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生きるほうへ、もう一口

    今、「もう消えてしまいたい」と思っている人へ。

    生きることは、大きな決意でなくていい。

    今日、もう一口。今日、もう一息。

    これは、ひどく傷ついて、生きるほうから手を離しかけた私が、医療機関やカウンセリング、人の手を借りながら、あたたかい食卓に少しずつ命を結び直されていった記録です。

    ピザトーストとカプレーゼの朝に、私はもう一度「おいしい」と思いました。

    心が壊れると、世界はまず、食べものの匂いを失うのだと思った。

    お腹が空いているのか、空いていないのか。
    何を食べたいのか。
    何を口にしたら、自分が少し戻ってこられるのか。

    そんな当たり前のことさえ、分からなくなる時期があった。

    私は、ひどく傷ついていた。

    誰かを信じたこと。
    大切にしてきた現実が崩れたこと。
    自分の存在まで、軽く扱われたように感じたこと。

    その全部が重なって、心と身体が先に限界を迎えた。

    胸の奥がずっと痛かった。
    思い出したくないことを思い出しては、身体のほうが先に反応した。
    動悸がした。
    涙が止まらなかった。
    食べものの匂いが、遠くなっていった。

    正直に言えば、何度も「もう消えてしまいたい」と思った。
    一度、生きるほうから手を離しかけたこともある。
    そのくらい、心も身体も限界だった。

    ひとりでは戻れないと思って、医療機関に相談した。
    薬を飲み始めた。
    カウンセリングにもつながった。
    友人に泣きつき、何度も話を聞いてもらった。

    それは、弱さではなかった。
    こちら側へ戻るために、私が必死でつかんだ手すりだった。

    そんな私を、少しずつこちら側へ戻してくれたものがある。

    大げさな言葉ではなかった。
    劇的な約束でもなかった。
    あたたかい食卓だった。

    彼は、本当に料理が上手い。

    手際よく台所に立ち、当たり前のように何かを作る。
    その姿を見ているだけで、こちらの呼吸まで少し整っていく。

    湯気の立つ皿。
    焼けたパンの匂い。
    野菜の色。
    チーズの白さ。
    「食べる?」という、何気ない声。

    そのひとつひとつが、壊れかけていた私の身体に、少しずつ戻ってきた。

    今朝食べたのは、ピザトーストと、プチトマトとモッツァレラのカプレーゼだった。

    こんがり焼けたパン。
    少しとろけたチーズ。
    赤いトマト。
    白いモッツァレラ。
    そこに、ほんの少しの緑。

    目の前に置かれた一皿が、ちゃんと色を持っていた。
    そして私は、それを見て「おいしそう」と思った。

    ひと口食べた。
    おいしかった。

    その瞬間、胸の奥がふっとゆるんだ。

    ああ、私、まだおいしいと思える。
    まだ、あたたかいものを食べて、泣きそうになるくらい幸せになれる。

    そう思ったら、涙が出そうになった。

    「生きていてよかった」

    ピザトーストを食べながら、そんなことを思う日が来るなんて、少し前の私は知らなかった。

    彼の料理は、私を救うための奇跡ではなかった。
    私に「生きなさい」と強く言うものでもなかった。

    ただ、そこにあった。

    生きる側へ戻るための手すりのように、静かに、あたたかく。

    人は、言葉だけで救われるわけではないのだと思う。

    朝に、あたたかいものが用意されていること。
    誰かが自分のために、当たり前のように手を動かしてくれること。

    そういう小さな現実に、命は少しずつ結び直されていく。

    彼に何かを背負わせたいわけではない。
    ただ、この朝の一皿が、私を生きるほうへ戻してくれたことを、私は忘れたくない。

    私はまだ、完全に治ったわけではない。
    ふいに悲しみが戻ってくる日もある。
    胸の奥がきゅっと痛む朝もある。
    けれど、以前のように、暗いほうへ引きずられ続けることは少なくなった。
    泣きながらでも、薬を飲みながらでも、誰かの手を借りながらでも、
    私は少しずつ、こちら側へ戻ってきている。
    そして今朝、私はまたひと口、食べた。

    生きるほうへ、もう一口。

    その先に、あたたかい食卓があった。
    その食卓の向こうに、彼がいてくれた。

    たぶん私は、少しずつ胃袋を掴まれている。

    それは、なんだかとても幸せなことだと思う。

    もし今、これを読んでいる誰かが、
    「もう消えてしまいたい」と思っているなら。

    どうか、今日だけでいい。
    何かをひと口、口にしてほしい。
    水でもいい。
    スープでもいい。
    冷めたパンでもいい。

    誰かに「しんどい」と一言だけ送るのでもいい。

    生きることは、大きな決意ではなくていい。
    今日、もう一口。
    今日、もう一息。

    そのくらい小さくていい。

    私も、そうやって戻ってきた。

     
     
    信州の作家・MC。『声で調え、言葉で遺す』を合言葉に、式典や舞台の声、日常から生まれる掌編やエッセイを発表しています。地域や人の温度をすくい、静かな余韻で届けたい。作品一覧・ご依頼は固定記事をご覧ください。

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