
妖怪スポンジ落とし
恋人の家の台所で、ひとつの磁石がなくなった。
それだけの、話。
その家には、たぶん妖怪がいる。
夜中、台所のスポンジが、落ちたらしい。
朝になって、彼が言った。
「スポンジ置く所の磁石、どこいったの? 一個しか無いよ?」
私は、眠い目をこすりながら首をかしげた。
前の晩、たしかに私は、洗い物をした。
彼が作ってくれたごはんを食べて、珈琲を淹れて、台所に立った。
誰かの家の台所に立つというのは、少し不思議だ。
まだ自分の家ではない。
でも、まったく他人の場所でもない。
食器の置き場所を少しずつ覚え、
布巾の匂いを知り、
スポンジの硬さまで、手に馴染んでいく。
そうやって人は、
誰かの日常に、少しずつ入り込んでいくのかもしれない。
けれど、スポンジ置きの磁石までは知らない。
「私、いじった覚えないけど」
そう返すと、彼は少し考えてから言った。
「じゃあ妖怪スポンジ落としが夜中に落としたんだね。鬼太郎に聞いてみる」
私は笑ってしまった。
妖怪スポンジ落とし。
なんて、小さな妖怪だろう。
人を脅かすでもなく、
家を壊すでもなく、
ただ夜中にこっそり台所へ現れて、
濡れたスポンジを、ぽとん、と落としていく。
落とした瞬間、
小さな手の先で、きっと、にやりと笑う。
そして朝になって、
人間たちが、少しだけ困る。
「どこいった?」
「知らない」
「妖怪かな」
そんな会話を、流しの陰で聞きながら、
満足そうにしている。
恋人の家に泊まると、
大きな出来事よりも、こういう小さなことが残る。
ごはんがおいしかったこと。
朝の珈琲の湯気。
寝ぼけた声。
出勤前の気配。
そして、なくなった磁石。
生活というのは、
美しい言葉だけでできているわけではない。
洗い物。
スポンジ。
冷蔵庫の肉。
朝パンに乗せるスモークサーモン。
落ちた磁石。
そういうものが少しずつ積み重なって、
誰かと誰かのあいだに、
「ふたりだけの話」が増えていく。
妖怪スポンジ落としは、
きっと今日もどこかの台所で、
誰かの距離を、少しだけ近づけている。
困った顔をさせて、
笑わせて、
何でもない会話を、ひとつ増やして。
だから私は、
なくなった磁石を探しながら、思った。
もし本当に妖怪がいるのなら、
もう少しだけ、この家にいてもいい。
夜中にスポンジを落とすくらいのいたずらなら、
たぶん、許してあげるから。