
第十章 反響
ゆいちゃんの記事が出たのは、翌年の二月だった。
タイトルは「ミカヅキセブン――消えない亡霊の正体」。現れて消える現象を、答えを出さないまま書いた記事だった。
グループDMに、ゆいちゃんが記事のリンクを貼ってきた。
「出た」とだけ書いてあった。
俺はその夜、ひとりでゆっくり読んだ。記事は長かった。ゆいちゃんらしい書き方だった。断定しない。結論を急がない。ミカヅキセブンという現象を、出会った人間の言葉でだけ描いていた。プロゲーマーが語った「誰かに見られている感じ」。運営会社の担当者が困惑しながら答えた「技術的には説明がつかない」という言葉。目撃情報の数々。
読みながら、俺は何度か手を止めた。知っていることが書いてあるのに、知らない角度から書いてあった。俺たちが話し合っていた夜のことが、まるで別の物語のように見えた。それがゆいちゃんの書き方だった。近くにいる人間のことを、遠くから見るように書く。近づきすぎない。でも、離れすぎない。
それでも、答えは出なかった。最後の一文はこうだった。
「彼は今夜も、どこかのゲームに現れているかもしれない。そしてまた、消えていく」
読み終えて、俺はしばらく画面を閉じられなかった。その一文だけが、画面の中に残っているような気がした。消えていく、という言葉が。
翌日から、記事への反応がネットで広がり始めた。
「これ、俺も見たことある」「同じゲームに出た。記事に書いてあることと全部一致する」「ミカヅキセブン、都市伝説じゃなかったのか」「怖いのに、また会いたいと思ってる自分がいる」「なんで消えるんだろう。消えなければいいのに」
コメントを読みながら、俺はなんとなく、あの居酒屋の夜を思い出していた。最初の一時間、ほとんど喋らなかった金津が、二杯目のころに急に話し始めたあの夜。堰を切ったように出てきた言葉が、全部ゲームの話だったあの夜。こういう人間が、こんなにたくさんいたのか、と思った。金津が知っていたら、どう思っただろう。たぶん何も言わなかっただろう、とも思った。
その中で、ひとつの言葉が特に拡散した。
「正体が謎のままなの、逆にいい。わかったら終わっちゃう気がする」
答えを出さないことを、みんながどこかで望んでいたのかもしれなかった。ゆいちゃんはそれを知っていて書いたのか、それとも書いてみたら偶然そうなったのか。俺には判断できなかった。でも、どちらでもよかった。記事はもう、俺たちの手を離れていた。ミカヅキセブンは、また誰かのものになっていた。
数日後、ゆいちゃんから個別のメッセージが来た。
「反響すごくて、少し怖い」
「怖い?」と俺は返した。
「こんなに広がるとは思ってなかった。でも」
画面を見たまま、次の言葉を待った。少し経ってから、文字が来た。
「金津さんのこと、誰にも気づかれてないのが、なんかよかったと思ってる」
俺はしばらく、その文字を見つめた。
誰にも気づかれていない。記事を読んだ誰もが、ミカヅキセブンの正体を知らない。金津義和という名前は、どこにも出てこなかった。ゆいちゃんは書かなかった。書けることは全部知っていたのに、書かなかった。
金津が何者だったか。NCRで毎晩繋いでいた人間だったこと。ハチ公前でうまく笑えなかったこと。楽しいかどうかわからない、でもやめる理由もない、と書いていたこと。それだけで十分だと思っていたかもしれないこと。二〇〇八年を境に、どこにも現れなくなったこと。
全部、記事の外に置いてきた。
誰かに気づかれなくていい、という生き方をしていた人間の話を、誰にも気づかれないままにした。それがゆいちゃんなりの答えだったのかもしれない。俺にはそう見えた。
それでいい、と思った。
「たかにも報告した?」と俺は返した。
「した。『そうか』って言ってたw」
「たからしい」
「ほんとにw でもね」
また少し間があった。
「サカキが、記事の反響見て泣いてた。自分の席で、こっそり」
俺はそれを読んで、胸の奥で何かが動いた。
あの子は今もまだ、ミカヅキセブンのことを追いかけているのだろう。正体を暴こうとしているのではなく、ただ、何者だったのかを知りたくて。目の下に薄く隈を作りながら深夜に調べ続けていたあの子が、記事になった後も、まだ何かを感じ続けているのだろう。それが泣くということになって、自分の席でこっそりと出てきたのだろう。
正体がわからないまま終わったことが、悔しかったのか。それとも、わからないまま終わったことが、よかったのか。どちらなのかは、わからなかった。でも、泣いたということだけは確かだった。それで十分な気がした。
「いい子だな」と俺は打った。
「うん」とゆいちゃんは返した。
グループDMに戻ると、たかから「(・∀・)」が届いていた。
NCRで毎晩飛び交っていた顔文字だった。たかがこれを使うのは、珍しかった。あのたかが。ボイスチャットでもほとんど余計なことを言わず、「そうか」と「わかった」だけで会話を終わらせるようなたかが。技術者として淡々とサーバーを調べ、二〇〇八年という数字を静かに差し出したたかが。こんな顔文字を送ってくるとは思っていなかった。
俺も同じものを返した。少しして、ゆいちゃんが「(・∀・)ノ」を送ってきた。斜め上に手が生えていた。あのころのままだった。NCRの深夜、誰かが顔文字を送るたびに部屋がぱっと明るくなったような気がしたあのころの、そのままだった。
しばらく、三人でどうでもない話をした。最近見た映画の話、コンビニの新商品の話、たかが仕事でミスをした話。どれも大した話ではなかった。でも、それがよかった。大した話じゃなくていい場所が、まだあった。
それから、マコトさんのことを思い出した。
ゆいちゃんが「直接聞いてみる」と言っていたあの夜から、もう何ヶ月も経っていた。マコトさんから返事があったという話は、ずっと聞いていなかった。もう来ないのかもしれないと思い始めていたころ、先週、ゆいちゃんから短いメッセージが来ていた。
「マコトさんから連絡あった。『読んだ』って、それだけ」
それだけ。
俺は笑った。声には出なかったけど、笑った。
場を仕切るのは上手いのに、自分のことは話さない。何を知っていても、誰かを守るためなら黙っている。「義和のこと、気にかけてやってくれ」と書いていたかもしれない人間が、二十年以上経った今も、それだけしか言わない。名前も、理由も、何も言わない。ただ「読んだ」と言う。
それがマコトさんだった。それがマコトさんという人間だった。
でも「読んだ」と言った。
それだけで十分な気がした。
その夜、俺はひとりで部屋の電球を消した。
画面の光だけが、デスクを照らしていた。あのころと同じだな、と思った。深夜の部屋、画面の光、繋がるのを待つ感じ。あのころ、俺は毎晩この光の中にいた。家族が寝静まった後、廊下の向こうで父親が寝返りを打つ音がするたびに音量を下げて、それでも画面を閉じなかった。
モデムに念を送っていたあのころ。ジーッ、ガガガ、ピーーーという音が、耳の奥で蘇った気がした。繋がれ、繋がれ、と念じながら、あの音を聞いていた。繋がったときの安堵を、今でも体が覚えている気がした。
テレホーダイが始まる、午後十一時。秒針が動くのを横目に見ながら、繋がるかどうかわからないのに、それでも繋ごうとしていた。顔も名前も知らない誰かが、今夜も画面の前にいると、なぜか信じていた。信じる根拠なんてなかった。でも、信じていた。それだけのことだった。
たかが打った「おやすみ」に、三点リーダだけが返ってきた、あの夜のことを思い出した。
あのとき俺は、返事を見なかった。画面を閉じた。もし見ていたら、何かが変わっていたのだろうか。ずっと、そう思っていた。でも今は、たぶん変わらなかったと思う。金津は金津のまま、毎晩接続して、誰かの「おやすみ」に三点リーダだけを返して、それでも繋ぎ続けた。誰かに気づかれなくても、誰かと話せなくても、それでも毎晩繋いでいた。それが金津という人間だった。見ていても、見ていなくても、金津は金津だった。
「おやすみ」と俺は声に出して言ってみた。
誰もいない部屋で、画面に向かって。
何も返ってこなかった。
でも、どこかで今夜も、ミカヅキセブンが動いているかもしれない。誰かのゲームに入り込んで、最短ルートを取らずに、探索するように動いて、それで消えていく。誰にも気づかれないまま、誰かの隣を通り過ぎていく。
毎晩、接続していた人間が残したものが。
あのハチ公前に立っていた、細くて背が高くて、どこを見ているのかわからない目をしていた人間が、残したものが。
接続は、まだ続いている。
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