「寅次郎 心の故郷」
「まず、お断りさせて下さい。この文章は全て私のオリジナルですが、舞台設定として映画「男はつらいよ」の世界を拝借しております。株式会社松竹様のご許可が得られない場合は、私自身も、商業的な公表を望みません。この点を、どうか御了承下さい。」あらすじ。妹さくらを病院に見舞う寅次郎は そこで 看護婦の景子に恋をします。寅次郎の恋が、今回こそは、実るのでしょうか。柴又と山形県を舞台にして、寅次郎の「恋の奮闘・努力」が始まりますが、意外な事の連続で、寅次郎の心は波立ち、嬉しくも淋しい決着へと、自分の恋を 導いて行きます。以下 本文。
「お兄ちゃあーん」妹さくらの叫び声を聞いて、
寅次郎は うたた寝から覚めた。
「なんだ、夢か。」夢の仔細は何も思い出せないが、
さくらの声が胸の中でなお こだましている。
虫の知らせか、さくらにもしや、何かあったのだろうか。
腹巻から財布を取り出す。わずかばかりの紙幣を抜き出すと、
財布の内側に一枚の厚紙が貼り付けてあるのが見える。
それには叔父夫婦が営む団子屋「とらや」の電話番号が記されている。
「番号を忘れちゃったらこれを見てね」と、さくらの心遣いである。
「おかみさん、電話借りるよ。」電話の呼び出し音が空しく続く。
誰も出ないなんて、かつて無かった事。
もう居ても立っても居られなくなると、
馴染みの木賃宿をそそくさと辞して、暮れなずむ道を駅へと急ぐ。
明日は秋祭りの縁日、好天に恵まれそうで、
気合を入れてうんと稼ぐつもりで降り立った駅であったが、
今は故郷柴又からの遠さが恨めしくさえ思える。
夜汽車は 車両が古いせいか、無骨に寅次郎を揺すった。
眠れない夜汽車は過去にもあった。だが、
会いたい人にもう会えないと思わせるような夜の
底知れない淋しさは初めてだった。
中秋の朝の冷気の残る道を、柴又駅から小走りに駆けて来る寅次郎。
いつもはすんなり入るには敷居の高いとらやだが、
まっしぐらに飛び込む。
「おばちゃん、さくらは!? さくら元気なのか!?
さくら何処に居るんだ、さくらーっ!!」
いきなりまくしたてる寅次郎の剣幕にたじろぎながら、
つねは涙ぐんで答えた。
「寅ちゃん、よく帰って来たねえ。ホントに、あたしゃ嬉しいよ、
こんな時にちゃあんと帰って来てくれて。
さくらちゃんも、これで安心して手術が受けられるよ。
ホントに良かったよ。」
「手術!? さくら病気なのか!? 手術するのか!? ええっ!?」
動転する寅次郎。
自転車から降りて博が入って来る。「義兄さん!! 帰ってたんですか。」
「あっ、博さん、寅ちゃんに説明してやってよ、さくらちゃんの事。」
「博!! どうなんだ、さくらどうしたんだ、手術するのか!? 博!!」
「義兄さん、まあ落ち着いて聞いて下さい。
実は さくらの胃にガンが見つかったんです。
それで今 柴又病院に入院していて、
明日手術する事になってるんです。」
ガンと聞いて、寅次郎は胸がつぶれるような気がした。
テキヤ仲間の中にもガンで死んで行った者が何人もいたからだ。
寅次郎の頭の中では、
ガンは不治の病いというイメージだけが定着していた。
「さくら ガンなのか。」
肩を落してうめくように言うと、寅次郎は後ろを向いた。
その背中を見て博は感じた。義兄は泣いている。
黙って泣いているのだと。
義兄さん、そんなに悲しまないで下さい、
泣かなくていいんですよと伝えたくて、
博は寅次郎の肩に背後から手を置いて、力強く言った。
「大丈夫です、義兄さん、さくらは必ず元気になります。
元気になってまたこのとらやに戻って来ます。絶対大丈夫ですよ。」
寅次郎は振り返って、博の肩を掴み、
真っ直ぐに博の目を見据えて訊ねた。
「博・・・嘘じゃないな、ホントにさくらは治るんだな
ホントに治るんだな、博!!」
「ええ治りますとも。必ず治ります。元気になって今まで通り、
このとらやで、毎日義兄さんの帰りを待ってますよ。」
そして博にしては珍しく、冗談も付け足した。
「まったく、誰の女房だかわからないな、さくらは。
僕なんかより義兄さんが大事なんだから。ハハハ。」
博の目を見つめていた寅次郎の顔に、みるみる生気が戻った。
「・・・そうか。治るのか。さくら治るのか。・・・よーし、よーし!!」
はしゃぐ子供さながらに、じっとしていられない。
「そうだ、入院してるって言ったな、さくら待ってろよ、
兄ちゃん今すぐ行くからな。博、どこだ病院!? 何病院だ!?」
「柴又病院です」聞くが早いか、すっ飛んで行く寅次郎。
入れ違いに叔父 龍造が帰って来た。
さくらの手術の日まで、朝の帝釈天へのお参りは龍造の日課である。
ふだんは信心は薄いが、さくらの回復を
何かに祈願せずにはいられないのだ。
当人「気休めだけどな」と言いながらも、気は心。
「つね、今飛び出して行ったの、あれ寅か? 寅帰って来たのか?」
「そうなんだよ、今帰って来て、さくらちゃんの事博さんから聞いて、
柴又病院に会いに行ったとこだよ。」
「そうか、寅帰って来たか。良かったな。さくら喜ぶだろう。」
「ホントだよ。さくらちゃんには何よりの支えになるよ。
寅ちゃんの顔見るのがさ。」
と、そこへ御前様がやって来た。
「ごめん。さくらさんが明日手術を受けると源から聞いて、
気持ちだけだが御見舞いに・・・」源吉が果物籠をつねに渡す。
「まあ、御前様、恐れ入ります。源ちゃんったら、
御心配かけるから御前様には内緒にしてねって言っといたのに、
お耳に入れちゃったのかい、しょうがないねえ。」
申し訳無さそうな表情の源吉に視線をやりながら御前様
「いや、これが昨日 珍しく本堂の御本尊様に手を合わせているので、
何を御願いしておるのかと訊くと、黙りましたが、
正直に言えば仏様もきっと願いをかなえて下さるぞと諭したら、
さくらさんの手術がうまくいきますようにと御願いしたと言うので、
そういう事なら私も一緒に御願いしようと、二人で手を合わせました。
それもこれも仏様のおはからいですよ、おかみさん。」
「ありがたい事でございます。ありがたいと言えば、
寅がつい今しがた帰ってまいりました。」と龍造。
「ほおっ、寅が帰って来ましたか。それは良かった。それもこれも、」
「仏様のおはからいでございましょう、御前様!?」と龍造が先回り。
「いや、その通り。先を越されましたな。ハ ハ ハ ハ ハ。」
年のせいか、御前様の笑い方にはゆったりした間合いがある。場が和む。
「で、寅は何処ですか?」
「はい、今さくらに会いに柴又病院に飛んで行きました。
もうそろそろ着いた頃かと。」
「あっ、しまった。」と博。
「博さん、どうかしたか?」
「いえね叔父さん、病院の面会時間は11時からなんですよ。
今9時半だから、病院は11時までは面会させてくれないけど、
義兄さんはすぐにさくらに会いたくて
とても待ってられないでしょう。
揉めるな、これは。」
おとなしく待っていられる寅次郎ではない。
「病院でひと騒ぎ起こすか。」と龍造。
「困った。実に困った」と御前様。
柴又病院に、息を切らして駆け込んだ寅次郎。
上気した顔に汗が滲んでいる。
「看護婦さん、さくらの病室は何処ですか!?
さくら 何処に居ますか!? 」
「御面会のかたですか、だったら、まず
あちらの受け付けで御名前を書いて下さい。」
「受け付けで名前、はいっ」
律儀に御辞儀をして、即、走る寅。 受け付けで男の事務員から
「面会時間は11時からですので、お待ち下さい。」と言われて驚いた。
「ええっ、今すぐ会っちゃいけないの!?
11時からなんて、そんなに待ってられないよ!!
俺 今すぐ会いたいんだ、頼むよ、ね、頼むからさ。」
「病院の規則ですから、皆さんに守って頂いていますので、
あなただけ特別というわけにはいかないんです。
11時までお待ち下さい。」
「そんな事言わないで、頼むよ、
俺、昨日 旅先の安宿でうたた寝して、夢見たんだよ。
夢で おにいちゃーんって俺を呼ぶさくらの声がして、
それで急いで帰って来たんだ。
俺は見ての通り、甲斐性の無い兄だけど、
いつも心配ばかりかけているたった一人の妹の身に、
もしやわざわいでもあったかと、
胸騒ぎの収まらない夜の長さ 夜汽車の中の心細さに
涙をこらえてじっと窓の向こうの闇夜を見ながら
お前に会いに兄ちゃん帰って来たぞ 会いたかったぞと
とにかく元気な笑顔を見せてやりたい
ただその一心で飛んで来た俺の気持ちが
あんたにはわからないかい?
もしあんたにもさくらのような妹が居たら、
すぐ会いたい俺の気持ちが きっとわかるよ。
すぐ会わせてやりたいって思うよ、な、だから頼むよ、なあ。」
「そうですか・・・御気持ちは、私にもわかるような気がしますが、
・・・しかし困ったな、うちの病院では、・・・」
と、そこへ白衣の男がやって来て 声をかけた。
黒ぶち眼鏡、40代 やや痩身。
「佐藤さん、私宛の郵便来てるかな?
EMRの新しいリポート、田中先生からの」
「あっ、尾形先生、ええ、来てますよ。」
「ああ、これだこれだ、良かった。できれば明日のオペの前に
目を通しておきたかったヤツなんだ。どうもありがとう。」
自分の願いのやりとりを中断されて、寅次郎は苛立った。
「なあ、こっちの話はどうなったんだ、
すぐにさくらに会わせてくれって、
さっきからこんなに頼んでるのによー。」
白衣の男が 寅次郎に向き直って言った。
「さくら? するとあなた
もしかして 諏訪さくらさんのお兄さん? 」
驚く寅次郎。「えっ、さくらの事知ってるの? あんた誰? 」
「私 尾形です。明日 諏訪さんの手術を担当します。」
寅次郎は即座にかしこまって御挨拶。
「大変お見逸れ致しました。
わたくし、すわさくらの兄の 車寅次郎と申します。
このたびはさくらが御世話様になります。
どうか宜しく御願い致します。」
「先生、さっきからこの人が
今すぐ面会させろって、困ってるんですよ。
規則だから11時まで待って下さいと説明しても
聞いてくれなくて。」と佐藤。
「面会? うん、いいんじゃないかな。
もうそろそろ、朝のケアも終わる頃だし。
景子ちゃんテキパキしてるから。
じゃあ車さん、私今から諏訪さんの病室行きますから、
一緒に行きますか? 」
「はいっ!! お供します。」
思いがけなく 願ったりかなったりの展開。
寅次郎、喜色満面。
「そんな事言って、ホントにいいんですか?
先生、こないだも病室で患者さんと一杯やったの
理事長の耳に入って、
理事長から睨まれてるっていうのに。」と心配そうな佐藤。
「あっ、あれバレちゃった? そりぁまずいなあ。
でも、しょうがねえや、やっちゃったのは事実なんだから。
まあ、いざとなりゃあ理事会で
たびたび当院の規則を破って反省してますって謝るか
それともケツまくって
理事長が怖くてオペが出来るかって啖呵切って辞めてやるか。
どっちになるかな、アハハ。じゃ行きましょう、車さん。」
尾形に付いて歩きながら、寅次郎は嬉しい予感がしていた。
この先生なら さくらをまかせて大丈夫、間違い無い、
そんな気がしたのである。
さくらの病室に向かって歩きながら、尾形医師が寅次郎に話し掛けた。
「さくらさんから聞いてますよ、お兄さんの事。
いつも旅暮しだそうで、大変ですねー。」
「あっ、いえ、長年の稼業ですから、どうって事もございません。
でも、どうして妹は
私なんかの事を先生にお話したんでしょうか? 」
「それはですね、さくらさんの場合は幸い、
極めて早期の胃がんですので、
ご主人もまじえて私からよく説明して、
手術には納得して頂いたんですが、
どうもさくらさんの表情に かげりが見えたので、
不安な点が有ったら何でも話して下さいと念を押したんですよ。
そしたらさくらさんは 独り言のように、
お兄ちゃんが帰って来るまでに元気になれるかしらって、それで・・・
あっ、車さん、ここですよ、さくらさんの病室。」
尾形は廊下で立ち止まって、いたずらっぽい眼で寅次郎を見て言った。
「さくらさんをうんと喜ばせてあげましょうか。
あなたここに居て下さい。
私が もういいよーって呼んだら入って来て下さい。」
病室の戸を半開きのままにして、尾形は入って行った。
胸を躍らせて寅次郎は待った。30秒、そして1分。
もう待てないと思ったその時、「もういいよー」
「さくらーっ!! 」「お兄ちゃん!! 」
病室に駆け込んだ寅次郎は、
ベッドで身を起こして腕を差し伸べているさくらに突進、
しかし足がもつれたのか、勢い余って前のめりに。
運良く、いや悪く、居合わせた尾形に抱きついてしまったから、
尾形はたまらない。相撲なら「浴びせ倒し」で寅の勝ち、
といった格好。
「先生、申し訳無い、私、まさかこんな事になるとは、
どうしましょう・・・」うろたえて謝る寅。
「大丈夫ですか、先生、すみません、兄は粗忽者で・・・」と さくら。
「あ痛ーっ、頭打っちゃった。ああー」
後頭部に手をやって立ち上がる尾形。
「あの、先生、眼鏡が、あそこに」と さくらが部屋の隅を指差す。
寅次郎がすぐに床から拾い上げて尾形に渡す。
「あっ、先生、眼鏡外すとイイ男だなあー。渋いって言うんですか、
女の患者さんとか看護婦さんにも人気あるんでしょ、
この色男。エヘへ。」
寅、失態を詫びるリップサービス。
「あー、とんだ災難だ、・・・でも、この小さな災難で、
大きな災難を免れたんだから運がイイ。
私はいつも、そんなふうに考える事にしてるんだ。
・・・でも、まだ痛いわ、あー。」
後頭部を撫でながら病室を出て行く尾形。
その背中に頭を下げてから、寅次郎はさくらに向き直る。
「さくらぁ」「お兄ちゃん」
さくらのベッドに横座りに腰掛けて、寅次郎はさくらを見つめる。
胸が詰まって言葉が出ない。
「お兄ちゃん、元気だった? 」と切り出す さくら。
「馬鹿野郎、こんな時まで兄ちゃんの心配しやがって。
この通り、俺は元気よ。
・・・言いたい事いっぱい有るけど、お前の顔見たら、
何から言ったら良いか分からねえや・・・
そうだ、俺な、今朝帰って来たんだ。
それで博からお前が入院してるって聞いて、
すっ飛んで来たってわけよ。
あの先生のおかげで、すぐお前に会わせてもらって・・・
良い先生じゃねえか、兄ちゃん安心したぜ。」
「そうなの。私の身体の事だけじゃなくて、
私の気持ちもとっても大事にして下さるの。
だから私、お兄ちゃんの事もいろいろ先生に話しちゃった。」
ふだんのさくらとは違って、
幼い頃に戻ったかのように、兄に甘えるさくら。
「あのね、私、昨夜 お兄ちゃんの夢見たの。
夕焼けの赤い光に包まれた江戸川の土手の道を
お兄ちゃんがずんずん歩いて行っちゃうの。
私も付いて行こうとするんだけど、身体がちっとも動かなくて、
お兄ちゃんの背中がどんどん遠くなっていくの。
悲しくて、おにいちゃーんって叫んだら目が覚めたの。
それが変なのよ、お兄ちゃんは今のままのお兄ちゃんだけど、
私は小さな子供なの。
お兄ちゃんが家出した時に駅まで付いて行ったでしょ、
あの時の私なのよ。」
「へえーっ、そんな夢見たのか。そうかそうか。
でも、もう淋しがる事無いぞ、
兄ちゃん ずうーっと傍に居るからな。」
久しぶりに兄に会えて、さくらは心の重荷がすっかり消えた気がした。
尾形医師には全幅の信頼を抱いていたが、
手術の後の生活を考えると、断ち難い不安は有った。
それが今は どうでも良い事に思える。
「ずうーっと傍に居るからな。」という兄の言葉が、
何もかも支えてくれるような気がするのだった。
気持ちが楽になって、さくらの声が弾みだす。
「そうそう、満男ったら、可笑しいのよ。ウフフ。」
「何だ、満男がどうかしたか? 」
「うちのアパートのお風呂が壊れちゃって、
修理が済むまでお風呂屋さんに通ったの。
満男がね、男湯の湯船が熱くて、水を埋めたら、
『坊や、そんなに埋めたら、ぬるくなっていけねえ』って
知らない男の人から注意されたんですって。」
「ほおっ、それで? 」
「なんだか怖いおじさんだなと思って、
熱いのを我慢してお湯に浸かってたら、
男の人がお湯から上がったんだけど、その背中を見てびっくり。
大きな鬼の刺青が有ったんですって。とっても怖かったって。」
「満男少年は人生で初めて極道者に出会ったか、風呂屋で。
未知との遭遇ってわけだな。ハハハ。」
さくらに会えるまでは張り詰めていた気持ちも今はほぐれて、
寅次郎の口から流行り映画の題名が出た。
「それでね、ちょっと深刻な顔して私に訊くのよ、
『寅伯父さんの背中にも刺青有るのかな? 』ですって。
どうしてそんな事考えたのって訊いたら、
『寅伯父さんは昔 怖いおじさんたちの仲間だったんでしょ』だって。」
「へへっ、そりゃあ面白いや。で、お前 何て言ったんだ? 」
「そんなの有るわけないでしょ、って言おうと思ったの。
でも、ちょっと考えて、じゃあ今度伯父さんが帰って来たら、
一緒にお風呂に入って、自分で確かめてみたら?
って言ってやったの。そしたら、ちょっとはにかんで、
『何だかドキドキしちゃうな』ですって。ウフフ。」
「そうか、満男と風呂に入るか・・・初めてだな。
よし、湯に浸かりながら、この寅伯父さんが人生について語りますか。
満男君には貴重な経験になるでしょう、はい。・・・
なにしろ博ときたら、堅気の見本みたいな男だからな、
満男も息が詰まるってもんだ。
・・・世の中には俺のような半端者も居て、
お天道様に見てもらいながらどうにか生きてるって事を教えてやるか。
・・・そしたら、伯父さんのようになっちゃいけないなあ
と分かるだろう、
アイツは賢いから。・・・ほら、よく言うだろ、
人の尻見て我が尻隠せ! って? 」
さくら笑って、「人の振り見て我が振り直せ、でしょ、フフフ。」
「あ そうか、そうだったか、ハハハ。」
このひととき、寅次郎は 安らかだった。
寅次郎を見つめるさくらの眼と 胸の奥に染み透るさくらの声。
さくらが居てくれるだけで俺は幸せなんだと思えて、
無性に有り難かった。
貧しいだけの男が、全てを得ているように満たされていた。
しばらくして、病室の戸が開き、快活な声が響いた。
「諏訪さん、点滴 取り替えますねー。
あらっ、御面会のかたかしら? 」
入って来た看護婦に、さくらが寅次郎を紹介する。
「あの、私の兄なんです。・・・お兄ちゃん、
こちら竹中景子さん、とっても御世話になってるの。」
「まあー、お兄さんですか。私、竹中景子です。
諏訪さんを担当させて頂いてます。宜しく御願いします。」
「これはこれは、看護婦さん、
ご丁寧な御挨拶を頂きまして、恐れ入ります。
私、車 寅次郎と申します。
妹の事、何卒宜しく 御願い申し上げます。」
さっそく点滴を取り替えながら、さくらに優しい言葉をかける景子。
年は27、8か、少し小柄で丸顔。
声には若い生気と暖かみが有り、愛らしい眼と小さな口元がよく笑う。
彼女から目を離さず、じっと見つめている寅次郎。
その緊張と憧れの入り混じった表情を見て、さくらは悟った。
お兄ちゃん、景子さんに一目惚れしちゃったのね。
気持ちは分かるけど・・・。
「じゃ、私 後でまた来ますけど、もし何かあったら、
いつでもナースコールのボタン押して下さいね。」
笑顔で言い残して去っていく景子。
寅次郎は浮き立つような笑顔で、見送った姿勢のまま。
景子の愛らしさの余韻に浸りながら。
「お兄ちゃん! 」と さくらに呼ばれて我に帰ると、
「さくらぁ、良い看護婦さんだなあ。
優しくてよぉ。あったかくってよぉ。」
もう半ば夢見心地。
兄の新しい恋の始まりを確信して、さくらは小さなため息をついた。
兄の気持ちの華やぎが、そのまま幸せに実ってくれたら
どんなに嬉しいだろう。
さくらの胸の中に 幾つも重なって来た 叶わなかった兄の望み。
もうひとつ抱く事になるのかしら。それでも良いわ。
お兄ちゃん、もしダメだったら、私また泣いちゃうけど、でも良いの。
だから、思いっきりお兄ちゃんらしい恋をしてね。
心の中でそう言いながら、さくらは微笑んで寅次郎を見つめていた。
ふと見ると、病室の壁の時計が11時を指している。
「お兄ちゃん、おなか大丈夫? 朝御飯 ちゃんと食べたの?」
さくらにはわかっていた。兄は昨夜から食事どころではなかったのだと。
たった一人の妹を心配して矢も盾も堪らず駆けつけてくれた。
兄は そういう人だ。
「ああっ、そういや俺、ゆうべから何にも食ってねえんだ。
お前に言われたら、兄ちゃん 急に腹へって来た。ああ・・・」
よろよろと さくらのベッドの足元に崩れかかる寅次郎。
「まあ、お兄ちゃん、しっかりして。
私の事はもう良いから、帰って何か食べて。ね。」
「ああ、じゃあ そうさせてもらうぜ。
おばちゃんに ゆうべのおかずの残りで良いから、
今すぐ何か食わせてくれって・・・
へへっ、とらやのゆうべのおかずは、さしずめ、
お芋の煮っ転がしってとこだな。
いつもなら食い飽きてる芋だって、
今日は美味くて、鍋一杯でも食っちまいそうだ。」
そして小声で呟くように「お前の顔見たからよ。」
そう言い残して 寅次郎は病室を出た。
「ええっと、出口は と。」方向音痴の寅次郎。
きょろきょろ見回しながら歩いていると、にわかに救急車の音。
ただならぬ気配を感じて立ち止まった寅次郎の横を、
看護婦さんたちが風のように走り抜けた。
『あっ、景子さんだ』
後ろ姿だが確信して、胸弾む思いで景子を目で追う。
「化学工場で爆発事故、重傷者3名」と叫ぶ声。
負傷者を横たえたキャスター付きの搬送台が
救急処置室へ次々と運ばれて行く。
負傷者の頭部からの流血 閉じた目 半開きの口
そして 身をかがめて搬送台を押し運んで走り去った景子。
わずか数分の出来事だったが、寅次郎には 一つの重大事件となった。
それは景子との 2度目の出会いだった。
最初の浮ついた思いは消えてしまった。
どうすれば良いのかは分からなかったが、自分を変えたいと思った。
もう一度 景子に会うために。
景子のために 何か良い事をしてやりたい。
それが出来る男になりたいと思った。
ただそれだけを願った。
だが、どうすれば良いのか。俺に何が出来るのか・・・。
寅次郎は病院を出た。とらやには帰らなかった。
夕暮れの柴又。
いつもと変わらず、豆腐屋のラッパ 寺男の源吉が撞く釣鐘の音
そして巣に帰る鴉の鳴き声に送られて、
題経寺の境内で遊んでいた幼児たちが 家へ帰っていく。
とらやには、これもいつものように、裏の工場のタコ社長が顔を出す。
そしていつもより明るい声で
「こんばんはー。寅さん帰って来たんだって? 」
「帰って来たんだけど、帰って来ないんだよ。」と龍造。
「何だい、それ? 」と社長。
「いえね、義兄さん今朝帰って来て、すぐさくらに会いに病院へ行って、
それっきり帰って来ないんですよ。
僕もさっき満男を連れて面会に行ったら、
義兄さん昼前にはとらやに帰ってるはずだって、
さくら言ってたんだけど。」と博。
博は上着のポケットから 「御見舞い」と書かれた
のし袋を取り出して龍造に見せた。
「叔父さん、これ 社長から頂きました。」
「気使わせて悪かったなあ。」と龍造。
「まあー、すみません、社長さん」と つね。
「いやー、いくらも入ってないんだよ。気持ちだけ。」と社長。
少し間を置いて「そうかあ、寅さん居ないのか。
久し振りに顔が見られると思ったのに・・・。
どっかで一杯やってんのかなあ? 」
「義兄さん今夜は一人になりたかったんでしょう。」と 博。
「寅ちゃんにしてみりゃ、
さくらちゃんが居ないとらやじゃねえ・・・。」と つね。
一同しんみり。そこへ満男の一声。「お腹すいたー。」
「あらあら、ごめんよ。待たせちゃったね。さあ、御飯にしよう。」と
気を取り直して つね。
「社長、一緒にどうだ? 」と龍造。
つねがちゃぶ台にトンカツの皿を並べるのを見て
「おおっ トンカツかあ。なるほど、ガンに勝つってわけだな。」
と社長。
「俺が言ったんだ、今夜は皆でトンカツ食おうって。」と龍造。
「さくらちゃんの手術が成功しますようにって、
あたしゃ何にでもすがりたい気分だよ。」と つね。
「おばちゃん、大丈夫だよ。」と社長。
「俺の知り合いの中にも、胃がんの手術した奴が居るんだけど、
退院して2週間でゴルフに行けたって言ってたよ。」
博も「尾形先生が手術した患者さんは、
盲腸の手術の後のほうが痛かったって言ったそうですよ。」
「へえーっ、それなら安心だねえ。良かった。」と つね。
「案ずるより産むが易し だな。」と龍造。
「さっき会った時言われちゃった。
お母さんの事は何にも心配いらないから、
満男はしっかりお勉強しなさい だって。」と満男。
「ほうー、で何て答えたんだ? 」と博。
「僕黙ってた。急に勉強が好きになるわけないもん。困っちゃうよ。」
「ハハハ。満男君は正直だな。父親に似て。」と社長。博は苦笑い。
「お勉強が嫌いなのは 伯父さんに似たか。」と龍造。
「ハハハ、うまいうまい。」と 社長とつねの笑いの二重唱。
寅次郎とさくら 不在の二人によって
更に強く結ばれるとらやの人達は 今夜も暖かく安らかだった。
「伯父さん とうとう帰って来なかったね。」「ああ。」
夜更けて とらやからアパートへ帰る満男と博。
『伯父さんと風呂に入りたかった』満男は父には言わないまま歩いた。
「勉強嫌いは伯父さん似」と言われて、一同の笑いを誘っても、
満男は決して嫌な気はしなかった。
むしろ嬉しいような気さえしていた。
満男はなんとなく伯父が好きだったのである。
母を本当の笑顔にさせ、そして何度も泣かせる伯父。
真面目一方の父が、正反対の生き方なのに根底では信じている男。
背中に刺青が在るのか無いのか 怖い物見たさだけではなく、
それ以外の伯父の事 そして母について父には訊けない事も
満男は伯父に訊いてみたかったのだ。
いや、それ以上に、
伯父の話してくれる事なら何でも聴きたかったのである。
とにかく伯父と一緒に居る時間が欲しかった。
寅伯父さんの生きている世界は、
満男にとって未知の魅力と冒険が待っている
面白くてワクワクする世界だと思われた。
そしてまた、涙を呑んで何度でも旅立って行く伯父は
満男の計り知れない辛さを背負う男だった。
その辛さを知りたいような、知りたくないような
どちらにも決められない気がした。
ただ言えるのは、寅次郎にほのかな憧れを抱くようになった
自分を 発見した事。
それは満男少年の 母には隠さねばならない
母からの自立の始まりであり、
生涯の自分探しの 最初の一歩であった。
寅次郎は病院を出て その足で山形県の寒河江に向かった。
最上川を船で渡り、行き交う人も無い田舎道を歩き続けて、
蔵王の山並みを遠くに臨む寂しい墓地に着いた時には
日は暮れかけていた。
おゆきさんの質素な墓に、寅次郎は 白いコスモスの花を手向けた。
「ここへ来る途中の道端に咲いてた花だけど、
せめてこれでもと思ってよ。
おゆきさん、かんべんしてくれよな。」
寒河江の駅の売店でアンパンを買ったら、
もう花を買う金も残っていなかったのである。
そのアンパンをお供えして、頭を垂れ 瞑目合掌。
そしてふうっとひとつ溜め息をついて、
「さっそくで悪いけど いただくぜ。」
腰を下ろし ビニール袋を破ってアンパンを食べ始める。
本来、墓の前で お供えのお下がりを食べるような
無作法な寅次郎ではない。
だが、おゆきにだけは、格別な思いがある。
目の前におゆきが居たら、金さえあれば
財布はたいて御馳走してやりたい、
たったひとつのアンパンなら半分ずつにして一緒に食べたい。
おゆきと一緒なら、分け合って食べるアンパンも
ただそれだけで最高の食事なのだ。
『ああっ、あの時も ひどく腹が減ってたなあ・・・。』
昨日の事のように鮮明な記憶。
雪の降る晩、無一文で入った駅前の食堂。
商売抜きで、寅次郎のテーブルに
山盛りの飯と豚汁と御新香を置いてくれたおゆき。
アンパンを食べ終えるまでに 寅次郎は何度も洟をすすった。
そして立ち上がり 名残惜しそうに
しばらく墓を見つめてから去ろうとした時、
「もし、どなたかな? 」の声。
寅次郎が振り向くと、墓地の管理をしている慈恩寺の和尚が歩み寄る。
「おおっ、確か以前 東京から
おゆきさんの墓参りに来られた御方じゃな。」
「はいっ、和尚様。私、昔おゆきさんに御世話になりました
車寅次郎と申します。
以前お目にかかった折には ありがたい教えを聞かせて頂きました。
この悪い頭の隅に 今も留めております。」
「いや、お恥ずかしい事じゃ。
わしの言葉が 何かの役に立ちましたかな? 」
「はい。和尚様から 己を知れよと教わって、何も分からない私ですが、
何も分からない私である事だけは ハッキリ感じております。」
寅次郎は 自分自身に驚いた。まるで自分の中にもう一人の自分が居て
言葉を発したような気がしたのである。
和尚はゆっくりと深く頷いて、寅次郎に微笑んだ。
その微笑に引かれて、寅次郎の口から
言わずにいられない望みがほとばしり出た。
「和尚様、教えて下さい、一番大切な事は何でしょうか?
私にも出来る一番良い事は 何でしょうか? 」
この瞬間 寅次郎の顔に輝いた純真な願いに 和尚は仏の光を見た。
「ありがたい事じゃ。」と呟いて瞑目合掌すると、
「いや、もう日も暮れて来た。
立ち話では無理じゃから、庫裏においでなさい。」
と寅次郎を誘った。
「お急ぎでなければ、今夜は寺で泊まられるがよろしかろう。
なに、見ての通りの古寺に わし一人じゃ。遠慮は要らぬよ。
そうじゃ、久し振りに今夜は一杯やるか、
いや実に楽しい、ワハハハハハ。」
すたすたと歩いて行く和尚。
年に不相応な速さに、寅次郎は慌てて後に従った。
和尚の速足はいっこうに緩まない。
おゆきが引き寄せてくれた寅次郎と過ごす一夜が楽しみで、
和尚は青年に戻ったように心が弾んだのである。
玄関で草履を無造作に脱ぐと、さっさと上がって廊下を行く和尚。
寅次郎は和尚の草履と自分の草履を直して 和尚の背中を追いかける。
「ここじゃ、ここじゃ、わしの住み処は。」歌うように上機嫌で、
和尚が寅次郎を招き入れた部屋は 十畳ほどの広さの板の間である。
床板は長い時が沈み込んでいるかのように黒光りしている。
中央に囲炉裏が切ってあり、
囲炉裏のきわにはニ尺幅ほどの茣蓙を敷き廻してある。
和尚は 寅次郎のために 茣蓙の上に更に座布団を敷き、
「ささっ、ここへ座って くつろぎなされ。」と
寅次郎に満面の笑みを向けた。
苦楽を共にした旧友に再会したかのような歓びの笑顔であり、また、
長く辛い旅から帰った息子を迎えた老父のような
いたわりの笑顔でもあった。
和尚は 先刻の墓地での寅次郎に
おゆきと同じ心根の一途さを見て取り、慈しみに胸が溢れたのだった。
愛して叶わぬ願いを抱く者を仏と呼ぶ。愚かにも愛して傷つく者二人。
孤独を生きながら、必要な時には
己一人の哀しさを燃やして他者を暖める者二人。
おゆきも寅次郎も、そうとは知らずに
仏に手を引かれて 仏と共に歩く者であった。
その二人を 和尚は いとおしくてならない。
「車さん と言われたな? 」
「はい、どうか 寅と呼んでやって下さい。」
「では寅さんじゃな。寅さん。」
「はい。和尚様。」
「今すぐ夕食の支度をするから、しばらく待っていて下され。
なに、わしの作る物など御口には合いますまいが、
ほんの心ばかりの田舎料理・・・そうそう、酒じゃ酒じゃ、
ぜひ一杯やって下され、三国一の銘酒とは言えぬが、
ここの地酒もなかなかじゃよ。ワハハハハ。」
そう言い残して、和尚は板戸を開けて隣の間に移り、
略衣と白衣を脱いで作務衣に着替えると、台所で炭を熾し始めた。
一人になったこの時、寅次郎は何故か 尾形医師の事が頭に浮かんだ。
和尚も尾形も 寅次郎にとって 気に食わないはずの
「インテリ」である。
上から物を言う連中。しかし、和尚と尾形は違った。
ただの人と人 分け隔てなんか無い、
その正しい理屈が本当に身に付いた人だ。
寅次郎がこれまでに出会ったインテリは、
平等とか民主主義とかいう言葉を使いながら、
それがちっとも本当じゃない人達だった。実は寅次郎を見下していた。
和尚と尾形は そういう「インテリ」ではない。
ちっとも偉そうにしないで
心から俺なんかと付き合ってくれる。
これが本当に偉い人なんだろうと 寅次郎は思った。
本当に偉い人から親切にしてもらって、俺は幸せ者だと感じていた。
やがて和尚が戻って来て、少しだけ熾した炭を囲炉裏にくべた。
「火が回って良い加減になったら、酒の燗をしますぞ。」
「何か御手伝いを」と寅次郎。「いやいや、寅さんは座っていなされ。」
和尚は笑顔を絶やさず、ひょいひょいと足取りも軽く台所へ。
しばらくして、心づくしの食膳が整った。
自然薯のとろろ、里芋の田楽、秋茄子とがんもどきの煮物、玄米飯。
「幸い、昼から下ごしらえをしていた物じゃから、手間要らずじゃった。
これ皆、村の農家のおかみさんやおばあさんが
寺に持って来て下さった野菜で 作ったんじゃよ。
ありがたい事じゃ。」
囲炉裏には鉄瓶がかけられ、徳利の燗がちょうど人肌。
「いやー、今夜の酒は実に美味い。のう、寅さん。」
「ほんとに美味いよ、うん。
こんなに気分良く酔ったのは久し振りだなあ。」
和尚に心から受け容れられている安心感に包まれ、
空きっ腹に酒が入って、
寅次郎はたちまち出来上がってしまった。
飲む前は恐縮して正座していたが、
今はすっかり打ち解けて膝を崩し、相好を崩す。
口も滑らか。
「なんだね、和尚さんはいつもこんなに美味い酒飲んでるの? 」
「いやいや、わし一人では滅多に飲まんよ、
御客人をもてなす時だけじゃ。」
「ふうーん。・・・それにしても 和尚さんは料理が上手だねえ。
この芋なんかさあ、叔母ちゃんの作る煮っ転がしより
ずうっと美味いんだもん、
俺 驚いちゃったよ。あっ、叔母ちゃんってのはね、
俺の故郷の葛飾柴又の、
そのあたりで一番古い団子屋の女将なんだけど、これがまあ、
気の利かない無愛想な女将でね、だから全然客が来ない、うん。
俺が旅から帰るといつも おかずは芋の煮っ転がし。
勤労意欲が無いから、他のおかずなんか作りゃしねえ。
おかげでこっちは芋で腹が張って、屁が出て困っちまう・・・
その連れ合いが俺の叔父貴なんだけど、これがまた偏屈な爺いでね、
俺の顔見りゃ説教ばかり垂れやがって。
向こうは説教垂れる、こっちは屁垂れるで、
全く閉まりのねえ話よ、へへっ。」
寅次郎の独り語りに、和尚は目を丸くしたり細めたり。
放課後の教室で二人っきりで
ガキ大将の告白を聞いている先生のような、暖かい目である。
「でもさ、ありがたいよな、こんなろくでなしの俺にも、
親代わりの叔父夫婦が居てくれるんだから。
旅先じゃあ、時々思い出しては心の中で手合わせてるんだけど、
帰って面(つら)合わせると つい悪態ついちまう。・・・
ダメだよなあ、俺って。
・・・ああっ、和尚さん、俺 嬉しいよ。ほんとに嬉しいなあ。
だってさあ、俺なんかの遊び人風情に、
偉い和尚さんがこんなに親切にしてくれてさ。
なかなか出来る事じゃないよ、うん。」
「いやいや、わしも寅さんと飲めるのが嬉しいんじゃよ。・・・
おゆきさんも、今夜はわしらと一緒に ここで喜んでおるじゃろう。」
寅次郎は 我に返ったように真顔になった。
「おゆきさん・・・おゆきさん・・・」
独り言のように呟いて、それきり黙ってしまった。
そして酔いを振り払うように居住まいを正して、
真っ直ぐに和尚を見て 寅次郎は言った。
「和尚さま、私、今日どうしてもおゆきさんに会いたくなって、
こちらに参りました。おゆきさんが生きてるうちに、
せめて良い事のひとつもしてやりたかった、
その後悔にせきたてられて参ったのです。」
胸の中で しばし鎮まっていた波紋が、
今は一層強く寅次郎を震わせていた。
景子のひたむきな働きぶりを見て心を打たれた理由が、
今 痛いほど解ったからである。
景子は寅次郎にとって、再び現れたおゆきだった。
おゆきへの思慕が切なく重なって、
景子が寅次郎の胸深く かき立てた恋。
それはただの恋ではない。もはや手の届かない淋しさに遮られて、
それでもどうしても、何か力になってやりたい、良い事をしてやりたい、
その一心で捧げる、願いのような恋。
「和尚さま、もし、もう一度おゆきさんに会えたとしたら、
私は何をしたら良いのでしょうか? 私のようなやくざ者に、
一体どんな良い事が出来るのでしょうか? 」
和尚は黙ったまま 寅次郎を見つめていた。
愛したくてたまらない、
しかしいくら漕いでも前に進めない小舟のように、
己れの愛の無力を嘆かずにいられない男。
それは若い頃の和尚自身でもあった。
「ついて来なされ。」和尚はそう言って立ち、
部屋を出て本堂へ向かった。
寅次郎が本堂に入ると、和尚は戸をぴたりと閉めた。
広さは八十畳もあろうか、月明かりの射す窓も無い 夜の本堂は、
文字通りの闇である。「和尚さま、暗くて何も見えません。」
「案ずる事は無い。ここへ来なされ。」
和尚は寅次郎の手を引いて 本堂の中央に座らせた。
そして内陣の御本尊の祭壇の前に立ち、手探りでマッチを取り、
小さな燭台の蝋燭に火をつけ、燭台を持って来て寅次郎の前に置いた。
闇の中で 一本の蝋燭の小さな炎を挟んで 二人はただ座っている。
寅次郎は何も言ってはいけない気がして、
息を呑んで和尚の言葉を待った。
わずかな間であったが、寅次郎には長く感じられた。
和尚が口を開いた。「広い本堂の四隅を照らすには
この小さな蝋燭の光ではとても足りない。
じゃが、この小さな光が在る限り、
わしらの居るところはもはや闇ではない。
わしにはあなたが見える、あなたもわしが見えるのじゃ。
人は皆、闇の中に居る。人の中に闇が在る。
じゃから、どんなに小さな光でも、ありがたいのじゃ。尊いのじゃ。」
寅次郎は 分かった気がして 分かっていない気もしたが、
それでも和尚の言葉に捉えられて、
「光・・・光・・・」と うわ言のように呟いた。
和尚は小さく頷いて、言った。
「そうじゃ。光が無ければ、誰の姿も見えぬ。
人を見る事も出来ず、人に見てもらう事も出来ぬ。」
そして更に確信を込めて言った。
「寅さん、あなたは既に光を持っておるのじゃよ。
あなたがおゆきさんのために良い事をしてやりたいと言う、
その願いこそは光じゃ。光なのじゃよ。」
「墓地では 一番大切なものは何か と言われたな。
大切なもの それは、魂じゃ。魂から願いが生まれて来るのじゃ。
魂を失ったら、願いを失う。光を失う。
見るべきものが見えなくなって、
人と人との本当の繋がりが断たれる。」
「おゆきさんは 愛した男に去られて、男の不実を悟った時、
闇の中に置き去りにされたように辛く、淋しかったじゃろう。
じゃが、おゆきさんは魂を失くさなかった。
いや、魂がおゆきさんから離れず、
おゆきさんを守ってくれたのじゃな。
それじゃから、寅さん、あなたとおゆきさんの出会いが、
本当の出会いになったのじゃ。」
ここまで語ると、寅次郎を見る和尚の眼差しは
いっそう優しくなっていた。
「のう寅さん、あなたとおゆきさんは、
互いにこの小さな蝋燭の炎じゃった。
闇の中で出会い、暖め合い、照らし合ったのじゃ。
昼間の太陽に比べれば、この小さな蝋燭の炎など、
在って無きが如しじゃ。
しかし、人はそれさえ失う。失っても気付かぬ。・・・
魂を失ったからじゃ。悲しい事じゃ。・・・」
寅次郎は、これだけは確かめたいと思って、訊ねた。
「和尚さま、一番大切なものは 魂・・・では魂とは何でしょうか? 」
「・・・魂とは、・・・そうじゃな、別の言葉で言えば、
・・・仏様と言う事じゃ。・・・釈尊、つまりお釈迦様じゃが、
釈尊は、一切が空しいと知った時、
一切が空しいままで支えられている事を知ったのじゃ。
つまり、仏様に出会ったのじゃな。・・・
いや、このような理屈など、あなたには要らぬ事じゃよ。
仏様が守っていて下さるからのう、ハハハハハ。」
いかにも嬉しそうな和尚の笑い声。
それは小さな声ではあったが、本堂の闇に響き渡った。
寅次郎は もっと分からなくなってしまった。ただ、
「仏様が守っていて下さる」という和尚の言葉と笑顔
そして笑い声のおかげで、身も心も軽くなった気がした。
二人は部屋に戻り、囲炉裏を挟んで床を延べた。
夜中、寅次郎の大いびきに目が覚めた和尚が
寅次郎の乱れた布団を直してやる。
「・・・景子さん・・・このたびは・・・景子さんのおかげで・・・」
寅次郎の寝言。にっこり微笑んで、和尚は再び寝入った。
翌朝、丁寧に御礼を述べて 寺を辞する寅次郎。
和尚は別れを惜しみ、餞の言葉をかけた。
「人のためを思って、心を込めて行なえば、
どんな事でも、一番良い事になるのじゃよ・・・
寅さんの気持ちは、お相手の御婦人にきっと伝わるじゃろう。
のう、寅さん。」
「えっ」と驚く寅次郎。「和尚さま・・・どうして・・・」
「いや、あなたは正直な人じゃから、
顔に書いてあるのじゃよ。ハハハハハ。」
和尚の晴れやかな笑い声に送られて、
すっかり照れて はにかみながら寅次郎は寺を後にした。
その日の午後、寒河江の とある神社の祭礼。
参道の一角に、寅次郎の明るく威勢の良い声が響く。
立て板に水の見事な口上は、ひときわ見物客の耳目を集めた。
「さあ、来たる10月5日は、かの有名な達磨大師の命日です、
そこで本日皆様に私が御用意致しましたのが、
縁起物でおなじみ、このダルマさんだ。
さっ、おとうさん、御手にとって御覧下さい、
ささっ、遠慮しないで御手て出して、・・・
ほおーっ、あなたは実に良い手相をしていらっしゃる。
うらやましいねえ。金満艶福、金運も女運も言う事無し、
しかーし、人生一寸先は闇と申します、
好事魔多しの例えもあるとおり、何が起きるか分からない!!
そこで、ありとある天変地異の邪気を祓う、
霊験あらたかなこのダルマさんを、
是非ひとつ御傍に置いて、
満願成就 幸せいっぱいの人生を送って頂きたい!!
さあ、どうぞ、さあ、おとうさんもおかあさんも、
一家に一つ、さあ、持ってって、持ってって、さあどうだ!! 」
神社での啖呵売を終え、出店を手仕舞いながら、
寅次郎は自分の胸に呟いた。
『さくらの手術は 今日だったな・・・。』
見物客を景気付ける威勢の良い寅次郎とは別人の、
自分の心だけを見つめている男。
心の中にはいつも さくらの笑顔と声が有る。
それが今はひときわ愛しい。
帰ってやりたい。せめて電話だけでも。
「もしもし、あんた寅ちゃんかい?
・・・そうなんだよ、今日さくらちゃんの手術が成功して、
これで安心だって、博さんも言ってたんだよ。・・・
あんた、何時帰るんだい?
病院からぷっつり居なくなっちまって、
いったい何処へ行っちまったのさ、もう!
とにかく早く帰っておいで、さくらちゃんが待ってるよ! 」
電話しなくても、
叔母ちゃんの弾んだ声が聞こえるようだ。聞きたい・・・。
だが、電話してどうする?
このまま帰って「さくら、良かったな、早く元気になれよ」
・・・そう言ってやるだけじゃねえか・・・
いつもあいつに心配ばかりかけてる俺が
あいつにしてやれる事は 帰ってただ傍に居てやる事だけだ。
たったそれだけ・・・こんな俺じゃあダメだ、こんな俺じゃあ・・・。
寅次郎にとって、今度柴又へ帰る時は
さくらに会うためばかりではない。
景子に再び会うためだ。重傷者を乗せた搬送台を押して
寅次郎の目の前を走り去った、あの真剣に生きている景子に。
胸を張れるとは言わない、せめて今よりはマシな男になって
景子に会いたい。
『俺は惚れた女のために、ただ傍に居てやる事しか出来ない男だ。』
寅次郎は自分を憐れんだ。
慈恩寺の和尚なら、寅次郎に言ってくれるだろう。
「いや、それでいい。それでいいのじゃよ。」と。
大事に思う人のために、してやれる最善の事、
それは突詰めれば、必要な時にただ一緒に居てやる事。
決して特別な事ではない。誰にでも出来る事。
しかし、出来ない人のほうが多い。
己れの空しさを知っている者が他者の空しさに寄り添う時、
二人を満たす恵みが内部から湧き上がる。
何も持たない者がそのままで豊かさに包まれる。
尽きる事の無い、失われる事の無い
この豊かさに出会うための淋しさを抱いて、
寅次郎は生きて来たのだ。和尚の言葉を借りるなら「仏様に守られて」。
やがて寅次郎は店をすっかりたたむと、テキヤ仲間に別れの挨拶をした。
そして一人になると、小声で「よし」と言って歩き出した。
電話しない、今は柴又へ帰らない、そう決心したのだ。
バス停に着いて、運行表を見る。
『なんだ、まだ30分もあるのか。よし、歩くか!』
秋風が心地良く寅次郎の背中を押してくれる。
おゆきと巡り会った寒河江は、何度も訪れているが、
通り過ぎるよりも歩きたい地であった。
秋の日は釣瓶落とし。暮れかかる田舎道の脇には、
ちょうど昨日の今頃おゆきの墓に手向けたのと同じ
白いコスモスの花が 夕陽に映えている。
気付いてふと花に目をやると、寅次郎は思わず足を止めた。
不思議な気分になったのだ。
花が寅次郎を見てくれている、そんな気がしたのである。
その不思議な感覚に引き込まれて、寅次郎が見れば見るほど、
花は じっと寅次郎を見ているようなのだ。
寅次郎に微笑むように、寅次郎を待っていたかのように。
寅次郎は、何やら暖かい気持ちになった。
コスモスの花を1輪だけそっと優しく手折って、
上着の胸ポケットに挿した。
そしてまた 風に吹かれながら歩き出した。
すっかり暗くなって、なじみの宿に着いた。
「女将さん、部屋空いてるかい? また世話になるぜ。」
宿屋の玄関に、寅次郎の人懐こい声が響く。
「はーい。」と応えて女将が帳場の奥から出て来た。
「まあ、車さん、ようこそいらっしゃいました。」
寅次郎の鞄を持とうとする女将。
「いいって、いいって。」優しく遮って、鞄を放さない寅次郎。
通された部屋で記帳をすませると、
女将が淹れてくれた御茶を美味そうに啜った。
「すぐに御食事にしますか? 」「ああ、頼むよ。」
「お酒はどうしましょう? 一本つけますか? 」
「・・・いや、酒はいいから、飯だけにしてくれ。」
「はい、承知しました。」
酒断ちをしようと思ったわけではなかった。
ただなんとなく、今夜は飲まずに過ごしたかった。
街はずれのこじんまりしたこの宿屋を、
寅次郎は山形での常宿にしていた。
寒河江川沿いに在り、少し歩けば月山から蔵王、
また朝日連峰の山々を一望できる。
明日は早く起きて、ほんの一時でも散策したい。
それから次の売(ばい)に行こう。
左沢、西川町、とって返して、東根、天童、・・・
こうして思いを巡らせているさなか、
突然、部屋の戸が勢い良く開いた。
「寅、おめえ、元気だったか? ガハハ!!」
しわがれ声。小柄で日焼けした丸顔の男が
嬉しそうに寅次郎を見つめて立っている。
一癖も二癖も有りそうな、それでいて悪戯好きの子供のような笑顔。
寅次郎は立ち上がって歩み寄り、「なんだ、ポンシュウじゃねえか!
てめえ、どうしたんだ、俺がここに居るってどうして分かったんだ? 」
「へへっ、テツの野郎に聞いたのよ。
寅が売(ばい)をして、さっさと消えちまったって。
おめえ、山形へ来ると いつもここに泊まるじゃねえか。
それで追っかけてここへ来たってわけよ。
案の定、居やがった、ガハハハハ!!」
テキヤ仲間の中でも とりわけこの男とは馬が合う。
よっぽど食うに困れば、こそ泥も仕出かすが、
決して強盗はしない奴だと寅次郎は信じている。
二人は数ヶ月ぶりの再会を喜んで、肩を軽く叩き合った。
「まあ座れや。ところでどうだ、売の具合は? 」
するとポンシュウは、座る間も惜しいとばかりに、
腹巻から財布を取り出して寅次郎の手に握らせた。
見た事も無い程ふくらんだ財布。喜色満面のポンシュウ。
「てめえ、どうしたんだ、これ? 」目を丸くして訊ねる寅次郎。
「てめえ、もしかして・・・」
「そうよ、お馬ちゃんよ!上山競馬よ!」
「取ったのか? 取ったのか、万馬券!」
「そうよ、万馬券よ!どでかいヤツよ!」
「おおーっ、やりやがったなこの野郎、やりやがったなーっ!」
我が事のように喜ぶ寅次郎。弾けるような笑顔。
互いの肩に手を掛け合って、
大きな子供のような二人が小躍りして喜ぶ様は、
人類が忘れてしまった至福の時の再来かとも見えるほど。
興奮も少し落ち着くと、二人は座って一息ついた。
「今夜は俺に奢らせろや、さっき女将に酒頼んどいたから、もうすぐだ。
じゃんじゃん飲め、寅。」
「そうか、じゃあ遠慮無くゴチになるか。」
今夜は飲まないつもりだったが、事情が変わった。
ツキに恵まれた仲間との祝い酒なら、
ありがたく飲ませてもらおうと、寅次郎は思った。
一緒に喜んでやりたいのだ。
「おっ、そうだ、飲んだら忘れっちまうといけねえ、今のうちに、と。」
そう言って、ポンシュウは腹巻に仕舞い込んだ財布を再び取り出すと、
万札を三枚 寅次郎の前に置いた。
「取っといてくれよ、寅。」
「何だこれ? 一体何の真似だ? 」
「おめえ忘れっちまったか。あれからずいぶん経ったからな。・・・
ほれ、俺がテツの女に手出して、バレちまってよ、
飲み屋でテツと大喧嘩したじゃねえか。
あの時おめえが俺に代わって飲み屋に迷惑料包んでくれたり、
テツの兄貴分と話つけてくれて、
テツと手打ちさせてくれたじゃねえか。」
「・・・そういやあ、そんな事もあったか。・・・
てめえも俺も若かったな。」
「売も下手糞で素寒貧だった俺のために、
あの時おめえが財布はたいて助けてくれなかったら、
俺はとっくに野垂れ死によ。
・・・いつか恩返ししようと思ってたんだ。
これっぽっちですまねえけど、取っといてくれよ、なあ、寅。」
寅次郎は少し苦笑いして見せた。
「馬鹿野郎、今更何言ってんだ。そんなもん引っ込めろ。」
「でもよ、それじゃあ俺の気がすまねえ。」
「・・・なあポンシュウ、どうせ俺もてめえも 半端(はんぱ)もんよ。
これまでなんとかやってこれたっていうのも、
お互い、道連れってもんがあったからだ。
てめえと俺は、道連れ同士よ。どっちが潰れたって共倒れだ。
倒れねえように、ちょっと手貸したまでよ。・・・
まあ、気にすんな。・・・」
寅次郎の顔をじっと見つめて聞いていたポンシュウは、
黙って札を拾い上げ、額に押し戴く様にして、財布に戻した。
「失礼します」戸が開いて、女将の心づくしの食膳と酒が来た。
「おおっ、女将さん、待ってたぜ。さあ、寅、思いっきり飲んでくれ。
今夜はパアーっとやろうぜ、パアーっとよ。なあ寅。」
上機嫌のポンシュウ。
「よし、やろう、ポンシュウ。」と寅次郎。
やがて部屋には二人の笑いと歓声が たて続けに響いた。
外は冴え渡る月夜だった。
飲んで食って、寅次郎は歌い、ポンシュウは踊った。
若い頃は勢いにまかせて飲んで、
翌朝の二日酔いが堪える事もあった寅次郎だが、
この頃は度を過ごす事は無い。嬉しい酒はなおさらである。
小さな盃で何度か味わって行くうちに、いつしか満ち足りてしまう。
一升酒でも飲み足りなく感じた頃が 今は昔のような気がする。
小1時間も経って、踊り疲れたポンシュウは横になっている。
「もう眠くなったか? じゃあ、この辺でお開きとするか。
・・・俺は風呂に浸かって来るぜ。」と寅次郎。
するとポンシュウは目を擦りながら、
「俺はダメだ。・・・明日、女将に頼んで朝風呂たててもらうぜ。
へへっ、旦那衆になった気分でよ。」
「そりゃあいいな。うんと楽しめよ。何しろ滅多に出来ねえからな。」
「寅、おめえ明日どうするんだ? 」
「決まってるじゃねえか、売に行くぜ。」
「・・・そうか。行くか。」
ポンシュウは 引き止めたかった。
『もう2、3日 一緒に遊んでいけや、なあ寅。』そう言いたかった。
だが寅次郎の強い覚悟のようなものを感じて、言葉を呑み込んだ。
二人はしばらく黙った。寅次郎も横になり、酔いを冷ましている。
「リリリリリ リリリリリ」
何処からか虫の鳴き声が聞こえて来て、
この部屋にも秋の夜の静かさが訪れた。
やがてポンシュウが 少し真顔になって口を開いた。
「おい、寅。俺、前からいっぺん訊いてみたかったんだけどよ、
しらふじゃ言えねえから、今訊くぜ。
・・・柴又に居るっていう腹違いの妹な、
おめえ もしかしたら、その妹をよ、・・・
好きなんじゃねえのか? 」
寅次郎の表情が変わった。
「このトンチキ、いきなり何言いやがる!
妹には亭主も息子も居るんだ。
俺がどうこう想ってるわけねえだろうが、このボケ茄子野郎!」
「じゃあ何でおめえ、ずっと一人で居るんだ?
すぐ女に惚れるくせに、手も出さねえでよ。
・・・まあ、おめえは昔っから、
俺たちの仲間うちでも ちょっと違ってたな。
根っからの渡世人かと思うと、それだけじゃねえ、何て言うか
・・・堅気より堅いとこが有ってよ。・・・
俺はおめえのそういうとこが、
・・・うらやましいっちゅうか、その、・・・
男が男に惚れるっちゅうか・・・」
「けっ、尻がこそばゆくなるような事言うんじゃねえぞ!
てめえ万馬券取ったら喜び過ぎて、トチ狂いやがったか?
しょうがねえヤツだ、とっとと寝ちまえ!」
そう言い捨てて部屋を出ると、寅次郎は風呂場へ向かった。
翌朝、ポンシュウは日が高く昇った頃に目覚めた。
枕元に置き手紙を見つけて、布団の上であぐらをかいて読んだ。
「 ゆうべはゴチになったな。この次は俺の驕りで一杯やろう。
儲けた金は大事に使えよ。またどこかで会おうぜ。寅次郎 」
『・・・大事に使え、か。・・・
こんな事言ってくれるのは、寅だけだな。』
寅次郎の居なくなった部屋が 急によそよそしく見えて、
昨夜の高揚した気分が跡も無くしぼんだように感じた。
しばらく立ち上がらなかった。
「さくら、退院おめでとう。」
柴又のとらやでは、手術から1週間後に無事に退院したさくらのために、
叔父の音頭で、いつもの顔ぶれがビールで乾杯した。
久々の、安堵して心晴れる夕餉である。
とはいえ、心配性の叔母ちゃんが、博に訊ねる。
「もう病院へは行かなくていいのかい? 」
「いえ、2週間後に診察受けに行くんですけど、
手術後の組織検査の結果も良好だから大丈夫だって
尾形先生が太鼓判押してくれましたよ。」
「そりゃ良かったねえ。ホントに良かったよ。」と涙ぐむ叔母ちゃん。
左手にビールのコップ 右手に焼き鳥の串を持ったまま、
何度も頷くタコ社長。
「そもそも さくらのような早期がんでは95%以上で
転移が無いんだそうです。
何よりも、早くに発見できた事が、不幸中の幸いでした。」と博。
美味そうにビールを飲んでいる叔父ちゃんが ふと手を止めて
「ところで、寅のやつは 何処へ行っちまったんだろう? なあ? 」
「電話くらいかけてよこしゃいいのに。」と叔母ちゃん。
「寅伯父さん、何してるのかな。」と 呟く満男。
そして皆の視線が さくらに集まった。
「そうね。お兄ちゃんの事だから、きっと今頃、何処かで・・・」
皆に応えようと、さくらは口を開いたが、言葉は途切れた。
病室で言ってくれた「ずうーっと傍に居るからな。」という兄の言葉は
今もさくらの耳に残っている。そこに嘘など無かったけれど、
景子さんに出会って、景子さんに恋をして、
何故だか兄は姿を消してしまった。
恋が破れたわけじゃないのに。何故なの、お兄ちゃん?
・・・それでも、さくらは確信していた。
兄は今もきっと、景子さんに恋してる事、
何処で何をしていようと、きっと再び、
景子さんに会いに帰って来る事を。
そして突然、昔の記憶が甦った。
汽車の釜焚きになって働くんだ、汗と油にまみれてよ、と
決意を語った時のお兄ちゃん。
それがかなわなくて、ひょんな事から出会った
お豆腐屋さんの節子さんに恋をして、
夏の暑いさなかに 油揚げ作りに精を出してたお兄ちゃん。
ホントに、汗と油にまみれて。
さくらは思わず「ウフフ。」と小さく笑った。
その笑顔に 皆なんとなく安心して、気持ちが浮き立った。
「そうだ、今度寅のやつが帰って来たら、
社長んとこで使ってやってくれよ。
10階建ての朝日印刷本社ビルを建てて、守衛かなんかで。
いや、管理責任者ってとこかな、どうだ、社長!? 」と叔父ちゃん。
「よし、俺もここらでひとつ、一世一代の大事業に打って出るか!
大儲けして、寅さんがびっくりして腰抜かすような
でっかいビル建てるぞ! 中小企業も世界に羽ばたく!
朝日印刷バンザーイ!! ガハハハハハ!!」
日頃のボヤキを忘れて大風呂敷を広げるタコ社長。
博も「へえー、じゃあ僕はさしずめ専務かな。
社長、ボーナス期待してますよ、ハハハハハ。」
すかさず満男が
「だったらさ、五段変速の自転車買ってよ、ボーナスで!ね!」
「ふふふっ、満男ちゃん、そういうのをね、
取らぬ狸の皮算用って言うんだよ!」と叔母ちゃん。
「ええっ、寅の狸って、伯父さんの事? 」
「ハハハ、違う違う、寅の狸じゃなくて、取らぬ狸だよ!」と
叔父ちゃん。
「こりゃいいや、寅さんが狸になっちゃったか、ガハハハハハ!」と
タコ社長。
皆の笑いの渦の中で、さくらは幸せだった。
とらやの茶の間には、兄を何時でも暖かく迎え入れてくれる人達が居る。
この人達の中に、旅を宿命とする兄の居場所が在るのだ。
ここに戻って来れただけで幸せな気分になれる、
他に欲しいものも無い自分である事を感じて、
さくらは心の中で皆に感謝するのだった。
とらやの茶の間に久々の笑い声が響いた日から数日後、
寒河江の慈恩寺では ある葬儀が 営まれていた。
故人の遺族だけで ひっそりとしめやかに。
式の最後に、和尚の法話。
「・・・わしは毎日幾度となく 目を閉じて手を合わせます。
手を合わせる寸前の気持ちは感謝であったり、反省であったり、
故人の冥福を祈る事であったり、様々です。
しかし、目を閉じて手を合わせた瞬間、
もうどんな気持ちも思いも、消えております。
自分の心を知る言葉 心を表す一切の言葉が、消えてしまいます。
それは闇の中で光を失うのと同じ事です。
人が一切の言葉を失う事は、自分を失う事です。
それなのに、少しも不安にはなりません。
むしろ逆に、安心します。
何も見えず、何も無い闇の中に居るというのに、安心なのです。
実に不思議な事です。何故 安心できるのでしょうか?
目を閉じて手を合わせると、人は言葉を失うのですが、
代わりに来てくれるものが在ります。
それは、あの言葉、この言葉、というのではなく、
全ての言葉が持っている力です。
様々な言葉が消えて、その代わりに、
言葉が持っている力そのものが人を包んでくれるのです。
その力とは、言葉を生み、言葉を人に与えてくれる力であります。
いや、言葉ばかりではない、言葉に込められていて人に来てくれる力は、
おそらく全てのものを生み、支え、生かし続ける力でありましょう。
わしはそれを仏と呼びます。
目を閉じて手を合わせる、ただそれだけの事で、
人は仏に出会っているのです。実にありがたい事です。」
法話を終えると、和尚は本堂を出て、
居室にしている囲炉裏部屋に戻ろうとしたのだが、
玄関に何やら来訪者の気配がする。
いや、気のせいかな とも思いながら廊下を歩いて行くと、
開け放しの戸の向こうに、遠慮がちに佇んでいる男の姿が。
その四角い顔が見えたとたん、和尚の顔がほころんだ。
「おおっ、寅さん、よく来られた。
そんなところに立っていないで、ささっ、御入りなされ。」
「いえ、和尚様、本日は御葬式のようで、
わたくし、ここで失礼いたします。」
「いやいや、御式はちょうど今終わったところじゃ、
気になさる事は何も無いのじゃよ、」
「いえ、わたくし、あの、先日の御礼にと思いまして、これを・・・」
寅次郎は玄関先で風呂敷包みを解いた。
地酒の瓶を和尚に恭しく手渡す。
「これはありがたい。なおさら、一緒に味わおうではないか、
のう寅さん、上がってくりゃれ。」
「いえ、わたくし、これにて失礼いたします。
この十日ばかり、商いで山形の各地を巡らせて頂きましたが、
これから南へ参ります。
本日は御別れの御挨拶に参りました次第です。」
固辞する寅次郎。
「そうか・・・。残念じゃのう。道中、くれぐれも御気を付けてな。」
「恐れ入ります。和尚様も、どうかいつまでも御達者で。」
深々と下げた頭を上げた瞬間、
和尚の肩越しに見えた人の姿は、寅次郎を心底 驚かせた。
その人は、和尚に近づいて来て 背後から声をかけた。
「あの、和尚様。」
「はい。」と 和尚が振り向くと、その人は言葉を続けた。
「このたびは御世話になりまして、ありがとうございました。
私はこれで失礼させて頂きますが、
伯母が和尚様に御相談したい事があると申しておりますので、
あちらで、・・・あら、御客様でしたか? 」
「いや、このかたは、御客人というよりは、わしの親しい友人でな、
旅に立つので別れを惜しみに来てくれたのじゃ。
こうして良い酒を手土産に、」と
和尚が言葉を継いだ時、その人が口を開いた。
「あら、あなたは、・・・諏訪さくらさんのお兄様? 」
「・・・はい!」
硬直して身じろぎもせず、その人を見つめていた寅次郎は、
ぎこちなく答えた。
「その節は、妹さくらが大変御世話様になりました。」
和尚も驚いて、「なに、御知り合いか? ほう、これは奇遇じゃな。
実に奇遇じゃ。景子さん、一体何所で? ・・・おおっ、そうじゃった、
寅さんの故郷は確か柴又と言われたな、
景子さんの御勤めも柴又の病院じゃから、
なるほど、それで・・・」
「はい、和尚様。私、病院で
このかたの妹さんの担当をさせて頂きまして、
それで一度御目に掛かっています。」
「そうかそうか、いや、
世間は狭いとは、よく言ったものじゃ、のう寅さん。」
和尚は楽しげにそう言うと、二人の顔を順に見た。
景子の打ち解けた微笑にひきかえ、寅次郎の表情は何故か硬い。
何やらただ事では無いようである。
胸がいっぱいで何も言えない人のよう。
和尚は、はたと気付いた。
先日の寅次郎の寝言、「けいこさん」と2度も呼んでいた、
その人こそ、景子なのかと。
和尚は思わず呟いた。
「いやしかし、同じ名前の御婦人は多かろう、
わしの独り合点かもしれぬ。じゃが、・・・」
もう一度和尚は寅次郎の顔を見て、嬉しそうに目を細めて言った。
「やはり、顔に書いてあるのう。ハハハハハ、実に善き哉、
ここに幸ありじゃ、善き哉、善き哉。」
何の事だか分からず、ポカンとしている二人。
一間置いて、景子が遠慮がちに「あの、伯母があちらで・・・」
「おお、そうじゃった、今行きますぞ。
では、寅さん、景子さん、御二人とも御元気でな。
気が向いたら何時でも訪ねて来て下されや。」
和尚は本堂へ戻って行った。
景子は和尚の後ろ姿に御辞儀をしてから、寅次郎に笑顔を向けた。
「ホント、ビックリしちゃったわ、
こんな所でまたお会いできるなんて。」
「はい、わたくしも驚きました。」寅次郎は緊張が未だ解けない。
「あたし、今から伯母の家に戻るんですけど、
もしよろしかったら、少し歩きますけど、御一緒にいかがかしら。
お茶の一杯も差し上げたいの。ねっ、? 」
景子の眼の優しさに引かれて、寅次郎は素直に応じた。
「はい、御一緒させてください。」
二人は寺の玄関を出て、並んで歩いた。
寅次郎は半ば夢の中にでも居るように、
身体も心もフワフワと落ち着かない。
景子は、葬儀を終えて心が軽くなったのか、快活に言葉を続ける。
「そうそう、さくらさんの手術、成功して無事に退院なさいましたよ。
御存知だったかしら? 」
「いえ、あの、わたくし、知りませんでした。」
「さくらさんからたくさん聞きましたよ、御兄さんの事。
最初は遠慮してらしたけど、あたしが聞きたいって言ったら、
子供の頃からの楽しかった事や、それから 辛かった事なんかも、
いっぱい話してくださって。面白いお話をうかがった時なんか、
さくらさんと一緒に笑い合ってたの。
そしたら、そこへ尾形先生が来て、
『笑うと回復が早まるから大いに結構。でも、お腹の傷に障るから、
お腹はそのままで顔だけで笑いましょう。』って言ったの。
『先生、そんなの無理よ、顔だけで笑うなんて、』って私言ったのね、
そしたら先生ったら、『いいですか、私をよーく見て下さい、
こんなふうに笑うんですよ、
ハ・ハ・ハ・ハ・ハ ハ・ハ・ハ・ハ・ハ 』って、
何度も繰り返したの。それ見て私、思わず
『先生 腹話術の人形みたい!』って言っちゃったの。
そしたら、さくらさん大笑いしちゃって、
結局三人ともお腹かかえて笑っちゃったのよ、フフフ。」
景子の声は、寅次郎の耳には妙なる楽音の如く心地良く響く。
思いがけない再会に依然としてどぎまぎしていたが、
景子の声の暖かさ 口調の親しさに助けられて、次第に気が楽になった。
そして、更に寅次郎を喜ばせる言葉が。
「ねえ、寅さんって呼んでいいかしら?
和尚さんが 寅さんって呼んでらしたでしょ、
いいなあって思ったの。」
「はい、寅と呼んでやって下さい。」
気持ちにゆとりが出来て、
寅次郎は先刻から抑えていた胸騒ぎを解消したくなった。
恐る恐る訊ねた。
「あの、わたくしがお尋ねして良いのかわかりませんが、
景子さんは、どなたの御葬式で御寺にいらしたんですか? 」
俄かに景子の顔が曇った。「・・・母なの」
「・・・お母様・・・ですか。」
打って変って沈鬱な表情になった景子の身体から、
単純な悲しみではない懊悩を感じ取って、
寅次郎は沈黙するしかなかった。
通り一遍のおくやみの言葉など
むしろ慎むほうが良いと直感したのである。
二人とも黙って歩き続けた。
慈恩寺を出てから20分も歩いただろうか、
小さな田や畑の間に家々が点在する長閑な場所に、
景子の伯母の家は在った。
庭に柿の木が植わっていて、実が鮮やかに赤い。
鳥の鳴き声が時折聞こえて来る。
景子は寅次郎を客間に通し、上座に座らせた。
「お疲れになったでしょう、今すぐ御茶淹れますから、
寅さん膝崩して、楽にしててね。」
景子は、今はもう気を取り直して、表情にも声にも明るさが戻っている。
景子が喪服から普段着に着替え、御茶の支度をしているあいだ、
寅次郎は 景子の沈んだ表情を思い返していた。
景子が胸の奥に抱えているらしい苦悩を、
それが何なのかは知る由も無かったが、
一緒に背負ってやりたかった。俺に出来る事なら・・・。
「お待たせしました。」
景子が戻って来て、寅次郎の前に丁寧に置いてくれた御茶碗から、
爽やかな緑茶の香りが立ち昇った。
「いただきます。」一口飲んで、寅次郎は思った。美味い。
御茶がこんなにも美味い物だったとは。
寅次郎は生涯、この時の御茶の味を忘れないだろう。
いっそう柔和な顔になった寅次郎に誘われたように、
景子は微笑みながら話し始めた。
「ここは母の生まれ育った家で、伯母は母の一回りも年上なの。
伯母夫婦には子供が無くて、伯父も3年前に亡くなったから、
今は伯母が一人で暮してるのよ。
伯母は慈恩寺の和尚さんと仲良しだから、
いろいろ話し込んで 帰りはきっと夜になるわ。」
「そうですか。・・・
和尚さんが立派なかたである事は わたくしにも分かります、
御二人は楽しく語らって 良いひとときを過ごされるでしょう。」
和尚の大きな心の温もりに、
今も包まれているように感じている寅次郎である。
景子は先刻から 寅次郎に惹かれるものを感じていた。
さくらから聞いていた寅次郎は、
子供の頃の二面性 やんちゃなガキ大将と愚直な優しさが同居して、
そのままで大人になった人。時々羽目を外すけど
旅鴉という言葉がピッタリな 淋しがり屋の風来坊。
それが寅さんという男の人。景子が抱いていたそのイメージよりも、
目の前の寅次郎は、もうひとつ奥行きが深い人のように思えた。
その深さは もしかしたら闇かもしれない。
闇の中で手探りで、唯一つのものを 求めている人。
でも、なればこそ、淋しさも優しさも一途な人だと信じられる気がした。
「あたし、一人っ子だから、
さくらさんから寅さんのお話聞いて、羨ましかったわ。
あたしにも、こんな御兄さんが居たら、どんなに良かったかしら。」
「いえ、わたくしのような兄を持って、
さくらのやつは、不幸せな妹です。」
「まあ、そんな事おっしゃって。
さくらさんがどんなに寅さんの事を大切に思ってるか、
あたしよーく分かったわ。
・・・あたし思うの、
寅さんがさくらさんの事を大切に思っているから、
だからさくらさんも、寅さんの事を大切に思ってるんだって。
・・・お互いが思い合ってるからよ、きっとそうだわ。
きっと、きっと・・・」
景子は言葉に詰まった。
込み上げて来る感情を押しとどめようとして、表情がゆがんだ。
大きな眼が一瞬、涙できらめいた。
だが即座に笑顔を作って、
「ねえ寅さん、お酒にしましょうか。
偶然だけど、今日 寅さんは母の葬儀に来てくれたわ。
母はお酒好きだったの。母のために、私とお酒付き合って。ねっ。」
言うが早いか、景子は立ち上がって酒の支度にと部屋を出て行った。
寅次郎は呆気に取られた。景子との再会からここに至るまで、
全ては思いがけず、意外な事ばかり。そしてこれから更に、
もっと心を揺らす事が起きるような気がする。
腹を据えて、しっかりと受け止めねばなるまいと、覚悟を決めた。
景子が酒の盆を持って戻って来た。
座卓に盆を置くと、寅次郎のすぐ左隣に座った。
先程までは 少し離れて座っていたのだが。
「面倒だから、冷や酒にしちゃった。
でも、いいお酒は冷やで飲むって言うでしょ。
これ、結構いいお酒なのよ。さあ、どうぞ。」
御酌をする景子。
「あたしもいただくわ。」景子は手酌で ぐいと飲んだ。
小さく溜め息を吐くと、、自嘲するように言った。
「母が酒飲みだったの。母と娘って、嫌なところが似るのかしら。」
立て続けに飲む景子。だが、顔は赤くならない。
かえって青ざめているようにさえ見える。
黙ったまま、ひとしきり飲むと、思い詰めたような表情になった。
そして気持ちが高ぶったのか、少し砕けた調子で言った。
「ねえ寅さん、20年も家出してたんですってね。
さくらさん随分心配したって言ってたわ。
でも、家出なんて、特別な事じゃないわよね。
・・・あたしだって、家出してたんだから。
寅さんほどじゃないけど。寅さんの半分くらいかな、ウフフ。」
まさか景子に そんな過去が有ったとは。
寅次郎は驚くばかりで、何か気の利いた事を言ってやる余裕が無い。
遠くで鴉が鳴いた。いつしか夕暮れが迫っている。
すると景子は、寅次郎のほうを見るともなく 小さな声で歌い出した。
「おどみゃ島原の おどみゃ島原の 梨の木育ちよ
何のなしやら 何のなしやら
色気なしばよ しょうかいな
はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい
沖の不知火 沖の不知火
燃えては消える
バテレン祭りの バテレン祭りの
笛や太鼓も鳴りやんだ
はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
おろろんおろろん おろろんばい 」
景子の歌声は透き通るように冴え、哀しい旋律が寅次郎の胸を刺した。
「この歌ね、あたしがちっちゃい頃 母が歌ってくれた子守唄なの。
・・・母は男の人に捨てられて、結婚しないであたしを産んだの。
・・・その男の人は、あたしがこの世に居る事さえ、
たぶん知らないわ。・・・あたしも父の事 知らないの。
母が何にも教えてくれなかったから。
・・・でも、伯母さんが教えてくれたのよ、
その人は長崎県の島原の人だったって。
・・・それで、あたし、中学一年生の時に、
島原の事 少し調べてみたの。
有名な子守唄が在るって知って、覚えたのよ。
父の事 少しでも知りたかったから。
・・・父のふるさとの歌だから、父も好きな歌だったかもしれない、
父も歌った歌かもしれない、だから・・・。
ある日ね、あたしがこの歌を歌ってるのを聞いて、
伯母が教えてくれたの。
その歌はお前がちっちゃい頃に、
お前のために千代子がよく歌っていた子守唄だよって。
千代子って母の名前なの。
・・・きっと母も忘れられなかったのね、その男の人の事。
だからこの歌をあたしの子守唄に歌ってくれたのね、
あたしはちっちゃかったから、全然記憶が無いんだけど・・・。」
景子の目に涙が溜まっていた。声が震えがちになった。
「お前なんか産まなきゃ良かったって
母はお酒を飲むと時々あたしに言ったわ。
あたし悲しかったけど、でも我慢できたの。
父に捨てられて、女手ひとつであたしを育ててくれて、
母も随分辛かったと思うの。あたしそれが分かってたから。
でも、でもね、それから母は、・・・母は・・・」
景子の眼から涙がこぼれた。
そして我に返ったように、努めて気持ちを立て直した。
「ごめんなさいね、こんな事聞かせて。迷惑よね、寅さん。
ごめんなさい。」
景子のいじらしさに、ついに寅次郎の胸は溢れた。
「何が迷惑なもんか! 景子さん、俺で良かったら何でも言ってくれ、
俺何でも聞くから。俺も、おふくろに捨てられた餓鬼だったんだ。
おふくろは俺を産んですぐに、
俺を捨ててどっかへ雲隠れしやがったんだ、
だから俺 あんたの気持ち よく分かるんだ、
安心して、何でも言ってくれよ! 」
寅次郎は 裸の心で 景子の全てを受け止めたかった。
「そうだったの? 寅さんは、お母さんに捨てられた子だったの。
・・・だったら、あたしの事、もっと聞いてくれる?
あたしの事、本当に最後まで聞いてくれる? 」
景子は少し首をかしげて、寅次郎を強く見詰めた。
寅次郎は、女のこんな眼を見た事が、
こんな眼で見詰められた事が、過去に有った。
追い詰められて行き場の無い女の。そう、リリーの眼だ。
夜中に酔っ払ってとらやにやって来た時のリリー。
珍しく愚痴をこぼし、わがままを言って寅次郎を困らせた。
持て余す寅次郎に、リリーが投げ付けた別れの言葉。
「寅さん 何にも聞いてくれないじゃないか、キライだよ!」
あの夜のりリーは、寅次郎に思いっきり甘えたかった。
ただそれだけが、生きるための支えだったのだ。
だが、寅次郎は受け止めてやれなかった。
女の一生に一度だけ、本当に好きになった男にどこまでも甘えたい、
ただそれだけの一夜。だが願いはかなわず、
リリーは安アパートの部屋に帰って、泣き濡れて眠った。
その翌日、リリーは昨日までの自分を捨てようと心に決めた。
そしてしばらくして、寿司職人と結婚して寿司屋の女将となった。
確かに彼女は、昨日までの自分を踏み越えたのだ。
だが、寅次郎への思いだけは、捨て切れなかった。
リリーという女がそんなにも強く寅次郎と結ばれてしまっていた事を、
寅次郎は知らなかったのだが。
寅次郎は 真っ直ぐに景子の眼を見ながら、言葉に力を込めて、言った。
「ああっ、聞いてやる、聞いてやるとも!
景子の気の済むまで、明日の朝までだって聞いてやる。
だから、安心して話しな。」
景子は子供のような笑顔になった。
寅次郎は初めて 景子さん ではなく 景子と呼んだ。
それが景子には嬉しかった。
もはや二人の心を隔てるものは何も無かった。
景子は涙を拭って、再び語り始めた。
視線を前に落とし、少しゆっくりとした口調で、
自分自身を振り返って見るように。
「あたしが高校生になった年の春に 母は結婚したの。
・・・その頃 母は山形の駅裏で 小さなスナックをやってて、
その常連客の男と一緒になったの。それで、スナックの二階で
三人で暮すようになったんだけど・・・
あたし、その男がどうしても好きになれなかったわ。
・・・その男の あたしを見る眼が、たまらなく嫌だったの。
・・・どうしても父だなんて思いたくなかったの・・・」
言葉が途切れた。うつむいて 小さく唇を噛んだ。
そして顔を寅次郎に向けると、
こわばった心の底から絞り出すかのように、辛そうに言った。
「本当に聞いてくれるのよね、寅さん。」
「ああ。何でも言ってみな。」この時、
景子の全てを受け容れようと願う寅次郎の存在そのものが、
ひとつの魂であった。人間という者の、魂そのものであった。
寅次郎の言葉で、景子の表情が一瞬、和んだ。
顔を寅次郎に向けたまま それでも少し目を伏せて、再び口を開いた。
「夏休みの終わる頃だったわ、図書館から帰ったら、母が居ないの。
いつもは居る時間なのに。・・・それで あたし
すぐ自分の部屋に行こうとしたら、その男が あたしの腕を掴んで、
・・・振りほどこうとしたら顔をぶたれて、あたし・・・あたし
・・・怖くて 怖くて・・・ああっ、ああっ」
もう言葉にならなかった。そして寅次郎の顔を見て、
視線が合ってすぐに身を投げかけ、寅次郎の胸に顔をうずめて泣いた。
しゃくり上げて泣く景子を、胸にしっかりと抱いて、
寅次郎は声をかけた。
「もういい。何も言わなくていい。俺が抱いててやるからな。」
寅次郎には景子の涙のわけが痛いほど分かった。
顔も知らぬ父をほのかに慕い続けていた娘が、
義父に乱暴されてどんなに辛かったか。
会えるはずも無い父の事を思う、
それは娘の抱くささやかな愛の望みだったのだ、
それさえも義父によって無残に汚されてしまうとは。
ただひたすら愛おしくて、しばらく景子を胸に抱いていると、
寅次郎の目も涙で一杯になった。寅次郎は慌てて自分を叱った。
俺が泣いてどうする、俺は景子をしっかり支えてやるんだ、
泣くな寅次郎、涙を引っ込めろ・・・涙は引っ込んでくれた。よし、
・・・だが鼻水が、涙の分まで上乗せしたみたいに、大洪水。
そこで、ようやく泣き止んで顔を上げた景子に、寅次郎は小声で言った。
「・・・ティッシュ あるかな? 」
「・・・はい 」既に部屋は暗くなっている。
景子は照明のスイッチを入れ、居間からティッシュを持って来た。
受け取って チーンと洟をかむ寅次郎。
寅次郎の胸で思いっきり泣いて、景子は気持ちが晴れたのか、
今はすっかり落ち着いた様子である。
二人は座り直して、心を許し合う者になれた安らぎに浸った。
そして景子は、告白を再開した。
寅次郎への信頼が、景子を強く支えているのだった。
「あたし、その時、起き上がる事もできなかったの。
しばらくして母が帰って来て、あたしの姿を見て、
・・・あたしを睨んで、あたしの肩を掴んで揺さ振って、言ったのよ、
「お前が誘ったんだろう、お前が!」って、何度も・・・。
あたし、心の中で何かが音を立てて壊れた気がしたわ。
・・・あの時の母の顔 今でも忘れられないのよ。
・・・忘れられたら、どんなにいいかしら。
・・・その晩に あたし、家を出たの。」
こう語った景子の口調は不思議なくらい穏やかだったが、
寅次郎の胸は再び波立った。義父に乱暴された上に、実の母までが、
景子を庇うどころか 逆に景子を責めたとは、
あまりに酷い仕打ちではないか、
家出したのも当然だ、そんな家の一体何処に 景子の居場所が在ろうか。
寅次郎は 喉の奥が絞め付けられたように熱くなった。
寅次郎自身も、母との再会を果たした時に、
母から突き放されて 心に火傷を負った。
だが景子の傷のほうが ずっと深いのだ。
寅次郎は景子のために 何でもしてやりたいと思った。
「今まで誰にも話さなかったけど、・・・ううん、話せなかったのね。
あたしを可愛がってくれた伯母さんにも、話せなかったの。
・・・いつまでも 誰にも 話さないつもりだったけど、
こんなイヤな話を聞いてくれて、ありがとう、寅さん。」
ありがとう と言われて、またしても涙ぐみそうになったが、
グッとこらえて、寅次郎は勇んで応じた。
真夏の太陽のように胸を燃え立たせて。
「御茶を出してくれた時、言ったな、
あたしにも兄さんが居たら、どんなに良かったかしらって。
よし、俺が兄になってやる、こんなどうしようもない男だが、
俺で良けりゃあ、たった今から俺が景子の兄だ! どうだ、景子! 」
「まあ、ホント? 嬉しい! 」景子はたちまち明るい笑顔になった。
その輝きが、寅次郎の真骨頂 あの啖呵売の威勢の良さを引き出した。
「よーし、景子をいじめる奴が居たら、俺がぶん殴ってやる!
景子を泣かせる奴は、俺がぶっ殺してやる!」
「だめよ、そんな! 殺したりしたら、
兄さん刑務所に入れられちゃうわ。だめ! 」
真顔になって たしなめる景子。
だが、すぐに悪戯っぽい眼になって微笑んで、
「でも、もしそんな事になったら、あたし毎日、面会に行くわ!
ううん、いっその事、兄さんと一緒の刑務所に
あたしも入れてもらおうかしら、何か悪い事でもして。ウフフッ。」
景子の心憎い軽口に、寅次郎も気が弾む。
「気持ちは嬉しいが、景子、そりゃあ無理だ。
男と女は一緒の刑務所には入れてくれねえからな。
風呂屋と同じで、いくら兄と妹でも、男と女は別々よ、
ハハハ。ハハハハハ。」
二人は晴れやかに笑った。景子の愛くるしい笑顔が、
寅次郎を甘い喜びで満たした。そしていつか景子が、
もう父の事なんてどうでもいいわ、
あたしには兄さんが居るんですもの、
そう思ってくれる日が来るようにと、寅次郎は願うのだった。
景子は寅次郎の手を軽く握って、甘えるように言った。
「ねえ、兄さん、今夜はここに泊まってね、
あたし今から晩ご飯の支度するから。ね。」
「・・・そうかい、そうだな、じゃあ、そうさせてもらうか。
・・・妹の手料理を、今夜初めて御馳走になるか。
ありがてえや、楽しみだなあ。」
足取りも軽く、景子は台所へ行き、夕飯の支度に掛かった。
寅次郎は一人になると
今しがたの景子の告白にあらためて思いを巡らせた。
いつまでも誰にも言えない辛い過去を、
たったニ度会っただけの俺に、景子は打ち明けてくれた。
俺の事を、年の離れた兄とも思って、
慕ってくれたからこその、告白だったのだ。
それは若い女が、恋人になら決して言えない、
どうしても自分の胸の中に秘めておくべき過去。
だから景子にとって俺は、たぶん兄以上でも以下でもない。
これからもずっと、そうでしかないだろう。
兄と妹として景子と結ばれた事の、喜びと淋しさで、
寅次郎の胸は鎮まらなかった。
どちらかひとつを消す事など、出来そうにないと感じて。
先刻胸に抱き止めた景子の涙 泣き声 身体の震え
温もり 髪のほのかに甘い匂い 悲しみにも喜びにも
愛らしくきらめく大きな眼。
それら全ては、未だ寅次郎の胸を切なくも暖かく揺すっているのだった。
そして寅次郎の揺れる胸は、そのまま揺りかごとなって、
産まれたばかりの願いを育て始めた。
景子が幸せになる日が来るように、
俺が兄として出来る精一杯の事をしてやりたいという願いを。
そうだ、俺にもきっと、何か出来る事が有るはずだと、
寅次郎は確信した。
曙の光に夜の闇が掃われるように、この時、
寅次郎の迷いも不安もすっかり消え去っていた。
さくらに面会し、病院を出る直前に景子の真剣な仕事ぶりを見て、
自己の空しさに居た堪れなくなった寅次郎。
何かの導きを得たように おゆきの墓に詣でて、和尚の歓待を受け、
その不思議な縁で景子と再会し、そして今、
景子から兄と慕われるまでになった。
全てが夢のようにも思える。
おゆきが結んでくれたのだろうか、景子との兄妹の契りは。
景子と俺は兄妹、それを越える事は出来なくても、
それでいいのだ。景子がそれを越える事を望まないなら。
そう自分に言い聞かせて、寅次郎は胸を満たしている喜びも淋しさも、
このまま抱き続けて行こうと思った。
こうして気持ちの整理が出来た時、折り良く景子が戻った。
「こんな在り合わせの物しか無くって・・・。
でも、御飯はお代わりしてね。山形のお米は美味しいから。」
景子が急いで作ってくれた心づくしの夕餉。
菊の花の漬物 赤かぶ漬け なめこの味噌汁 鮭のムニエル。
「こりゃあ美味そうだ。俺のように年中旅暮らしだと、
時々無性に御新香で飯が食いたくなるんだ。
山形の赤かぶ漬けは歯応えが良くって俺の好物よ。
・・・それと、こっちの赤いのは 何かな? 」
「それね、菊の花のお漬物で“もってのほか”っていうの。
山形は食用菊の生産が日本一なのよ。
シャキシャキした食感で、あたし好きなの。」
「へええっ、そりゃあ珍味だな。さっそくいただくぜ。
・・・うん、なかなかいける。
・・・景子は料理が上手なんだな。たいしたもんだ。」
景子は少しはにかんで、
「上手だなんて。白状しちゃうと、
お漬物は御店からの買い置きなの。
お味噌汁も ダシの素を使ったから・・・
ホントはちゃんと鰹節を削ってダシを取ったら
もっと美味しく出来るはずよ。
でもムニエルは、寒河江川の鮭で、
今が旬だからきっと美味しいと思うわ。
熱いうちに食べてね。」
ムニエルという聞き慣れない言葉に、
寅次郎はふと、ある夏の夜の味覚が甦った。ハンバーグ。
かつての恋人 歌子が、寅次郎のためにと心を込めて作ってくれたので、
和食党の寅次郎が唯一つ大好きになった洋食メニュー。
今宵、ムニエルが記念すべき第二弾となった。
寅次郎は一口食べて、唸った。
「うーん、何だか贅沢な味がするな、
・・・帝国ホテルのレストランってとこかな。」
「まあ、兄さんったら、からかわないで。」
「いや、ほんとだぜ、脂が乗ってて美味いけど、
しつこくねえや。景子の腕がいいんだな。」
「良かったわ、兄さんの口に合って。
でも、あたしの腕より、バターがいいのね、きっと。」
「ほお、バターか。そういやあ俺はバターとは相性がいいんだ。
ほら、写真に写る時は、皆 チーズって言うだろ、
でも俺だけつい、バターって言っちまうんだ。
チーズより、バターに縁が有るんだな俺は、ハハハ。」
「ホホホ。」
寅次郎も景子も 幸せを感じていた。
二人が初めて共にしたこの食事には、
どんな豪華な美食にも優る祝福が有って、
二人に健やかな喜びを与えていたのである。
幸せな食事を終えて、膳を下げて戻るとすぐに、景子が訊いた。
「兄さん、歌は好き? 」
「ああっ、もちろんだ。聴くのも歌うのもいいよなあ、歌は。」
「じゃあ、あたしの歌、聴いてくれる? 」
「おおっ、そりゃあ嬉しいな。歌ってくれるのか。
そういやあ、さっきの子守唄 良かったなあ。
じーんと胸に沁みたぜ。」
「じゃあ、今度は あたしの一番好きな歌を歌うわ。
心が挫けそうになると、いつも歌うの。
とってもいい歌だから、
兄さんもきっと好きになってくれると思うわ。」
北国の港の町は リンゴの花咲く町
したわしの君が面影 胸に抱きさまよいぬ
くれないに燃ゆる愛を 葉かげに秘めて咲ける
けがれなき花こそ君の かおりゆかしき姿
さぎり降る港の町は リンゴの花咲く町
いつの日も匂いやさしく 夢はぬれてただよいぬ
たそがれにほほすりよせて リンゴはなにを語る
誓いせしあの夜の君の かおりゆかしき姿
景子の歌声は 先刻の島原の子守唄とは違っていた。
安らかで、愛への憧れに若やいでいる。
寅次郎は、甘美な花の香りに包まれたように、うっとりと聴き惚れた。
「初めて聴いたけど、優しい気持ちになれる、いい歌だなあ。
それに、景子は本当に歌が上手だな。
景子の歌は、俺なんかには勿体無いくらいだぜ。
ありがとうよ、歌ってくれて。」
景子は嬉しそうに微笑む。
「ねっ、いい歌でしょう。これ、ロンドンデリーの歌っていうの。
アイルランドの民謡なんですって。」
「じゃあ、元は横文字の歌かい? 」
「そうなの。元は英語の歌なの。
あたし、英語の歌詞も憶えたけど、日本語のほうが好き。」
「そりゃそうだ、日本語がいいよな。
俺だって、寅じゃなくてタイガーなんて呼ばれたら、具合悪いや。
返事する代わりに、
ウオーッて吼えなきゃいけねえ気がしちまってよ。ハハハ。」
二人が楽しく語らっていたこの時、
ガラガラと玄関の戸が開く音がした。
「ただいま。」年配の女性の声だ。
聞き付けて、景子はすぐに立ち上がった。
「伯母さんだわ。兄さんの事、何て紹介しようかしら。
いきなり、この人あたしの兄さんよって言ったら、
伯母さんびっくりするわね、ウフフ。」
寅次郎も「そうよなあ、いきなりで驚かせちゃいけねえな。
どんな挨拶したらいいかな? 」
「じゃあ、あたしに任せて。あたしたちの事、まだ秘密。ね! 」
「ああ。」こんな他愛ない事でも、
景子の眼にも言葉にも、寅次郎との絆を喜ぶ思いが染み出す。
寅次郎は嬉しかった。今はこのささやかな幸せが、
寅次郎の全てだった。
景子が客間の障子戸を開けて、伯母を迎え入れた。
「おや、御客さんかい? 」
「そうなの。伯母さん、このかたね、
あたしが担当させて頂いた患者さんのお兄様で、
あたしにとっても良くして下さるの。御名前は・・・」
景子が寅次郎を眼で促がす。
「わたくし、東京は葛飾柴又の生まれで、車 寅次郎と申します。
景子さんには、妹が大変御世話様になりまして、
御礼の申し様もございません。」
「あら、そんな御丁寧な。こちらこそ、景子が良くして頂いたそうで、
ありがとう存じます。・・・そうなの、ふーん。」と、
伯母は寅次郎をしばし見つめていたが、
すぐに人の良さそうな笑顔になって、
「景子、こちらさんに晩御飯、お出ししたの? 」と訊いた。
「ええっ、ついさっき、召し上がったとこなの。」
寅次郎も間髪を入れず
「はい、景子さんが心を込めて作って下さって、
大変美味しく頂きました。」
「伯母さん どうなの? 何か作りましょうか? 」と景子。
「ううん、あたしゃあ、御寺で頂いたよ。
和尚さんはホント まめな人だよー。
和尚さんの手料理、美味しくって、
あたしゃあ お代わりしちゃったさ。
おかげで、もう、おなかいっぱい。ハハッ。」
伯母の表情、とりわけ目元の柔和な笑みを見て、
寅次郎は、景子は伯母に似たのだなと思った。
「ねえ伯母さん、今夜 このかたに泊まって頂く事にしたの。
いいでしょう? 」
「ああっ、いいともさ。こんなむさ苦しいとこだけど、
ゆっくりしてってくださいよ。」
「じゃあ あたし御風呂の支度するから、兄さん」と言いかけて、
慌てて「寅さん」と言い直して、「寅さん 先に入ってね。」と景子。
「俺が一番風呂頂いていいのかい? 」
「もちろんよ、御客様ですもの。
それに、伯母さんは肩凝りがひどいから、
あたしが今から肩を揉んであげるの。
だからあたしたちの御風呂は後でいいの。
あっ、今日は足も疲れたでしょう、
足もマッサージしてあげるわね、伯母さん。」
「そうかい、ありがとうよ。」と伯母は目を細める。
入浴を済ませて、寅次郎は床に入った。
景子が延べてくれた布団 枕もとの水差し スタンドライト
それらを通して、景子の心遣いに包まれているように寅次郎は感じた。
悲し過ぎる少女時代に押し潰されても仕方なかったであろう景子が、
今こんなにも健気で優しい女性になり、
立派な看護婦さんとなって自立しているのだ。
もう一度、胸に抱いてやりたかった。
胸に抱いて「よく頑張ったな、こんなにいい女になってくれて、
兄ちゃんホントに嬉しいぜ!」
そう言ってやりたかった。
何が何でも、景子を幸せにしてやるんだ、兄として、命の限り。
ひとつだけ、気にかかる事が有った。景子と母。
景子の言葉からして、家出をしてから死別の時まで、
ついに二人は和解できぬままであったと思われる。
寅次郎は心を痛めた。寅次郎自身の生母との関係よりもずっと痛ましく、
景子と母は引き裂かれてしまったのだ。もう取り返しのつかぬ事か。
それならなおさら、俺が景子の心の痛みを一緒に受けてやらねば。
そして、考えるのも忌わしい事だったが、
景子の義父は、人でなしの義父との関係は、
その後どうなったのだろうか? 景子とは縁が切れたのか?
気にはなったが、決して訊くまいと寅次郎は思った。
景子が自分から話してくれない限り、この事には触れまいと。
この時、寅次郎は不吉な胸騒ぎを感じた。
ぼんやりとではあったが、この義父の存在が、
景子の幸せを妨げる黒い雲のように思われて、しばらく寝付けなかった。
寅次郎は翌朝、小鳥たちのさえずりで目を覚ました。
部屋を出た寅次郎の耳に、
台所で景子が野菜を刻む音が かすかに届く。
洗面所には新しいタオルと歯磨きセットが既に用意されていた。
寅次郎は、この不慣れな幸せの朝を味わうかのように、
いつもより洗面に時間をかけた。
そして部屋に戻る廊下で、景子から朝の挨拶を受けた。
「おはよう、兄さん。ぐっすり眠れたかしら? 」
昨夜からもう何度も、景子から「兄さん」と呼ばれて、
その度に胸の奥がとろけるようだ。
好きな少女から思いがけず告白された少年のように。
だがすぐに寅次郎は兄の心に戻って、景子にそしてみずからに言った。
「ああっ、おかげで気分のいい朝だ。
・・・景子はきっと、いい嫁さんになるな。
男にとっちゃあ、愛しい恋女房ってやつだ。
ああ、間違いねえ。景子の亭主になる男は果報者よ。
羨ましいぜ、ハハハ。」
景子の微笑みがいっそう輝いた。
「まあっ、兄さんったら。
妹をおだてても、なんにも出ないわよ。ウフフ。」
伯母と三人で朝食をとった後、
景子は今から東京に戻ると伯母に告げた。
夜勤であり、引継ぎのために夕方には病院に入らねばならないと。
「そうかい、母親の葬儀の翌日からもう仕事かい。
看護婦さんは人手不足っていうからねえ。
大変だろうけど、くれぐれも身体に気を付けてな。」と伯母が気遣う。
「ありがとう、でもね伯母さん、あたしうんと丈夫なの。
だから安心しててね。伯母さんのほうこそ、
畑仕事 無理しちゃダメよ。もう若くないんだから。」
「なーに、あたしゃあ まだまだ元気さ。
うちの人が亡くなった初めの頃はガックリしただども、
今じゃあ毎日 畑に出るのが楽しみだよ。
なんだかうちの人が、
おめえはまだ俺んとこに来ちゃあなんねえぞ、
そこで気楽にあんばい良く暮せやって、
守ってくれてるような気がしてるんだよ。」
「そうなのー。・・・そうねえ、伯父さん、
きっと伯母さんの事、守ってくれてるのねえ。」しんみりと景子。
「うーん、きっとそうだなと わたくしも思います。」と
寅次郎も頷いて呟く。
「そうそう、お前に持たせたい物があるんだよ、ちょっと待ってなよ。」
そう言って伯母は部屋を出て、
まもなく満杯の手提げ袋を持って戻った。
中身は 地元の銘菓や、食べ頃に熟れた柿などである。
「さ、これ持って行きな。」
「まあ、嬉しい。これ、伯母さんとこの柿でしょう、
あたし子供の頃、秋になるとこれ頂くのが楽しみだったの。
何年ぶりかしら。ありがとう、伯母さん。」
寅次郎は心の中で、景子の伯母に礼を言った。
この伯母が可愛がってくれて、景子を支えてくれたのだろう。
俺が叔母ちゃんに可愛がってもらったのと同じだ。
そう思えて、自然に感謝が湧き起こった。
寅次郎は景子の伯母に、
一宿一飯いや正確には一宿ニ飯の御礼を丁重に述べて、
その家を辞した。
そして景子と共に、バス停への道を歩き出した。
「それ 重いだろう、俺が持ってやるからよこしな。」
言い終わらないうちに
寅次郎は景子の手から手提げ袋を取ってしまった。
「ホント重かったの。兄さんが居るって、こんな時 助かるわね。
どうもありがとう、おにいさま! 」
景子は初めて、気安く甘えるように、茶化した。
そして呟くように言った。「・・・あたし、くたびれちゃった。」
それは景子の、心の底からの叫びのように寅次郎には聞こえた。
母の葬儀を終えて、しかしこれまで背負って来た重荷を、
未だ降ろす事が出来ない。どうしたらいいのかしら。
母と和解をしたくても、
もはや景子の手の届かないところに逝ってしまった母。
途方にくれているのだ、景子は。
やはり長い間、迷子のように安らぎの無い心を抱えて
生きて来たのだろう。
寅次郎は 景子の疲れ切った心を休ませてやりたいと思った。
ただそれだけを思いながら、景子と一緒に歩いた。
その時、道は 寒河江川が見渡せる場所に出た。
景子の表情が変わった。
「あたし子供の頃、ここの川べりでよく遊んだのよ。
まだ時間が有るから、少し眺めて居たいの。いいかしら? 」
「ああ、いいとも。」寅次郎が応じると、
景子はずんずん、川べりを降りて行く。
そして川面の近くに腰を下ろした。
セーターにジーンズという軽装であった事も、
景子の気持ちを解放するために都合が良かったようだ。
「兄さんもここに座って! 早く! 」
遠足に来た子供のように景子は気がはやって、寅次郎をせかすのだが、
いつもの鞄を左手に、手提げ袋を右手に持って、
寅次郎の足取りはたどたどしい。
ようやく景子の傍に到着して、一息つく。
すると景子は、手提げ袋から柿を二つ取り出した。
ひとつを寅次郎に手渡して、
「ねっ、兄さんも食べて。こんなにいいお天気で、
気持ちいい風に吹かれて、
寒河江川を眺めながら食べるのって最高でしょ。
ナイフが有ったら、兄さんにはちゃんと皮を剥いて
食べさせてあげたいけど、
あたしは、皮なんかへっちゃらなの。」
そう言うと、景子は柿を きりりと かじった。
皮なんかへっちゃらなの、と言う景子のおおらかさ 伸びやかさを、
寅次郎は喜んだ。辛い過去を背負ってはいるが、
景子は若い女性の生命の豊かさをみずみずしく保っているのだ。
その豊饒な息吹きを最初の出会いから強く感じ、
惹かれていた寅次郎である。
並んで座っている二人に、水面を渡る仄かに甘いそよ風が心地良い。
「この柿はね、亡くなった伯父さんが丹精してたのよ。
甘くて美味しいから、兄さんも食べて。」
「おう、今年の初物だ、ありがてえや。」寅次郎も一口かじった。
「うん、美味いな。・・・
子供の頃、題経寺の境内に柿の木があったんだ、
その柿をさくらに取ってやろうと木に登ってるとこを、
御前様に見つかっちまって、下から箒で尻を叩かれたっけ。アハハ。」
ひとしきり笑い合って、二人はしばらく川面を眺めた。
それから景子は寅次郎に向かって、少し重い口調で語り始めた。
「ね、伯母さんって いい人でしょう?
あたし、伯母さんには足を向けて寝られないのよ。
家出してからずうっと心配かけたし、・・・
母の事でも、随分お世話になったから・・・。」
言葉を切って、再び川面に視線を移した景子に、
寅次郎が思い切って訊ねた。
「・・・景子は、おふくろさんの死に目に会えたのかい? 」
「ええ。・・・でも、母はね、だいぶ前から、
脳がゆっくりと小さくなっていく病気にかかってたの。
だから、3年前の伯父さんの葬儀の時にはもう、
あたしの事も、誰だか判らなくなってたのよ。」
景子は気持ちの揺らぎを抑えるかのように、淡々と言葉を継いだ。
「今年の春、膵臓にガンが見つかって、
もう転移してたから手術も出来なくて、・・・。
伯母さんが心から母のお世話をしてくれるのをいい事に、
あたし、母から自分を遠ざけてたわ。
長い間、母の事 伯母さんに任せっきりにして。・・・」
そして淋しそうな眼を寅次郎に向けた。
「あたしって、悪い娘よね? 兄さん、・・・」
寅次郎は手を伸ばして、景子の手を包むように自分の手を重ねた。
そして景子の眼に語りかけた。
「自分を責めちゃいけないぜ。
俺にはよーく分かってる、景子は優しい娘だ。
優しいから自分を責めるんだ。
出来なかったけど、景子はおふくろさんと仲直りしたかったんだろ、
その気持ちだけで充分じゃねえか。なっ。」
「・・・でも、あたし、母に背を向けてたわ。
・・・看護婦なのに、母の看護をしなかったわ。
・・・看護婦なのに・・・」
寅次郎はありったけの優しい気持ちを言葉にした。
「だけどな、もし、景子がおふくろさんに付きっきりだったら、
柴又病院でさくらと出会う事も無かったわけだろ、
景子がおふくろさんに向けるぶんまで、
心を込めてさくらを看護してくれた、
そのおかげでどんなにさくらが救われたか、
俺はありがたいと思ってるんだ。
身体がふたつ有るわけじゃなし、
景子が精一杯生きて来た事は、お天道様が御存知よ。
景子の気持ちは、あの世のおふくろさんにきっと通じてるぜ、
だから、安心しな。なっ、景子。」
寅次郎は景子の眼を見つめ、
重ねていた手でしっかりと景子の手を握った。
次第に景子の胸は 心の重荷が溶けて行くように暖かくなった。
寅次郎の言葉には 言葉を生み出す願いの力が有って、
景子を安らかにしてくれたのだった。
「ありがとう、兄さん。おかげで気が楽になったわ。
・・・でも不思議ね。なんだか兄さんの言ってくれる事、
慈恩寺の和尚さんのお話みたいな気がしたわ。
兄さん、お坊さんじゃないのに。どうしてかしら。」と景子。
「おい、よせやい、俺なんかが、あの偉い和尚さんみたいだなんて、
とんでもねえや。月とスッポンよ。」と慌てて恐縮する寅次郎。
だが寅次郎は知らぬ間に、
受けた恵みを他者と分かち合う者に なっていたのである。
そうせずには居られない者に なっていたのである。
そしてそれこそは、僧侶の働きなのであった。
二人は川を眺めるのを切上げて、再び川沿いの道を歩き、
まもなくバス停に着いた。
そして寅次郎はテキヤ仲間の病気見舞いのため、
今泉行きのバスに乗った。
「この次は いつ会えるかしら? 」淋しがる景子に、
寅次郎は明るく応えた。
「なあに、近いうちに、きっと会えるさ。それまで元気でな! 」
景子は名残惜しそうに、手を振りながら見送った。
寅次郎も車窓から身を乗り出して、笑顔で手を振った。
そして席に座り直して、なおも景子の事を思い続けた。
景子は一人になって、東京に着くまでの間にもう一度、
母への気持ちに整理をつけるだろう。
それからアパートの部屋で少し身体を休めて、
心も身体も新たにして病院に戻り、
優しく快活に患者さんを看護するだろう。
最初の出会いの時、さくらに向けて絶やさなかった笑顔、
寅次郎を魅了した、あの健やかな愛らしい笑顔をいっそう輝かせて。
可愛くてたまらない妹の面影は、いつまでも寅次郎の傍を離れない。
妹と思うだけではない、それ以上のときめきに、寅次郎の胸は高鳴る。
だが、やがてそれを自制する兄の心が、頭をもたげて来た。
・・・そうだ、景子にふさわしく、景子をどこまでも愛して、
景子をきっと幸せにしてくれる立派な男と、一緒にさせてやりたい。
そうだ、何が何でも、景子は幸せにならなくちゃいけねえ。
・・・だが、肝心の相手の男・・・
寅次郎には、まるであてども無い。
俺が見つけてやりたい、いくら意気込んでも、
雲を掴むような話しである。
いったい、どうやって見つけりゃいいんだ?
タコ社長の工場の貧乏職工じゃダメだし、・・・
御前様のお知り合いじゃ年寄りだし、・・・
寅次郎が目玉を上に引き寄せて考えていたその時、
バスが急ブレーキで止まった。
ドンッ、という衝撃を受けて、身体が前後に撥ねた瞬間、
寅次郎の脳裡には何故か、尾形医師の姿が浮かんだ。
細身によれよれの白衣をまとい、
黒ぶち眼鏡の奥の眼が誠実な、あの男。
さくらの病室に駆け込んだ時、
勢い余った寅次郎が抱きついて倒してしまった、あの尾形医師である。
再びバスが走り出した時、寅次郎の顔は見る見る上気していった。
「・・・そうか! ・・・あの先生・・・
年は40くらいだが、ぎりぎり間に合うじゃねえか。
なんてったって、さくらの生命の恩人だ、
さくらがあんなに信頼してた先生だ、
人柄は間違いねえ。そうよ、あの先生なら、俺も文句はねえ。
・・・居たぞっ、居たぞーっ! ・・・景子、待ってろよ、
兄ちゃん、きっと景子を先生と一緒にさせてやるぞ!
よーし、よーしっ。ワハハハハ。ワハハハハ。」
寅次郎は座席から起ち上がり、高笑いして両の拳を握っていた。
前の座席のおじいさんがビックリして首をすくめている。
他の乗客達の視線も集まったが、そんな事はおかまい無しに、
寅次郎はひたすら嬉しくなっていた。
景子の幸せがもうすぐだ、俺が上手く段取りしてやって、
景子はきっと幸せになるんだ、そう信じ込んでいる寅次郎。
いやはや、大変な慌て者である。
景子の気持ちも確かめないうちに、
それに尾形医師が独り者かどうかさえ知らないというのに。
だが寅次郎は、自身の直感を信じた。
二人はきっと幸せな夫婦になるに違いない、と。
そしてそれに賭けようと思った。
まるで自身の恋の冒険が始まるかのように胸躍らせて、
景子と尾形が結ばれて行く道筋を 心の中で思い描いた。
今泉でテキヤ仲間の病気見舞いを遂げると、
寅次郎は、はやる心を抑えて啖呵売に精を出し、
軍資金を作りながら道中三日かけて柴又へ帰り着いた。
駅を出ると、真っ直ぐ柴又病院に向かった。
さくらの手術の御礼かたがた、尾形に一杯飲んでもらうつもりだった。
柴又病院の受付で、寅次郎は職員に訊ねた。
「わたくし、車 寅次郎と申します。尾形先生にお会いしたいのですが、
先生はどちらにいらっしゃるでしょうか? 」
対応に出たのは、今回も佐藤である。
「あっ、あなたは確か、先日、面会に来られた・・・」
「ああっ、あんた、あの時の人だね。良かった、話しが早いや。
俺、あの時 尾形先生のはからいで、
妹にすぐ面会させてもらっただろ、ホントに嬉しかったんだ。
それと妹の手術が成功して退院させてもらったから、
その御礼が言いたくて伺ったんだよ。
あの時 俺がさくらを残して旅に出られたのも、
全く先生のおかげだからなあ。
ありがたかったぜ。で、先生何処かな?」
「ちょっと待って下さい、えーっと、尾形先生は・・・
あっ、今、オペ中だな。・・・終了予定が5時になってますから、
あと1時間くらい待ってもらわないと。」
「えーっと、オペっていうのは、手術の事だよな。
・・・そうかい、だったら待たせてもらうぜ。
・・・そうだよ、先生のお仕事は、大事な、尊いお仕事だからな、
俺が文句なんか言ったら罰が当たるってもんだ、
ああ、1時間だろうと2時間だろうと、
おとなしく待たせてもらうぜ。」
とは言ったものの、内心は1秒でも早く尾形に会いたい、
会って確かめたい事の有る寅次郎である。
いったんは廊下のソファーに腰を下ろしたものの、
気がせいて、じっとしては居られない。
コツコツ。受付のガラスの小窓を叩く。
「何ですか? 」と佐藤。
「いつまでだって待つけどさ、今日中には会えるよな? 」と寅次郎。
佐藤は目を丸くして、
「もちろんですよ、だってオペが今日中に終わらなかったら、
大変な事ですから。大丈夫ですよ。」
「ああ、そうかい、ありがとう、うん、ありがとう。」
寅次郎は再びソファーに座る。
しかし、しばらくすると、そわそわして、落ち着かない様子。
やはり、気懸かりな事が有るのだ。
やがて、思案も辛抱も堪らなくなって、またまた受付の小窓をコツコツ。
佐藤は、面倒だなという顔をして
「何ですか? 」
「あのさ、これ大事な事だから、ホントの事言ってくれよなっ。」
「・・・何ですか? 」
寅次郎は、まるで運命の宣告を受けるかのように、顔が緊張している。
喉が渇いて、声も かすれ気味。「先生は・・・奥さん居るかい? 」
「いや、先生は、奥さんは居ないです。」
するとたちまち活気付いて、声も弾む。
「ホントか? ホントだな!? 」
「ええ、本当ですよ。」
「ああ良かった! これで大丈夫だ! 良かった良かった、よーし! 」
寅次郎、喜色満面。ソファーにどっかと座った。
もうこれで、
寅次郎は心安らかに尾形との再会の時を待つ はずだったのだが。
しばらくして、今度は表情が曇った。翳りが深まる。
やがて起ち上がると、またしても小窓をコツコツ。
「もうー、何ですか!? 」佐藤はうんざり。
「ちょっと訊きにくいんだけど・・・
尾形先生な、コレ・・・居るのか? 」
右手の小指を立てて見せる寅次郎。
「えっ? 」途惑う佐藤。
「だからさ、先生、コレ居るのかって訊いてんだ。わかんねえのか、
つまり、あれだ、いわゆる女性関係ってやつよ。どうなんだ? 」
佐藤は驚くやら呆れるやら、
「そんな事わたし知りませんよ
第一、そんなの個人のプライバシーですから、
知ってたって言えません。
もう、とにかくおとなしく待ってて下さいよ。」
ほとほと困った表情の佐藤に、寅次郎も流石に黙って引き下がった。
今度こそ、ソファーに尻を深々と沈めて、反省。
『・・・バカな事訊いちまったな。
あの先生に、くだらねえ女関係なんか有るもんか。
女が居たら、奥さんにしてるに決まってらあ。
・・・うん、そうだ、そうに違いねえ。全く、バカだよな、俺は。』
景子のためを思うと、つい先回りして、
いろいろと気を揉んでしまう寅次郎であった。
しばらくして、寅次郎の腹がグウッと鳴った。
『 そういやあ、昼飯 食ってなかったな。』
その時、一人の女が近づいて来て、寅次郎に声をかけた。
「ちょっとあんた、さっき尾形先生の事、佐藤さんに訊いてたでしょ。
あたし、教えてもいいわよ。聞きたい? 」
女は言い終わらないうちに、寅次郎の傍に腰を下ろした。
「佐藤さん堅いからさ、訊いてもダメよ。
代わりにあたしが教えてあげるわよ、
あんた悪い人じゃなさそうだからさ、アハハ。」
笑いながら、女は寅次郎の肩を軽く叩いた。
大柄な中年女。眼も口も大きくて、おおらかな、人懐っこい笑顔。
寅次郎も一目で気を許して、
「そうかい、そりゃありがてえや。ところで、お前さんは、
尾形先生とはどういうお知り合いなんだい? 」
「あたし、この病院で看護助手してんのよ。
10年以上やってるから、すっかり古顔になっちゃったわよ、
年ばっかりくっちまってさ、アハハ。」
「看護助手? なんだいそれ。看護婦さんじゃねえのかい? 」
「看護婦さんは試験受けて資格取るのよ。あたしはそんな能が無いから、
看護婦さんの手助けみたいな事してんのよ。
患者さんのベッドのシーツ取り換えたり、病室の整理整頓したり、
ご飯とかお風呂のお世話したりさ。」
「へえーっ、そりゃあ大事な仕事じゃねえか、
長く続けてるって、たいしたもんだなあ。」と感心する寅次郎。
「ううん、誰でも出来る仕事だけど、
あたしみたいな者でも少しは人の役に立てるのが嬉しいのよ、
それに亭主の稼ぎだけじゃ今時やってけないからね、
子供の学校にお金かかるしさ。アッハッハ。」
とにかく陽気で、よく笑う。
雑草のような生命力を感じさせる人である。
世の中の土台を支えている おふくろさんの一人。
この時、再び寅次郎の腹がグウッと鳴った。
「あんた、お腹すいてんのかい? これ食べなよ。」
彼女は抱えている紙袋からアンパンを取り出して、寅次郎に手渡した。
「患者さんから頂いたのよ。」
「そうかい、ありがとうよ。」
尾形に酒を振舞うために稼いだ金が入っているので、
今日の財布はいつもより重かったのだが、
寅次郎は彼女の気持ちをありがたく受けた。
寅次郎は手にアンパンを持ったまま、話を続けた。
「ああ、言い忘れててすまねえ、俺は柴又の生まれで車寅次郎ってんだ。
よかったら、お前さんの名前 聞かせてくれるかい? 」
「あたし竹城あき子。生まれは山形の米沢よ。」
「えっ、あんた山形かい、だったら同じ山形の生まれで、
ここの看護婦さんの景子・・・竹中景子さんって知ってるかい? 」
「知ってるも何も、あんた、あたし景子ちゃんの事、
娘みたいに思ってるんだから。もう随分長い付き合いになるわ、
あたしが初めて景子ちゃんに会ったのはさ、・・・」と言いかけて、
あき子は口を噤んだ。
「あんた、なんで景子ちゃんの事 訊くのさ? 」
少しばかり怪訝な眼で寅次郎を見た。
寅次郎はすぐにあき子の意を酌んで、
「俺の無作法で、余計な気遣わせちまったな、
なに、俺の妹が景子さんにすっかりお世話になったんだ。胃ガンでよ。
景子さんの看護と尾形先生の手術のおかげで、妹はめでたく退院した、
今日はその御礼に来たってわけだ。納得してくれたかい? 」
「あら、そうだったの。あたしのほうこそ、悪かったねえ、
変な目で見ちゃってさ。だって景子ちゃんホントいい子だから、
いい加減な男が付かないようにって、つい心配しちゃうのよ。
うんといい男と一緒にさせてやりたくってさ。アハハ。」
寅次郎は心底 嬉しくなった。
景子の頼もしい味方 おふくろさん代わりだと言ってくれる人が、
寅次郎の目の前に現れたのだ。寅次郎と同じ気持ちで、
景子を見守ってくれる人が居るのだ。
気分良く訊ねる。「なにかい、景子さんは、そんなにいい子かい? 」
「ああ、そうさ、なんたって、
この病院の看護婦さんだろうと職員さんだろうと、
女の子の中じゃあ景子ちゃんがピカイチだわさ。」
「あんた目が高いねえ、うん。そうかい、やっぱりそうかい。」
寅次郎は声も上ずって、とろけそうな笑顔になった。
「器量良しだけど、ちっとも鼻にかけないしさ、
仕事も真面目だし誰にでも優しいし。
ホントいい子なのよ、景子ちゃんは。」
「そうだよな、ああ、そうだとも。あんたの言う通りだ。
これ、良かったら食ってくれ。」
有頂天で寅次郎はアンパンをあき子に差し出す。
「なによ、それ、
さっきあたしがあげたアンパンじゃないのさ、バカねえ。」
「ああっ、そうだった、こいつぁいけねえっ、ハハハッ。」「アハハ。」
二人で大笑い。身を寄せ合って、心も暖まる二人だった。
景子を娘のように思ってくれるあき子を、
寅次郎は心から、ありがたいと思う。
その気持ちが伝わり、あき子も寅次郎を信頼して、
景子の事をこまやかに語ってくれた。
「初めて景子ちゃんに会ったのはさ、
ちょうどあたしが看護助手になった最初の日だったから、
よーく憶えてるんだわ。
景子ちゃんね、車にはねられてこの病院に担ぎ込まれたのよ。
足の骨が折れてて、手術する事になってさ、
あたしがお家に電話してあげるからって
番号訊いたんだけど黙ってるじゃない。
じっと顔見たら、泣き出しちゃったのよ。
あたし何にも言わないで、
ベッドの傍であの子の手 握っててやったさ。
そしたら、ポツリポツリ話してくれたのよ。
昨日山形から家出して来たって。どうしても家には連絡しないでって。
よっぽど訳がありそうだったから、あたし、ああいいよって、
そっとしといてやったさ。それから尾形先生に手術してもらって、
リハビリの歩行訓練も先生が付きっきりでさ、
そりゃあ親身にやってくれたのよ。うん。」
寅次郎は、直感を信じて良かったと、意を強くした。
やはり二人は結ばれる運命だと。
あき子は更に語った。
「景子ちゃんが退院する日になって、あたしびっくりしたのよ、
尾形先生が景子ちゃんに、
あなた看護婦になりなさい、ならなきゃダメだって、
まるで命令するみたいに言ったのよ。
先生が、看護婦さんになる学校の願書やら、
奨学金の申請書やら、いろんな手続きの書類を
全部用意してくれてたのよ、それを景子ちゃんに渡して、
あなたはきっといい看護婦さんになるよ、間違いない、って言って、
ニッコリ笑ったさ。・・・
あの時の先生、イイ男に見えたわよーっ、
普段はどうって事無いけどさ、アハハ。
・・・家出して来て、一人で生きて行こうとしてる女の子のために、
先生いろいろ考えて、一番イイと思ったのね、
看護婦さんになるのが・・・
それで景子ちゃん、学校の寮に入って、勉強して、
准看護婦って資格取ってさ、この病院で働く事になったわけよ。」
「へえーっ、それじゃあ、景子さんが看護婦さんになれたのは、
あの先生のおかげだな。良かったじゃねえか、うん。」
「それがさ、良くなかったのよ、・・・」
「えっ、どういう事だい? 」驚いて寅次郎は、あき子の顔を見つめる。
「景子ちゃんが看護婦さんになれたのは良かったさ、でも、
先生のためには、良くなかったんだわ。
ちょうどその頃、先生に縁談が有ったのよ、
相手は 院長先生のお嬢さんでさ。
でも尾形先生 なにかと景子ちゃんの面倒みてくれてて、そのせいで、
お嬢さんとのデートすっぽかしたりしてさ。
そのうち、病院で悪い噂が立ったのよ、
尾形先生が景子ちゃんを愛人にしてるって。
・・・あたし、凄く腹が立ったさ、そんな人じゃないよ、先生は。
もちろん景子ちゃんだって、そんな子じゃないさ。
だから先生が気の毒で、景子ちゃんが可哀想で、
噂立てた奴が判ったらあたし、
そいつをぶん殴ってやりたかったわよ。」
ずうっと以前の事なのだが、あき子は今でも、
思い出すと頭に血が昇る。
寅次郎も、その時の景子の気持ちを思って憤慨したが、
あき子が寅次郎のぶんまで怒ってくれて、すうっと胸が治まる。
頼もしいあき子を見ていると、ついでに、こんな事まで思われた。
『 この人にぶん殴られたら、痛てえだろうなあ 』
「結局 縁談は壊れたさ。先生はこの病院に居辛くなったけど、
腕はいいし、親切だしでさ、患者さん達からとっても好かれるから、
先生が居ないと病院も困るのよ。そのうち噂もすっかり消えてさ、
景子ちゃんがこの病院で働き出した時には、
噂を思い出して二人を色眼鏡で見る人なんか、誰も居なかったわさ。」
「そうか。そりゃあきっと、尾形先生が立派なんだな。
・・・男と女に噂が立つ、黙って仕事に打ち込んで、
噂を自然に消しちまうなんざ、
並みの男にはなかなか出来ねえぜ。うん。」
恋をするたびに柴又界隈で心無い噂をされる寅次郎の、
実感の吐露である。
「そうなのよ、尾形先生ってさ、ちょっと見は頼りない感じだけど、
ほら、柳に風って言うの? いつも通り、堂々としてたわ。
これまで何かにつけて景子ちゃんを支えて来てくれたのよ。
いい先生だわ。」
寅次郎は、あき子の言葉で確信した。
尾形先生はこれからも景子を大事にしてくれるだろう。言う事ねえや。
「で、景子さんのほうは、どうなんだい?
優しくしてくれる先生の事をよ?
やっぱり、慕ってるんじゃねえのかな? 」
「・・・うーん、それがさ、あたしにも良くわかんないのよ。
あの頃はさ、景子ちゃん、
自分のせいで先生の縁談が壊れちゃったのかしらって、
気にしてたから、遠慮してるんだなってあたし思ってたのよ。
でも近頃は景子ちゃん、自分から先生に冗談言ったりして、
二人で楽しそうにして、いい感じなんだけど・・・
でもやっぱり、どっか控え目なのよねー。
先生の事、嫌いなはず無いと思うんだけど・・・。
他に好きな男も居ないみたいだし・・・。」
もちろん寅次郎には心当たりが有る。景子が控え目になる理由。
寅次郎だけが知っている、景子の心の傷。だがそれも、
すっかり癒える時が近づいている。
もうすぐだぜ景子、もう手の届くところまで来てるんだぜ。
その思いで今、寅次郎の胸は熱くなっている。
この時、カツカツと音を立てて、廊下を歩いて来る尾形の姿が見えた。
「あらっ、先生だわ。噂をすれば影ね。」
あき子はソファーから起ち上がって、尾形に声をかける。
「先生、お疲れ様でした。」
「ああっ、竹城さん、仕事終わったとこ? これから帰る? 」
「はい。帰って、息子の晩御飯の支度しないと。」
「息子さん、中学生で、野球部だったよね? 」
「はい。もう、あたしの顔さえ見りゃ、
腹減った腹減ったって、そればっかり。アハハ。」
「うん、一番お腹すく年頃だからね。いいねえ、野球やって、
お母さんの作ってくれる御飯モリモリ食べて、身体も心も
どんどん大きく逞しくなって行くんだな。
・・・今が一番幸せな時かもしれないねえ、母と息子には。
一緒に居られる時期なんて、すぐ過ぎるから、
今の時間を大事にね。」
「・・・ホントそうねえー。先生の言う通りだわ。
今夜はあの子の好きなカレーにして、テレビ消して
ゆっくり話ししながら食べようかな。じゃ、お先に。さよなら。」
あき子は尾形に御辞儀をしてから、寅次郎に向き直り、
「じゃあね、また病院に来たら、声かけてね。」
「ああっ、あんたと出会えて、嬉しかったぜ。
また会える日が楽しみだ。気をつけて帰んなよ。」
「ありがと。さよなら。」
あき子の後ろ姿が廊下を曲がって見えなくなると、
尾形が寅次郎に話しかけた。
「ああっ、確か、車さんでしたね、諏訪さくらさんのお兄さんの。」
「はい、車寅次郎でございます。
このたびはさくらが大変御世話様になりまして」
尾形は遮って、
「もう、そんな丁寧な御挨拶は、こないだ伺ってますから。
ざっくばらんに行きましょう、ね、車さん。」
「よろしかったら、寅 と呼んでやって下さい。」
「はあ、寅 さんですか。寅さん。」
「はい。・・・ところでわたくし、
本日は、さくらがお世話になりました御礼に、
ほんの気持ちばかりですが、先生にお酒の一杯も差し上げたいと
存じまして、伺いました次第です。」
「いや、そんなお気遣いは無用ですよ、寅さん。」
「いえ、どうか、この寅を喜ばせると思って、御付き合い下さい。」
寅次郎の熱意にほだされて、尾形は折れた。
「じゃあ寅さん、しばらくここで待っててもらえますか?
残りの用を済ませて来ますから。」
「はい、待たせて頂きます。ごゆっくりどうぞ。」
尾形が足早に病棟の詰所へ戻って行くと、
寅次郎は人目を避けるために廊下の奥のソファーに座って、
先刻あき子からもらったアンパンを食べた。そして景子の事を思った。
・・・今、何をしているかな。やはり患者さんの看護をしているか、
それとも短い休み時間で、仲間の看護婦さんと
談笑しているかもしれないな。
・・・顔を見たい。顔を見せてやりたい。・・・だが、
ここは景子の大事な仕事場だ。看護婦さんは忙しいんだ、
俺が邪魔をしちゃあいけねえ。うん、ここは会わずにおこう、
今日は端っから、先生と飲むのが目当てなんだからな・・・。
寅次郎がこんな思いを巡らせているところへ、尾形がやって来た。
ネクタイは捩れて、いかにもくたびれた背広姿。
顔色もくすんだ感じである。
寅次郎は知らないのだが、忙しいのは看護婦さんだけではない。
勤務医も同様なのだ。尾形の状態は、慢性疲労。
尾形のような誠実で責任感の強い男は、
医師の仕事に 日々 体力の限界まで捧げているのだ。
目が合うと、尾形から先に寅次郎に声をかけた。
疲れを払うように軽快に。
「お待たせしました。さあ、行きましょう。
寅さんと飲めるのは楽しみだなあ、
面白い旅の話しを聞かせて下さい。」
「はい、喜んでお話しします。わたくしも、
先生と飲めるのが嬉しくてなりません。」
寅次郎は尾形の顔色から疲れを見て取り、
何か精の付く物を御馳走したいと思った。
そうだ、浅草に泥鰌の美味い店があったな。
柳川、蒲焼、それに胡麻豆腐。
たくさん食ってもらって、美味い酒飲んでもらおう。
「先生、今宵はわたくしにまかせて下さい。」
電車で柴又から浅草へ向かう。
着いてみると、店の様子は以前と変わらず、
泥鰌料理の美味さも文句無し。尾形に酒を勧めながら、
寅次郎はテキヤ仲間の珍奇な逸話や旅先での面白い経験を、
身振り手振りを交えながら話した。尾形はすっかりくつろいで、
酒と料理に舌鼓を打ちながら、寅次郎の一人語りを楽しんだ。
やがて、今度は尾形が語る番に。
「いやーっ、こんなに笑ったのは久しぶりだなあ。
おかげで寿命が伸びた気がする。寅さんのおかげ。アハハ。」
「そう言ってもらうと、俺も嬉しいなあ。ありがてえや。」
寅次郎も、酒が回って次第に砕けた口調になる。
「でも、先生の仕事って、ホント大変だよなあ。手術なんてさあ、
俺なんかには逆立ちしたって真似が出来ねえや。うん。」
「・・・手術っていうとね、寅さん、
今にきっと、医者に代わってロボットが、
診察から手術まで、見事にやってのける時代が来ますよ。
ええ、もしかしたら、私が生きてるうちにもね。うん。」
「へえーっ、ロボットが手術すんの?
鉄腕アトムとか、鉄人28号だっけ? 」
「いや、そういうのとは違うんだけど、今ほら、
自動車なんか組み立てるロボットがあるでしょ? あれに近いかな。
まあ、そうなったら、私なんか、さっそくお払い箱だな。
病院の偉いさんたちに、しょっちゅう盾突いてるから。アハハ。
・・・でもね、寅さん、どんなに優秀なロボットが出来たって、
人間の事は結局、人間にしかわからない。
・・・人間が大切に思う事を共感したり、共有したり出来るのは、
ロボットじゃない。人間なんだ。
病気を治すのは、医学じゃない。
治してあげたいと願う人間なんだ。・・・
治らなかったらどうしようって、
不安で心細くなってる患者さんに寄り添って、
きっと治るよって励ましと勇気をあげる人間なんだ。それは、
どんなに膨大な医学の知識を組み込まれたロボットにだって、
出来ない事なんだ。
・・・いや、励ましたり勇気付けたりする
プログラムを組み込まれたロボットなら、
壊れてない限り、いつも必ず出来るんだろう。
でも、それは本物じゃない。
ただそうするように作られているだけだから。・・・
人間は、励ましてあげたいとか勇気付けてあげたいとかって
思えない時がある。
願いなんて何処かに置き忘れてしまって、乾いた心になる
いや、心さえ失ってしまう時がある。・・・そんな時
私は患者さんや面会の人と話をするんです。話題は何でもいいから。
するといつのまにか、願う気持ちが戻って来る。
ああ良かったと思う。自分を失くして、また取り戻すんですね。
その繰り返しです。・・・ 、
それでいいんだって、近頃は思うんですよ。
いや、だからいいんじゃないかって。
願いを組み込まれたロボットじゃない、
願いが持てない時が有る人間だからこそ、
その願いは本物なんだって。 願いが持てるって事が
幸せなんだって。・・・
願いっていうのは、人間の都合で持てるもんじゃないんだなあ。
なんかこう、人と人がお互いに向き合う時に、何処からか来てくれる、
そういうものなんだなあって、思うんですよね、ええ。・・・
人間はね、寅さん、励ますと励まされる。勇気付けると勇気付けられる。
不思議ですよねえ。助けてあげたいと思って人に接すると、
自分が助けられるんですよ。・・・
僕自身が誰かに助けて欲しいと思う時に、
助けの必要な重態の患者さんが来るんですよ。で、しょうがないから、
自分の事は後回しで、患者さんのためにドッコイショーって頑張って、
ああ、危なかったけど、もう大丈夫だ、良かったーってホッとして、
さて自分はと見ると、自分も助かってるんですよ。またやれるって。
やって行けるんだって。・・・ホント、不思議ですよねー、うん。
・・・ああっ、なんか随分しゃべっちゃったな。
退屈したでしょ、寅さん? 」
酔っているせいもあって、
寅次郎は、尾形の言う事が、良く分からなかった。
しかし、それなのに、信じられる気がした。
この先生の事は信じていい、と。
それは最初の出会いの時に感じた事だったが、更に深まったのだった。
「先生のお話は、俺なんかには難しいけど、でも
いいお話だなあって思ったよ。
こないだ聞いた御寺の和尚さんのお話と、なんか似てるなあって。
うん。」
「へえーっ、そうですか。僕は、これっていう宗教は無いんだけど。
・・・じゃあ、そろそろ出ますか。」そう言って、
尾形がテーブルの隅の伝票を手に取った。寅次郎は慌てて手を伸ばす。
尾形の手から伝票を取ろうとする。
「ダメだよ、先生。今夜は俺の奢りなんだからさ。」尾形は微笑んで、
「いや、いろいろ面白いお話しを伺って、
それに僕の話しも聞いてもらって、
とっても楽しかったんですよ、だから・・・」
寅次郎はこの瞬間、酔いを払ったかのように真顔になった。
そして生命が光を浴びようとする如く、
願いの言葉が胸の奥底から湧き上がった。
「先生は今にきっと、この寅次郎が涙を流して喜ぶ事をして下さる、
きっとそうなると、わたくし信じております。
わたくしにはこんなちっぽけな事しか出来ませんが、御礼代わりに、
ここはわたくしに、もたせて下さい。」
尾形は寅次郎の言葉が何を意味するのかを理解出来なかったが、
とても逆らえない真情を感じた。
寅次郎が支払いをして、二人は店を出た。
「先生、次はどんな店がいいですか? 何でもおっしゃって下さい。」
と寅次郎。
「いやーっ、僕はもう、お腹いっぱいですよ、寅さん。
・・・良かったら、僕んとこへ来ませんか?
安アパートだけど、美味いコーヒー淹れますから。」
尾形は 寅次郎ともう少し話がしたいと思った。
いや、大した話は無くとも、
二人だけで居られる場所と時間が欲しかったのである。
「でも、俺なんかが御邪魔したら、ご迷惑じゃないですか? 」
「とんでもない。大歓迎ですよ。じゃあ、決まり。行きましょう。」
浅草から取って返して京成電車の金町駅へ。
駅から裏通りに入って、歩く事数分、
こじんまりしたアパートの2階の角部屋。
部屋に入ると、尾形は寅次郎を座らせて、
自分はさっそく狭い台所に立ってコーヒーの準備をしながら、
半分は独り言のように、語り始めた。
小さな喫茶店で、馴染みの客と二人だけの雨の夜に、
店主がコーヒーを淹れながら語るように。
「お隣さんは引越しちゃったし、
下の部屋は水商売のお姐さんで、今頃はお店に出てるから、
夜寝る前に結構気楽にステレオ聴けるのがありがたいんですよ、
壁はペラペラに薄いんだけど。・・・
御覧の通りで、何しろ古くてオンボロだけど、
このアパートは大家さんが当たりでした。
七十過ぎのお婆さんで、とっても気持ちの暖かい人なんです。
こないだは、亡くなった御亭主の命日だからって言って、
一升瓶抱えて来て、思い出話を肴に、一緒に飲んだんですよ。
僕は死んだおふくろの事を想いながら、
大家さんの言葉に耳を傾けてました。
・・・ただ、その大家さんとも、あとしばらくで御別れなんですよ。
・・・さあ、出来上がり、と。うん、イイ香りだ、どうぞ寅さん。」
小さな座卓に湯気の立つコーヒーカップを2つ置いて、尾形も座った。
寅次郎は、尾形の「死んだおふくろ」そして
「大家さんと御別れ」という言葉が耳に残った。
なんとなく気になって、訊ねた。
「先生、お引越しなさるんですか? 」
「ええ。富山に行きます。」
「えっ、富山? すると富山の病院へいらっしゃるんですか? 」
寅次郎には一大事である。
景子と尾形の仲はどうなってしまうのだろうか。・・・
「富山といっても、八尾町という山あいの町の、岐阜県に近いとこに、
過疎地域の診療所があるんです。
そこの先生が、僕の大学時代の恩師で、
僕が医者になれたのはその先生のおかげなんです。
というのも、・・・」
ここで尾形は言葉を切って、コーヒーを一口飲み、
頭を掻きながら言った。
「止めましょうか、この話は。
面白い話じゃないし、長くなるし・・・」
「いえ、わたくし、先生のお話なら 何でも聞きたいです。
どうか話して下さい。」
「そうですか、じゃあ」尾形は、ためらいを捨てて語り続けた。
「どこから話そうかな・・・僕は親父と大喧嘩しましてね、
家出したんですよ。高校3年の3月でした。・・・」
寅次郎は驚いた。景子の時も意外だったが、
まさか尾形までもが家出人だったとは・・・
「大学には合格してたんだけど、カネが無い。
親父からはビタ一文送って来ないし、
僕も泣き付く気は無い。国立大学だから、
親の収入が少ない学生なら 授業料の減免も受けられるし、
古い学生寮に入れてもらえて助かるんだけど、
家出じゃあ理由になりません。それで、
新入生のカウンセラーをしてた田所先生に相談したら、
それなら君、とりあえず家へ来るか って言って頂いて、
先生のお宅に下宿して、そのまま卒業するまで置いてもらったんです。
田所先生と奥様のおかげで、生活させてもらって、
カネのほうは奨学金と家庭教師のバイトで、
まあギリギリ何とか工面できたけど、
何と言っても、先生と奥様のおかげで、僕は医者になれたんです。」
尾形が田所夫妻を心から敬愛している事が、寅次郎には良く分かった。
敬愛する人が心の中に居る、
それが尾形自身の支えになっているのだろう。
あき子が言った「尾形先生って、風で傾いても、
根っこでしっかり立ってる樹みたいな感じ」その根っこだ。
尾形は再びコーヒーを啜って、語り続けた。
「5年前、先生が退官なさる年に、
過疎地域の診療所に赴任する若手の医師が見当たらない、
どうするかって事になったんですよ。
そしたら先生、じゃあ俺が行くと。
人に無理強いするのはいかん、俺が行こうと。
千葉に居るお嬢さんとお孫さんが淋しがるからって、
奥様を残しての単身赴任です。
ホント、頭が下がりますよ。」
尾形は ここでまたコーヒーを一口。
緊張の面持ちで聞いている寅次郎の眼に応えるように、先を急ぐ。
強い口調になった。
「でも、もう先生には戻って頂かなきゃいけない。
1週間前に、奥様が脳塞栓症という
脳の血管が詰まる病気になって、
意識障害を起こしたんです。幸い、お嬢さんが一緒だったんで、
異状に気付いてすぐに奥様を入院させて、
大事には至らなかったんですが、
担当医に確かめたら、奥様の状態は
急性期は脱したけど決して楽観できない。
だから先生には、なるべく早く奥様の傍に戻って頂きたいんです。
僕のおふくろも脳塞栓が原因で、小康状態から突然急変して、
生命を落としたんです。僕はおふくろの最期の時に、
傍に居てやれなかった。
先生には、僕と同じ後悔をして欲しくないから、万が一に備えて、
奥様と一緒の生活に早く戻って頂きたいんです。」
尾形の心は決まっている、と寅次郎は思った。
田所先生を奥さんの傍に戻してあげるために、
先生の代わりとなって過疎地域の診療所に赴くのだろう、
都合が付き次第、できるだけ早くに。
尾形はコーヒーをぐっと飲み干した。
寅次郎は、尾形の眼鏡の奥の眼が潤んでいる事に気付いた。
「田所先生には、僕と同じ後悔をして欲しくない」と言った時に、
尾形は胸が詰まったようだった。
亡くなった母親への思いを今も深く抱いているらしい。
死に目に会えなかったとはいえ、
ただそれだけが理由ではないのだろう。
寅次郎は遠慮がちに口を開いた。
「わたくしの間違いだったらごめんなさいよ、
先生が親父様と大喧嘩なさったのは、もしかすると、
お母様の事が理由だったんじゃありませんか? 」
尾形は驚いて言った。
「ええ、その通りですが・・・
どうして分かったんですか、寅さん? 」
「実はわたくしも、餓鬼の頃に親父と大喧嘩して家出したんですが、
なに、わたくしなんぞの喧嘩のわけはくだらねえ事でして、
喧嘩も家出も自業自得ってもんですが、先生のような立派なお人が、
若い頃に親父様と大喧嘩するとしたら、たぶん、お母様のために、
見るに見かねて、どうしても親父が許せねえって、
・・・そんなところじゃないかと。」
尾形はわずかに俯いた。
「確かに、僕は親父がどうしても許せなかった。
親父のおふくろへの仕打ちが、どうしても・・・
でも、寅さん、後になって分かったんですが、
僕の場合も、くだらない喧嘩でした。
・・・僕が今でも本当に許せないのは、本当は親父じゃない、
僕自身なんです。」
そう言って尾形は目を閉じた。
すぐに目を開けたが、そのまま黙ってしまった。
寅次郎も黙った。ただ尾形の沈黙を受け止めてやりたかった。
寅次郎には、尾形が母の事で深く自分を責める理由は分からない。
だが分からなくてもいい、亡き母に詫びている尾形の沈黙を、
寅次郎は いとおしく受け止めていた。
この時、寅次郎は、景子の兄であるだけでなく、尾形の兄でもあった。
尾形が沈黙を破った。
「ああ、コーヒー冷めちゃったですね、淹れ直しましょう。」
尾形は再び台所に立った。その背中を見ながら、寅次郎は、
心に新たな光が射して来たように感じていた。
・・・俺は景子のために、尾形先生が必要だと思っていた。
景子のため、それだけを考えてた。だが、それだけじゃなかったんだ。
今の先生の話で、よーく分かった。
先生のためにも、景子が必要だったんだ。
景子に先生が必要なのと同じくらい、先生にも景子が必要なんだ。
先生のために、景子に優る女房が居るだろうか?
居やしねえ。居るわけがねえ。
景子のためだって、先生以上の男は居ねえ。
先生だからいいんだ。・・・そうよ、
この二人が一緒になれなきゃ、
お天道様も天から落っこちるってもんだ。
・・・先生は、八尾町に行くって言ったな、
八尾町の山奥の診療所か・・・景子も付いて行けばいいんだ、そうだ、
それがいい、そうすりゃいいんだ。景子、きっと行くんだぜ!!
・・・八尾町の祭りは、5月の曳山祭り
それと、9月のおわら風の盆・・・
ああ、おわらのお囃子に、いい文句が有ったな。
「三千世界の 松の木ァ 枯れても
あんたと添わなきゃ 娑婆に出た甲斐がない」
景子と尾形が寄り添って、風の盆のおわら踊りに見入っている。
浴衣も愛らしく景子は、やがて踊りの輪に。
尾形もぎこちなく踊りに加わる。
時折微笑んで見交わす二人。・・・
寅次郎は束の間、夢想に身を任せた。
「さあ寅さん、今度こそ、熱いうちに飲んでくださいね。
結構いい豆なんですよ、これ。」
寅次郎の前にコーヒーカップを置く尾形の声にも、
親しみが増したようである。
尾形は、亡き母への哀惜と自責の思いを抱いて、
人生の半分を生きて来た。
田所夫妻にも景子にも、
誰にも話した事の無い、話さないで来たその思いの一端を
今、寅次郎に打ち明けた。寅次郎から母の事に話を向けられて、
つい、打ち明けてしまったのだ。それは、歩き疲れた旅人が、
ふと行き着いた木陰に誘われたように腰を下ろして、
ほんのひととき休息を得る、そんな事だったのか。
いや、もっと遥かな幸いから招かれて、
尾形の心は寅次郎に向かって自然に開いたのだった。
寅次郎の存在が、ささやかだが確かな憩いを、
尾形に与えていたからである。
勧められて、寅次郎はコーヒーを飲む。
「美味うござんすねえ。コーヒーってもんも、
美味いもんだったんですねえ。」
「美味いですか、良かった。・・・僕は道楽は無いんだけど、
コーヒーだけは、ちょっとこだわってるかな。・・・
おふくろがコーヒー好きだったから、
僕も好きになったんです。あっ、でもこれ、
ホントは内緒なんですよ。だいぶ前に、看護婦さんや女性の患者から
「先生、マザコンでしょ? 」って言われて、ドキッとして、
自分じゃ隠してるのになんでバレちゃってんだろうって、
それ以来、マザコンの症状はなるべく隠してます、ええ。
・・・時々思うんですよ、マザコン男は、
現代の隠れキリシタンみたいなもんだなあって。アハハ。」
「そりゃいいや、ハハハ。」一緒に笑いながら、寅次郎は、
尾形の母の事を聞きたくなった。聞いてみたかった。
訊いてはいけない気もしたが、それでもやはり、聞きたい。
「先生のお母様は、さぞ御立派なおかたでいらしたでしょうねえ。」
尾形は眼鏡を外し、目元を擦ってから、
再び眼鏡を掛けた。そして口を開いた。
「・・・寅さんには言っちゃおうかな・・・、ええ、僕にとっては。
・・・全てを僕のために生きてくれた人でした。僕は母のおかげで、
人の愛というものを信じられるようになったんです。
愛よりも強いものは無いんだと、ええ。・・・他人が聞けば、
てめえの独り善がりじゃねえか、ってなもんでしょうけど。」
尾形は少し間を置いて、
「僕が小学3年生の時、行商のお婆さんが家に来てました。
もう随分背中の曲がったお婆さんでしたが、
全部で1メートルもあろうかってくらいの竹行李を背負って、
毎週日曜の朝、ご飯の済んだ頃に、やって来るんです。
僕は何度見ても驚きましたよ、
あんなに小柄なお婆さんが、あんなに高く積んだ箱を背負って、
よくもまあ歩いて来れたもんだって。」
寅次郎も思わず応じた。
「ああっ、そういうお婆さん、居りましたねえ。
流石に、今は竹行李背負ってる人は少なくて、
リヤカー引いて商いしてるんじゃござんせんかね。
いや、それだって随分見かけなくなりましたが。・・・
あのお婆さんたちは、わたくしなんかより、
ずっと真っ当な商売人でござんすよ、はい。」
「母はお婆さんからいろいろ買ってました。野菜や、花も在ったかな。
僕はその様子を、ただ子供らしい好奇心から見てたんですけど、
何度も見てるうちに、気が付いた事が有って、
ある時、お婆さんが帰ってから母に訊ねたんです。
「お母さん、これ、ちょっと傷んでるよ、もっといいの在ったのに。
こないだも、ちょっと傷んだの買ったよね、
その前は、ちっちゃいのとか、その前も、虫が食ったのとか。
もっといいのが在ったのに。」
すると母は微笑んで、「そう、かずよも分かったの? 良かった。」
って言ったんです。僕は かずよ って名前なんです、
一つの世界 で 一世 です。
僕は驚いて言い返しました。
「良くないよ、いいのを選んで買わなきゃ」って。
そしたら母は僕の眼を見ながら、ゆっくり話してくれました。
「あのお婆さんは、まだ沢山のお野菜を背負って、これから
よそのおうちへ売りに行くでしょ、どのおうちの人も、
一世のように、いいのを選んで買うわよね。そしたら、
ちょっと傷んだのとか、ちっちゃいのとか、虫が食ったのとかは
売れなくて、残っちゃうでしょう?
その時のお婆さんの気持ち、一世はどう思うかしら? 」
「そりゃあ、せっかく遠くから目一杯背負って来たんだもん、
全部売れたら嬉しいし、売れ残ったら残念だよ。」って
僕が答えると、
「そうよね、お母さんもそう思うわ。全部売れたらいいなあって
思うのよ。そしたら、お婆さん、きっと嬉しくて笑顔になるわね。
お母さんはあのお婆さんの笑顔が好きだから、
お母さんのところへ来て良かったって、そう思ってくれたらいいなって、
つい、売れ残りそうなお野菜を買っちゃうのよ。・・・
お婆さんには5人もお孫さんが居て、一番下は8歳なんですって。
ちょうど一世と同じ3年生ね。お野菜が全部売れた日は、
孫のためにお菓子をたくさん買って帰るんだ、
孫の喜ぶ顔を見るのが楽しみだって、
お婆さん、嬉しそうに話してたわ。
今日も全部売れたらいいわねえ。・・・」
僕は二度と、いいのを選んで買わなきゃ なんて言えませんでした。
そして母は、僕にはいいのを出してくれて、
良くないのは自分が食べるんです。
母は そういう人でした。・・・」
尾形はコーヒーを飲んだ。
ゴクリと飲み込む音が聞こえた気がした、それほどに、
寅次郎は尾形を一心に見つめていた。そしてしばらく、
二人はただ黙って向き合っていた。
尾形には、母についてこれ以上語る気配は無い。
大喧嘩した父については、もとより何一つ話す気は無いようだ。
もう訊くまいと、寅次郎は思った。
尾形が胸の奥に畳んでいる父母への思いがどんなに深かろうと、
それがどんなに尾形の重荷になっていようと、
それを景子はきっと、尾形と一緒に分かち合って、
尾形のこの上ない癒しになるだろう。
尾形はきっと景子を、悲しい過去から救い出してくれるだろう。
機は熟した。善は急げだ。何かきっかけさえ出来れば、
二人は必ず結ばれる。
・・・どうすりゃいいんだ?
先生が八尾町の診療所に行っちまう前に、
なんとかしねえと・・・。やっぱりこういう事は、
男からドーンと行かなきゃいけねえ、ああ、そうとも、
先生のほうから、景子との境を越えてもらわなきゃ・・・
こんなふうに思いを巡らせているうちに、
はやる気持ちがそのまま寅次郎の口から出た。
「先生は、景子、いえ、竹中景子さんの事は、
どう思っておいででござんすかねえ?」
寅次郎の胸中をまるで知らない尾形には、唐突な質問だった。
「えっ、景子ちゃん? ・・・
そうですね、うん、いい子ですよ、ええ。」
少し照れている。よしよし、と寅次郎。先生も異存は無いはずだ。
「わたくし、先生と景子さんは、実にお似合いだと思います。
いい夫婦におなりになると。いかがなもんでござんすかねえ? 」
尾形は頭に手をやって、
「いやーっ、いきなりそんなふうに言われても、・・・
参ったな、ハハハ。」
もちろん、まんざらではない。つい、本音を覗かせた。
「でも、この話、景子ちゃんが聞いたら どんな顔するかな、ハハハ。」
寅次郎の笑顔が輝いた。
「それは心配ございません、はい。
景子さんは先生を慕っておりますよ。
ええ、そりゃあもう、慕っておりますとも。」
寅次郎は確信していた。景子が冷酷な運命に耐えて、
看護婦さんになって真面目に優しく生きて来れたのは、
先生のおかげだ。
先生が居なかったら、景子はどうなっていたかわからない。
先生は景子にとって、父であり兄だった。
いや、それ以上の人だったんだ。
忌わしいあの事さえ無かったら、きっと景子は、
自分から先生の胸に身を委ねたに違いない。
俺の胸にすがって泣いたように。・・・
俺は景子の兄だから、俺の胸は景子が辛くて泣いた胸だ、
だが先生の胸は、景子が嬉しくて、幸せで、涙をこぼす胸だ。
そうでなきゃいけねえ。そうならなきゃいけねえ。・・・
もうすぐ、そうなるんだ。
寅次郎の笑顔の輝きに、尾形は不思議な感じがした。
突然もちかけられた景子との結婚話が、
必ず実現する、既に決定している事のように思われたのである。
確かな祝福が待っているような気がしたのであった。
「先生はもうすぐ、八尾町の診療所にいらっしゃるんでしょうが、
その時はきっと、景子さんを一緒に連れて行って下さいよ。
この寅次郎、一生の御願いです。どうか叶えてやって下さい。」
「ええ、実は僕もそうしたいんです、でも、
景子ちゃんが僕のプロポーズを受けてくれるかどうか。・・・
どうかなあ。」
寅次郎は言わずに居られない。
「きっとうまく行きます、大丈夫ですよ。ええ、
間違いありません。自信を持って、胸を張って、
景子、俺と一緒になってくれ、
お前を愛してるんだって、言ってやって下さい。そしたら必ず、
景子と先生は結ばれて、幸せな夫婦になれます。
わたくし、信じております。
先生も、信じて下さい、先生は景子を愛してるんだから。」
尾形を見つめる寅次郎の眼には、弟を励ます兄の、親身な熱意が有る。
「・・・寅さんに言われると、僕も大丈夫だって気がして来ました。
正直言うと、僕も、いつか景子にプロポーズしたいって、
ずっと思ってたんです。
いつか、いつか、って思いながら、出来なくて・・・。
でも、なんだか勇気が湧いて来ました。
寅さんから勇気をもらった気がします、
ええ。・・・景子はきっと一緒に行ってくれると思います。
八尾町の診療所に、景子を必ず連れて行きますよ、僕の妻として。」
言い切った尾形の眼が、眼鏡の奥で精悍に光った。
寅次郎は、あき子の言葉を思い出した。
尾形がイイ男に見えたと言った、あき子の言葉。
女が男に惹かれる時の、男の眼が、今の尾形の眼か。
決断して、それに賭ける男の。
優しさで包むだけではない、力強く女を引き寄せる男らしさで、
尾形は景子を得るのだ。まもなく二人は求め合い、与え合うのだ。
・・・もう、俺の出る幕は有るまい。先生に任せておけばいい。
・・・先生が言ったっけ、助けたら、助けられるって。
だから、景子、癒されたら、癒す人になれるぜ。
愛されたら、愛する人になれるんだぜ。ああ、そうだ、
それが人の幸せってものなんだろう。
景子、きっと幸せになれるぜ、ホントの幸せが待ってるぜ。
先生に付いて田舎の診療所に行きな。
安心して、先生に思いっきり抱き付いたらいいんだ。
俺はさくらの病室で先生に抱き付いて倒しちまったけど、
先生は腕を広げて景子をしっかり抱き止めてくれるぜ。
景子、良かったな、良かったな、景子。・・・
二人への祝福で、寅次郎の胸は溢れていた。
寅次郎は、景子と尾形の結婚の前祝いに、再び尾形と飲みたくなった。
ただもう、無性に飲みたいのだ。
こんなにも心の底から飲みたいと思った事が、
かつて有っただろうか。「先生、今からもう一度飲みましょう。」
「ああ、いいですね。僕も今夜は寅さんのおかげで、最高の気分です。
あっ、ちょっと待って下さいね。外へ飲みに行かなくても・・・」
そう言って、尾形は台所にかがんで、流し台の下の収納庫の中を覗いた。
「酒が有ると思うんだけど・・・ええ、たぶん・・・
あ、有った、ええっと、・・・あ、これか。
こないだ、患者さんの身内だって人が病院に来て、
世話になった御礼だって、受付に無理矢理置いてったんです、これ。
佐藤さん、ほら、寅さんがさくらさんの面会に来た時に、
受付で揉めたでしょう、あの佐藤さんが、
規則だから受け取れないって言ったら、怖い顔で凄まれて、
思わず受け取っちゃったって、どうもその筋の人らしいって。
先生にって言われたんだから、先生何とかして下さいって、
佐藤さん、僕に押し付けるように渡して・・・で、僕も困っちゃって。
その人に返そうにも、どこの誰かも判らないんですから。
そんなわけで、仕方なく、ここへ仕舞っといた、
いわく付きのウィスキーなんですわ、これ。・・・
値段は高そうだけど・・・じゃあ、僕ちょっと飲んでみます。
美味かったら、これ、やりましょう。」
尾形はウィスキーの封を切って、小さなグラスに注ぐ。
口をつけて、少し含んだ。「・・・あ、いけるわ、これ。・・・
あ、美味いわ、うん。寅さんもどうぞ、さあ、どうぞ。」
別のグラスに注いで、寅次郎に渡す。
「ホントだ。美味うござんすね、これ。」
「ああ良かった、こんな美味いのが有った。
たまにはもらっとくもんですね、ハハ。
さあ、どんどんやって下さい、寅さん。アハハ。」
二人は、楽しくてならない。それ飲め、やれ飲めで、
たちまち瓶の底近くまで空けてしまった。
昼間の疲れも手伝って、さっそく睡魔の御登場となる。
「先生、今夜はホントに嬉しかったぜ。俺、もう帰って寝るわ、
ああ、良かった良かった。」起ち上がろうとする寅次郎の肩に、
尾形は手を掛けて、「いや寅さん、今夜はここに泊まって下さい、
今、布団敷きますから。」
「そうかい、じゃそうさせてもらうわ、うん。」
あくびが出て、瞼が重い寅次郎。ゴロンと横になってしまった。
尾形もすっかり酔いが回って、押入れから布団を出す腰がよろける。
「あっ、布団が1組しか無いや。・・・
ま、いいか、掛け布団も敷いて、
毛布と夏の肌布団と、有るもん全部上から掛けりゃ、
風邪も引かないだろ、ハハ。アーア」
尾形もあくび。布団を二人ぶん、くっ付けて敷いて、
寅次郎を先に寝かせてから、尾形も寝入った。
夜が明けて来て、下の部屋のお姐さんが御帰還。
この時、寅次郎と尾形は白河夜船。
さぞかし良い夢を見ているのだろう、
並んで寝ている二人の表情はすっかり緩んで、幸せそうである。
寅次郎の右腕と尾形の左腕は、掛け毛布の上に出ていて、
何故か互いの手を握り合っている。
二人とも、夢の中で、景子の手を握っているらしい。
景子への思いの質は違うのだが、思いの強さは同じなのか、
互いにしっかりと握り合っている。おめでたい二人である。
人は本当のめでたさに泣き、おめでたさに笑う。
人生は、天とも地ともなって、
どこまでも人を包んでくれているのだと思える、
そんな晴れやかな朝が来た。「うん? 」先に目覚めた尾形が、
寅次郎と握り合っている手を解いて、時計を見る。いつもの時刻だ。
ウィスキーが良質だったおかげか、二日酔いも殆ど無い。
さっそく身支度をして、いつもの朝と同様に、
いつもと違ってひっそりと、出勤する。
座卓に部屋のスペア・キーと置き手紙を残して。
「寅さん、昨夜はありがとうございました。ごゆっくりどうぞ。
必要な物は、何でも遠慮なく使って下さいね。
カギは植木鉢の下に置いて行って下さい。
気が向いたら、またいつでも寄って下さいね。」
出掛けに振り返って、寅次郎の寝顔を見る。
寅次郎は まだ、良い夢を見ているらしかった。
「景子ちゃん、今夜一緒に食事しよう。」
尾形は昼休みに景子と二人だけになると、
景子をホテルのレストランに誘った。
そこは景子が看護婦になった最初の日に、
尾形がお祝いにディナーを御馳走した、思い出の店だった。
もう随分前の事だが、尾形には、そして景子にも、
忘れられない事だった。
「憶えてるかな、味も雰囲気も いいお店だったよね。
食べながら少し話したい事が有るんだ。今夜7時、いいね? 」
ふだんと違う尾形の強引さ、揺るぎ無く求めて来る意志を感じて、
景子は何か新しい出来事が待っている予感がした。
何も考えず、承諾した。
そして後日、景子は懐かしく思い出す事になったのである。
この時の尾形が、「看護婦になりなさい」と
景子に命令した時の尾形と 同じだった、と。
素直に頷かせる魅力が有ったと。
寅次郎が目覚めた時、既に日は高かった。置き手紙を見て、
昨夜の尾形との触れ合いにあらためて感謝しながら、部屋を出た。
そして向かった先は、さくらのアパートである。
ドアをノックして「ごめんよ。」ドアが開いた。
「お兄ちゃん!! 」さくらの驚き。そして嬉しさ。
「へへっ、俺の勘が当たったな。
お前が今とらやじゃなくて、ここに居る気がしたんだ。」
さくらは退院してから、とらやに居る時間を
以前より減らしていたのだ。
寅次郎が笑顔を見せると、さくらは思わず涙ぐんだ。
「おいおい、そんな湿っぽい顔すんなよ、
兄ちゃん この通り、元気でお帰りだ、
可愛いい妹に会いに来たんじゃねえか。笑って見せろよ、ええ? 」
さくらは涙を拭って、
「もう、お兄ちゃんったら。とにかく入って。座ってちょうだい。」
居間で胡座になるとすぐ、寅次郎は妹の身を案じた。
「身体のほうはどうだい? 」
「身体はね、思ってた程きつくないの。大丈夫。」
「そうかい、そりゃ何よりだ。尾形先生のおかげだな。良かったぜ。」
さっそくお茶を淹れるさくら。美味そうに啜る寅次郎。
「お兄ちゃん、お腹はいいの? 朝ご飯食べた? 」
「なんだ、また俺の心配か、ガキじゃねえんだぞ。
俺に気ぃ遣わねえで、自分の身体を労わりな。
お前はお前一人の身体じゃねえ、満男と博が居るんだからな。」
さくらの表情がいっそう和らいだ。
「最近、博さんも満男も、とっても優しくしてくれるのよ、
何だか気持ち悪いくらい。」
「へえー、理由はともかく、結構なこった。
たまには優しくされねえとな。
なんたって、女だからな、うん。」
「そうよ。だからあたし、冗談で、
こんなに優しくしてもらえるんだったら、
もっと早くに病気になっておくんだったわ。
これからも時々なろうかなあ って言ったのね、
そしたら、満男ったら、可笑しいのよ、ウフフ。」
「なんだなんだ、何て言いやがったんだ? ええ? 」
寅次郎の笑顔も弾ける。
「満男ったら、
『そんなの困るよ、お母さんが入院してたあいだ、
お父さん機嫌悪くて、満男、ここに座りなさい、って
すぐお説教するんだもん、ボクもうコリゴリだよ。
お母さん、もう病気しないでね』ですって。」
「ハハハ、そうか、博の説教か、無理ねえな、
この寅伯父さんだって逃げ出すわな、ワハハハハ。」
「フフフ」
二人でひとしきり笑ってから、寅次郎は腰を上げた。
ややしんみりした口調で言った。
「満男と風呂に入りたかったが、また今度だ。博によろしくな。
お前、身体 大事にしろよ。じゃあな。」
「もう行っちゃうの? お兄ちゃん、ちょっと待って!! 」
寅次郎が振り返ると、さくらは
壁に掛けてある状差しから1枚の葉書きを抜き取って、
寅次郎に差し出した。
「なんだ、これ? 」それは景子からの葉書きだった。
退院後しばらくして、さくらは景子に御礼の葉書きを出した。
心のこもった看護へのお礼の気持ちをしたためて。
やがて景子から返礼の葉書きが来たのであった。
宛て名は「諏訪 博様 さくら様 満男君」そして「車 寅次郎様」
隅には景子のアパートの住所が記されている。
さくらは景子の住所を知らなかったので病院宛に出したのだが、
その返礼に景子は、彼女の住所を、
そして宛て名に寅次郎の名を加えたのだった。
その事にさくらは、寅次郎への景子の気持ちを感じ取っていた。
この葉書きを、お兄ちゃんに見せたい。ぜひ、見せてあげたい。
それを今、手渡す事が出来たのだ。
「あたしたち、もう読んだの。だから、お兄ちゃんが持ってて。ね。」
「そうか、俺の名前も書いてあるな・・・じゃあ、預かっとくか。」
寅次郎は、葉書きを上着の内ポケットに仕舞った。
無造作な手付きだったが、それとは裏腹な兄の気持ちが、
さくらには見えた。
アパートを出て、別れ際に、もう一度、さくらは声を掛けた。
「お兄ちゃん」
「何だ? 」
「あれから、竹中さんと・・・会ったの? 」
「・・・なんでそんな事 訊くんだ? 」
さくらは思い切って言った。
「あたし、お兄ちゃんが
竹中さんに恋してるって 思ってたの。だから・・・」
「ハハ、そうか。・・・そうだな、
竹中景子さんは、いい子だからな。
誰だって好きになるさ。・・・でも、
とっくにお相手は決まってたってよ。
もうじき、めでたい事があるらしいぜ、
良かったじゃねえか、さくら。
ハハハ、ワハハハハ。・・・じゃあな、あばよ。」
さくらは寅次郎の後ろ姿をじっと見送っていた。
小さく溜め息をついた。
さくらと別れて、寅次郎は神田明神へ向かった。
途中、とらやに顔を出していこうかと思ったが、思い直した。
また今度だ、と。まっすぐ着いた神田明神で
テキヤ仲間の売の助っ人をして、
その晩は仲間達と軽く飲んだ。
そして、寄るところが有るからと、寅次郎は早々に辞する。
勘のいい奴に、「コレに会いに行くのか? 」と
右手の小指を立てて見せられて、
「まあ、そんなとこだ。俺のようなイイ男は、
女が放っといてくれねえからな。色男は辛いぜ、ワハハハハ。」と、
笑い合って、皆と別れた。それから寅次郎は、
さくらが渡してくれた景子の葉書きに記されたアパートの住所へと、
夜道を急いだ。
一目だけ、景子に会って、景子に顔を見せて、
それから夜汽車に乗るつもりだった。
南へ向かう売の旅に出るのだ。
アパートに着いて、腕時計を見る。9時少し前。
2階の一番奥の部屋。明かりが点いて無い。
ドアのチャイムを押したが、反応が無い。
・・・まだ帰っていないのか。病院で夜勤かもしれないな。
・・・会えずに行くしかないが、これもお天道様の巡り合わせだ・・・
寅次郎には知る由も無かったが、この時、
景子は尾形とホテルのレストランで食事をしていたのだ。
確かに、これはお天道様の巡り合わせだったのである。
寅次郎が廊下を戻って階段の手前まで来た時、
黒い背広の男が階段を昇って来て、寅次郎の横を通り過ぎた。
その時、寅次郎は何故か激しい胸騒ぎがして、立ち止まった。
男の後ろ姿を眼で追った。
男は廊下の奥まで進むと、景子の部屋のチャイムを押した。
何度か押してから、舌打ちをして、戻って来た。
そして寅次郎と眼が合うと、一瞬だが険しく睨んだ。
そして階段を降りて行った。
寅次郎は呪縛を受けたかのように立ちすくんでいたが、
急いで階段を降りて、男の後を追った。
男は表通りに出て、タクシーを拾った。
寅次郎もすぐさま手を挙げて、後続のタクシーに乗り込む。
「前を走ってるタクシーをつけてくれ。早く出せ! 」
寅次郎の血相が変わっている。
さっきの胸騒ぎは治まるどころか、
驚しい戦慄となって寅次郎を震撼させたのだった。
・・・あの男は堅気じゃねえ。
それどころか、俺が今まで見て来た中でも、
滅多に居ねえワルだ。ぞっとさせられた、あの眼・・・
あんな奴が、どうして景子の部屋に来たんだ?
どんな関係が有るってんだ?
景子に何をする気だ? 何をしようっていうんだ?!
・・・寅次郎の胸は、激しく揺らされていた。
黒い背広の男が乗ったタクシーは、場末の盛り場で止まった。
男は、煤けた雑居ビルの地下への階段を降りて行った。
そして「鬼頭商事」と書かれた一室に入った。
追って来た寅次郎は、そのドアの前で立ち止まって、
男の正体を思案した。
・・・どうやら、闇金といわれる無法な高利貸しのようだが、
所業はそれだけではあるまい。恐喝 ゆすり 口入れ、
金になる悪事なら何にでも手を染めているだろう。
おおかた、暴力団の傘下で。
・・・大きな呼吸を一つして、
寅次郎はドアを開け、敢然と踏み込んだ。
空気のどんよりと澱んだ、殺風景な部屋。
壁を背にして大きな机が一つ、
左に薄汚れたソファー、右に保管庫と収納庫。
いつでも引き払える、胡乱な貸事務所である。
机に向かって書類に目を落としていた鬼頭が、
椅子からゆっくり立ち上がって、
寅次郎を見据えた。訝り、威圧する眼で。
二人は今、数歩の隔たりを置いて、互いに睨んでいた。
鬼頭は 寅次郎より若く、背は高い。細身 細面で色は白く、
役者崩れのような優男だが、こういう男がならず者の場合は、
冷血である事を寅次郎は知っていた。
女を食いものにして逃がさず、破滅させる男。
鬼頭は、少し顎を反らして、低い声で言った。「お前 何だ? 」
寅次郎は、胸に渦巻いていた感情を投げ付けた。
「それはこっちのセリフだ、てめえこそ、景子の何だ?
何しに景子のアパートへ行った? 」
「ああ、お前、さっきアパートで見た奴だな。
俺をつけて来やがったのか。一体何の用だ? 」
「こっちの言う事に答えろ!! てめえ、景子の何だ?! 」
「そんなに知りたいか? よし、教えてやる。俺は景子の、父親だ。」
「・・・てめえか・・・てめえが、景子の・・・」
寅次郎は、うわ言のように呟いた。こんな男が、
義理とはいえ景子の父親であったとは・・・
寅次郎は景子が不憫で堪らなかった。
身を切られるように心が痛んだ。
もう二度と、この男を景子に近付かせない、指一本も触れさせない、
その決意だけがこの時、寅次郎の生命の火となって燃え盛った。
「で、お前は景子の何だ? 」
鬼頭は落ち着き払っている。
蛇が獲物を見るように、寅次郎を見ている。
「俺は景子の兄だ。」
「何だと? 景子には兄弟なんぞ居ねえ。
千代子から聞いてねえ。第一、お前、兄って歳じゃねえだろ。
ふざけた事を言いやがると、ただじゃ済まねえぞ。」
脅してはいるが、鬼頭の口調は変わらない。
冷徹である。かえって恐ろしい。
恐怖を撥ね返して、寅次郎は答えた。
「話して聞かせたって、てめえなんかに分かる事じゃねえ!
俺と景子は、生まれる前から兄と妹だ! 」
鬼頭は、侮る目付きになった。
・・・こいつ、頭がおかしいのか? とんだ馬鹿が来やがった・・・
寅次郎は鬼頭を強く睨みつけた。
「てめえ、景子をどうする気だ?! 言え!! 」
寅次郎の真剣さが、鬼頭には滑稽に見えた。
・・・こんな馬鹿は、そうは居ない。よっぽど景子にイカレたか?
相手をしてやるのも面白い。
何より、金になるかもしれないからな。・・・
「さっき言っただろ、俺は景子の父親だ。
景子にはこれからせいぜい親孝行してもらうって事だ。
看護婦ってのは、いい給料取るっていうからな。」ニヤリと笑った。
その薄笑みに、寅次郎は一瞬 背筋が凍った。
・・・景子に死ぬまで付きまとう気だな・・・
「許さねえ。俺が許さねえ。」
寅次郎の全身の血が たぎった。
「許さねえ か。じゃ、どうする?
・・・見たところ、お前も堅気でも無いようだ、
どうだ、サイコロの勝負で片を付けるか。」
鬼頭の眼が笑っている。
他者を苦しめ、苛む事を快楽とする者の 冷酷な笑み。
「お前が勝てば、お前の望みどおりにしてやる。言え、何だ? 」
「景子から手を引け。二度と景子に近付くな。」
「よし。じゃ、俺が勝ったら・・・三千万 持って来い。」
寅次郎は たじろいだ。「金は無え。俺には金は出来ねえ。」
「なんだと? ・・・それなら話は終わりだ。とっとと消えろ。」
鬼頭は椅子に座って、再び書類を手にした。
もはや寅次郎など眼中に無い。金にならない奴に用は無い。
この時、寅次郎が叫んだ。
「俺が負けたら、俺の生命をくれてやる、勝負しろ!! 」
こうする他は無かった。鬼頭からもちかけて来たサイコロの勝負は、
たとえ寅次郎が負けても景子は助かるのだ。これが出来ないと、
あとは鬼頭を殺すしかない。だが俺が殺人犯となったら、
さくらがどんなに苦しむか、そして景子の、目の前に来ている幸せを、
罪の報酬にしてしまうのだ。絶対にダメだ。
俺の生命を賭けるしかない。
鬼頭は書類から目を上げて、寅次郎を見た。
椅子に座ったまま、言った。
「生命を張るか・・・いいだろう。サイコロの勝負だ。
お前が先に張れ。丁、半、どっちだ? 」
「丁だ。」
寅次郎は景子と尾形 二人の幸せをかけて偶数 丁に賭けた。
「戸棚の右の扉を開けろ。」
寅次郎が収納庫の扉を開くと、下段の隅にサイコロが2つあった。
鬼頭は電話機を端に寄せ、書類を片付けて、机の上を空けた。
「ここで振れ。お前が振るんだ。お前の生命を賭けてな。」と命じて、
寅次郎の顔を見た。挑むような、引き込むような眼で。
寅次郎はサイコロを握り、鬼頭の机のすぐ前に立って、念を押した。
「てめえも男なら約束は守れ!
てめえが勝っても、俺を殺して、それで景子から手を引くと! 」
「わかった。さあ、振れ。」
寅次郎は、丸めた掌のサイコロをじっと見つめた。
そして、その重苦しい時間を破るように、机の上で、
寅次郎の右の手首が翻った。
次ぎの瞬間、息を呑んだ。サイコロの目は、2と5。「半」である。
寅次郎は賭けに負けた。
鬼頭は、椅子から立ち上がり、保管庫の前に行き、
扉を開けて、金属バットを取り出した。そして寅次郎に言った。
「そこに座りな。」
目には無気味な笑みが有るが、顔色を変えるでもない。
ただ、手慣れた作業に取りかかる、そんな様子である。
寅次郎は、冷たい床に正座した。既に覚悟は決めてあった。
目を閉じた。そして、さくらの事を思った。
・・・さくら、すまねえ。兄ちゃん、こうするしか無かったんだ。
かんべんしてくれよな・・・景子、尾形先生、きっと幸せになれよ
・・・幸せになるんだぜ・・・
この時、寅次郎の手は、自然に胸の前で合わさった。
その姿は、鬼頭の気に食わないものだった。鬼頭の眼が血走った。
すぐさま、寅次郎の合掌する手に、金属バットを振り下ろした。
寅次郎の手は弾かれ、それきり合掌は出来なかった。
それから鬼頭は、ゆっくりと、2度、3度と、
寅次郎の腹に金属バットを叩き付けた。
焼けるように痛む腹を抱えて、寅次郎の上体が前に折れると、
今度は背中を強烈に打ち据えた。電気ショックを受けたように、
寅次郎の上体は跳ね、反り返った。
「おい、堪えたか? だが死ぬにはまだ早いぜ。
もっと苦しまなきゃ、死ねねえぞ。
・・・死にたくなかったら、
この勝負 無かった事にしてやってもいいんだぜ?
おい、どうだ? 何とか言ってみな? ハハハ! ハハハハハ!! 」
これまで眼だけが笑っていた鬼頭が、初めて声に出して笑った。
勝ち誇ったように笑った。
だが、苦しい息の下から絞り出した寅次郎の返答は、
鬼頭には意外なものだった。
「・・・俺の生命は くれてやる・・・景子から、手を引け 」
それを聞いて、鬼頭は俄かに気色ばんで寅次郎の肩を蹴った。
仰向けに倒れた寅次郎の首の付け根を足で踏み付けながら、
金属バットの先で、みぞおちを鋭く突いた。
「うっ」と低く呻いて、寅次郎は気を失った。
寅次郎が生命を張ると言ったので勝負に応じたが、
鬼頭は実は、殺す気は無かった。
金にならない殺しをして、死体の始末に手間を食うなど、
ただの貧乏くじである。
勝負の目的は、別に有った。もとよりサイコロは、いかさまである。
「半」の目しか出ない仕掛けがしてあるサイコロ。それとは別に、
「丁」の目しか出ないサイコロが、保管庫に入れてあった。
寅次郎に先に張らせて、
逆の目が出るサイコロを寅次郎自身に取り出させ、
寅次郎にサイコロを振らせる。
そして、賭けに負けた落胆と死の恐怖で苦しめて、
半殺しに痛めつけ、いよいよというところで命乞いをさせる。
惨めな敗北で身も心もボロボロにしてやって、叩き出すのだ。
こうした筋書きで、突然飛び込んで来た唐変木をいたぶり、
余興とするつもりだったのである。
そして明日からさっそく景子を脅し、
金を搾れるだけ搾り取って、いずれ風俗へ景子を売り払う。
そうするはずだったのだが、事件が起きた。
寅次郎が命乞いをせず、命をかけて景子を守ろうとしたのだった。
すると、不意に、鬼頭の腹の底から殺意が突き上がって来た。
寅次郎を、殺さなければならないと思った。これまで鬼頭は、
容赦無く他者を貪る事に明け暮れて来たが、
殺そうとまでは思わなかった。
だが、今は、寅次郎を殺さずには済まない何かが湧き上がって、
鬼頭は強いられていたのである。そして不思議な事には、同時に、
殺してはならないとも感じているのだった。
鬼頭は途惑った。自分に何が起きているのか、分からなかった。
何故、どうでもいい者であるはずのこの男を、
殺さねばならないと思うのか、
そして、殺してはならないとも感じているのか。
寅次郎を見下ろして立ったまま、鬼頭はしばらく何もしなかった。
この時、鬼頭は初めて、裁かれていた。
過去に、恐喝と暴行傷害の罪で、鬼頭は服役した。
その際の、警察でも裁判所でも刑務所でも、感じなかった、裁き。
鬼頭に彼の行為を明示し、その責任を問い、罪を裁く立場の人も、
罪を償わせる立場の人も、
鬼頭に何らの裁きも感じさせる事が出来なかった。
その人達は皆、彼らの権力を行使する対象物として鬼頭を処理した。
その人達を、鬼頭は拒んだ。
鬼頭の内に巣食う憎悪が、人生への憎悪が、
反発と冷笑によって拒否したのだった。
裁きを拒んで憎悪は、
いっそう頑なに自身を強め、自身を堅くして守ったのである。
だが、今、寅次郎の存在そのものが、鬼頭を裁いた。
憎悪は、逆らう事の出来ない何かに、出会ったのである。
受け容れる事を迫るその何かは、
それ自身を、憎悪に捧げようとしているのだ。
その何かは、今、鬼頭の目の前に在る。
景子のために本当に生命を差し出した、寅次郎という愚かな男。
気を失って倒れている、無力な者。
既に寅次郎が受け容れた裁き、寅次郎を担った裁きが、
今、鬼頭をも担おうとしているのだった。
それは人の権力による裁きではない。
人には為し得無い、恩恵による裁きである。
人を担い、限り無い受容となる裁きである。
最善の者も、最悪の者も、どうしても人が受けねばならない、裁き。
それは救うための、救いの、厳かな仮面である。
鬼頭は わけが分からぬまま、ふと、この場から逃げたいと思った。
・・・なんだ、俺はこの男から逃げたいのか? ・・・馬鹿な!
では何だ、何故 殺すのか 何故 殺してはいけないのか・・・
この男に何が有るというのか・・・何の力も無いこの男に・・・畜生!
やがて鬼頭は屈んで、寅次郎の顔を平手で殴った。
まもなく寅次郎は意識を回復して、上体を起こした。
「ううっ」腹と背中に重い痛みが走って歪んだその顔に、
鬼頭は立ちはだかったまま 言った。「もういい、消えろ」
寅次郎は驚いた。気力を振り絞って、なじった。
「てめえ、気が変わったか?! まだ景子に付きまとう気か?! 」
鬼頭は冷淡な表情を変えずに答えた。
「景子とは、すっぱり切れてやる。・・・消えろ。」
寅次郎は痛みに耐えて立ち上がり、
鬼頭の眼を食い入るように見つめた。
鬼頭は眼を逸らさなかった。
寅次郎は「本当だな! 今の言葉、忘れるなよ!! 」と言い渡して、
荒い息をつき、よろけながら事務所を出た。
寅次郎が出て行くと、鬼頭はソファーに腰を下ろして煙草を吸った。
吸い終わると、いつもの酒場へ行った。
いくら飲んでも、酔えなかった。
脳裡に寅次郎の顔が浮かんで、振り払っても消えなかった。
・・・あの野郎、・・・景子のためだと? だが色でも欲でもねえ、
女に嵌まったぐらいであんなに腹が据わるもんじゃねえ。
・・・じゃあ何だ? 何が在るっていうんだ?
わざわざ自分の生命を賭けてもいいってもんが、
そんなもんが何処に在る?
・・・ええい、畜生! ・・・
昨日までとは、何かが違ってしまった。
何かが、鬼頭を捉えてしまっていた。
寅次郎の、愛して倒れた者の、愚かさと弱さは、
運命をも自由をも超えて、寅次郎と共に在った。
寅次郎と共に、力一杯生きていた。
鬼頭が信じて来た暴力と嘘の支配に、優っていたのであった。
本当の、生命であった。
鬼頭は、いくら否定しようとしても、
自分が惨めに思えて、逃げ場が無かった。
翌日、景子のアパートへは 行かなかった。
寅次郎が鬼頭と苦闘していた時、景子と尾形は楽しく語らっていた。
そして、尾形は、山間の診療所へ赴く事を告げ、
景子も一緒に行ってくれるようにと頼んだ。
「2,3日 考えてからでいいんだ。いい返事を待ってるよ。」
景子は、すぐに答えた。
「ううん、いいの、考えても同じだから。・・・
あたし、行きます。一緒に行かせて下さい。」
自分でも不思議なくらい、景子は迷わなかった。尾形からの求めが、
まるで自分自身の願いであるかのように、応える事に喜びを感じた。
尾形は嬉しそうな笑顔になって、声を弾ませた。
「ありがとう。じゃあ、診療所へ行く前に、こっちで指輪を買おう。
景子の好きなお店でね。なにしろ向こうには、
山の緑や渓流の澄んだ水は在るけど、
指輪のお店は無いだろうからな、ハハハ。」
「えっ、指輪? 」
「そうだよ、指輪だ。世界にはたくさんの指輪が在るけど、
たった1組の、僕と景子のための指輪だ。・・・
僕と、結婚してくれるね? 」
尾形は景子を見つめている。
「先生・・・」景子は何も言えなかった。
尾形の手が景子の手を取り、包むように握った。
景子は顔を傾けて、握り合った二人の手に頬を寄せた。
景子の涙が尾形の手を濡らした。
その夜、景子は初めて尾形に抱かれた。景子は抱かれながら、
過去の自分から解き放たれて行く自分自身を感じて、
深い喜びに包まれた。
人生そのものが、信頼できるものなのだと感じられたのである。
「お前なんか産まなければ良かった」と母から言われていた景子が、
生まれて来て良かったのだ、いや、お前こそは、
生まれねばならぬ者だったのだよと言われたように、
感じられたのである。
その喜びは、景子自身と世界そのものを、新たにしてくれたのだった。
この時、景子は新しい生命を宿した。
時満ちて誕生するその子は、この時に新たな者となった景子自身の、
新しさの象徴となって景子の許へ来るであろう。
景子が受けた愛の恩恵の、尽きぬしるしとなるのである。
人は、全世界が受けている愛を、
ただ自分一人に向けられたもののように、受ける。
愛を受ける事は、愛の源泉に浴する事だからである。
愛の限り無さの 超越的な働きによって、
ただ一つの愛が、一度だけで、永遠である。
ひっそりと寝静まった柴又の、帝釈天題経寺。
境内の片隅に、寺男の源吉のねぐらが在る。
その小部屋の戸を叩く音がして、
源吉は布団から出た。
明かりを点けて「誰や、こんな時間に・・・アーア」と
欠伸をしながら戸を開けると、寅次郎が倒れ込んだ。
「兄貴っ、どないしたんや?! 」寅次郎の身体を抱いて支えながら、
源吉は更に驚いた。「えらい熱や。」
そのまま寅次郎を自分の寝床に寝かせて、介抱した。
手拭いを濡らして額を冷やしてやると、寅次郎が口を開いた。
「すまねえな。厄介掛けるが、頼むぜ。
訳が有って、医者にはかかれねえ。」
寅次郎の一大事である。源吉は、この時とばかりに胸を張って、
「まかしとき。良うなるまで、ここで養生しとってや。」
余計な事は訊くまいと思ったが、一つだけ確かめた。
「さくらさんにだけは知らせまひょか? 」
寅次郎は源吉に顔を向けて、
「ダメだ、さくらにも言うな、言うなよ! 」
「へえ。ほな、兄貴、休んでや。
わい、朝になったら、おかゆさん炊くさかいに。」
寅次郎は眠りに落ちた。翌日、源吉が早起きして炊いたおかゆは、
あいにく寅次郎の腹には納まらなかった。
高熱のせいだけでなく、酷く打たれた胃が、
おかゆも受け付けなかったのである。
一匙のおかゆをやっとの事で飲み込んでも、すぐに吐いてしまう。
数日は その繰り返しだった。
それでも、源吉の甲斐甲斐しい看護のおかげで、
寅次郎は薄紙を剥がすように回復していった。そして一ヶ月後、
ようやく元気になった寅次郎は、源吉との別れを惜しんだ。
「すっかり世話になっちまったな。こんなもんじゃ全然足りねえが、
まあ気持ちだ、取っとけ。」財布の中に有るだけの金を取り出して、
源吉の手に握らせた。「兄貴・・・また、顔見せてや。」
「ありがとうよ。じゃ、元気でな。遊んでて、鐘撞くの忘れんなよ。」
寅次郎は、駅に向かって歩き出す。しばらくぶりの旅立ちに、
もうじき師走の、今日の風は冷たい。ふと、立ち止まる。
・・・汽車賃までやっちまった。・・・
しょうがねえ、さくらに借りるか・・・
寅次郎は、さくらのアパートへ向かった。
アパートの玄関先で、
寅次郎は、さくらの顔を見るなり、嬉しくなった。
「おおっ、こないだより、顔色がいいな。
ちょっとだけ太ったか? ハハハ。」
「そうかしら。さっ、入って」と促がすさくらに、
「いや、ゆっくりは出来ねえ。これから売に行くところよ。
・・・それで、悪いけどな、・・・」
その後の言葉を、さくらは察した。
「ちょっと待ってて。」部屋に行き、すぐ戻ると、
寅次郎の上着のポケットに、折り畳んだ一万円札を手早く入れた。
そして、おどけたように言った。
「また誰かに奢っちゃったんでしょ、しょうがないわねえ。」
「・・・すまねえな。借りとくぜ。」出て行こうとする寅次郎に、
さくらが再び言った。「ちょっと待って。」再び部屋へ行き、戻ると、
今度は葉書きを差し出した。景子からの葉書き。
さくらは黙って、しかし何か言いたげな眼で、寅次郎を見た。
その眼に、寅次郎は笑顔で返した。
「へへっ、こないだ俺が言った通りになったんだろ?
めでたい事があるらしいぜって。
この葉書きには、そう書いてあるんだろ? ええ、さくら。」
そして、しみじみと呟いた。
「良かったじゃねえか。」
寅次郎は、葉書きを大事そうに、上着の内ポケットに仕舞った。
アパートの前の道に出ると、さくらが言った。
「今度 いつ帰るの? 」
「・・・俺にも分からねえな。お天道様の巡り合わせよ。」
さくらの思いが溢れた。
「お兄ちゃん、辛い時は、いつでも帰って来てね。
だってここは、お兄ちゃんの、たった一つのふるさとでしょ。」
「・・・故郷か。故郷ってのはな・・・本当に帰りたい所よ。
離れなきゃいけねえ、でも、やっぱり帰りてえ、
妙なもんだぜ。・・・
お前、身体大事にして、いつまでも元気で居ろよ。
お前が居てくれねえと、
兄ちゃん、帰りたい所なんか、
どこにも無くなっちまうからよ。・・・
じゃあな、あばよ。ワハハハハハ。」
寅次郎の眼は、妹への愛おしさを湛えて、どこまでも優しかった。
さくらは、遠ざかって行く兄の背中を、じっと見送っていた。( 完 )
後記
「 寅次郎 心の故郷 」を完結させる事が出来ました。
ありがたいことです。
私が書いた寅次郎は、皆さんの心の中に有る「寅さん」とは、
かなり異質なものであったかもしれませんが、
それでも、読者さんの心の中に
その片隅に居させて頂けたら、私にとってこの上ない喜びです。
以前、私は、
「私にとって寅さんの映画は、現実との境目の無いおとぎばなし」
だと、表現した事が有ります。
そして、その評価は今も、私にとっては不変です。
私にとっての寅さんを「 寅次郎 心の故郷 」で表現し終えた今、
私が書けたのは、やっぱり一つのおとぎばなしだったのだなあと、
自分でも苦笑しています。
これが独り善がりの事に過ぎなかったのか否か、
それは読者さんの心が評価して下さると思います。
おとぎばなしによって、人は、
人生が既に ある贈り物を受けているのだと 告知されます。
人の内部に、人が生まれるに先立って受けていたかのような、
不思議な贈り物です。
それを受けていたのに、失い、
そして再び、新たに受ける事になる贈り物。
その不思議な贈り物を象徴する事が出来たら、
おとぎばなしは生命を持ちます。
もしも、私から出て来たおとぎばなしが 生命を持つものであるなら、
それこそ私が受けた贈り物の働きに他なりません。その贈り物は、
全ての人に贈られています。なんと幸いな事でしょうか。拝。