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【ホラー】『声異』|朱乃小説

    ◾︎あらすじ

    高校生の顕妄結依歌(けんみだ ゆいか)は、母と二人で暮らしている。

    友人の起与沈実(おきよ しずみ)と独正子遠(ひとまさ こと)との登校中、沈実が持ち込んだのは、配信者のあいだで拡散されている“声異”と呼ばれる歌だった。

    歌うだけで何かを呼ぶとされる声異は、流行りの怪談として消費されていた。

    名前を知った日から、結依歌たちの日常には説明のつかない違和感が落ち始める。

    何気ない会話に差し込まれる沈黙。
    見慣れていたはずの光や影の揺らぎ。
    教室のざわめき、昼休みの机、画面越しに流れる歌。

    軽い興味で触れたはずのものは、三人の奥へ入り込み、日常の輪郭を変えていく。

    流行りとして広がった“声異”は、確かにそこに残り続ける。


    ※本作品は完全なフィクションです。登場する人物、団体、名称等はすべて架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。

    第壱聲 誘イ歌


     二〇二六年六月八日 月曜日

     玄関の向こうで、母が話している。

    「いつも、ありがとうございます」

     年配の女性の声が、遅れて返った。

    「いいのよ。脚の方は大丈夫?」

    「ええ、おかげさまです。昨日の蟹、とても美味しかったです」

    「息子が送ってくるのはいいんだけど、ほら、私一人暮らしでしょ。食べきれないのよ」

     顕妄結依歌(けんみだ ゆいか)は朝食に手をつけていた。
     味噌汁を飲み、焼き魚をほぐし、茶碗の米を口に運ぶ。玄関先のやり取りは、食事の間も続いていた。

     食べ終えると、食器を流しに置き、制服の袖を整えた。鞄を持つ前に、仏壇の前へ立つ。

     手を合わせる。

     目を閉じる時間は短い。
     父の顔も、声も、もう曖昧になっている。
     最初から、はっきりしない。

     今日も同じ手順を終える。

     玄関が開き、母が戻ってくる。

     結依歌は鞄を持つ。

    「いってきます。お母さん、気をつけて」

    「お仕事はパソコンだから大丈夫」

     結依歌は母の左脚を見た。
     踏み出す直前、重心が遅れる。

    「お母さんは家でも心配だから」

     母は返事をしない。
     唇を噛み、視線を床へ落とした。

    「距骨……治らないんだから」

     顔を上げる。
     母の目線は、結依歌を越えていた。

    「ほらね」

     その直後、母は瞬きをした。

    「あ……ごめんなさい。結依歌も気をつけて」

    「うん」

     返事と重なって、玄関の金具が鳴った。

     建物の廊下を抜け、駅へ向かう。
     改札を通り、ホームに停まった電車へ乗った。

     窓の外を、朝の街並みが流れていく。

     電車を降りると、改札の先で手を振っている姿が見えた。

    「結依歌ー」

     声の主は、起与沈実(おきよ しずみ)。
     隣には独正子遠(ひとまさ こと)がいる。

     結依歌とは同じクラスで、登校前は改札の先で合流する。
     結依歌は改札を抜け、沈実の前で足を止めた。

    「おはよう」

    「おはよ。聞いてよ、昨日ほんとすごかったんだから」

     沈実は言葉を切らずに続けた。

    「昨日ね、朝から断一(さだいち)と会ってたの。朝からって初めてで、なんかそれだけで特別じゃない?」

     声の高さは落ちない。

    「植物園に行ったんだけど、ラベンダーがすっごく綺麗で。あとね、スカビオサもあって、花の説明のところに花言葉が書いてあったの。『朝の花嫁』だって。そしたら断一が、まるで君みたいだねって」

    「はいはい」

     子遠が返した。

    「もう昨日の投稿でおなかいっぱい」

    「えー、ちゃんと聞いてよ」

    「沢山載せてたもんねー」

     沈実の口が、また開く。

    「そのあとクロユリ見つけてさ。私、たしか怖い花言葉だった気がするって言ったの。ちょっとだけ変な空気になったんだけど、まあ冗談だよねって笑って。そのあと流行りのスイーツのお店行って、ショートケーキ食べて、それで帰りにバイク乗せてもらって――」

    「そこまで載せる?」

     子遠の目が細くなった。

    「だって嬉しかったんだもん」

     沈実の口元が緩む。

    「じゃあ今度、三人でそのお店行こうよ。可愛かったし、絶対いいと思う」

    「いいよ」

     結依歌が答える。
     子遠の眉が寄った。

    「知ってるでしょー? 私、アレルギーだから」

    「あっ、ごめん」

     沈実は口元を押さえた。

    「でもケーキ以外もあるよ」

     寄った眉は戻らない。
     結依歌は沈実と子遠を見た。

    「子遠は、お肉とかの方が好きじゃなかったかな」

     子遠の顔が結依歌へ向いた。

    「そう!」

     声が跳ねた。
     沈実は肩を揺らした。

    「わかりやすいなあ、ほんと」

     数歩進んだところで、子遠が結依歌へ顔を向けた。

    「結依歌は土日なにしてたー?」

     結依歌は上へ目を向けた。
     言葉は遅れて出た。

    「昨日は近所の方から頂いた……蟹? 食べた気がする」

    「うわ」

     子遠は眉間を寄せた。
     口元が下がる。

    「他の話ないのー?」

    「あんまり覚えてない」

     沈実の口元が緩んだ。

    「結依歌はさっぱりしてるからね」

     子遠の目が上がる。

    「私はね」

     二人の視線が子遠へ向いた。

    「パパのお店で、コロッケの新作メニューが完成したの」

     独正家は、隣町で定食屋を営んでいる。
     店には、父と母が立つ。

    「でもまだ食べさせてもらえてないんだよね。お楽しみって」

    「けちじゃん」

     沈実は頬を膨らませた。

    「違うの。なんかね、『柔らかいコロッケ』なんだって。新しい挑戦らしくて、今すごい張り切ってる。店の模様替えもしようって言い出してるし」

    「ふわふわコロッケ、バズるかな」

     沈実はスマホを取り出した。
     子遠の喉が小さく鳴った。

     結依歌が口を開く。

    「子遠は本当にコロッケ大好きだよね」

    「揚げ物食べ過ぎじゃない?」

     沈実の声が横から入った。

     子遠は胸を張った。

    「『喰らい、動け!』が我が家の家訓だから」

     沈実の手の中で、スマホが短く鳴った。

     画面を開く。
     親指が二度動く。

     沈実の目が止まった。

    「てか。今バズってる『声異』って知ってる?」

     結依歌は首を横に振った。子遠は眉を顰める。

    「胡散臭い怪談でしょ」

    「違うって。配信者さんが紹介してたの。独自のルートで仕入れた話なんだって。昨日だけで百万再生、超えてるよ?」

     沈実は画面を二人へ向けた。

    「この人、登録者三百万人もいるんだよ? そんな人が言ってるんだから、胡散臭くないって」

    「胡散臭いのは配信者じゃなくて怪談の方」

     子遠は言い切った。

     沈実の肩が落ちる。
     口元だけが尖った。

    「子遠はわかってないなあ。怪談って言っても、おはなしだけじゃないんだよ」

     沈実は二人の前にスマホを差し出した。
     三人の足が止まる。

     校門は目の前だった。

    「これこれ。この動画」

     沈実の指が画面に触れた。

     始業のチャイムが鳴った。

    「あっ」

    「うそ、もう?」

     子遠の顔が校舎へ向いた。

    「やばい、走るよ」

     三人は校舎へ駆け出した。
     沈実はスマホをしまいながら、

    「昼! 昼にちゃんと見せるから!」

     声を背後に残した。

     結依歌は何も言わなかった。
     沈実の口から出た名前だけが、耳の奥で止まっていた。

     ――声異。

     教室に入ってからも、沈実の声は止まらなかった。

    「だからさ、絶対なんかあるんだって」

     席についてから授業の合間まで、沈実は子遠へ話し続けていた。

     窓際の結依歌の机に、日差しが長く落ちていた。
     ノートの端まで白く照らされ、黒い文字だけが浮いた。

     結依歌は窓の外を見た。
     次に、床へ落ちた自分の影を見る。

     手を挙げた。

     教壇の女性教員が、結依歌へ顔を向ける。

    「どうした?」

    「カーテン、閉めてもいいですか」

    「ん?」

    「日差しが暑いです」

     教員は窓を見て、頷いた。

    「ああ、いいですよ」

     結依歌は立ち上がり、カーテンを引いた。
     光が布の向こうへ隠れ、教室の明るさが落ちる。

     何人かが結依歌を見た。
     視線はすぐに机へ戻り、授業は続いた。

     昼休みになると、沈実と子遠が結依歌の席へ来た。
     三人で机を寄せ、弁当を広げる。

     子遠の弁当を見て、沈実の口元が緩んだ。

    「またコロッケ?」

    「ほっといて。パパのコロッケは世界一なんだから」

     子遠は箸を持つ。

     沈実は弁当の蓋を開け、片手でスマホを操作していた。

    「見せるって言ったよね」

     画面を机の中央へ置く。

     例の動画だった。

     配信者本人とゲストが映っている。
     いつもの撮影部屋に、二人は並んで座っていた。
     短い挨拶のあと、配信者が口を開く。

    『声異、ご存知ですか?』

     三人の箸が止まった。

     配信者は続ける。

    『これは独自のルートで入手した情報なんですけど、地方の伝承に残る降霊術のひとつらしくて。いわゆる、ひとりかくれんぼみたいなものですね』

     少し間を置いて、また話す。

    『ただ、この“声異”は歌なんです。歌うことで成立する降霊術なんじゃないか、って言われていて』

     画面の中で、ゲストが興味深そうに身を乗り出した。

    『方法は、二人以上が基本。向かい合うか、複数人で輪になるように立ち、中央に向かって歌う。一人でやる場合は、壁に向かって、太陽に背を向ける。自分の影をもう一人に見立てて、その影に向かって歌う』

     動画の中で、配信者とゲストが向かい合った。

     配信者とゲストは歌った。

     カンガエ シンジル
     カンジョウ ホントウノジブン
     シンタイ ムネニ
     ハイケイ エイエン
     ミンナ ミニ
     コンドウシ イッチ

     教室のざわめきが薄くなる。

     歌が終わる。
     画面の中では、何も起こらなかった。

     配信者は口元を歪めた。

    『あれ、波長合わなかったかな』

     ゲストも口元を歪める。

    『今後、なにかあるかもしれませんね』

    「ほら」

     子遠が言った。

    「やっぱり胡散臭い」

     動画は続いていた。
     ゲストが配信者に尋ねる。

    『ところで、降霊術って言っても、これで何が起こるんですか?』

     配信者は一拍置いて、笑った。

    『実は、そこは僕も知らないんですよね』

     沈実は口元を緩めた。
     動画は別の怪談へ移っていった。

    「この歌詞、なんか怖くない?」

     沈実の目はスマホの画面にあった。

    「ありがち」

     子遠は弁当を箸でつつく。

    「そういうの、だいたい雰囲気だけだし」

     結依歌は動かない。
     机の上のスマホから目を離さなかった。

    「歌いたい」

     沈実と子遠の顔が、同時に結依歌へ向いた。

     沈実の口元が、笑う形で止まった。

    「え?」

     子遠の眉が寄る。

    「こんなの、つまらないよ」

     結依歌の目は、沈実のスマホから動かなかった。

    「歌いたい」

     沈実と子遠の視線が交わる。

     沈実の口が開いた。

    「こ、怖いけど……やってみちゃう?」

     子遠は一度目を伏せた。
     結依歌の肩に手を置く。

    「結依歌が何かに興味持つの珍しいし、いいよ」

     子遠の口元が緩む。

    「でも、幽霊とか怪奇現象とかは信じてないからね」

    「私はちょっと怖いけど、三人でやるの楽しみかも」

     沈実は弁当箱の横にスマホを置いた。

    「今日の放課後、決定」

    「私は店の模様替えの手伝いもあるから、やったらすぐ帰る」

     子遠の声が続いた。

     結依歌は返事をしない。
     画面だけを見ていた。

     昼の光が窓から差し込み、結依歌の黒い髪に細く反射する。

     沈実が立ち上がった。

    「あ、暑いよね」

     カーテンを閉めた。


    第弐聲 一緒ニ居タイ

     放課後のチャイムが鳴る。
     沈実は結依歌と子遠のもとへ駆けた。

    「行こ、行こ」

     怖いと言っていた足は、止まらない。
     子遠の口元が緩む。

    「さっきまで怖がってたのに、ずいぶん乗り気じゃない」

     沈実は肩を竦めた。

    「だって、なんかここまで来たら気になってきたし」

     結依歌は返事をせず、鞄に手を伸ばしていた。

     三人は校門を抜けた。

    「どこで声異するー?」

     声は弾んでいた。

     沈実は視線を上げた。

    「あそこは? 空き地のところ! 広いし!」

    「どこー?」

     結依歌が言う。

    「去年十月の第二週木曜日。チキン南蛮食べに行って、その後寄った店で子遠がピーチソーダを頼んで、沈実はスミレのオブジェを見つけて喜んでた。その帰り道にたまたま見つけた空き地で、皆で写真を撮った場所」

     沈実と子遠の目が止まった。

    「そうそう! よくわかったね!」

     沈実の足が、半歩前へ出る。

    「あのオブジェ可愛かったな〜」

     子遠の目が開いた。

    「よくそこまで覚えてるね」

     結依歌が言う。

    「好きだから」

     子遠は続ける。

    「確かに、あの空き地なら広いし丁度いいかもね」
    「また、三人で写真撮っとく?」

     沈実の口元が緩む。
     結依歌は頷いた。

     三人は、帰り道とは逆の道へ進む。

     沈実がスマホを取り出した。

    「もう一回見よ。歌詞、覚えないと」

    「カンガエ シンジル……」

     沈実の眉間に皺が寄る。

    「やっぱりこの曲調、気味悪い」

     子遠が返す。

    「歌っていうより、お経みたい」

    「やめてよ、もっと怖くなるじゃん」

     沈実の口元が歪んだ。

     結依歌は前を向いたまま歩く。
     画面は見ない。

     ピコン。

     結依歌は、スマホの画面を覗いた。

     ――今日、夜電話しよ〜。

     沈実の親指が、通知バーを上へ払った。

     子遠が言う。

    「また彼氏? 断一(さだいち)君?」

     結依歌は通知を睨みつけた。

    「そうそう! 断一、今日うちに来てるの!」

    「帰らなくていいの?」

     沈実は口元を緩めた。

    「大丈夫! 夜ご飯うちで食べる約束してるだけだよ! どうせママとコーヒーでも飲んでるよ」

     沈実は動画のコメント欄から、歌詞を開いた。

     子遠も歌詞を追う。
     結依歌は聞き流していた。

     沈実の声が跳ねる。

    「あれ!」

     結依歌と子遠が目を向ける。
     視線の先に、寺があった。

     子遠が顎に指を当てる。

    「この前来た時は気付かなかったけど、お寺あったのね」

     沈実の肩が下りた。

    「ほら。何かあっても、たぶん平気でしょ」

     道の先で、空き地に着く。

     結依歌は夕陽を正面にした。
     沈実は、その左へ移る。
     子遠は沈実の左へ入る。

     三人は輪になった。

     沈実が確認する。

    「準備いい?」

     子遠と結依歌は頷く。

     三人は中央へ向き、歌い出す。

    「カンガエ シンジル」
    「カンジョウ ホントウノジブン」

     三人の声は重なっていた。

     沈実の耳に、別の声が入った。

     同じ節で、違う歌が重なる。

     子遠の喉が止まった。
     歌う口だけが動いている。

     二人が結依歌を見る。

     結依歌は俯いたまま、歌を続けている。

     結依歌の声が、二重に聴こえる。

     その口からは「声異」と、

    「フイ ホン……アン」
    「……シ イ イ……ド……」

     子遠の手が、口元へ上がった。

     沈実の目に涙が溜まる。
     結依歌の肩を揺さぶった。

     結依歌の口元が緩む。

    「歌詞、間違ってた?」

    「結依歌、大丈夫? 今の何?」

     子遠の声が出る。
     沈実は結依歌の肩を掴んだまま、手を離せずにいた。

     結依歌は目を瞬かせた。

    「皆で歌えた」

    「それはいいけど、怖かった」

     沈実の手は震えていた。

     結依歌は、その手を取る。

    「大丈夫。私達がずっとついてる」

     沈実は目元を拭った。

     ピコン。

     沈実のスマホが鳴る。

     子遠の肩が跳ねた。

    「も、もう帰ろっか。私はパパの手伝いしないと」

     沈実も頷く。

    「うん。帰ろ」

     二人が歩き出す。

     結依歌は、二人の手を取った。

    「写真は?」

     子遠と沈実の視線が合う。

     結依歌の目は逸れなかった。

    「声異、記念写真?」

     沈実の声に笑いが混じる。

     結依歌は続けた。

    「うん。声異も三人で一緒で楽しかった」

     子遠は結依歌を見た。

    「いいね。三人で写真撮ろっか」

     結依歌の目尻が下がった。

     沈実の口元も緩む。

    「#声異とかやっちゃう?」

     沈実がスマホを出す。
     子遠も口元を緩めた。
     結依歌は二人のあいだに入る。

     画面の中に、三人の笑顔が収まった。


    第参聲 私生活ハ影ノ暗喩

     三人で写真を撮り終えると、沈実は結依歌と子遠へ画像を送った。

     子遠が先に歩き出す。
     結依歌と沈実も続き、帰路へ向かった。

     沈実が結依歌の腕を掴む。

    「本当に大丈夫?」

     結依歌は小さく頷いた。

     子遠の口元が緩む。

    「声がたまたまハモっただけだよ」

     沈実は空き地を見た。
     何もない場所で声が重なるのか。
     反響か。

     答えは出ない。

     子遠は足元へ目を落とす。

    「難しい理屈とかじゃない? 私達の知らないことも沢山あるし」

     結依歌は沈実の腕を強く掴み、体を寄せる。
     沈実の指は、結依歌の腕を離さない。

    「沈実、怖がりすぎ」

     寺を横目に、沈実の息が落ちた。
     結依歌は顔を覗き込み、口元を緩める。

     駅に着き、三人は別れる。

    「また明日〜」

     ガチャン。

     玄関のドアを開け、沈実は息を吐いた。

    「ただいま〜」

     声は沈んでいた。

     断一が出迎えた。

    「今日どうしたの? 遅かったね」

     断一が沈実に訊く。

     沈実は足を引きずるように、リビングへ向かった。
     母の起与可乱(おきよ からん)が、夕食の支度をしていた。

     沈実は目を細め、可乱へ腕を広げる。

    「あ〜、なんかめっちゃ疲れた〜」

    「今日はペペロンチーノとカキフライよ〜」
    「元気だしなさいよ! 今日はパパもいないし、三人でご馳走よ!」
    「腕によりをかけて作ったんだから!」

     断一の声が大きく返る。

    「いいね! 可乱ちゃん、カキフライ大好き!」

    「ニンニク、いっぱい入れてあるよ〜!」

     沈実は二人を見て、肩を竦めた。

    「ニンニク、私は少なめで。臭いとか気になるし」
    「あと、ママお酒臭い」

    「断一もママのこと、名前で呼ぶのやめてよ」

     断一と可乱は動きを止めた。
     自室へ向かう沈実を目で追う。

     ドアノブに手をかけた。

    「リップ貸してくんない?」

     背後から、断一の声が飛んだ。

     沈実の息が落ちた。

    「おーい、今日はこの辺で大丈夫だ」

     店内では、模様替えが続いていた。
     子遠はテープを手に、父の独正孫離(ひとまさ ひこばな)の隣に立つ。

    「もう少しだよ? 最後までやるよ」
    「テープここに置いておくね」

    「ああ、そうだな」
    「今日中に終わらせるか!」

     二人の手がまた動く。

    「ここのテープが最高なんだよ。剥がれづらいのに安いんだ」

     孫離はテープを指で弾いた。

     子遠もテープを手に取る。

    「子遠は手袋した方がいい。手についたら大変だ。あと髪も結んで……」

    「もう、心配し過ぎだよ。私そんな子供じゃないんだから」

     孫離は子遠を見た。

    「そうか……」
    「また一段と可愛くなったか?」

     子遠の頬が撫子色になる。

     孫離は時計を見る。

    「もうこんな時間か。ママは寝てるな」

     時刻は二十三時。

     子遠の瞼が下がる。
     結依歌に重なった声が、遅れて浮いた。

     子遠は孫離に肩を寄せる。

    「パパ、今日一緒に寝てもいい?」

     孫離の手が止まった。
     声だけが軽くなる。

    「お風呂も一緒に入るか?」

     子遠の喉が小さく鳴った。

    「何言ってるの〜。今日、私がお風呂最後でいいからね。早く入ってよね」

     子遠は用具を片付け、店のテーブルを拭く。

     孫離はカレンダーを見た。

     プツン。

     電話を切り、沈実は息を吐いた。

    「やっぱり、断一じゃないと落ち着かないかな」

     天井を見た。
     瞼の裏に、断一の顔があった。

     夕食の席で、断一にも可乱にも返事をしなかった。
     今も胸の奥が硬い。

     スマホを開く。
     通話アプリのアイコンを見つめ、親指で押した。

     断一に電話をかける。

    「お、もしもし。機嫌直った?」
    「急に電話してくるの珍しいね」

     断一の声は明るかった。
     沈実の肩から力が抜ける。

     今日の不機嫌は、不安から来るものだったと伝えて、沈実は謝った。

     断一の声は軽かった。

    「てか、不安ってなに?」

     重なった声が、結依歌の顔とともに蘇る。

     沈実は話し出した。

     流行りの「声異」を歌ったこと。
     その声に混じった、「なにか」。
     引き止められて残した写真。

     断一は短く相槌を打つだけだった。

    「それで、結依歌が心配で……」
    「いや、怖かったの」

     断一の声が下がる。

    「そうか、それは怖かったね」
    「大丈夫、俺がついてるよ」

     沈実の目から涙が落ちた。

     断一が続ける。

    「その結依歌って子、そんなにやばいなら、さっき言ってた写真、なんか写ってるんじゃね?」

     沈実は写真を開こうとした。
     断一がビデオ通話をオンにする。

    「怖いかなって思って。俺の顔見えてたら安心するっしょ」

     沈実の口元が緩んだ。

    「断一ってこんなに優しかったっけ」
    「ごめん、断一、私……」

     沈実の目に、また涙が溜まる。

     言葉が止まった沈実に、断一が言う。

    「その写真、怖かったら俺に送るだけでいいよ」
    「俺がじっくりチェックしてみるから」

     沈実は断一に写真を送信する。

    「なんか写ってた?」

    「いや……写ってるんじゃないよ、これ」

     断一は息を飲んだ。

    「この真ん中の子が結依歌って子だよね」
    「この子、“影”だけ写ってないよ」

     沈実は自分のスマホで写真を開いた。

     そこには、結依歌の影だけがなかった。
     子遠と、沈実の影はある。

     沈実は、断一のビデオ通話画面に目を戻す。

     断一を背後から飲み込む「影」があった。


    第肆聲 夜更ケノ残余

     孫離の隣で、子遠は眠れずにいた。
     布団の中で、指先だけが動く。

     目を閉じるたび、空き地の声が戻った。
     結依歌の声に、別の声が重なる。

    「胡散臭い怪談でしょ」

     自分の声が、頭の奥で止まった。

    「どうした? 眠れないのか?」

     孫離が、子遠の肩を軽く叩く。

    「うん、ちょっと考えすぎちゃって疲れたかな」
    「あと、お腹痛い」

    「そうか。子遠はママに似てるからな」
    「毛布、取ってくるよ」

     子遠は、孫離の手を強く掴んだ。

    「待って、行かないで、パパ」

     孫離は浮かせた腰を戻した。

    「どうした?」

     子遠は布団を握ったまま、声異の名前を出した。
     結依歌の声に重なった声のことも。

     孫離は口を挟まない。
     子遠の手を握り返した。

    「怖いな。でも、子遠はパパが守る」

     子遠の指から力が抜けた。

    「結依歌ちゃんも心配だな」
    「でも今夜は、ゆっくり寝――」

    「コ……ト……」

     孫離の言葉に、声が割り込んだ。

     子遠が孫離を振り返る。

     ピコン。

     孫離の手が止まった。
     子遠の肩も揺れる。

    「私のスマホだ」

     子遠はスマホを指した。
     孫離は手に取り、パスワードを打つ。

     ――沈実。

     孫離は声に出して読む。

    「まじやばい、結依歌の影写ってないし」
    「断一とビデオ通話してたら、変な影見えたし、声異やばいよ」

     子遠は孫離の手からスマホを取ると、写真フォルダを開いた。

     空き地で撮った写真だった。

     画面を上に向けたまま、スマホを枕元に置く。
     子遠は頭を抱え、もう片方の手で腹をさすった。

     天井を照らすスマホの明かりを、孫離は覗き込む。

     結依歌の影はない。

     孫離の目に入ったのは、笑っている三人の顔だった。

     子遠は、気のせいにするつもりだった。
     あの「声」も。
     あるはずのものがない、この写真も。

     蟀谷と下腹部に痛みが押し寄せる。
     寒かった。

     孫離は子遠に寄り添った。

    「子遠。嫌なことがあったら、なんでもパパに吐き出していいんだぞ」

     子遠は孫離の顔を見る。
     胸へ寄った。

    「ありがとう、パパ」

     孫離は子遠を強く抱き締めた。

     腕の中で、子遠は眠った。
     孫離も目を閉じた。

     二〇二六年六月九日 火曜日

     結依歌は朝食に手をつけた。
     食器を片付け、仏壇の前で手を合わせる。
     制服の袖を整え、鞄を持つ。

     朝の手順を終える。

     母は玄関に立っていた。
     目線は、結依歌を越えていた。

     駅の改札の先に、沈実と子遠がいた。

     結依歌の目尻が下がる。
     改札を抜け、沈実の前で足を止めた。

     沈実が口を開く。

    「朝も連絡したけど、結依歌は大丈夫?」
    「見てないみたいだけど……」

     沈実と子遠の間で、昨夜の話は済んでいた。

     結依歌はスマホを取り出す。
     ロック画面だけを見る。
     開かない。
     歩き出した。

     沈実は、結依歌の腕を掴んだ。

    「ねえ、結依歌!」
    「自分の影が写ってないんだよ? 絶対やばいよ」

     結依歌は沈実を振り返り、目を合わせた。

    「うん。“私”の影が写ってなかった」
    「それだけ」

     沈実の腕から、力が抜けた。

     子遠は結依歌の前に出る。

    「沈実も私も、昨日の夜、怖い経験したから」
    「結依歌も心配なんだよ」

     結依歌は沈実の指を一本ずつ外した。
     目を細め、首を傾げる。

     子遠の右側へ回った。

    「子遠は、“そういうの”信じるんだっけ?」

     子遠は俯いた。

     結依歌はさらに、子遠の背後から左側へ回る。

    「ふーん。いつも可愛いけど、それはそれで……」
    「また一段と可愛いかも」

     肩が強張った。

     結依歌の目が、駅の階段で止まる。

     子遠も駅の階段を見た。

    「断一君?」

     閉疎断一(しまば さだいち)が、駅の階段を駆け下りてきた。

    「どうしたの?」
    「断一、学校こっちじゃないでしょ?」

     沈実が訊く。

     断一の息は切れていた。
     スマホを握る手に力が入っている。

    「留無(とむ)が火遊びして、大火傷で、重傷らしいんだよ」
    「あ、あれだよ。同じ学校の友達」

    「留無君……?」

     沈実は一言零して、俯いた。

    「え、沈実、留無のこと知ってるの?」

     断一はスマホで地図を開き直す。

     結依歌は、断一を舐めるように見た。

    「バイク、乗ってくれば良かったのに」

     断一の眉間に皺が寄った。

    「は? さっき連絡あったんだよ」
    「てか、お前が結依歌か……」

     結依歌と断一は、一瞬だけ睨み合った。

     断一は病院へ向かって走り出す。

     すれ違いざま、肩が結依歌にぶつけられた。

     衝撃で、結依歌の手からスマホが落ちる。

     光ったロック画面には、三人の写真が映っていた。
     背景は、空き地だった。

     沈実と子遠は、息を止めた。


    第伍聲 帰ラナカッタ

     沈実の唇が震えた。

    「結依歌、まじ?」

     結依歌はスマホを拾う。
     顔は変わらない。

    「三人写ってる、から、良い写真」

     沈実と子遠は、その場から動かなかった。

    「遅刻しちゃうよ?」

     結依歌が先に歩き、沈実と子遠は重い足で学校に向かう。

     前を歩く結依歌の背中に、影が濃く落ちていた。

     チャイムが鳴る。

     三人は机を寄せ、弁当を開いた。

     沈実も子遠も、箸を持たない。
     結依歌の目尻だけが下がっていた。

     後ろの席で、クラスメイトが押し合っていた。
     一人の肩がカーテンに触れる。

     布が揺れ、日差しが遮られた。

     沈実と子遠は、クラスメイトを見ていた。

     結依歌は立ち上がった。
     椅子の脚が床を擦る。

     カーテンを端まで引く。

     日差しが戻る。
     太陽を背に、結依歌は席へ戻った。

     ピコン。

     沈実のスマホが鳴る。

     画面を開いた途端、沈実は口を押さえた。
     涙が落ちる。

     子遠が顔を向けた。

     沈実はスマホを机に置いた。

     断一からの連絡だった。

    留無、助からなかった。
    今日は学校行ける気がしない。
    放課後会える? かなりキツイわ

     結依歌は沈実のスマホを見る。
     瞼が下がった。

    「なんで泣くの?」

     子遠は何も言わず、沈実の手を握る。
     視線は定まっていなかった。

     沈実は涙を拭い、首を擦った。

    「だって、断一の親友なんだよ」
    「自分の彼氏が辛い思いしてるんだから、私も悲しい」
    「小さい時から親友で、断一にとっては一番の親友なんだよ」

     子遠はハンカチを沈実に渡す。

    「今日は早退して、断一君のところに行ったら?」

     結依歌が言う。

    「勝手に帰ってもいいの?」

     子遠は結依歌の顔を見た。

    「大丈夫。先生には、なんとか言っとけばいいじゃん」

     沈実は息を吐き、ハンカチを子遠に返した。

    「ありがとう、行ってくる」

     沈実はバッグを取り、教室を走って出た。

     結依歌は、沈実の席を眺めていた。
     子遠は結依歌を見ていた。

     学校を出た沈実は、断一に電話をかけた。

     断一は、駅の近くの公園にいた。

     沈実が公園に着くと、断一はベンチに座っていた。
     背中は丸まり、肘が膝に乗っている。

    「ねぇ、大丈夫?」

     沈実が訊く。

     断一は顔を上げない。

    「留無はさ……」

     利是留無(りよし とむ)は、断一の幼少期からの親友だった。
     荒れた生活を続け、停学中。
     学校では距離を置かれていた。

     断一の前では、声が荒れなかった。

     沈実は相槌を打ちながら、断一の話を聞く。

    「そうだね、優しい面もある……んだね」

     断一は俯いたまま続ける。

    「朝まで遊んでるなんて、いつものことだよ」
    「でも“火遊び”ってなんだよ」

     明け方まで遊んでいた。
     日が昇る頃、帰るところだった。

     留無は自分の影を見た。
     指をさす。

    「俺、これになる」
    「火遊びし……た……から」

     言葉は、そこで切れた。

     留無は一人で歩き出す。

     向かった先は、住宅街の二本の道に挟まれた空き地だった。

     沈実の喉が止まった。

     現場では異臭がすると、近隣住人から通報があり、救急車で運ばれた。
     その頃には、助かる状態ではなかった。

     留無の友人から、断一は病院で聞かされた。

     断一は平坦な声で続ける。

    「全身が真っ黒になってたんだってよ」
    「でも俺が行くまでは、その状態で生きてたらしい」

     沈実は断一を見た。
     視線が地面へ落ちた。

    「ごめん……絶対“声異”の話したからだよね」

     断一は顔を上げて、沈実を見る。

    「それ、関係あるのかな」
    「ないだろう」

     沈実は、昨夜ビデオ通話で見た「影」を断一に話した。

     断一は膝に肘を置いたまま、目を上げない。

    「断一まで、怖いことになったら嫌だよ」

     沈実は膝を手で擦る。

     断一は長く息を吐いて、立ち上がった。

    「学校抜けてきてくれたのに悪いけど、そんなこと言うと思わなかった」
    「なんか疲れたわ」

     沈実は、断一といれば落ち着くと思っていた。

     親友が死んだ。
     理由は分からない。

     そこへ、声異と影の話を重ねた。

     断一の目から、沈実が外れる。

     背中が向いた。
     足音が公園の外へ離れていく。

     沈実はスマホを開き、子遠に連絡した。

    「今日放課後、子遠、私、結依歌の三人であのお寺に行こう」

     子遠から返信が来る。

    「わかった」

     沈実が時間を見ると、三時を過ぎていた。

     子遠は下校の支度をして、結依歌に寺へ行こうと言う。

    「いいよ、今日も三人だね」

     結依歌の答えを聞いてすぐ、子遠は沈実に連絡をした。

    「結依歌もすんなり来るって言ってたよ」

    「よかった。結依歌もなんかおかしいから、絶対お祓いした方がいいよね」

     沈実は返信を済ませ、歩き出す。

     寺の門が見えた。

     門の前で、沈実は行き来していた。
     スマホを握った手が、開いて、閉じる。

     子遠が近寄る。

     沈実は子遠と結依歌の手を取り、寺の門をくぐった。

     境内に、箒を持った住職がいた。

     沈実は住職へ駆け寄る。

    「あ、あの」

     「声異」という流行り歌。
     歌っている途中で、結依歌の声にもうひとつの声が重なった。
     子遠が聞いた声。
     断一とのビデオ通話に映った影。
     その友人の死。

     沈実は息を継ぎながら話した。

     住職は口を挟まない。

    「そうでしたか、今朝の方はご友人でしたか」
    「お辛かったろうに」

     住職の手が、沈実へ伸びる。

     結依歌が割って入った。
     沈実の両手を、自分の両手で覆う。

    「幽霊ですか?」

     沈実は住職に訊く。

     住職は息を吸った。

    「こえい……」
    「その“こえい”を、どちらでお知りになったのですか」


    第陸聲 落暉ト迎エ

     住職の質問が終わると、子遠はスマホを取り出した。
     動画を開き、画面を住職へ向ける。

     住職は眉を顰め、目を細める。

    「なんと……“声異”。私はこの“こえい”は知りません」

     住職の視線が空へ上がった。

    「確かに“音”は似ていますが……」

     子遠の肩が強ばる。

     沈実の指先に力が入った。
     結依歌は沈実の手を強く覆い、目を細めた。

    「詳しくは存じ上げませんが、“こえい”……」

     住職の言葉が止まる。

    「私が聞いたのは……肥えた忌事と書いて、“肥忌”です」

     沈実の肩は震えたままだった。

    「お祓い、してください」

     沈実の声が掠れる。

     住職の視線が畳へ落ちた。

    「お祓い……まずはお経を上げましょうか」

     沈実は頷いた。

     結依歌の目尻が下がる。
     沈実と子遠の手を取り、強く握った。

     住職は背を向け、本堂へ三人を案内した。

     廊下は外よりも暗く、線香の匂いが薄く残っていた。

     本堂には、三枚の座布団が置かれていた。

     三枚の座布団を見て、結依歌の口角が下がった。
     端の二枚を引き寄せ、中央の座布団へ寄せる。
     自分だけが、真ん中に座った。

     住職は並んだ座布団に目を留めた。
     何も言わず、蝋燭に火を灯す。

     子遠は両肩を摩る。

    「寒い」

     沈実の手は膝の上で固まっていた。
     子遠の肩も上がったままだった。

     住職は、ほかの蝋燭にも火を灯した。

     線香の香りが漂い、本堂の暗さが薄れる。

     沈実は蝋燭を見ていた。
     呼吸の間隔が戻っていく。

     子遠の肩が下りた。

     二人は座布団へ膝を折る。

     三人が座ると、住職は経を上げ始めた。

     沈実と子遠と結依歌は並んで手を合わせる。
     住職の声が、本堂の奥へ低く響いていく。

     目を閉じていても、蝋燭の明かりはわかった。
     赤い光が、瞼の裏に残っている。

     線香の匂いと、蝋燭の熱が、本堂の中に満ちていた。

    「……ウ……イ……ヤ」

     子遠は眉を寄せた。
     住職の声に、別の声が混じる。

     目を開ける。
     声の方へ視線を移した。

    「ぶつ れん ご じょう……だん かい はいしゃ」

     結依歌が、同じ文言を繰り返していた。
     住職は気付いていない。

     子遠の手が、結依歌の肩へ伸びる。

     叫び声が上がった。

     沈実は両手で目を押さえたまま、畳に崩れていた。

    「何なの……」

     声は震えていた。
     子遠が寄り、沈実の背中に手を添える。

    「沈実、大丈夫?」

     住職も振り返り、駆け寄った。

     沈実は膝で畳を擦り、後ろへ下がった。
     結依歌は、住職の動きを目だけで追っている。

     沈実は涙を浮かべ、住職を指さした。
     言葉が詰まる。

     手を合わせてお経を聞いているうちに、瞼の裏側が暗くなった。
     目を開けた時、蝋燭の火で映された住職の影が、黒煙の形で立ち上がっていた。

     子遠は沈実の背中を摩った。

     住職は、差し伸べかけた手を抑え、沈実に言う。

    「お疲れなのでしょう」
    「立て続いた出来事で、気持ちが揺れているのです」
    「お気をしっかり」

     沈実は、幽霊なのではないかと住職に訊く。

     住職は、霊的な存在は感じないと言った。

     フッ。

     住職が振り返ると、結依歌は灯された火の前に立っていた。

     息を吹きかけ、火を消していく。

     住職が口を開くより先に、結依歌が言う。

    「影が怖いなら、火……消せばいいかなって」

     子遠の肩が止まった。

     消えた火の分だけ、寒さが戻る。
     子遠は、結依歌から目を離せなかった。

     住職は結依歌に背を向け、沈実と子遠に言う。

    「私の知人には、呪術師、民俗学者、この手に詳しい方がいます」
    「調べてみます」

     住職は畳の一点を見つめてから言う。

    「ただ……違和感があります」
    「“邪気”を感じないのです」

     疑問を残しながらも、住職は彼女たちの恐怖に向き合い、調べると約束した。

     廊下を戻る間も、結依歌は沈実と子遠の手を離さなかった。

     門を抜けるまで、三人は何も話さなかった。

     最初に言葉を発したのは、沈実だった。

    「お坊さん、助けてくれるっていうけど、怖い」

    「留無くんも死んじゃって、断一とも仲悪くなっちゃった……」

     沈実は、あの空き地を遠い目で見ていた。
     そこに何かが残っているように、目を逸らせずにいる。

     子遠と結依歌は、何も言わなかった。
     声のない時間が続いた。

     着信音が鳴った。

     沈実の手がスマホへ伸びる。

     断一。

     画面には、断一のアイコンが映し出されていた。
     肩を寄せて写る、二人の写真だった。

     沈実は画面を見たまま動かない。

    「出なよ」

     子遠が、沈実の顔を覗く。

     沈実は俯いたままだった。

     子遠が着信を受け、スピーカーをオンにした。

     スピーカーの奥で、低いエンジン音が唸っている。

    「さっきはごめん、まだ帰ってないでしょ?」
    「今から迎えに行くよ」

     断一の声は一定だった。

     沈実の唇が開いたまま止まる。

     子遠が沈実の肩に手を当てた。

    「うん、私もごめん」

     エンジン音の奥で、

     ガシャン。

     ドアが開く音が聞こえた。

    「断ちゃん、忘れ物〜」

     沈実の目が開いた。

    「誰? 今の声、何?」

     子遠の耳が、沈実のスマホへ寄る。

     結依歌は、両腕を胸の前で組んだ。

     スピーカーから、エンジン音が途切れた。

    「なんでもないよ、いつもの駅に迎えに行けばいいかな?」

     沈実の顎が下がる。

    「うん」

     子遠と沈実の視線が合った。

     沈実は駅へ足を向ける。

     結依歌は沈実の腕を掴んだ。

    「断一君は、駅で待ってるでしょ?」
    「焦らなくてもいいじゃん」

     沈実は結依歌の腕を解いた。

    「ちょっと、確かめたいことあるから」

     子遠と沈実は目を合わせ、頷く。

     沈実は結依歌から離れ、駅へ向かって走り出した。

     結依歌の手が空く。
     子遠は、その手首を取った。

    「今日は二人で帰ろうよ」

    「うん」

     聞き慣れた平らな声だった。
     子遠の肩から力が抜けた。

     結依歌は子遠の腕に自分の腕を通し、強く組む。
     子遠の右肩に頭を預けた。

    「沈実が離れていく気がして、嫌だった」

     子遠は首を傾げる。
     目尻が下がった。

    「知ってたよ」
    「だから結依歌が変なことしても、怒らなかったでしょ?」
    「ちょっと怖かったけどね」

     子遠は足を止める。
     結依歌の頭に手を置き、一度弾ませた。

     結依歌の動きが止まった。
     頬が赤くなる。
     視線が逸れる。

     二人は腕を組み直し、夕焼けに向かって並んで歩き出す。

     足元には、子遠の影だけが伸びていた。

    「本当、なんで、一緒に居……」

     沈実は体を深く折った。
     喉の奥から呼吸が漏れていた。

     駅の前で、沈実は顔を上げた。

     遠くで、スポーツバイクのエンジン音が鳴る。
     音は信号の方から近づいてきた。

     沈実は急いで髪を整え、スマホのインカメで身だしなみを確認した。

     目を凝らすと、信号の向こうで断一のバイクが赤信号に停まっていた。

     断一は空を見上げてから、フルフェイスヘルメットを外し、投げ捨てた。
     制服の胸ポケットから取り出した煙草に火をつける。

     沈実は、断一の妙な動きから目を離せなかった。

     青信号になると同時に、断一はアクセルを強く回した。

     一速、二速。

     轟音が近づく。

    「断一、何してるの」

     沈実の疑問は声になりきらないまま、近づくエンジン音に掻き消された。

     断一はさらに速度を上げる。
     数秒で、互いの顔がはっきり見える距離まで近づいた。

     次の瞬間、断一は自分からバイクを飛び降りた。

     加速した勢いのまま、頭から沈実の足元へ飛び込む。

     緋色の飛沫が、沈実の顔に散った。


    第漆聲 遡源スルナ

     二〇二六年六月十日 水曜日

     子遠は病院の受付にいた。

    「起与さん……面会ですね」

     受付の看護婦は画面を確認し、眉尻を下げて顔を上げた。

    「一人ずつの面会になりますので……一時間程お待ちください」

     子遠は頷き、待合席へ向かう。

     外から、スポーツバイクのエンジン音が聞こえた。

     病院の入口は逆光で白く潰れていた。
     光の中に、バイクの輪郭がある。

     自動ドアが開き、老夫婦が入ってくる。

     子遠は目を凝らした。
     入口には、老夫婦しかいない。

     首が傾く。

    「迎えに行くから」

     声が、頭の中に滑り込んできた。

     子遠は振り返った。
     廊下の先に、断一の背中があった。

     周りを見渡す。
     誰も廊下を見ていない。

     断一は進んでいく。
     子遠は口元を押さえたまま、その背中を追った。

     廊下の角を曲がる。

     子遠も曲がった。
     断一は二階にいた。

     階段を駆け上がる。

     断一は三階へ続く階段に足をかけていた。
     子遠の息が乱れる。
     足は止まらない。

     三階の廊下を曲がった断一は、ある病室の前で足を止める。

     子遠は壁に手をついた。

    「断一君……なんで……」

     断一が遮る。

    「入れない」

     断一は病室のドアを見つめていた。

     子遠も、その視線の先を見る。

    「あんたのせいよ、あんたのせいで、断一は死んだんだよ!」

     怒号が、鉄の扉を突き抜けてきた。

     子遠の足が下がった。

    「断一君?」

     断一の姿はなかった。

    「奥さん、やめてください」

     痩せた若い刑事が、鈍い音を立てながらスライドドアを開いた。
     その後ろから、小太りで貫禄のある刑事が、怒号を放つ女性を取り押さえながら後退してくる。

     子遠は壁際まで下がった。

    「お前のことを迎えに行ったからだよ! 返せ! 返せ!」

     髪を振り乱し、目の焦点が合っていない。
     起与可乱だった。

     看護婦たちが、廊下を走ってくる。

    「沈実さん、大丈夫ですか?」

     一人の看護婦の声が裏返った。

     子遠は待合席に戻り、椅子に腰を下ろした。

     俯いたまま、椅子の脚を見つめていた。

     長針が一周した頃。

    「起与沈実さんの面会ですね」

     看護婦から声がかかる。

     子遠は立ち上がると、騒ぎについて尋ねた。

     看護婦は、起与可乱が取り乱したのだと説明した。
     沈実の状態は安定している。

     許された面会時間は、十五分だった。

     子遠は看護婦に案内され、病室の前で足を止める。

     ドアの近くで、看護婦が声を落とした。

    「沈実さんは強いショックを受けているので、会話が出来るかわかりません」

     子遠は頷き、ドアを開けた。

     目線を上げた先に、結依歌がいた。

    「え……なんでここにいるの?」

     結依歌はカーテンを開いていた。
     日差しが、沈実のベッドに落ちる。

     沈実は上半身を起こしていた。
     目は、壁の一点に向いている。

     結依歌は窓の外へ顔を向けていた。

     子遠は二人のもとへ向かった。

    「これ、結依歌が?」

     オーバーテーブルの上に、紫色のオブジェが置いてある。

    「そう。スミレ。沈実が好きだから持ってきた」

     結依歌は振り向いた。

     子遠は沈実のベッドに寄り、その手を握る。

    「結依歌も、私も、ずっとそばにいるから……」

     結依歌は、握られた手を見つめていた。

    「二人とも居なくなっちゃった」

     沈実が口を開いた。

     子遠は、その手を強く握る。

    「沈実のせいじゃない。誰も悪くないからね」

     沈実の目は、壁から動かなかった。

    「男なんて好きになるからじゃない?」

     結依歌は唇を結んだ。

     子遠の顔が上がった。

    「なんで、そんなことが言えるの?」
    「断一君、どんな姿だったか知ってるでしょ?」

     結依歌は病室のドアを睨みつけた。

    「子遠こそ、まだそいつの話するの?」

     子遠の指が開く。
     握っていた沈実の手が離れた。

     沈実は壁を見つめたまま、表情を動かさなかった。

     結依歌は背中を丸め、沈実の頬を両手で擦りながら囁いた。

    「沈実は、もう私達しか見ない、フフ」

     顔が、沈実へ近づいていく。

    「結依歌……」

     沈実は結依歌を見つめた。

    「あいつは迎えに来ないよ」

     沈実は瞼を緩める。

     指がシーツを掴んだ。

     子遠は立ち上がった。

    「結依歌、おかしいよ、信じられない」

    「私、おかしいの?」

     結依歌は沈実の顔から手を離し、子遠と目を合わせる。

     背後から、日が差し込んでいた。

     日差しの中で、結依歌の輪郭が黒く潰れた。
     漆黒の人型が、そこに立っていた。

    「本当におかしいのは、コト ノ……」

     病室のドアが開いた。

    「本日の面会時間は終了です」
    「この方は? 面会は一人ずつのはずですよ」

     看護婦が病室へ入った。

     子遠は結依歌達に背を向け、病室をあとにした。

     結依歌は、子遠の背中を見ていた。

     病院の自動ドアを待たずに、子遠はその隙間をすり抜けるように外へ出た。

    「結依歌……なんなの」

     病院の外には、夕方の光が残っていた。

     傾いた日が、背中に当たる。

     子遠は俯いて歩いた。

     声異をしてからの数日が、順に並ぶ。
     結依歌の声に重なった、別の声。
     写真から消えた影。
     留無(とむ)の死。
     断一の死。
     沈実の放心。
     結依歌の言葉だけに反応した沈実。

     繋がりは見える。
     原因だけが抜けていた。

     足は、声異をした空き地の近くで止まった。

     あの日の夕陽と、三人で撮った写真が戻る。

     スマホを開く。
     親指が画面を滑る。

     沈実と結依歌と子遠で行った店の写真。
     三人の顔が並ぶ写真。
     笑っている日の写真。

     親指が止まった。

     空き地で撮った写真だった。

     結依歌の影が写っていない写真。

     子遠は、結依歌の影があるはずの場所を睨んだ。

     時刻は十九時を過ぎていた。

     空き地を見たあと、寺の横を通り過ぎる。
     門は閉まっていた。

     子遠は、声異の正体を考える。

    「肥えた忌事」

     足元に光が差した。

     振り返る。
     後ろから、父の孫離が歩いてきていた。

    「子遠、今日は遅かったな」
    「沈実ちゃんは大丈夫だったか?」

     子遠は、孫離の手元を見る。

     スマホのライトで、足元を照らして歩いていた。

    「なんでライト?」

    「夜道は足元が悪いからな」

     子遠は周囲を見渡し、父を見る。

    「パパ、何してたの?」

     孫離は片手にビニール袋を下げていた。

    「店を早く閉めて、ちょっと買い物にな」
    「大丈夫か? 子遠」

     子遠はビニール袋を見て、背を丸めた。

    「どうした?」

     孫離の眉が寄る。

     子遠の言葉が止まった。

    「変なことだし、パパも疲れてるでしょ」
    「私の妄想みたいな話だし」

     孫離は子遠へ体を向けた。

    「疲れてようが、なんだろうが、娘の浮かない顔を見て心配しない親がどこにいる」

     孫離の目は逸れなかった。

     子遠は息を吸った。

     配信者が投稿した流行り歌“声異”を、沈実、結依歌と三人で歌った夜。
     孫離の背後から、自分を呼ぶ声が聞こえた。

     翌日、沈実の彼氏である断一の親友、留無が焼死した。
     沈実と子遠は、結依歌を連れて寺へ行った。

     住職は、“声異”ではなく、肥えた忌み事である“肥忌”かもしれないと言った。

     同じ日、十七時頃。
     断一は留無の遺留品の煙草に火をつけ、バイクから飛び降りた。

     彼氏の死を目撃した沈実は、放心状態で、会話が難しいはずだった。

     病院で、子遠は断一らしき姿を見た。
     その姿は、「入れない」と言っていた。

     沈実は、結依歌の言葉にだけ反応した。

     並べた出来事は、まだ線にならない。

     引っかかりは、「忌事」という一言に残った。

    「私達が関係してるのかも」

     孫離は首を横に振った。
     スマホをビニール袋のある手に持ち替え、子遠の手を握る。

    「忌事なんて、昔の価値観だ」
    「子遠も、好きに生きればいいんだ」

     子遠は震えた手で握り返した。

    「うん、そうだね」
    「でも、信じてくれるの? こんなオカルトみたいな話」

     孫離は知っている。
     子遠は普段、“そういう事”を口にしない。

     孫離は相槌を挟まずに聞いていた。

    「忌事、留無君、断一君……沈実も関わってるのかな」

     スマホのライトが点滅する。

     光の先で、自分の影が揺れていた。

     子遠は足元から目を離せない。

    「ライト、消して」

     街灯の多い商店街はすぐ近い。

     孫離はライトを切った。

     二人は夜道を歩きながら、家へ向かった。

    「そうか。沈実ちゃんには時間が必要だな」
    「結依歌ちゃんも様子が……変なのか」

     孫離は眉間に皺を寄せ、視線を落とす。

     自宅の前で、子遠は顔を上げた。

    「明日、またお寺に行こうと思う」
    「結依歌とも、ちゃんと話すつもり。今日、酷い言い方しちゃったし」

     孫離は子遠の肩を叩いた。
     目尻が下がる。

    「そうだな。今日の夜ご飯は新作メニュー食べようか」

     子遠は顔を上げた。

    「いいの?」

    「ああ、喰らい! 動け。だろ?」
    「パパのできることは、子遠の元気をつけることくらいだからな」

     暖簾をくぐり、家に入る。

    「おかえりなさい」

     二人を迎える声がした。

     子遠は自室へ向かった。

     孫離はすべての窓を開けてから、厨房へ入り、ビニール袋を開いた。

     着替え終えた子遠は、土間へ向かう。

    「寒っ、なんで窓全部開けてるの?」
    「それに……変な匂いしない?」

     孫離の肩が揺れた。

    「ああ、まあな……」
    「これが新作の“味”なんだよ」

     子遠は噎せ返す。

    「ごめん、できたら呼んで」

     自室に走り、ポーチを持ってトイレに向かう。

     孫離は厨房に戻ると、丸めておいた種に衣をまとわせ、油の中へ落とした。
     細かな泡が立ち、表面が色づいていく。
     菜箸で引き上げ、皿へ移して盛り付けた。

    「おーい! できたぞ」

     子遠は壁に手をつき、腹を擦りながら降りてきた。

     開いた窓から空気が入っていた。
     子遠の眉間の皺がほどける。

     孫離が待っている席に座る。

    「あれ、ママは?」

     子遠は店を見渡した。

    「昼に用事があるって、出たきりだな。後で連絡してみるよ」

     孫離は皿を子遠の前へ置いた。

    「さあ、冷める前に、パパの新作『柔らかいコロッケ』だ。召し上がれ」

     子遠はもう一度、店を見渡した。

     手を合わせ、箸を取る。


    第捌聲 跋扈ヨリ避禍

     子遠は箸を取ってから、動きを止めた。

    「これ、本当にコロッケ?」

     子遠は箸を置く。

    「体調悪いと、匂いも強く感じるんだろ」

     子遠は目を細め、コロッケへ視線を戻す。

    「独正さん、やってるー?」
    「あれ、子遠ちゃん居るやん」

     声の先には、スーツを着た三人の男達がいた。

     子遠は半身を男達へ向け、首を傾げる。

    「定休日だっけ?」

    「今日は夕方に閉めたんだ。急ですまんな」

     孫離は目尻を下げた。

    「そうだ、紹介するよ。子遠」
    「あちらの三人は、毎週来てくれる常連さんの……」

     孫離は入口に立つ三人へ、順に手を向けた。

    「写防(うつぼ)さん、蔽隠(おおかく)さん、秋御(あきみ)さん」

     写防と呼ばれた男は、細身で色白だった。スーツの胸元には、黄色い水仙をかたどったネクタイピンが留められている。

     蔽隠は眼鏡をかけた男だった。手首には、ヤモリが描かれたハイブランドの腕時計を巻いている。

     秋御は三人の中では少し背が低い。片手には、フクロウをモチーフにしたスマホケースを持っていた。

     子遠は頭を下げ、挨拶をする。

    「なんだよー、美味そうな匂いしたのにな」

     蔽隠は片手で顔を覆い、腕時計が揺れる。
     その視線が、一瞬だけ孫離の手元に落ちた。

     孫離は、子遠が新作の試食をするのだと話した。

     三人の肩が下がった。
     蔽隠が息を漏らす。
     写防と秋御も、それに続いた。

    「コロッケもいいけど、お采(さい)の新作も頼むよ、独正さん」

     秋御は去り際に、スマホを握ったまま、軽く手を振った。

    「子遠、聞いたか?」
    「いい匂いだってさ」

     子遠の肩から力が抜けた。

    「美味しそうな匂いって言ってたね」

     子遠は孫離を見上げるように視線を移した。
     強張っていた口元が少し緩んだ。

    「皆がまだ食べれない、新作コロッケ一番乗りっと!」
    「私、コロッケにはうるさいからね」

     孫離は笑みを返す。

     子遠は、手を合わせる。
     箸を持ち、勢いよくコロッケへ向けた。

     衣が皿に散るのも構わず、大きな口で頬張る。

     ビリッ。

     衣が軽快に爆ぜる。

     衣は軽く、噛んだ瞬間に中身がとろりと舌へ広がった。

     熱い。
     嫌な熱さではなかった。

     子遠は一瞬、目を丸くする。

     その直後だった。
     舌の奥に、苦みが残った。

     唇の裏側が細かく痒くなり、喉がゆっくり狭くなっていく。

     子遠の顔が、皿へ落ちる。

     その刹那。

    「だめだめ、吐き出すなよ」

     背後から、低く耳に残る声が落ちた。

     孫離は子遠の口を補強テープで塞いだ。

     座ったままの子遠は、引かれるテープに首を取られた。
     視界が霞み、天井が白く滲み始めた。

     逆光が作り出したそれは、漆黒だった。

     ポツ……ポツ……

     手足は抗う。
     温度だけが抜けていく。

     息を吸おうとした。
     空気は鼻の奥で潰れた。

     動かなくなった子遠の椅子の下に、微量の血が滴っている。

     孫離は人差し指を床に擦り付け、舐めた。

    「ママと同じ味だ」

     孫離の自室、机には一枚の紙が残されていた。

     私は要らないと思いました。
     後は二人で楽しく暮らしてください。

     三行半。

     床には、半分だけ書かれた離婚届が、八つ裂きにされて散っていた。

     ガシャン。

     二〇二六年六月十一日 木曜日

     結依歌は玄関の開く音で目を覚ました。

     カーテンの隙間から差し込む日差しが、頬を照らす。
     ベッドから身を起こし、床に足をつける。

     リビングに向かうと、結依歌の母、顕妄真素(けんみだ ましろ)が歩き回っている。

    「お母さん、何してるの?」

     結依歌は目を擦る。

    「おはよう、こ、これはその……」

     両の手を腰に回し、真素は体勢を崩す。

     結依歌は右足を踏み出し、体を支えた。

    「お母さん……なにこれ」
    「なんで、お酒なんて買ってくるの?」

     真素は一升瓶を抱えながら、言い返す。

    「街がおかしいからに決まってるでしょ」
    「この数日で、何人死んでるのよ」

     結依歌の目は、真素に向いた。
     焦点が合わない。

    「焼死に事故死、昨日だって隣町の定食屋で、結依歌と同じくらいの子が死んでるのよ」
    「三人よ? 三人も死んでるなんて、信じられない」

     結依歌は真素の肩を揺さぶり訊く。

    「なに? どうしたの?」
    「隣町の定食屋って、どこ? 誰が死んだの?」

     真素は一升瓶をテーブルに置き、パソコンを開く。

     ネットニュースの記事を開くと、すぐに見出しが現れる。

     真素は添付されている動画をクリックした。
     アナウンサーの声が、スピーカーから聞こえる。

    【速報】
    「飲食店で女子高校生が死亡 アレルギー反応か」

     飲食店で女子高校生が死亡しているのが見つかりました。

     警察によりますと、女子高校生は店主である父親と店内にいたとみられ、食事をした直後に体調が急変したということです。

     女子高校生には重い食物アレルギーの既往歴があったとの情報もあり、警察は当時の状況を詳しく調べています。

     結依歌は口に手を当てて動画を見ている。
     映された場所は、子遠の両親が経営している定食屋だった。

    「結依歌?」

     真素は息を飲み、結依歌の手を握った。

     陽光が一段と鋭さを増し、影に沈んでいた家具の輪郭を浮き上がらせる。

     結依歌の影が濃く、伸びる。

     部屋にチャイムが鳴った。

     一度目。
     音は長く残った。

     真素は肩を跳ねさせた。

    「なに……」

     結依歌は動かなかった。
     画面に映るニュースの見出しを見つめたまま、口元に手を当てている。

     チャイムが、もう一度鳴った。

     真素は息を詰め、足を引きずりながら玄関へ向かう。
     覗き穴に目を寄せた瞬間、喉の奥から引きつった声が漏れた。

     真素は顔を離した。

     人差し指から薬指までを唇に押し当て、爪を噛んでいる。
     肩が小刻みに震えていた。

    「違う……」
    「来るはずないのに」
    「死んだ子は、朝に来ちゃだめなのよ」
    「呼ばれる……連れていかれる……」

     結依歌の視線が、画面から外れた。

    「お母さん、退いて」

     玄関へ駆け出そうとした結依歌の足を、真素が掴む。

    「だめ」
    「見ちゃだめ」

     結依歌は真素の手を振り払い、覗き穴を覗き込んだ。

     そこには子遠の姿があった。

    「結依歌、迎えに来たよ」


    第玖聲 二而一 冥合之ヲ

     結依歌は胸を撫で下ろした。

    「子遠……朝、早いね」

     目尻を下げ、玄関に手をかける。

     ザッ。

     足元に、白い砂が撒かれた。

    「出ちゃ、ダメ」

     封を切った食塩の袋を、真素が握っていた。

     結依歌は覗き穴へ顔を戻す。

     朝の光だけが見えた。

     真素に迫り、吐き捨てる。

    「何してるの? 子遠、居なくなっちゃったじゃん」

     寸分も動かない眼差しが、真素を刺した。

     真素は壁に背をつけ、首を振った。

    「あれは、結依歌の友達じゃない」
    「なにしたの、どうやってあれを呼んだの?」

     結依歌は顎を少し引きながら、真素と合わせた目を外さない。

    「別に……子遠は、迎えに来てくれただけでしょ」

     真素は両の手で頭を抱え、倒れ込んだ。

     結依歌は目を外し、一瞬、宙を見る。
     左の頬を歪ませる。

     自室へ向かった。

     制服を手にする。

     壁一枚隔てて、悲鳴が聞こえた。
     結依歌は手を止めず、シャツのボタンをひとつずつ閉めていく。

     ベッドに腰を下ろし、左足を上げた。
     靴下の口を広げて、止まる。

     足の指先に、塩が残っていた。
     指で軽く落とし、そのまま靴下に通す。

     ドアを開け、音を立てずに閉める。

     廊下にはまだ、真素が蹲っていた。
     結依歌の体は一直線に玄関へ向かう。

    「行かないでよ! 一人にしないで!」

     真素の言葉は耳に入らない。

     ドアノブに手がかかる。
     薄暗い朝焼けが結依歌を待っていた。

     一歩踏み出すたび、影は濃くなる。

     変わらない日常、いつもの道、街並み。
     朝の光は、少しずつ白さを増していく。

     バス停を通り過ぎ、電車に乗る。
     駅を降りる。

    「少し早いけど、いいっか」

     頬に薄く笑みが乗る。

     足元には、二つの影が伸びていた。

     校門の近くには、カメラを持った男たちがいた。

     結依歌は足を緩めず、その隙間を通って校内に入る。

     二階へ上がり、教室への階段に足をかけた時、校内アナウンスがかかる。

     現在、校内にいる生徒は、各顧問の先生の指示に従ってください。
     三年三組の生徒は、三年三組の教室に集まってください。

     教室の前で足を止めた。

     三組。

     ほどなく、クラスメイトが数人集まってくる。

    「あれ? 結依歌、今日早いね」

    「ちょっと、早起きできたから」

     階段を登る足音がした。
     担任の女性教員が、鼻を啜りながら廊下に現れる。

    「顕妄さん、どうしたのですか?」
    「今朝の連絡は、お家の方から聞いていませんか」

     結依歌は鼻から息を抜き、腕を組んだ。

     担任は返事を待たず、教室のドアを開けた。

     子遠の席には、花瓶に生けられた白いカーネーションがあった。

     何人かが、言葉を失ったまま席に着く。

     差し込まれた日差しは、教室内の埃を映す。

     担任は腕時計に目を落としてから、口を開く。

    「皆さんの中にも、ご存知の方がいるかもしれません」
    「昨夜、独正さんについて悲しい知らせがありました」

     今日は休校になると告げた。
     起与沈実が欠席していること、独正子遠の訃報を受けて学校がそう判断したことを、教員は順に説明した。

     顔を机に沈める生徒、ハンカチで口を押さえる生徒。

     子遠の席を、見続けられなかった。

     結依歌は肘をつき、窓の外を見ていた。

     一人が、手を挙げた。

    「どうしましたか?」

     口元を押さえていたハンカチが、少しずつ下がる。

    「先生……なに、これ」

     震えた指で子遠の椅子を指さした。

     椅子の中心には、錆色の塊があった。

     粘稠な赤褐色の液が、座面に細く走っていた。
     縁に届いた一筋だけが、床へ滴っている。

     髪に指を入れたまま、生徒が硬直する。
     半分見開いた目も、そのまま動かない。

     静寂の三秒。

     結依歌は屈み、鞄に手を入れる。
     担任は左脚を一歩引き、黒板に髪が触れた。

     その瞬間、教室のドアが開いた。

    「下校の時間だ、皆気をつけて」

     教頭だった。

     生徒たちは顔を見合わせる。
     誰もすぐには立ち上がらなかった。

     結依歌は鞄から手を抜いた。

    「荷物を持って、順番に廊下へ出なさい」
    「教頭先生についていくように」

     担任は息を飲みながら言った。

     教頭は廊下側に立ったまま、生徒たちを急かすように先導する。

     一人が席を立つと、続くように何人かが鞄を持った。
     誰も、子遠の席には近づかなかった。

     座面は、ただ冷たく光っていた。

     廊下へ出ると、階段の下からざわめきが聞こえてくる。

    「顕妄さんは、あとでお話があります」
    「あちらの教室で待っていてください」

     結依歌の肩に手を置いた女性教員は、隣の教室へ手を向ける。
     踵を返し、教頭の向かう先とは別の廊下へ歩く。

     結依歌は首を傾げ、肩を見る。

    「先生だからいいでしょ」

     肩を叩き、階段を下った。

     校門へ近づくほど、人の声は大きくなった。
     外では、カメラを持った男たちが、覗くように校内へレンズを向けている。

     職員は男たちの前へ立ち、質問に答えるが、門を通すことはない。

     生徒を先導する教員は、裏門の男たちに話しかける。
     隙を見るように生徒たちは走って裏門を出る。

    「こちら、二ツ虹葡亥茄(ふたつにじ ぶがいけ)女子高等学校前です」
    「連日発生している死亡事故について、亡くなった生徒たちがこちらの学校に通っていたことがわかりました」
    「昨夜亡くなった女子生徒も、この学校の在校生と見られています」

     女性アナウンサーが校内へ顔を向けると、正面の門から結依歌が歩いてくる。

    「在校生と思われる……」

    「どこ向いてるんだよ」

     カメラマンが女性を叱責し、腕を掴む。

     女性アナウンサーは掴まれた腕を見た。
     もう一度、校内へ目を向ける。

     結依歌の目線は正面の一点に定まっていた。
     足取りを変えず、教員と男たちの間を通り抜けていく。

    「何してる、マイク持てって」

     女性アナウンサーの目だけが、そこに残った。

     集団を背中に、結依歌は少し左側に肩を傾け、横を向いた。

    「お昼から沈実に会えるね」

     結依歌は頬が落ちそうな笑みを浮かべる。

     担任が校門に飛び出す。
     肩を上下させ、その後ろから小太りの刑事と細身の刑事が追う。

    「顕妄さんは?」

    「さっきまで、校内にいたのですが」

     人混みの中、担任は目を凝らす。

     校門の外に結依歌の姿があった。
     担任は指差し、刑事に伝える。

    「どこですか?」

     二人の刑事は、担任の指差す場所へ目を向ける。

     担任が声を荒らげ、結依歌を呼んだ。
     刑事も続き、教師とカメラを持つ男たちをかき分ける。

     抜けた先には、道だけがあった。

     自動扉が開く。

    「あ、待ってよ」
    「ドアが開くのくらい待ってよね」

     結依歌は病院の受付に向かった。

    「あ、この前の……」

    「面会は一人ずつです」

     看護婦は目を細め、眉を顰める。

     結依歌の笑みは半月を象った。

    「はい」

     面会の手続きは流れるように済まされる。

     結依歌は病室へ向かう。

     階段を上る結依歌と、降りてきた看護婦がすれ違う。
     互いに会釈だけで挨拶をした。

     カタン……カタン、カタン。

     看護婦は階段を降りる途中で、一度振り返った。

     沈実の病室の前で、結依歌は口を一度結び、前髪が目元を隠す。

    「邪魔」

     スライドドアが、横へ滑るように開く。

    「ありがとう」

     結依歌は微笑み、右脚を踏み出す。

     沈実は上半身を起こし、日に当てられていた。
     虚ろな目は、外へ向いたまま動かない。

     結依歌は窓と沈実の視線の間に立った。
     動かない沈実の目は、制服の胸元で止まっていた。

     結依歌が振り返ると、日差しが顔を照らす。

    「学校休みでラッキー」
    「平日の朝からみんなで遊べるの幸せ」

     両腕を広げ、背筋を伸ばす。

    「怖い、迎えが来る」

     その言葉が、結依歌の耳に障る。

     ベッドに両手を付いた。
     沈実の視界には、結依歌の目元しか映らない。

    「私達が守るから大丈夫」

     沈実は、答えるように目元から涙を零した。

     結依歌は背中を正し、右手の小指を立てる。

    「三人は、ずっと一緒、約束」

     沈実はゆっくり結依歌の小指に自分の小指を絡ませた。

     隙間を埋めるように、赤褐色の液が小指から溢れる。

     強くなった朝の光が、結依歌の輪郭を沈めていく。

     結依歌の眼には、沈実の瞳だけが映る。
     目と鼻の先まで、黒く翳った。

     病室に置かれた紫のオブジェクトを日差しが貫いた。

     風がカーテンを揺らす。

     スマホを机に落とし、真素は立ち上がった。
     窓を閉め、カーテンを引いた。

     玄関にコップを供え、一升瓶を傾ける。
     注がれた日本酒の水面は、縁を越えそうなほど膨隆した。

     左脚を引きずりながら、机の周りを回るように歩く。
     右手の一升瓶を、仏壇の前に置いた。

     真素は髪を掴み、根元から乱す。
     息が浅く、喉の奥で途切れた。

     スマホを手に取り、画面を点けては消した。
     何度も、同じ動きを繰り返す。

     親指の爪を噛み、電話番号を打つ。
     最後の一文字を消す。
     再び、電話番号を打ち直す。

     爪に歯型がつく。

     玄関に向かい、コップを手にする。
     息を飲み、口元に運ぶ。

     顎から首へ零れるのを構わず、飲み干す。
     喉を震わせて息を漏らした。

     真素は仏壇の前に向かい、膝を折る。
     胸に手を当て、通話のアイコンに指を押し付けた。

     三度目のコールのあと、呼び出し音が途切れた。

    「お願い、助けて……あなた」


    第拾聲 訝シ歪ミ

    結依歌は沈実の病室を飛び出し、女子トイレへ駆け込んだ。

     洗面台に両手をつき、鏡の中の自分を見上げる。

     壁に背を預け、赤い頬を手で仰いだ。
     頬を膨らませ、口を尖らせながら大きく息を吐く。

    「私にしては、大胆だったでしょ」

     間の抜けた笑い声で言った。

     入口のドアが開く。

     腰の曲がった老婆が、病衣のまま入ってきた。
     鏡越しに結依歌を見て、首を傾げる。

    「お姉ちゃん、随分、暑そうね」
    「桃みたいな頬ね」

     結依歌の頬は、さらに赤みを増した。
     両の手で顔を隠す。

    「その顔じゃあ、隠し事にならんよ」

     老婆は笑った。

     結依歌は目を瞬かせ、鞄へ手を入れる。
     ポーチを取り出した。

    「そっちのお姉ちゃんは、大丈夫かい?」

     老婆は手を差し出し、何度か頷いた。

     結依歌のポーチを、青白い手が掴み取る。

     硬い靴音が響いた。

     個室のドアが開く。
     間を置かず、閉まる。

    「一人じゃ、トイレにも行かせてもらえなくてね」
    「用があるわけじゃないんだけどね。まだ歩けるうちは、自分で歩きたいじゃない?」

     老婆は肩を揺らした。

     口元に手を当て、くぐもった声で続ける。

    「こっそり抜けてきたのよ」

     結依歌は頷いた。

     鏡へ向き直り、鞄から別のポーチを取り出す。

     老婆は、夫との馴れ初めを話し始めた。

     結依歌は相槌を打ちながら、口紅の艶を馴染ませるように唇を押し合わせる。

     個室のドアが開いた。

     老婆は個室へ向けて、懐炉を差し出す。

    「体、冷やすといけないからね」
    「あたしは冷房を消し忘れて、散々だったのよ」

     笑いながら、トイレを後にした。

     直後、ドアの向こうから男の声がした。

     結依歌は二つのポーチを鞄に戻し、入口のドアを開けた。

    「お袋、頼むよ。勝手なことするなって」

     老婆の息子は息を吐きながら、顔を横に振っていた。

     結依歌は横目に、老婆へ会釈する。

     老婆は微笑みを返し、結依歌の背後に手を振った。

     肩を竦め、男は結依歌の方へ視線を移す。

    「お袋、話を聞いてく……」

     男の言葉が止まった。
     開いた口だけが、そのまま残る。

     糸の切れる音が、廊下に響く。

     結依歌は振り返ることなく、病院の出口へ向かう。

     淡い紫と琥珀色の欠片が、足元に散らばった。

     病院を出ると、朝の白さは薄れていた。

     結依歌は鞄を持ち直し、歩き出す。

    「実は、朝ご飯食べてないんだ」
    「お昼ご飯、食べに行こっか」

     昇りきった陽が、足元に二つの影を落とした。

     結依歌は、あの日と同じ道を歩いた。

     店の暖簾をくぐる。

    「おひとり様でしょうか?」

     結依歌は肩先へ顔を向けた。
     頷き、席へ案内される。

    「注文いいですか?」

     店員の女性が伝票を構えた。

    「チキン南蛮、二つお願いします」

     手が一瞬止まる。

    「二つ、ですね」

    「はい」
    「あと、お水も、もう一つ」

     向かいの席にも水が置かれた。

     チキン南蛮を運んできた店員の前で、結依歌は空いた椅子へ弾んだ声を向けていた。

    「前もここだったよね」
    「子遠、最初にご飯大盛りにしようとしてた」

     箸を取り、チキン南蛮を口へ運ぶ。

    「おいしい」
    「やっぱり、ここのチキン南蛮好き」

     結依歌は箸を置き、伝票を手に取った。

    「ごちそうさまでした」

     店を出たあと、店員の女性が皿を下げに来る。
     通りかかった別の店員が、空になった皿を見て足を止めた。

    「あの子、結構食べたわね」
    「二人前よ?」

    「育ち盛りってすごいわよね」

    「私も若い頃はね」

     二人は笑いながら、皿を重ねた。

     結依歌は次の店へ向かった。

     喫茶店に入ると、注文口へ向かった。

    「ピーチソーダ」
    「大きい方で」

    「あ、ストロー二つください」

     店員の女性は眉を上げた。

    「かしこまりました」
    「店内でよろしいですか」

     結依歌は頷き、窓際の席に座った。

     大きなグラスには、ストローが二本。
     窓辺には、紫のスミレのオブジェクトが置かれていた。

     メニューを開く。

     ココナッツミルク。

     その文字で、指が止まる。

    「ここのは食べれたよね」

     顔を上げた。

    「すみません。スイートポテトもください」

     届いたスイートポテトにフォークを入れる。
     半分に分け、片方を口へ運んだ。

     結依歌はピーチソーダを飲み、会計を済ませた。

     店員の女性がテーブルへ向かう。
     グラスを持ち上げようとして、手を止めた。

     二本のストロー。

     片方には、緋色の口紅。
     もう片方には、撫子色の跡。

     空になった席を見る。

     帰路、夕日は傾き始めていた。

    「え、いいけど」
    「一人でするってこと?」

     結依歌は首を傾げた。

     道の先に、あの空き地が見えた。

    「じゃあ、私がするから、沈実には動画でも送ろうかな」

     結依歌は空き地へ足を向けた。

     空き地に着くと、夕日に背を向けて立つ。
     鞄を地面に置き、スマホを立てかけた。

     画面を操作し、録画を始める。

     視線を空へ向ける。
     瞼を強く閉じた。

    「確か……」

     カンガエ シンジル
     カンジョウ ホントウノジブン
     シンタイ ムネニ

     結依歌は足元の影へ、文言を落としていく。

     髪が揺れる。

     影は濃くなる。
     空き地の草葉は、黒く沈んでいく。

     ハイケイ エイエン
     ミンナ ミニ

     結依歌はスマホの画面を一瞥した。

     口元が吊り上がる。

     コンドウシ イッ――

     乾いた葉を踏みしめる音がした。

     結依歌は口を閉じる。

    「おやめなさい、顕妄さん」

     住職が、結依歌の前で足を止めた。
     肩が大きく上下している。

     結依歌は録画を止め、スマホを持つ手を下ろす。
     瞼を半分下ろしたまま、首を傾げた。

     住職は結依歌を見据えた。

    「お二人とも、よく聞きなさい」
    「あなたたちのしていることは、流行り歌などではありません」

     結依歌は、住職の顔に目を置いたまま立っていた。

     住職は言葉を続ける。

    「知人の民俗学者に、話を聞いてきました」

     住職の問いに、男は答えた。

     肥忌。

     二人以上で輪をなし、中心へ言葉を吐く。

     己を嫌う者は、自分の癖を吐いた。
     身分の低い者は、愚痴を吐いた。
     禁忌を犯した者は、罪を吐いた。

     吐く闇は違えど、節だけは同じだったという。

     身分の低い者たちから始まったとされる。

     いつからあるのかは、定かではない。
     一部の地域にのみ、その噂が伝わっていた。

     慰めのない毎日に、抱えた感情は行き場を失っていた。
     己の闇を、言葉にして吐き捨てた。

     切り離しの儀式。

     苦悩が晴れると信じられていた。

     ある夜、肥忌を目にした一人の僧侶が、時の権力者へ禁止を求めた。

     僧侶から告げられたものを、権力者は聞き流せなかった。
     自らにも、肥忌を行った過去があった。

     やがて村では、肥忌そのものが禁忌となった。

     記すこと、話すこと、知ることを禁じた。

     禁じられてなお、肥忌は人目を避けて残った。

     誰かが始める。
     誰かが知っている。

     ただし、この話も記録に残されたものではない。
     民俗学者が、取材の中で聞いた噂にすぎない。

     その民俗学者は、肥忌そのものもまた、噂から生まれたものかもしれないと言った。

     噂だけが残り、形を変え、別のものになったのではないか。

     声異のように。

    「それが、“こえい”です」

     話し終える頃、住職の呼吸は整っていた。
     額の汗を、手の甲で拭う。

    「噂ではありますが、起与さんの見た“影”も無関係とは言い切れません」

     結依歌を見据えた。

    「顕妄さんが口にしていた声異の節は、以前、彼が口にしたものと同じでした」

     口を結び、次の言葉を失った。

     結依歌はスマホを見ていた。

     画面には、三人で撮った写真が映っている。

     顔を上げ、住職を見る。

    「だから、なんですか?」


    最後ノ聲 累ヲ及ボス切望

    「私達には関係ありません」

     結依歌は踵を返した。

    「待ってください」

     声が背を打つ。

    「独正さんは、私と一緒に来てください」

     結依歌は振り返らず、足を進めた。
     住職は俯き、拳を握ったまま立ち尽くす。

    「折角、楽しかったのに」
    「空気読めないんだから」

     結依歌は空き地を横目に駅へ向かう。

    「送っていくよ」
    「私のことは気にしないで」

     唇が一度閉じた。

    「あ、でも学校みたいに人が多いかも?」

     顎に指を当て、首を傾げた。

    「今日、うち泊まる?」

     一拍置いて、結依歌は頷いた。
     肩が弾む。

     日が沈む帰路、駅の入口で足を止めた。
     色の沈んだ路面の一角。

    「ちゃんと掃除してよね」
    「汚いんだから」

     結依歌は口の端だけを持ち上げた。

     改札へ向かった。

     ホームに停まった電車へ乗る。
     座席に腰を下ろした。

     窓の外を、暮れた街並みが流れていく。
     映り込んだ影が、結依歌の肩口へ傾いた。

     電車を降りるまで、隣の席は沈まなかった。

     改札を通り、駅を出た。

    「沈実も、動けるようになったらな……」

     足元に伸びていた影は、地に融けた。

     建物の廊下を抜け、自宅の前で足を止めた。
     玄関ドアに手をかける。

     鍵を差し込む。
     奥へ押す途中で、手応えが消えた。

     手が止まった。

    「ただいま」
    「え、なんでこんなに暗いの?」

     顔を上げる。

     テーブルには空き缶が転がっていた。
     床には、潰れたビニール袋。

     家具は倒れ、引き出しは開いたまま止まっている。
     濁った空気に、酒の匂いが混ざる。

     リビングの中心には、真素が床に沈み込んでいた。

     結依歌は暗い窓へ目を向ける。
     閉じたカーテンへ駆け寄り、端まで引く。

    「何やってるの、お母さん」

     声の先が尖った。

     真素は掠れた声で呟く。

    「遅い」
    「こんな時間まで、何してたの……」

     膝の上で、指が震えていた。

    「引っ越すわよ、結依歌」

     真素へ近づき、膝を折る。

    「なんで、またお酒飲んでるの?」
    「約束は? どうしたの?」

     肩を揺さぶる。
     髪が乱れた。

     その視線は、頭上へ向いていた。

    「迎えが来る」

     肩から手を離し、立ち上がる。

     背後で、玄関の金具が鳴った。
     ドアが開く。

     眉を顰める。
     玄関の暗がりに、男の輪郭があった。

     真素は結依歌を背に隠し、両手を広げた。

    「どうやって入ってきたの?」
    「その子は誰?」

    「お前が鍵開けとくって言ったんだろ」

     結依歌は片足を引いた。

     男は片手を脇腹に這わせ、部屋を見渡す。

    「荷物はどうした?」
    「ん? 俺の仏壇か。相変わらずだな」

     真素は男の背後を指さした。

    「結依歌に憑いてる」
    「お前は誰?」

     男は頭を掻く。

     土足のまま、玄関を上がった。

     真素の手を握る。
     視線だけが、仏壇の遺影を掠めた。

    「え……」

    「このヒステリック女から聞いてないのか?」

     男は大きく息を吐いた。

     顕妄白朱(けんみだ はくあ)。
     結依歌の父であり、真素の元夫。

     真素から連絡を受けた。
     転居の荷運びに来たと、白朱は話した。

    「三人パクられて、人手が足りねぇのによ」
    「豚、六匹には釣られるわな」

     白朱は口元を覆った。
     噛み殺した息が、指の隙間から漏れる。

     結依歌の腕が小刻みに揺れる。

     真素の喉が震えた。
     言い返しかけた口だけが、開いたまま残る。

     男はその前に立った。
     視線を落とし、手の甲で頬を叩く。

     真素は突き飛ばされ、空き缶が音を立てる。

    「お前のアカウント管理は三匹だろ」
    「最初から信じてねぇよ」
    「その代わりに……」

     真素は倒れたまま、床の空き缶へ手を伸ばした。
     縁に口をつける。

     荒い息が、缶の内側で鳴った。

     白朱が一歩、前へ出た。

     結依歌は後退り、壁に背を押しつけた。
     伸びた手が、腕を掴む。

     視線は足元へ落ちる。

    「お父さん……なの?」
    「何が起きてるの?」

     息が、喉元にかかった。
     濁った目は、顔から腕へ落ちる。

     真素の声が裏返った。
     一升瓶を握り、背後から白朱を打った。

     結依歌は膝から崩れ、頭を抱えて座り込む。

     白朱は床に手をつき、玄関へ這おうとした。

     月明かりは、真素の背を白く照らしていた。

    「結依歌が三歳になる誕生日の一週間前」

     白朱の背中を殴り、真素は声を上げた。

    「二月二十四日」
    「忘れもしないよ」

     床に腹をついた白朱の肘が折れる。

    「あんたが、私たちを捨てたんだ」

     白朱は転がり、背を壁につけた。

     真素は高い声で笑う。
     左脚で、白朱の腹を蹴り続ける。

     結依歌は口元を手で塞いだ。
     月明かりが床に影を落とした。

     二月二十四日。

     机の灯りが、二つの影を壁に伸ばしていた。
     ドアの角から、小さな目が覗いている。

     一つの影が、もう一つの影を襲う。

     灯りだけが揺れ、影が歪む。

     暴力。
     怒号。
     影。

     結依歌は頭を抱えた。

    「私に、お父さんなんて居たの?」
    「お母さんは、悪い人なの?」

     真素の笑い声が跳ねる。
     白朱の体が、蹴られるたびに揺れた。

     月夜へ顔を背ける。
     涙が頬を伝った。

    「もう、嫌……」
    「嫌、嫌、嫌」

     顔を覆っていた手が、髪を掻き毟る。

    「お父さんも居なかったんだし、要らない」
    「お母さんも、もう要らない」

    「いやああああ――」

     結依歌の絶叫が部屋を裂いた。
     背後の音が消えた。

     空き缶が一つ転がる。

     鈍い絞り音。
     背に風が当たり、髪が靡く。

     窓が割れた。

     真素と白朱は壁際へ投げ出されていた。
     外れたカーテンが、二人の頭から覆いかぶさる。

     布の下から、伸びた足だけが見えていた。

     静寂の一室。

     結依歌は顔を覆っていた手を離した。

    「なにこれ」
    「誰がやったの? 子遠?」

     膝が浮いた刹那。

    「アナタ ノ オカゲサマ(己影様)」

     左耳に息がかかった。

     結依歌と寸分違わない漆黒は、耳元を離れた。

     月明かりは、灯りを増していく。
     結依歌の影が、黒く浮き上がった。

     泣き腫らした目元は解け、口元が吊り上がる。

     背後の左右から、青白い手が伸びた。
     左肩に右手が、右肩に左手がかかる。

     月夜に映し出された三人の影は、クロユリを象った。

     久安六年(一一五〇年)

     三人の僧侶が蝋に火を灯した。

     一人の僧侶が、灯りに背を向け、自身の影が映し出された壁を前に坐禅を組んだ。

     他の僧侶も続いた。

     寺の外にまで声が響く。

     観我心中
     闇煩悩欲恨嫉
     一切負念時
     皆是影現
     非我非真
     当即離之

     離影而照己
     俯観人間身
     不畏本性闇
     容之以為道

     寺を覗いていた二人の百姓は、口を押さえた。

     僧侶の影が、壁から起き上がるように一歩踏み出す。

     二人は音を立てずに後退り、寺を離れた。
     走りながら、何度も互いの顔を見る。

     川辺の野原へ辿り着くと、二人は向かい合った。

     そこへ、松明を持った浪人が通りかかる。
     夜の川辺で向かい合う二人を訝しみ、足を止めた。

     百姓は肩を寄せ、寺で見たものを浪人へ話した。
     声は低い。
     口元だけが緩んでいた。

     僧侶の所作を思い出しながら、二人は手ぶりを重ねた。

     浪人は笑った。

     松明を地面の中心へ差し込む。

     三人は松明を囲み、円になった。

     
     

    朱乃

     
     
    黄昏時に小説を書く人✍️ 華画夜守 朱乃(kaeyamo akano)🌙 日常に潜む違和感や不気味さ、見過ごしたくなるのに目を離せないものを「朱乃小説」として綴っています🕯️

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