
エレベーター【1000字小説】
男には、忘れられないひとがいた。
1年前に起きた出来事ばかり考えて、毎日を過ごしていた。
ある日、男はトイレを借りようと見慣れないビルに入った。
用を済まし出ようとすると、一台のエレベーターが目に入った。
エレベーターの扉には、金色の文字でこう刻まれている。
『後悔しているひと専用』
男は近寄り、まじまじとそれを見つめていると、突然目の前の扉が開いた。
戸惑いながらも中に入ると、内部には奇妙なボタンが並んでいた。
「分」「時間」「月」「年」
それらのボタンの下に、数字のボタンが通常通り縦に並んでいた。
男は漢字で書かれたボタンから、数字は階数を示すものではないと察した。
疑いつつも淡い期待を抱きながら、男は「年」というボタンを押したあとに数字の「1」を押した。
機械的な音が数分聞こえたあとで、ゆっくりと扉が開いた。
目の前には先ほどと同じビルの内装が広がっていた。
男がビルの外に出ると、ポケットの中に何かが入っていることに気付く。
それは1年前、恋人へ渡すために買った結婚指輪だった。
スマホで日時を確認すると、男がプロポーズに失敗した「あの日」だった。
約束の時間、約束の場所へ向かい、男は再び女と出会った。
男は今度こそ、完璧な言葉を恋人に伝えた。
そしてついに、二人は結ばれたのである。
それから男は、やり直したいことがあるたびに、あのエレベーターに乗るようになった。
あるときは仕事の面接をやり直し、あるときは損失がでた投資をやり直した。
男がエレベーターに乗るたびに、男の人生は完璧なものになっていった。
月に一度だったものが、週に一度になり、一日おきになり、毎日になった。
些細な言い間違い、昼食のメニューの選択。
ついに、男は一日に何度もエレベーターに乗るようになった。
男は思った。
自分の人生は、小さな理想をつき足した大きな夢のようだ。
あるとき、男がエレベーターに乗り込むと、どこからか音声が流れてきた。
「お客様。いつもご愛用いただき誠にありがとうございます。突然ですが、お客様は次のご利用で、規定の回数に達します。後悔のないようご慎重なご判断をお願い致します」
男は慌ててエレベーターから飛び降りた。
一度だけやり直せるなら、いつに戻って何をやり直すべきか。
その日から、男の苦悩は始まった。
過去の記憶を掘り返しては、毎日ため息をついた。
一体何をやり直せば、自分の人生は完成するのだろう。
食事中も、仕事中も、頭にあるのは最後の一回のことだけだ。
目の前の料理の味も、窓の外の景色も、男の意識には入らなかった。
ある日の晩、食卓を囲んでいると、男の妻が静かに切り出した。
「仕事も順調で、健康で、可愛い子どももいる。でも、あなたは毎日ため息をついているわ。私たちと一緒にいるだけじゃ、満足できないのね」
翌朝、妻と子どもは、すべての荷物を持って出ていった。
テーブルの上には、離婚届が置かれていた。
男は急いでビルへと走り、エレベーターに飛び込んだ。
ボタンの前に立ったとき、男は初めて自分の愚かさに気が付いた。
どの過去に戻れば、自分は家族の信頼を取り戻せるのだろう。
どの過去に戻れば、自分は二度と後悔をしなくなるのだろう。
男はただ、エレベーターの中で静かに立ち尽くしていた。