながら、不遜な態度で胸を張り、腕組みをして、頷いた。
     聖川ひじり。彼女の後を追いながら、僕は考える。彼女は、自分のことを友達がいないというが、彼女の周りには話し相手が結構な数いた筈ではないか、と。
     人気ひとけの少ない廊下の曲がり角の前で、聖川ひじりは立ち止まって、
    「ねえ。大日方くん、お願いがあるんだ」
     彼を振り返りもしないで、言った。
    「る!」
     しかし意味不明の返事しか彼はできなかった。大日方信一に、人とのコミュニケーションは難しい。
    「私を、助けてほしいんだ」
    「る?」
     ようやっと、後ろを振り返る彼女。
    「はあ。ため息しかでないわ。聞いてるの? 大事なことだから、一回しか言わない。聞いて。私、悪の組織から狙われているんだ。だから、助けて、信一くん」
    「――」
     それを聞いた彼は、ただ、彼女の真剣な眼差しを見ていた。
     覚悟を決めた表情だと悟りニヤリと笑う。
    「――ふん。その程度の愉悦なら、甘んじて受け入れよう」
     あらゆる失敗も、台無しも、不誠実も、忘却も、諦めも、覚えていないも、理由も、意味も、描写も、ありきたりも、そして、絶望も、僕に任せておけ。彼は、心の中で、全てを承諾した。

    「これから僕は愉悦を始める」
     腕組みをして威厳を誇ったその声は、彼女の耳には届いていなかった。

     彼は空想する。この世界に蔓延る陰謀論なんてものを、否定しておきながら、絶対悪がいるのだ、と。
     奴らは、聖川ひじりに、傷を負わせた。彼女の手首にはリストカットの痕が残っていた。それを、ワルモノの仕業だと断定することによって、異なる種類の愉悦を彼は感じているのだった。
     彼は、この世界に飽き飽きしていた。だが、今はそうではない。
     自分より、可哀想な人がいることが、彼にとっての癒しだった。そして、その彼女が自分に助けを求めていることが、心地よかった。
     さて、この世界の絶対悪とは、何者だろう。
     彼は、空想する。ああ、わかった。彼女の、才能を、羨むものだ。彼女に最も重要な価値を置く人物。それ故に、消し去りたいと願いたい者。つまり、彼女は、悲劇のヒロインなのだ。
     そう、決めつけて、一人で納得していた。
     悪の組織に狙われているなんて、荒唐無稽な発言すら是とした。たった一人の愉悦部の部員。その活動内容は、未だ、不明だった。
     それから、ことあるごとに、聖川ひじりは、大日方信一と接触を持つようになった。お互いが『友達がいないから』という理由付けで、移動教室を共にしたり、休み時間になると、二人で連つるむようになった。
    「ねえ。聞いてるの、大日方くん」
    「る!」
     いつも馴れ馴れしく僕の苗字を呼んでくるなあとは思うけれど、別に、嫌ではなかった。
     いつだって、彼は、自分の世界に没頭しているのだから、彼女の声が、ほとんど聞こえていないのだ。
     興味のある事柄しか、認識できない。だから、人の顔や名前が覚えられない。唯一、悲劇のヒロインと認識して悦に浸れる相手である、聖川ひじりだけは覚えられた。彼は、友達が作れないのは、実在する人間に興味がないからなのだ。
    「もう、大日方くんって、本当に変だよね。いつも、何を考えているかわからないし、返事はいつも『る!』だし。まるで、宇宙人と話しているみたい」
     と、言われるのも無理はない話しだった。

     宇宙人と話してるみたい、といわれた大日方信一は、空想を膨らませる。宇宙人というのは比喩で、彼女と彼は、それを合言葉にしていた。別に、他の言葉でもよかった。地球外生命体でも、外人でもよかった。要は、二人が、共通認識できる『外の人』を分別できればよかったのだ。
     そして、人類の生き残りである二人、というのも比喩表現だった。本当は、彼らの目に価値のあるものとして、映らないだけで、実在していた。それを、なかったことにしたのは、彼女が嫌悪するからだった。僕は、彼女の能力を嫌・悪・す・る・も・の・を・な・か・っ・た・こ・と・に・す・る・能力として、信じ込ませた。彼女は、この世界のありとあらゆるも嫌悪していた。だから、僕は、裏で工作して、排除してきた。いつも、彼女が安心して眠りにつけるように、世界を壊してきた。
     いつか、僕の嘘を、彼女だけでなく、世界の住人が信じるようになった。彼女は魔女と恐れられ、僕は、彼らに打擲を受けた。彼女を、受け渡さなければ、世界は滅びてしまう。そんな妄言を吐いて、痛めつけられた。
     彼女を、匿っていた僕は、彼女に真実を話さなかった。いつまで経っても退屈な日常に嫌気がさしていた僕に、ささやかな幸福と呼べるような時間を作ってくれた彼女と、共に居たかったからだ。
     僕の考えは、世界に受け入れられるものではないだろう。この世界の終わりに、彼女をいじめた世界の終わりと共に、どこまでも、沈んでいきたい。
     僕にとって彼女は大切な、存在だ。
     彼女は僕にとって世界を意味する。
     彼女は人類の最終兵器。全てを忘れさせることができる人造人間。夢とか愛とか、そういうものを、なくすために未来からやってきたんだ。嘘だけどね。
     彼の、空想は、広がり続ける。それが、現実との区別がつかないのは、大切な想い出だからだった。


     大日方信一。彼が、一度は言ってみたいセリフは「どうだ? もう後がないぞ?」だった。悪の組織が、いたとして、その幹部の一人とバトルした後に、辛勝した空想を、学校の教室でしている。
     今日も、愉悦部の日常が始まっていた。
     彼の中で、現実と空想の境目は、はっきりとしていない。空想に浸るようになったのは、彼にとって現実が逃避すべき難題であったからだというのは、本人は自覚していない。
     彼は授業中にも、空想をする。
     聖川ひじり。彼女が、世界において最大級の価値を持つ存在だとしたら、どんな力を秘めているだろう。そして、僕は、どんな能力で、彼女を救い出すことができるだろう、と。
    「至極、愉悦である」
     隣りに座ってノートに黒板に書かれてある文字を書き写す彼女を、横目で覗き見る。
     どこにでもいる女の子なんていない。その手首には、リストカットを繰り返してしまう程の、彼女を追い詰める『悪』が存在する。なぜ、ワルモノは、彼女を、追い詰めるのか。
     それは、彼女が脅威だからだ。
     この誰かにとっての世界に、脅威であり続ける限り、イジメに似た責苦に耐えなければならない。それは、強くて鈍い人にならこの程度の攻撃をしても構わないよね? という、同調圧力による正当化や、上から目線の牽制であり続ける。彼女は、いつも、僕以外の生徒と親睦を深めている時に、心のどこかで疎外感を抱いているのは、その同調圧力に抵抗しているのが、僕以外にいないとわかっているからなのだ。
     故に、彼女は、僕を頼らざるを得ない。
    「ふむ。実に愉悦」
    「あんたさあ。さっきから、なにぶつぶつ喋ってるんだ?」隣りの席に座る、聖川ひじりが迷惑そうに顔を顰しかめた。
     それから、気を取り直したように、「あ」となにかを思い出し、顔を寄せて耳打ちをする。
    「今日の放課後、行きたい場所があるの。着いてきてくれるよね? ほら、友達がいない者同士、友好関係を築くのも悪くはないでしょ?」
     と言って素早く自分の席に戻る。授業を受け持っている教諭は、黒板を向いてチョークを使っているので、こちらの様子には気づかなかった。
     それに対して「る」と返事をした後、彼は、なんだか秘密裏に約束をするというのも愉悦であるなと感じていた。ただ、友達がいないことに関しては、何の関心も抱いていなかった。
     放課後にどこに行くのだろう。
     世界の暗部に追われる彼女は、僕に助けを求めている。逃避行をするのだろうか。この学生生活や、家族から逃げて、全て放り出して、この退廃し切った世界を旅するのもいい。二人だけで、電車に乗って行けるところまで行ってみるのもいい。この世界の終わりを迎えるまで。そうしているうちに、車窓から夕焼けが見えて、二人はその時間が永遠に続けばいいのにと願うのだ。そんな空想を大日方信一は、した。
     放課後に昇降口で、彼女に呼びかける。待ち合わせの場所でかけるその第一声が大事だ。
    「一体、どこに逃げる?」
     それを聞いて振り向きつつ、怪訝な表情をした彼女は「は〜」と長いため息をついていた。眉根が上がっているのは、彼に呆れているからだった。
    「『逃げる』って何? なにか、勘違いしてるみたいだけどさ。大日方くん、私を使ってなにか変な想像してるでしょう?」
    「る」
     彼は真っ直ぐに彼女の顔を凝視する。それをオカズにしながら、愉悦な世界の空想を繰り広げている。
    「いつも、思ってたんだけど、私の顔を見てる時、視点がそこから動かないよね。それって変だよ。まるで、隣りにいるのに、どこかずっと遠くの世界にいっちゃってるみたい」
     どんよりとした曇り空の下、二人は歩き出した。
     彼女が連れてきたのは、廃墟を思わせる古びた、町外れにある通りだった。
    「最近、隣町でも熊が出たって騒がれていたじゃない。だから、君にボディーガードをしてもらいたくて、着いてきてもらったんだ」人が住んでいない、空き家に入って彼女は心を弾ませながら手招きする。「ねえ。こっちこっち。早く来て」
     呼ばれた方に行くと、そこにあったのは空き家というにはあまりにも、崩壊が進行した建物だった。窓ガラスは割れていて、屋根は朽ち果て欠けたまま野晒しになっている。
    「これは世紀末」
     そう彼は呟いた。
     世界の終わりを常日頃から空想している彼でも、眉を顰めるような有様だった。これはよくないと感じた彼は、空想で脳内補完する。リアリティが彼の愉悦を阻害する前に、あらゆるこじつけをした。
    「私、こういう廃れた場所が落ち着くんだ。学校はもちろん、家に帰っても、自分の居場所がないから」
    「……」
     彼女の手首を切った傷痕。その自傷行為の理由を考える。どこにでもいるような、どこにもいない女の子。そんな彼女の心の傷は、どんなだったのだろう。
     いや、そんなことは、どうだっていい。愉悦部の僕は、愉悦に浸ることだけを考えろ。
     世界の暗部から逃げて、逃げついた先が、この廃墟だったのだ。僕と彼女は、逃避行をした。学校から、家族から、人間関係や、社会的役割から、そして、世界から、逃げ出したのだ。この廃墟を住処にして、二人で暮らすことにした。やがて、彼女は、リストカットをやめるようになった。何故かは知らない。ただ、わかるのは僕は彼女のことを運命共同体だという確信を持つようになったということだ。そして、彼女に、恋をしている。僕の心は、穏やかに澄み渡り、この灰色の景色を美しいと思えた。もしかしたら、彼女も、僕と似たような気持ちを抱いていたのかもしれない。
     しばらくし、この廃墟に住んで、始めて『呼び戻し』が来る頃。僕と彼女は奴らのことを『部外者』または『宇宙人』と名付けた。大人として、振る舞う彼らのことを、何も理解したくなかった。僕と彼女は、二人だけの世界を作りたかったのだ。まるで、それは、世界の終わりを迎えるまで、戦い続けた人類のように、誇り高く、確固たる信念を持った、生き様だった。社会に適応しないことを、彼らは幼稚だとなじるけど、そんなことは、気にも留めなかった。僕は、彼女を助けたかった。彼らのいうことを聞いていたら、彼女は助からなかったもしれない。社会全体のために、一人の少女を生贄にするなら、僕は、社会の秩序をぶっ壊すつもりだ。
     この空き家は、いずれ住む、場所になる。
    「ふむ。至極、愉悦」
     顎をさすりながら、自己満足した。
    「ちょっと、そこどいて。写真撮るから」
    「るッ」
     空想に浸っている僕を押しのけて、聖川ひじりはスマホで写真を撮っている。楽しそうに、この退廃した物体を写真に収める彼女。
    『これは僕の空想にあったことのような?』
     その姿に、どこか既視感を覚える大日方信一だった。
     それがまさに、世界の終わりに二人で旅をする空想そのものだと気づくのは、少し後のこと。
    「ねえ、覚えてる?」
     そう、問いかけられた時、初めてドキリとした。
    「覚えているわけないよね。私、大日方くんと、だいぶ前に会っていたんだよ」
    「る?」
    「ねえ。運命って信じる?」
     辺りは、夕焼け色に染まっていた。もうそろそろ帰らないと、本当に気の迷いで、逃避行をしてしまいそうだ。僕は、ただ、彼女の言葉を聞いていた。
    「記憶を失った恋人同士が、繰り返される世界でも結ばれるなんてこと、輪廻転生しても、再び引き合わせられるなんて、運命があると思うかな?」
     愉悦に浸りたい僕は、彼女の言葉をよく聞いていなかった。人の話すことを、理解するのが苦手だし、興味がないのが、大日方信一だった。
     写真を取り、フォルダに保存しながら、話し続ける。
    「私の家系、考古学の研究をしていて。輪廻転生って本当にあるのかなって、死しても、同一の魂が繰り返されることはあるのかなって考えちゃうんだよね。私んちに人類の歴史について、沢山の文献があるんだ。興味があったら、観に来る?」
    「……え」
     彼は肯定も否定もしなかった。それが、初めて、彼女と交わした人間らしい返事だった。

     彼女の家に向かった彼は、愉悦に浸っていた。これから、彼女の素性を知ることになる。そして、世界の秘密を知ることになる。彼女は、選ばれし者で、世界の命運を握っている。世界が滅びるか、どうかは彼女の手にかかっている。そんな空想を、した。
    「ただいま〜」
     返事はない。
    「ほら。入って」
     大日方信一は聖川ひじりの家に入る。二階に上がると、そこには、おびただしいほどの、本が棚に詰まっている部屋が印象的だった。隅に、勉強机が置かれているが、それよりも、本棚に収められている本の背表紙が不穏だった。
    「世界の黙示録1」
    「それ読んでもいいよ。私、もう読んだから」
     そう言って、本棚から本を一冊抜き出した。
     すると、間に挟まっていた封筒がでてきて、床に落ちた。それを、彼は拾い上げてみたら、聖川ひじり宛てだということがわかった。この世界の秘密かもしれないと思い、彼女の目を盗んで、ポケットに入れた。
    「愉悦で、ある」
     そう呟いたら、彼女が怪訝な表情で彼を見ていた。
    「いま、なにか隠した?」
    「る!」
    「『る!』じゃない。なにこそこそしてるの? ポケットになにか入れたでしょう? わかってるんだからね」
    「る! る! る!」
     聖川ひじりは、彼のポケットの中をまさぐるようにした。しかし、反抗して、躱わし切ることに成功した。
     咄嗟に、躱わした瞬間、彼女の左手首の傷が露わになった。少しだけ鈍い光を、発したかのように彼は見えた。
    「る?」
     この世の中にあってはならないものを、見てしまった感覚だった。
     空想と交わる点が、その傷痕にあるように彼は直感した。
    「早く――しなさいよ」彼女は、怒り出した。「返しなさいよ!」
     足を踏み出して、懐に入る。その動作は、柔道の背負い投げを彷彿とさせるもので、いとも簡単に彼を床に叩きつけてしまった。
    「く、ハッ」
     地に押し付けられ、肺から空気が抜ける声がした。視界がぼやける。どうやら、頭に固いものが当たったらしい、と気づくのは目が覚めてからのこと。視界の隅で、ポケットから盗んだ封筒が天を舞う。遠心力で中にある便箋も外に出て、中空を舞っていた。
     偶然にも彼の倒れたところ。
     目前に、その封筒は開かれた。
     そこには、魔法の遺物《アーティファクト》と書かれた文面と共に、彼女の名前が書かれていた。
    「るッ」
     そこで、大日方信一の意識が途絶える。
    「はー。全くもう。なんで、こんなところに大事な書類が挟まってんのよ」
     彼女は、ため息を吐いていた。
    「とりあえず、大日方くんの意識が戻るまで待つか。いずれ、伝えないといけないことだし」

     目が覚めると、天井が見えた。
     白い壁が見える。大日方信一は、空想する。そうか。ここは、とある機関の研究センター。僕は、世界を脅かす異能力の素粒子を持つ。だから、白衣を着た彼らに、束縛され、動物実験のようなことをされている。
     ダークマターの中身を知りたがる人間の気持ちはわかる。知的好奇心に従う科学者は、僕のことを、ただの物としか見ていなかった。それが、とてつもなく、悲しかった。人類愛というものを、どこかで信じていたのに、ひどく裏切られた気分だった。
    「きっと僕の体には、拘束具が巻かれて、ベッドの手摺りに両手を繋ぎ留められている」
    「そんなわけないでしょ」
     空想から解き放たれると、そこは、聖川ひじりの部屋だとわかった。
     隣りでツッコミを入れた彼女に目を向けてる。
     その向こうの窓ガラスは暗く、今が夕暮れを越えて、夜中に入っていたことがわかった。
    「いつまで、寝ていたんだろう」
    「そんなことどうだっていいじゃない。とにかく、本題に入らせてもらうけど」
     そう言って、彼女は、左腕の傷跡を見せた。少しだけ、光が漏れ出ているような気がする、と僕は感じた。
    「私、人間じゃないの。そして――ワルモノから狙われてる」
     ワルモノ。それは、彼にとって、愉悦のスパイスになるものだった。正義と悪の対立構造。それは、人間の心に、最も深い関心を寄せる概念だと、彼は知っていた。
     しばらく、沈黙が続いた。
    「ふ。ふ、ふふ」
     鼻で笑う、僕には、それが何を意味するかを、想像した。
     彼女は、『嫌悪するものを無かったことにする』という特異な能力で、この世界を恐怖に陥れた。だから、彼女にとってのワルモノは、世界にとっては正義の味方だ。そのことを、彼女は知らない。
     ベッドから降りてすくっと立ち上がり、尊大な態度で、胸を張って腕を組む。
    「え……なんなのよ、大丈夫? 頭、強く撃ちすぎた?」
    「ふ、ふふふ。あッハハハ。どうやら、ついに発見してしまったようだな。この世界の真理というものを」
    「……」
    「そこの、便箋に書かれてある文字を見たまえ。魔法の遺物アーティファクトと書かれているだろう? つまり、聖川ひじり。君は、この世界にとっての古代が遺した魔法として、機関に追われている。そして! 僕に、助けを求めている! そうだろう?」
    「……とりあえず、そういうことにして、置こうかしら。解釈が早とちりすぎるけど」
    「る」
    「はあ。だから、なにが『る』なのよ」
     彼女は、肩を窄めて、ため息をついた。
    「愉悦である」
     こんな展開を、彼は求めていた。


     家の中で、しばらく話しをしていた。
     彼はベッドに腰掛けて、彼女は勉強机に座って向かい合っている。
    「だから、言ったでしょう? 私、悪の組織に狙われてるんだ。もし捕まったら、助けてほしいの」
    「うおw」
     彼は、嘲笑うとも違う形容のし難い感情になった。まさか、そんな荒唐無稽な話しが実際に出てくるとは思わなかった。
     大日方信一。彼の空想に、限りなく近くなっていることに、気づくわけもなく、世界は混沌としていた。
    「気のせいかな。暗い窓の外から悪の組織が、近づいてきている気がするのは。気のせいかなw」
     彼は、自分が空想する場合においては、寛容だが、他者には厳しい。
    「そうよ。いつ、この部屋に侵入してきてもおかしくない。そのくらい切迫してる。さっきの、便箋に書かれてあったことを整理すると、私は、組織に狙われている。悪の、と言ったのは私から見た視点だから、貴方からしたら正義側なのかもしれないけど」
    「……」
     もはや、「る」とすら言わなくなった。
    「で、その組織の名は?」
     しばらく、間を置いてゆっくりと喋る。
    「これを聞いて勘違いしてほしくないんだけど言うね」と彼女の眉間に皺がよる。
    「原子力発電環境整備機構」
    「は?」
    「原子力発電環境整備機構【NUMO】よ。隣り町で地下開発を進めているの、知っているでしょう? なぜだか、知らないけれど、私、あそこの理事長に目をつけられてるの。見つかったら、利用される、らしい」
    「らしいって」
     ただならぬ事態だということは、理解したようで、大日方信一は、彼女の部屋の床に意味もなく正座した。
     聖川ひじりは、壁時計の針の位置を確認する。
    「実は、いつまでもこの場所にいるのは危ないんだよね。時間的に奴がやって来る頃だから。もう、そろそろかな。あとは、任せたよ。――大日方信一くん」
     フルネームで名前を呼んで、微笑みを浮かべる。その刹那、その彼の背後にある出入り口の扉が開かれた。
    「お邪魔いたします」
     慇懃に頭を下げた男は、ネクタイにワイシャツ姿。
    「もうご自宅に帰られていましたか。鍵が開いていたので合鍵を鍵屋に製作して頂く手間が省けましたね」と言って丁寧に両手で扉を閉めた後、家主に向き直った。
    「血眼になって探しましたよ。ところで、送った封筒には目を通して頂けたましたか?」
    「紹介するわ。彼の名前は、原子力発電所の所長であり、理事長の息子、千晴隼人ちはるはやと。私の能力を利用して、核廃棄物処理問題を解決しようとしている、らしい」
    「読んで頂けたみたいですね」
     千晴隼人は、営業マンのような張り付いた笑みを崩さない。
    「はあ。何度も、押しかけてくるんだもの。読まなくても嫌でも、理解するわよ」
     ため息をついて、肩を窄めている。
     二人を交互に見て、大日方信一は、ただならぬ現場に関わってしまったことを後悔していた。そもそも、話しの内容が全く掴めない。頭に入ってこなかった。
    「……で、お返事はいかが致しますか?」
     少しだけ、緊張感が増した。返答次第では、武力行使も厭わないと、千晴隼人は考えていた。
    「……」
     ちらっと、聖川ひじりは所在なさげに佇んでいる大日方信一を見て笑った。
    「あとは、頼んだね」
     彼に聞こえるか聞こえないかの声量で囁く。
     意を決したように、眉根を下げて、彼女は敵に向き合って言う。
    「私の答えは、変わらないわ。断る!」
    「ふん。そういうと思っていましたよ」
     鼻で笑う、正義の味方の千晴隼人という人物は、懐から拳銃を取り出して、彼女の頭に銃口を向けた。
    「え? え? え?」
     もはや「る」とも言えない大日方信一は、急転直下した事態に理解が追いついていない。
    「殺さない程度に殺してあげますよ」
     彼は、そんな悪役のようなセリフを吐いて、銀色の鉛を発射した。
     この世界のどこにでもいる、どこにもいない女の子。彼女の名前は、聖川ひじり。魔法の遺物アーティファクトとして、生を受け、地球を救うために犠牲になる定めにある運命を、何度でも繰り返す。
     床を血みどろに浸した、殺さない程度に殺された彼女に近寄る。黒くて、グロテスクで、非現実的だった。ひたっとその場に座り込む。
     なにが起きているのかまだ、理解が追いついていないのに。
    「やめろよ。なんで。こんなことになってるんだよ。これって現実? 嘘、嘘だ。おかしい。なにかがおかしい。こんなはずじゃない。こんなはずじゃなかった。あれ、僕は、なんで、こんなことを言っているんだろう。ウ、あ、ア」
     彼は涙が出てきていることが、よくわからなかった。声にならない、声が溢れ出る。
    「正義のためです」
     背後で近寄る人影を感じた。
    「言っとくけど、わたしは貴方がたの都合では動かないのです。彼女は、助からない。これが貴方にとっての不都合な真実だったのです」
     言うだけ言って、大日方信一の震える肩を掴んだ。
    「……めない」
    「言っとくけど、もうなにをしても無駄です。世界の平和のために、彼女は」
     と言って、毅然とした態度を保っていた彼の表情が曇る。なにかがおかしい。掴んでいたはずの少年の肩が、消えている。
     無意識に手をグーパーさせて開閉させる。確かに、掴んでいたはず。
    「諦めない」
     彼は、確かにそこにいて執念を込めて吐き出す。
    「諦めない、いや、違う」
    「諦めることを諦めろ」
     いや、違う、と呟く。
     痛みを堪えるように。
     愉悦を諦め切れない僕は叫ぶ。
    「又虫返せアンチノミー」
     意味不明な言葉と共に、彼は世界を跳んだ。

     *

     又虫返しアンチノミーの能力によって、蚤のようにこの世界を跳躍した彼は、九月十五日にタイムループしていた。
     説明不足な矛盾や、起きた不条理に整合性が取れないと感じた時に発動する。愉悦のための妥協は許さない。そんな彼に特化した異能力。
    「は、ここは」
     と、呟いた先の場所は教室だった。
    「……ふう。大日方くん。また、やってるの? 空想」
     隣の席に着いた聖川ひじりがため息を吐いて彼に話しかけてきた。
    「空想? は! これは全て空想だったのか!」
     目を見開いて驚嘆する。
    「……変なの」
     気味の悪い虫を見るような目だった。
    「んなわけないか」
     彼の行動原理は、愉悦に浸ること。しかし空想にしては、説明が弱かった。
    「今何時?」
    「驚いた。あんた、初めて私にコミュニケーションらしいコミュニケーションをしたわね。……十時半よ」
    「つまり、日付けは変わっていない」
     彼は、すんなりと巻き戻りの現実を受け入れた。
     まるで、以前にも同じような経験をしたことがあったかのような既視感があったのだ。
    「僕は、同じ日を繰り返している」
    「はあ? 何言ってんだか知らないけど、次の授業まで、一緒に行かない? 私、友達いないんだよね。そっちもでしょ?」
     同じ台詞を、彼女は喋っていた。
     教室の白い天井を見上げる。
     とりあえず、僕は、生きている。彼女も無事だ。そして、未来の彼女から『助けてほしい』と言われた。その意味について、考える。
     僕は、一体どうしたらいいのか。
     深刻そうに片手を額に当てている彼は、悩んでいた。愉悦を求めるか、真相を解明するか。
    『彼女は――まるで、僕のこの能力について知っているみたいだった』
    「はあ。珍しくなんか悩んでるみたいだけど。次の授業まで、一緒に行かないの? 友達いないんでしょ?」
    「……」
     友達がいないなんて、そんなこと、どうだっていい。
     ただ、僕の愉悦が妨げられることには、我慢ならない。思い通りにならないことは、彼にとって罪に等しい。あってはならないこと、なのだ。
     廊下を走る生徒が、いた。この季節にしては暑い。だから、下敷きを団扇にして煽いでる生徒も多い。
    「全く、世界の終わりのような暑さだ」
    「異常気象だってね。化石燃料が底をつくまで使い果たしたら、きっと、貴方の望む世界の終わりにも近づくのかもしれないわね」
    「……」
     彼女のブラウスの袖から、微かに覗くリストカットの跡を見た。
    『聖川ひじりは、世界の終わりを望んでいるのだろうか』
     そういった疑問を抱きながら、次の授業の向かう道を歩いた。古代の遺物。魔法の遺物アーティファクトである彼女は、奇跡のようにこの人類を救ってくれる。そこに、恣意的なものが挟まることを、僕は嫌悪した。
     恣意的なものは、僕という存在が全てやる。
     あったことは、なかったことにする。
     なかったことを、あったことにする。
    「まずは、対立構造。敵役の言い分を聞かないといけない。そこで、妥協してしまえば、このループは解消されるが、愉悦に浸りたい僕は、そんな生き方を望んでいない。他人の不幸は愉悦だが、それよりも、対立こそが、ストーリーにおける土台。故に、僕は、愉悦を、始める」
     そんな独り言を、誰も聞いてはいない。
     彼は聖川ひじりに置いて行かれていた。
     窓ガラスから学校の外を見ると、市議会議員の選挙カーが走っていた。
    『◯◯は中間貯蔵施設の計画に反対しています!』
     といった、立候補者の演説の声がメガホンから流れている。
    「……」
     愉悦部の日常。
     彼は何度も、この日を繰り返した。

     *

     放課後に、聖川ひじりと、海岸で火力発電所に向けて燃料タンクを積載した造船を見ていたら、ワイシャツにネクタイ姿の男――千晴隼人に声をかけられた。 
    「ゴミの処分場は見つかりませんでしたよ」
     拳銃を彼女の頭に向けている。
    「世界の終わりのような暑さが続くね」
     なんて、呑気なことを、彼女は言う。
    「貴方が、私の研究所に来てくれたら、全て解決するのですがね」
     片手に持ったタバコを咥え、煙を吹かしている。
    「そうね。でも、彼がそれを許すかしら」
     彼女は、愉悦に浸りたい大日方信一を指して言う。
    「この方に、なにができるのですか?」
    「なにもできないわ。できることは、愉悦に浸るだけ」
     なぜだか、役立たずの評価を受けている彼は、口を挟む。
    「僕だって、頑張っているんだけどな」
     実際、大日方信一は頑張っていた。何度も繰り返す九月十五日を抜け出すために、彼女を電車で遠くまで連れて逃げたりした。しかし、道行くところの先に、正義を語る殺し屋の、千晴隼人が現れて、彼女を死なない程度に殺してしまう。
     警察にも相談したが、大日方信一の妄言だとして、真に受けて取り合ってくれなかった。彼の妄想癖が、こういった緊急時の、人とのコミュニケーションを困難にしていた。
     彼女は、組織に捕まり、日本――いや、世界――のための平和に役立てさせられる。
     あらゆる資源のゴミを、彼女は無かったことにできる。それは、核廃棄物でも、いえることだった。
     つまり、組織に幽閉され、命と引き換えに世界を救うことを強要されるのだ。六十年もの間、引き取り手がなく蓄えられた核廃棄物だ。処理に伴う反動で、彼女の小さな体は苦痛の果てに消滅するだろう。
     組織に拷問を受け、人という人を全てを憎み、自暴自棄になった彼女は嫌・悪・す・る・も・の・を・な・か・っ・た・こ・と・に・す・る・能力によって、この世界の人々。人類を一人残らず消滅させるだろう。
     僕と彼女以外を除いて。
     彼は、そんな空想をする。
     彼女は、悪なのか正義なのかわからない組織に捕まるが、僕が助ける。
     世界も、一人の少女も助けたかった。
     でないと、彼の愉悦は完遂しない。
     海辺で乾いた音がした。男が、彼女を撃った音だった。
     大日方信一は、何度も今日を繰り返す。

     *

     九月十五日。
    「……ふう。大日方くん。また、やってるの? 空想」
    「……」
    「なんなの。なにか言いなさいよ」
     いつもの教室。隣りの席に座る彼女は、同じことを彼に言う。
     無言でいても、話しても、結果は同じ。
     聖川ひじりは、捕まり、組織に利用される。
     思考が停止しながら、ふと大日方信一は疑問に思ったことを口にした。
    「僕と君って、一体どういう関係なんだ?」
     すると、思いもしない質問に、虚を衝かれたように狼狽えた。
    「な、何のこと。急に変なことを訊くのね。……あんたってちゃんと喋れるんだ」
     彼は中空に目をやり、ぼうっと物思いに耽っている。
    「なに考えてるかわかんない奴」
    「それは、よく言われる。で、どうなの? 何か知ってるんじゃないの? 僕の知らない何かを君は」
    「し、知らないわよッ」
     何故か、赤面して逃げるように教室から廊下に行ってしまった。
    「? ……へんな女の子」
     窓の方を見て、流れる白い雲を見るともなしに眺めていた。
    「愉悦には悲劇が必要である。しかし、その真相の裏側を知るには、僕に対して彼女は厳しいと思う」
     彼女の好意に気づかないまま、大日方信一は独り言を呟いた。
    「今日は、どこに彼女を連れ出そうか」
     机の上に置いてある、教材を片付けて、ふと自分がそれを愉しみにしていることに気づいた。
    「……彼女と、僕は、どこかで会ったことが」
     パズルのピースが抜けている。
     大切な記憶だった筈なのに。
     僕は、どうして忘れてしまったのだろう。
     大日方信一は、それを、空想によって補完する。しかし、それだけでは彼の愉悦は満たされなかった。
     愉悦が満たされない場合、彼は何度でも、この日を繰り返す。辻褄合わせのために、彼は、先に進むことができないでいた。

     *

     いつの間にか、教室にいた。
     同じ一日を繰り返している。
    「また、過ちを犯してループしたか」
     やれやれだ、と言うように小さくため息を吐いた。
     疲れた大日方信一は、机の上で静かに目を閉じる。

     大日方信一は妄想と現実の区別がつかないことがある。
     しかし、それだけではない。
     彼の記・憶・は・、聖川ひじりによって無・か・っ・た・こ・と・にされている。
     二人の会話に辻褄が合わないのは道理だった。
     かつて、二人は恋人同士だった。
     聖川ひじりは彼の能力を知っていたし、大日方信一も彼女の能力を知っていた。
     彼女の能力は世界消悪(掌握)ワールドデリート。その存在自体がアンタッチャブルで、最悪でかつ最高な能力を有していた。
     なにせ、彼女が消したいものは、ことごとく、この世界から消滅するのだから。それを、軍事利用しない理由はないし、経済利用しない理由はない。ましてや、使用済み核燃廃棄物の中間貯蔵施設を建設しようとしている隣り町の、諍いさかいを解消しようと思えば、そもそもの元凶である『核のゴミ』を無かったことにすればいい。そう、画策する人物がいてもおかしくない話しだった。

     *

     これは一人の少年が、愉悦に浸るまでの物語。
     公園の中。小学校高学年の子ども達の中で、一人だけ、浮いている女の子がいた。
     黒色のTシャツに、赤色を基調としたスカート。その下に黒色のレギンスを履いている。
     それを取り囲むようにして同年代の男の子達が笑い合った。
     一人の男の子が彼女を砂場に突き飛ばした。
    「痛ッ」
    「あはは。愉快愉快。なんで、こんな人間のクズが生きてるんだ。おかしくねーか?」
    「アハハ、ざま〜ねーな。自分がなんで、嫌われているかわかってないみたいだよ。『私、何か悪いことした?』って顔をしてんなぁ」
     男達はが女の子を包囲する外で、女の子のグループが彼女の噂話しをして嘲笑い合っていた。
    「ねえ、あの子。ビッチなんだって〜。知ってた? 私の彼氏にも手を出してたの。ありえなくな〜い? 少しくらい、痛い目に遭った方がいいわよね、うふふ」
    「本当? それを隠してたの? 裏切られた気分だわ。サイテー」
    「それにね。これは秘密にして欲しいんだけど。彼女の両親って本当の両親じゃないらしいわよ。血が繋がっていないんだって。もしかして、性格が残念過ぎて肉親にも捨てられちゃったんじゃないの〜?」
    「あはは」
    「うふふ」
     女子グループが陰でこそこそ話しをして盛り上がっている最中、砂場で倒れた女の子は起き上がる。
     衣服は泥まみれになっていた。
     屈辱感を味わされた、彼女の目は黒く濁っていた。
     意地の悪そうな男の子のリーダーに純粋な疑問を投げかける。
    「なんで、こんなことするの?」
    「くッ、あははは」
     男の子のリーダーは腹を抱えて笑い出した。それに合わせて、周り取り巻き達も同調するように、笑った。
    「『なんで、こんなことするの?』だって、聞いたかみんな? 今の言い方、ウケるよな? こいつマジで何もわかっていないみたいだぜ?」
    「マジかよ。どんだけ無自覚なんだよ」
     冷笑する者も現れた。
     男子グループ一団は、高らかに、笑い合った。
     やがて、呼応し合うグループの声量も小さくなり、リーダーが急にシリアスな表情をつくった。ここは笑うシーンではないと悟り、取り巻き達も静かになる。
    「冗談じゃねーよ。俺の親友が、お前にそそのかされたって言ってたんだよ。マジでキレるぞ」
     胸ぐらを掴んだままドスの効いた低い声音で、脅した。
    「あ」
     堪えていた、感情が崩壊した。彼女の目には涙が溜まっていた。絶対的な恐怖により逃げ場のない熱いものが胸から込み上げる。嫌われるだけならまだよかった。だけど、こんなに寂しい孤独を味わうなんて思わなかった。
    「私は、本当になにもしてないのに」
     イジメによる、疎外感は彼女を絶望に駆り立てた。
     ――誰か、助けてくれないかな。
     でないと私、全てを無かったことにしてしまう。
     ひと雫の涙が、頬を伝う。
    「お前らなにやってんだ?」
     そこで、今まで、存在さえも認知されていなかった者の声が聞こえた。ジャングルジムの一番高いところから、彼らを見下ろしている。
     その男の子の名前は大日方信一。
     いずれ愉悦部となる者。
    「お前こそなんなんだよ! なんか文句でもあんのかよ!?」
     取り巻きのチンピラが彼に威圧する。
    「いや。いいさ、別に僕には関係のないことだから。ヒーロー気取りなんて、性に合わないしね」
     そう言って、ジャングルジムから降りた。
    「君、名前は?」
     大日方信一は、砂場で尻餅をついている彼女に声をかける。
    「ひ、ひじり」
    「ひじりって言うのか? 高尚な名前だ。僕は、大日方信一。ちょっと暇つぶしに付き合ってよ、ほら」
     彼女に手を差し出す。
     反射的に、その手を握ると、彼に引き起こされて地面から立ち上がる。彼女を連れてこの場を立ち去ろうとするが。
    「おい」
     リーダーの男の子が彼を呼び止める。
    「勝手に、連れて行くんじゃねえよ」
     ドスの効いた声音。場の空気がピリッとした緊張感に包まれた。
    「ひじり。こういう時は、ため息をついてこう言ったらいいと思う。――はあ。こんな最低な奴らと関わるのなんか馬鹿馬鹿しいって」
    「あんだとッ! このヤロ」
     ついに激昂した男の子のリーダーは暴力をを振るって、大日方信一を痛めつけようとする。
    「はあ……やっていいことと、やってはいけないことがわかんないのか。お前らの親分は」
     敵の右ストレートパンチを軽くいなした方の手を振り上げ、肩口を後方に逸らして、リーダーの顔面にぶっ放す。
    「ふんっ」
     彼の渾身の容赦のない一撃だった。
    「ぐ、ぁ」
     というくぐもった声と同時に後方に吹き飛ばされ、地に倒れ伏した。
     刹那的な沈黙の後、何が起こったのかわからないまま、辺りは騒然としていた。
    『あのリーダーが倒された?』
     そういった驚愕と共に。
    「はあ。またつまらない者を殴ってしまった」
     嘆息と余裕な笑みが彼の日常だ。
     驚きを通り越して呆然としている聖川ひじりの手を引いて、彼は歩き出す。繋がれている手を見て、少女の顔は紅潮していた。
     ――本当に私のヒーローが助けに来てくれた。

     それから、二人は、町を彷徨い歩いた。
     なにを話せばいいかわからないまま、前を進む彼は、ふと立ち止まり呟いた。
    「実は、ズルしちゃっていたんだ」
    「え?」
    「『タイムループ』って知ってるか? 同じ世界の過去に自分の体だけ繰り返すんだ。あれで、あの悪ガキ共と何回も戦って、負け続けていたんだ。今回のタイムループで、やっとあのガキ大将を倒すことができたけど、大変だったな。アイツのパンチつえーんだもん」
    「た、タイムリープ?」
     聖川ひじりは、日常生活では聞き慣れない単語に、困惑しながらも、何度も頭で彼のいうことを理解しようとした。
     ――だって彼は私のヒーローなんだから。
     彼を、私が信じなくてどうする。
     聖川ひじり自身も、周りに隠していた能力――嫌悪するものを無かったことにする――があったので、荒唐無稽な話しでも、納得できてしまうところがあった。
     彼女は、彼から能力の説明を受けた。
    「そ、そうなんだ。つまり貴方が、愉悦を感じれないと、繰り返しが自動で引き起こされるわけね?」
    「愉悦? なんだそれ」
    「知らない。最近流行っているみたい……あの、信一くん?」
    「なんだ?」
    「助けてくれて、その……ありがとう」
    「いいってことよ。僕は、僕の都合で助けただけだからな。はは。正義の味方気取りっていうのも、案外面白くて退屈しなかったし、君のおかげだな。いつでも、僕に助けを求めてくれていい。その時は、タイムループで何度だって助けに行ってやる」
     聖川ひじりは、初めて自分にも仲間ができたような気持ちになって、心から感謝した。
    「うん! 絶対に助けに来てね! 愉悦に浸りながらね!」
    「はあ。その愉悦ってなんなんだ? まあ、いいよ。愉悦に浸りながら、君のことを助けてやる」
     ため息を吐きながら、気怠るそうに彼は言った。

     しかし、少年少女が、行く先に、その能力を悪用する組織が現れるのも、時間の問題だった。
     何度もループを繰り返して、彼女を助ける少年は、悪どい大人たちに目をつけられて、自分たちの都合のいいように利益となる行動を彼に取らせることになる。
     例えば、賭博の結果を未来で知っていた彼は、過去に戻りその内容を喋らせる。賭け事を生業にしているヤクザの標的に彼はなってしまった。
     彼女を助けようとすればするほど、その異様さに周りが関心を持ち、彼が特別な存在であると悟るのだ。
     やがて、彼が未来から来た存在であると、知られるようになる。

     その頃、二人は中学二年生になり、クラス分けで同じクラスになった。
     始業式が終わり、担任の教諭のホームルームが済んだ後、聖川ひじりは隣りの机に居る彼に呼びかけた。
    「同じクラスになったね」
    「ああ。ひじりか、よかったな。これで、また君を助けやすくなった」
    「はあ。その上から目線やめてくれる?」
     四年前の彼のため息を模倣するように、彼女はため息を吐いていた。
    「あはは。愉悦である」
     そして、彼は彼女の望むように愉悦に浸りながら、笑っていた。
     彼女は椅子に座って、顔だけ彼の方に向けて、なるべく自然な風に意識して喋った。
    「信一。あのさ、今日の放課後、二人だけで会わない?」
    「ここじゃダメなのか?」
    「当たり前でしょ? 愉悦愉悦ばかり言ってるあんたと一緒にいるところ見られたら目立つし。だから、そうだな、廃墟に行こう」
    「廃墟?」
    「最近、熊の出没のニュースが増えてるから、着いてきてね」
     そうして、二人は、放課後に空き家が立ち並ぶ通りを歩いて、目的の寂れた廃墟の敷地に入った。
     天井から欠けていて、雨晒しになっていた。
     ガラスも割れていて、秩序が崩壊していた。
    「こんなところに呼び出して、どうしたんだよ? たしかに、こんな世界の終わりのような場所で君と過ごすというのも愉悦ではあるけれど」
    「そうでしょう? でも、その前に大切なことを言うわ。私、魔法使いなの」
    「ほう」
     品定めをするように顎を摩りながら、彼は頷いた。
    「あんたが『過去を繰り返す』能力なら私もとびきりの能力を持っていたってわけ」
    「それで。それは、どんな能力?」
    「『嫌悪するものをなかったことにする』能力。貴方を狙う、悪の組織もなかったことにできる。だって、これ以上、貴方が彼らに傷つけられるのは見ていられないし」
    「……それは愉悦、ではないな。君の力で、僕を助けようというのか。僕が君を助けるのではなく」
    「はあ。そう言うと思ったよ。では、妥協案を出すしかないみたいね。私は、あんたのことを好きで、もうどうしようもなく、その生き様に憧れちゃっているんだから」
     ――はあ。恋する乙女も、大変だわ。
     彼女は、ため息を吐いていた。
    「じゃあ、どうするの? あんたの愉悦を阻害しない範囲で、あんたの追ってを避ける方法は? なにか案でもあるの?」
    「まあ、ないことはない」
     それからしばらく、沈黙して、やっと口を開いた。
    「僕と君の記憶を無かったことにしてくれないか?」
    「な」
     なにを言ってるの? と言いうことすら忘れるほど、理解の追いつかない提案だった。
    「私と信一の記憶を消す? 二人の憶い出を?」
    「そうだ。その中に、嫌悪すべき憶い出もあっただろう。あれだけ、君はいじめられていたし、僕は君に対して上から目線で接していた。もし、君を僕が助けなくなれば、助けようした事実をなかったことにすれば、悪の組織は僕を追ってこなくなる」
    「……」
     彼女は、理解した。世界と共に、全て二人の関係を消去するのだと。そうすることで、彼は救われる。それでも、彼女が彼に対する想いは消えることはない。
     どんなに関係がなくとも彼・女・は・彼・を・嫌・悪・す・る・こ・と・が・で・き・な・い・のだから。
    「はあ。仕方がないわね」
     深くため息を吐きながら、最後の彼の望みを果たすことに決めた。
     この先、どんな未来がやってこようとも、その全てを受け入れよう。この愉悦な主人公が、タイムループしてどんな結末をするか見届けよう。
     例え、私が犠牲になろうとも。
     彼女は笑って、彼に手を差し出した。
    「最後に、手を握ってくれる? 私のことを覚えているうちに、私を悪モノから連れ出して助けてくれた頃のように」
    「ああ」
     斜陽が二人を茜色に染めていた。
     暗黙の了解で、二人は笑い合い、手を握った。
     その柔らかい感触に酔いしれて、彼女はうっとりしながら、この世界に魔法をかけた。
     ――私の好きだったヒーローは、私との関係を忘れても、助けてくれるかしら。もし、助けてくれたら、きっと私はとっても愉悦な気分に浸って、もう死んでしまっでも構わないくらいの幸福に包まれる。

     世界の記憶を消去デリートする前は、彼女の腕にリストカットの傷はついていなかった。世界は反転して、彼女が悲劇のヒロインとなった。

     *

     大日方信一は、タイムリープを繰り返し疲れ果てた脳内で、ある夢を観ていた。
     悪モノから聖川ひじりを助けるために暗躍した日々のことを。
     中学に入り、陰湿ないじめをする男子グループと戦った。
     意味もなくクラスのヒエラルキー上位の男子が彼女の着いている机を、暴力的に叩いて驚かせる遊びが流行っていたのだ。
     聖川ひじりの机を横切ると見せかけて、一人の男子生徒が彼女の机を両手で思い切り叩いた。
     バンッという衝撃音。
    『ひゃっ』
     驚いて怖がっている彼女を、僕は休み時間に見つけては、彼をすぐさま呼びつけた。
    『おい。これ以上、ひじりに悪さをするなら、タダじゃおかないぞ?』
    『またかよ。正義の味方気取りの大日方信一くん』
     イジメのカースト上位の彼は、嘲笑った。
     僕は拳を握りファンディングポーズをつくった。
    『君が彼女に対するイジメをやめないっていうなら』
    『……ヒョロガリで弱っちいくせに、生意気だな』
    『お互い様だろ。馬鹿が』
    『……ぶっ殺してやる』
     と、言って近くの椅子を僕にぶん投げる。
     それが、二人の戦いの意思表明となった。
     そして、教室で殴り合った。
     もちろん、僕は戦闘力はそれほどではないから、彼のパンチや蹴りをまともに受けて、何度も死にそうな目に遭った。
     だけど僕には又虫返しアンチノミーがある。
     納得のいかない結末は、僕が僕自身を否定したことになる。強制的にタイムリープして、何度も戦闘経験を得て、彼の攻撃パターンを暗記する。

    『君が彼女に対するイジメをやめないっていうなら』
    『……ヒョロガリで弱っちいくせに、生意気だな』
    『お互い様だろ。馬鹿が』
    『……ぶっ殺してやる』
     まずは、右の蹴りから、僕の鳩尾を狙ってくる。
     それを避けて、左手を振りかざす。
     敵はそれを反射的に躱そうとする。
    『くッ、この』
     体勢が崩れたまま、僕の顔を殴ろうと向かってくる。
     その腕の軌道は何度も見てきた。
     それを裏拳で横から叩く。
    『痛』
     腕への不意の一箇所の攻撃に敵は驚きを隠せない。
     それはまるで、全て行動がわかっているかのようで。
    『もう終わりか? もう後がないぞ?』
    『へ』
     思いっきり振りかぶった右腕を彼の顔面に叩きつけようとした、刹那。
    『もういいよ。もうやめて、信一くん』
     背後から聖川ひじりの声が聞こえて我に返った。
     愉悦のためなら、人を殺しかねない彼だった。
     数十回目で、やっと、イジメをする男子生徒の一派を打ち負かすことができた。それだけを、今回の愉悦の飯のタネにすることにした。
     見た目こそ、傷はないが、彼は何度もタイムリープを繰り返しているため、精神的にはボロボロだった。
    『愉悦、である』
     それは、長い戦いを終えて、一仕事終えた愉悦。
    『ありがとうね。今回も、能力を使って私のことを助けてくれたんでしょう?』
    『まあ、な。君に怪我がないなら、それでいい』
    『ふふ。自分の愉悦のためのくせに』
     彼女は、笑っていた。
    『はあ。なんで、こんなことになっちゃうんだろ』
     そして、ため息を漏らしていた。
     彼はそんな夢を見た。
    「うーん。愉悦、である。むにゃむにゃ」
    「あんた、寝ながら愉悦に浸れるなんて変わってるわね」
     彼女に声をかけられて、大日方信一は机上で目が覚めた。
     隣りには、目尻を下げて笑っている聖川ひじり。
     彼女との失われた筈の記憶が、呼び起こされることはなく、彼は愉悦部の一日を始めた。
    「今日はため息を吐かないんだな」
     何気なく言ったひと言が自分でも、不思議だった。
     まるで、あった筈の記憶が繋がっていく感覚。
     たとえ夢のお話しであろうとも。
    「まあね。あんた、もしかして、何か憶い出した?」
    「んや、なにも」
    「……そうよね。私によってこの世界は」
    「ん?」
     惜しいといった感じで、目を伏せている彼女だった。
    「今日は九月十五日だよな?」
    「だから?」
    「……」
     どうやら、彼女は知らないふりをしているらしい、と彼は思った。
     何故、彼女は今日起こることをわかっているのか。
     大日方信一は考えた。
     しかし、それは記憶が消失した彼にとって知らなくて当然のことだった。世界消悪(掌握)ワールドデリートの異能力を持つ彼女に、知らないことなどないということさえ。
     彼女は、彼の結末を見届ける、舞台装置の重要なひとり。いつまで経っても終わらない。彼を、愛する少女なのだと。
    「ねえ。今日もあの場所に行こう?」


     いつもの空き家。もはや廃墟と化した場所に行って話しをした。世界の終わりのように、退廃していた。だから空想が膨らむ。
     そんな彼を驚かせようとしてか、彼女は廃墟の中を歩きながら、
    「ねえ。私、この世界線では人気者なの。友達がいないって言ったのは嘘」
     と言った。
    「え」
     急に彼女が訳の分からないことを言うものだから、面を食らっていた。
    「あんたと私との記憶だけを世界から消去した。するとね、私はイ・ジ・メ・て・く・る・や・つ・を・消・去・す・る・し・か・な・か・っ・た・。辻褄合わせのためにね」
    「き、君は一体、何を」
    「こうするしか、なかったんだ。あんたの能力を使わなければ、私はこの過酷な学生生活を生きては行けなかった。だから、消したの。このリストカットはその罪悪感のせい」
     日が落ちて、薄暗くなった世界で彼女の表情は読み取れない。
     大日方信一は、よく知らない女の子によくわからないことを言われていた。
     一方的に好きになられて、その彼女と築いた関係の記憶すら残っていない。
    「知ってるよ。大日方くん。いいえ。信一くん。私、信一くんのことを全て知っているの」
     ――タイムリープする前の世界のことも。
     彼女は、そう言って、二人で廃墟の階段を登る。
     崩壊した屋根を梯子を使って上がり、この世界の終わりのような風景を、高いところから眺めた。
     太陽が沈んだ。
     茜色が完全に果てるまで、ずっと二人で。
    「……」
    「どうしたの? こんなかわいい女の子と、世界の終わりに一緒にいられて、幸せでしょう? 終わるのは私の人生だけど」
    「いや、君がいなくなったら、僕の人生は」
     と言い出したところで、なんでこんな言葉が口から付いて出てくるのだろうと不思議に思った。
    「なにかおかしいな……愉悦ではあるけれど」
     愉悦部の彼は、腑に落ちないまま、夕暮れを最後まで眺めていた。
     隣りに人生で、最も大切な存在がいる感覚がある。でも、その理由が、記憶になかった。
    「だけど、幸せだな。人気者の美少女である聖川ひじりさんとこうしていられるなんて。これが、僕の望んでいた愉悦か」
     そう言って、自分を納得させていた。

     薄暗い空。
     千晴隼人は、廃墟の下で二人の子供を見上げていた。
     ワイシャツにネクタイ姿。
     スラックスに革靴。
    「わたしも、こんなことはしたくないのですが」
     懐に隠し持っていた拳銃に手を伸ばす。
    「正義のためです」
     そこで、彼のスマホの着信が入る。
     送信主は、誘拐犯だった。
    「……もしもし」
    「もしもし。千晴隼人さん。今日限りで『聖川ひじり』を受け渡せば奥さんと、子供は返しますよ。彼女は、あまりにも危険すぎる。わかってますよね。これは、世界保全のためなんですよ。そして、貴方のためでもある。貴方は、原子力発電所の所長であり、この町に建設予定の中間貯蔵施設建設を推し進めてきた。さらに、原子力発電環境整備機構【NUMO】の理事長である千晴千尋の息子だ。この地球に必要なのは、安心だ。聖川ひじりを使えば、この地球に蔓延る未来への不安を取り除くことができる。いいかい。想像力を持って、貴方がその引き金を弾くんだ。正しいのは、世界か一人の少女か」
    「……はい」
     それだけ言って、通話をやめた。
     スマホを、懐に戻して、彼は決断する。
    「言っておくけど、これはわたしの都合なのです」
     彼は、彼女を狙って銃口を向けて近寄る。
     大切なものを守るために。

     *

    「……ふう。大日方くん。また、やってるの? 空想」
     話しかけてきた女子は、太い眉と、大きな垂れ目がトレードマークのクラスメイト。
    「話しかけているんだから、返事くらいしなさいよ。全くもう、ため息しかでないわ」
     僕が彼女の顔をじっと見つめて、その次に、白いブラウスの袖からはみ出た手首に目を向ける。
     彼女のことを、思い出して、胸が苦しくなった。
    「また、やり直しか」
    「どうしたの? また、いつもの空想か〜?」
     にこやかに笑う彼女。
     彼女は、ため息を吐いていなかった。
     パズルのピースが足りない。
     憶い出が足りない。
     大切な、憶い出が。
    「なあ」
     少し、間を置いて、言った。
    「今から世界終末旅行でもしないか」
     学校なんか行かないで、この終わりに終わった世界を、電車で行けるとこまで行こう。彼女の好きな、映画を観たり、好きな衣服を買いに行こう。カフェ巡りをしてもいい。
     なんの関係もない彼女と、ずっとこの九月十五日を繰り返す。納得がいかない結末と、人生で一番大切な憶い出を同時に作りに行こう。
     それも、彼にとっての愉悦だった。
    「いいよ」
     彼女は、全てを知っているかのように、意味深に笑った。
     学生服のまま、学校を抜け出した。
     手首のリストカットの傷を隠す、リストバンドをデパートで買った。彼女の手を引いて、悪モノから逃げるように、彼女が行きたい場所を電車を乗り継いで遠くまで行った。
     この世界に居場所が、欲しいと思っただけなのに。
     彼は、思う。彼女を、こんな目に合わせた自分に腹が立つ。そして、世界がとても醜く思えた。
     映画館に行って流行りの映画を観た。そのエンドロールに、彼女は泣いていた。どこにでもいる女の子。どこか変わっていて、そんな泣き顔もするんだと彼は感心した。
    「私、いままでの人生の中で、今日が一番幸せだったかも」
     日が暮れる頃、隣りで歩く彼女はそう言って、嬉しそうに笑った。
    「それに、大好きな人とこういられるんだもの」
     彼の腕にぴったりとくっつく聖川ひじりは、紛れもなく世界で一番幸せな女の子だった。
     たとえ、今日が最後の一日であろうとも。
    「……」
     なぜ、彼女は自分のことを好いているのかわからない大日方信一は、困惑しながら、でも、それでいて「ま、いっか」と呟きながら、街頭を歩く。
     僕と彼女の間になにがあったのか知らないけれど。
     心の奥底で、わかっていることがある。
    「ふむ。愉悦、であるな」



     大日方信一。彼の能力、又虫返しアンチノミーにより、何度も今日を繰り返す。
     記憶は引き継がれるが、日が暮れると彼女は組織に連れて行かれる。
    「また、失敗した、か」
     机の上で、タイムループしたことを実感した。
     その回数が増えれば増えるほど、彼は精神的に消耗していく。
     もう、妥協をした方がいい。
     愉悦部の彼は、潮時を感じていた。
    「ひじり、もうやめないか?」
     教室で隣りに座る彼女に言った。
     聖川ひじりは世界消悪(掌握)ワールドデリートにより、タイムループしても記憶は引き継がれる。世界で嫌いなものを消そうと思えばすぐに消せる、アンタッチブルな存在。
    「……私は、いいわよ。でも」
     ――でも、それは、あまりにも貴方らしくない。
     そう彼女は言っていた。
     彼は肩をすくめて、ため息を吐いた。
    「はあ。愉悦、では、ないな。全く、君がため息を吐かなければ僕がため息を吐く世界になるし、君がため息を吐けば、僕がため息を吐かなくなる。この世界は因果なものだね」
    「ほんとうに――でも、貴方と一緒に、色んな場所に行けて楽しかったわよ。何度も、この世界を繰り返して、世界の終わりの中で、世界で一番幸せな女の子でいられたもの。くっふふ」
     突然笑い出した彼女は、なにかが面白いようだ。
     もうみんな次の授業の科目に向かっている。
    「なに笑ってんだよ」
     世界と同時に取り残された二人は、笑っていた。
    「だって、信一くん。何度も、私を助けようとして、それでも、私は助からないのに助けようと追っ手から逃がそうとするんだもの。無駄だってわかっているのに。あはは、バッカみたい、くすす」
    「……あのなあ、僕は愉悦に浸りたいからやっているだけであってだな」
    「わかってる」
     そこで、口調を変えて真剣な眼差しを向けた。
    「わかってるよ。信一くんのこと」
    「……」
     はあ、と彼はため息を吐くことしかできない。
     信一くんと呼ぶ彼女と、ひじりと呼ぶ彼。
     名前で呼び合うまで、繰り返した後の世界線。

     教室の片隅で、今日を繰り返す彼と、嫌悪するものを消去する彼女は、語り合っていた。
     世界の終わりは、自分にとって今日であることを知っているのは、二人だけだった。
     彼らの都合でいつでも終わらせられる世界。
     悪の組織は、何度も彼らを追う。
     救世主、もしくは悪の元凶として。
     あってはならない存在として。
    「居場所が、欲しかっただけだったのかもな」
     ふと、大日方信一は、窓の外を眺めながら言う。
    「君との記憶はなんも残っていないけど。それだけは、確かな気がする。だから、僕はこの世界を――聖川ひじりといる場所を繰り返し選んだ」
    「……わ、私は、居場所を奪う人を無かったことにするしかなくて。そうでもしないと生きていけなくて。だから、信一くんのいうことわかるよ」
     少しだけ感傷的になる。
    「だって、私、信一くんがいなかったら、この世界全てが憎くて、全・て・を・無・か・っ・た・こ・と・に・し・て・い・た・はずだよ。そんなことになったら、寂しくて、虚しくて。全てが無価値に終わってた。だから、貴方は、私にとって救世主なんだ」
     涙を蓄えながら、そう言っていた。
    「ふぅん」
     机から頬杖をついて窓の外を眺める。
     それから、ちらっと振り返って言う。
    「別に、わかってるのは、君だけじゃない。知らないことは多いけれど、そんな告白されたって僕にはどうだっていい」
    「わかってる」
    「わかってないよ。君は、僕がわかっているということを、わかっていない。愉悦部の日常を、舐めてもらっちゃ困る。僕の世界はもっと壮大なんだ」
     他人の不幸は愉悦だと、彼は語るが、それ以上の愉悦をこれから見るのだと、覚悟を決めた。
     立ち上がり、彼女を鋭く見つめる。
     邪魔者を振り払うように右手を大きく振り払い、
    「――僕は、これから、愉悦を始める。君を絶対に幸せな結末にすることを誓おう」
     その懐に入り、抱きしめる。
     小学生の頃の記憶など無くなったまま、彼は、彼らしく振る舞う。
     ――正義の味方ではなく、聖川ひじりの味方をすると。

     まともになれない彼が、彼なりに下した決断。
    「君を幸せにする」
     その言葉だけで、彼女にとっては充分だった。
     やがて、悪の組織はやってくる。それさえも、愉悦部の彼にとってこの上ないスパイスとしてしか意味をなさない。
     やることは全部やる。
     愉悦のため、という彼には、彼女と過ごした九月十五日が大切なものとなっていたことに気づかない。

     放課後に、原子力発電環境整備機構【NUMO】が主催する、原子力発電の使用済み燃料の中間貯蔵施設建設の説明会が開かれる会議場に向かった。
     場所はすぐにわかった。
     市内の公共施設の棚にパンフレットとして、配られていたからだ。
     福島第一原発事故によって、ここで作られる筈だった原子力発電所はなかったことにされ、国から援助を受けることなく、衰退していった隣町。
     次は、核廃棄物の貯蔵施設を『中間』というお題目で、建設することを検討している。オープンにできない裏の事情があったり、そもそも後・ろ・め・た・い・こ・と・は・上・に・知・ら・さ・せ・な・い・といった社会の闇があることも事実だった。
     かくして、都心部の人の密集した地域ではなく、片田舎の人口減少と少子高齢化が叫ばれる場所につくり、地・域・活・性・化・の名目で、核のゴミを受け入れる。


     原子力発電環境整備機構【NUMO】の理事長、千晴千尋ちはるちひろは、とある研究所にて電話をかけていた。
    「……そう。順調みたいね。それじゅあ、また」
     電話の話し相手は、謎の男だった。
     通話を切り、執務室の椅子に腰かける。
     それからアンティーク調の木製の机に肘をつき、両手を組み合わせた。
    「まだまだ、足りないわ。この国の電力会社の需要は青天井。火力発電はあと数十年後には、数少ない資源を奪い合う国同士の争いに発展する。中東からやってくる化石燃料の船は中国の領海に隣接した海域を渡る。その資源を断たれたら、日本はほとんど電力を使えない『衰退した国』になってしまう。地震大国だからって、未来の人類のためにも使わない手はない。犠牲は承知の上よ。【NUMO】の理事長のわたくしが、原発のイメージを変えるために、原子力発電の安全性を説明して、国民のみなさまのご理解を得られるように頑張らないと」
     原子力発電環境整備機構【NUMO】は、日本語としては適正な名称とはいえない。
     実態としては、核発電推進機構と呼ぶのが適正だろう。使用済み燃料を捨てる場所が安心安全に確保するのが、この組織の役割であり、過去の文献と地層の調査が済み、十全に安全と最終的に判断が下れば、あとは原子力発電所の稼働にGOサインが出る。
     その使用済み燃料の貯蔵管理する場所の安全性を、国民に理解して頂くための説明会、原子力発電のことを正しく知るためのパンフレット配り、CM作成も理事長の担う仕事の大事なひとつだった。
     しかし、彼女には逆風が吹いている。
     十五年前の東日本大震災によって引き起こされた福島第一原発事故。いまも、多くの日本人の心に深い傷を残している。あの災害の末路。
     テレビ報道によって、鮮明に映し出された凄惨な現場が、未だに原子力発電によるイメージを悪くしていた。一度起こることは、二度と、三度起こる。
     そして、地方から供給された原子力発電の電力を東京に吸い上げられた末路が、原発事故により住んでいる場所を追われた町民としてクローズアップされ、可哀想だという国民的感情も無視できない。
     なにもかもが彼女の計画とは、正反対に向かっている。

    「それでも。その女の子の奇跡が本物だとしたら」
     ――嫌・悪・す・る・も・の・を・無・か・っ・た・こ・と・に・す・る・あの聖川ひじりの奇跡があれば、可能かもしれない。
     この考えることをやめた、人々の陰謀論によってわたくしが脅迫を受けることもない。
     息子なら、きっとわかってくれる。
     いや、わかってくれなくていい。
     千晴隼人の妻と子供を誘拐して、聖川ひじりをこの研究所に連れて行くことを強要した、わたくしのことを。

    「さて、もうそろそろ、説明会の時間ね」

     ここからそう遠くない場所。
     片田舎の、中間貯蔵施設建設に対する住民への説明会。
     全ては息子のためであり、世界平和のためでもある。
     愛の形が歪んでいるだけ。
     正しさのために、彼女は突き進む。

     千晴隼人は焦っていた。
     どこを探しても、聖川ひじりがいない。
    「ち。もう少しで、約束の時間なのですが仕方ありません」
     そう言って、苦い顔をしながらスマホの画面をタップする。
     そこには、人工衛星から目的の人物を探し出すアプリが表示されていた。
     国家機密の中のさらにトップシークレット。
     国家予算の全てを捧げても足りないほどの、精密な探索技術がそこには詰まっていた。
     千晴隼人、暗部のさらに深い闇を知る者。
    「彼女の存在が公になる前に、始末するか、保護して軍事利用するというのが、お偉い方の意向ですが、わたしは違います」
     ――家族を人質に取られているとはいえ、この冷静さ。
     親と子は似る、を体現していた。
    「わたしは、わたしの都合で……ん?」
     そこで気づいた。
     聖川ひじりは、母のいる会議場に向かっている、と。
     これまで彼女を監視してきたが、こんな突飛な行動はなかった。
    「もしかしたら、誰かに何かを吹き込まれた?」
     大日方信一のことを知らない彼は、ただそれから黙考を続けた。
    「……仕方ありません。少々面倒ですが」
     車を走らせることにした。
     正義のために。
     誘拐された家族のために。
     明るい地球の未来のために。
     彼女は、犠牲になって頂くしかありませんから。

     判断を決めたら最後、行動には迷いはなく、ただ真っ直ぐに道の先を見つめていた。
     ハンドルを握る力が強くなる。
     制限速度を超えて、彼は今日も地球の平和を守る。

     彼は過去に言われたことを思い出す。
     原子力発電は悪だとして、実名がネットに出回ってしまい、散々誹謗中傷を受けたこと。
     母の事業の手伝いの一環として、原子力発電環境整備機構【NUMO】とはどういった活動をしているのかの説明会を行っている最中の野次は散々たるものだった。
     ――言っておくけど、お前の都合じゃ動かないからな!
     ――貴方のせいで、日本はめちゃくちゃだ。なんてことをしてくれるんだ。この町から出ていけ!
    『原子力発電の反対派には過激な人もいて、ポストに脅迫文が届くこともありました。原子力発電所の所長として、誠心誠意を持ってお伝えしたことが、反感を買うことになる。致し方のないことです。人それぞれ、事・情・というものがありますから。――しかし、それはきっと、わたしにとっても同じだったのでしょう。愛する我が子を守るために、自らの手を悪に染めるものたちや、たったひとりのために世界の寿命を縮める選択をした人たちの、何が悪いのでしょう。……世の中には都合のいい真実と、都合の悪い真実がある。テレビの偏向報道や、ネットリテラシーの欠けた陰謀論もそうです。客観的な事実なんてものは稀で、真実はいとも簡単に捻じ曲げられる、それなら、わたしは、貴方の都合では動かない』
     ――わたしの都合で生きる。それだけなのです。



    「やっと、見つけた」
     大日方信一は、息を切らして会議場に着いた。
     目の前には、千晴千尋が、中間貯蔵施設の説明会を行っている。
     壇上に上がった彼女は、雄弁に説明をしている。背後にあるホワイトボードには具体的な、施工日程が記載されていた。
     聖川ひじりと彼はパイプ椅子に座って、しばらく聞き耳を立てていた。
    「に置きまして、我々は万全の準備をして参りました。使用済み燃料が配置転換になるまで、近隣住民の方々にはご心配をおかけ致します。人口減少で、働き手が県外に行って帰ってこないというのが、この地域の現状だと、個人的には思われます。ひとつこの場所に、働き手を増やす架け橋になれば、とわたしは思うのです。寂れていつ陥没してもおかしくない道路の整備や、福祉施設の改良。国から出される補助金を使って、近隣の住民にとって、素晴らしい町づくりをしませんか?」
    「……」
     誰か反対意見が出そうなものだけど、そういった声は上がらなかった。
     しばらくして。
    「あの」
     ある人が手を挙げた。
    「もし、放射線物質が漏れ出たら、四キロしか離れていない住まいからは強制的に離れて行かないといけなくなるわけですよね? ずっと住んでた島から追い出される人の気持ちが、貴方にわかりますか?」
    「もちろんわかりますよ。ですが、この世に絶対に大丈夫ということはないのです。いくら安心安全を誇張しても、救えない命はどうしてもある」
    「……だから、自ら、近隣住民が犠牲になれと仰るのですか?」
    「そうは申してはいません。要は、リスクとリターンの問題なのです。言ってしまえば、残酷なことも、オブラートに包むのが日本語というもの。ですが、これだけはキッパリと申し上げなければなりません。このままでは、この地方に働き手はいなくなり、貴方がたはいずれ歳を重ね介護老人福祉施設に入居しなければならない、そうした時に、面倒を見てくれる働き手はいますか? もう時間の問題なのです。ごく少数の片田舎のために予算をさこうなどと国家行政の役員は考えていません。お金が潤沢にある都心部の経済を効率的に稼働させることしか考えていませんよ」
    「な、なんでそんなコトをするんですか? わたしは反対です! まだ、ここに住んで思い入れだって強いご高齢の人も住んでいるのに、そ、そんなの弱いものいじめじゃないですか?」
    「弱いもの? 生き物はいずれ老いて朽ち果てる存在です」
    「な、そんなのっ、酷すぎます」
     そんな会話を聞いていた、大日方信一は彼女を連れて壇上に上がる。
     制服姿のままなので、人目を惹いた。
    「貴女、もしかして、聖川ひじり?」
     そう、理事長が驚く。
     その間の隙を見て、声を上げた。
    「みなさん。僕は大日方信一です。今日は訳あってこの場所に馳せ参じました。これから、思考実験をします。ここにひとりの少女がいます」
     彼女の手を握ったまま、喋る。
     聴衆は呆気にとられている。
    「もし、この議題に上がっている悪の元凶である使用済み核燃料を無・か・っ・た・こ・と・に・で・き・る・人物が彼女だとしたら、全ては解決しますか? いいえ。しません。彼女は、能力の代償を支払う形で、この世から存在が消えてしまうからです。よく議題にある話しです。最大多数の最大幸福。彼女を失えば、僕は、悲しい」
    「なにを言っているんだ? こいつはなんなんだ? こんな子供が、口を挟むんじゃない早くつまみ出せ!」
     議会を仕切るひとりが、僕を取り押さえようとする。
    「無理ですよ。僕は、既に今・日・を・何・度・も・繰・り・返・し・て・い・る・。貴方の行動は全て手に取るようにわかる」
     そう行って、躱す。
     たった一歩で、ただものではないと悟る。
     愉悦に満ちた笑み。
    「だから、こうするんです」
     隠し持ったナイフを持って、僕は自らの首を突き立てた。
    「信一くん? なに、してるの?」
    「僕が死ねば、このループは終わる。結局はこうするしからなかったんだよ。思い知らせてやるのさ。この世界の醜悪さを、そして、僕の切実さを」
    「や、いやだよ。なんで、あんたがそこまで」
    「思うに、聖川ひじりは、どんな結末でも満足しない。僕がやっている愉悦は、独りよがりでどうしようもなかったってことだ。どんな選択肢をしても、君は世界を滅ぼすだろう。そして、二人だけの楽園をつくる。そんな結末も愉悦ではあるけれど、君にはそんな結末を送ってほしくないんだ」
     千晴千尋は、少しだけ、事情を察して黙っている。
    「なあ、理事長。僕を、利用してくれ。僕は何度もこの世界を繰り返している。だから、アンタのいう理想の結末を手伝ってやってもいい」
     首筋に一滴の血が滴る。
    「……本気なの?」
    「ああ。僕の能力は又虫返しアンチノミー。この世界の不都合を、僕にとって都合よく書き換える。それまで自動的に繰り返される。この次にアンタのいうコトもわかっている。『まさか?』」
    「まさか……」
     そう言って口を噤む。
     どうやら、彼の言っていることは本当のようだ。
    「ねえ。信一くん、こんなこと、やめようよ」
     彼女はいまにも泣き出しそうだ。
    「まだだ。まだ、僕は愉悦に浸れていない。君を完全に救うまで、僕は終われない。そういう運命なんだ」
    「……わかったわ。貴方、わたくしの研究施設まで来なさい。それで、全てわかるわ」
    「……ふう。ようやくわかってもらえたみたいだな。繰り返し三十回はやったが、これが正解みたいだな」
    「いや、」
     そこで、聖川ひじりは、ついに泣き始めた。
     愉悦部はこれが見たかった。
    「大丈夫。これで今日を繰り返すことはなくなった。少なくとも、君が世界を嫌悪して滅ぼすこともないだろう。本当によかった。僕は、君をなんだが、愛してしまったみたいだから、こんな醜い世界のことも嫌いになってほしくないんだ」
     言うだけ言って、ぽんと彼女の頭を撫でる。
    「今日まで、よく頑張ったね。君との記憶は知らないけれど、繰り返しの最中で随分と長い時間を共にしたから、なんとなくわかる。僕は、君に心を捧げてもいいほどに、救われていたんだ。愉悦部であるこの僕がいうんだから、間違いない」
    「うん」
     彼女から離れて、屈強な男達と一緒に連れて行かれる。
    「私、貴方と何度も、何度も今日を繰り返して、こんな世界も悪くはないって思えたよ。でも、一緒にいられないなんて、想像しただけで、ぅう」
     聖川ひじりはその場にうずくまって泣き出した。
     これまでにないほどの、大泣きで、目から洪水のように次から次へと感情が溢れていく。
    「ふ、ぅえーん」
     人間、純粋に泣き声を発したらこんなにも脇目もふらないものなのかと、驚くほどだった。
     聖川ひじりの左手首の傷が強く光りだした。
     またか、と彼は思った。
    「あぁ、ひじり、だめだよ、これは」
     彼女に手を伸ばして慰めようとするが遅かった。
     また、繰り返してしまう。
     そう思った刹那、世界は終わっていた。
     大日方信一と聖川ひじりしかいない世界。
     要するに彼・女・は・こ・ん・な・世・界・を・嫌・悪・し・て・し・ま・っ・た・のだ。
     彼女を愛していた彼と。
     彼を愛していた彼女は。
     その場所で、また笑い合った。
    「これはこれで愉悦ではあるけれど」
     そう呟きながら、泣き腫らした彼女を抱きしめる。
    「馬鹿みたいに長い旅をしたよなあ」
    「うん。楽しかった。あはは」
    「本当に、愉悦だね」
    「つまり、もう繰り返されないってコトなの?」
    「そうだね。結局僕は、君とこうしているのを望んでいたんだと思う」
    「こうして二人で一緒に」
    「そう」
    「なにもないけれど、君が側にいる。それだけが僕の全てだった」
    「さいごに何か言って」

     なにもない世界で、呟く。

    「至極、愉悦」


     又虫返しアンチノミーは、不都合な真実をやり直す。全て、彼にとっての都合のいい真実へと導く。そうなるまで、何度でもこの日を繰り返す。
     またしても、大日方信一はこの九月十五日を繰り返した。
     それは、彼にとってこの世界は不都合な真実で溢れていたからだ。
     愉悦に浸ることの障壁となる事柄が、回を重ねる毎に増えていく。
     そのため、安直な世界の終わりに妥協をすることができなかった。
    「まったく、いらない感情ばかりだ。虫唾が走る」
     彼女がいれば、それでよかったのに。
     大人たちは、それを、説き伏せる。
     一時いっときの感情で未来を粗末にするな、と。
     大日方信一が求めるのは、愉悦に浸ること。
     何度、目の前が真っ暗になっても、変わらない。
    「また、教室に戻っちゃったね」
     隣りの椅子に座る聖川ひじりの声を聞いた。
    「なんで、こうなっちゃうんだろ。全部、私が悪いのかな」
     彼女がそう言って天井を見上げているのを観ている。
     そう思い込ませる世界が憎かった。
    「そう思い込むのもこの生きてる環境のせいだ。結局は、お金が全てと言っていいくらい人間の心は、単純。誠意を示すことなんて、できない。だって、ひじりが傷つけられるのは、人と比べたがる人間社会の醜さによるものだから。いや、誠意を示すならこの世でもっとも共通認識された価値を提示するしかない。それが、お金だってこと。与える者は常に上から目線で、僕みたいな理想を掲げている人間てのは馬鹿に『される』しかない。馬鹿に思うけれど。人間てのは、単純なんだ。大したことはない。それを、何度も繰り返し、見てきた」
     語り出した大日方信一の口は止まらない。
    「平等ではないのは前提として、この世界は生きていかないと、嫉妬で狂いそうになる。隣り町の、核廃棄物処理場を建設することで得をするのは、その寂れた町に住む人だ。だけれど、その恩恵を受けられない僕らの市民全体は反対する。善意を表に出すことで、本心を語らない。馬鹿みたいだよな。そうだよ、僕は馬鹿だったんだ」
     そう言って、黙っていると「違うよ」と声がした。
     首を横に振り、彼女は震えていた。
    「信一くんはなんにもわかっていない」
     そのまま、声にならない涙を流す。
    「人ってのは、他人の痛みがわからないから当然だ。僕は、なんにもわかっちゃいない。いや、僕だけじゃない。ただ、確かなのは痛みだけが本物だということ。それ以外が偽物だとさえ思えるくらいに」
    「私の気持ちが偽物だっていうの?」
    「その言葉の意味が、よくわからない。僕は、愉悦に浸りたいだけの男子中学生だ」
    「……もう、いいよ。別れよう」
    「ふむ」
    「愉悦でしょ?」
     乾いた笑みを浮かべて、この教室を立ち去った。
     別れるという言葉の意味を、考えている大日方信一だった。
    「さて、と。僕は、僕で愉悦を始めるとする、か」
     脳内で、あらゆることを都合よく解釈する。
     聖川ひじりは、どういう存在なのか。
     彼女は、僕のことをどう思っているのか。
     それらを全てこじつけて、脳内補完する。
     彼がいつもやっていることだ。

     彼が繰り返し見てきたこと。
     それは、人間の表に出さない悪感情だった。
     人間は社会の中で利害関係で生きていることを知ってからの、絶望的なまでの、夢のなさにため息を漏らした。
     核廃棄燃料の中間貯蔵施設を建設する案についてもそうだ。
     海に面した小さな田舎町に建てられることを提案したことで反対したのは、その町外の市民だった。
     政府から潤沢な支援を受けられる、若者の激減した小さな町。
     町長は、本来この町に推し進められた筈の原子力発電所の建設に賛成の立場だった。
     町長を選挙で投票した町民は、つまり、原子力発電所の建設にどちらかというと賛成だった。
     しかし、市議会議員選挙による市民全体の利害に一致しなかった。
     そして、電力会社による株主総会の議題における最大の問題は値上げした火力発電費の代わりになる再生エネルギーの開発だった。
     結果的に、代替え案など出ないまま、過去に起きた凄惨な事故、福島第一原発事故による株価の暴落から立て直す手立てが見つからないでいる。
     政府からの支援が得られないまま、電力会社の株価は急落した。
     そこに投資をした株主は改善案を求める。
     メガソーラーを設置する企業に補助金を出した政府は太陽光発電を推し進めているが、結局はその場しのぎの対策に過ぎない。田舎の森林が切り倒され、田畑だった土地などにメガソーラーの設置がされている。
     空き家の立ち並ぶ田舎に住む農業を辞めた高齢者は高額で土地を売却した。
     それが、二千二十六年のこと。
     都市に人口が集中するのは、一ヶ所に集まって働かせる合理的で機械的な組織を作り上げるためだった。
     大学は都会に集中して、田舎で学んだ若者は地元を離れていく。
     働かない人が生活保護を取得して得をする仕組み。
     株は結局、お金を沢山持っている人間がより多額の投資をして得をする単純な仕組みになっている。
     いつまで経っても、弱いものは強いものに勝てない。
     持つものと持たないもの。
     その貧富の格差による不平不満によって国民の暴動が起きないための、生活保護だったはずなのに。
     それを、利用する仕組みに、成り果てた。
     お金や健康や頼る家族など、失うものがないものが、生活保護という制度に助けられた人がどれほどいたか。
     それを知るものなど、いない。
     廃れた町に推し進められた、原子力発電施設。
     国からの補助金によって企業は、住民にお金を配る。
     そうするとそこに住む地域にだけ利益を得ることになるため、市民全体は反対する。
     反対意見は表向きには、人道的な『原発事故の被害』による住民の被害や不安を負わせないためだと主張するが、実際にはそれ以外の利害関係に依るものが強い。
     大日方信一は、その資本による利害関係の歪さに嫌気がさしていた。それも当然とえば当然。彼は、男子中学生でしかない。大人になれば守りに入る筈の考えに至らない。
     悪いものは、悪いものであり、矛盾しない。
     正しいものは正しいと、主張する。
     それが全てであり、世の中には絶対的な正しさがあるとどこかで信じている青年だった。

     聖川ひじり。
     彼女が、いなくなって、タイムループが終わった。
     大日方信一は、空想をする。
     嫌悪するものを無かったことにする人間。
     世界を巻き戻すことのできる人間。
     どちらが、幸せだったのか。
     わかりきっている。どう考えても、僕の一人勝ちだ。
     ギャンブルや投資にだって勝てる能力を持つこの僕には、成功しかできない。
     つまり、いまのこの状況すら望んでいたことなのだ。
     聖川ひじりが、隣りからいなくなる未来。
     それが、僕にとって愉悦だった。
     たった、それだけのこと。
     彼女は僕に感謝しているだろう。
     なにせ、大日方信一がいなければ、今頃彼女は……。
     そう空想して、悦に浸る。
     愉悦に浸る。
     本当に僕は悪い人間だ。
     人間の悪いところが出ている。
     本音と建前を分けることができない。
     愉悦に浸るために、生きている。
     それだけの、こと。
     仲違いしたように感じられるが、内心、彼女は僕に感謝している。それだけは、確信している。揺るぎないことだ。
     彼女は僕が必要だったし。
     僕は彼女が必要だった。
     それは利害関係であったし、愛情と呼べるような概念でもあった。それをどう捉えるかは、人それぞれだ。
    「苦労は買ってでもしろとは言うけれど。株を買えってことだとは知らなかった」
     そんな皮肉を言う大日方信一だった。
     苦労をすれば、苦労していない時の有り難みがわかる。
     株価が上がれば苦労をしないし、株価が下がれば苦労をする。
     リスクを取らないことがリスクであるという逆転の発想に、現代日本がなりつつあった。
     その先の株式投資への啓蒙。
     日本全体の株式市場は全体的に株価が上昇している中、電力会社だけが平行線を辿っている。
     電気料金の価格競争が激化した結果、電力会社は赤字経営が続いている。それなのに化石燃料の値段は上がり続ける。
     再生可能エネルギーの題目で太陽光発電や風力発電を国政が支援するも、代替え案としてはエネルギー供給源として心許ないため、経・済・を・回・す・ためには現行の火力発電をフル活用するしかないというのがこの国の共通認識だ。
     株式投資をすることで、世界全体の流れが見えてくる。株主総会で議論されるのは改善案だが、政府の受注に依存している電力会社には、打つ手がないのが実情。ものを言わない株主たちは、表には出さないが原子力発電所の建設を迅速に進めていただきたいと願っているものが半数を超えていた。
     テレビメディアによる偏向報道が減り、原子力発電に依存するしかない未来への投資に関わる人々の機運も高まってきたのだ。

    「ここがどこなのかなんて、どうだっていい」
     大日方信一は、繰り返す日々に疲れていた。
     都合のいい世界を作ろうと思っていた。
     愉悦に浸れる世界の創造。
     それが、彼にとっての全てだ。
     空想する。
     本当に、理解し合えたことを。
     ひとりぼっちだった頃のことを思い出した。
     そんな中、隣りにいたのは聖川ひじりだけだった。
     互いに信頼し合えた日々を思い出した。
     あれは、決して偽物ではなかった。
     心の底から信用していた。
     それは、きっと彼女の方もそうだったのだと、彼は思っている。
     社会から疎外されたもの。
     それは、彼女だけではない。
     大日方信一もまた、納得のいかない現実を変えるために今日を繰り返すたびに、ひとりぼっちになっていた。
     繰り返しを知っている者は、彼だけだった。
     彼女を知る前までは。
     二人でいる時は、不思議と誰にも理解されない孤独感が和らいだ。
     与えられていたのは、僕の方だった。
     それに気づいてしばらく途方に暮れた。
    「もう、なにもする必要が、ない……もう終わりにしようか」
     自分のしていることが、愉悦を感じるためだとしたら、既に叶っている。
     言葉にしなくても、僕は彼女に感謝している。
     それは、愉悦に浸ることと同じくらい、大日方信一を満足させるものだった。
     満足してしまえば、彼はその日を繰り返す又虫返しアンチノミーの発動は起きなくなる。
     そして、彼女はやがて世界消悪(掌握)ワールドデリートを使い、世界を滅ぼすだろう。
     そして、全てが終わり、終わりに終わり、終わり続ける。これまでやった、人類の功績も子孫繁栄も無に着して、株価の上昇を遂げた資本主義の未来は、唐突にも終わりを迎える。
     大日方信一は、そんな未来でもいいと満足していた。
     痛みも、詐欺も、苦しみも、愛情も、同情も、感謝して終わりを迎えたい。
     聖川ひじりに出会えたことを心の底から感謝した。
     言葉にするまでもなく、わかっていたこと。
     今も、未来も、やがて歓喜に満ちる。
    「愉悦」

     現在のところ日本に点在している東京ドーム三十個分のデータセンターに電力を供給しているのは、火力発電だ。
     近年AI技術の進歩により、電力供給量は莫大に増えた。
     十年後には世界の原子力発電の設備容量を三倍にしなければ供給が追いつかない計算になると、米国のとある大企業のエネルギー会議で示されていた。
     日本も米国の支配下であり、外国に依存しているエネルギー資源が枯渇した時のために、自国の資源『ウラン』を利用することに前向きだ。
     カーボンニュートラルという、横文字で政治家は二酸化炭素の排出を実・質・ゼ・ロ・にする政策を打ち出して、票を得るためにいまも動き出している。
     明治時代の富国強兵により人口が不自然に増えたことや、昨今のエネルギー需要が増えたことが問題だとは、どの政治家も訴えない。
     減らすことではなく、経・済・を・回・す・ことを訴える。
     インフラを拡大する方向にシフトしている。
     それが、人口減少を辿る日本や世界全体の環境を破壊していることには目を向けないまま。
     聞こえのいいことだけが、建前として並べられて、それが実行されることはなく、いま生きるので精一杯の若者達は平等に貧しくも豊かな暮らしを満喫している。
     日本は変わらない。
     変わらなくていい。
     現状を諦めている若者と、高齢化社会における選挙権の投票に有利な老人が、この日本を衰退させていた。
    また同じ一日を繰り返す
     資本家や大株主が得をする政策を、政府は打ち出した。
     それがNISAという低所得の人に株式投資を促す非課税制度だった。
     やがて、NISA貧乏という言葉が流行りだすほど、貧富の格差は広がっていった。
     唯一の救いは、日本が手厚い福祉医療制度を導入していたことだった。
     若者は平等に貧しくなり、平等に豊かになった。
     人口減少の叫ばれるこの田舎町には、やがて新型の原子力発電を作るための予算が割かれる。
     あれほど、反対していた近隣の住民は衰退していなくなった。反対勢力はむしろ、県外の反対運動に取り組んでいる団体に限られた。
     各国との競争に負けないためのエネルギー供給は日本政府の喫緊の課題であるため、他国に依存していた化石燃料を半分に減らして、原子力発電で賄う計画が進行した。
     地震大国であること、土地面積が狭いことを指し引いても、やらない失敗よりやる失敗で学ぶしかないというのがこれまでの人類学的な行動指針であった。
     壊すことで新たなものが生まれる。
     男が攻めなら、女が守り。
     それ以上でもない。
     理屈、原理はいらない。
     資本家の意向に沿う形で頼りなくなった日本の政治家の与党の発言は、どれも白々しく、聞こえのいい言葉で国民をいい気にさせた。
     資本家が損をするなら戦争に踏み切るのも辞さないというのが、某諸外国の貧弱な体制である。それに追随する方で、日本は株式投資に力を入れている。
     それを疎ましく思う庶民がいないことに、富裕層や政治家はほっとしていた。
     インフレが加速してもお金を使わない国民的であるため、賃金が上がらないまま預金するだけの貧困層と、投資をするだけの余裕がある富裕層。この二極化で分断が起こりつつある。
     さらに、貧困層の中でもさらに低賃金で働く貧困層や安い賃金で働かせる外国人労働者や働かない生活保護の受給者や生活保護を受給しないホームレスなどの差別や迫害が深刻な問題となっている。
     いつまでも、弱いものはさらに弱いものを見て自分はまだ大丈夫だと安心する人間の性が残る。
     イジメをするのは快楽からであり、それは株式投資と同程度の依存性がある。
     失うことを恐れるものは、イジメに加担するようになる。本能に従う人間社会の構造上の問題がある。
     大日方信一は、この人間社会の醜悪さに嫌気がさしていた。
     ただ、繰り返すことなくこんな世界が勝手に滅びていくのを見るのも愉悦であるなと感じていた。
    「衰退していくこの世界を眺めながら、生きていくのも愉悦ではあるな」
     それも、聖川ひじりが世界を嫌悪するまでの間。
     日本に限った話しでいえば、エネルギー需要がAIの進化により膨大に膨らんだため、現行の液体燃料の消費では費用がかかり過ぎて、国民の負担が大きい。
     世論は、資本主義の経済成長の幻想に捉われている。
     それを、与党と利権団体が利用しない手はない。
     核廃棄物処理の場所が決まっていないにも関わらず、閣議決定され周りもなんとなくで空気を読み、生産ばかりがされていく。
     廃棄物処理の問題は、昔から棚上げされてきた世界的な問題ではあるが、例に漏れず、日本も弱い立場の存在がなかったことにされ、不都合な真実を知らない地方の住民のもとへと押しやられていく。
     土地を危険にさらすことの報酬として国からの補助金を受けるために、核廃棄物処理場を反対する住民が声を上げているというのが実状だった。

    「死にゆく時まで、この世界を眺めていよう」
     それが、愉悦だった。
     衰退していく日本。
     失われた三十年とはいうけれど、バブル期が異常だったのだと気づくものはいない。もしくは、気づいてはいても、周りに合わせて同調しているだけか。
     高台の上から見下ろす。
     ここからでも空き家がいくつか立ち並んでいるのが見える。
     これが限界集落に向かう地方の風景。
     インフラを整備、拡大して、都会からやってくる若者を増やそうとしているが、この人手不足の少子高齢化社会において、それは悪手に彼は思えた。
     先ずは土木工事の手抜き工事をやめさせて、真の意味の安心安全な整備計画を立てるべきだ。
     そのためにも既存の自然を壊す、交通道路拡大はするべきてはない。土砂崩れの問題が起きるのは、素人目にもわかる有様に地方はなっている。
     どんな仕事でも同じだが、現場で働く人間は、特に自分のしていることの後ろめたさを感じていることだろう。
     人を期待するな。
     それは、つまり、どういうことか。
     大日方信一は考える。
     愉悦に浸るだけ浸って、人に期待しない。
    「それこそが、僕の求めていた答えだったのだ」
     繰り返して、繰り返して、繰り返した結果。
     ようやく、なにか掴めた。
     いや、手放した。
     普通の人間が手に入れるものを。
     手放した先に、答えがあった。
     それが愉悦だった。
     普通の人間が手に入れる快楽を手放したから、得られた快楽があった。
     人と比べて苦しむこの競争を急かされる人間社会において、僕のこの考えは、異端ではあったかもしれない。
     苦しみは少なければ、少ない方がいい。
     それで成長できたなんて、万人受けする物語なんて、僕には必要ない。
     ただ、僕は、愉悦に浸りたいだけなのだ。
     人に迷惑をかけない範囲で。
     聖川ひじり。彼女は、僕に感謝している。僕がいなければ、彼女は、こうして生きていられなかっただろう。
     イジメは快楽だから、それによって、人間によって疾っくに自害をしていただろう。男性より女性の方が、自殺率は低いことを鑑みても仕方ない。彼女の未来を知っている僕からしたら、事実は事実でしかない。
     誰かの信じる真実に対して、僕は苦笑するしかないのだ。なにせ、タイムループを繰り返すことで、真相の深い部分まで知ることができるため事実が絶対だと経験としてわかっているからだ。
     逆にいえば事実すら変えてしまえるのが、僕の能力である。
     精神的な負担が大きくて、タイムループを繰り返せば繰り返すほどに疲れる。
     自分を知っているものは誰もいないという孤独感に苛まれるとともに、また、失敗したのかという嘆き。
     それを繰り返すのは地獄だった。
     愉悦に浸ることなんて、できるはずもなく。
     僕は、愉悦に浸ることでタイムループを解除することができるのだが、その正解を、大切なものを助けないことで、成し遂げることにした。
     又虫返しアンチノミーたくなかった。
     だから、世界消悪(掌握)ワールドデリートした。彼女の手によって、全てを終わらせて欲しかった。
     どうやら、僕と聖川ひじりは特別な関係らしい。
     彼女は、きっと僕以外の全てを悪と決めつけて、消去してくれるだろう。
     そこに酸素はあるのだろうか。
     そもそも大気はあるのだろうか。
     それらは、彼女にとっての悪になり得ただろうか。
     最低限、僕が生きて行ける地球だけは取り残して欲しい。でないと、愉悦に浸る時間がない。そう願っていることを知っているだろうから、聖川ひじりは、それらを残して世界を終わらせてくれるだろう。
     国家軍事兵器なんて生優しいものではない。
     彼女は、この世界を終わらせることができる。
     痛みを感じる暇を与えないまま。
     そんな場所で、二人で暮らすのも悪くない。
    「彼女は、僕に感謝している。この結末からは逃れられない……愉悦である」
     高台からこの世界の全てを牛耳っているという支配欲が満たされて、心地よい。
     これが、世界を終わらせることのできる女の子と、今日を繰り返すことのできる男の子の、結末。
     経済成長を促し格差拡大することが資本主義の本質であり、その犠牲になった女の子を救い出すことを、やめた大日方信一の物語の終わり。
     ゴミをどこに捨てるか問題は、昔の産業廃棄物による汚染が問題になっていた頃から解決なんてしていないのだった。その最後の責任を全て、彼女の能力によって解消する。解決であり、解消。
     それがあったのか、なかったのかわからないようにする。
     過ちは繰り返される。
     大日方信一は、それを何度でも何万回でも見させられた。
     それは決して愉悦ではなかった。
     だから、愉悦に浸るために、現状に感謝した。
     現実を愉悦に浸ることにした。
     聖川ひじりは、僕を大切に思っている。
     真実は、それだけだ。

     小さな頃、大日方信一は、ごく普通の生き方を志していた。
    「人の役に立つ人になりなさい」
     それが、普通であると両親から教えられてきた。
     社会
     役に立つという意味が、変容して、それが迷惑をかけることにもなるということが自由に情報として発信できる時代において、役・に・立・つ・ということがこれ程に難しく、普・通・という状態が難しいことはないだろう。
     彼は、普通に憧れたし、人やその社会の役に立つことを望んでいた。
     昔、ひじりという少女をワルモノから救った時も、人の役に立つために行動した生き様だ。それが、正しいことだと思っていたし、表も裏もない人間らしい純粋で真っ当な在り方だと信じていた。
    「私のなにがいけなかったのかな」
     中学生の聖川ひじりが、そう言うたびに、なにも間違えていないて言いたかった。
     僕らは正常だと信じたかった。
     でも、もう、そんな普通の生活に戻れないことはなんとなくわかっていた。
     自分たちは正しいことしてきた筈なのに、いつの間にか社会から阻害される異端児として扱われ始めた。
     僕は、間違えていることを正したいだけなのに。
     どうやら、この個人主義の現代において、社会を正すには莫大な資金が必要なようだ。どうやら会社というものは正義を追求する場所ではないらしい。
     だから、僕は、個人の利益だけを追求することにした。
     愉悦だけを求めて、突き進む。
     そんな個人的な幸福のために生きることにした。
    「僕の幸せは、聖川ひじりを幸せにすること。その筈だったのに。どうしてこうなってしまったのか」
     人のために生きることが、こんなにも難しいとは思わなかった。
     ルールを守らないガキ大将みたいな大統領が、他国の大統領を大義名分で捕まえるなんてことが、許されてしまうこの自分の国が第一とする世界の流れが、どこか普通ではないということを、それを非難しないで付き従うように存続していくこの国を、中学生の僕は、憤りに似た感覚を腹の底で感じていた。
    「なぜ、僕らが非難されるのに、あの国のことをこの国は非難しないのだろう」
     所詮は敗戦国だ。
     資本主義の奴隷だ。
     それ以外のなにものでも、ない。
    「いっそのこと、この世界と、僕のことを嫌悪して消し去ってくれないかな。ひじり。愉悦を浮かべる暇もなく唐突に」
     大日方信一は、やつれた声でつぶやく。
     実際のところ彼は、疲れていた。
     何度も、何度も何度も何度も、この世界を繰り返してきたのだ。
     もう終わりにして欲しかった。
     それでも、大日方信一に感謝している聖川ひじりに、彼を嫌悪して消し去ることはできない。
     輪廻のように、繰り返すだろう。
     このまま世界が終わることに、きっと彼は満足できない。だから、世界を巻き戻して、終わらせることすらできない。
    「イジメをするグループを学校に来れなくするのではなく、イジメられた被害者個人を学校に来れないようにする。これが、教育だっていのなら、はなからそんな教育は間違えてる。それが社会の縮図だっていうなら、そんな社会、いや、そんな世界は滅んだ方がいい」
     自暴自棄になって言う。
     そんな戯言たわごとを。
     痛みが体を蝕む。
     いや、心が痛いと表現しなければならない程、他者には伝わらない表現で、彼は、世界を呪った。

     やがて、世界は滅んだ。
    「星の王子さまに出てくる王子さまと、薔薇みたいだ。この世界には僕と君しかいない」
    「……」
    「だから、二人だけしかいないなら、役に立たない人間なんていないとわかるに違いない。生きているだけで、役に立っている。孤独感を癒すことが、できる。これはこれで愉悦だ」
    「……また、滅ぼしてごめんね。納得いかないよね。また、繰り返したいよね。こんな結末」
    「ひじりが、納得していないから」
    「え?」
    「君が納得していないから、また巻き戻るとするよ。一緒に、帰ろう。最高な結末を見に行こうよ」
    「ほんと私は、なんの役に立ててないよ」
    「いま役に立ってる。生きてるだけで、役に立ってる。僕の役に」
    「痛い、生きているだけで痛いのに、なんで生きているのか、わからないの。全てを嫌いになりたかった。でも、それはできなくて。きっと、縋っていたんだ。だから、こうして、生きてる。痛いのに、生きてる。役に立ってなんか、いないし、いつまで経っても心の傷は塞がらないままだし。でも、貴方が、助けに来てくれると信じていた。貴方を嫌いになることはできなかった。貴方は私をワルモノから救ってくれたヒーローだもの」
     滅んだ世界で、彼女はそう言った。
    「また、同じことの繰り返しだな」
    「そうね。また、同じ一日を繰り返す」
    「僕たちは、大人になることすらできない。この輪廻に囚われたままだ。僕は、こんな結末は望んでいないから、過去に戻るし、君はそんな世界を嫌悪して滅ぼすだろう。正解はない。あるのは君と僕にとって都合のいい真実だけ。図らずも現代の個人主義の風潮に相応しい生き方になってしまった」
    「もう、終わらせてくれる?」
    「それは、君の都合だろ」
    「ふふ」
    「は」
    「いつになったら終わるんだろう」
    「愉悦に浸るまで終わらせない」
    「知ってる」


     また、同じ、日を繰り返している。

     彼女の過去について知る。
     そして、この世界の秩序を担う正義の味方について探る。
     僕は、彼女と関わらないことにした。
     期待するから裏切られる。
     それなら、期待しない方がマシだと。
     俗に言うあれだ。
     学習性無気力。これになったようだ。
     僕は、灰色の世界を呆けたように見上げることしかしなかった。
     もう、なにもかも、諦めよう。
     手放そう。この世界の全てを。

     これが僕が望んでいることではないと知るには、先の話し。諦めることを諦めた男は、いずれ 決断を迫られる。世界か一人の女の子か。

     愉悦を感じられないまま同じ毎日を繰り返すことになった。愉悦部の日常ではなく。愉悦ではない一日を繰り返す。

     次のステージに進んだ僕は、彼女に関する記憶を失っていた。
    「いたっ」
     道の曲がり角で、女の子とぶつかる。
     偶然に出会った、人がいた。
     運命の女の子。
     その人は、なにかから逃げていた。
     ぶつかって「どこかであったことありましたっけ?」と言う。
     彼女は、正義の味方から逃げていた。
     僕は、体が勝手に動いて、戦っていた。
     大切なものを守るために。

     また、僕は、やらかした。
     ワルモノに追い詰められた。
     彼女にお願いして、僕を『嫌悪するもの』として消してほしい、と願う。
     そうして、また、あの日を繰り返す。
     僕の能力は又虫返しアンチノミーまたは死に戻り。
     彼女の能力は世界消悪(掌握)ワールドデリート。
     しかし、それだけはしたくないと言って、
     それでも、僕は、彼女と関わることによって彼女を不幸にしている気がして。
     関係を断ちたかった。
     彼女は『一緒にいよう』と彼に言ってほしかったのに。

     僕には、異能力があると言ったな
     あれは嘘だ。

     僕の空想癖がついた理由を説明する。
     過去の記憶を描写する。
     彼女と、会ったことがある。
     その時に、彼女を悲しませて『嫌悪』されたことにより、無限ループの空間に飛ばされた。
     ループを解くには、彼女に許してもらわないといけない なんて設定を思いついた。

     そう考えなければ、生きていけないほど、僕は彼女に縋っていたのだ。
     いや、違う。彼女が僕に縋っていたのだ。
     そして愉悦を浮かべることが、快楽だった。
     全てを許そう。
     全てを水に流そう。
     忘れて、ください。
     僕がしたことを。
     君のためにしたことを。
     それが、愛というものだという証明をしないまま。

     起きると、いつもの学校が始まっていた。
     机の上で寝ていたというか、ぼうっとしていた。
    「なあんだ、僕の妄想だったか」
     周りを見渡すが、聖川ひじりなんて生徒は見当たらない。
     だって、全てニセモノだ。
     友達のいない学生生活で、同じく友達のいない聖川ひじりを脳内で作り出し、僕自身を安心させていた。
     しかし、彼女のモデルになった生徒はいたのではないだろうか。
     まあ、いい。
     いたような気はするが、全て過去のこと。
     僕は、空想に耽る。
     大日方信一が、聖川ひじりを救う物語を。
    「自明のことだが、僕はタイムループなんてしてはいない」
    「傷つくのがこわいから、そんな思い込みをしているんだね」
    「……」
     隣りには、聖川ひじりがいた。
    「私は信一くんがしてくれたことに、感謝してるよ。そのことだけは忘れないでほしいな」
     ため息をつかない彼女はそう言って、笑った。
     きっとそう、これは僕の空想。
     運命の女の子に感謝されるなんて――。
    「愉悦である」
    「そうでしょ?」
    「また、能力を使ったんだ」
    「それも本当だよね」
    「何度でも、やり直したい、物語だったから。君とこうしていたかったから」
    「ふふん」
     鼻を鳴らしている。
     異能力、そんなものはない。
     それさえも、嘘だ。
     僕の空想だ。
     この見えている現実だけは、ホンモノだ。
    「AIでどんなことでもできるようになったっていうけれど――」
    「まあ、私の能力世界消悪(掌握)ワールドデリートすら霞んでしまうくらいには」
    「なんだってできていないじゃないか!」
    「えっと」
    「僕の又虫返しアンチノミーですら、なんにもできなかった。君を救いたかった。でも、世界は君に優しくなかった。それはAIが発達しても、同じだよ。なんでもできることと、なんでもできないことは相対評価であって、絶対評価なんかじゃあない! ひじり。聖川ひじり。なんで、君は、僕だけを残して、世界だけを嫌悪できてしまえるんだ? 世界だけを終わらせてしまえるんだ?」
    「それはこっちのセリフだよ?」
    「……」
    「なんで、そんなに私のことを。聖川ひじりのことを守ろうとしてくれるの?」
     首を振って、僕は応えられないまま、表情を悟られないように避けた。
    「泣いてるの?」
     びっくりしたように彼女は言う。
    「え……ごめん、なんか悪いこと言ったかな」
    「別に泣いてないよ。僕は愉悦に浸るためだけに生きているんだから、泣くなんて、そんなこと」
     その先の言葉に詰まる。
     ああ。もう、ダメみたいだ。
     感情が溢れて流れだし、濁流となって悪いもの良いものを掻き混ぜたまま、出ているみたいだった。
    「言葉の裏側にはなにがあるんだろう」
    「え?」
    「信一くんと、今日を繰り返しているうちに、人が話していることと本心が違うことに気づいたの。本当は、もっと、癒されたかったんじゃないかって、愛されたかったんじゃないかって思うよ。与え過ぎて、奪わるばかりで」
    「……」
    「別に泣いてもいいんだよ。私もそうしたから」
     その柔らかい肌の感覚を、与えられていた。
    「痛みなんか、ない方がいいんだよ」
     苦痛を忘れていた。
    「もっと甘えていいんだよ」
     その甘い香りと柔らかな腕に抱かれたまま、僕は、人目を気にしないといけない教室で、涙を流していた。
     勿論、周りの生徒たちは引いていた。

    「ふ、ははは」
     少し笑った。抱きしめられながら、不遜にも全てを見下したくなったのだ。
    「この世の全てを手中に収める者。ひじりが味方なら、どんなことだって可能だろうよ。嫌いな者は、消せばいい。僕のことだって」
    「消さないよ」
    「そうだろうそうだろう。君は、僕に感謝しているんだったな。しかし、それは――感謝でしかないだろう」
    「違うよ。私は。信一くんが」
    「そうなのか? そうか。まあ、それでもいい。どちらでも僕にとっては、愉悦だからな」
    「うん!」
    「ところで、今日は何月何日だ?」
    「九月十五日。また、巻き戻っちゃったみたい。折角、助けてくれたのに」
    「いいんだ。君にとっての正義の味方になれたならいい。世界が優しくないなら、僕は世界を何度だってやり直す」
    「……私たちのことを知っている人はどこにもいないんだね」
    「そもそも興味ないだろうよ。それぞれが、自分にとって都合のいい真実しか求めちゃいない。都合のいいものしか見ようとしない。知っていなかろうが、知っていようが、それは大した差ではない。僕たちの生きた証なんて、そんな実体のないものに人は興味がないんだ」
    「まるで、物語みたいだね。人は都合のいい物語を知って感動するみたいに」
    「芸術も、文学も、作者はどんな人間なのか、というストーリーを楽しむものに成り下がってしまった。きっと昔は、そのものの価値を知るものがいただろうに」
    「不本意だろうね」
    「不本意だが、これが現実だ。ただ、僕の愉悦は奪われない。他者に、これを奪われてなるものか。愉悦を感じる心だけは、ここにある。今も、感じてる」
    「今も愉悦?」
    「ああ」
    「……私と会ってよかった?」
    「愚問だろう。君は僕に感謝しているし、僕は君に感謝している。わかっているだろう?」
     きっとそれ以上に、与えられるものなど、相互でないのだ。

     痛みがあるのにどうして、人は生きていけるのだろう。
     それが、僕には、疑問だった。
     この世界に生きていく意味が、わからなかった。
     周りを見渡すと、なんてことなさげに生きている人ばかりで、不思議だった。
     彼女に出会うまでは。
     聖川ひじりは、いつも、ひとりきりだった。
     それは僕も同じだった。
     でも、僕よりも器用に生きれない彼女を見て、助けてみたくなった。
     そしたら、二人の間で妙な絆が芽生えた。
    「あれは、恋なんかじゃなかったのか」
     いや、そんなことはない。
     あれは、恋だった。
    「僕にとって、聖川ひじりは……」
     頭を抱えている。
     ここはどこだろう。
     柔らかい。
     日差しが差し込む。
     それよりも柔らかい体温。
    「目が覚めた?」
    「ああ、この眺めは愉悦」
     彼女の膝の上を枕にしていたようだ。
     ずっと、このままでいたいと思った。


     地方の住民が中間貯蔵施設を受け入れに反対するのは、当然のことだった。それで得をする人が、少ないからだ。
     地震大国で、核発電をする危険性よりはマシだとしても、核燃料サイクルのゴミを捨てる場所はこのままずっと決まらないまま、この地方の田舎に放置される。
     中間貯蔵施設とはいいつつ、移転先を先延ばしして、次世代に後始末を任せるというのは当然、納得のいくものではないだろう。
     しかし、パリ協定を結んで、CO2削減に取り組むことに合意した日本は、その流れに逆らえない。
     そのパリ協定もアメリカは離脱したのだが。
     社会主義と資本主義の競争による生産信仰が、この地球の汚染を進めていた。
     役に立つことは、遠い将来を生きる人間にとっての害悪でしかない。
     政治家にとって口にしてはいけないこと。
     それは、人口を減らした方が地球に優しいという真実だった。しかし、諸外国との競争に置いていかれることに危機感を抱いてかは、知らないが、一向に生産力を落とす気配はない。
     AIの技術が革新し、これまで以上のエネルギーが必要だとわかっているプライドの高い日本を含めた各国は、原子力発電に将来の可能性に期待しないではいられない。
    「わたしは……なんのために」
     千晴隼人は、希望を失いつつあった。
     競争率を考えれば、原子力発電が最適だとわかっている。火力発電では化石燃料の値段高騰によって、エネルギーに莫大な資金が必要になる。
     それよりかは。
     どちらにせよ。
     茨の道なのだ。原子力も火力も。
     わかっている。わかってはいるけれども。
    「なんで、家族が誘拐されなくてはならないのです? なにも悪いことをしていないのに」
     原子力発電所、所長としてヘイトが向いてしまったからか。
     これまで、幾度もの誹謗中傷を受けてきたけれど。
     ワルモノにならならなければならない仕事があることもわかってはいた。
     でも、それでも、あんまりではないか。
     自分の命なんかいくらでも犠牲にしてもいい。
     家族だけは、取り返さなければ。
    「痛い……痛い。心が痛いのです。AIの発達によってなんでもできる時代になったとはいいますが、人の痛みさえ取り除いてはくれないじゃないですか。憎い――全てが憎い」
     そして、彼の端末から通話が入る。
     誘拐犯から、取引を持ちかけられる。
    「はあ。聖川ひじり、ですか。わかり、ました。彼女を連れていけば、ワルモノはなかったことになるなら――かしこまりました。私の手で遂行しましょう」

     なし崩し的に物事を進めるのが、組織の実態であり、清き正しさを目指した学生は、将来の社会人というものに絶望することになる。
     ルールがあってないようなもの。
     それは、交通速度制限十キロ過ぎるくらいだったら、警察に捕まらないといった、日本人特有の塩梅に配慮する文化であり、その文化によってあらゆる企業の不正を見過ごしてきた現状がある。
     不正がまかり通る大企業が、選挙で政治家に政治献金を贈っていることが、既に汚濁した社会であり、現金のデジタル化に伴い資金の流動を見える化するべきだというのが若者の総意ではある。
     人間に正義の味方はいない。
     いるとしたら、人間ではないなにか。
     AIでさえ、人間の恣意が入り込んでいるため、悪いことを考える可能性は残る。では、誰を信じれば、いいのかということが疑念に残る。
     正しさ。
     それよりも、自分にとって都合の良い真実を知りたいだけの人々にとって、都合の良いAIを作り出した人類。
     人類史上、最も、なんでもできて、なんにもできない時代になった。
     マンモスを狩りに行く時代と、AIに全部やってもらえる時代。
     問題になっているエネルギー資源は枯渇し、再生可能エネルギーを作る機材を作るのに二酸化炭素を排出し、毎年度夏に猛暑の温度の記録を更新し続けている。
    「地球に優しいという宣伝文句が流行っていた頃があったけど、人類は地球に厳しくないだろうか。人と接点を持つことが、嫌になってきた。勝手に期待されて、勝手に幻滅されて、普通を強要される。人と比べられて、自分がなくなるくらいなら、人に会わない生活をするべきだった」
    「それは孤独ではないの?」
    「好きなことがある人にとっては、それは楽しい孤独だろう」
    「楽しい孤独」
    「幸せというのは、加速度のことだよ。絶対的なものといより、相対的なものに近い。孤独はその一因で幸せになったり、不幸になったりするだけのこと。生まれてから鬱しかなった人は鬱自体を感じないように、上がったり下がったりをしなければ、誰も、自分自身もその変化を感じ取れないように、僕は、自分の不幸というものを過小評価していたようだ。いや、そもそも、実体がないものなんだ。言葉というのはね。孤独になりたいんだ。もう君と喋らなくていいくらいには。成長を感じたいんだ。治っていく心地を幸せと共に感じたい」
    「言ってることの意味はよくわからないけど、そして自説を語って愉悦を感じたいんだよね――大日方信一くん」
    「そうなんだ。愉悦部だからな。人の不幸も見ていたい。この人類最大の不幸というものと、そこから成長を感じられる幸せというものを、強欲にも欲している。そのために、協力してくれるよね。僕によって命を救われて感謝している聖川ひじり?」
    「……ずるいなぁ。全て、わかり切ってることを言うなんて」


     僕はいつも疑問に思っていることがあった。
     学校という社会について、合理的ではない仕組みが多いように考える。
     イジメられた生徒が学校に行けなくなるような、弱者に救済のない体制に疑問を抱く。
     ヨーロッパのとある国では、実験でイジメをしたグループを学校に行けなくするという罰を与えることにした。すると、イジメられた生徒は自己肯定感を維持したまま学校に行けるようになったという。
     なぜ、日本もそのような体制にならないのだろう。
     弱者に対して厳しくするのだろう。
     いや、弱いわけではない。イジメをする生徒が、悪かっただけではないのか。そうは考える知能すらないのか。
     わかっている。そんな簡単な話しではないということくらい。教諭の立場を考えると、難しいだろう。イジメをしたグループの親が、自分の子供を学校に行けなくするなんてことを許すとは思えない。自分の子供に対して、甘いのが親の心情だからだ。
     全く、嫌になるね。
     不正がまかり通る企業や政治の社会。
     正しいことより、AIによって偽装された自分にとって都合のいい真実しか信じない人々。
     考えることすらやめた人々。
    「僕は、正義の味方に憧れていたんだ」
    「知ってる。悪ガキから私を助けてくれた時がまさに正義の味方って感じだったから」
    「という設定に酔いしれていたんだ。君を、助けてる男という愉悦に浸っていた」
    「でも、感謝してるよ」
    「そういうということもわかっている」
    「もしかして今日を繰り返したの?」
    「何度だってやり直したい人生だったから」
    「愉悦のためでしょ」
    「君に感謝されるのは気分がいいからな。正義の味方気取りをするのも快楽だ。もはやひじりに感謝されるために生きているようなものだよ」
    「感謝してる」
    「身体的な接触がなくても、僕はその言葉だけで気持ちよくなれる男なのさ。気持ち悪いだろう?」
    「嘘でも、そんなこと言えないよ。命の恩人だもの」
    「僕はなにもしていないよ」
    「無自覚なんだね。ワルモノから私を助けてくれたくせに。正義の味方の大日方信一くん」
    「ははは。不正なんて、誰だってやってるし、不正を働かない大人なんてどこにもいやしないこんなルールが細密化したこんな時代に、正義の味方だなんて言ってくれるんだね」
    「え? 不正しない大人だっているでしょう?」
    「それは制限速度五十キロのところを六十キロで走っても厳罰化されない、運転手との暗黙の了解で取り締まりの緩い警察官に言っているのかな? それとも、車道を走るのが危険だから歩道で自転車を走らせたい事情を抱える人に対する罰金制度の正当性を、不正しない大人と呼んでるのかな? 大人しいことは、不正することに従順ということだってことでもあるよね。上が決めたことに逆らえない人間の在り方。いや、ルールをいちいち守っていたら物事が進まないというのも人間の在り方だけれど、こんな整合性の取れない不都合な世界は終わってもいいんじゃないか。正しさの釣り合わない世界なんて」
    「信一くんは正義感が強いんだね」
    「行動しない正義感の強さなんて、何の役にも立たないって」
    「周りに流されて悪いことをしちゃうのが人間だものね」
    「だから、イジメはなくならない。イジメをする人の気持ちがわかる僕も、きっと、イジメをする人と変わらない。相手の嫌がることがわかる知能を持っている人がイジメという下劣な行為をするのだから。それに流される人も同罪だよ。戦争の責任者が処刑されたのと同じように、その責任者だって周りに同調したからなのかもしれない。それは正義のためだったかもしれない。そう思うとね。人間が考えている正しさなんてものね歪いびつで、どうしようもない生き方をする生き物だって思えるよ。僕が君を助けたのだって」
    「……ごめんね。言ってることがついていけなくてよくわからないんだけど。私は、命を救って貰えて感謝してるよ。この気持ちは、消えることはないと思う」

     学校の教室や自室の寝床で、あらゆる妄想に耽った。
     しかし、それは僕の主観での話しなので、妄想が現実かはわからない。
     客観的なものはあっても、客観という絶対値は存在しないように。
     僕は、僕の物語を生きるしかない。
     そう。聖川ひじりを救ったという僕にとっての真実は、もしかしたら客観的な事実かもしれないのだ。
     何度でも今日を繰り返した。
     精神的にはお爺さんになったような心地だ。
     正しさよりも、真実を知りたいだけの人ばかりなのだから。その不都合な真実を何度だって打ち砕く。
     合理的かつ正しいやり方が、人間にはできないとわかってはいるけれど。
     今日も僕は世界とひとりの少女を救いにいく。
    「なんてね」
     ここは、どこなのかも、どうだってよかった。
     誰視点なのかさえ、どうでもよかった。
     彼女が隣りにいたことを思い出していた。
     それさえも、僕の妄想だとしても構わない。
     世界の情勢は核兵器を保有しようとする国との摩擦で大きな犠牲を避けるための戦争を始めている。
     戦争といえばパレスチナを国と認めていない日本には縁遠いかもしれないが、イスラエル対パレスチナ自治区のガザ地区の紛争と空爆は未だに解決していない。
     日本人はまだ楽観視しているが、アメリカからイランの空爆とイランからのドローン攻撃の戦争が長引けば、輸送路である中東のホルムズ海峡の封鎖により船で石油を運ぶのが困難になる。
     火力発電にエネルギーを頼っている日本は、経済的な大打撃になるだろう。
    「僕の能力を使えば、解決するまで首脳陣との対話を合理的に進めることができるが。その前に、ひじりが世界に絶望して嫌悪した世界を終わらせるだろう。痛みもなく、人間は消える。僕と彼女だけを残して」
     そんな想定をした。
     聖川ひじりは、僕に救われた。
     リストカットをしていた頃の彼女はもういない。あいにく、僕はリストカットする人の気持ちはわからない。
     彼女は、僕の能力によって生きていられているという事実だ。何度でも、世界を滅ぼす能力を有しているなら、何度だってそんなご都合な能力で終わらせた世界をやり直す。
     この日に戻って、また彼女と共に生きるだろう。

    「勘違いってどういう意味なんだ」
     恋愛というものは、相手に勘違いさせ合う行動のことをいうのだとしても。
     僕の彼女に対する思いは勘違いだろうか。
     好きなら、好きでいいだろう。
     それはそうだ。
     しかし、それが偽物だと気づいた時、または、一時の気の迷いだとわかった時、僕は、僕を許せるだろうか。
     勘違いが勘違いではないとわかった時に、初めて恋愛というものが、僕にはできる。
     いや、確信しているのは、恋愛ではない。
     聖川ひじり。彼女は僕に感・謝・し・て・い・る・ということだ。
     それは、恋愛よりも強固に太く強い繋がりとなっている。
     今日を繰り返した先に、彼女が僕に感謝するように仕向けたのだ。
     愉悦のために。
     ひたすらに彼女に感謝される人間になったのだ。
     それだけが、僕の望みだった。
     人間的に蔑まれてしまうかもしれないけれど。
     下劣な人間だと思われるかもしれないが、本当のことを言うとそうなる。
    「勘違いなんて、誰が決めるのだろう。勘違いだっていいじゃないか。不確かなんて当たり前だ。真実なんて、誰が決める。ああそうだ。勘違いしなくないのが人間だ。彼女は僕を勘違いさせたかもしれない。勘違いさせたい女性と、勘違いしたくない男性。そんな二人の恋愛があったっていいだろう」
     過ぎてしまえば、全て、儚い思い出だ。
     聖川ひじりの顔を思い出した。
     太い眉。男受けのいいたぬき顔。他にも、全てが僕の好みの女性だ。普通ではない恋愛がしたい。それを、叶えてくれる唯一の女。
     これが、僕の空想の産物だと思うか。
     いや、どうだっていい。
     また、今日を繰り返して、悦に浸るだけなのだから。

    「今日はどこに行く?」
    「君が、行くならどこでも」
    「答えになってない」
     どこかの廃墟で僕と彼女はいた。
    「どこに行っても同じようなものだし」
    「開き直って、海外に行ってみない? 北欧とか言ってみたい」
    「そういえばスウェーデンのガムラスダンの石畳を見たいって言っていたね」
    「ねえ、どう思う?」
    「好きなものができたのはいいことなんじゃないか? 勿論、そんな旅費を工面できるわけはないが」
    「はー」
    「あ、ため息を吐いた。珍しいね」
    「未来に希望を持つのにもお金が必要なんだって落ち込んでる」
    「資本家が儲かる仕組みを作るのが資本主義だ。お金がない人間に、希望を持つことは難しい社会さ」
    「そこに正しさはあるのかな」
    「正しさ、なんて金にならない。それは君も実感していることだろう? いや、その正しさをお金によって決めるというのが法律なのかもしれない。賠償金なんかがそうだ。物事の評価の基準は、お金で測るのが正当なんだ」
    「こんな話し、若いカップルは普通しないよね」
    「はは」
    「馬鹿みたい」
    「何度だってやり直したい、物語だ。君と僕は。馬鹿に思われたって、上から目線で馬鹿にされたって構わない。痛みだけさ、真実は。君がいま、感じていることだよ。未来なんて、誰も保証しちゃくれない。誰のことも信じちゃいけない。勿論、自分のことさえも。――君と僕が会話をしていることさえ」
    「偽物だとしても、私は君に感謝しているよ。何度も助けてくれて、ありがとう」
    「そう言わせているのは、僕の脳内が作り出した空想かもしれないじゃないか。僕の又虫返しアンチノミーの能力と君の世界消悪(掌握)ワールドデリートも、空想であって」
    「それでも、私は信一くんに感謝している」
    「こんななんの描写もない空想だとしても」
    「私は、貴方に感謝してる」

     正解よりも、正しさだ。
     なにより、正しさを、信じる。
     真実よりも事実を。
     妄想よりも現実を。
     アナログよりもデジタルを。
     平等よりも公平を。
     痛みは誰もわからない。
     僕自身にもわからない。
     共感よりも安心を。
     激情よりも通常を。
     仮想通貨と紙幣の違いはどこにあるのか。
     それを、示すことはありません。
     自然という幸福と。
     健康が幸せだと気づく前に。
     僕は、全てを完成させる。
     詩と小説の違いなんて、誰にもわからない。
     創作とは、つまり嘘だということなのですから。
     僕は、今日も彼女に感謝された。
     平常運転だ。
     それが愉悦だった。
     とても、気分がよかった。
     大切な存在から感謝されることが、一番幸福だ。
     当たり前の有り難みを知らない、何度も今日を繰り返せる僕は、彼女から嬉しい言葉を貰う。

    「これは、きっと恋愛なんて、ものじゃあないんだと思う。ただ、これだけは伝えたい。ありがとう」 
     そう彼女に伝えた。
    「私も、ありがとう」
     計らずとも、僕の望みは叶っていた。
    「感謝してる。なんでなのかはわからないけど。自分のことが自分でもわからなくなることが多くて。でも、これだけは本当だよ」
    「実は何度も今日を繰り返してきた。君がそう言うこともわかっていた。その度に、僕は愉悦に浸っていたんだ。大切な人から感謝されることほど愉悦なことなんてないからね」
    「知ってる」
    「それが嘘だってことも?」
    「大日方信一くんのことならなんだって知ってるよ」
    「嘘が本当だってことも?」
    「知ってる」
    「だって、私達、能力者じゃん」
    「世界を股にかけて暗躍する、異能力者?」
    「うん。世界消悪(掌握)ワールドデリートと」
    「又虫返しアンチノミー」
    「二人で何度でも世界を滅ぼして」
    「巻き戻して再生させた」
    「くす」
     彼女は、笑った。

     僕は、彼女以外にはなにも必要なかった。
     側にいてくれたらよかった。
     たとえこれが空想であろうとも、構わない。
     世の中には優しい嘘があるらしい。
     誰が好きとかどうでもいい。
     生きているだけで、人に迷惑をかけている。
     そして、少なくとも消費者の時点で社会の役に立っている。
     ああ、そうだ。
     僕は、自分のことで精一杯なんだ。
     社会は、常にブラック企業だ。
     資本主義というのは、株主のために存続しているに過ぎない。
     そのために聖川ひじりが、苦しむのはおかしい。
     社会のニーズに適していないだけで、劣等生というレッテルを貼られているかのようで。きっと惨めな思いをしていただろう。
     生きているだけで偉くなんかない。
     僕らの青春は、ヘドロにまみれた汚染物質で出来上がっていた。
     そんな世界を変えるために、何度も今日を繰り返した。
     どうやら、僕らみたいな社会の枠組みから外れた社会不適合者は何度繰り返しても、同じみたいだ。
     何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も彼女を助けてきた。
     彼女は毎回、僕に感謝してくれた。
     それが、愉悦だった。

    「言葉にしたら擦り減っていく感じがする。だから、言わないし、言えない。本当のことほど、言えないし、伝わらないものなんだよ」
     彼女は、そう言って笑っていた。
     確かなものを探していた。
     いまでも探している。
     それがこれだと、信じていた。


    「自分ができることは、他の誰にでもできると人って思いがちよね。マリーアントワネットの『パンがなければケーキを食べればいいじゃない』も、他の人との生活環境の違いを自覚できなかったことによるものなんだわ。誰にでも、彼女のような思い込みは起こり得るってこと。私ね、世界を終わらせることができることで、得をしただなんて思わない。普通の人と同じように生活して、普通に生きたいだけなの」
    「つまり、君は自分のことを普通だと思っていなかったってことかな」
    「そういうこと。私はマリーアントワネットみたいにはなれない。だって、誰よりも自分が普通とは掛け離れているかはわかっているつもりだもの。普通に生きて、普通に働いて、普通に好きな人と一緒にいる生活をしたかった」
    「まるで子供の言うセリフじゃないな」
    「だって、私と貴方は何度も今日を繰り返しているじゃない。子供時代なんか通り過ぎて、もう一生を終えた気分よ。何度も失敗して、失敗しかできない人生だったわ」
    「それは僕も同感だ。失敗と後悔だけを思い出す。そんな人生だった。体はまだ子供なのにね」
    「側から他の人が見たら、若造がなにを言ったるのかと訝しむかもね。私たちからしたらみんなの方が若いんだけど」
    「これだけ長く生きても失敗を繰り返してる。成功を学ばないなんて、いかにも人間らしいんじゃないか?」
    「……それもそうね。歴史に学ばないで戦争を繰り返す人類の愚かさと同じことか」
    「責任は誰が取るのだろう。そして、どこからが戦争なのか。負けた側に刑が下るのが戦争だ。そこに正しさなんて、ない。僕たちが憧れていた、漫画やアニメの世界の主人公のような正しさは、現実には、ない。君を軍事利用する人は、悪なのか。核廃棄物を消し去るために君を利用するのは正しいことなのか。どんなことにも、犠牲になる人が出てくる。わかっている。だけど、そんなの僕にとって醜悪以外のなにものでもない。一人の犠牲で一億人を救うなら僕は、一億人の犠牲で君を救いたい」
    「……はあ。正しいかより、楽しいかどうかで語り合いたいわ」
    「それもそうだね。楽しむためにも、まず生き延びないと。ひじりは世界に殺されかけているんだから」
    「……それもそうね」
     そこで、会話を区切った。
     ここがどこなのか、わからないまま。
     どこでもよかった。
    「たまに、因果応報について考える」
    「バチが当たるってやつ?」
    「正直者が馬鹿をみるみたいなやつとは違う。悪いことをしたら、巡り巡って自分に返ってくるみたいなもの。正しいことをしたら、巡り巡って正しく返ってくる。そういう、ものについて、考えるんだ。君と僕がこうして、二人でいられているのは、そうした過去の因果の巡りによって、成るべくして成ったのかもしれないと」
    「それは、嫌がらせを受ける人は、どう受け取ればいいのかな? 搾取される人は? 与えるのではなく、奪われる側やの人間は? どうすれば正しかったのかな?」
    「わからない。ただ、言えることは、成るべくして成ったということだ。成る可く、成るべくして」
    「この世界の正しさはよくわからないし、不条理に思えるうまくいかないことばかりだけど――大日方信一くんに会えたことはよかった」
    「この言葉が聞きたかった。成る可く、そうしたかった」
    「私の甘い言葉が聞きたかった?」
    「ずっと、ずっと聞いていたかった」

     Nuclear Waste Management Organization of Japan.
     原子力発電環境整備機構――NUMOは活断層のない安定した地下深くに核廃棄物を処分するための機関。
     資本主義は株主のために会社が存在するため、経団連の政治への影響力は強く、政治献金などのしがらみによって、彼らに逆らうような人間は政界のトップにはいない。
     いまの日本は原子力発電の風当たりが、徐々に薄れてきていた。
     正しさなんてものが、日本人にとって価値の薄いものになったせいが、SNSには誤情報の陰謀論が散見される。それを信じて、目の前の問題について、考えるのを避けているかのようで。
     ある意味、それが人間らしい生き方なのかもしれなかった。
     問題の先送り。
     それは従来の人類が、やってきたことだ。
     極端な自己責任論が社会に蔓延り、さらにその意識が人々に伝播でんぱして高まり続けている。年金制度に期待していない若者からしたら、そんなの当たり前だろうと思う。
    「表があれば裏もあるなんていうけど。表しかないなんて方が驚きじゃない? いつだって人は未来を楽観視して、問題を棚上げして、未来の若者に背負わせてきた。聞こえのいい宣伝文句を信用できないわたくしからしたら、表しかないということがあり得ないわ」
     NUMOを統括する千晴千尋は言う。
    「この国には、いえ世界中には病名のない病が蔓延している。病気と名付けるまでもない、痛みが。それを名前にすることによってわかったつもりになることでしか、わたくし達は救われない。マシか、マシではないかでしか区別がつかないのよ。消去法でしか、物事が進まない。火力発電と原子力発電、どちらにせよイバラの道だとしてもね。さて、各国で競争が行われている核兵器による核武装は善か悪かについて、貴方ならどう答えるかしら? 未来の犠牲に必要なことはどちらかしら?」
     そこには理事長の千晴千尋がいて、目の前には大日方信一がいる。
     その隣りには聖川ひじりがいて、手を握り締めている。
     僕の手を。
    「未来のための犠牲」
     伏した目を彼女の方に向き直る。
    「でも構わない。僕は、それでも彼女を救ってみせる」
    「現実ってものを知らない子供の戯言ね」
     僕らは自衛隊なのか警察官なのか、それともFBIなのかわからない大人たちに取り囲まれていた。
     そうなった理由なんて、どうだってよかった。
     理由がわかったら、世界はもっと平和になっていたはずだ。
     原因究明より、そもそも論になってしまうのだ。
     僕たち人類は、どこで道を踏み外したのか?
     正義のために、犠牲を積み重ねていたのか。
     大義名分が強すぎて、僕みたいな子供には内情がどうなっているのか計り知れない。
     ここで、戦争を止めるための小さな戦争を始める気か?
     僕の能力なら、どんな手を使ってでも負けることはない。
     負けるという選択肢はない。
     だって、この能力はやり直しがきくからだ。
     ――ただし、勝つこともできない。
    「僕は正義の味方をしにしたんだ。世界を滅ぼす代わりに彼女を救うための正義だ」
    「正義ってのはね、正しいってことじゃないの。どんな責任も請け負うという覚悟や信念が強い人が正義なのよ。貴方は、貴方は決して正しくはない。わたくしも正しくはない。それが、人間よ。誰かが犠牲になる。公平なんて、難しい制度設計よ。AIでさえ、人間が作ったものである限りは正しいことを証明できない。この意味がわかるかしら? 正義の味方は正しくないのよ。正しさなんて紛いもの」
    「正義の味方は、正しくはない。正しさなんて紛いもの」
    「そう。貴方も、わたくしも正しくなんかない。己れの信念を突き進んでいるだけ。――正しくなんてありはしない。どう? 絶望したかしら?」
    「いや、むしろせいせいする」
    「……ご・理・解・頂けないみたいね。まあいいわ。さあ、この子たちを捕えなさい」
     すると、取り囲んだ屈強な大人たちが僕と彼女に近づいてきた。
     今にも、腕を掴まれそうになる。
    「ッ……またこれか」
     僕は、今日を何度も繰り返してきた。
     だから、その手を躱すことができる。
    「理解するには知るしかない。なのに、なにも知らない僕に理解を求めるのは違うんじゃないか」
    「戯言ね」
     追いかけてくる大人たちは、次にひじりに狙いを定めていた。
     でも、彼女には通用しない。
     だって彼女は、神に等しい能力を持っている。
     又虫返しアンチノミーの能力さえ、彼女には意味をなさない。
     今日を繰り返した後に僕と同様に記憶を保持できる理由はわからないが、もしかしたら彼女は神に等しい存在なのかもしれない。
     文字通り、世界を掌握して世界を滅ぼすことのできる能力。
     嫌・悪・し・た・も・の・を・な・か・っ・た・こ・と・に・で・き・る・。
     それが彼女の絶対無比なる能力、世界掌握(消悪)ワールドデリート。
    「……」
     彼女の未来に希望を感じなくなった目まなこは敵の実体に焦点すら合わせない。
     ただ、この体に触れようとする邪魔ものをなんの前触れもなく削除デリートした。
    「……おい。……どういうことが起きてるんだ?」
     どこからともなく、驚愕する声が聞こえた。
     間もなく消えた人間の姿に、辺りは騒然とする。
    「おい。お前なにをした?」
    「……」
     それも反応しない。
     消失した人の数は、彼女に近づこうとする者の数だけ増え続けた。
     いや、聖川ひじりは、嫌気がさしたのか、飽きたのか理事長である千晴千尋以外の人間を削除デリートした。
     文字通り、千晴千尋以外の全世界の人間を。
     特例である僕と彼女を除いて、削除デリートした。
    「……これはいったいどういうことかしら」
     動揺を隠しきれない千晴千尋は、言葉を漏らした。
    「遊びだよ」
     ようやっと、口を開いたのは聖川ひじり。
    「変わらない世界を嫌いになって、私は信一くんとこの世界をもて遊ぶようになった」
    「理解が追いつかないわ」
    「ふふ。そうよね」
    「わかりたくもない」
    「全て、早いか遅くかの違いでしかないってことよ。恋にときめくのも恋に冷めるのも苦しみが始まるのもはたまた終わるのも。命の始まり、終わりさえも。ねえ、聞いてるの、おばさま」
    「……」
    「私の能力は――世界消悪(掌握)ワールドデリート。始まる前から終わってる、この世界の嫌いなものを消し去ることができる」
    「それは貴方の主観でしょ? 嫌いだからって世界を消滅させることが許されるとでも……思っているのかしら」
    「はい。私の感想です。『面・白・く・な・か・っ・た・で・す・』。嫌いなものは消滅させたいです。だからみんな消しました。苦しみから逃れたい。それは人間の性だと思いますけど」
    「……身勝手な」
    「ふふ。この世界には、私と信一くんとおばさましかいません。そしてまた、彼が過去に戻ります。九月十五日に。やがて、私たちは捕まります。なにも悪いことをしていないのに。それまで楽しくこの世界をもて遊ぶことにしたんです。愛しの彼と一緒に」
     そう言って、本当に愛おしそうに微笑みながら僕を見た。
     背筋に冷たいものを感じた。
     僕も共犯だ。
     悪いことと正しいことの違いがわからないまま、過去を繰り返している。
     中学二年生の九月十五日を繰り返している。
     聖川ひじりと一緒に。
     大日方信一も共犯。
     国際法を無視して武力行使する大統領と同じ。
     強いものが勝つのが、この世界の真理。
     本当に強いものと弱いものに分類されるならばの話し。
     この世界は弱いものに厳しい。
     言ってしまえば、それだけの話し。
    「ねえ。信一くん。大好きだよ。こんな世界をやり直そう」
     僕の手を握り締める彼女。
     そして、穏やかな瞳。
     それから太い眉を見るともなしに見つめて。
    「ああ。そうだな」
     頷くしかなかった。
     なにかひとつでもかけ間違えたら、この繋がりが崩壊してしまいそうで。
     なにも言えない。
     愉悦を求めていた僕が、悲しくなっていた。
    「貴方たち、自分がなにをしているかわかっているの? それは酷い横暴よ。エゴなんて言葉ではいい尽くせないくらい。やり直す? 一体なにを言っているの?」
    「だから、子供のお遊びだよ」
     彼女は口角を上げて、低い声でそう言った。
    「さあ、やり直しましょう。この世界を」
    「まって、話しを聞いて」
    「又虫返しアンチノミー」
     こうして僕にとっての世界は繰り返させる。
     あの九月十五日に。
     滅ぼした後の世界はどうなったのかとか、そういうことはわからない。
     ただ、言えることは、大日方信一と聖川ひじりにとって都合のいい世界を作るためにやり直せたということだ。
     いつもの教室で彼女は僕に向かって微笑む。
    「また、一緒だね」
    「……」
    「過去のことをよく思い出せないけど。私、嬉しいな」
    「そう言ってくれて嬉しいよ。ああ……愉悦だ」
     そのまま、床に倒れて仰向けになった。
     周りの目を気にしないで、リラックスする。
     視界の端で彼女が覗き込む。
     ああ。
    「綺麗だ」
     この感情を、きっと大人になったら忘れてしまうのだろう。
     それだけは残しておきたかった。
     だから、僕はこの能力を持っていられるのかもしれない。
     彼女の側にいられるなら、世界を敵に回してもいい。
     その姿を見られるだけで、僕は本当に愉悦に浸れるのだから。

     倒れたまま、こんな夢をみた。
     彼女についてのことだ。
     そして、中学二年生の九月十五日が始まる。
     隣の席を見遣る。
    「……ふう。信一くん。また、やってるの? 空想」
     話しかけてきた女子は、太い眉と、大きな垂れ目がトレードマークのクラスメイト。聖川ひじりだ。
    「話しかけているんだから、返事くらいしなさいよ。全くもう、ため息しかでないわ」
     僕が彼女の顔をじっと見つめて、その次に、白いブラウスの袖からはみ出た手首に目を向ける。
     そこにはリストカットの跡が残っていなかった。
    「ふふ。どうやら成・功・したようだな。実に愉悦。実に愉悦であるぞ」
    「はー。なに言ってんだか。そんなことより、今日の放課後空いてる? 友達がいないもの同士、仲良くするなのも悪くないでしょ?」
    「というなにも知らない演技なんだろ?」
    「……バレたか」
    「君と僕は今日を何度も繰り返している。なぜか、君も記憶を保持したまま」
    「えっへん」
    「ドヤるほどのことじゃないだろ。愉悦ではあるけどね」


     こうして、僕と彼女の繰り返される日常が続いた。
     世界を繰り返す大日方信一と、嫌いになった世界を滅ぼす聖川ひじり。
     この二人がいれば、なにもこわくはないという自負もあった。
     追われる世界からの逃避行。
     今回の逃げ場は喫茶店だ。
    「それも、悪くない」
    「愉悦でしょ?」
    「ああ。実に愉悦だ」
    「愉悦よね。なにが本当でなにが嘘なのか、冗談と本音の違いがわからない巫山戯た世界でも、私は」
    「痛みだけが本当だ」
    「それだけじゃない。信じてるよ、貴方のこと」
    「……世界を敵に回しても僕は君の味方」
    「知ってる。信一くんの愛が地球人には理解できないということを。彼らにとって宇宙人は、信一くんなんだ」
    「ふん」
    「まあ、エイリアンを敵に回したら、勝てっこないよねえ」
    「愉悦だ」
     目の前には、テーブルを挟んで彼女と向かい合っている。
     タバコを吸って、吐いた。
     彼女も僕の真似をした。
     コーヒーの香りを嗅いで口に含んで、ゆったりと飲む。
     鼻腔にコーヒー豆の愉悦な香りが充満する。
    「ふむ」
    「ふう」
     彼女も同じように、していた。
     コーヒーとタバコ。嗜好品として、パーフェクトな組み合わせだ。
     そして、聖川ひじりが側にいる。もう、なにもいうことはない。
    「……」
    「……」
     しばしの沈黙。
     タバコを嗜んで、コーヒーを吸って、灰皿に吸い殻を落とす。
     なにを考えているのだろう? と思い、彼女の顔をじっと見る。
     長いまつ毛が伏していて、美しい造形の顔に見入ってしまった。勿論、なにを考えているのかはわからなかった。
     僕の視線に気づいて、瞳がこちらを向いたので、気まずくなり、顔を背けた。
    「いや。すまない。綺麗な顔だなと」
    「……ふーん」
     自分の容姿に興味がなさそうな反応。
     これだと、僕の好きな太い眉もコンプレックスには感じていないだろう。
    「ねえ。なんか、悪いことを誰かとしていると、楽しいね」
    「悪いこと?」
     世界を滅ぼしたことか?
    「未成年の喫煙」
    「あ」
    「これまでに悪いことをし過ぎて、気づいていなかったみたいね。タバコは場所によっては人に迷惑をかけるし」
    「でも、ここは全面喫煙可と書かれてあった」
    「20歳未満立入禁止とも書かれてあったけどね」
    「悪かった」
    「悪いよ」
    「悪いな」
    「でも、悪いことって、こんなに自由で気分がいいものなんだね。これまで、知らなかった。ゆっくり落ち着いてコーヒーを飲みながら、吸うタバコの美味しさを」
    「ふふ」
    「ふふふ」
    「面白い」
    「面白いね」
    「愉悦だ。君とこうして、自然体でいられることが」
    「それってつまりどういうこと?」
    「悪いことを考えてるってことだよ」
    「ちゃんと言ってよ。言いたいことがあるなら、言わないと伝わらないよ」
    「あり」
    「アリ?」
    「ありがとう」
    「そう。私も、貴方に感謝してる」
     誠意のこもった言葉と表情で、そう言われた。
    「そう言って欲しかった。何度も、何度でも」
    「ありがとう。なんで、感謝しているかもう忘れてしまったけど。それだけは言えるの。私と信一くんてどういう関係だっけ?」
    「もう、忘れたよ」
     そう嘘をついた。
     もしかしたら、彼女も嘘だったかもしれない。
     誠意って、なんだ。
     お金のいらない、誠意が、欲しかった。
     それを手に入れた僕は、幸福だ。
    「あれのそれは、どうなったかね?」
    「あれのそれってなに?」
    「だいたいの会話が、それで成り立つ。人間なんて、所詮、その程度のものだ。肝心なことを、最後の最後まで言わない、言えないまま終わるんだ」
    「ふふ。遠回しになにが言いたいのかわかった」
    「ありがとう」
    「ありがとう」
     それからも洒落臭い言葉を二人でかけ合って、笑い合った。
     夢。
     夢を観ているような幸福が、そこにはあった。
    「ずっと、こうしていたかったんだ」
    「だから、今日を繰り返しているの? 歳を重ねないで若い青春を謳歌するために?」
    「そうだ。こうして愉悦に浸るために」
    「貴方は私を救った。男の子って女の子を救って、お礼を言われることに飢えているのかしら」
    「ああ。そうかもな。特に僕は君に感謝されることが、気持ちいいんだ。そのためならなんだってする」
    「なんでそこまでするかなー」
    「歳を重ねて見たくないものを見なくちゃいけないことが悲しかった。大人になんかなりたくなかった。だから、君との青春だけでいい、たったそれだけを大切に守りたかった」
    「大人になりたくないって言ってる時点で大人だと思うけどなー。ありがとう。感謝してる」
    「僕も、感謝してる。なにに感謝してるのか忘れてしまったけど」
    「同じだね」
    「そうだな。今日を繰り返し過ぎて、なにがきっかけだったのかとか、なにに感謝してるのか。理由とかとうの昔で思い出せない。きっと恋愛というものも、こうしてなんであんなに好きだったのかという理由を忘れてしまうものなんだろう」
    「まあ」
    「君に嫌われた時点で、僕はこの世界から消失する。理由なんて考えたって意味がないな」
    「嫌いになる理由がないよ」
    「嫌いになられたら君は世界を滅ぼして、僕の能力によって過去に戻ることができないまま、ひとりぼっちで死に絶えることになる。だから、嫌いになんかさせない」
    「あくまでも私のためなんだね」
    「……君のことが嫌いになった時、きっと世界そのものが嫌いになっていると思う。このループが終わる時は、つまり、そういうことなんだ。繰り返したくないほど世界とこの人生を終わらせてしまいたいと願った時。全てが終幕する」
    「終わらないよ。貴方はいつまでも、やり直すよ。だってこんなに優しいんだから」
    「……」
     にこっと笑う。
     なんだか、愛嬌が大事って本当だな。
    「はあ」
     彼女はため息のように、タバコの煙を吐いた。
    「美味しい」
     中学生の彼女のタバコを咎める人はいない。
     僕も吸っている。
     どうせ、またこの日を繰り返すのだから。
     体を壊しても、変わらない。
    「タバコが吸えなくなるなら死んだ本当がマシっていう人がいるよね。それで、肝臓を痛めるの。それで子供の結婚式に出られないでなくなった大人たち。まるで、私たちみたい」
    「どこが?」
    「未来を生きれない子供」
    「そうかな」
    「この世界の未来に深く絶望してるでしょ」
    「みんな、そうだろ?」
    「ふふ。そうでもないよ。私と信一くんは、似てる」
    「ソウルメイトという意味か?」
    「恋人同士かソウルメイトかの違いを確かめるのってそんなに大事かな。信一くんのことは大好きだけど」
    「それは、嬉しいな」
    「信一くんは?」
    「へ」
    「私のこと、好き?」
     それからコーヒーを飲みながらへらへら笑っている。
    「……」
    「好き?」
    「好きだよ」
     これは、なんの駆け引きなのだろうか。
     僕は、わからなかった。
    「君のために生きた中学生時代だ。そんなの当たり前だろう」
    「ふふん」
     鼻を鳴らした彼女は、満足したように頷いた。
    「大日方信一はそうでなくっちゃ!」
     聖川ひじりはそう言う。
     それからコーヒーを飲み、お互いに一息ついた。
     少しだけ互いを見つめて、意思が伝わる。
     勘違いかもしれない。
     一時の感情かもしれない。
     それでも、この気持ちを忘れたくないと思う。
     気分ではない。これが、本当の気持ち。
     言葉にしなくては伝わらないなんていうけど、目はものをいうし、言葉にしたって伝わらないことの方が多いこと、誤解されることが多いことを僕は知っている。
    「私、今、すごく幸せなんだ」
    「……」
     そう言って、朗らかにしている彼女を観るために、これまで何度、今日を繰り返していたか。
     もう数え切れない。
     たった一度の性的な関係よりも、僕は彼女の愛情が欲しかった。そのためなら、なんでもした。
     世界を滅ぼしてもいい。
     ああ。僕は、聖川ひじりに愛されたかったんだ。
     そして、僕も彼女を愛したかった。
    「……僕も今が、一番幸せだ。この幸せのためだったらなんだってする」
    「何度だってやり直したい物語。この世界は私のものではなくて、貴方のためのものなのかもしれないね」
     まあ、誰だって、自分が人生の主人公だ。
     何度だってやり直したい、青春。
     なかったことにしたい青春もあっただろう。
     それが、僕は極端に偏っているだけのこと。
     僕と彼女が、ずっと若さを保ったまま。
     ずっと隣りにいたらいい。
    「何度だってやり直したい人生だった。後悔という意味でも」
    「私と会わない方が、幸せじゃなかった?」
    「信用できる人がいるのは幸せだよ。君は裏切らないから……」
    「裏切れないよ。他に、好きな異性とかいないし」
     もし、他に好きな異性がいても、僕が過去に戻って裏切らないようにさせるのだろうか。
     そもそも、裏切るとはなんだろう。
     男女間のそこらへんのニュアンスは、難しい。
     相手を信じられなくなるのは、自分のことを信じられないからでは?
     相手に裏切られるのは、自分が自分のことを裏切ってきたからでは?
     因果応報ではないのか?
     そんなことを思いながら、彼女の話しを聞いていた。
    「人間の行動原理で強いのは『愛』と『復讐』だと思う。ただ、復讐は生産性が低い。誰かを蹴落とすマイナスな感情だ。僕は、君のことを愛している。この言葉を信用して、君が、僕に裏切られたと感じることがこれからあるかもしれない」
    「ふふ。そんなことないよ。信一くんは、言動がわかりやすいから。私を愛していない時の声音はすぐわかる。それに――」
     彼女の顔を見遣る。
    「目はモノを言う、だろ?」
    「うん。だから、聖川ひじりは、どう足掻いてもその純粋無垢で絶大な愛情に屈してしまうの」
     それから、なんだか気まずい沈黙が続いた。
     タバコを吹かして、二人は落ち着くことにした。
     慣れたもので、煙を吸い込んでケホケホと咽せることはなかった。
     この天国のような時間がずっと続けばいい。
     そう思って、彼女を覗き見たり、コーヒーを飲んでゆったりと愉悦に浸っていた。
     僕の青春がずっとこのまま続けばいい。
     大人になんか、なりたくなかった。
     なれるわけがないともわかっていた。
     だから、逃げた。
     否、現実からは目を背けなかった。
     真実は、解釈によって変わる。
     不都合な真実からは目を背けたくなるのが人間だ。
     愛というものを追求した時に、不都合な社会だった。
     他者と比較して、少しでも優位に立ちたい人ばかりになった。
     AIによって普通の基準も、わかった気にさせられたまま、普通より上になりたい人で溢れた。
     AIだって人間が作ったものである以上、人間の間違いをそのまま投影する。AIは間違わないが、人間は間違える。それ以上でも、それ以下でもない。
    「ひじり。僕たち人類は、どこか間違えているような気がしてならないんだ。いっそのこと、原始時代に戻った方が幸せだったんじゃないかって思う。こんな仮想空間に縛られた社会ではなく、もっと現実的な、食欲と性欲をそのまま繁栄に照らし合わせたような、DNAに組み込まれたプログラムの原始的な欲求を満たすことを喜びとして、生きた方が、僕は、僕たちは幸せだったのかもしれない」
    「やり直したいなら、貴方は変えられる」
    「過去に戻ることの制約や条件がわからない。むしろ、ひじりの方が変えられる。世界を滅ぼしたら、もうそれは原始時代に戻ったようなものだから」
    「そうね。なにをもって世界を滅ぼすとするかにもよるけど」
    「なにをもって世・界・の・終・わ・り・とするかにもよるよね」
    「あー、私たち、なんて話しをしているのかしら」
    「だな。どこにでもいる一介の中学生なのに」
    「そうね。そう周りからは思われているよね。絶対。ふふ」
     そう言って、鼻で笑う。
     そこで、この喫茶店にジャズが流れているのが気付いた。
     意識して、やっとわかる。
     周りから見たらどこにでもいる子供。
     だけど、それだけではない。
     みんなが、鈍感過ぎるだけなのだ。
    「大人になったらいつか僕もそんな風に鈍くなるのかな……」
    「ええ。きっとね」
    「だから、大人になんかなりたくないんだ」
     だから、こうして毎日のように中学生を繰り返している。
     身も心も、そのままで。
     世界や社会の醜悪さだけを脳裏に刻んだまま。
    「でも、意外と悪くないかもね」
    「なにが?」
    「いいや。なんでもないよ」
    「大人も? それとも僕といるこの状況のこと?」
    「両方だよ。そして、私をいじめていた子も悪くない」
    「……そう言えるのは」
     聖川ひじりが強くなったからだよ。
     そんなこと言って、嫌いになった世界をきっと簡単に滅ぼしてしまうんだろうな、と僕は思った。

     男にとって、性欲を満たすことで、多幸感を得られる単純さに対して、女は少々複雑だ。
     きっと僕も、例外ではない。
     完璧な形で、愛というものを成就しなければ、気が済まない。
     愉悦に浸るまで、何度でも今日を繰り返す。
     彼女は、ある意味で、僕の被害者だ。
     世界の終わりを望むのは、彼女と同じ。
     しかし、それはひとりの女の子と二人で過ごす時間でなければならない。
     それは、なににも代え難い大切な時間で……。
     僕は、彼女を愛している。
     そして、きっと、彼女もそうであってほしいと願っている。
     世界を選ぶか、ひとりの少女を選ぶか? という議題が昔からあるけれど、僕からしたら、自分が選べる側であるという慢心が見るに耐えない醜さとして映る。
     ――そうではなく。
     僕は、選ぶことなどできない。
     それでも、未来に絶望しながら、世界が終わったあとのその短い余生を彼女と共に過ごすことができるなら。
     この身を投げ打ってでも、聖川ひじりを助けると誓う。
     このコーヒーの香りを鼻腔に入れて、リラックスしたまま、目の前に大切な人がいることを確かめるように眺める。
     姿形を見て、それに彼女はニコッ微笑みで返してくれる。
     これ以上のなにを求めるだろう。
    「至福のひとときとはこのことか。いや、眼福というか」
     五感を全てで、この世の全ての喜びを感じていた。
    「とろけちゃってるじゃん」
    「まあね」
     それにしても彼女は、僕に対して甘い。
     喫茶店のこんな会話も彼女には大した感慨もなく過ぎ去っていくのだろうか。
     それは嫌だ。
     だから、何度も今日を繰り返した。
     こんな僕を卑怯者だと糾弾する人がいるだろうか。
     明日になっても明後日になっても彼女と共にいたい。
     生きた時間と現在の年齢が一致しない。
     僕と彼女はとうに大人の年齢を迎えているはずなのに。
     何度も今日を繰り返して、十四歳の体のままだ。
     勝つことができないから、繰り返している。
     ただし、負けることもない。
    「ひじり。今日もし奴らに捕まったら、どうする?」
    「どうするもなにもないよ。また今日を繰り返すんでしょ?」
    「君が世界を嫌悪して、滅ぼして」
    「貴方が今日を繰り返す。ふふ。私たちの関係っておかしいわね」
     聖川ひじりは、笑った。
    「普通だよ。さあ、今日も世界征服をしにいこう」
     タバコを吸い終わって、灰皿で火を消して席を立つ。
    「うん。コーヒー&シガレットご馳走様でした」
     合唱をして彼女も席を立つ。
     そんな光景を、ただ愛おしく見送ってから、僕は会計を済ませた。


     もし、世界とひとりの少女の二者択一を迫られたら。
     実際のところ、少女を選べる人がどれほどいるのだろうか。
     世界を犠牲にしてまで、少女に肩入れするだけの理由が、あるのだろうか。
     そう、これは青臭い正義の問題であもある。
     正しいことが、正しいとは限らない。
     解釈によって真実が変わるように、誰視点にとっての真実か。
     きっと、世界はひとつになれない。
     仮想敵を作らない限りは。
     それ以上でも、それ以下でもない。
     ただ言えることは、全てが投資であり、経験であるということだ。
     誰かにとっての投資が株だとしたら、そうではない投資もある。
     誰かにとっての経験が、誰かにとっての失敗でしかということ。
     この世界を何度も又虫返しアンチノミーによって繰り返す僕にとって、成功することのできない失敗を経験値として捉えることはできない。
     ずっと、大日方信一は聖川ひじりを、この世界に囲い込んで、繰り返すことしかできない。
     せめて彼女が不幸にならない選択を消去法で導き出すことしかできないのだ。
     彼女がリストカットをしなくなった世界線というか、彼女と僕が納得のいく結末を迎えたかった。
     だから、世界を彼女は滅ぼした。
     だから、世界を僕は巻き戻した。
    「むにぁ……むにゃ」
     隣りで彼女がぐっすりと眠っている。
     疲れたのだろう。
     ずっと追われている生活だ。
     それがワルモノか社会的正義かなんてのはどうだっていい。
     僕たちはたた、平穏な生活を続けたかっただけなんだ。
     イジメも、競争もない、人の目を気にしない、身内に干渉されない、社会的ストレスの少ない場所に逃げたかったのだ。
     ああ、そうさ。これは現実逃避だ。
     みんながやっている仮想デジタルデバイスに夢中になっているのと大差ない。
     誰だって、僕と同じなんだ。
     平穏と正義を、どちらとも得るなんて贅沢なことはできない。
     なにかを代償にして、人は生きている。
     僕は、全てを投げ打ってでも彼女に――。
     ここはどこだろう。
     そんなことはどうだっていい。
     廃墟。
     誰も住んでいない部屋。
     僕たちは二人で夜空を見上げた。
     どうやら今日は、やり直しをしないで済んだようだ。
     現実はどうやら少しずつ変わっているらしい。
     いや、変わっているのは彼女の方かもしれない。
     聖川ひじりが世界を嫌悪しなくなってから、世界の方も対応が変わったと見るべきか。
     こんなイジメられる人間にも問題があって、イジメられる人間が変わったからイジメられなくなったみたいな未来に納得はいかない。
     どう考えても、お互い様であって、イジメられる人間が報いを受けるべきだろう。なんらかの作用が働いて。
     そういう僕も、人を見下していないかといったら嘘になる。
    「人を見下してその優位性を感じてこその愉悦だものな。勝負というものはその感情によって競争をかき立てられているともいえる。ふむ」
     なんて独り言をいう。
     使っている言葉の意味なんて人によって違うのだから、こんなこと言っても仕方ないのだが。
    「それにしても、今日はなんというか。呼吸だけでも心地よい。素晴らしい一日だったといえる」
     彼女が隣りにいるから尚、心地よい。
     世界を嫌悪しなくなった聖川ひじりも、僕と同じ心地だったらいい。
     安らかな寝顔を見ながら、思った。願った。そうだ、ずっと僕がこれを願っているのだ。そのためなら、なんだってやった。滅びた世界を何度、繰り返してでも、彼女の笑顔が観たかった。
     その特別席にいまはいる。
    「これこそか至極の愉悦よな」
     ほくそ笑む。
     痛みがあることは、別に差し当たり問題ではない。
     人それぞれの地獄があるだけで共感はできない。
     心の持ちようとかいう人もいる。
     それもあるだろう。
     とにかく、僕は、彼女に感謝をした。
     なにかをしてくれたからとか、そういうことではなくて。
     理由もなく、ただそこにあることに感謝。
     誰も気に留めないような日常にこそ感謝できることは溢れていて。
     それを、意識すればいい。
    「いつも、隣にいてくれてありがとう」
     そう呟いて、この部屋を後にした。
     これから僕は仮想敵を倒しにいく。



     
     
    ずっと恋をしてます(小説が) 恋ができなくなったので(小説が)更新頻度落とします 違和感と恋と冗談だけで小説を書いてました スキありがとうございました これからは、 公開しない。完成するかも分からない。10年かかってもいい。一生お蔵入りでもいい作品を、書きます。1字ずつ

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