
突破、慶応3年冬
あらすじ
幕末、武力倒幕へ突き進む薩長に対し、有田焼や石炭等で得た豊富な資金と「アームストロング砲」など国内最強の軍事力を持つ佐賀藩は沈黙を保っていた。 慶応3年末。江藤新平や大隈重信ら英傑が京へ潜入し、岩倉具視らと接触。薩長敗北時には天皇を九州へ逃がす極秘策まで練り、新政府の青写真を描く。一方、若侍の前田省吾や忍びの松尾伝五郎らも各地で暗躍する。 やがて新政府が誕生し、上野や東北の戦いでついに佐賀の最新兵器が火を吹く。軍神・大村益次郎をも驚愕させた、歴史の裏側で近代日本を切り拓いた佐賀藩の知られざる闘いを描く歴史エンターテインメント。
1.慶応3年、師走
ここは、幕末佐賀藩、長崎街道を西へ行った谷間に佇む有田郷。 高価な磁器で国内はもとより、幅広く世界にも知られている。
その有田の幸平地区にある産物方の皿山代官屋敷。
屋敷に面した道は裏街道と呼ばれ、その裏街道沿いの内山と呼ばれるあたりには問屋や蔵が立ち並び、人の行き交いも絶えない。
両側の小高い丘から見れば、谷間の間に隠れるように家々が並び、その家々からは何本もの煙突が突き出し、煙を吐いている。
慶応3年、今年も暮れようとしているのに、人通りも多く、この一帯は妙に活気に満ちている。 その皿山代官屋敷に面した道に、大八車数台と荷駄十数頭、そしてその廻りに人足20名程の男女が群れ、冗談らしい声が飛び交っている。
代官屋敷には通常、このように荷車などが集まってくることはないが、今、このあたりでは、どこの荷積問屋にも、荷が溢れて荷物の内容を帳面に記載する作業が、間に合わない状況になっている。 ここに並んでいる荷車の一隊も、最初は、いきつけの問屋に行ったのだが、
「悪いが、今日は一杯でさ、記帳は明日までかかるよ!もし、良ければ、どこか、よそで帳面を作ってもらえんかねえ・・、いっぺん、他で当たってみてくれんね・・、その手形ば持っていけば、帳面の記帳はしてくれる筈たい。・・とにかく、代官所の人と相談してみてくれんかねえ、確か、2、3年前は、うちの小番頭が帳面ば作ってもらった記憶があるし・・、今でも、やってくれるとおもうばってん・・」
「そういわれても、我々は、おたくに持っていってくれって、言われてきたんで・・」
「ばってん、これば見て・・、もう、どうしようもなかとさ、頼む」
蔵の廻りは、荷車と梱包した箱などで、あふれかえり、本当に足の踏み場もないほどだ。棚子や番頭が帳面を持ってうるさい程、動き回っている。 今、集まっている荷物は、長崎のオランダ船に積み込まねばならない焼き物なのだが、最終的には藩の産物方に、全ての出荷陶磁器の帳面を作って提出しなければならない。
それにしても、今年の出荷数は異常だ。いつもの7割増し程で、磁器生産も大変だったが、出荷準備が1度に重なってしまって、それこそ猫の手でも借りたい程なのだ。
「そ、それは、無茶じゃなかですか?大体、代官所の誰宛に持って行けば、よかとですか?」
「とにかく、今、代官所に行けば、出荷のことしか扱っておらんけん、すぐに、わかる・・、ここじゃ、もう、無理ばい」
番頭はそういうと、逃げるように蔵の中に消えていった。 そういう訳で、この荷車と荷駄の一隊は仕方なく代官屋敷の側に集まっているのだ。
その代官屋敷の中で、ひとりの若侍が、帳面を持って、こまねずみのように動き回っているのが目につく。 名を前田省吾という。
「あのう、ちょっとよかですか・・」
と、その省吾の後ろから、声が聞こえた。 振り返ると、
「荷車隊の人達が、ここで記帳ができんだろうかって、探し回っておいでですが、どがんしましょう・・!」
まだ、十五、六歳程に見える、たすきを掛けをした姿の娘が、もじもじしながら訊いてきた。
「ああ、およねか、・・ええっと、ちょっと待ってくれ、こっちの帳面の記帳も、もうすぐ終わるから、少し待っててくれ・・、」
省吾は素早く記帳を済ますと、
「すまんな、私も、記帳ば手伝ってるばかりで、どうすればよかか、よう分からん、奥で訊いてくるけん、ちょっと、待っててくれ」
省吾は、いったん手を止め、奥にある庭の方へ向かい、下役人を探した。 今日、代官は配下の者と連れだって武雄領主の屋敷へ出かけている。
そんな具合で、今、皿山代官屋敷の広い中庭には、あちこちから焼き物が持ち込まれてきて、下役数人が手分けして帳面への記帳しているという具合で大混乱におちいっている。
省吾は人と荷物を掻き分けて、ひとりの年配の下役に、およねから聞いた荷車隊のことを相談したが、
「省吾さん、そいは、甚五郎にやらして下さい、その辺にいますんで頼んでもらえんですか」
「そうですか・・、わかりました」
省吾はそういって、屋敷内を探し回ったが、甚五郎という男は見つからない。仕方がないので、およねの所に戻って、
「およね、甚五郎さんて人知ってるか?」
「はい、知ってます」
「それじゃ、悪いが、その甚五郎さんば探してくれんか・・、甚五郎さんがオランダ向けの荷物の記帳ばしてくれるらしか・・、すまん」
省吾はおよねにそういって、慌ただしく戻って行った。
(こんな帳面の記帳を手伝わされるなんて、思ってもみなかった)
省吾はこれでも、れっきとした佐賀藩の侍である。それに、剣術にかけては、藩の若手の中では一目置かれる程の腕前である。
(それにしても、この磁器が藩内の銃や大砲に変わるのか・・)
そう思うと、不思議な気持ちになった。
「おーい、もう、これ以上、中庭には荷物は持ってこんでくれ、訳がわからんようになっとるぞ!」
下役の誰かが大声で叫んだ。 今、屋敷全体が喧噪に包まれている。 そんな中、今度は、ねじりはち巻きをした人足が入ってきて、
「女中さん、どうなったとね!みんな、まだかって、機嫌の悪かばい、早う責任者ば探してくれんね!」
と、気色ばって叫んだ。
「はあい、あのう、甚五郎さんに伊万里行きの帳面の記帳ばしてもらうそうです!」
およねは、大声を張り上げて叫んだ。
「ちぇ、甚五郎さんか、そいじゃ、そこら辺の問屋あたりで、番頭達と話し込んどるとじゃなかか・・、あの人は本当、話し好きやけんな・・、全く」 その人足は、ぶつくさいいながら外へ出ていった。
「今年はいつもより忙しいのに、偉か人は誰もおらっしゃんもんねえ、どうなっとるとやろうねえ、・・」
それを見ていた中年の女給が、ひとりごとをつぶやきながら、そそくさと男の後を追って外へ出て行った。 正月までは、もうひと月ほどである。 有田内山の通りを冷たい北風が、ヒューッと音をたてて吹き抜けた。
今年、慶応3年、将軍徳川慶喜公が突如、京の都で幕府の政権を朝廷に返還するという、有名な大政奉還を行った。
その大政奉還を建言したのは土佐藩の者だったという噂だ。 その京が、今の日本中のこの大混乱の元凶なのだ。長州による蛤御門の焼き討ちから始まった幕府・薩摩などとの戦いで、京の一帯を焼け野が原に変えた。
そのおかげで、まだ、壊れた家や空き地が点在していて荒れ果てている。 その上、新撰組と攘夷派各藩の侍との血の抗争が続き、今の京は殺伐として見える。
だが、今、その京に幕府をはじめ、全国の有力諸藩が集まり、今後の政治の主導権を巡る静かな争いが続いている。 今後、その政治がどう動いていくのか、全国の耳目をこの京が集めている。
そんな情勢が庶民を敏感にさせているのかも知れない。 町を行き交う庶民も、どこからともなく聞こえてくる異変に、敏感になっているようで、
「お侍は、なんでこんなに、世間を騒がせるのが好きなのかね・・、我々、巷の人間のことなどおかまいなしだよ。全く、今度、将軍様に大政奉還なんという、大それた話を持ってきたお方は誰なんだい」
と、大商人の主人らしい男が、不意に人通りの中で、憎たらしそうな声を上げた。
「全くだよ」、
「そうでんなあ」
と、人混みの中から声が返ってきた。 それを聞いていた芸者風情の女が、 「なんでも、坂本龍馬って土佐のご浪人さんみたいですよ・・」
と、道端でキセルをふかしながらいった。
「へえ、そのお人が将軍様に建言なされたと?」
「いいえ、将軍様に実際に建言なされたのは、その方のお殿様らしいですよ」
今度は、その芸者風な女の連れがいった。 ここ、京の町では事件がおこると、直ぐに庶民の間に伝わって広まる。 この秋、十月十四日、その日、徳川慶喜自らが二条城に集まった各藩の重臣達に幕府政権の朝廷への返還することを伝えたのだ。
それが、どれ程重大なことか、当初、京の庶民には分からなかった。 最初、数人の侍達が騒ぎ始めたかと思うと、その内、町中の侍達が騒ぎ始め、そして、その内容を町人達が理解し始めると、町中か大騒動になった。
この京の都で起こった異変のおかげで、国内諸藩はさながら、戦さが始まったような大騒ぎになった。 この大政奉還は黒船以降の幕府の対応の悪さがもとで、国内が混乱し、それに乗じて、長州、薩摩といた西国雄藩が台頭してきて、最悪なことに幕府と長州の戦いまでに発展し、その中で急速に幕府の権威が失墜していく中で起こったことなのだ。
この幕府政権を朝廷に返還するということは、噂されている薩摩や長州と幕府との間の開戦を回避するためであり、その発案者は土佐の坂本龍馬などの名前が挙げられているが、佐賀藩の副島種臣や大隈重信等といった、佐賀藩内の義祭同盟の者達が発案したともいわれている。
それはさておき、その大政奉還が行われたのは、ほんのひと月前の出来事だ。 その大政奉還の話は津波のような早さで全国に伝わっていった。
「将軍家が、政権を朝廷にお返しされる?・・、何だと・・!それは誠か!」
全国各藩は上から下までの、大騒動となり、日本全国がその話で持ちきりになったが、ここ佐賀藩でも、城内はもとより、佐賀の西の果て、有田までがその余波で、このような有り様になっているのだ。 恐らく、全国の諸藩も同じようなあり様になっていた筈である。
この時、佐賀藩の城内では、新藩主直大の父、鍋島直正公(閑叟)が、病いに倒れ、寝床の中で、請け役鍋島茂昌と密かに何かを話し合っていた。ふたりの会話は廻りの者達には聞こえない。
閑叟はこの頃、持病の胃腸の悪化のため憔悴しきっていて、重大事項以外は、新藩主直大と茂昌で相談して決めるといった事態になっている。 今までの閑叟であれば、国内政治のことなら、自ら考え、請け役にも相談することなく決断していた。 自ら日本全国を駆け回り、自ら幕府や朝廷とも掛け合い、必要と思えば、蝦夷の果てにさえ自ら行って、探検して回る程、闊達な殿様なのだ。
その閑叟公がこの2ヶ月ほど前から急に元気をなくし、寝床についた。以前から胃腸に持病をかかえていたが、これ程の症状は始めてで、遠く長崎の有名な蘭方医を呼び寄せたりもした。 ここ佐賀は日本一最新のオランダ医療が普及している藩である。
その名医が連れてこられて、閑叟公の体を細かく診察したのだが、
「持病がかなり、お悪くなっておられる、決してご無理をさせてなりません」
と、医者はそういって帰っていった。 今、この一大事に憔悴しきって、意識が戻らない程、長く寝込んでいることもある。
(よりにもよって、この一大事の時に、全く・・)
と、茂昌も直大も困惑するばかりである。
(この一大事だ、他にどうしようもない。寝床で言われたようにするしかあるまい)
と、茂昌は思い、
「誰か、江藤新平のところまでいって、早急に、登城するように手配ばしてくれんか!」
茂昌は閑叟との話が終わると、控えの広間に出てきて、不機嫌そうにいった。
その時、広間に居た14,5名の藩士達はその言葉に驚いたようで、
「それでは、江藤の脱藩の罪は、お許しが出たということですか?」
と、ひとりの藩士がいった。 その藩士の名は島義勇という、閑叟公の側近で直大の信頼も厚い男だ。 島義勇はさっきまで、城外の広場で軍事調練を行っていて、今がた、お城に戻ってきたばかりで、まだ西洋軍装のままである。 近々、藩の軍艦奉行に就任することが決まっていて、その準備も急がねばならない。
「今は、誰かが京にいて、幕府や各藩の動きばみて、その動きに乗り遅れんようにせんばいかん。それには、・・・」
と、島はそこまでいって、茂昌の顔を見た。 請け役の茂昌と島は、親戚同志ということもあり、普段から親しい間柄である。島は今年45才で、10才も茂昌より年上だ。 茂昌は、
「おお殿さんも、あの男の力ば借らんば、どうしようもなかと、おしゃるとたい、・・、京の公家や薩長の考えが、はっきりせんことには、こっちも動きようがなかとも、おっしゃってる」
と、畳を見つめながらいった。 島はそれを聞くと、大きく頷き、
「今は、それしかなかばい、・・新平の脱藩の罪は許るすしか、なかと思います・・、そう、あの新平ほど知識があって頭の切れる者は今、この藩には、おらん、早う、京に上洛させて、藩のために働いてもらわんと・・、今は藩の一大事、考えとる暇はなかですばい」
と、いった、
「うむ、それしかなかかなあ・・、とにかく、今からは世の中がどう動くか分からんし、我々も覚悟ば決めて動かといけん・・・、ともかく、早う新平に京に行かせるようにしましょう」
茂昌はそういうと、広間に集まった数人の侍にむかって、
「江藤は、あちこちで寺子屋ばやっとるらしか、とにかく誰でんよかけん、早う探して、連れてきてくれ、蟄居は許されたって言えばよか」
茂昌はそういうなり、島義勇と奥の部屋に戻っていった。 さて、この江藤新平という男、佐賀藩内でもとびぬけて頭がいいと噂されている。その読書量は膨大で、藩内の蘭学書を片っ端から読んでいって、西洋諸国の特に政治、行政、法律などについて興味をもったらしく、誰よりも詳しい。
今、これら分野で新平と議論できるものはいない。 この頃の江藤の考えは、ちまたで流行の「攘夷」などではない。
「今の我が国には攘夷など無意味です」
と、はっきり言い切った。
「開国こそ、今の日本がやることです」
と言い切る。
その頃、そんなことをいったら、京では2、3日の内に、攘夷浪人に切られて首が飛んだ。
佐賀藩の若い藩士は、黒船が来る前から、オランダ国の商人や軍人などから、海外の実情を聞いている。その上、日本一蘭学が行き渡っている佐賀藩では、膨大な蔵書を誇る蘭学書をいくらでも読める。
それが、幕末佐賀藩が、西洋諸国の事情に詳しい理由だった。 その江藤の考えは、日本は西洋諸外国の進んだ国に学び、軍艦や西洋帆船を買って、通商を盛んにして国家を富まし、富国強兵はかるべき・・(以下省略)、などと主張していた。
これは、司馬遼太郎の小説にでてくる坂本龍馬がよく吹聴して回っていたこととよく似ている。 龍馬は龍馬で海外の事情を学んだのであろうが、恐らく、このことを先に言い始めたのは江藤が先だと思える。
これは、1856年、江藤が23才の時「図海策」という意見書として、藩に提出されたものに書かれている。尚、その意見書の内容は「形成」、「招才」、「通商」、「拓北」からなっており、とても当時の23才の男が書いた意見書には思えない。
そんな、江藤はいつも、ぼろぼろの服を着て、毎日、蘭学書は勿論のこと、様々な書物を読みふけり、そのぼろ服を馬鹿にされても、全く気にしない程、書物に集中して頭脳に溜め込み、膨大なその知識を、当時の日本国内の事情に合わせて組み立て直していたという。
そんな天才肌の男だ。 藩主直正の蘭学熱は国内では有名で、当時の佐賀には、全国一の蘭学書の蔵書があり、それは、軍事、政治、科学、医学などの多岐に渡る分野の書物で、750冊ほどあったという。
それこそ、今で言えばAIを持っていた程、他藩にくらべ知識的に優位に立てていたのだ。江藤の知力から推察しても、かなりの蘭学書を読み込めたと思える。 さて、江藤は以前、郡方目付という役目についており、普段は真面目な役人でもあったが、黒船来航以来、
「攘夷だ!」「否、公武合体だ!」
と、日本中が揺れ動く幕末動乱の中、義祭同盟の仲間達と藩の将来や国内のことを話しあったりしていたが、そんな中、同じ義祭同盟の仲間、中野方蔵が江戸で通っていた、ある塾の事件に巻き込まれて投獄され、亡くなってしまったということが藩に知らされた。
この事件は、江藤にかなりの精神的な衝撃を与えたようだ。 この中野方蔵は、江戸で知り合った長州の久坂玄瑞とも交友があった。
「方蔵が獄中で死んだ!、・・・どうして・・」
佐賀の片田舎で事件に巻き込まれて死ぬなど、ほとんどないことである。 この西国九州の中で佐賀藩ほど、政治的に平穏な藩はなかった。
その平穏な藩での中野方蔵の死は、江藤に衝撃を与えた。
その事件以降、江藤は急に人が変わったようになった。 同志、中野方蔵が亡くなったことが、よほど江藤には大きな衝撃だったと思われる。いつも、書物を読んでいる江藤が急に、物思いにふけることが多くなった。高性能の頭脳に与える衝撃は、凡人に与える衝撃の数倍であったようだ。
江藤は中野の死に激しい憤りと危機感を覚えた。 一体、この国の中では、何がおきているのだ・・、国内政治がどうなっているのか、どうして方蔵は、殺さればならない程のことをしでかしたのか? 自らの目で、確かめずにはおられなくなった。
江藤は時折りどこからか聞こえてくる攘夷思想などは、無意味なことだと思っている。(そんな無意味な考えのおかげで、方蔵はころされたのか?) 「異国人ば殺して何になる!」
江藤は叫びたくなる程の感情が日増しに強くなってきた。
「そがん馬鹿な連中のおかげで、方蔵は殺されたのか!?なんば、しよっとか!方蔵ば返せ!」
江藤は訳のわからない怒りに襲われ、その怒りは、日増しにおおきくなっていくのが分かった。 今、佐賀藩は、その攘夷の相手のオランダ国の多くの書を読み、又、オランダ人教授から多くの先進的な科学や政治や国の仕組みなどを教えてもらっている。 彼ら異国人の全てが、当時の日本から見れば、先進的で優れているように思えた。
「今は開国して海外の新しい技術を取り入れる時だ」
という考えであり、攘夷一辺倒の国内の政治風潮には激しい怒りを感じた。 「それにしても、どうして、他藩の者達は(攘夷、攘夷)と叫ぶのだ、分からん・・・、奴等はこの国をどうしようと思っている?この国は今、どうなっているんだ。知りたか、知らねばいかん」
思い余った江藤は、ついに脱藩という暴挙に出たのだ。
(脱藩が知れたら死罪だぞ、・・・、そんなことはどうでもいい、とにかく知りたい!)
狂った江藤は脱藩後、密かに京へ入り、方蔵の友人という久坂玄瑞を訪ねた。 その時の江藤は、着古したぼろぼろの服を着て乞食にしか見えなかった。
「佐賀藩の江藤といいます。久坂玄瑞殿にお目にかかりたい、宜しくお取り次ぎ下され・・」
男はぼろぼろの服を着て、まるで乞食にしか見えない。 不審に思った対応にあたった藩士から話を聞いて、門まで出てきた男は、
「・・、佐賀藩の方と伺いましたが・・」
と、おそるおそる聞いてみると、
「はい、久坂玄瑞殿にお目にかかるために参りました、佐賀藩の江藤新平といいます。死んだ我が友、中野方蔵は久坂玄瑞殿とは親密にしてもらっていたときいてまいりました。一度、方蔵のことで、お話を聞かせてもらえないかと、・・出てきました」
「佐賀からですか・・・」
「はい、・・」
「いつ?」
「・・、ひと月程前に」
男は驚いた。
(死んだ友の話を聞くために、めわざわざ佐賀から京まで出てきたのか?) 「藩のお許しは・・」
と、気になったので聞くと、
「そんなもんありません、脱藩してきました」
江藤は顔色ひとつ変えずにいった。
「脱藩・・ですか?・・、帰れば重罪になるのでは・・」
「今はそんなこと、どうでもいいんです、何故、方蔵が急に攘夷などと馬鹿なことを言い始めたのか、久坂殿に教えてもらいたいと思い、佐賀から出てきました」
男の顔色が少し変わった。
「・・攘夷が馬鹿ですか・・」
と、男は呆然として聞いていた。
「今は攘夷などしている暇はありません、今はオランダ国など西洋諸国の進んだ学術、科学など取り入れ、我が国も追いつかねばなりません。それに、西洋諸国のように議会を開き・・」
と、対応にでてきたこの男、桂小五郎には江藤のいっていることの大半が、西洋諸国のことだと理解できたが、将来の日本のことを語っているとは思えなかった。 ただ、この乞食のような侍がただの狂人ではないことは直ぐに分かった。
翌日、桂は薄汚れた江藤から少しずつ話を聞いた、 この男、江藤の話では蘭学書は既に数百冊読んだという。
蘭学書を読める者は藩内に数百人ほどいるが、藩内では自分と同じ位の量の蘭学書を読んだ者は5,6名位しかいないだろうといった。
佐賀藩藩主鍋島直正公は欄癖大名として名高いが、佐賀藩は既に、反射炉を用いた鉄の精製に成功し、その技術で大砲100門以上を製造している。 そのうち50門は、幕府から依頼を受けて製造したもので、江戸湾の台場に据え付けてある。
桂もそれくらいの知識はあったが、詳しいことは知らなかった。
「我が殿のお考えは、我が佐賀藩一藩で西洋諸国と渡り合える程の軍備を揃えることです。そのためには西洋諸国のことを知り、学び、その技術を使いこなせるようにならなければなりません。だから、今は、攘夷などといっている暇はないのです」
江藤は桂と向かいあって、理路整然と話しを進めた。 桂はその話を聞きながら、次第に江藤の話に引き込まれていった。 それは、師である吉田松陰からの講義を聴いていた頃の、熱くなるような政治的なものとは違ったが、ひしひしと西洋の今の生活が見えるような、なるほどと納得できる内容であった。 話を聞き終えて、桂は佐賀藩に脅威を覚えた。
(こののまま佐賀藩が西洋諸国の知識と技術を手にいれて、西洋と対等の軍を持てば、どの藩も太刀打ちできなくなる・・、ただ、佐賀藩はそれを国内の戦いのために使う気はないようだが・・)と思った。
自分と佐賀藩のことを語った後、江藤は桂から話を聞き、彼ら尊皇攘夷の活動が、幕府を廃して、朝廷を中心とした新しい政治を目指すという彼らの考えは理解したが、
「では、朝廷の方の、お公家様はどう考えておられるのでしょうか」
そう尋ねた江藤は、桂に、
「どなたか、ご紹介頂ければありがたいのですが・・・」
と、真剣な顔で桂をにらんだ。
この薄汚れたぼろを着た男の真剣さに桂は負けた。
「お公家殿に面会するには、その格好では・・」
と、古着まで買ってやらねばならなくなった。
紹介状を書いた相手は、姉小路公知という公家で、桂がよく知っている同志でもある。 特に、姉小路公知は公家の間では、尊皇攘夷の旗頭みたいな存在である。 翌日、桂が面会の手筈を整えてくれた。 姉小路は、桂から佐賀藩のことを(一藩で攘夷を目指していて、異国と十分に渡り合える戦備を備えようとしている藩です)と、いうこと聞いたので、大層期待して江藤と面会した。
だが、江藤に面会して驚いた、「国内随一の藩の侍」は、風采があがらない古びた羽織をきて、なんとのう薄汚れている。
(これが・・、天下随一の藩の侍?・・)
(桂は人を見る目がない)
と、内心そう思うと、面会を早くきりあげたいと思った
だが、その江藤が、やおら、口を開くなり、舌鋒鋭く、難しい言葉を並べたてた。
「今の国内を見渡せば、・・・」
から始まり、
「産業革新・・・」、
「行政・・」、
「法制度・・、」
だのと、やたら聞いたことのない言葉を交えて、姉小路には聞いていても理解できない内容である。
姉小路は江藤の熱弁を聞きながら、政治的には対立していた岩倉のことを思った。
岩倉は当時、公武合体派で名を挙げすぎた為、洛北の粗末な家で隠棲する羽目になっている。だが、岩倉は公家の中では論理的な考えができる男であることは姉小路も認めていた。
(一度、岩倉さんに会わせたら、この男の評価もできるかも知れん)
なぜか、そんな思いが浮かび、江藤の難しい話を中断させ、
「それで、江藤、・・そなたの卓越したその考えを、この身の知り合いである、あるお方に、聞かせてもらえぬか・・」
ということになり、今度は洛北の岩倉村を訪れ、岩倉を訪問することになった。
「姉小路卿からの紹介・・?」
と、聞いて、岩倉は戸惑ったが、
(どういう魂胆か?まあ、暇なことだし・・
と、岩倉は風采の上がらない江藤を粗末な家に招き入れ、江藤の話を聞くことにした。 江藤は藩内で議論して、誰にも負けたことがない。 岩倉は、江藤の古ぼけた羽織を見て、自身の境遇と同じ男が愚痴でもこぼしにきたのかと思ったが、江藤が話す内容に次第に引き込まれていった。
江藤の話すことは、まだ見たことも聞いたこともない西洋世界の政治や産業のことなどで、その弁舌の見事さに岩倉は圧倒されていった。 江藤の考えは公武合体派に近い考えである。
攘夷なんて意味がないと思っているが、それを口にはしなかった。ただ、時折り岩倉から聞かれた時は、自身の考えも述べたりもした。 そんな江藤対して、岩倉具視は江藤の膨大な知識量と先見性に驚き、
(佐賀藩に、こんな男がいたのか)
と、驚き、この男の頭脳を賞賛した。
この時の江藤の考えが、後日、岩倉を王政復古実現の道を歩ませることになったのである。 それは、
「全国の大藩を集合し外交権を回復して、王政復古に及ぶべし」
ということを、具体的に書いた密奏書の中に残っている。
江藤はその後、何故か姉小路の家来のような生活をしながら2ヶ月程、京で暮らした。その間、三条実美などとも知遇を得ている。
さて、そんな脱藩もしたことのある江藤だが、慶応3年の今、藩主の直大や閑叟にとって、江藤が築いた京の公家や薩長の志士達との幅広い交友関係や鋭い頭脳、それに、みなを圧倒する舌鋒が、佐賀藩の将来にとっては貴重な存在になっていた。
その江藤が脱藩した当時、脱藩は藩では切腹にあたいする大罪であった。 「新平は京におるそうじゃ、誰か京に行って連れ戻せ」
と、当時の藩主直正は家臣に命じた。
やがて、江藤は佐賀藩から差し向けられた追っ手に捕らえられ、佐賀に連れ戻されたのだ。
(切腹か・・、そうなれば、逃げる)、
江藤はそう決めていた。
だが、直正公は江藤の有能さを知っていた。 江藤新平は死罪を減じられ、城外に蟄居を命じられた。
そして、この大政奉還が江藤に再起の機会をもたらしたのだ。 この蟄居の間、江藤は寺子屋を開いてなんとか、食い扶持を稼ぐなどして、飢えをしのぎ、その間も諸外国の法律や政治の仕組みなどを勉強しながら明日への希望を持ち続けた。
江藤が蟄居を許されて城に登城した日は記録にはない。 大政奉還以後の京では朝廷や幕府、それに、薩摩、土佐などの有力大名がそれぞれの思惑で、幕府に変わる新政府の仕組みなどについて激しく議論していた。 だが、佐賀藩は閑叟が大病で朝廷での会議に出席もできないでいる。
佐賀藩はこれまで、政治向きのことは閑叟公自らが指揮を執り、決定していたこともあり、今更、重臣達が特別なことができる訳でもなかった。 閑叟公が寝込んだ今、京に人材を持たない佐賀藩は、雄藩の中での激しい政治の駆け引きから次第に取り残されていった。
そんな状況下で、江藤が許しを得て、登城したことは、一筋の光明を見る思いであった。 茂昌が新平を同伴して直大の前に現れると、
「おお、新平、長い間、苦労をかけた、・・・」
と、藩主直大が声を懸けた。 直大は江藤が、友の死ため、脱藩してまで、その真実を知ろうとしたことは知っている。 ひとりの男として、頭を下げずにはいられなかった。
「恐れ多いことです。若殿、おお殿さんのお情け、骨身に染みて感じておりました。時折り、魚や野菜などが、どこからともなく届くこともあり、この軽輩の身にはもったいないお情けでございました」
江藤はそういって、涙をぬぐった。
「若殿、茂昌様、もう、時がありません。できましたら、おお殿に直ぐにでもお目どおり頂き、藩兵出兵の義をお願い申し上げたいのですが・・」
と、いったが、
「新平、おお殿さんは病いで、今はどうにもならんとたい。それはいうな」 茂昌が絞り出すようにいった。 江藤もさすがに閑叟公の容態がかなり悪いことがわかったらしい。
「・・、承知しました。では、この私を京にやってもらいませんか、なんとか、朝廷や薩長の動きを突き止め、我が藩が道を間違えんよう、詳しく調べてきたいと思います」
江藤は茂昌と直大に向かっていった。
「おお、よく言った、新平、そう言うだろうっと思っておった。・・身の回りの支度が整い次第、京へ発ってくれ。支度が終わるまでに、配下のものを選んでおく。それと、中牟田に船の用意をさせて伊万里で待つように伝えておく!」
そんな訳で、茂昌から特命を請け、旅の支度を済ませると、江藤はすぐに佐賀を起った。 江藤は京に起つ直前、直大、茂昌と相談して、万一に備えて先遣隊を京に待機させておくことを建言したが、それは受け入れられた。
そして、その先遣隊、鍋島孫六郎と深掘り領の一隊が、11月29日に京に向かって出発することになった。 だが、その先遣隊派遣の話は途中、12月1日に、朝廷より、
「佐賀藩京都留守居役に3カ月間の京都警護をおこなうよう」
という御達しがあり、それには藩主直大が出仕することになり、結局、鍋島孫六郎の一隊は直大が引率する警護隊の肩代わりをすることになり、京への出発は大幅に遅れることになった。
「このままいけば、薩長と幕府の衝突が避けられないと思うが、どうなるやら・・」
新藩主直大は父でもある閑叟公の「公武合体」の持論は知っている。 請け役、鍋島茂昌は直大の心中を聞いて、
「心配なされぬな、おお殿さんもわかっておられる。関ヶ原の戦さの折り、西軍側の我が藩を、家康公が、救って下された恩義のことなど、今は、持っておられません、この天下の一大事に、我が国のこと、勿論、我が藩の将来を一番に考えておいでです・・・」
戦国末期、関ヶ原での天下分け目の戦いで、佐賀藩は一度、西軍について戦ったことがある。
(このままでは藩は取りつぶされてしまう)
西軍敗北を知った、鍋島直茂は、直ぐに、家康に面会し謝罪した。
家康はその時、意外なほど寛容で、
「ご子息が失敗は、親が取り返すしかあるまい、・・、どうでござる、立花を撃って、態度で示されては・・」
と言った。それを聞いて鍋島直茂は、まだ西軍として、戦っていた立花宗茂を降伏させ、家康の許しを得たのである。
(家康は関ヶ原の折の薩摩軍の恐ろしさを身にしみて感じていて、一度は薩摩と覇権を争った、佐賀藩を残しておきたかったのが、本音だったと言われている)
その後、家康から、佐賀藩は何の咎も、受けることはなかったのだ。
(領地も、元のままという寛大な処置で・・これが、佐賀藩が幕末まで徳川に持ち続けた恩義である)
そんな恩義のある幕府だが、茂昌は既に腹は半分は決まっている。今は、薩長と共に行動するしかあるまい、と決めている。
(だが、閑叟様は、やはり、そう簡単に、今まで恩義のある幕府に弓を引くことができないでおられるんだろう。義理がたくて情けが厚すぎておいでだし・・)
新藩主直大も直正の性格はよく知っている。 それは、直大が藩主になりたての頃だった。 ある罪人に死刑が言い渡された後のことで、刑死の数日前の日のこと。 直大のところに偶然立ち寄った直正に、その刑の執行のことを告げると、直正は、
「刑死の前の日には罪人にも腹いっぱい、白飯ば食わしてやってくれ」
と言ったのだ。 (我が父は日頃、信長公を尊敬しておいでであることを話されるし、新しもの好きは似ておられるようだが、おやさしい気持ちが強すぎて、とても冷徹になりきれられない。それが、足を引っ張るのではと思うことがある)
今は、自ら京へお行きなるべき時なのにと・・、直大は大きな溜息をついていた。(ご病気も本当かどうか、・・・) もう、大政奉還からひと月が過ぎ、もうすぐ師走に入ろうとしている。
江藤が佐賀を発ったのは11月の末頃だった。 江藤は、佐賀城下から伊万里に行く途中で、京の公家達への手土産として有田焼きを持参するつもりだった。そのために有田に立ち寄ったのだ。
当時から有田焼きは大名や公家達の間で人気があり、重宝された品である。 その江藤は、手土産の有田焼きを選定した後、配下の者5人と供に伊万里へ向かった。本来なら省吾も彼らと一緒に行く予定だったが、
「実は、後から松尾伝五郎というお人が、少し遅れてくることになった、昨夜、ある人から知らせが届いた。・・、すまんが、省吾、お前はそのお人と一緒に、後から来てくれんか。それまでは、ここで帳面のほうでも手伝っていてくれ、お前はそろばんも得意だし、代官所の役人も助かる。いいことたい。それじゃ、頼んだぞ」
と、いった次第で省吾は、帳面の仕事をしているのである。 省吾は松尾伝五郎の名前を聞いた時、その人の話はどこかで聞いたことあるような気がした。
さて、江藤が旅立った有田の代官所では、出荷のほうもだいぶ落ち着きはじめたようだった。 そんな代官屋敷で、
「先日、伊万里に発たれた江藤さんって、一度、脱藩して城外に何年か謹慎ばしとんしゃったとばい。昨日、配下の人達が、こそこそ、話ばしとらしたとさ、そん時、つい耳にしたとばってん・・。そげんお人が頭領になって、京にいきんしゃったとさ、お侍さんのことは、よう分からんねえ・・
先日、代官所にいた中年の女給が、仲間の女給と江藤の噂話をしていた。 そんな代官屋敷は少しは平穏を取り戻し始めたが、出荷のどたばたは、まだ完全に収まりそうにもない。
「およね、明日の出荷はどこの荷かわかるか?」
省吾は今日も帳面記載の役目を手伝っている。
「明日のは黒牟田焼きの出荷があるってきいています。黒牟田の焼き物は大坂へおくりますが、門司じゃなくて、同じ伊万里から送ります」
「分かった、それじゃ、今のうちに帳面の準備ばしとこうか・・」
庭の紅葉が赤く輝いて見える。久しぶりに太陽をおがんだ気がした。
今、佐賀藩は現金が欲しい、いくらあっても足りない位だ。 有田の陶磁器は佐賀藩が一番欲しい、その現金を稼いでくれている。その額は年に数万両にも及ぶ莫大な金を稼ぐのである。
今、佐賀藩の持つ軍事装備品は自前製造の蒸気船や購入した西洋帆船なども合わせて5隻、それに、最新式7連発銃を含む、西洋の新式鉄砲、約3万挺、それに、これまで200門近くの大砲を製造している、そ以外に最近購入した、当時のドイツさえ持っていない、新式大砲アームストロング砲23門。この錚々たる軍備の前には薩長の西洋装備品も貧弱に見える。
慶応3年幕末この時点で、藩内には製鉄設備、造船所、大砲製造所、鉄砲製造設備、電信器研究所などもあって、規模ではまだ追いついていないが、英国で作れるものはほぼ同程度の物が作れるほどだ。
それらの軍備や機械の購入に有田の焼き物が貢献しているのだ。 最近の産物方の最大の現金収入は、藩内で取れる石炭で、それは有田焼きを大きく上回り年間、10万両を超えている。
「我が藩は、これまで、一藩攘夷(佐賀藩一藩だけで、夷狄を打ち払うこと)を目指してきた」
茂昌は江藤を佐賀から見送る時、集まった藩士等、近習の者達に向かって続けた。
「その努力が、軍備の近代化、拡充を実現し、今は、最先端の英国を追い抜こうというところまできている。もはや、英国の技術は手の届くところに見えている。精錬方が、これだけのことをやれたのも、有田の職人始め産物方のおかげだ。そのことを領民にも伝えておいてくれ」
江藤は鍋島茂昌がいったことを思いだしながら、伊万里までの道中を急いだ。 (幕府と朝廷の間がどうなろうと、最後は、この佐賀藩の国内最強の軍備がものをいう時が来る筈だ、これからはもっと、もっと金が必要になる)
さて、江藤等が京へ上った後に、前田省吾の前にひとりの初老の男がひょっこり現れた。
「松尾伝五郎と申します、江藤殿は・・」
この初老の侍は佐賀藩内ではあまり見かけることは少ない。若い頃は江戸や大坂、京などを行き来していることが多かったらしい。
「江藤様は先に京に向かわれました。私がお供をするようにいわれています。三、四日すれば伊万里から大坂へ向かう船が出ます。それに乗って、京へ立ちましょう。それまでは、この屋敷で・・」
「それは、かたじけない、助かります」
伝五郎はそういうと、わらじを脱ぎ、女給が用意してれた水桶で足を洗って屋敷に入った。
伝五郎は直正公がまだ若い藩主だった頃、側用人である井内伝右衛門の下で役目を務めた。今は、隠居し佐賀城南堀端でひっそりと暮らしている。 子息の弥四郎は江戸詰めで、たまに佐賀へ帰ってくることがあるが、直ぐに江戸や大坂へと飛び回っている。
実は、伝五郎の役目は世間にあまり出せないことが多く、佐賀に戻ってからも時々、姿を見せないことがあった。 そんな伝五郎は佐賀に居るときは、畑を耕すか、自宅脇に建てた粗末な道場で近くの子供達に剣術の稽古をつけている。
「伝五郎殿は、今までどんなお役目についておられたのです?」
「私の場合、特別の役名はなかったたい。元は手明鑓の身分だったですけん、父はいろんな警護の役目についとりましたが、私の役目はなんといえばよかか、ひとひとことでいえば、雑役といえばいいのか、伝奏者の役目のようなことでもあったような・・まあ、そのうち江藤様からお話もあろうかと・・」
伝五郎はそういって笑った
さて、この皿山代官所の、百武代官一行は3日程柄崎(武雄)に泊まって、武雄領の鍋島屋敷で、今後のことについて、話し合ってきたらしい。
百武代官は屋敷に戻ると、あれこれ役目の報告を聞いた後、
「おふた方には、これより大変なお役目がお待ちしているものと推察しております。今日まで武雄に出かけて、ご家老の後藤様にお目にかかっていろいろ話して参りましたが、武雄領のほうでは、既に、戦さ準備にぬかりがないよう、各組毎に集まって大砲や鉄砲などの点検をしておりましてな。もう、明日にでも戦さがはじまるような騒ぎでした。・・それより、おふた方には、早く夕食をお済ませて頂き、食事の後、ゆっくりとお話を・・・」
と、いって執務部屋へ入っていった。
「やはり、我が藩も薩長とともに、・・」
と、省吾がいうと、
「いや、恐らく我が藩はまだ、おお殿さんが上洛なさるまでは動かぬと思います」
「そうですか」
「おお殿様は、難しい立場ですたい。我が藩は徳川に恩義がありますし・・、やはり、難しいと想いますが・・」
「・・・」
そんな、やりとりが終わった時、下役の者が来てふたりを奥座敷へ案内した。 百武代官は少し疲れて見えた。
「さあ、どうぞ、今夜はゆっくり、語りあいましょう。これから、我が藩には厳しい先行きが待っているようですし・・」
百武代官がそういうと、
「先ほど、武雄領はすでに戦さ準備をはじめていたとお伺いしましたが、それは長崎のことも考えてとのことでしょうか?」
突然、伝五郎からの思いがけない言葉だった、
「長崎?・・ですか?」
百武代官は思わず、伝五郎のほうへ目線を向けた。
「そうです、ある人から長崎のキリシタン供にあやしい動きがあると聞きました」
「それはどのような・・」
と、百武代官は身を乗り出した。 伝五郎は続けた。
「実は、・・・」
と、伝五郎が続けて話した出したことは、 これまで、幕府長崎奉行は、隠れキリシタンという大きな問題を抱えていたが、これは江戸幕府の初期に起こった「島原・天草の乱」というキリスト教信者が起こした反乱にまでさかのぼる。
今度の長崎の問題も、結局は、その島原と同じ線上にあるキリスト教徒が関係しているのだという。 このことは、あまり知られていないが、島原の乱以降、長崎奉行所の管轄内の浦上村でキリスト教徒が見つかったのは、今回も含め4回あるらしい。
これまで、長崎奉行所はその隠れキリシタンのことは大きくせず、内々に処理したり、なかったことにしてきたが、今回はそう簡単にいきそうにないということだった。
「それは、何ゆえに?」
百武代官は語気を強めて訊いた。
「今度の、大政奉還です」
と、伝五郎がいうと、
「大政奉還がどう関係すると!」
自分のあまりの大声に驚いたのか、
「すまん、続けてくだされ」
伝五郎は続けた、
「私が長崎の知人や幕府の下役等から集めた話によりますと、そもそも浦上村で隠れキリシタンが発覚したのは、慶応元年に1回目の発見があり、それからも2度、3度と発見され、実は、今回は4回目の発見だそうです。それで今回は、フランス国と幕府の間で結ばれた日仏通商条約がきっかけで、長崎に住むフランス人のため、村に天守堂が建設されました。そして、事件はここからはじまります。ある日、フランス人宣教師が教会の廻りを歩いている時だったらしいのですが、ひとりの日本人老婆が、近寄ってきて、熱に浮かされたように(神父さん、わたしも神父様と同じものを持ってます)と、狂ったように叫んだとか・・」
「何・・、それで」
百武代官は訊いた。
「司教は驚いて黙ってその婦人をじっと、見ていると、(あなたの持っているものと同じです)と、いって木製の十字架を見せたそうです」 「何故、そんなことを・・、自ら言い出すとは・・」
「確かに、よく分からんないんですが、今日まで、長崎奉行所は信者を説得して、なかったことにしていたそうなんですが、そこへ、先月の大政奉還です。信者等は幕府が政権を朝廷に返還したことで、キリシタンの信仰が許されるのではないかと、もう、おおっぴらに奉行所におしかけていると・・」 「なるほど・・、それで、騒ぎがこれ以上大きくなるのではと心配していると・・なあ・・」
「恐らく・・、幕府の奉行所も今度の大政奉還で困っています」
伝五郎は静かにいった。
「そりゃあ、大変だ・・」
そういって、百武代官はあごに手をやって、首を傾けた。 その時、突然、 「待って下さい、それじゃ!我が藩の長崎屋敷も責任を問われることにはならんとでしょうか?」
今まで、じっと聞いていた省吾が、心配そうな大声でいった。
2.幕末、京、師走
江藤新平が京に着いたのは慶応3年11月28日、正しい記録は残っていない。 この江藤の上洛のことは藩として、まだ正式には認めていない。 これはあくまでも、江藤の個人的な行動だということにしてある。
この当時、国内各藩では、様々な議論がなされていた。 幕府側か朝廷・(薩長)側か、どちらに組みすべきか、藩の命運がかかった議論が行われていた。ここで間違えれば藩の未来はない。
そんな国内状況にあって、佐賀藩の巨大な軍事力は各藩の耳目を集めている。江藤にもそんな佐賀藩の影響力は分かっている。 江藤の手足になってくれる筈の5人の配下のうち2人は富山藩の京都屋敷内の長屋に入っていった。 今、加賀前田家とも連絡を取り合っているが、それは表だった藩の交流というより、あくまで個人的な交流ということになっている。
このことは藩主と請け役以外ではほんの数人の側近しか知らない。
富山藩は加賀藩の支藩であり、ここはひと目にも付きにくい。 佐賀藩鍋島家の動向が歴史の表面にあまり出てこないのは、この秘密主義的な政治姿勢もあった。
佐賀藩が生み出した幕末の天才、江藤は蟄居中もその知識欲は凄まじく、頭の中は、いつもこまねずみのように動き続けていた。それは、義祭同盟の仲間等が密かに、時折り、訪れて持ち寄ってくれる国内外の最新情報などのおかげで、いろいろと試行錯誤を行ってこれたし、京に着いた時の新平の頭はすっきり整理されていた。
(まずは、お家を守り、この日本国を朝廷のもと、ひとつにまとめる)
ことだ。
今の江藤の頭の中には幕府と薩摩・長州の動きを正確に見極めることに集中されている。 その薩摩藩の動きは日本最強軍団をうたわれるだけのことがあると、新平をうならせた。 大政奉還後、西郷、大久保は一旦、薩摩に帰り、藩主からの京都出兵の許しを受けるや、11月18日には3,000の兵を率いて再び上洛していた。
(さすがは西郷・大久保、・・疾風迅雷、いつでも戦える姿勢で隙がない) 江藤はあらためて、薩摩軍団の決断力、団結力を見直した。
(朝廷を中心に国をまとめていくということに関しては、薩摩も佐賀も同じ道を目指しているが、幕府を入れるか入れないかというと、薩摩は幕府を排除したいような動きに見えた)
そんな薩摩が敵になる場合のことも考えならねばならないと思っている。 (さて、今の佐賀と薩摩・・、戦った場合、どちらが勝つか・・)
と、首をひねって、考え込んでいたが、その時である、
「江藤、長州藩も朝廷のお許しが出たそうだ。何人かの人間が、藩邸に入ったそうだ」
と、さっき外から戻ってきた大木喬任がいった。
今回、大木は江藤の配下というより相談役も兼ねて、江藤に随行してきた。大木は江藤より2才年上だ。 佐賀を出立する時、茂昌が、
「おぬしが駄目だと思った時は、必ず、止めさせてくれ。江藤の頭の良さはわかるが、時折り、頭が早廻りしすぎて自分を見失う時がある。その時はお前が頼りだ」
と、言ったのを肝に銘じている。 そんな江藤は寝転んだまま、考えていたが、
「そうですか、ついに、長州も来ましたか、これでは、もし戦さになっても、幕府は簡単には勝てんでしょう」
と、江藤がいった。 この頃になると、薩摩と長州が手を結んだということがはっきりし始めていた。
「そういえば、あの土佐浪士の坂本龍馬が切られたことが噂になっています」
側から、連れの溝口がいった。
「坂本っていえば、あの、勝先生の弟子で長崎にきてた浪人だろう、副島さんが面白かと、いっとた人だな」
「そうです、みんなは、おおぼら吹きと、いっとりましたばってん、一度、長崎に行く途中、佐賀の旅館に泊まった時などは、そりゃあ、どんちゃん騒ぎで、島さんもえらい、気があったという話です。・・それが、誰かに切られてしまわれた。恐らくあの新撰組のやったことだろうという噂です」 「・・やはり、ここは、油断できんところたい、みんな、注意せんばいかんな」
と、大木が諭すようにいった。
翌日の早朝、江藤は溝口と連れだって、洛北の岩倉を訪れた。昨日のうちに佐賀藩京屋敷から正式に使いを出して、来訪する旨は伝えてある。 かつて和宮降嫁を推進したことで「幕府に加担する奸臣」の汚名を着せられ、この地に長く蟄居を余儀なくされていた岩倉も、今や王政復古の鍵を握る重要人物となっている。
今、岩倉を頻繁に訪れる者は薩摩藩の者だ。この岩倉と大久保が目指す、この「王政復古」という考え方は、江藤が以前脱藩した時に、有力な公家達に説いて回った考えであった。 しかし、当時は「攘夷」が主流になっていて、見向きもされなかった。
やがて、江藤は粗末な家で岩倉に面会するや、深々と頭を下げた。
「おう、これは、よう参ったな。・・達者なようで、何より、よかった、よかった」
と、いって岩倉は笑顔を見せた。
最近、薩摩藩が3,000という大兵を京に連れてきたことは、この岩倉には心強い反面、不安にも思えてきた。
岩倉は今、薩摩の大久保と一緒に王政復古を実現しようと画策しているが、最近、彼らの目指す先が単なる政権交代ではないのでは、という疑惑に、背筋が寒くなる思いをしていた。
大久保が口にする「王政復古」の裏には、
(ひょっとしたら幕府と、ことを構えるつもりか・・)
そんな密事を隠しているのでは、と思い始めている。 岩倉は、自分が描いていた「穏やかな公議政体の交代」という絵図が、薩摩のどす黒い情熱に塗りつぶされていくのを感じていた。
「王政復古の詔ば、とにかく、急ぎ申そう、新政府の役目の分担などは、その後で決めればよか、不満があれば、ゆっさ(戦さ)になるかもしれもはんが、その時は、その時でなんとかなりもうそう」
2日程前、薩摩の首領、西郷と大久保が一緒に来た時、西郷はそういった後、
「ともかく、心配はいりもうさん。大船に乗った気持ちで、ご見物くだされ・・、わっはは・・」
と、大身を揺らして笑ったとか。 岩倉は大久保が求めているのは、
(慶喜の抹殺と徳川の領地その全てではないのか・・)
と疑い始めている。 岩倉は、自分が彼らの「倒幕」という暴走馬に乗らされたのではないかと、この頃その疑いが強くなってきた。
岩倉はこれまで、何度も西郷と大久保に会っているが、最近、この西郷と大久保というふたりの男の本質がやっと、わかってきた。
(大久保は西郷を担ぎ、自分の野心の実現のために利用している冷酷な男だ。それにひき替え、西郷はにくめない、誠実さと情の塊のような男だ。・・だが、複雑な西洋の政治の本質などは理解していない。正義を尊び古くさい武士道に忠実で、無欲な男だ)
そう思っている。 そして、この誠実さと無欲さが、会った男みんな魅了してしまうのである。
その対極にある男、それが江藤新平という巨大な頭脳の塊を持つ男である。
岩倉はこの頭脳のかたまりのような男を見て、心底、頼もしく思った。 大久保や薩摩の者と一緒に進めているこの「王政復古」というものが、実態はどのようなものか、具体的なことは何も分からない、今後、この江藤が岩倉の味方になってくれると思った。
岩倉はすぐに、江藤に京の状況を手短に話し、江藤の反応を見た。 江藤は京の状況がそこまで進んでいることに驚いていたが、岩倉の話が終わる頃には、王政復古後にすべき朝廷の役割について私見を述べた。
「さすがやのう、そこまで考えていたか・・」
岩倉はそう言った後、佐賀藩の様子を聞いてきたので、 江藤は閑叟公がひどい病であることを話すと、
「なんとか、早う直して京に出てきてもらわんと、朝廷のお役目も、みんな薩長のものになってしまうかも知りまへんで・・、ただ、佐賀の若い人は、みな有能なひとが多い、それに薩摩もんのように、暴れたりするもんはすくないようだし、御所では評判いいし、勿体ないな・・」
岩倉の佐賀藩に対する好意は勿体ないと思ったが、 新政府ができるようなことがあるとなると、ことは急がねばならない。 岩倉の言葉を聞いて、以前、自分が考えていた新政府のことを思い出していた。 江藤は数年前、王政復古のことを考えた時、既に、その後の新政府の仕組みや役割についても検討したことがある。
(もう、昔、考えたことが現実になろうとしている)
江藤はあまりの早さで進む京のできごとに追いつけないでいた。
(このまま王政復古の詔がでてしまったら、佐賀藩の出る幕がなくなる・・)
江藤は岩倉の話を聞いている内、次第に焦りを覚え始めていた。
「なあに、そなたの役目は、この身が誰にも渡しはせぬゆえ、安んじておれ、これからも、そなたに色々と知恵を貸してもらわねばならぬ、毎日でも、顔をみせてたもれ」
岩倉はくったくない笑顔で江藤にいった。
「それで、今、気付きましたが、あんたはんの側のその箱は何か、重要なものでも入ってのか・・」
そう言われて、江藤は有田で手に入れた土産物の箱を手にとってふたをとった。
「それは、なんかいな」
「はい、ご覧頂ければと、・・」
岩倉は箱を開けると、有田焼きが出てきた。
「ほう、これは伊万里焼きか・・、いや。違う、九谷のように見えるが・・」
と、岩倉がいうと、
「はい、さすがです、確かに九谷に見えますが、それは間違いなく有田の陶工が焼いたものです、証拠にその銘は今も同じ窯に伝わっているものです」 と、江藤はいった。
「ほう、珍しい・・、けど、なんでこのようなものを・・?」
「実はその、お間違いなった九谷と我が藩には昔からつながりがありまして・・」
江藤は続けた。
「話は関白秀吉公が肥前名護屋から朝鮮に出兵された時分に、利家公の兄である前田安勝様が肥前名護屋で病でお亡くなりました。そして、その縁者である子孫の方がわが藩に残っているのです」
と、江藤はいった。
「ほう、そんなことが・・、」
と、岩倉は江藤の顔を覗き込んだ。
その日、佐賀藩邸に帰ると、大木が待っていた。
「どうだった?何か朗報でもあったか?」
と、大木は帰るなり、藩邸の長屋で酒を飲みながら待っていた。 江藤は酒は飲めない。そのことを知っている大木は酒を勧めることもなく、
「どうした、何かあったか?」
「うむ、急がんといけんようになっているようで・・、岩倉様からはおお殿さんに、急いだ方がいいと伝えてくれと、・・、」
と、正直にいった。 ことは予想以上の早さで進んでいるらしいことが、大木にも分かった。 江藤は内心、閑叟公が徳川を存続させたい気持ちを理解していた。 それは、単なる「徳川への恩義」などというより、幕府を敵とする薩長の内戦をとめたかったからだろう。
そのため、薩長の野望をあきらめさせる手立てを考えていたのである。 例えば、佐賀藩が幕府と同盟を結ぶという事態になっても、薩長はあきらめることはないだろう。 ただ、佐賀藩が自藩をまもるために戦うという事態になれば、島義勇などは、
「そん時は、仕方なか、全力で戦うだけだ」
と、豪語している。 そして、その策も実は具体的に考えていた。 島義勇と請け役鍋島茂昌は親戚同士で、個人的なつきあい方は友人に近い。 茂昌本人は
「政治よりは軍事が肌に合う」
と、いっている。 勿論、島自身も自分では軍事向きだと思っている。そんな風で、ふたりはよく軍事談義に花を咲かせることもあった。 その時、対薩摩戦を想定して議論をしたことがあったのだが、その時、島が考えた戦法は、
「まず、総勢3万の兵のうち、佐賀城の東方、三根郡あたりに2万の兵を敷き、その両側後方には乗馬銃兵5百騎を待機させておく、更にその後方には二十門のアーム砲を並べておくのです、・・どうです」
その時、島は茂昌に得意気にいった。
「残りの兵は、どう使う?」
「まあ、いうなら遊撃隊として残しておきます、恐らく福岡藩が敵に回った場合、三ツ瀬方面から攻めてくるかも知れん、それに柳川方面も気になります、要は思わぬ方面の敵にそなえておくのです」
「なるほど、・・・、それにしても、両側に乗馬銃兵とは、ナポレオン皇帝の戦いの絵図で見たことがあるが、うまくいくか・・」
江藤はその乗馬銃兵のことは島と議論したことがある。
「あれは、普通の大砲よりも威力がありそうです」
実際、佐賀藩では城下の中折に4万坪の騎馬訓練場で乗馬銃兵の訓練も始めている。そこでは乗馬したままで、7連発スペンサー騎兵銃を使った射撃訓練も行われているのだ。このことは、まだどこの藩も知らない。
話はそれたが、茂昌や島等は最悪、薩摩と戦うことも考えていたのだ。 それに、他にも茂昌は手を打っている。 幕府に次ぐ、大藩加賀藩と密約を結ぶことだ。これは、まだ、島と江藤他、数人しか知らないことだ。
(関東に幕府軍主力、そして北陸には加賀藩、それに奥羽には会津などと同盟ができたら国内の東側は鉄壁だ、九州は薩摩を除けば、福岡や熊本は江藤や大隈の弁舌でこちらに引き入れる。そうなると、残るのは薩摩・長州他数藩・・、これなら負けることはあるまい、数ヶ月で、全て片付くか・・)
江藤は上洛前の宴席で茂昌が話してくれた話を思い返して、ふと、小さな笑みを漏らした。
「どうした、江藤、何かいいことがあったか?あの、薩摩藩のことでも考えていたのか?でも、あんまり走り過ぎるなよ、お城では重臣方がみな心配されておられるぞ」
と、側から大木がいった。
やがて、師走に入ると時折り雪もまじる日もあり、こたつで一日中過ごす日もあった。 岩倉は、さすがに師走に入ると、ほとんど薩摩の大久保等と談合を重ねるばかりになり、12月3日の日に呼ばれていった時は、大久保も来ていたが、 江藤のほうから挨拶に行くと、
「江藤さんのことは、岩倉様よりいつも聞かされいますばってん、殿さんはいつ上洛なさるのか、ご存じなかですか?」
と、今のところは味方だと信じてもらえているようであった。
「今、国元では、おお殿はやっかいな腸の病気のうえ、蒸気船のボイラーという機械が故障していて、藩を挙げて修理にかかっとるとかで、それで手間どっとるそうです」
と、江藤が答えると、それを聞いていた西郷が、
「そりゃあ、おおごとごわんすな、おいどん達にゃあ、何もできんばってん、佐賀藩の人は器用か人のおおかもんなあ、こいからは、おいどん達も見ならわなきゃいかんぞ、いちぞうどん。斉彬公からは佐賀んもんに、できることが薩摩んもんに出来ん筈はなかって、いつもおしかりば受け取ったとでごわす。一度は佐賀ん人に来てもろうて、大砲作りのことも、教えてもろうたりもした。大久保どんは、そがんこつは知らんもんな・・、いやあ、今になりゃあ、ほんなごてなつかしか・・
と、西郷が大久保にいった。
(ほう・・、これが、西郷か・・、なるほど、・・こんな男は佐賀には、ひとりもおらん)
これが、その時の印象だった。
「これは、ご無礼致しました。佐賀藩、江藤新平でございます。色々ご活躍の噂は、佐賀まで届いています。以後、お見知りおきを・・」
江藤は思わず緊張してしまった。
「ほお、これは、あの江藤とは思えんなあ、そんなに緊張せんでもいい・・、この西郷は見かけによらず、やさしい男でなあ、西郷」
「そんな冗談をいうとる暇は、なかとじゃなかですか、王政復古の詔ば、今日中に作りあげんといきゃんとですから」
と、大久保がいった。
「そんな詔なら、この身が既につくっておる。それを見てもらうために今日、江藤にきてもろうたのや」
岩倉は、自らがつくった詔を江藤に見せたが、江藤は二、三度読み返してみたが、三職のところが気にかかった。実はこの時、江藤は図海急務という、新政府組織の構想や法律について、明快な具体案を既に作っていたのだが、この時は胸の内に秘めたままだった。
(三職よりは、もっと具体的な・・自案を示すべきか・・)
そう思ったが、(いや・・)今はこれでいいと思い返した。
「まことに立派な詔だと拝見致しました」
そういうと岩倉は、
「何かいいたそうに見えたが・・、」
と、いったが、詔をそのまま重箱にしまった。 その日、会ったこの西郷が、後に同志となり、様々な国内の改革をやっていくことになるが、江藤はそのな未来など知る由もなかった。
その日、佐賀藩邸に戻る途中、新平は妙に暖かい何かを胸に感じながら歩いていた。 あの西郷のおおらかで、太い声が耳の奥に残り、この緊迫した状況を忘れさせるように感じたのだ。
今まで味わったことのない感情である。 帰り道は薩摩の護衛兵が途中まで護衛に付いてきた。 やがて、京の町にあかりが灯りはじめ、芸者達が行き交うあたりまでくると、
「今日は、おやっとさあでございました」
薩摩兵はそういうと、聞き慣れない言葉で話ながら引き返していった。
「薩摩言葉は、わかりづらいですが、それにしても西郷というひとは本当に大きい人でしたな」
溝口の言葉にうなづきながら、何故か新平の口元に珍しい笑みが浮かんでいるのに気づいた。
その頃、大坂の佐賀藩邸に前田省吾と松尾伝五郎が到着していた。 伊万里から佐賀藩蔵屋敷に届ける焼き物運搬船に乗ってきたのである。 一度、佐賀藩の鍋島孫六郎の率いる先遣隊の船に乗せてもらうつもりだったが、藩主直大が京都警護役に命じられたため、先遣隊も直大に同行するため出発が遅れたので、焼き物を運ぶ運搬船に乗ってきたのだ。
佐賀藩の蔵屋敷は土佐堀にあり、土佐堀の蔵屋敷からは大坂藩邸がある梅田までは徒歩でやってきた。 その大坂梅田あたりは、幕府兵と見られる一団が険しい表情で街道を行き交っている。
「この騒ぎはなんですかね?ちょっと騒々しいですね」
省吾が驚いたような表情でその一団を見ていた。 田園地帯のこのあたりには、街道が通っていて宿や茶屋が点在している。
今晩は梅田の佐賀藩邸に泊まるつもりだ。 松尾伝五郎は、大坂藩邸にはこれまで何度も来たことがある。
「今の留守居役は中野健明殿で、顔なじみだ。気兼ねなど無用だ」
伝五郎と省吾は街道を急いだ。 そののどかな風景の中を、今度は幕府以外のどこか藩兵と思われる一団が荷馬車を伴って無表情で通り過ぎていく。
「みな、殺気だって見えるが、これから戦さが始まるのかもな・・」
伝五郎は、こんなに多くの兵や人を街道で見るのは初めてだった。
(何かある、油断できない・・)
「先を急ごう」
伝五郎は省吾を促し先を急いだ。
伝五郎と省吾が佐賀藩大坂藩邸に到着したその日、12月5日、 京では「王政復古の詔」の内容について、薩摩藩の大久保、小松帯刀などが岩倉の権威を利用して、長州、安芸、尾張、越前、土佐藩の首脳陣を薩摩藩邸に集めて幕府を排除した新政府の政体を天下に布告するため、深夜に及ぶ内部工作を着々と進めていた。
徳川慶喜は「王政復古の詔」が近日中に布告されることは知っていて、雄藩が集まってその作業を行っていることも知っていた。 だが、自分が新政府から排除されるとは思っていなかった。
この会議にあつまった中には親戚でもある越前の松平春嶽や気心の知れた土佐の山内容堂がいて、彼らは自分の味方になってくれるものと信じていたからだ。 それに、薩摩なども、長州がしでかした数年前の御所蛤御門の事変の時は、味方として戦ったこともある。 まさか、自分を新政府から外す工作が行われているとは、はなから思ってなかった。
前日、佐賀藩の大坂藩邸で省吾と伝五郎は一夜を過ごした。 夜半、留守居役の中野建明がふたりのため宴席を設けてくれて、昨夜はだいぶ酒を飲んだ。 そのせいか、普段よりは体がだるく感じた。
「江藤が蟄居を許されたとはめでたい。それにしても、京は今、大混乱だという話だ、聞いた話では(ええじゃないか)とかいう妙なもんまで、現れて、大騒動になっとるらしか・・、しかし、佐賀から殿さんが、直々に兵ば率いて、京都守護の任にあたれば、少しは世の中も落ち着くかも知れん。ふたりとも藩のため江藤のため、励んでくれ」
「かしこまりました。今からは、我が藩の先遣隊や直大公の本隊などが京にやってくる手はずだと聞いてきました。ただ、我が藩がどうなるのか、今は、まだはっきりしないとか・・。ともかく、万一の時は藩のため、命を賭けて働くつもりです」
藩邸を去るとき、省吾と伝五郎はうやうやしく頭を下げた。 藩邸をでると、人通りの中から、こちらへ、いやな目線を向ける者などがいて、変な気配を感じた。
「省吾さん、今日はいそぎましょう。何か妙な気配ですたい」
佐賀藩邸を出て、京への街道へ出た頃、武装したどこかの藩兵らしき一団とでくわした。 どこへ行くのかは分からないが、休息でも、とっているように見えた。
「今、京では何が行われているのでしょう、どの藩の人も槍をかついだり、鉄砲や火縄銃なども持っています」
「これは・・、本当に戦さが始まるかも知れんな」
ふたりは、更に歩みを早め、京を目指した。 その頃、京の佐賀藩藩邸の片隅の茶室で、江藤は珍しい客に茶をたてていた。 その客は富山藩京都留守居役の家来で谷口兵部と名乗った。
この富山藩との話は、今年(慶応3年)6月、閑叟公が上洛された際、加賀藩主前田慶寧公より、最新洋式鉄砲数千丁の買い付けの相談を受けたことから始まる。 閑叟公は、江戸城の控え間では前田公の次席ということもあり、気軽に世間話をする相手らしい。前田公からその鉄砲買い付けの話を聞いて、閑叟公は、
「それがしごときに、何か、お手伝いできることがありましたら、お言いつけ下さい・・」
と、いったそうだ。 そういう次第で、その鉄砲の買い付けを前田家に変わって、佐賀藩が買い付け、後日、前田家に引き渡すことになったらしい。 その話を聞いて、茂昌と島は一瞬、何かあやういものを感じた。
「おお殿様、誠に、僭越でございますが、・・それは、幕府には・・」
と、茂昌がおそるおそる尋ねると、 閑叟公はにたりと笑うと、
「茂昌、島、よく聞け、亡くなられたあの井伊直弼大老さえも、(今、この天下で、一番頼りになるのは佐賀藩のみと・・、)と、言われたことがある。それ程、我が藩は幕府の信頼を得ている。・・井伊大老の安政の大獄の時、我が藩に蘭学書の蔵書が千冊があったからといって、誰かひとりでも、捕らわれた者があるか・・、ないであろう、まして前田公は親幕府派であられる。心配はない」
これを聞いて、茂昌と島は頭をすりつけて謝った。 確かに、あの安政の大獄の折、他藩の者は蘭学の書物を読んだというだけで、捕らわれ、刑死した者も多数あったのに、蘭学の書物千冊を蔵して、蘭学浸けの佐賀藩には全くの、咎めどころか、ひとことの小言もなかった。 それ程に佐賀藩の幕府内での信望は厚かったのだ。
それには、過去に50門もの大砲を自力で製造して幕府に納め、幕府の長崎奉行所のある長崎に多数の砲台を築いて見せた、佐賀の恐るべき技術力に幕府までも畏怖を持って看ていたということでもあり、絶大な信頼があったからだ。 (ふふっ、・・あの井伊大老が天下に頼りになるのは、佐賀藩のみと、いわれたとは、これを聞けば他藩の者は腰を抜かすわい、天下一の蘭学者の我がおお殿が、あの井伊めにそんなことを言わせたとは・・・、なんともな・・、ふふっふ)
茂昌も島もこの話を聞いて納得した。 そして、島は閑叟公の直々の言いつけにより、新式鉄砲の買い付けをすることになった。 ただ、加賀藩本藩の方は藩内にもめごとがあり、支藩の富山藩京都留守居役を通して、最新鉄砲の買い付けの商談を進めて欲しいということであった。
それで、最近までは島が武雄領の山口尚芳などとも相談して長崎のグラバーなどと最新鉄砲の買い付けを進めていたが、グラバーのほうはなんとか目処がついたとのことで、支払い方法や受け渡し方法について早く話し合いたいといってきていたらしい。
「先方も2千丁の銃のことですし、早めに話がしたいと・・」
と、同席していた大木が島から聞いたことを谷口に伝えた。
谷口は大木から話しを聞いて、少し、困惑した表情で、
「その本藩のほうでは新式銃購入については、まだ、決着がつかずに藩主慶寧公も腹を立てておられるような次第で・・、」
と、言いにくそうに言った後、
「実は、死者がでる程の争いになり・・」
その後始末に追われているということだった。 死者が出るとはゆゆしきことである。 大木と江藤は一瞬顔を見合わせた。 少し、前までなら、そんなことが知れると、幕府から咎められることもあったのに、と、お互い顔を見合わせたが、 それに気づいた谷口は、
「いえいえ、今の幕府にそんな力はもうありません。そんな他藩の争いに手出しはおろか、口出しもできないのが実情だと思っています。それで藩内の恥も、正直に打ち明けている次第です」
と、ふたりは黙って、谷口からその藩内の争いの詳細を聞いていた。
「・・この我が藩内の対立は、つきつめれば、要は、佐幕(幕府を助ける)かそれとも、薩長の尊皇派に付くかということでして・・」
と、谷口のいうことを聞きながら、これは、他藩のこととはいえないと思った。 他の国中の藩内が、今はそんな状況に陥っている。 江藤も大木も本藩内部の対立に悩む谷口に同情しながら、その後はしばらく世間話などをしていたが、
「新式銃の買い付けのことは、佐賀藩の方に全てをお任せよ、との本藩からの指示をうけましたので、これより先、代金や受け渡し方法など、決めて頂けましたら貴藩のご指示に従って動くつもりですので、それが、どの用に決まろうが、我らは貴藩のご指示に従いますので、よしなにお取り計らいの程お願いします」
谷口はそいうと深く頭を下げた。 その後は、しばらくは新式銃のことなどについて話していたが、そろそろ帰る頃になった時、 谷口が急にあらたまった表情で、
「それで、・・・これから、幕府はどうなると思われますか、江藤殿?貴殿の、お噂は当藩の留守居役からも聞いています。諸外国の事情や西国諸藩のことにも詳しく、これからの我が国が、歩むべき道にも卓越したお考えをお持ちとか・・、それで、江藤殿は、このままで、新たな政府が誕生すると、お思われますか、それとも・・・、」
と、谷口は声を潜めて訊いた。 それを聞いて、江藤は、一瞬ためらったが、
「・・・、今、予想は難しいところですが、ただ・・、思っている以上に、早く戦いが始まるのではと、懸念しております」
と、江藤はそこまでいって、谷口の顔を覗き込んだ。 薩摩も長州も大軍を率いて上洛している。 これで、おだやかに新政府が誕生するとは思えなかった。
「薩摩と長州が既に手を組んだという噂はありましたが、何のために手を組んだのか?穏やかに新政府を誕生させようとしているのであれば、兵は無用です」
「それでは内乱は起きると!?」
「我がおお殿は、おだやかな新政府への交代を望んでおいでです。今、病いのせいで、佐賀を発たれずに、無念に思っておいででしたが、恐らく、それは貴藩加賀本藩の前田慶寧公も同じだと思っております。以前、我が主、閑叟公から(加賀前田家は戦国の時から誠実を家風として持っておられる)と、申しておりました」
と、江藤がいうと、
「それでは、閑叟公は我が藩のことを気にかけておいでなのですか?」
「さように聞いています。江戸城内ではよく隣り同志になって、世間の風潮や時節のささいなことなども、お話をされることがおありになるとか・・、、そんなことを島からに2、3度聞いています」
「それは嬉しい、貴藩では最新式の大砲や蒸気船をお作りになったことは、今や、どの藩も知っていること、その貴藩のおお殿様が我が藩のことを気に掛けて下さっているとはありがたく、頼もしく思えます。我が加賀本藩が蒸気船を買ったのも佐賀藩の影響があったと聞いています」
そういって、谷口はそっと頭を下げた。
「これは恐れ多いことです、天下の加賀前田家の方から、そんな言葉を頂くとは、・・我が主にも伝えておきます。・・・今後、両藩で助け合い、手を携えていくことができれば、当藩にとっても名誉なことでございます」
それは、江藤の本心であった。 谷口は、それからしばらくしてから帰ったが、もう夕刻時であった。 藩邸の門まで見送りにきた江藤の耳にどこからか、風雅な三味線の音色が聞こえてきた。 京にきて何日たったか、忘れてしまったが、もう、師走の5日になっている。
「江藤、岩倉様からはまだ、なんの連絡もこないようだが・・、どうなっているのかのう・・」
大木は洛中が、次第に薩摩兵や他藩の兵であふていくのを、不気味な思いで見ていた。
「そうですね、私も気になっています。明日はこちらから押しかけてみようと思います」
(新政府誕生に向けて、そろそろ何か動きがでてきてもいい筈だが・・)
腕を組んで藩邸の中に入る途中で、遠くから、「ええじゃないか」の、あのいやな騒ぎ声が、三味線の音を消してしまった。
薩摩・長州が「武力倒幕」に踏み切った最大の理由は、400万石という幕府が持つ莫大な財力にあった。
新政府では、その莫大な財力を徳川が持ち続けること事態が、薩長にとっては大きな政治的な障害になるということである。 万一、慶喜が新政府にも参加するということになれば、新政府は徳川の400万石の財力に依存せねばならなくなり、自分らの思った政策を実現できなくなると大久保は思った。 「慶喜公は頭のよか人たい、400万石もの莫大な金の力で、おいどん達は絡め獲られてしまうことになっぞ。今度の大政奉還が慶喜公の頭の良さば証明しとる。このまま新政府の出来てしもうたら、おいどん達は、なーんもできんようにされてしまう、ここは、よう考えばいかん」
大久保はまず、西郷を説き、西郷を説得したうえで、自身の考えを藩内に推し広めた。 薩摩の侍にとって西郷は無二存在である。西郷のいうことなら誰も目をつぶって従う。
大久保の、その熱い思いが長州を飲み込み、その「武力倒幕」という言葉が薩長の合い言葉になっていった。 大久保が推し進めたこの「武力倒幕」の合い言葉は、薩長の絆を更に強めたが、薩長首脳陣もこの言葉の重大さを認識していたので、このことは極めて秘密裏に進められてきた。
(もう少しだ・・)
と大久保は思っている。 慶喜が「大政奉還」を実行する以前、大久保と岩倉は慶喜を引きずり下ろす為、偽の「倒幕の密勅」を作って慶喜を引きずり降ろそうとしたことがある。
(あの時は、そうしなければ、戦争になると思ったからだ)
と岩倉はいう。
それが、今度の徳川領地の召し上げには、かたくなに抵抗しているのだ。 この2、3日の間、大久保は岩倉の粗末な屋敷に乗り込み、小松帯刀など主立った侍で取り囲み、何度も、幕府領地の返納を詔にいれることを頼み続けている。
岩倉も慶喜が新政府に残留することの危険性は理解しているが、400万石全てを簒奪することは、天下の大乱の元になるような気がして賛同できなかった。 今、「王政復古の詔」をしたためた紙切れは、岩倉の座っている脇の小机の上に置いたままである。
「徳川の全ての領地を返納しろなど、なんと恥知らずなことを・・・、それは、あんまりではおまへんか、そ、それはな、徳川の家臣に飢え死にしろというのとおなじじゃ!・・、それに、尾張、越前、土佐の藩主達もこんな無謀な案を黙ってのんだりしまへんで!」
と、岩倉は怒りで震えていた。
(こんな悪巧みに、誰が乗るもんかいな。悪人供!慶喜に対して「官位の辞退はまだしも、領地の返納をさせること」など、とんでもない!)
岩倉は大久保の知恵と豪腕な政治力は知っている。
常人にはない能力で一目おくが、好きにはなれないし、それに、次第に信じられなくなっている。
しかし、一方の大久保もあきらめない。あきらめると、命がなくなる。 薩摩の大軍3,000名を率いてきて「やっぱり、新政府はできませんでした」で、帰れる筈がない。恥だ! そうかといって、慶喜と徳川領地をそのまま残すことは、どうしてもできない。倒幕の意味がなくなってしまう。
(困った、・・・なんとかならんのか)
もし失敗すれば、その時は腹を切ればよか・・。 大久保の凄みは、一見、不可能なようなことも、その豪腕で押し通してしまうことである。 筆者も尊敬する人物の上位に大久保の名をあげるが、好きにはならない。 大久保は頑固であきらめない、それに汚い手を平気で使う。 大久保は岩倉の頑強さに言葉を無くし、しばらく考え込んでいたが、やおら、岩倉の側まで這うようにして近づき、
「ところで、岩倉様、・・・今日、岩倉様の蟄居の件は、お上からお許しばもらいました。近いうちに、御所にも参内できるようになります。・・・、それで・・、もう一度、お考え頂きませんか?・・・今の我々には、先年、幕府軍を完膚なきまでに粉砕した長州の軍勢と、国元にまだ3万もの命知らずの軍勢を持つ我が薩摩が、岩倉様を支えてます。・・できんことは、何もなかです。今、この時期を逃して、いつ、この国を新しく生まれ変わらせることができるでしょうか・・、もし、これ以上、岩倉様が駄目だとおっしゃるのであれば、我ら全員ここで、腹を切ります。これが最後の願いです」
そういうなり、大久保は短刀を引き抜き、前に置いた。 そして、
「もう一度、ご再考頂けねば。我等一同ここで腹を切ります。・・ですから、何卒、ご再考を・・」
と、大久保は腹からしぼり出すようにいった。
(・・、この国を新しく生まれ変わらせる・・)
これは、佐賀の江藤もいっていたことだ。大久保のいうことは信じられないが、佐賀の天才、江藤がいったことなら・・、と、岩倉卿の脳裏に江藤の顔が浮かんだ。 松尾伝五郎と前田省吾が京に着いたのは師走の6日、夕刻だった。 京は今、諸藩の兵で溢れている。
「新撰組の方はもう、京を出ていかれたのと、ちゃいますか・・」
「そうどすか・・、それで、どこへ・・」
「さあ、・・」
京都の芸子達の話を聞いていた商人らしい中年の男が、
「なんでも、伏見のほうに行かれたという話でっせ」
と、横から加わってきた。
「これで、少しは暮らしやすくなったと思ったらこんどは、この始末・・」 その商人風の男はそういって、あたりを見渡した。 まわりの道には、どこかの藩兵の姿が目に付く。
「ほんま、かないまへんなあ・・、いい加減・・」
「そうどすわ、新撰組の乱暴お方達が見えへんようになったと思ったら、こんどは、どこぞのお侍ばかりですし、こわいわあ」
そういって芸者達は路地へ消えていった。 今、二条城には幕府軍1万ほどが集結しており、その他、会津・桑名などの佐幕派、又、一方には、薩摩、長州、安芸、尾張、土佐、越前などの尊皇派の兵が集結していて、まさに、洛内はいいようのない張り詰めた空気が流れている。
加賀前田藩も京都藩邸に兵600程の小銃隊を置いているが、旗幟は鮮明にしていない。 省吾と松尾伝五郎は佐賀藩邸にたどりつくまで、2、3度、足止めされて調べられた。 だが、佐賀藩の者ということがわかると、直ぐに、解放された。 佐賀藩邸に着くと、ここも、もう開戦前夜という雰囲気だった。 ふたりは、江藤や大木に到着の挨拶をしたが、ふたりは、
「無事でなにより、取り合えず、ゆっくりしてくれ」
と、いった後、何やら話し込んでいたが、
「・・・、いやあ、岩倉卿には、とても会えん、薩摩兵からは銃で脅された位だ。・・もう、待つしかない」
そんな江藤の声が聞こえた。 翌日、12月8日、省吾は朝起きると直ぐに表へでてみた。
(明日は何が起きるか分からん、早めに起きて、知恩院へ行って、様子を見よう)
と、昨日、大木喬任が、何かあったら知恩院に集まるようにと、いったからだ。 藩邸の外は、さすがに、早朝ということもあって、静かな朝であった。 しばらく、朝の冷たい風の中に佇んでいると、
「昨日、江藤さんはあれから、長州藩邸へ出かけて行って、品川弥二郎殿に会ってきたらしい。だが、王政復古の件で慌ただしい状況の中、細かい話はできなかったとのことだ」
伝五郎が後ろからやってきて、話してくれた。
「そうですか・・、では、何か起きそうですか」
振り返りながら、省吾が訊いた。
「分からんが、準備はしておいたほうがいい
」 伝五郎は静かに答えた。 その日、御所では朝議が開かれ、まずは、王政復古の大号令の前に、決定するべき案件があり、そのひとつは、先日決まった岩倉卿の蟄居の赦免が、この日の朝議で、正式に認められた。
その次は、今だに博多に落ち延びている尊皇攘夷派の5卿の赦免も、同時に行われた。
そして、最後は長州藩の赦免についての議題があがったが、さすがに京を焼き尽くした長州には、今だに憎悪を抱く公家が多く、特に、親幕府派の中川宮朝彦親王などの痛烈な反対もあり、かなり紛糾したが、翌12月9日朝方には反対派が折れて、なんとか長州の赦免が認められた。 これで、長州藩は正式に京へ入京できることになったのである。
ただ、大久保のどす黒い手腕は、そんな親幕府派の公家が朝議を終え、門を出た途端に起きた。 まだ、日が上らない時刻、親幕府派の公家が門を出るや、一斉に門が閉ざされたのである。
そして、薩摩、長州、安芸の藩兵が閉ざした宮中で、岩倉卿などの倒幕派が見守る中、若い天皇が王政復古の大号令を発表されたのである。
これで、今までの幕府体制・制度は撤廃され、総裁、議定、参与の三職が制定されたのである。
翌日、二条城に集合していた幕府軍は、 この王政復古の詔に慶喜公への「官位の辞退、領地の返納」を求めたことを知るや、城内は激昂に包まれ、今にでも暴発する寸前の事態となった。 ただ、この慶喜公への「辞官、返納のこと」は公家や土佐の山内容堂などが猛烈に反対していることもあって、実態は朝廷側と幕府側が同時に政権を運用する形のままの状態に陥り、諸侯を戸惑わせるだけであった。
江藤は早飛脚でこの事態を知らせたが、閑叟はじめ藩首脳は江藤のこの知らせに戸惑った。 そんな空気の中、二条城の慶喜は12月12日に、京での自軍の暴発を恐れ、この日、大坂城へ引き上げた。
その慶喜の大坂城引き上げには、幕府藩兵も従わなくてはならず、渋々と引き上げていった。 この時の慶喜にはまだ、余裕があった。 幕府軍の装備も、少し乗り遅れていたが、近代化が進み、西洋化された歩兵、7000名程が薩長に対抗できるようになっており、更に、幕府軍は佐賀藩と同じく、騎兵の訓練にも取り組み始めており、時間が経てば、薩長に対抗できる程の軍隊に強化できる可能性があった。
それに引き替え、朝廷側の薩長軍は、肝心な軍資金が底をつき、大久保や西郷を悩ませていた。
「このまま、時が経てば、経つほど我が軍が不利になりもうすなあ」
と、西郷がつぶやいた。
「・・・、もう、こうなれば、奥の手ば使うしかなかかなあ」
と、大久保がいうと、
「佐賀藩は、まだ、なにもいうてきまへんか?佐賀藩は景気がようて金廻りがいいらしいと、誰かがいうてたのになあ・・」
と、岩倉がいうと、
「なんか知らんばってん、殿さんが病気で、もう少し上洛が遅れると、留守居役が来て言って帰りました。ほんなごつ、この期に及んで、天秤にかけて、様子見というところでしょう・・、ちくしょうが!」
大久保は明らかに佐賀藩に不満をもっている。 この新政府の危機に、
(遅れるとは・・・、許せん!)
大久保の立場からすると、その怒りは当然である。
「ともかく、この身からも、江藤に言って、上洛を急ぐよう言い聞かせておく・・」
岩倉はそう言って、大久保をなだめた。
「こうなったら、もう、あの手しかありません」
と、大久保は腕組みしたままの西郷に言った。
「ほんなごて、やるな?いちぞうどん・・・」
「やるしかなかと、思います」
「そうか、・・」
「分かった、おいどんの名前でよかったら、いくらでんつかってよか、お任せしもんそう」
西郷は、そう言った。 それは、薩摩藩が仕掛けた江戸攪乱戦のことである。強盗、火付け、乱暴狼藉を行い、幕府を挑発することであった。準備は既に整っており、彼らは命令を待つだけであった。
12月15日 江藤はその日、朝から富山藩の谷口兵部を待っていた。 実は、新式鉄砲購入の件は、谷口兵部と富山藩の京屋敷に宿泊している、山口新七と田代平太という佐賀藩士を介して進められていたが、昨日、谷口兵部宛てに佐賀の島から早飛脚が届いていた。
谷口はその飛脚便で送ってきた島からの書状を読んで、直ぐに田代平太を江藤の元に走らせたのである。 その書状の内容は、「加賀藩の新式鉄砲の件」について、富山藩と佐賀藩で、至急、話し合いを行って欲しいということであった。
島義勇と英国商人グラバーとの間では支払いの件については、佐賀藩の付け払いにすることで決着したらしい。 島からの書状には、富山藩か加賀藩の方で、横浜まで鉄砲の引き取りに来て欲しいとのことが書いてあって、詳細は谷口と江藤で詰めるようにとの内容である。
谷口は新式鉄砲買い付けの礼と、受け渡しの詳細を詰めるために佐賀藩邸を訪れたのである。 この日、佐賀藩京都屋敷の小出留守居役は朝から出かけることになっていたので、谷口と江藤等で詰めることになった。 谷口は今日は、配下の者2名と、富山藩邸で寝泊まりしている山口と田代も伴ってやってきた。
「いやあ、先日は、いつ、戦さになるかと、ひやひやしましたが、慶喜公が大坂へ、引き上げて下さったおかげで、戦いもなくほっとしております」 と、谷口は江藤の顔を見るなり、挨拶もそこそこにいった。 実は、谷口の本藩である加賀藩は蛤御門の変の折りに、藩主の前田公が戦さが始まると、京から逃げ出したことを咎められて謹慎をさせられる、という失態をしでかしたこともあり、今度の王政復古の大号令の発表にも加賀藩の緊張はひとかたなかった。 谷口は、屋敷内に入ると、形を改め、
「この度の閑叟公の多大なご厚情、我が藩主・前田慶寧よりくれぐれも御礼申し上げるようにと仰せ付かって参りました・・・」
と、深々と頭を下げた。
それからは、屋敷内の一室で江藤と大木が谷口が受け渡しの方法などを話しあって、詳しい段取りを決めていった。 江藤は、その席でも頭脳の切れ味を披露した。 まずは、佐賀藩が立て替えた、代金の決済の方法を決め、横浜での荷の受け渡しの具体的なことなどをほとんど、ひとりで決めて、
「・・それで、よございますか、・・・では、そのように・・」
などと、てきぱきと話をまとめていった。
「なるほど、そのようなことまで、ご存じとはと・・」
谷口は江藤の博識におどろきながら、大方は頷くだけで良かった。 そんな風で、話し合いは順調に進み、その談合が終わったのは、昼時前であった。 「・・いやあ、なんとも、誠に、お手数をお掛け申した、なんとお礼を申してよいやら、貴藩には大きな借りができましたな。我が殿にも今日のことをお伝えいたす。今後とも、宜しくお頼み申し上げる、では、これにて」
江藤と大木は谷口一行が引き上げるを見送った。
島の書状には、2000丁の鉄砲は正月10日頃にはグラバー商会の小型蒸気船で横浜に到着する予定であることも書かれていたので、念のため、大木と前田省吾が江戸に行くことなった。又、最後に佐賀藩で500丁のスペンサー銃を追加で買い付けたので、一緒に受け取るようにと書いてあった。
「江戸表には早飛脚で、お主等のことは知らせておく。江戸藩邸に着いたら向こうの、しかるべき人の指示に従ってくれ。今日の話し合いで決まったように荷の引き取りには加賀藩の方から横浜へ出向いて、荷を受け取ることになる、我が藩は、その立ち会いをするだけだ」
富山藩との話し合いが終わった後、江藤が言った。 さて、そんな佐賀藩に新政府から閑叟公宛ての上洛命令が届いた。日付は12月19日である。 又、 その前々日の12月17日には、徳川慶喜公からの各藩への動員命令が届き、京はもとより、日本全国は混乱の中にあった。
恐らくこの12月17日から7、8日間の間は、早飛脚が全国を飛び交う異様な光景になっていたはずである。 勿論、在京藩士の江藤等も、混乱するばかりで、早飛脚を送っては、国元の返事を待つことしかできなかった。 江藤は佐賀を発つ前に、島から幕府軍が新型鉄砲をもった歩兵大隊を組織して訓練していること知らされた。どれくらいの規模かは分からないということだったが、
「最低10,000名位は考えておいたが、よかとじゃなかか」
と、島は言った。 江藤は考え続けている、
(この戦さ、どちらが勝つか、新政府軍か旧幕府軍か・・)
負ける方に付けば、佐賀藩は終わりだ、ここは慎重に考えねば。 と、1日中、部屋の中で考え続けている。
(確かに慶喜公が新政府に残るということになれば、大久保のいう通りかも知れん、我々が行いたい政策がやりにくくなる可能性はある・・・、だが、今、どちらが勝つかといえば、多少、江藤には幕府軍のほうが有利に見えた、海軍戦力では、薩長は勝てないし、旧幕府が新式銃を持った歩兵大隊を創設したとすれば、旧幕府軍が有利に見える)
と、思った。 そう納得して寝転んでいると、ふと、別の考えが浮かんできた、
(・・いや、待て、今、鍵を握っているのは、我が佐賀藩だ!我が藩が味方した方が最後には勝つ!)
と、思い直した。
京の都で様々なことが起きてる時、佐賀藩はまだ、旗幟を鮮明にせず、ただ、おお殿閑叟公の病状の回復を待っているだけであった。 その京の混乱が続いている最中、横浜、長崎と飛び回っていた大隈重信が血相を変えて佐賀のお城に現れた。
「どうした?そがん、血相かえて!」
藩庁の年寄役原田が大隈を引き留めると、
「我が藩は朝廷から疑いば、かけられてますぞ!一大事です!」
と、城中に響き渡る大声で叫んだ。
「藩の一大事ですたい!このままじゃあ、我が藩は朝敵にされてしまいますぞ!」
と、大隈は、何度も大声で叫んだ。
「待て、大隈!もっと、冷静に話してみろ!」
と、原田が一括すると、大隈も少しは冷静さを取り戻したようで、長崎で聞いてきたことを話し始めた。 佐賀藩は加賀藩の新式鉄砲のつけ払いで2000丁の他に、佐賀藩独自でスペンサー銃500丁の追加購入をおこなったので、その件で大隈を横浜に派遣し、廻船問屋と話を詰めさせたのだ。 大隈はグラバーの船で横浜に行き、そこから長崎に戻ったが、そこで知人の薩摩藩士に会ったらしい。 そして、その薩摩の知人から、聞いたことが、
「京の大久保さんらが、佐賀藩の動きに疑いば持ち始めているらしかぞ」(佐賀んもんは、なんばしよっとか!なあんも分からん、どうも、幕府につくごと見ゆるが・・。佐賀は侍・足軽全部が連発銃ば持っとるらしか、油断できんぞ!ひょっとしたら、先に佐賀に軍勢ば差し向くるかも知れん、用意ばしとけ!)
大久保はそう言ったらしい。その友人は、
「このまま、何もせんで動かんじゃったら、佐賀藩は朝敵にさるっぞ!」 と、忠告してくれた。
「そりゃあ、まずかぞ!早う、なんとかせんば・・」
「おお殿さんに、出てきてもろうて、大隈の話ば聞いてもらおう」
そんな風に、城中で騒いでいると、請け役の茂昌が出てきて、
「話は分かった今日中に結論ば出す」
ということになった。 結局、大隈のもたらした報告が、藩の中枢を動かし、最終的には閑叟公が、
「幕府には何のうらみもなかし、昔の恩義はあるが、さすがに、朝敵にはなれん!京にいく準備ば始めよ」
と、この時、まだ病床にある閑叟が久しぶり力強い声で言い放ったとか。 12月26日のことである。 早速、この閑叟の決定を知らせる早飛脚が京に向かって発せられた。 12月31日 この日、早朝、岩倉邸に3人の侍が姿を表した。 この岩倉邸の廻りには薩摩兵が厳重に廻りを取り囲んでいて、3人の侍はその薩摩兵数人に槍を突き付けられている。
「何しにきたとか、ここは誰も通すなといわれちょっと、帰れ!」
と、責任者らしき男が殺気だって言った。 3人はじりじりと後ずさりしながら、
「あやしかもんじゃなか、岩倉卿には、お許しばもろうとっと、取り次ぎば、お願いしたか・・」
と、言ったが、薩摩兵は更に槍先をつきだして3人の侍に迫ったが、その時である、
「お待ちなはれ、そのお方達は、岩倉卿のお客人でおじゃる、無礼があってはなりません」
突然、庭先から中年の女官が現れ、薩摩兵を諫めた。
「江藤様とお見受けしました、岩倉卿がお待ちです、こちらへ・・」
と、部屋の中へ案内してくれた。 屋敷の中に入ると、部屋が増えて、以前とは少し変わったようだったが、粗末な家は昔のままである。
「江藤、しばらくであったな。この家へは、この身も久しぶりに戻ったところでな、・・・」
と、岩倉は疲れているように見えた。 少し奥まった部屋に入り、近況を簡単に話し会った後、 岩倉卿は薩摩藩に半分監禁されたようにして
(王政復古の大号令)をやり遂げたことや、その後の、小御所会議の様子などを話してくれた。
「いやはや、もう、あんな思いは二度とご免や・・」
岩倉卿は心底いやだったらしい。
「でもなあ、これも、朝廷やこれからのこの国のためや、しゃあない」
と、いって江藤の方へ向きなおると、
「昨日、ある男が忍んで来て(この箱を岩倉卿に渡して欲しい)と言って帰ったそうだがのう・・」
と、岩倉は昨夜のことが、江藤からのものだと直ぐに分かったらしい。 江藤はその箱の中に、九谷焼きと今日の日付を書いた紙切れを入れておいた。 「それで、今日はいい知らせであろうな」
と、岩倉がいった。
「はっ、誠にお忙しいところ、かたじけなく存じます。実は、我が藩主親子も、用意が整い次第、佐賀を発って兵を引き連れ、参上致します。ですが、数千の兵を引き連れてのことになりますので、年開け、少なくとも1ヶ月位は準備がかかるものと思います。それで、本日は、そのご報告と・・・」 と、いって江藤は大隈が持っている包みを岩倉の前に差し出した。
「これは、なんじゃ・・」
と、聞いたので、江藤はその包みを開けて、
「我が主が、卿の何かのお役にと、申しまして・・」
江藤はその包みを開いた、
「ささやかですが、・・・」
見ると、中に、3個の紙包みが見えた。
「これは・・」
3百両の小判の紙包みである。
「ほう・・・、佐賀の殿は、細やかなお気遣いをお持ちの方のようじゃのう」
と、口元を緩ませた。 実は、新政府の内情は火の車で、京、大坂の商人達のもとへ金策に駆け回っているのが実情であった。
「それと、本日は、我が同志、2名を是非とも岩倉様にお目もじ頂きたく同道させました。両名、名は副島と大隈と申しますが、昨日、急遽、蒸気船と小舟を乗り継ぎ、上洛致しました。両名共、尊皇の大義を古くから唱え続けています我が藩、義祭同盟の同志でございます」
と、ふたりを紹介した。
「ほう、それは嬉しい、両名とも古くからの尊皇の義士とは心強いのう」
岩倉は深くぬかずくふたりに目を細めた。
「我ら三人、我が佐賀藩の朝廷への真心を示すためには、何でもいたす覚悟で参上致しました。岩倉様、又、新政府のために我ら三人が何かお役に立てることがあれば、なんなりとご命じ下さい」
そういって江藤も頭を床に擦りつけた。
「江藤、嬉しいぞ、そなたの心根は亡き姉小路卿から、何度も聞いていた。頭は刃物のように鋭いが、心根はわら等公家と同じように柔らかな心根だとな。あんな薩摩や長州の獣とは違っていると、いわしゃっておいでじゃった」
岩倉の本音を聞いた思いだった。 その日はそれ以上の話はなく、岩倉は帰り際、
「江藤と大隈、それに副島、そなた等のことはよく考えておこうと思う、それに、三条卿が戻られたら三条卿にも話しておく」
と、いって3人を見送った。 その日、江藤等三人が佐賀藩邸に帰ると、驚くような報が待っていた。
「江藤殿、江戸の薩摩藩邸が幕府に襲われ、薩摩人が多数、切られてしまったようです」
と、松尾伝五郎が教えてくれた。 この松尾伝五郎、戦国の世の言葉でいえば、「忍びの者」と呼ばれるようなことを行っている。 ここ2、3年は、時折り、請け役鍋島茂昌の近くの側近の者達から、使いがきて、用件を伝えにくる。今回の江藤の護衛随行については
(京都屋敷では江藤殿からの指示に従うように)
と使い番の者が告げて帰った。ひと月程前のことだった。 佐賀藩では戦国の頃、忍者のことを「忍びの者」とよんでいたようだが、戦国当時、甲賀か伊賀から雇われて佐賀藩に仕えていたらしい。 ただ、戦国の世が終わってからは、嬉野あたりに住み着いて、伝統の技を守り抜いてきたという話を聞いた。 その部落には数家族が暮らしていて、伝五郎も小さい頃は父と一緒に山伏みたいな生活もしたことがあった。
父親は伝統の忍びの技は勿論のこと、タイ捨流の剣術の稽古にも厳しく、伝五郎は元服する頃には、かなりの腕前になっていた。 父親は以前は手明き槍という身分で、普段は百姓もしていたが、時折り、何かの役目のため、数ヶ月も家に帰らないことがあったのを覚えている。 やがて、伝五郎は元服すると、嬉野の宿役人に取り立てられて、しばらくは嬉野の地で暮らしていた。
そして、伝五郎が嫁をもらって、間もなくの頃、父親はなくなった。 その父親が臨終の床で語って聞かせたことが、父親の裏の仕事であった。 父親が亡くなってからというもの、佐賀本藩では蘭学を取り入れた大改革が始まり、国内では黒船の渡来以降、「攘夷」を叫ぶ薩・長などの過激な藩が表れてきて、国中がすこしづつ慌ただしくなっていた。
そんな国内情勢の下、これから、どう世の中が動いていくのかを知ることが、各藩にとっても重要になっていた。 そんな中、嬉野で宿役人をしていた伝五郎に、佐賀本藩から呼び出しがかかり、佐賀本藩の管理下で裏の役目に就くことになったのである。 本藩内では、お徒組に一旦編入されたが、世の中が激しく動き始めると、お徒組で務めるより、全国の情報収集で日本中を飛び回る日々が続いたそうだ。
江藤は伝五郎から江戸での話を聞いて、(これから何かが起こる)と思った。
「伝五郎さん、これからは忙しくなる、もう、3、4名程、田舎から仲間を呼び集めてくれれば助かるが・・・」
唇をかみしめて江藤がいった。
「分かりました、仲間の件は、島様からも、必要になったら増やすようにといわれています。直ぐに、早飛脚を出しておきます」
「それは、助かる・・、大隈、副島さん、幕府はもう黙っていないと思いますが・・・。我らは佐賀からの軍勢の受け入れる宿所の手配を急ぎましょう」
「そっちは江藤に任せておく、おいと大隈で長州藩邸に行って、これからどうなるか様子ば見にいってくる」
と、副島がいった。 副島はもう四十を超えていて、長州にも知り合いが多い。
「わかりました。そいじゃ、おいは、薩摩屋敷にいってみます」
江藤は大隈が長崎で聞いたという大久保のことばが気になっていた。 (あの男、少し遅れているからといって、佐賀に軍勢を向けるなど、許せん・・・、ひとこと言ってやる!)
「江藤さん、気ば付けて・・、薩摩もんは、なんばすっか分からんけん」
大隈は少し不安そうにいった。
「まかしとけ、薩摩もんに、ひとこといっとかんば、気のすまんたい」
江藤は、珍しく感情をあらわにしていった。
3.鳥羽・伏見、京 正月
慶応4年、正月元日の京は、例年とは全く違った雰囲気で、都のいたる所が緊迫して見えた。 新政府軍の兵隊らしい西洋風な軍服を着た兵が多く、薩摩・長州の兵らしい。
そんな京の中で、御所の西側にある郡山藩邸で大工の親方数人が佐賀藩留守居役配下の侍と屋敷の改造案を話し合っていた。 この郡山藩の広大な藩邸の一角は今後、佐賀から上洛する軍勢の宿舎となるのである。
「最初は1,000名程の軍勢ばってん、最終的には6,000名程度の軍勢になると思っているが、・・・」
「それじゃ、6,000人程度が泊まれるように、作り直せばいいんでっしゃろな・・」
「いやあ、そこまでは・・」
「いやあ、それじゃ、困りまっせ、どの程度にすれば、いいんでっしゃろ・・」
と、先程から、この屋敷をどう改造すればいいか、佐賀藩役人と大工の親方の問答が繰り返されている。 そこへ現れたのは江藤新平である。
「そうだな、取り急ぎ1,000名が泊まれればいい、もし、足らなくなったら、その時、考える」
と、横から割って入ってきた。
「江藤さん、それでよかとですか?」
と、若い藩士が心配そうにいった。
「勿論、いい、おいが責任持つたい」
江藤は、今日、近くの岩倉の仮住まいを訪ねてみたが、さすがに、旧幕府の侍達が薩摩藩邸を焼き討ちしたおかげで、戦さになりそうだというので薩摩藩邸に行ったきりだとのことだった。 その帰り道の途中にある、この郡山藩邸を覗いてみたのである。 この広大な郡山藩邸の一部を佐賀藩用にと、勝手に決めてくれたのは岩倉である。
「ここに佐賀藩の軍勢を留めておくことが朝議によって決まった。柳沢はこの藩邸の半分を佐賀藩に早急に引き渡すように」
新政府の議定副総裁に就任した岩倉に、できないことはない。 たとえひとりで決めたとしても、朝議で決定したといえば、誰も文句がいえない。 この広大な郡山藩邸は新撰組などが使った時期がある位、広大なので、今の郡山藩には大きすぎた。
「遠慮することはない、それに、御所の側に佐賀藩兵がいてくれれば、お上も、心強うあらせられる」
柳沢も渋々引き渡しに応じた。 江藤は留守居役配下の役人が帰った後、大工の親方等に指示を与えていると、後ろから声を掛けられ、振り向くと、干し柿売りの男が立っていた。
「何用か・・」
と、いいかけて、よく見ると、伝五郎である。
「ふふっふ、なるほど、こういう風にな・・・」
「はい、昨夜から、あちこち歩き回っています」
と、伝五郎はしゃべり方まで、町人になりきっている。
「それで、薩長の動きはどうな具合だ?」
と、大工の親方達には、聞こえないようにして聞いた
「昨夜からこの格好であちこち行ってみましたが、どうも、薩長両藩は東寺を本陣に決めたようで、兵を東寺の南側に並べ始めました、それに伏見方面にも兵を集めているようです」
「なるほど」
いわれてみれば、理にかなっている。
「あのあたりなら、御所を守るにも丁度いい距離だ」 (だが、天王山方面から敵がくれば、どうするのか・・)
江藤は、もし幕府軍が新式銃を装備した歩兵8,000を鳥羽・伏見方面と天王山方面の2カ所から攻め上ってきたら、幕府が有利になると思った。 その夜、江藤、大隈、副島の3人は正月気分などすっかり忘れて、この戦さの議論に熱中した。
「この戦さ、どちらが勝つか・・・、それに、薩長が負けたら我々はどうするかだが?」
と、副島が切り出した。
「そうですね、幕府方が最新洋式歩兵軍を主力として攻めてくれば、数にも寄りますが、7対3で幕府方が勝つと思います。島さんの話によれば、幕府が新たに創設した西洋軍団は約8,000です。薩長の5,000より多い。今度は以前の長州攻めの時のようにはいかないと思います」
江藤が静かに答えた。
「江藤さんが、そうおっしゃるのであれば、ほぼ、間違いなかと思いますばってん、今度は薩摩が加わっていることば考えると、私は薩長が有利だと思います。薩摩軍の勇猛さは国中に知れ渡っています」
と、大隈がいった。
「なるほどな、・・・おいは、戦さのことはよう分からんが、やっぱり、旧幕府軍が有利なような気がする」
と、最年長の副島がいったところで、三人は考え込んでしまった。 しばらくして、江藤が、
「今の薩長が負けても、我が藩一藩でも、幕府に対抗できます。もし、今度の戦さ、薩長が負けたら、とにかく帝と一緒に北へ丹後へ落ちのび、そこから蒸気船で佐賀へお連れします。そして、そこで幕府と再交渉します」 「その交渉とは?何について?」
副島は鋭い目を向けた。
「まずは、今、薩長が主張している通りに、慶喜公には将軍職を辞めてもらい、新政府には参加するのも、あきらめてもらうということです。その後のことは、図海策で述べとる通りです」 江藤の声は自信に満ちている。 「ふむ、我が藩一藩で幕府と・・」
と、隣で大隈は腕組みして考え込んだ。
「九州に帝ば、お連れすれば、黒田藩も細川藩も朝廷には逆らえんでしょう。それに、薩摩にはまだ国元に軍が残っておるし、・・、万一、我が藩一藩となったとしても、幕府との戦さには負けはせん」
江藤は静かに言い返した。 翌日、正月2日、幕府歩兵隊、会津兵、新撰組などの諸隊が大坂城から出兵して一旦、淀城周辺に集結し本陣を置いた。 伝五郎は、今日は野菜売りに変装して伏見街道から鳥羽街道の脇道を歩き回ってきた。
伝五郎があたらしい佐賀藩の旧郡山藩邸に帰ってきた時、江藤や副島それに大隈は、だだっ広い広間に火鉢にあたりながら餅を焼いていた。廻りには武装した佐賀藩藩士50名程が鉄砲や刀をもって3人の廻りで待機している。 もし、薩長軍が破れた時は元の佐賀藩藩邸に残っている40名もこちらに合流することになっている。
「伝五郎さん、佐賀からの仲間が到着するのはどれ位になるかのう」
と、江藤が聞いた。 さすがに、この戦時には、伝五郎のような男達が頼もしく見える。
「恐らく、船でくると思いますので、4、5日もすれば到着すると・・」
「うん、それは、よか、万一のことになったら、頼もしか味方たい」
と、江藤は最悪の事態を考え続けている。
「ところで、江藤、薩摩・長州の連中は我らがここに待機しているのは知っとるかのう、間違って攻撃されることはないか、ちょっと気になるが・・」 と、副島がつぶやいた。 江藤は、
「今、西郷と大久保は戦さのことで、頭が一杯でしょう、とても、我らが逃げる算段をして待機しているとは、とても言い出せません」
と、いった。
今、新しい佐賀藩藩邸のその大広間の中央には岩倉卿からもらった錦の御旗が掲げられている。 その横には、佐賀藩近衛遊撃隊という旗指物まで用意してある。
「佐賀藩近衛遊撃隊」は副島の命名である。
「逃げる時にも、勇ましい名前があったほうがよかだろうと思ってな」
今、御所の廻りには200名程の薩長の護衛部隊が、朝廷の廻りを厳重に警戒をしている。 この佐賀藩の近衛遊撃部隊のある旧郡山藩邸は、その御所から西へ少し行ったところにあり、異変があれば直ぐに駆けつけられる。 昨晩、江藤は岩倉の仮住まいに伝五郎の手引きで忍び込み、
「もし、薩長が万一破れましたら、是非、我らが佐賀へお越し下さい。我が軍勢は、今は、まだ国元で準備に追われている最中ですが、完全に無傷です。佐賀の地まで来て頂ければ、九州中から十万もの軍勢と数百門の大砲が、帝や公家の皆様をお守り致します」
と、いったらしい。 副島と大隈はそれを聞いて笑ったが、 この十万の軍勢は、江藤の頭の中では動員可能な数字であった。 ただ、数百門の大砲は言い過ぎだが、長崎の砲台などからもかき集めれば100門以上にはなるし、まんざら、ほら話ではない、それに、佐賀藩だけが保有する最新アームストロング砲23門はそれこそ、一門で十門の大砲に相当する。そう考えれば、まったく過言ではない。 射程は倍以上で敵は近づくこともできないだろう。 その殺傷力を危惧して閑叟公は、この砲を同じ日本人に向けて使うことをためらっている。
翌日、正月3日、 ついに旧幕府軍は集結した淀で軍を二手に分けて進軍を開始した。 一隊は鳥羽街道を御所を目指して北上し、もう一隊は淀大橋を右折して伏見に侵入した。
それに対し、薩摩軍は鳥羽街道方面の前線では銃隊で散兵横隊を敷き、後方に大砲数門を設置して待ち構えていた。旧幕府軍先鋒隊は滝川播磨守が見回組を引き連れ「討薩の表」を携え、薩摩軍が設けた関所を突破しようとしたが、逆に南へ押し戻されてしまった。後方には、幕府歩兵隊や桑名兵などが、列をなして前進してきていて、前進する部隊と後退する部隊が衝突し、大混乱になった。
結局、薩摩軍の設けた関所で、「通せ!」だの「駄目だ!」だのと、押し問答を繰り返している内、一発の銃声が轟き、それを合図にしたかのように、薩摩軍が猛烈に射撃を開始したのだ。 旧幕府側は長い隊列のままで戦闘になってしまったので、あっという間に死傷者が増え、混乱のまま退却するしかなかった。 戦いが始まったのが、既に夕刻で、冬の日ということもあって、あたりは薄暗くなっている。
旧幕府側には見回組や会津藩兵など、銃を持たない諸隊も多く、それらの諸隊は、刀で白兵戦を挑むしか無く、時間と共に、薩長の激しい銃撃の前に、死傷者は増すばかりであった。 それでも、桑名藩などの銃砲撃の援護で、一時は挽回する場面もあったが、全般的に見ると明らかに、旧幕府軍のほうが劣勢であった。 やがて、陽が落ち、暗くなった戦場ではどちらからともなく、両軍の陣へ引き上げていった。 一方、伏見方面では、伏見奉行所に陣を張った旧幕府軍と、その近くの寺に砲兵陣地を築いた薩摩軍の間で、鳥羽口と同じような押し問答が繰り返されていた。
しかし、同じように夕刻時になって、鳥羽方面からの銃撃音が聞こえてきた。 それが、きっかけになって、薩摩軍が伏見奉行所に砲撃を開始した。 正月3日の夕刻の薄暗い中で、旧幕府軍は一瞬の内に大混乱になって、逃げ出す者もあれば、遊撃隊のように敵の鉄砲隊に刀をもって突撃する者もいた。 その突撃していった遊撃隊の者達はただ、いたずらに、敵の銃弾の犠牲になっていく。薩長軍の規律の取れた銃撃は、旧幕府側諸隊の切り込み隊をなんなく撃ち倒していく。 諸隊の名誉ある切り込みなど、銃弾の嵐の中では何の意味もない。
近代兵器による虐殺を見ているような、凄惨な光景が繰り広げられた。 多くの新撰組や見回り組、会津藩兵などが、情け容赦なく倒されていく、銃対刀の激しい戦いは陽が沈むまで続いた。 戦いは、次第に南側と西側に広がって行き、伏見奉行所は薩長に占領されてしまった。
この伏見での戦いは深夜まで続いたが、旧幕府諸隊はずるずると後退するしかなかった。 正月4日 鳥羽方面の薩長と旧幕府諸隊の戦いは、散発的に朝まで続き、諸隊の兵は食事も取れず、疲労と空腹の中で朝を迎えた。各戦線から落ちてきた諸隊は、下鳥羽のあたりの街道を中心に俵を重ねた物や、壊れた家の廃残物の影に隠れて、敵の攻撃に備えた。
やがて、態勢を整え直した薩長の部隊が広く、諸隊を取り囲むように展開して待ち構え、静かに、朝もやの中に姿を現わした。 そんな緊張した戦場を北風が通り抜けていく。睡魔と空腹に悩まされていた旧幕府諸隊には、その冷たい北風が恨めしかった。 朝日が戦場のかた隅を照らし始めた頃、西洋式軍服をきた幕府歩兵の一隊が整然と隊列を組んで南のほうから現れた。見た目は薩長軍と変わらない。
それに、幕府軍諸隊を苦しめた新式銃をもっている。 この新手は徳川慶喜が期待している幕府新鋭歩兵部隊である。 新手の幕府歩兵は素早く展開すると、取り囲んでいる薩長軍に向かって銃撃を開始した。 指揮官が先頭に立ち、幕府歩兵大隊の射撃を指揮していた。思わぬ新手の出現に油断していた官軍の一角が崩れた。それを見た、幕府歩兵指揮官は、「それ!」と軍配を振るい、追撃にかかった。 薩長軍は思わぬ敵の出現に、戸惑ったのか、右翼側から次第に後退を始めた。
会津兵や新撰組などの幕府諸隊は、最初、その銃撃戦を物陰から見ているだけだったが、思わぬ幕府歩兵の活躍を見て、勇気づけられた。
「見ろ!味方が勝っているぞ!」
と、寒さに震えながら、諸隊の誰かが叫んだ。 それに答えて、どこからともなく、
「おーっ」
と、いう声が、あたりから次々に巻き上がり、 それまで、寒さと飢えで、動けなかった諸隊の者達が、後退していく薩長軍を追い始めたのだ。 元々、数的におとる官軍側は次第に後退をし始めていたが、薩軍の一部から、白刃をもった一団があらわれて、幕府歩兵に斬りかかってくると、今度は幕府側が後退を始めた。
「ちぇすとーっ」と、いう怒声と白刃のきらめきが、戦場を支配した。 そして、その背後からは、再び、猛烈な銃弾が幕府歩兵をなぎ倒していった。 幕府歩兵隊は西洋式軍事訓練を受けている。その点では薩長とほぼ変わらないが、薩長が元込めのミニエー銃に統一しているのに対し、幕府歩兵隊はまだ、先込めのゲベール銃を持っている者も多く、銃撃の集中密度では多少劣勢であった。
だが、復讐に燃える幕府歩兵隊の戦意は高く、戦線各所で激しい銃撃戦と白兵戦が展開された。この激しい激戦の最中、幕府の指揮官が銃弾に当たって倒れると、幕府歩兵側に動揺がおこり、幕府歩兵は急激に戦意を無くし、後退していった。 戦いは、昨日と同じ光景が繰り返されることになった。 結局、幕府諸隊は再び、ずるずると後退しはじめた。
「下がるな、下がれば負けだぞ!」
「踏みとどまれ!」
「会津の侍魂を見せてやるのだ!」
会津藩や新撰組など、諸隊は最後の力を出して、再び、白刃切り込みなどで、薩長軍にも損害を与えたが、味方は壊滅的な損害でいたるところ死傷者で溢れた。 その頃、もう一方の伏見方面での戦いは、幕府歩兵隊と諸隊が、薩長と各個に戦って、朝から、ずるずると後退し、敗残兵のような格好で伏見市内に帰ってきた。 これを見た町人達の目には、旧幕府軍が負けたように見えたのだろう。
「薩長が勝ったようだす」
とか、
「幕府の人は、負けて帰えってこられたようどすわ」
などいう声が広がった。 確かに、伏見には薩長軍の兵ばかりで、兵達の顔は薄汚れて見えたが、笑顔や笑い声が絶えない。
「いあや、幕軍や会津兵は本気で刀で、勝てると思うとっとじゃなかろうか、哀れなもんだ・・」
「天下の幕府軍があれじゃあ、むごすぎるたい・・」
こんな声が伏見あたりでは溢れていた。 朝廷から派遣されている隠密達は、この伏見の実情をありのまま伝えた。
その知らせが届いた同じ頃、西郷からも、「お味方、大勝利!」との、知らせが朝廷に届いた。 この時、三条と岩倉は思わず互いの手を取り合って泣いた。 そして、あの陰険な大久保が、ほほえんで帰ってきた時は、後光が差して見えた程であった。
朝廷内では「薩長が勝った、勝った!」 との声が広がり、これまで、この戦いを疑心暗鬼で眺めていた公家達からは、途端に薩長への賛辞が巻き上がった。
これで、「錦の御旗を出してもかまへん」と、三条や岩倉等も決断した。 「江藤、決まったな・・、これで」
と副島がいった。
「そうですね、・・、我が藩も急がねば」
と、ふたりともこころなしか、気落ちしたように見えた。
(これで、佐賀を中心にした九州連合軍旗揚げは駄目になったか・・)
と、江藤は内心そう思った。
「まあ、これで、我が藩も大博打はうたなくてよくなった。薩長の後塵を拝するのは面白くありませんが、朝廷は安んじられる。良かったではありませんか、次は我々の出番です、江藤さん」
大隈はそう言って江藤を励ました。 結局、この鳥羽・伏見の戦いは「錦の御旗」を掲げた薩長の圧勝に終わった。これを契機に京、大坂周辺の大名も雪崩をうって新政府側へ寝返った。 江藤や副島はこの薩長主力の勝利によって、佐賀藩への風あたりが強くなるのは感じ取っていた。
「幕府諸隊は、やっぱり、まだ、時代遅れとしか思えん戦いでした。それと、決定的な差は、薩長の大砲の威力だったように思えました。幕府の銃隊もかなり善戦しとったとですが、大砲にふき飛ばされては、戦意ば無くしていたようで・・」
伝五郎は見てきた感想を話した。
「うむ、ご苦労、これから我が藩がどう挽回するかば、じっくり考えて見るたい、まあ、我が藩にはめでたくもあり、そうでもないかも知れん、勝負は今からたい」
江藤と副島は腕組みしたまま、何か話込んでいた。 開戦直後から、
「強大な佐賀藩が動かんとは、下ごころば持っとるからじゃなかか」
などと、薩摩藩などから疑いの声が出て、それが長州藩までに広がっていた。 佐賀藩には、かなり風当たりが強くなっている。 岩倉などには、万一の時には、佐賀で再起をはかりましょうと本心を伝えてあるが、それを岩倉が表立って話すわけにはいかない。それは、命懸けで戦ってきた薩長への裏切り行為になるからだ。 そんな逆境にも江藤は平然としていた。
「これからが、おいの出番たい」
江藤は力強くいった。
正月5日 この日も激戦は続いていた、鳥羽街道を中心にして薩長の小銃隊と幕府歩兵の小銃隊の打ち合いで一進一退の状況が続く中、会津隊の遊撃隊が薩長を悩ましていた。 ただ、薩摩軍の砲兵隊の攻撃は幕府歩兵を悩まし続け、幕府軍をじりじりと追い詰めていく。 そんな戦況下、旧幕府側は態勢を立て直そうと淀城を目指して撤退を続け、引き上げていた。 既に昼時は過ぎていたが、北風が体の芯まで冷やした。
「開門!、開門!」
と幕府将官等が大声で叫び続けたが、いっこうに城門は開かない。 尚も、城門を叩いていると、
「旧幕府の方々に、お伝え申す!」
という、年配者の声が響き、
「当淀藩は、賊軍となられた方々を城に入れる訳には参らぬ、早々と、お立ち退き・・あれ!・・・」
と、後のほうは涙が滲んだ声になっている。
「何故だ・・・」
「淀藩はお味方の筈!、開門下され!」
と、何度も懇願したが門は開かれなかった。
「・・そうか、・・・我が方は賊軍ということか・・・」
そういえば、薩長の後方には見慣れぬ、きんきらの旗が立っているのを思い出した。
「・・・、あれが、錦の御旗という訳か・・」
その時、はっきりと、薩長のはかりごとの恐ろしさを知った。 城内からは「賊軍を入城させる訳にはいきません、お引き取りを・・!」
と、絞り出すような声が、旧幕府軍、全軍に浴びせかけられた。
旧幕府軍がそんな悲惨な状況に追いやられていた頃、江藤は副島と共に京都土佐藩を訪れていた。お供は松尾伝五郎ひとり。 木屋町の土佐藩には軍装の兵20人ほどが門のあたりで警戒にあたっているようであったが、
「佐賀藩、副島という者です。後藤様にお取り次ぎを」
と、頼むと、直ぐに、取り次ぎの侍が出てきて、座敷に案内してくれた。 しばらくすると、後藤が軍装の侍と一緒に現れた。
「おおっ、これは副島殿、昨年はお世話になりました。いやあ、副島殿と大隈殿が脱藩の疑いを掛けられて、佐賀に連れ戻されたという話を聞いた時は驚きましたが、このように、又、お目にかかれるとは思いもしませんでした」
この副島と大隈は、今年の春先、致遠館の米国教師フルベッキから西洋の議会政治のことを聞いて、
「今の日本を救うのはこれしかない」
と思い込んだのだ。 このふたりには義祭同盟で培った尊皇という志があり、混迷する今の国内政治を打開するには、朝廷を中心として、列藩雄藩から送り込んだ代表が議会で議論し政策を決めるという議会政治しかないと思い込んだ。 そのためには、幕府が政権を朝廷に返還するという「大政奉還」案を実現すべく、慶喜公にあうために、藩に届けることもなく京に赴いたのである。
だが、そんな企みが藩に知られると、大隈と副島は慶喜に会見する前に、脱藩の容疑で佐賀藩に拘束され、佐賀へ送り返されたのだ。 その「大政奉還」案を慶喜に先に伝えたのが、この後藤象二郎と土佐藩主山内容堂だった。 後藤は副島も大隈もよく知っている。長崎丸山では高級藩士の息子である大隈から、何度も接待を受けて飲んだことがある。 後藤は、その「大政奉還」案を山内容堂に献言し、それが認められたことで土佐藩の家老職に就いたのだ。
「いやあ、それにしても、長崎ではよく飲ませていただきました」
と、後藤がいうと、
「いや、大隈はひとり息子で、金には困らない家柄なので、お気になさらず・・・、それより、この戦いの中、面会頂き、何とお礼申し上げてよいやら、痛みいります。それに、昨年は貴方様のおかげで我らが悲願の(大政奉還)を実現して頂きました。ただ、このような結果になるとは思いもしませんでした」
と、副島は頭を下げながらいった。
「いや、何をなされる、お止め下され、あの時は、それが一番と思ってやったことです。・・亡き、坂本も副島先生の朝廷を敬われる尊皇の誠を尊敬してやまないと、いつも、口に・・・」
と、後藤が坂本龍馬のことを話し始めると、途端に涙がかった声になっていた。
「いやあ、おなつかしゅうございますなあ、あの坂本殿のお人柄は誰からも慕われておいでで、我が藩にも、あんなお方がおいでであればと・・」
と、副島の声も幾分詰まり気味であった。
「・・、それでで、ございます。実はお願いがありまして、お伺い致しました。・・・、それで、この話をする前に、この度の戦況はいかようになると、お見通しをお聞かせ願えばと・・」
と、副島がいうと、 後藤は側にいた軍装の男の方を振り向いて、
「小笠原殿、さっきの話を、もう一度お願いできますか」
と、いって頷いた。 「ご家老、話してもいいので・・?」
「構いません、佐賀藩は我が同志です。話して下さい」
と、後藤は静かにいった。
「・・では、戦況についてですが、昨日までは混戦でしたが、今日はあきらかに、こちらが有利になりました。恐らく、幕府・諸藩連合はこのまま大坂城に入ると思います」
「なる程、でも、そうであれば、これからが本当の正念場となりましょうな」
と、いったのは江藤である。
「これは失礼致しました、申し遅れましたが、この男、江藤新平という我が藩では、西洋通の男で、蘭学の兵法書もかなり読んでいます。以後、お見知りおき頂ければと・・・」
と、副島がいった。
「ほう、大隈殿もかなりの西洋通ですが、それ以上のお方ということですか、これは驚いた・・」
後藤は江藤を見てそう言った。そして、
「それでは、江藤殿はこの戦さ、どのように、思われますか?」
と、訊いた。
「はい、出来れば、早期に休戦し、新しい政府を樹立し、新しい国作りを始めるべきかと思います。できれば、戦さは無かったほうがよかったと思います。長引けば、異国につけ込まれる隙を与えることになります」
と、江藤がいうと、
「それは、我らも同じ考えです。ですが、薩長はどうしても幕府を残しておきたくないらしい。ここまで来たら仕方ありません。・・・それより、貴藩の閑叟公が寝返られるという噂もありますが・・」
と後藤がいった。
「その件ですが、既に、我が藩の先遣隊は佐賀を出発しています。後10日もすれば、上洛します。ただ、藩主率いる本隊は6,000もの大軍を上洛させる計画であるうえ、海軍艦船も5隻余りを従軍させる予定です。その準備だけでも、かなり時を要します、他藩のように簡単には参りません。恐らく、上洛できるのは、早くても、来月初旬あたりになるのではと・・」
と江藤はいった。
「なるほど、それは、薩長の連中も喜ぶでしょう、今のところ、なんとか、幕府軍を京から追い返しましたが、今からが大変です。佐賀藩の強大な軍が味方に付けば、これ程心強いことはありません。それは良かった」
後藤は、そういって満足そうに頷いた。
「それで、今日は?どのようなご用件で・・」
と、後藤が改めて訊いてきた。
「いやあ、実はこの江藤が、これからの戦さのことで、お話をお聞きしたいと申しまして、・・、それで、使いを出して調べさせましたら、薩長の皆さんは戦場に出ておいでとのことでしたが、後藤様は、どうも、ご在宅のようだと、聞きつけてましたので、まかり越した次第で・・」
と、副島がいった。
「なるほど、それで、どのような?」
「これは、言いにくいことですが、万一、これから先、新政府軍が負けるような事態になれば、どうなされるのかと、・・・、もし、敗れるようなことになれば、帝や、公家衆はどのようになされるものか・・、特にお考えがなければ、我が佐賀藩へ落ちて頂くのが最良かと思いまして・・、今は勝っているからいいようなものですが、大坂城にこもった幕府軍と江戸からの援軍などのことも考えましたら、まだ、どうなるか・・」
と、副島がいった。
「なるほど、我らの方はみな勝った気でいますが、確かに、これからでございますな・・。最悪の場合には、九州、佐賀へ落ちて、そこで幕府軍を迎え撃つですか・・」
と、後藤は首を傾げて考えていた。
「はい、佐賀平野で幕府をむかえ撃つ決戦となれば、薩長や貴藩、それに我が佐賀藩を含めた九州諸藩の連合軍で十分に迎え撃てます」
と、江藤がいった。 後藤は江藤のいったことを、どう受け止めたか知らない。 しばらく、目を閉じて考えていたが、
「そうか、九州で最終決戦か、悪くはないと思います、・・もし、そのような事態に陥りましたら、あらためて、話し合うことになるでしょうが、その折りは是非、今の話をお聞かせ下さい」
後藤はそういってから、副島と江藤に頭を下げた。 それから、ほんの4半時程、佐賀藩の先遣隊到着後の話をしていたが、
「ご家老、そろそろ刻限かと・・・」
と、小笠原唯八がそばから声を掛けた。
「もう、そんな時刻か、早いな、今から御所で公家衆や薩長などと会合を開くことになっていますので、これにて・・、貴藩の軍のことは、私から西郷殿へ話しておきます、では」
と、後藤は立ち上がり、小笠原と数人の配下の者を従えて出ていった。
4.慶応4年正月、江戸・京
大木と前田省吾が江戸に着いたのは、慶応3年の大晦日の日であった。
ふたりが、江戸到着後、中屋敷の溜め池藩邸に入ったのは昼過ぎである。 江戸の冬は、本国佐賀と比べると、いちだんと寒く感じられる。 風が吹くたびに、ヒューッ、ヒューッと音がして体の芯が凍えてくる。
「藩邸についたら古川殿にあって、事情ば説明する。今度のご用は、おお殿、直々の命令であることば伝えれば、あとのことは向こうでも考えてくれる」
大木は京を出る前そういった。 その古川とは、古川松根という閑叟が幼年時代からのご学友を務めた人物で、側近中の側近である。
大木と省吾は大晦日と正月を迎えることになり、藩内の重役達や知り合いに挨拶回りを済ませた後は、江戸見物に出かけた。 大木は一度、遊学で江戸にきたことがあったので、省吾を連れて外に出てみたが、今年の正月は、前回、遊学できた時の江戸の町とは違って見えた。
「やっぱり、薩摩んもんの暴れかたが、激しかったんだろうなあ、町人達の様子が以前来た時より、なんとのう、活気がなかように見える」
と、大木がいった。
「きのう、大木さんの同僚の方が、今は、まだ危なかけん、あんまり遠くには行かんがよかって、いっておられましたし、今日は近か神社に参拝するだけにした方がよかように思いますが・・」
「うむ・・・、そうしたほうが良さそうだな」
ふたりは近くの山王神社に参拝して、すぐに中屋敷にもどった。 ふたりは、この時点ではまだ、京での戦いが始まろうとしていることも、知らない。 屋敷に戻ると、閑叟の側近古川用人から呼び出しがあったとのことで、ふたり揃って古川用人の部屋に行った。
「おお、帰ってきたか、早かったなあ・・・、外はどんな風やったかのう・・」
と、古川用人は火鉢にあたりながら訊いた。 「はい、今日は獅子舞なんかも出とらんでした、静かなもんでした」
と、大木が答えた。 この古川用人は重臣でありながら、少しも威張ったところもなく、ざっくばらんな人物に見えた。
「やっぱり、京も危ないだろうな、こっちも、幕府の侍やら火消し連中が市内ば見回っておるから、あんまり出歩かんほうが良かたい、・・餅でも食うか」
と、そういって近くの棚から餅を出してくれた。
「それで、前田家の人はいつ頃、横浜に行くつもりかのう」
古川用人が訊いた。
「恐らく、富山藩か加賀藩には荷受けの飛脚便は届いている筈ですから、こちらに何らかの知らせがもう、2、3日のうちには届くかと思っております・・」
「そうか、それまでは、こっちで出来ることはないな・・」
「はい、今は待つしかありません」
大木が答えた。
「うむ・・・」
と、古川用人はそういうと腕組みをし、何かを考えているようだった。
「これからの事態がどのようになるか、分からんが・・・実は、万一の時は川越藩から帰っておられる貢姫様のことじゃが・・」
そういって顔を上げて、手招きして、
「・・この江戸から脱出させねばならん。これも、おお殿さん、直々のご命令でのう・・、大木には、できれば、この老いぼれの片腕になって欲しかと思うとるが、どうかのう、大木、・・、これは並の男にはできん、どうだ?・・」
と、訊いてきた。
「私ごときで、宜しければ・・」
と、いった。
(剣術は、まあまあだが、幕府内はもとより、薩長にも知り合いは居る、・・こんな場合は、そんなことが役に立つ筈・・)
内心そう思った。 その貢姫とは閑叟公の娘で川越藩に嫁いでいたが、その藩主が亡くなられたとのことで、今、この佐賀藩中屋敷に身を寄せられているのだ。 閑叟は幕府と薩長の間で戦さになった場合のことを考えて、側近の古川松根に姫を江戸から脱出させることを命じられたのである。 だが、古川用人は、もう50代半ばである、自らの命のことなど、どうでもいいが、
「姫様は、なんとしても、無事に、おお殿の元にお届けせねばならん」
と、思いつめている。 この古川松根は幼少の頃、ご学友として当時はまだ、貞丸君と名乗っていた直正に仕えるようになった。もう、40数年も昔のことである。
「我が、おお殿さんは、亡き父親であられた斉直公が剣術好きでなあ、小さい頃から、剣術修行ばしこまれたとたい。斉直公は豪傑肌の殿さんだったが、人を見る目はおありになった。・・・閑叟公は小さい頃より、おやさしい性格で、何かにつけては、よく泣いておいでだったが、一度、それを斉直公に見つかって、(そがん、おなごんごた性格で藩主が勤まるか!誰か貞丸ば、鍛え直してくれ!それ以上泣き止まんやったら、誰か捨ててこい!)などと、癇癪をおこされる時もあったほどでな、・・」
「そ、それで、どうなったとですか・・」
大木も省吾も身を乗り出した。 結局、幼き貞丸様は、斉直公のお気に入りの、藩士でもあるタイ捨流の剣豪のもとで剣術稽古を始められることになったのだが、
「その家臣は、(わかりました、殿、この兵太夫、命にかけて、貞丸様を立派な侍にお育て致します。その代わりに1年間は黙って、この兵太夫にお預け頂きとうございます)ということになったそうで、この老いぼれと貞丸様のふたりは、翌日から、そのタイ捨流の師匠のもとで暮らすことになってのう」 と、古川用人はなつかしそうにいった。 兵太夫という藩士は江戸郊外麻布の賢崇寺近くに、許可を得て小さな道場を構え、他藩の藩士や地元の百姓とも剣術修行に励んでいたそうだ。
ご学友でもある古川と貞丸君は、そこに寝泊まりをして剣術修行をすることになったという。
「といってもな、最初は道場での剣術の稽古などは一切なくて、朝がた学問をちょっとやった後は、近所の百姓の野良仕事を手伝ったり、近くの川に行って魚を釣ったりと、遊んでばかりでなあ、とにかく、野原を駆け回ったもんだ。あの頃は楽しかった。それに、夏は川で泳ぎを習ったり、木に登って木の実を取ったりもしたが、・・そんな生活が3、4ヶ月も過ぎた頃から、やっと、剣術の稽古が始まったとたい・・・」
と、古川用人がなつかしそうに話をした。
「その師匠の狙いは、分かる気がします。・・恐らく体づくりを・・」
大木がそばからいった。
「そうたい、今になると、そうだったと思う・・、それで、剣術修行の最初は棒切れで立木ば打つばかりでなあ・・・、今思えば、あれは示現流の稽古だったのか、我が師匠も一時期ご自身でも示現流のまねごとばやられたそうで、あまり形式ばったことには、こだわらん先生だった。とにかく、何より実践を大事にされていた先生だった・・」
「それで、その後、おお殿さんは、どうなられたのでしょうか」
今度は、省吾が横から聞いた。
「そう、3人での生活は時々、江戸藩邸から役人が役目柄、見届けにきたりもしたし、貞丸君の母君様がお見えになったりしたが、・・その時、我々の着物が稽古や野良仕事でぼろぼろになっているのを見られて、涙を流しておいでの時もあったが、そんな時、師匠は(これも剣術修行の一環でございます)と、あっけらかんとした態度でおいでであった」
「ほう、そのような・・」
と、大木は感心したようにつぶやいた。
「そんな師匠の家での一年は、あっという間に過ぎたが、剣術の稽古は桜田屋敷に戻ってからも続いてな、屋敷内の道場での稽古にあきると、時たま、(野稽古に行きます)といっては、麻布あたりの野原を腹一杯駆け回って遊んだもんたい、そうだな、それから5、6年程が経ち、貞丸君が十二才になられた頃には、貞丸様は我ら近習仲間内でも上位の腕前になっておられたわい、・・当時の若様は剣術も学問もよくおできじゃったが、ただ、あのおやさしい心根は、今も変わってはおられん・・」
古川用人は涙ぐんだ声を隠していた。
鳥羽・伏見での戦況は、早馬を乗り継いでの特急便で江戸幕府に届き、佐賀藩桜田屋敷にも少し遅れて書状が届いた。 そして、正月六日同日、溜池の中屋敷にも、
「古川様、一大事にございます、幕府が敗北したとのことでございます!」 と、京都屋敷から、鳥羽・伏見の戦いでの幕府敗北を知らせる書状を受とった。 又、早飛脚の書状には鳥羽・伏見の戦いで幕府は敗れて、大坂方面に敗走していることも書かれていたが、戦いはまだ続いており、詳報が入り次第、知らせる、とあった。
「 江口、みなをここに集めてくれ、それに大木達も」
気のせいか古川用人の手が少しふるえて見えた。 この日を境に、溜め池の中屋敷と桜田屋敷は急に慌ただしくなった。
もし、幕府が佐賀藩を敵と見なして攻めかかってくれば、堀をひとつ隔てた佐賀藩桜田屋敷はひとたまりもない。
藩邸内が異様な緊張に包まれた。既に、蔵から銃を取り出しに行った者もある。
「静まれ!騒ぐではない!・・まだ、我が軍は佐賀を出立してはおらん。言い訳はなんとでもできる。・・ただ、覚悟は決めておけ!佐賀藩士として見苦しい振る舞いはできん。・・しばらくは、静かに成り行きを見守ることにする」
古川用人の言葉に邸内は一旦落ち着きを取り戻した。
「よし、各々、しばらくは持ち場で静かに待機しておれ」
まずは、藩邸の見張りの手配りを決め、
「いざと、いう時には戦うことも考えて、最新の連発銃を座敷に集めておけ・・」
と、非常時の対策が取られた。
「よし、いざという時は、みな、ひとつになって、わしの命に従うように・・」
と、古川用人が命じた。
それからは、古川用人の部屋には供回り組頭の江口良介を中心に貢姫の避難経路が話し合われた。
「我らの身はどうなってもいいが、姫だけはなんとしてもお助けせねばならん」
と、用人は言ったが、
京、大坂の情勢がはっきりしないので、どの街道を通ればいいのか結論がでなかった。
「江戸から船で九州まで行くということは、どうでしょう・・?」
誰かが聞いた。
「それは難しい、江戸近辺の海は幕府軍艦で溢れている。薩長と戦さとなった今、どんな船でも中ば調べられる、・・それに、船は酔うし姫君には船旅は無理たい」
貢姫のことが話し合われた後、江口組頭は直ぐに、足軽や、足軽やっこを集めて、近くの街道の様子を見分してくるように命じた。 日頃、暇をもてあましている足軽等は、旅人の身なりを整えると、一目散で東海道、中山道、甲州街道や脇街道などへ飛び立った。
「但し、内偵は往復で七、八日で終えるように心得よ!」
江口組頭はそう付け加えるのを忘れなかった。 江戸藩邸は貢姫の江戸脱出の準備を始めた。
「いつでも、出立できるよう、用意できるものは用意しておくように」
江戸がいつ火の海になるか分からない。江戸藩邸はにわかに騒がしくなってきた。
そんな中、大木は、
「古川様、・・一度、勝様にそれとなく、内情をお聞きしにいこうと思いますが、・・・」というと、
「いや、省吾に書状をもたせて、江戸城の内情を聞きにやれ・・、町人の格好をさせてやればよい」
ということになり、省吾が幕臣、勝海舟の屋敷に走ることになった。
書状には「・・これから、江戸は火事になりますか、佐の大木」と書いてあった。
大木は以前、勝とは幕府海軍操練所で懇意にしていたことがあったので、なんとか分かってもらえると思った。
省吾は奥女中等に髪を結い直してもらって、赤坂まで使いに出た。
勝の邸宅までは、一刻もかからなかった。
勝の邸宅の門をくぐると、女中が掃除をしていたので、
「勝先生、直々にお渡しするようにと、頼まれましたので・・」
と、いうと、女中は愛想よく、「あいよ・・」と中に入った。
「よう、おれに直々に渡す物とはなんでえ、・・」
と、勝は着流し姿で現れた。
「はい、これでございます」
と、省吾は桐の箱を包みを開けて渡した。
「ほう、何だね」
「有田の壺でございます」
勝はそれを聞くと、一瞬、省吾之顔を見て、
「有田か、それはなつかしい、お前さん、まさか長崎から・・」
と、勝はそういいながら箱を開けた。
中を見ると、壺が入っていて、その下に紙切れが見えた。
そっと、その紙をとって、一読すると、
「・・、そうかい、おいらの息子殿も、今は長崎にエゲレス語の勉強に行っているんだが、長崎は大変らしいな、先日、飛脚便が届いたが、船でこっちに帰ってくるらしい。・・その書状には佐賀の伊万里は、まだ平穏らしい、佐賀のの殿さんは、おいらも世話になったことがあるが、佐賀は京とちがって安泰だ。心配するこたあねえ、それに、江戸が火事になることはねえぜ、心配無用だ。・・火事になりそうな時はおいらが知らせてやる。旦那には、そういっておくれな、じゃあ、気をつけてお帰り」
そう言って勝は家の中に入った。
省吾は藩邸に戻ると、勝の言葉を古川用人と大木に伝えた。
「でかしたぞ、省吾」
「それから、勝先生が最後に、(そうだ、田舎の旦那にはもうしばらく家からは出にようにと伝えておくれ)と、おっしゃいました」
「・・そうか、分かった、大木、大殿の出陣はしばく遅らせるよう早馬を出してくれ」
前藩主鍋島直正にこの知らせが届いたのは、五日後だった。
佐賀の桜田屋敷は溜池屋敷は、元の落ち着きを取り戻したが、
そんな藩邸に、加賀藩から使いがきた。 最初に対応に出た藩士の話では、加賀藩前田家からは、既に横浜に人を送って廻船問屋に荷受けの準備を行っているとの知らせだった。
「詳しい話は私が聞きましょう」
と、大木はいって、
「世の中はこんなものだな、忙しくなり始めたら、全部が忙しくなる・・」 珍しく、ぐちっぽく、省吾にささやいた。 ただ、応対に立った大木に対して、使者は神妙な面持ちで、
「我が江戸藩邸に届いた知らせは、京藩邸から、送った早飛脚が川止めにあい、法を犯して無理して川を渡る途中、書状を濡らしたらしく・・、そちらへの音信が遅れ、誠に、申し訳ありません・・・」 と、今にも腹を切りそうに、思い詰めた様子だったらしく、それに気づいた大木は、
「これはご丁寧に、ありがたく受け賜りました。受け渡しの10日までには、十分に間に合います。それに、こちらは、いつでも動けますので、お気遣いは無用です。こちらも、明日にでも横浜に発とうかと思っていたところ、何も気になさいますな」
そういうと、使者は、ほっとした様子で帰っていったらしい。 もともと、英国商人グラバーとの間では正月10日前後に横浜で荷の受け渡しをするということになっていたので、大木と省吾が立ち会ることになった。 他に、江副健三という佐賀藩では火術方の組内で、ミニエー銃やスペンサー銃に詳しい藩士も、立ち会うことになった。
省吾と大木は火術方の江副と連れ立ち、八日に溜池の中屋敷を出立した。
さて、その頃、大坂城は大混乱で、怒鳴り声や叫び声が飛び交っていた。 その大混乱の原因は、慶喜公の姿が城から消えたことが原因だった。 実は、昨夜遅く(六日)慶喜は側近の者を引き連れて大坂城を抜け出していたのだが、
「そんな馬鹿なことがあるか!御大将自らが、船に乗って逃げ帰ったなど、馬鹿なことを申すな!」
「そうだ、よく探して見ろ!」
「それが、どこにもおいでにならんのだ!」
「とにかく、よく探せ!もう一度、探してみよ!」
と、城中が大騒ぎになっていた。 だが、事実、慶喜は逃げ帰ったのだ。 自分を信じて従った家臣や味方全てを裏切って逃げた。それが事実だった。 「本当か、・・・我等はみな、裏切られたのか・・・」
沖合の幕府の帆船に乗って逃げ帰ったということだった。
「何かの間違いだろう、うそだといってくれ!」
家臣等の悲痛な叫び声が城中に響き渡った。 そんなことを知らない幕府歩兵や会津や桑名藩兵をはじめ、新撰組隊士等は何が起きたのか理解できなかった。
「今から反撃しようというのに・・慶喜公はどうされたのだ」
「これからだというのに・・・」
「まさか、信じられん」
慶喜に見捨てられた幕府や諸藩、諸隊の者は、怒りのやり場もないまま、 その場に崩れ落ちる者、怒りにまかせて物を投げつける者で、障子、襖を破り暴れ回る者で城は瞬く間に荒れ果ててしまった。 そして、数人づつ仲間同志でまとまりながら大坂城を後にした。 行き先は、天王寺方面から大和を抜ける道しかなかった。
旧幕府軍・諸隊の大坂城から悲惨な撤退は、その日、夕刻まで続いた。 この時の総大将、慶喜の脳裏にあったのは、何があったのか? 恐らく、戦に負けた敗戦感などいったものとは全く別のものである。 それは、父徳川斉昭はもとより、父祖代々何十年も引き継がれてきた尊皇の誠心を裏切り、自分が賊軍の首領になったことへの恐ろしい程の罪悪感だけだった。
自分を信じて命を賭けて戦ってくれた家臣達への感謝の念も、ねぎらいの気持ちも何もない。ただ、最も敬うべき朝廷に、背いてしまったという罪悪感にうちひしがれていたのだ。
家臣がどうなろうと、関係ない。家臣などは、十数代も続いた徳川政権のおかげで、なんの苦労もなく生きてこれたのだ。 家臣等が生きようが死のうが関係ない、そんな風に思っていたとしか思えない。それが、十数代250年も続いた徳川政権、天下の大将軍の考え方だったのかも知れない。
会津藩士の中には、飲まず、食わずで、5月になった頃、ようやく帰りついた者もあった。ぼろぼろの着物と乞食のような泥まみれの顔を見て、家族の者達は、泣き崩れるしかなかった。 敗者の悲惨というには、あまりに哀れすぎる道中であった。
そんな中、正月九日には加賀藩の鉄砲荷受け責任者、鉄砲方組頭の阿部藤治郎いう加賀藩士と指定の廻船問屋「矢島屋」で面会した。
場所は現在の馬車道あたりである。 加賀藩士12名と20数名の人足が同じようなぼろをまとっている。 侍の格好をした者はこの阿部だけで、3人の側近は町人に扮している。
「この度は、貴藩のこまやかな援助、誠にありがたく、藩主からも閑叟公にも宜しくお伝え頂くよう申しつかって参りました・・」
と、加賀藩から丁重な挨拶があり、それに応えて大木が
「こちらこそ、我がおお殿からも、前田公からの普段からのご厚情には感謝に堪えないとのことでございました。・・・こんな時に、京では幕府が大変なことになっているようで・・」
と、大木がいったところで、
「・・誠に、これよりは、どの藩も難しい舵取りになりますが、貴藩と我が藩、互いに同じ道を歩けましたら・・」
と、阿部のほうも慎重な表現になった。 この時点で、慶喜が大阪城から脱出したとの情報は二人ともまだ知らない。 荷降ろし、荷揚げを請け負った廻船問屋から、荷受け場までは近く、翌日から沖仲仕達がはしけに乗り込み、グラバーが手配した貨物船に横付けし、荷受け作業がおこなわれた。
本来なら、運上所をとおして陸揚げしなければならないが、既に幕府は政権を返上しており、運上所は閉鎖されていて、別の荷揚げ場所から、新式銃2000丁と追加の佐賀藩のスペンサー銃500丁が横浜に、無事に荷揚げされた。
荷揚げ作業と確認が完了したのは正月11日午後のことであった。 この新式鉄砲2000丁が味方になるのか、敵になるのか、まだ、この時点でも加賀藩の態度は示されていない。
「では、これにて・・・」
と、阿部はそう言って去ろうとしたが、
「もし、我が藩と貴藩が同じ道を歩けるようになった暁には、どんなことでもお申し付け下さい。今までの、このご恩のこと、決して忘れは致しません・・」
と、いった後、
「・・ただ、我が藩は今は、どちらの勢力にも荷担せず、京都屋敷から兵600名を引き上げました・・、では」
と、付け加えた。 加賀藩のこの鉄砲輸送隊は荷車15台、荷駄10頭という大きな行列になったので、3隊に分かれて江戸の加賀藩邸へ向かった。佐賀藩のスペンサー銃は佐賀藩のなじみである廻船問屋「矢島屋」で厳重に保管されることになった。 「今、我が江戸藩邸には、既に十分な鉄砲が保管されている。今度の500丁は、これより先の状況を見据えてどうするかを決める」 と、いう江戸留守居役の判断で決められた。
その江戸は正月の七草粥が終わった頃から、にわかに騒がしくなってきた。 大木と省吾等3人が横浜を出発し、江戸藩邸へ向かったのは1月12日の朝方である。 その日の内には中屋敷には着く筈である。生麦を過ぎて、川崎宿あたりに着いた頃から、人通りは増えて宿場のにぎわいが増えてきて、人々の語らう声も聞こえてきた。
「聞いたか、京では、慶喜様の軍が薩長に押されているという噂だぜ」
通りすがりの大工らしい男が立ち話をしていて、それを聞いた魚屋が、
「そんなことは、あるめえよ、暮れに聞いた話では、幕府の味方は会津藩なども含めれば、薩長の3倍もなるって話だぜ、それが負けるなんては、何かの間違えだろうぜ」
と、言い返している。
「そうかねえ・・」
「それで、その京の戦さの原因ってのが、去年の暮れ、幕府の旗本等が薩摩の屋敷を燃やしたことあったろう、あれが原因らしいぜ」
と、今度は他の大工がいった。
「そんじゃあ、幕府のやったことは正しいじゃねか・・、なあ」
「そりゃあ、そうだ、薩摩のいも侍供が、強盗をやるわ、乱暴狼藉を働くわと、悪いことばかり、やり始めたのが原因じゃねえか!」
「そうでえ、そうでえ」
と、廻りで聞いていた町人達が声を揃えていった。 大木等3人はそんな話を聞きながら黙って、川崎宿を過ぎた。
やがて、品川に入り、茶店で茶を飲んでいると、今度は町人達が集まっているのが見えた。
「どうしたんだ、この集まりは?」
茶店から、少し離れたその人だかりの中では、みんなが手をかざして、盛んに海のほうを見ている。 あたりには、侍までが集まっている。
「私が見てきます」
省吾はそういうと、人だかりのあたりまで行って、みんなが見ている海の方に手をかざして見ると、 大きな帆船が停泊していて、そこから人が、数人降りてきて、小さな船に乗り換えているのが、けし粒のように見えた。
「あれは、幕府の船だぜ、確か、かい、なんとか丸という船だぜ」
商人風の男がいった。
「確かに、あれは幕府の船だ、確か、聞いた話では開陽丸とかいう船の筈だ」 と、浪人風の男が船を見ながらいった。
「それはおかしい、開陽丸は今は大坂に居る筈だが・・」
今度は幕府の御家人風の男がいった。 そんなやりとりがあっている中を、宿場役人5、6名が、走って浜の方へ向かっていった。 省吾も、しばらくその船の方を見ていたが、その小さな船には2艘の小舟が付き添っている。
「あれは、どこぞの大名様だな」
人だかりの中からそんな声が聞こえた。 省吾はそれを聞いて大木等の戻って行った。
ところで、話は少しもどって、正月7日、京に残っていた江藤は、鳥羽・伏見で薩長と幕府が戦っている間中は、旧郡山藩邸のほうで一日中、大隈や副島と火鉢にあたって緊張しながら黙って待っていた。時折り、伝五郎等が戦況を伝えてくれるのを待つだけである。 やがて、鳥羽・伏見での勝敗がほぼ確定した頃、
「幕府方は大坂城にたてこもりました、・・それと、三条卿が京に戻られたとの話を聞きました」
との、伝五郎からの知らせを受けた。 (三条卿等も京に戻られた・・・) 江藤は一瞬、何かが脳裏を横切るのを感じた。 (・・、そうか、三条卿が戻られたのであれば、桂さんも戻っておられるかも知れん) 江藤はそう思った。 そう思うと、黙っては、いられなくなった。長州藩を訪れてみることにした。
「くれぐれも、気をつけてな・・」
出がけに副島が心配そうにいった。 お供は伝五郎と嬉野から呼んだ助っ人の、永田左近という侍の3人である。永田はこれまで、嬉野の宿場役人をしていたが、本藩から蓮の池藩の上役に話をして許可をもらってきている。他の2名は手明き槍という身分だが、同じように蓮の池藩には話は通してある。 手明き槍とは佐賀藩独特の身分で、平時は百姓をしながら戦時には足軽として参戦する身分である。年に15石ほどもらえる。
さて、江藤が長州藩を訪れた時、桂小五郎は藩邸に帰宅していた。三条実美等と昨年末に上洛したという。 江藤は昔、脱藩した時からの知り合いである桂に好意をもっている。 脱藩して上洛した時、始めて、出会ったのがこの桂小五郎である。 桂はみすぼらしい格好の江藤を丁重に扱ってくれた。 桂は江藤のみすぼらしい格好など気にせず、熱心に語る江藤の話を聞き、そのうえで、当時の長州の立場や、何を目的として活動をしているかなど、誠意を持って包み隠さずに話してくれた。 江藤は朝廷の考えを知りたくて、公家にあってみたいと言いだしたことがあったが、その時も桂は反対せず、公家に会いにいくのであればと、あまりにみすぼらしい江藤に、古着を買って与えてやったこともある。 江藤にとっては、なつかしい思い出であるとともに桂は恩人でもある。 ふたりは年がほんど同じこともあって、京にいた頃は互いに尊敬できる友人としてつきあった。 誰にでも誠意をもって対応をする桂小五郎は、誰からも好意をもたれる、そんな男だった。 その日、江藤が座敷に通され、かしこまって挨拶をしようとすると、 桂は、
「よう、久しぶりだな、佐賀の天才、そんな堅ぐるしい挨拶は不要」
江藤は昔から、そんな桂には、やられっぱなしである。 年は桂が一歳上だが、何故か頭が上がらない。
「君の顔を見れば分かる、佐賀は我らが方に着くことが決まったな」
それをいいにきたのに、既に、あっさり見破られてしまっている。
「いやあ、これは何と申して・・・」
と、いおうとすると、
「味方が薩摩だけでは、心もとなく思っていた、それに、あの男を見ていると気分がめいる、ただ、君の無敵佐賀藩が味方してくれるとなると、私はすることがなくなるな」
桂はただ誠意だけの男ではない、物事の本質を見抜く力は江藤以上かもしれない。 気分が悪くなるとは(大久保だな)と江藤は思った。 桂は今日、この佐賀の変な天才に会えて機嫌がいい。
「・・・、しかしだな、江藤君、私の知り合いが、貴藩のアルム砲とかいう最新の砲を、見てみたいと言うことだが、どうだね」
そう、桂がいったところで、
「・・それは、ひょっとすると、噂の蘭学医者殿が言い出したことでありますか・・」
江藤はそういって桂を見た。
「そう、今は我が藩の軍務局長だが、その大村益次郎局長がいっていた。その何だ・・アルム砲とかいう大筒の話をしていたが、あの大筒一門で一大隊を数発で吹き飛ばせる、とね・・・、本当かね」
「本当です。我が閑叟公は日本人同士の戦さには使いたくないといっておられる」
「ふーん、君がそういうのなら間違いないな、・・なあにね、我が大村局長も実物は見たことがないので、実際のことはよくわからんそうだが、本にはそういう風に書いてあるらしい・・、」
桂はそこまでいって、
「誰かすまんが、大村軍務局長を呼んできてくれんか・・」
と、いった。
「それで、大村軍務局長がいうには恐らく、佐賀藩のアルム砲には薩摩軍でも太刀打ちできないのではと、ね・・、大層アルム砲にご執心なのだが、どうかね江藤君?」
「・・・、そうですね、間もなく先遣隊が到着しますが、そのアルム砲は、正式には英国製のアームストロング砲といいますが、我が藩主率いる本隊が運んでくると思います。その時、一度試し撃ちでもやってみますか・・」 「それは、一度見てみたいものだ」
桂にそう言われて、江藤は内心、 (たとえ強兵の薩摩軍団でさえ、アームストロング砲、20数門の前には屈するしかあるまい・・・)と、思った。 そこへ、
「大村です。入ります」
と、声がかかって男が入ってきた。 江藤は最初、頭を下げていたので顔はよく見えなかったが、
「初めて、お目にかかります、宜しくお見知りおきくださ・・」
と、顔を上げかけたところで、江藤は一瞬、声を失いかけた。 ひときわ長い頭の下に太い眉で、あまりに人間ばなれした顔に衝撃を受けた。 大村は江藤を見て、
「いやあ、こちらこそ、宜しくお願いします。実は、私も長崎で長く蘭学の修行に励んでいましたが、佐賀藩の方は何人でも、まとめて蘭学の修行をおこなっておいでになって、はたから見ても、うらやましゅうございました。ご主君の直正公の先見性には頭がさがります。私の知っておる蘭方医にも佐賀出身の方が大勢います」
と、大村はいかにも佐賀藩に好意があるのがわかった。
「桂さん、佐賀藩がこちら側に加わってくれるとなれば心強い、なにしろ藩士の大半の方が7連発を持っていると、聞いてます・・、それに最新のアルム砲は大軍同志の戦いでは、決定的な勝敗の鍵を握ります。そんな恐ろしい砲を、なんと藩の精錬方で、自力で製造されたとか・・、誠に恐ろしいことです。我が藩などは、足下にも及びません・・」
と、大村は思ったままを正直にいった。 桂は大村がものごとを数量的に計算して判断することを知っている。 なんの感情もいつわりもない。 ただの真実を淡々と言っただけなのである。 それを聞いて、江藤も桂も驚いた。 「それほどに・・・」
と、桂はあまりに予想外の話に言葉を失っている。 そんな桂を見て、江藤も何に言えなかった。 薩長戦争が始まった時、怒濤のように攻め懸かってきた12万の幕府軍を、たかだか4000の兵で完膚なきまでに打ち負かした、この大村益次郎という医者あがりの軍師の言葉に、さすがの江藤も頭があがらなかった。 その夜、長州藩邸から帰る江藤の足取りはすっかり軽くなっていた。 藩主親子がいないこの京で、佐賀藩をどのように新政府に売り込んでいくかは、全て、この江藤の手腕にかかっている。 江藤は、あの桂小五郎と大村益次郎という長州のふたりの英雄が、味方になってくれると思っただけで、心強く思えたのだ。 それは、桂も同じである。 (佐賀藩が加わってくれれば、これから、幕府が全力をあげて反撃してきても、今の、佐賀藩の軍事力には太刀打ちできないでしょう)と、いった大村益次郎の言葉が頼もしく思えた。
その佐賀藩では、精錬方の責任者である佐野常民はパリ博覧会からの帰りで、はるか海のかなたの船上にある。それに、製造技術責任者である田中儀右衛門は故郷の久留米藩に帰っていて、作事場の大きな鉄製作業台の上には試射を終え、改造済みの国産アームストロング砲一門が静かに横たえられている。この精錬方の作事場がこんなに静まりかえっているのは、数年ぶりのことである。 この静けさに引き替え、外では、いつもは作務衣を着た藩士や職人等が、西洋軍装に着替えて、慌ただしく出陣の支度に追われていた。
大木等3人が横浜から戻った翌日、正月13日。 江戸佐賀藩では、古川用人と大木喬任が額を寄せて、貢姫の江戸脱出の件を話し合っていた。 慶喜が江戸に戻ったのは12日のことで、前日、横浜からの帰りに、省吾が見ていた大型帆船が、その慶喜が大坂から座乗してきた開陽丸だったのだ。
「昨日、慶喜公が大坂から江戸に戻られたようです。これからは、幕府も支度が整い次第、反撃に打ってでるものと思います。そうなれば、大坂・京から江戸にかけては、新政府軍と幕府軍の戦いがあるものと覚悟せねばなりません。その中を姫君をのせた籠を担いでいくのは危険過ぎますが、何かいい方策はないものかと・・」
大木はそういった後、古川用人の顔を見たが、古川用人は溜息を付いて、 腕組みをした。
その時である、省吾がもじもじしながら、
「あのう、私などが意見を述べていいのでしょうか・・?思いついたことがあるのですが・・」
と、おそるおそる口を開いた、 それを見て、古川用人は渋い顔をしながら、
「・・・うん、よか、こげん時はなんでんよか、いうてみれ」
と、火鉢を見ながら答えた。 省吾は遠慮しながら、
「先日、鉄砲受け渡しの時ですが、帰り際、加賀藩の阿部様が(何か我が藩が、できることがあれば、なんでもいって下さい)といわれましたが、・・」
と、途中で話をやめそうになると、
「省吾、男が途中でやめるもんじゃなか」
と、大木が側から励ました。
「あのう・・・、加賀藩の人達は一旦、江戸屋敷まで鉄砲ば運んだ後で、加賀藩まで運ぶって、いっておられましたが・・。できれば、その加賀藩の荷車隊と一緒に、姫君様の籠も加賀藩まで、同道させてもらえんでしょうか、前田藩は大藩ですし、幕府も簡単には手はだせんと思います。それに、裏日本の海にでれば、いくらでん、船はあると思いますが・・?」
「・・・・」
大木と古川用人は黙って顔を見合わせた。
「すみません、変なことをいって・・」
「待てよ・・・省吾、そりゃあ、よか案かも知れんぞ、ただし、加賀藩の荷車隊がまだ江戸屋敷から出とらんやったらの話ばってん・・」
側から火術方の江副がいった。
「そうだ、加賀藩までいけば、そこから船で、九州のどこかには辿りつけるのう、・・今、東海道沿いの海は、幕府海軍だらけだが、加賀藩から九州までは幕府海軍はおそらく一隻もおらん、うむ、よか案かも知れん」
大木はそう言うと、古川用人も大きく頷いた。
翌朝早朝、佐賀藩中屋敷から、加賀藩下屋敷のある板橋に向かって、前田省吾は走り出した。両脇にはふたりの足軽やっこを従え、大木がしたためた書状を箱に入れ背中に帯で結びつけている。
(とり急ぎ、お願い致したいことがあり、誠に心苦しいのですが・・・)
という、大木喬任から加賀藩阿部への書状が入っている。 早朝の江戸の道は、魚屋や大工など、職人や人足等が数多く目につく。 丁度、みんな仕事場に向かっている時刻で、時々ぶつかりそうになる。
「なんでえ、朝っぱらから、あぶねえじゃねか!」
江戸の職人は侍だろうが、関係ない、江戸は自分達の物だと思って態度がでかい。
「この野郎、叩き切るぞ!」
両脇の足軽やっこは、元々江戸の人間だ。時折り、大声で負けずに言い返した。
「まあ、まあ、急用なんだ、許してくれ!」
省吾は、何度か頭を下げてあやまる場面もあったが、走り続けた、 草鞋の紐が途中で切れては、予備の草鞋と取り替えながらも、又、走り出して続けた。 両脇の足軽やっこも、同じようなことを繰り返しながら、とにかく走った。 (姫君様のためだ) そうこうするうち、江戸の市街地を過ぎ、田園地帯が開けてきた。
「ここらの田圃を抜けりゃあ、板橋宿はすぐですぜ、がんばりなせえ、旦那!」
省吾は苦しくて、意識がとびそうになりながらも、時々、休みを入れては、走り続けた。
「あのあたりが、板橋宿ですぜ・・」
背の低い、やっこがいった。 宿場に入り、少し行ったあたりに広大な屋敷が見えてきた。
「あ、あれが、おそらく加賀屋敷です・・ぜ」
今度は、もうひとりの奴がぜえ、ぜえ言いながら指さした。
「ついたか・・」
そういうと、省吾は道の端にそのまま崩れ落ちた。 とにかく、なんとか無事、加賀藩下屋敷に辿り着いた。 必死になって、駆けてきたおかげで、一刻と少しで到着した。 道端に倒れこんだ3人は、よれよれになっている。 肩で息をしながら、近くの井戸で水を浴び、柄杓で水を何杯も飲んだ。
「ま、前田の旦那は、本当に、お強いですねえ、あっしらが、ここまで、へばることはめったにねえのにねえ・・」
足軽やっこのふたりは、汗をぬぐいながら、井戸端の石垣に腰を下ろしキセルをふかし始めた。 省吾も井戸に隠れるようにして着物を脱ぎ、汗をぬぐって背中に背負っていた箱を降ろして懐にしまった。
そして、汗が乾き、息が整うのを待って、加賀藩下屋敷の門をくぐった。 , その日の朝、省吾よりひと足遅れで、大木と江副が加賀藩邸下屋敷に向かった。途中までは早籠でいき、江戸市内を過ぎた後は速足で省吾を追った。 省吾からの書状で大木の来訪予定を知った阿部は、庭の木々を眺めながら、藩内のことを色々と考えている。
加賀本藩内での幕府をめぐる議論は正月まで続いていたが、最終的には藩主の判断に任せるころで一致した。正月7日、慶喜が大坂を脱出したことが分かった後のことだ。
その藩主、前田慶寧は既に腹を決めていて、数人の側近には伝えているが、それを、いつ公けにするか、今は時期を待っている。 阿部藤治郎は、先々日、新式鉄砲の荷物を蔵に納めた後、加賀藩上屋敷に出向いて金沢への輸送の段取りを打ち合わせ、藩内の諸手続を済ませたばかりで、下屋敷に戻ってきたのは、朝方のことであった。
阿部は既に下屋敷に先に到着して、待っていた省吾から、大木が遅れて阿部を訪ねてくることを聞かされた。 そして、渡された書状の中に、簡潔に急な訪問の用件が書かれていた。
「なるほど、・・・」
阿部は広大の庭を眺めながら、どうするべきか考えていたが、大木が江副と共に到着した。
「いやあ、先日は・・」
と、二人は、挨拶を交わし、大木は急に訪問したことを謝した。 佐賀藩大木喬任と加賀藩阿部藤治郎の会談は広大な加賀藩下屋敷の片隅でひっそりと行われた。 先々日、運び込まれた新式鉄砲2000丁の入った木箱は、その広大な下屋敷の蔵の中に入ったままであると聞いた。 大木は率直に急な訪問の理由を伝えたうえで、貢姫の身の上のことを簡潔話し、加賀藩の援助を率直に求めた。
「・・・そこで、誠にぶしつけなご相談なのですが、貴藩の鉄砲輸送隊の中に貢姫の行列の一部を同道させてもらえないでしょうか」
と頼んだ。 捉え方によっては、大木の依頼は加賀藩の足元をみた依頼にも思える。
(だが、時間がない、変に回りくどく頼むより、この際、潔よく頼んだ方がいい)
と思った。
阿部は大木の話を聞き終えた後、ほんのしばらく考えたが、
「我が藩は、江戸とそれほど離れている訳ではございませんので、時折り、荷車や荷駄を使って様々な荷物を運んでいます。その折りには、籠も使うこともあります。ですから、今度の荷車隊に貴藩の姫君様の籠があっても、誰もあやしむ者はないかと思います。勿論、当藩の籠に乗って頂くことになると思いますが・・」
「ほう、それはありがたい」
「ですが、取りあえず藩の方に確認致しませんと・・」
と、阿部はいった、そして、
「ただ、こちら側としましては、鉄砲買い付け依頼をした事でもありますし、それに、昨日、上屋敷にて聞いた話では、我が藩も新政府側に恭順することが、ほぼ、決したそうですので、格段、問題もありますまい」
「それは、ありがたい、なんとか姫を無事に佐賀までお連れできれば・・、」 と、大木は閑叟公の胸の内を思うと、熱いものがあふれてくるのを感じた。
慶喜が大坂から、逃げ帰ってからは江戸は復讐に燃える声で溢れた。 慶喜も、反撃に出るような態度を見せながらも、明確な態度を示さなかった。この慶喜の度重なる優柔不断さは、慶喜本来の気質によるものではない。 これは慶喜が水戸藩に生まれた宿命のためといっていい。
徳川水戸家には代々、刷り込まれた尊皇の伝統があり、どうしても慶喜の次の一歩を踏み出させるのを、ためらわせるのだ。 その間にも新政府側は着々と体制を固めていった。 畿内から中国、四国にかけて薩長2藩、それと土佐藩などから鎮撫軍を派遣し、新政府への恭順、帰順を確定させていき、九州を含む西日本のほとんどを鎮定していった。そして、そんな中でも、一部では流血騒ぎがある中で、慶応4年1月末頃までにはほとんどの藩が天皇への忠誠を誓った。
新政府は国内の鎮定にあたりながらも、英仏などの諸外国に国内問題への不干渉を求めていて、諸外国も新政府に口出すことはなかった。 そんな中、長崎ではあの浦上村で。 その事件は少しさかのぼる、慶応4年正月25日、幕府長崎奉行が逃げたおかげで、沢宣嘉が判事として長崎に赴任してきたことから始まる。
沢は七卿落ちしていた公家のひとりだ。 この新政府の沢判事が、赴任したということを聞きつけた浦上の村人達が、沢のもとに、期待を膨らませて押し寄せてきたのだ。
「イギリス人もフランス人もキリスト教徒です。幕府が倒れた今、新政府のもとでは、キリスト教を許してもらえる筈だと、多くの信者が期待しています」
彼らは本当にそう思っていたが、この沢判事は神道の信者で、古くから神仏信仰を続けてきた国が、今更、キリスト教を許すことはできないと思った。沢はともに赴任してきた長州の井上馨にも意見を聞いたが、
「幕府がやってきた治世を急激に変えれば、却って、世の中に混乱をもたらすのではないか、などと、地元の役人等は申しております。私も、今は急激な変化は新政府にとっても、あまり良いことではないように思えます」
との意見であった。
「確かに、無用なことを始めて混乱をもたらすことは止めるべし、か・・」 結局、キリスト教の禁教政策はそのまま続けられることになったのである。
沢は幕府政権当時からの長崎人の役人を集め、キリスト教徒の弾圧を始めたのである。 大浦村のキリスト教徒等は新政府の役人に、引き立てられて獄につながれることになったのである。
この事件はすぐに英・仏国等の知るところとなり、かなり激しい抗議が巻き起こった。 だが、諸外国からの抗議には完全に新政府には黙殺された、 そして、異国人の目が触れない国内各地に送られることになったのである。浦上のキリスト教信者は役人に捕縛され獄につながれた後、日本各地の収容所におくられた。
そして、信者達は、昔ながらの厳しい拷問を加えられ、改宗を迫られることになったのだ。 浦上村の総勢3,000名程の信者が、送られた先は、遠くは新潟、金沢、その他、萩など全国十数カ所。 そこでは、地獄のような日々が待っていた。なくなった信者もいたが、それでも、彼らは信心を捨てることはなかった。 そして、それらの日々は、江藤新平が新政府の司法卿になって、キリスト教の信仰を許し、解放するまで続いたのである。
ところで、この事件が起こった長崎で、一躍、名を轟かせた男がいる。 その男とは江藤や副島の盟友、大隈重信である。 大隈は昨年末、幕府が逃げ出した後の長崎に、偶然、居合わせることになった。
その時、長崎は幕府の長崎奉行所がなくなった後で、町は大混乱になっていた。 大隈は、長崎での暮らしも長く、産物方の友人や、付き合ってきた有田焼の商人など知人も多い。
大隈は、そんな彼らが困窮しているのを見かねて、動き始めた。彼らが抱えていた金銭問題などを旧友の役人等に頼んで決済してやり、問題点があれば自らの判断で決済し、ほんの3、4日ほどで混乱を収めたのである。 その時の大隈の対応能力や辣腕を発揮して問題を解決していく実務処理能力を、その場で見ていた男達がいる。当時、長崎にいた薩摩の松方正義や長州の井上馨などだ。 大隈は、英国商人とも自分で話をし、商いの決済なども、てきぱきこなしていく。オランダ通訳は珍しくなかったが、英語の通訳はまだ珍しい存在だった。
「信じられん、自ら英語を話して異国人と渡り合うとは・・、佐賀は、こんな男まで育てていたのか」
と、あらためて、佐賀の(驚異の教育)の実態を思い知った。 後日、大隈は、彼らの強い推薦で諸外国の代表イギリスのパークス公使相手に、激しい論戦を交わすことになる。その繰り広げた論戦が、大隈重信の名を全国に知らせることになるのだが、その論戦は閏4月3日まで待たねばならない。
さて、話は激動の中心、京に戻る。 佐賀藩藩主鍋島直大がおくればせにと上洛し、朝廷に参内したのは、慶応4年2月2日のことである。鍋島孫六郎が率いてきた深堀領の約600は、旧郡山藩邸を宿舎にして待機することになった。 この頃、新政府の政策は三条実美や岩倉具視の公家と大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)、後藤象二郎といった薩摩、長州、土佐の実力者によって決定されていた。
この中に佐賀藩出身者はいない。 徳川慶喜は、結局、反撃ではなく恭順を選択した。徳川水戸家が代々守り抜いてきた尊皇の精神からは逃げられなかった。 新政府(特に大久保をはじめとする倒幕派)は、それでも徳川家を恐れていた。
正確にいえば、慶喜ではなく旧徳川幕府の残党達をである。そのため、関東制圧のための東征軍を派遣して残党勢力を一掃することを決定した。ただ、名目は鳥羽・伏見の後、姿を表さない徳川慶喜の追討ということにした。
しかしながら、この東征軍の派遣を話し合う朝議には、松平春嶽、徳川慶勝、山内容堂、などの主立った議定は欠席、倒幕派たる大久保に荷担する一派によって決定されたのである。 これにより、大久保と大久保に担がれた西郷が、これから引き起こされる、関東、東北、北海道での戦さを指導していくことになった。
「日本人同士で戦うことは極力避けたい」と願い続けた、佐賀藩前藩主鍋島直正は薩摩・大久保一蔵を首魁とする倒幕派の動きが、もう止めることはできないと思われた時、やっと、佐賀、伊万里湾から京に向かった。 従う家臣は佐賀藩軍艦奉行、島義勇、船将、中牟田倉之助ら、他、佐賀藩海軍の乗組員。 前藩主直正を乗せた蒸気船、電流丸と護衛船、孟春丸は2月20日に伊万里を出港、2月24日に神戸に到着した。
直正一行が上洛したのは、2月30日(旧暦)である。 尚、同日、大原俊実が海軍先鋒に任命され、佐賀藩浜野源六が海軍先鋒参謀に任命された。
直正は翌3月1日、御所に参内するなり、直ぐに議定に任命された。
更に、翌2日には軍防事務局補を兼ねることが決定した。 江藤は直大上洛前、木戸(桂)や後藤を動かし、又、三条卿や岩倉卿を説得し佐賀藩の有能な藩士の取り立てに尽力・奔走していたのである。
三条、岩倉はもとより木戸や後藤もこれからの新政府の組織にどうすればいいのか、西洋の議会政治というものが、どういうものかもほとんど理解していない。 おそらく、この時、議会政治がどんなものかを明確に理解していたのは、米国人英語教師フルベッキから直接学んだ副島種臣・大隈重信、それと蘭学を徹底的に読み込んだ江藤新平くらいだった。 新政府の最高権力者が集まった席に呼ばれた江藤は、
「新政府は米国か英国の議会政治に近い組織にするべきです。それには、まず・・」
と、簡単な説明をしても、ほとんどが、考え込んでしまい、 三条・岩倉や西郷・大久保などはお互い顔を見合わせて、
「ないごとか、さっぱりじゃ、おいどん達は異国人と戦うことは、江藤どんよりは、詳しかと思うちょりますが、議会なんとかは、どげんもこげんも見たこともなかあ・・、どげんすんな、いちぞうどん・・」
と西郷が最初にいった。
「さいごうさん、・・はっきり、いって、おいも分からんですたい、・・ここは、桂さんの意見ばきいて、決めたがよかとおもうばってん、いかがかと、・・」
大久保は岩倉のほうへ視線をやった。
「うむ、この身は以前にも、江藤から詳しい話はきいたが、なんともな・・、どうであろう、ここは木戸や後藤の意見に任せることにしては・・」
「うむ、それで、けっこうでごわす、なあ、いちぞうどん」
「・・・、そうですな、われらは、まだ、幕府との戦さが残っておりもうす、新政府のことは、三条卿、岩倉卿におまかせして、おいどんたちゃあ、戦さに専念したかと思いもす」
それでその朝の朝議は終わり、西郷と大久保は出ていった。 その後、席に残っていた三条や岩倉、それに木戸と後藤は笑みを浮かべていた。
「江藤、これで、そちも、やっと思う存分に腕をふるえるようになったなあ、これでしばらくは、あの大久保の顔を見ずによくなって、ほっとした」 岩倉卿はそういって、三条卿のほうを見た。
「そうどすなあ、江藤は、木戸と後藤とよく話しおうてやってや、あとは岩倉卿がよきにはかろうてくださる、なあ、木戸、後藤」
みんなの視線が江藤に注がれた。
「誠に、ありがたきお言葉、誠心誠意、新政府の仕組みについてまとめてみたいと思います」 江藤はそういって深々と頭を下げた。
勤勉家の江藤はさっそく動いた、 江藤は当面、自分の手先となって動いてくれる人間を必要としたので、
「岩倉様、新政府の仕組みをつくるにあたって、西洋の議会政治に詳しい、大隈と副島を御所に参内させたいのですが、・・・」
と、いうと、
「そうじゃな・・、徴士とでもいう役を作って参内させよう。それに、あんたさんは、当面、我が用人として届けておこう」
と、いうことになった。
大隈、副島は翌日から徴士となって御所に出仕するようになった。 江藤、大隈、副島はそれぞれが自分が持っている知識や英語の文献も取り寄せて、新政府の仕組み作りを始めた。
大隈、副島が手伝いに来てくれたが、それでも、新政府内ではやれねばならないことが多く、
「桂さん、長州や土佐からも、徴士を出してもらいたいのですか」
と、江藤がいうと、
「分かった、何人いればいい?」
「取りあえず3人程・・」
そんな風にして、長州からは伊藤、井上などが徴士として参内することになった。
新政府の仕組みを作っている最中にも、様々な問題が発生しては、薩摩、長州、土佐、佐賀、越前などの三職に就いている藩から人材を抜擢していった。
そんな中、新政府の仕組みを作る前に、新政府の発足を国民に知らせるべきだとの意見が越前公よりあり、岩倉がその原案を作った男を連れてきた。 名は由利公正といった。
既に原案はできていたので、土佐の福岡考弟と佐賀の副島種臣が目を通して 一部を修正して、5箇条のご誓文として、正式に慶応4年3月14日に発布された。
そんな江藤の奮闘が続く中、藩主直正が上洛し、3月1日に参内した。 そして、その日に議定に就任されたのである。 既に、新藩主直大は上洛していたが、
「お父上の閑叟公も間もなく上洛されることですし、議定への就任はお父上の就任後を考えています
ということで、直大の議定の就任は3月3日であった。 閑叟公の佐賀藩の絶大なる軍事力は、朝廷にも各藩にも知られている。
その佐賀藩の藩主親子が新政府内に入ったことで、朝廷の公家達は胸をなで下ろした。 そのうえ、既に議定に就任している親幕府派だった、山内容堂や松平春嶽なども歓迎した。
「我が体がもっと元気であれば、慶喜公のことも、なんとか、できたのではないかと、悔やまれます」
と正直な胸の内を覗かせた。
そんなある日、岩倉が2人の薩摩藩士を伴って、閑叟の前に現れた。
「閑叟殿、あの薩摩の連中には、くれぐれも用心なされよ、特に、あの大久保などは、悪党・強盗のたぐいに負けない程、悪辣なやからでござる。何度、煮え湯を飲まされたわかりませぬ・・」 と、容堂はいった。
ふたりの薩摩藩士のひとりは。小松帯刀という薩摩藩の若き家老と、もうひとりは大久保一蔵であった。
閑叟がそんな小松や大久保に面会したのは、3月上旬、であった。 岩倉に従って議定の部屋へ入ってきた小松と大久保は、岩倉から閑叟公を紹介されると、直ぐに小松は深々と閑叟にぬかずき、
「我らが亡き、ご主君、斉彬様から直正公の話をよく聞かされましてございます。我がご主君は聡明で、お心の広い方でございましたが、ああ見えて、実は・・大層な負けず嫌いでもございました。大砲作りや鉄砲作りがうまくいかぬ時は、貴藩に追いつけないのを、大層悔しがっておいででございました。しかしながら、おふたりが、血が繋がった、いとこ同士であられることを自慢しておいででございました。・・今、我が身がここにあるのも、亡きご主君様のおかげにございます。これより、何か、ご用の際はなんなりと申し付け下さい」
と、思った以上の挨拶に、一瞬、直正も戸惑ったが、
「丁重な挨拶、痛みいります。亡き斉彬公は、実の兄のようでもあり、幼少の頃は、何度か江戸の桜田屋敷で、仲良う遊んで頂いたこともあって、懐かしゅうござる・・・」
と、亡き斉彬のことを思うと、目頭が熱くなるのを感じた。 小松帯刀と大久保は、そのまま下がったが、
「あの小松は、今、胃腸の具合が悪いとかで、久しぶりに会ったが、顔色があのように白いとは・・」
岩倉は思いがけない小松帯刀の様子に驚いていた。
この小松帯刀は4月には腸内のできもののため参与を離脱することになる。 ところで、この時、官軍の西郷率いる東征軍は、江戸の近くまで軍を進めていた。 更に、鍋島孫六郎率いる佐賀藩約800程の軍勢は京を2月16日に出立し、3月2日には北陸道の金沢に到着した。
ここから江戸までは10日程である。 やがて、3月20日には、藩主鍋島直大が横浜裁判所副総督に任じられ、直大は500の兵と横浜に向かった。
この後、横浜に本陣を構えた佐賀藩鍋島直大には5月、下総、上野、下野の鎮圧の命が下り、佐賀藩はこの鎮圧作戦に約5,000の兵を横浜に集めて、鎮圧部隊を派遣した。
この頃、全体の軍事作戦は実質は現場の参謀達が決定していたので、江藤は木戸や岩倉などと相談し自らも、軍監として江戸へ調査に赴いていた。 議定となった直正は、時々参内しては、東征軍などの状況を聞いたりしたが、 特に大規模な反撃の話を聞くこともなかった。
議定となった直正が、特に気に掛けていたことは、自藩が持ち込んだアームストロング砲のことだった。 時折り参内しては、戦況のことを岩倉や木戸から聞いていたが、江戸開城の時も使わずにすんだことを聞いては、胸を撫で下ろした。
そのアームストロング砲は鍋島孫六郎が、引いていったのは23門のうちの2門の 6インチ砲だったが、それまでの戦闘で使用されることはなかった。
だが、5月になって、西郷に変わって東征軍の参謀になった、大村益次郎は、幕府の反乱分子彰義隊の討伐作戦のため、この砲を使うことを考えた。 江藤からこの砲の威力は聞いていたが、戦闘を早期に終わらせるには(やむを得まい)と思った。 上野寛永寺は俵や竹矢来で囲まれ、主力は新型鉄砲をもった幕府歩兵隊の残党である。その数2,000~3,000とあなどれない。 無理責めすれば、こちらも重大な損害を出すことが予想された。
寛永寺正面の黒門の制圧は薩摩軍に委ねられたが、やはり攻略は難航した。 黒門を前に集結した薩摩軍を銃砲撃を加えるが、積み上げられた土嚢や俵に守られて、防衛線はなかなか突破できない。薩摩軍の死傷は目に見えて増えてくる。 (やはり無理か・・)と、思った大村は近くの近習の者に紙切れを渡した。
そして、その若い近習の者に何か、ひとことふたこと耳打ちすると、近習は飛び出すように外へ駆けだした。 近習の者は、加賀藩邸にアームストロング砲を据えた鍋島孫六郎の砲兵隊長に紙切れを渡した。砲兵隊長はその紙切れを何度も読み返して納得すると、兵達に砲撃準備を命じた。
砲兵隊隊長は手早く準備が終わるのを確認するや、黒門方面への攻撃を開始した。江戸加賀藩邸から黒門まではおおよそ、2.5km。射程3kmのアームストロング砲は狙いを黒門に定めると、砲兵隊隊長の合図のもと砲撃を開始した。 強力な爆裂弾が黒門周辺に集中した。
今まで聞いたことのない凄まじい爆音と共に黒門は吹き飛び、数人の人間が宙に舞った。そのうち、人の手足が、ばらばらになって落ちてくることもあり、彰義隊各員は完全に動転し、あたりを逃げ回った。
何発、着弾したか数える暇もなかった。
「引け! 引け!」
と、あたりの誰からともなく叫び声が起こり、彰義隊は瞬く間に崩れた。 3方を取り囲んで攻撃していたので、残った方へ逃げ落ちていくしかなかった。
(ほう、江藤君が言っていた通りの威力だな)
江戸城から遠めがねで見ていた大村は、一瞬、笑ったように見えた。 この上野山の戦いで初めて、このアームストロング砲の恐ろしい威力が知れ渡った。
「佐賀兵はこの大砲を何門持っておるのかのう・・」
加賀藩邸で偶然、この砲撃を見学していた、かの阿部藤治郎が配下の者に聞いた。
「大木さんの話では、今は20門程度らしいのですが、藩の精錬方というところで、製造しているので、いくらでも製造できると言っておられました」 「ほう、何門でも作れると・・」
阿部は呆然としていた。 さて、大木から頼まれた貢姫の件は、慶喜公が完全に恭順することがきまったので、事態が収束してから佐賀藩だけで送り届けることになった。 阿部が加賀まで輸送する予定だった新型鉄砲は既に他の者達によって金沢まで送り届けられたらしい。前田省吾も貢姫の側近の護衛として保養所のある柄崎まで付き添った。
省吾は貢姫から数日の暇をもらって有田に行った。
「帰ってきたぞ」
省吾は有田の代官所にいくと、おみちがかいがいしく働いているのを見つけた。
さて、慶喜公は4月10日に上野寛永寺に入られた後は23日には水戸藩に向けて旅立たれたとのことだった。 4月11日は江戸城無血開城になった日で、京から江戸視察に来ていた江藤は大木と一緒に江戸城に入った。
「おーい、江藤君、こっち、こっち」
と、どこからともなく聞いた声が聞こえてきた。 声のする方を見ると、長い頭と濃い眉が見えた、
「あ、これは大村さん、・・・」
と駆け寄ると、
「何しに江戸へ参られたので?」
と、聞くと。
「えへん、今、私は東征軍の参謀長である・・、ははっは」
と、まったく貫禄のない参謀長が、いかつい護衛数人に守られて近寄ってきた。
「江藤君、あの砲はいい、あれば何門も作れれば、西洋の国にも負けん軍隊が作れる、・・うん、私が作って見せる」
と、まるで子供のように無邪気にいった。
「参謀長殿、佐賀にはまだ驚かせる秘密兵器を育てていますぞ」
今度は江藤がいった
「な、なに・・かね・・」
「参謀長はナポレオン大将軍が軍隊を指揮している絵をご覧になったことはありますか」
「残念だが、本職は医者だもんでね・・」
「それは、残念、私は見たことがあります」
「何を?」
「三兵でございます」
「三兵とは、あの三兵かね?」
「そうです、歩兵、砲兵、・・それと後は?」
と、江藤が言ったところで、
「あっ、あの騎兵かね」
「そうです、我が佐賀藩は既に重装騎兵(馬に乗って射撃する兵)の訓練もしております」
「ふむ、参ったな」
と、大村は腕組みをしていった。
江藤は佐賀藩の蔵の中にある750冊の蘭学書の中にある55冊の軍事専門書の半分ほどは読んだ。その中の一冊の本の挿絵にナポレオン軍が展開している場面を描いてあったのだ。
「江藤君、是非、私にも見せてくれ、その佐賀藩の騎兵の調練しているところを」
「勿論です・・、これからの新しい陸軍を背負って行かれる参謀長殿の頼みです。断ることもできないでしょう」
江藤と大村は顔を見合わせて笑った。
この二人の天才が、明治期を生き残っていれば、戦前の日本軍はもっと近代化された軍隊になっていたはずだ、などと思うと残念でならない。
この後、このアームストロング砲が使われたのは2度ある。そのうちのひとつは会津戦争の時である。 官軍主力は薩摩、土佐、長州などで加賀前田藩も従軍したが、戦況は近代装備の官軍に対し、旧式銃や火縄銃、それに刀や槍で立ち向かってくる会津藩は、無残に虐殺されるばかりである。 だが、会津藩は最終的には3万という大軍に包囲されても、徹底抗戦の構えを崩さなかった。
会津城にこもって戦い続けた。
この会津藩のねばりに、総大将板垣退助は、
「このままじゃ、拉致があかん。佐賀藩のあの大砲を持ってきてもらえんか、江戸の大村さんに頼んでみろ」
ということになり、佐賀藩深堀領の砲兵が援護に駆けつけた。 会津城への攻撃開始は、8月26日。
近くの小田山に大砲を据え付けてから砲撃が開始された。アームストロング砲2門の砲弾炸裂の破壊力はそれまでの旧式大砲の比ではない。城の壁は砕け散り城全体が崩壊するのではと思う位だったが、誰も降伏を言い出す者はいない。 最初は緩慢な砲撃だったが、10日程もすると佐賀藩兵も本気になった。
(日本人に向けては、なるべく使わないように)
との、おお殿から言いつけが藩士達を抑制していたが、現地指揮官からは、(もっと、撃ってくれ!あいつらいつまでたっても、城から出てこんぞ!もっと、励んで撃ってくれ!)
と、督促されると、そうするしかなかった。
その甲斐あって、会津城に白旗が揚がったのは9月22日だった。
そして、アームストロング砲の最後の戦いとなったのが、庄内藩との戦いだった。
この頃、戊申戦争のことを庶民に伝えていたのは、瓦版であった。
慶応4年上野で彰義隊が敗れてからというもの、北関東や東北地方各藩の戦況は、大きな戦いがある度に、瓦版で江戸庶民に届けられていた。
慶応4年は正月の鳥羽。伏見の戦いの旧幕府側の敗戦から始まり、7月にはついに白川口でも戦いが始まり、結果はほぼ官軍の勝利ばかりで、東北生まれの庶民は国元の敗戦の悲報に胸を痛めるばかりだった。
「官軍の野郎供めが、悪辣なことばかりしやがる、国元のお侍が槍や刀で勝負しろといってるのに、鉄砲でずどーんときやがる、なんとも卑怯な奴等ばかりだぜ」
「そうだ、てめえ等も男らしく刀と槍で勝負しろってんでえ、卑怯どもめ!」
国元を荒らされて、江戸の庶民の多くは戦があるたび、嫌な気持ちを味わされていたのである。
それが一変する時が訪れた。
7月半ば過ぎのことであった。
「大変だ!さあ、大変だ!今度こそ、正真正銘の大変でえ!さあ、買った、買った、官軍様の大負けだぜ!」
と、その日の瓦版は、本当に、あっという間に売り切れた。
「庄内藩、大勝利!あの官軍が鉄砲まで忘れて逃げ帰った。さあ、一大事、宮さん、宮さん、どうするねってだあ!さあ、さあ、買っていきやがれ!」
他の瓦版も直ぐに売り切れた。
この官軍敗報は一日で終わると思っているものが大半だったが、それは翌日も、その翌日も続いた。
おかげで、江戸は朝から晩まで、どこに行ってもその話で持ちきりになった。
その知らせは東征軍の江戸城にも届いた。
「江藤君、大木君どうだ、どうして庄内藩はそんなに強いのかね?お主等ならわかるもんと思っていたが・・」
今、江戸城の参謀室という、やたらに広い部屋で大村益次郎が江藤と大木を前にして頭を抱えている。
江藤と大木は桜田屋敷から呼び出されて、初めてきく官軍敗戦についてどう考えればいいのか分からなかった。
「庄内藩には、秋田、薩摩、長州、肥前佐賀、小倉、福岡など攻めかかっている。・・、げせん、どうしてか?」
「この羽州軍の参謀は我が佐賀藩の前山です。羽州方面には佐賀本藩からは少なくとも、500程が従軍しています」
と、大木がいった。
「ということは、500丁のスペンサー銃があるということですので、ゲベールや火縄銃が1000丁あっても、そう簡単には負けない筈ですが・・、ただ、アームストロング砲2門は会津に持っていっていると思います」
と、江藤は納得いかない顔つきである。
「・・、こうなれば、我が藩最強の武雄隊を羽州に回しましょう、幸い武雄隊はまだ、兵庫あたりにいる筈です、それに茂昌様は念のためにと、4門のアームストロング砲を持ち出されたと聞いています」
と、江藤がいうと、
「うん、早速、手配を頼む」
大村は納得したように、大きく頷いた。
その庄内藩からはどうして漏れたのか、総大将の名前までが瓦版から伝えられた。
「さあ、買った、買った、今日は庄内藩、総大将の名前が書いてあるぜ、さあ、買った、買った」
庄内藩の勢力は400名の大隊が、3大隊あって、総勢1200で戦っていることまでもが、瓦版から伝えられた。
「な、なんといった?1200しかいねえのか?本当か・・」
「いったい、どうしたい?何をそんなに驚いている?」
「だって、おめえよ、官軍がいくらで攻めているか知っているかい?」
「そんなこと、しるけえ、べらんめえ・・」
「聞いて驚くな、1万~2万だぜ・・」
「・・、うそだろう、そ、そんなことが信じられるかあ、馬鹿野郎!」
と、町人同士の喧嘩にまでなってしまう程であった。
酒井玄蕃の名は一躍、奥羽地方出身者の間にとどろき渡った。
そして、驚いたことに総大将の名は酒井玄蕃という、藩の首脳のひとりだということまでが分かった。
その上、最後には「鬼の玄蕃」というあだ名がつくまでになっていた。
こうなれば、官軍側も焦りが見え始めた。
「もう、ひと月も経つというのにまだ庄内藩の進軍は止まらないのか、・・」
と、京ではついにあの岩倉卿自らが出陣すると言い始めたのだ。
これはさすがに、副島が体を張って止めた。
さて、話はその庄内藩に移る。
庄内藩には日本一の大富豪、本間家という、昔から庄内藩を影になり日向になり支えてきた家があり、その家格は家老なみであったという。
そして、幕末その当時になると、それまで、藩と一緒になって蓄えてきた資産が、当時の国家予算程にもなったのだ。
幕末、その庄内藩は会津藩などと一緒に賊軍と見なされてしまった。 確たる根拠もないまま賊軍とされた庄内藩は、言われもなく攻めてくる官軍には仕方なく戦わねばならなかった。
本間家にすればお家の一大事。
その身代全てをはたいてもお家を守らねばんらない。
幕末風雲急を告げる頃、庄内藩は藩内の兵制を近代化するため、多量の新型鉄砲が必要になったが、本間家を通じて揃えることができたのだ。
庄内藩が買いそろえたのは最新のスナイドル銃を数千丁。
その小銃代など、本間家にすればいかほどのものでもない。
更に、ガトリング銃や大砲などもスネル商会から購入する予定だったが、そのスネル商会が、突然、姿を見せなくなったので、これ以上は揃えられなかったのだ。
それにしても、そのスナイドル銃でここまで戦えたのは、庄内藩内の絆と酒井玄蕃の用兵の巧みさのおかげだった、
幕末最強を誇る佐賀藩のスペンサー7連発銃と比較すると、多少連射速度は落ちるものの、射程はスペンサー銃より長く、威力も勝っていた。
幕末最強はどこの藩かという話になると、この庄内藩の名があがるが、それは、このスペンサー銃より性能の勝るスナイドル銃を揃えた庄内藩の一隊が、薩摩、長州、佐賀藩等の官軍連合部隊を秋田口まで追い詰めたということに由来しているようだ。
ちなみに、このスナイドル銃を揃えてくれたのは、プロイセンのスネル商会は幕府側の商人であった。ただ、行方が分からなくなった原因は分かっていない。
さて、庄内藩の三大隊の戦いは、奥羽越列藩同盟軍を裏切った秋田藩と新政府軍が、庄内藩に攻め入ったことから始まる。
この時、新政府軍は佐賀、薩摩、長州などの混成軍1,200と秋田藩9,000。 対して、迎え撃った庄内藩は三大隊と農民兵の合わせて1,500程。
その庄内藩兵は幕末、近代戦の猛訓練を受けた精鋭で全員がスナイドル銃を持って迎え撃った。
約10,000名で攻め込んだ新政府軍だったが、地理に不案内の上、秋田兵の装備は、古いゲベール銃や火縄銃などで、各隊との連携がうまく取れずに各個に戦線を打ち破られ、連敗を重ね、後退一方の戦いを強いられた。
この時、佐賀藩に救援出動が命じられたのだ。 その救援隊は鍋島茂昌率いる武雄領の約800の精鋭だった。
全員がスペンサー7連発銃を装備し、藩内で一番早く、近代戦の訓練を始めた精兵揃いだった。
その上、アームストロング砲4門を牽引し、偵察騎兵まで同行させた。
武雄領兵が佐賀藩海軍の電流丸で秋田に応援に駆けつけた時、新政府軍は秋田まで追い返されていて、戦線は混沌としていた。
この時、武雄領の領主は佐賀本藩の家老を務めていた鍋島茂昌だった。
この秋田での苦戦は、議定を務めていた前藩主鍋島直正の耳に入り、直正は特別に自身で茂昌への命令書を作成した。
それに依ると、佐賀藩本藩兵と武雄領兵は全員が茂昌の命に従うことが明記されていた。この茂昌麾下の佐賀藩1,500が主力となって再編され、反撃の主力を担った。
その茂昌が秋田に入ったのが8月1日。
この時、官軍側は庄内藩兵や旧幕府軍の援軍に包囲されており、久保田城も落城の危機に瀕していたのである。
茂昌の到着はまさに奇跡的なことに思えた。この時、武雄兵の廻りには秋田藩兵などの人垣ができて、武雄兵の7連発スペンサー銃をもの珍しく見ていたとの日記も見つかっている。
佐賀・武雄軍団は計画通り、翌日から怒濤の反撃を開始した。
包囲した庄内・旧幕府軍側へ向かって4門のアームストロング砲が一斉に火を吹くと、包囲網は一瞬で砕け散った。それを見た味方の官軍からは、恐怖に似た雄叫びがあがった。アームストロング砲4門の一斉射撃は初めてである。
数人がまとめて吹き飛ばされ、ばらばらに落ちてくる手足の恐怖の光景に勇猛な庄内藩兵が一挙に退却にかかった。
「それっ!」
各大隊の隊長が采配を振るい降ろすと、佐賀・武雄兵が一斉に飛び出していった。そして、一斉に銃弾の雨を浴びせた。
早くも8月3日には本庄に迫った。
本隊はそのまま院内方面に進出する筈であったが、秋田、薩摩、長州兵が庄内藩の逆襲に遭い、退却してきた。
翌日からは風雨が激しく打ち付ける悪天候となり、両軍とも雨でずぶ濡れになりながらの大激戦となった。
敵軍はこの大荒れの天候の中で退却を続けたが、秋田藩や薩摩、長州藩は何度も反撃を受け、その都度、武雄藩や佐賀藩が援軍に駆けつけるという混戦が続いた。
だが、善戦を続けて佐賀・武雄藩をなんとか押しとどめて戦った庄内藩だったが、長浜、君川/雪川の戦いでも敗れて後退を余儀なくされた。
そんな激戦が続く中、9月に入ると北風が混じり、庄内藩の勢いは次第に弱まり、9月20日には武雄兵は長浜、豊巻から亀田に侵入し占領されていた亀田城を奪還した。
やがて、9月23日になると、総大将鍋島茂昌が新屋の本営を発し、大師堂を抜き、9月29日には女鹿に進軍した。
そして同日、鍋島茂昌と佐賀本藩隊長鍋島縫殿助組の5小隊は更に進軍して酒田に入った。
ここで庄内藩が降伏したことを知った。
この戦いで佐賀・武雄兵は偵察騎馬兵をうまく運用して、両面作戦を成功させていた。ここにも、佐賀藩の先進性が表れた戦いであった。
武雄軍はなるべくアームストロング砲の使用は控えたが、庄内藩のスナイドル銃隊の猛烈な射撃に悩まされた時は、仕方なくアームストロング砲で反撃したが、騎兵を使った連携もうまく行き、最後は庄内藩まで押し返した。 庄内藩の降伏は同盟していた会津藩が降伏すること知ったことと、これ以上戦っても、住民に迷惑がかかることを心配してのことだったという。 武雄兵は、幕末最強をうたわれる庄内藩兵を、死者14名という軽い損害で打ち破ることができた。
ただ、佐賀本藩兵は庄内藩からの猛烈な反撃に遭い28名を失った。
武雄軍団は10月5日酒田に集結、一旦、11月12日に東京に凱旋した後、佐賀、武雄に帰還することになるが、激戦をくぐり抜けてきた武雄兵が江戸から東京と名を変えた市街地を行進する姿は、まるで無宿人の群れのように汚れかえっていた。
それを見た東京の住人達は、
「なんでえ、あれは・・、乞食の群れか?」
「馬鹿言うんじゃねえ、よく見ろ、あれが(鬼の玄蕃)を打ち破った武雄兵だぜ・・、あの肩に掛けた鉄砲がいきじゃねえか・・」
「武雄って、三鷹の近くにあった所か・・?」
「馬鹿いうじゃねえ、三島近くだろう、温泉で有名って話だから・・」
(東京のあたらしい住民供は、九州、佐賀のこともしらねえか・・)
人混みの中で、そうつぶやいたのは、かの勝海舟である。
その勝から、100メートル程離れたところに3人の笑顔の男達の姿があった。
疲れきった、そんな無宿人のような群れを、絶賛の拍手で迎えた3人の男達。
大村益次郎と江藤新平、それに、大木喬任である。
「あっぱれ!よほどの強兵!」
その時、かの大村益次郎が思わずそう叫んだという。
完
(直正公談)
私が旧佐賀藩藩主鍋島直正公を思いうかべる時、公のふたつの顔を思い浮かべる。ひとつは、極貧な農民の姿を見かねて始められた加地子猶予で、この制度のもと、小作農が自作農へと変わることができたという。そのせいで、今でも佐賀の農家は比較的裕福な農家が多く、当時の公のやさしい人柄が目に浮かぶ。
もう、ひとつはロシアが南下政策取ってきているということが判明し、その時、どこまでを日本領にするのかという議論が起こった。その際、公は樺太の武力征服を強く提案されたらしい。当時の佐賀藩には、あのアームストロング砲23門があり、まだ、導入を検討絵いていたロシアと戦っても、かなりの確率で勝てたと思っている。その時、反対したのは、大久保利通だ。大久保は結局、公が病気で倒れられたのを期に、北海道までを日本領とすることを決めた。大久保は国内では強気だったが、外国には薩英戦争でこてんぱにやられたせいか、弱気だったようだ。あの強権の大久保にしてはと、残念な気がする。
現在、東京麻布には旧佐賀藩菩提寺の賢崇寺に,2.26事件で処刑された将校の墓がある。以前、そこには、直正公の墓もあったが、現在は佐賀に移されている。