
鏡――三島由紀夫と冷たい陶酔
ジムで、とあるボディビルダーが鏡の前に立っているのを見かけた。たぶん周囲の人々は、彼が自分に見惚れているのだと思っている。
この男の佇まいは、私になぜか三島由紀夫を連想させる。
三島ほど、自己陶酔だと言われ続けてきた作家もいない。出世作の『仮面の告白』からして、自分を解剖台に載せる小説だ。修辞は壮麗で、一人称が強い。後年は、鍛えた肉体を写真に撮らせ、制服を着た集団までつくり、最後には自分の死まで舞台のように設えた。
たしかに、ナルシストと呼びたくなる材料は揃っている。しかし、私はその言い方が、昔からどうも釈然としない。
そもそも、小説家の自己陶酔とは何なのか。
私が思うに、それは作品の中に美化された自己像をこしらえて、それを読者に見せたがる欲望だ。本当は俗物なのに、詩的な人間として見せたがったり、本当は他人の評価に依存しているのに、孤高の人間のように自己演出する。そして、演出する本人まで、それが本物だと思い込んでしまう。
その意味で、自己陶酔とは、自分を直視しないで済ませるための技術なのだと思う。
だが、この物差しを三島に当てると、どうも合わない。三島がやったのは、その逆ではなかったか。
鉄の肉体と太陽の精神を持った自分。それに対する現実の自分。その二つの距離を、三島はあまりにもはっきりと見続けてしまったのではないか。
三島自身が『太陽と鉄』で、おおよそそのことを書いている。言葉によって世界を所有してきた作家が、言葉だけではどうしても届かないものに気づいてしまう。言葉は内側を照らすが、そのぶん、身体の現実から人を遠ざけもする。その不信から、彼は鉄と筋肉のほうへ歩いていった。
言葉では届かないと知って、生身の自分を作り変えた。筋肉をつけ、制服を着た集団をつくり、最後には死そのものまで、像と生身の距離を埋める形式にしてしまったように思える。
酔っている人間は、自分に甘い。見たくないものは見ず、理想化した像に寄りかかる。三島はそうしなかった。彼は、自分に甘くなることに失敗した人間だった。
そこにあるのは、酔いではなく、醒めすぎた意識だ。自分に見惚れる快楽ではなく、自分から目を逸らせないことの苦しさだ。
ここまで考えて、はたと気づく。
自己陶酔という言葉は、いつも捏造だけを指すわけではない。もう一つ、自分の何かを見せびらかしたいという欲もありそうだ。
この意味でなら、三島には確かに自己陶酔的な要素があったと思う。鍛えた身体を写真に撮らせたこと。自分の異様さを、隠すどころか、強い照明の下に置いたこと。最後の死を、あれほど劇的な形式にしたこと。そこに、見せたいという熱がなかったとは、私には言いづらい。
三島は自己陶酔だったのか。そう問うより、こう問い直したほうがいい気がする。
三島は、誰に向かって見せたがっていたのか。
見せびらかしには、観客が要る。喝采を受け取る自分が要る。三島は、はじめは読者に向かっていたと思う。見られたかっただろうし、驚かせたかっただろうし、自分の高みを知らしめたかっただろう。
だが、見せびらかしの宛先はいつのまにか、痩せ細っていったように私には思えてならない。
死が舞台であったことは否定できないかもしれない。しかし、舞台の幕が下りれば、喝采を受け取る人間は失われる。見せたい主体を、見せるという行為そのものが消してしまう。喝采を受け取る人間がいなくなった見せびらかしは、少なくとも普通の意味での見せびらかしとは呼べない。
そこにあるのは、誰かに向けた演技というよりは、自分の基準に対する、ほとんど残酷なまでの忠実さである。
もちろん私には分からない。あの瞬間、三島はもう誰にも向いていなかったのか。外からは見定めようがない。見せたい欲と、見る相手などどうでもよくなる切実さは、最後のところで紙一重まで近づく。
酔いでないとは言い切れない。熱を奪われた陶酔。冷たい陶酔。三島のそれは、そう呼ぶしかないものだったのかもしれない。
だが、少なくとも三島を自己陶酔の一語で片づけるとき、私たちは、彼の中にあった切実さを取り逃がしていると思う。書き、鍛え、演じ、最後には身体そのものを差し出した。そこにあったのは、自分を許せない緊張だった。
作品の深層は、すぐには見えない。書いた人間の顔は見える。本気で自分の底に向き合う身振りと、ただ自分を大きく見せたい身振りは、外からはよく似ている。断定はできない。ただ、その線の引き方には、引いた人間の顔も映りこむ。
鏡の前の男に戻る。
彼が見ているのは、僧帽筋の左右差や、腹のわずかなゆるみや、肩の張りの足りなさだ。独りきりで、自分で決めた基準と向き合っている。
三島は、最後まで、鏡の前を離れなかった。そして、その鏡を割って、向こう側へ行ってしまった。誰のために割ったのか。たぶん、誰にも分からないままだ。
私に見えるのは、それ以外ではいられない切実さを伴った、現実を超えた三島の在り方だけだ。私は、そこに美を見る。
そして、私はそこまでは行かない。というより、行けない。
私は、安全な場所にいて、鏡について考え、三島について考え、美について考え、それ以外ではいられない切実さについて、語っている。
すでに少し危うい。
これを語る私の中にも、すでに像ができ始めている。虚栄に陥るには真剣すぎる、という自画像。これは、ただの虚栄よりも、たぶん上等な虚栄だ。
私は三島を、自己陶酔から弁護してきた。彼は酔っていたのではない、醒めすぎていたのだ、と。だが、「醒めすぎた意識」という像こそ、三島が彫った像のなかで、いちばん精巧な一体だったのかもしれない。
そのナイフを、私はいま自分に向けている。さっき、三島には向けなかった。弁護したつもりで、もっと値の張る像を、こちらから売りつけただけかもしれない。
そして、こう書いている今の一文も、また一段深いところから疑える。深さを疑ってみせる身振りは、いちばん奥に隠した見せびらかしかもしれない。降りても、降りても、底に足がつかない。鏡は、覗き込むほど、覗き込む顔を増やしていく。
この鏡から出る道は、たぶん、さらに奥の鏡ではない。
さっきから鏡について考えているあいだも、彼女はずっと、台所でこちらに背を向けてシャケを焼いている。
その後ろ姿を眺めていると、ふいに胸を打たれ、愛おしさがこみ上げてくる。三島も、鏡も、美も、切実さも、一度棚に上げる。目の前にいるのは、シャケを焼いている女だ。
その後ろ姿はどんどん巨大化していて、ケツも昔と比べものにならないくらいバカデカくなっている。
そこに何か悲劇性を感じて、ますます彼女が愛おしくなる。時間が人間の身体を変えていくこと、それ自体には絶対に抗えない。それ以外ではいられない在り方としての、老い。
もっとも、悲劇なのは彼女の身体ではなく、それをすぐ美学の問題に変換してしまう私の頭のほうかもしれない。
この観察を誠実に伝えたら、もうお前にはシャケを焼いてあげないと言われた。
たぶんこれが、私が三島にならずに済んでいる理由だ。私には、鏡の前から台所へ引き戻される回路がある。三島にそれがなかった、と言い切るつもりはない。ただ、少なくとも、私がここで述べている三島像は、その回路を最後に切ってしまった人間だ。
シャケを焼いてくれる女のケツの巨大化に悲劇性を見出して、それを本人に誠実に告げ、シャケの供給を断たれる。この一連の運動を、私の中の三島像は、自然にやれる人間ではなかった。
世界は残酷で、理不尽で、こちらの真剣さなど簡単に笑いものにする。美について考えすぎると、シャケの供給が止まる。
それでも私は今夜、この台所の灯りの下で、シャケの奪還交渉に臨まなければならない。
彼女はまだ、こちらに背を向けて立っている。