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Photo bydebupinoko

小さな約束

    1. あとで

    数学のワークは、机の上で開いたままだった。

    右のページには、まだ一問も答えが書かれていない。
    シャーペンは置いたままで、代わりに僕の手にはスマホがあった。

    画面の中では、キャラクターが走っていた。
    小さな効果音が、部屋にぽつぽつと鳴る。

    階段の下から、母親の声がした。

    「宿題、やったの?」

    僕はスマホの画面を伏せた。

    「あとで」

    そう答えた。

    その「あとで」が、もう何回目なのか、自分でもわからなかった。

    最初のうちは、本当にあとでやるつもりだった。
    晩ごはんのあとにやる。
    風呂のあとにやる。
    このステージが終わったらやる。

    でも、そのうち「あとで」は、今やらないための言葉になった。

    母親の声が少し近づく。

    「あとでって、いつ?」
    「今日中にやるって言ったよね?」
    「約束したでしょ」

    約束。

    その言葉を聞くたびに、胸のあたりが少し重くなる。

    守らなければいけないもの。
    破ったら怒られるもの。
    一度口にしたら、もう変えてはいけないもの。

    約束という言葉には、そういう重さがあった。

    たしかに言ったのは僕だ。
    でも、言わされたような気もしていた。

    「やるの? やらないの?」と聞かれて、「やる」と答えただけ。
    それなのに、いつの間にか約束になっている。

    自分でもわかっていた。
    やらなきゃいけないことは、やらなきゃいけない。

    宿題も、受験勉強も、親に言われた手伝いも。

    でも、わかっていることと、できることは違う。

    夏休みは、思っていたよりずっと早く終わりに近づいていた。

    僕は中学三年生だった。

    受験生、という言葉がつくようになってから、まわりの大人たちは急に僕を見る目を変えた。

    「そろそろ本気出さないとね」
    「志望校は決めたの?」
    「夏が勝負だよ」

    そう言われるたびに、僕は曖昧に笑った。

    本当は、少し前から授業についていけなくなっていた。

    中学二年の終わりくらいまでは、そこまで困っていなかった。
    テスト前に少し勉強すれば、それなりの点数は取れた。

    友達からも「お前は大丈夫だろ」と言われていたし、自分でも、まあ大丈夫だろうと思っていた。

    でも三年になってから、急にわからないことが増えた。

    数学の問題を見ても、どこから手をつければいいのかわからない。
    英語の長文は、知らない単語が増えて、途中で読むのをやめたくなる。
    理科や社会も、覚えることが多すぎて、何からやればいいのかわからない。

    わからないものが増えると、机に向かうのが嫌になる。
    机に向かうのが嫌になると、スマホを開く。
    スマホを開くと、ゲームを始める。
    ゲームを始めると、気づいたら一時間が過ぎている。

    そして、また言う。

    「あとで」

    その言葉を言うたびに、僕は少しずつ、自分のことが嫌いになっていった。

    2. 同じ高校に行こうぜ

    でも、僕を一番苦しくしていたのは、宿題ではなかった。

    友達とのことだった。

    夏休みに入る少し前、いつものメンバーで帰っていたときのことだ。

    一人が言った。

    「俺ら、同じ高校行けたらよくね?」

    それは、何気ない一言だった。

    誰かが「いいな」と言って、別の誰かが「よっしゃ!受験頑張るわ!」と言った。

    僕も笑って、「行けたらいいな」と言った。

    そのときは、本当にそう思っていた。

    同じ高校に行けたら、楽しいだろう。
    受験が終わっても、今のメンバーでいられる。

    高校の制服の話や、部活の話や、通学路の話をしながら、僕たちはもうそこに行く前提で話していた。

    「高校行っても、このメンツで帰るのかな」
    「帰るだろ」
    「部活どうする?」
    「まだ決めてない」
    「まあ、入ってから考えればよくね」

    そんな会話が、いつの間にか当たり前になっていた。

    でも、夏休みに入ってから、僕はだんだん怖くなった。

    模試の結果は思っていたより悪かった。
    夏休みの課題も進んでいなかった。

    みんなが行こうとしている高校に、自分だけ届かないかもしれない。

    そう思っても、言えなかった。

    友達との間に、はっきりした約束があったわけではない。

    紙に書いたわけでもない。
    「絶対に同じ高校に行こう」と指切りしたわけでもない。

    それでも、僕の中では、それはもう約束みたいになっていた。

    同じ高校に行く。
    みんなと離れない。
    自分だけ置いていかれない。
    できないやつだと思われない。

    その約束は、誰かに言われたものではなかった。

    でも、たしかに僕を縛っていた。

    3. お盆の夜、いとこの兄ちゃんに会った

    お盆になって、僕は親と一緒に祖父の家に行った。

    田舎の家は、毎年同じ匂いがする。
    畳と、線香と、煮物と、少し古い木の匂い。

    居間には親戚が集まっていて、大人たちは近況を話していた。

    誰がどこの会社に入ったとか、誰の子どもが何歳になったとか、そういう話がずっと続いていた。

    僕はその輪の端に座って、スマホを触っていた。

    ゲームの画面を開いた。
    でも、あまり楽しくなかった。

    宿題のことも、受験のことも、友達のことも、頭のどこかに残っていた。

    ゲームをしている間だけ忘れられる気がしていたのに、最近はゲームをしていても、あまり忘れられない。

    「お前、今いくつになったんだっけ」

    声をかけてきたのは、いとこの兄ちゃんだった。

    昔はよく遊んでもらった。
    でも兄ちゃんはもう社会人で、会うたびに少しずつ大人になっていた。

    親ほど遠くはない。
    でも、同級生ほど近くもない。

    僕から見ると、ちょうどいい距離にいる人だった。

    「中三」

    「中三か。そっか、もう受験じゃん」

    「うん」

    「学校、楽しい?」

    その質問に、僕は少しだけ困った。

    勉強は楽しくない。
    部活はもう引退した。
    友達といるのは嫌いじゃない。

    でも、前みたいに何も考えずに笑えているかと言われると、よくわからなかった。

    「普通」

    そう答えた。

    兄ちゃんは、ふっと笑った。

    「普通か」

    「うん」

    「普通って、便利だよな」

    「なにそれ」

    「いや、俺もよく使ってたから」

    それで会話は終わると思った。

    でも、少し沈黙があったあと、僕は自分でも思っていなかったことを口にしていた。

    「まあ、最近はなんかだるい」

    兄ちゃんは、すぐには何も言わなかった。

    「何が?」とも聞かなかった。
    「ちゃんとしろよ」とも言わなかった。

    ただ、テーブルの上に置いてあった車の鍵を手に取った。

    「アイス買いに行くか」

    「え?」

    「コンビニ。行くだろ」

    「行く」

    僕は立ち上がった。

    母親に「ちょっとコンビニ行ってくる」と言うと、すぐに返ってきた。

    「宿題やったの?」

    僕は答えなかった。

    その沈黙を埋めるように、兄ちゃんが言った。

    「すぐ戻るよ」

    外に出ると、夜なのにまだ空気がぬるかった。

    庭の向こうで虫が鳴いている。
    遠くの道路を、車が一台だけ通っていった。

    兄ちゃんの車は、家の横の砂利道に停まっていた。

    助手席に乗ると、少しだけ大人になった気がした。

    4. コンビニまでの十五分

    「何食う?」

    エンジンをかけながら兄ちゃんが聞いた。

    「まだ決めてない」

    「じゃあ、着いてから考えるか」

    車はゆっくり動き出した。

    祖父の家の明かりが後ろに流れていく。
    コンビニまでは、車で十五分くらいかかる。

    歩けない距離ではないけれど、歩くには遠い。

    田舎のコンビニは、近いようで遠い。

    しばらく、二人とも黙っていた。

    兄ちゃんは運転しているから、こっちを見ない。
    そのことが、少し楽だった。

    「夏休みの宿題、終わった?」

    しばらくして、兄ちゃんが聞いた。

    「終わってない」

    「どれくらい?」

    「けっこう」

    「怒られるやつだ」

    「もう怒られてる」

    兄ちゃんは笑った。

    「俺も、宿題ちゃんと終わらせるタイプじゃなかったな」

    「兄ちゃんも?」

    「うん。偉そうなことは言えない」

    少し意外だった。

    大人はみんな、子どもの頃からちゃんとしていたような顔をする。
    少なくとも僕にはそう見える。

    でも兄ちゃんは、自分もできなかったと言った。

    「でもさ」

    僕は窓の外を見ながら言った。

    「やるって言ったのにやってないから怒られるんだよね」

    「うん」

    「まあ、自分が悪いんだけど」

    「そう思ってるの?」

    「思ってるっていうか、そうじゃん」

    「やるって言ったのは、自分で決めた感じ?」

    「え?」

    「宿題やるって約束したんだろ。自分で決めた約束だった?」

    僕は少し考えた。

    母親に「いつやるの」と言われた。
    僕は「あとで」と言った。
    「本当にやるの」と聞かれて、「やるって」と言った。

    それは確かに、約束みたいなものだった。

    でも、自分で決めた感じはしなかった。

    「言わされた感じ」

    「なるほど」

    「でも、言ったのは自分だし」

    「まあな」

    「だから、守らないとダメじゃん」

    兄ちゃんはハンドルを切りながら、少しだけ黙った。

    ウインカーの音が、カチカチと車の中に残った。

    「……守るかどうかの前にさ」

    「うん」

    「その約束に、自分の気持ちが入ってたかどうかって、ある気がするんだよな」

    「気持ち?」

    「うん。なんていうか、怒られたくなくて『やる』って言ったのと、自分で『今日はここまでやる』って決めたのは、同じようでちょっと違うっていうか」

    「でも、どっちもやることは同じじゃん」

    「そうなんだよな」

    兄ちゃんは少し笑った。

    「やることは同じなんだけどな。そこが面倒なんだよな」

    「何それ」

    「なんだろうな」

    兄ちゃんはそう言って、前を見た。

    車のライトが、白いガードレールをなぞっていく。

    「でも、自分のものになってるかどうかは違う気がする」

    僕には、わかるようで、まだわからなかった。

    コンビニの明かりが見えてきた。
    夜の道に、そこだけ白く浮かんでいるみたいだった。

    5. 約束したわけじゃないけど

    店に入ると、冷房が少し肌寒く感じた。

    僕はアイスの棚の前でしばらく悩んだ。
    兄ちゃんはすぐにカップのアイスを選んで、僕が選び終わるのを待っていた。

    「それにすんの?」

    「うん」

    「昔から好きだよな、それ」

    「覚えてんの?」

    「なんとなく」

    店の中では、それ以上あまり話さなかった。

    レジを済ませて外に出ると、さっきより夜が濃くなった気がした。

    車に戻って、僕は袋の中のアイスを膝の上に置いた。

    帰り道、兄ちゃんは来た道とは違う方へ曲がった。

    「遠回り?」

    「ちょっとだけな」

    「アイス溶けるじゃん」

    「じゃあ、溶ける前に話すか」

    「何を」

    「さっきの、だるいってやつ」

    僕は袋を見た。
    アイスの箱の角が、少しだけやわらかくなっていた。

    「別に、大したことじゃない」

    「うん」

    兄ちゃんはそれ以上聞かなかった。

    だからなのか、僕は話してしまった。

    「さっき、受験って言ったじゃん」

    「うん」

    「俺、友達と同じ高校、行けないかもしれない」

    口に出してから、思ったより怖い言葉だった。

    「そうなんだ」

    兄ちゃんは短く返した。

    「みんなで同じ高校行こうぜって言ってて。前は、まあ行けるかなって思ってたんだけど」

    「うん」

    「最近、授業とか全然わかんなくなってきて。テストも落ちてるし。宿題も遅れてるし」

    「うん」

    「でも、言えないじゃん」

    「友達に?」

    「うん。言えるわけない」

    「なんで?」

    「なんでって……ださいし」

    「ださい?」

    「俺だけ無理かもしれないとか。俺だけついていけてないとか。そういうの、ださいじゃん」

    言いながら、自分で嫌になった。

    友達は悪くない。
    誰も僕に無理やり約束させたわけじゃない。

    でも、「同じ高校に行こうぜ」という言葉は、いつの間にか僕の中で重くなっていた。

    「約束したわけじゃないんだけどさ」

    僕は言った。

    「なんか、約束したみたいになってる」

    兄ちゃんは、すぐには返事をしなかった。

    車のライトが、細い道を照らしていた。
    田んぼの横を通る。

    窓の向こうは暗くて、何があるのかよく見えなかった。

    「それってさ」

    しばらくして、兄ちゃんが言った。

    「誰との約束なんだろうな」

    「え?」

    「友達との約束?」

    「そうじゃないの?」

    「友達と、本当に約束した?」

    「いや……ちゃんとはしてない」

    「じゃあ、なんだろうな」

    兄ちゃんはそこで少し言葉を切った。

    「友達に、がっかりされたくない自分との約束、みたいなやつかもしれないな」

    僕は何も言えなかった。

    がっかりされたくない。
    置いていかれたくない。
    できないやつだと思われたくない。

    たしかに、それは友達との約束というより、自分の中で勝手に背負ったものかもしれなかった。

    6. 約束は、結び直していい

    「でも、一回言ったことって、変えちゃダメじゃん」

    僕は言った。

    「同じ高校行こうって話してたのに、やっぱ無理かもって言ったら、裏切ったみたいになる」

    「そうかな」

    「そうでしょ。約束破るってことでしょ」

    兄ちゃんは片手でハンドルを持ったまま、少しだけ首を傾けた。

    「破る、か」

    「違うの?」

    「違わないかもしれない」

    「じゃあダメじゃん」

    「でもさ」

    また、ウインカーの音がした。
    カチカチ、カチカチ、と、妙に大きく聞こえた。

    「黙ってなかったことにするのと、今のことを話すのって、同じなのかな」

    「……同じじゃない、かも」

    「うん。俺も、同じじゃない気がする」

    「じゃあ何なの」

    「うーん…結び直す、っていうか」

    兄ちゃんは、少し照れたように笑った。

    「言い方、ちょっとかっこつけすぎか」

    「うん」

    「そこは否定しろよ」

    僕は少し笑った。

    兄ちゃんは続けた。

    「でも、たとえばさ。行けると思ってた。でも今は難しいかもしれない。だから、ちゃんと話す。それって、約束を雑にすることとは違うんじゃないかな」

    「でも、がっかりされるかもしれない」

    「されるかもな」

    「じゃあ嫌じゃん」

    「嫌だよ」

    兄ちゃんはあっさり言った。

    「俺なら普通に嫌だ」

    「じゃあ無理じゃん」

    「でも、黙ったまま苦しくなって、最後に何も言えなくなるのも、けっこうしんどいと思う」

    僕はまた黙った。

    それは少しわかる。

    「俺もさ」

    兄ちゃんが言った。

    「昔、できもしない約束ばっかりしてたよ」

    「仕事で?」

    「仕事でも、友達でも。断れなくて、いいよって言って、あとで苦しくなる。できないのに、できますって言う」

    「大人でも?」

    「大人でも。むしろ大人の方がいっぱいあるかもな」

    「そうなの?」

    「あるよ。その場では、できませんって言わなくて済むから楽なんだよ。相手も一瞬安心するし、自分も嫌われずに済んだ気がする」

    「うん」

    「でも、あとでできなかったら、相手は困る。自分も苦しくなる」

    兄ちゃんはそこで、言葉を止めた。

    車の窓の外に、暗い畑が続いていた。
    ところどころにある家の明かりが、ゆっくり後ろに流れていく。

    「で、まあ」

    兄ちゃんは小さく息を吐いた。

    「一番嫌なのは、自分で自分のことを、ちょっと信じられなくなることだった」

    その言葉だけ、少し重く聞こえた。

    自分で自分を信じられなくなる。

    僕は、夏休みの間に何度も「あとでやる」と言った。
    そのたびに、本当は少しだけわかっていた。

    どうせやらないかもしれない、と。

    でも、そう思う自分を見ないようにしていた。

    「どうしたの」

    僕は聞いた。

    「うーん」

    兄ちゃんは少し考えた。

    「そんな、急に変われたわけじゃないけど」

    「うん」

    「少しずつ、小さくした」

    「小さく?」

    「できることだけ約束する。できないことは、できないって言う。できそうにないときは、早めに言う。誰かに手伝ってもらう」

    「それって、逃げじゃないの」

    「逃げるときもある」

    「あるんだ」

    「あるだろ。人間だし」

    兄ちゃんは笑った。

    「でも、ちゃんと話して、もう一回決めるなら、逃げじゃないこともあると思う」

    僕は袋の中のアイスを見た。
    箱の表面に、少しだけ水滴がついていた。

    「約束ってさ」

    兄ちゃんは言った。

    「怒られないためだけのもんじゃないと思うんだよな」

    「じゃあ、なんのため?」

    兄ちゃんはすぐには答えなかった。

    カチ、カチ、とウインカーが鳴る。
    車が右に曲がる。

    「うまく言えないけどさ」

    兄ちゃんは言った。

    「自分が、どういうやつでいたいかを忘れないため、っていうか」

    「どういうやつ?」

    「うん。まあ、俺もよく忘れるけど」

    「忘れるんだ」

    「忘れるよ。めちゃくちゃ忘れる」

    その言い方が少しおかしくて、僕は笑った。

    でも、まったくわからないわけでもなかった。

    友達に嘘をつきたいわけじゃない。
    できないことを、できるふりしたいわけでもない。
    親に怒られないためだけに宿題をしたいわけでもない。

    できれば、自分で決めたことをちゃんとやる人でいたい。

    でも、それができないから困っている。

    7. 二ページだけなら

    「全部は無理だと思う」

    僕は言った。

    「何が?」

    「宿題」

    「うん」

    「今日帰って全部やるとかは、たぶん無理」

    「うん」

    「でも、数学、二ページだけならできるかも」

    言ってから、少し恥ずかしくなった。
    二ページなんて、少なすぎる気もした。

    でも兄ちゃんは、笑わなかった。

    「いいじゃん」

    「いいの?」

    「二ページは、ゼロじゃないからな。ゼロとイチじゃ大違いだろ」

    「帰ったら、アイス食いながらやる」

    「アイス溶ける前に?」

    「それは無理かも」

    「じゃあ、アイス食い終わる前に一問目だけ見るとか」

    「小さすぎない?」

    「小さいな」

    「自分で言ったじゃん」

    「でも、小さい方が守りやすい」

    兄ちゃんはそう言って、車を祖父の家の方へ向けた。

    家の明かりが見えてきた。

    僕は少し迷ってから言った。

    「兄ちゃん、帰ったらちょっと見てくれない?」

    「数学?」

    「うん。二ページだけ」

    「いいよ、俺、数学苦手だけど」

    その返事は、軽かった。
    でも、その軽さがありがたかった。

    車が砂利道に入る。
    タイヤの下で、小さな石が音を立てた。

    僕はスマホを取り出した。
    友達とのトーク画面を開いた。

    まだ、何も送らなかった。

    でも、次に会ったら少しだけ言ってみようと思った。

    「最近、ちょっと成績落ちててさ」と。

    笑われるかもしれない。
    「まじかよ」と言われるかもしれない。
    もしかしたら、「勉強会やろうぜ」と言ってくれるかもしれない。

    同じ高校に行くことだけが、友達でいる約束ではないのかもしれない。

    車を降りると、夜の空気はまだ暑かった。
    手に持ったアイスは、少しやわらかくなっていた。

    玄関に向かう途中、兄ちゃんが言った。

    「二ページな」

    「うん」

    「自分で決めたやつだからな」

    僕はうなずいた。

    居間に戻ると、大人たちはまだ話していた。

    母親がこちらを見た。

    「遅かったね」

    「コンビニ、ちょっと遠かった」

    僕はそう言ってから、アイスと一緒に、リュックから数学のワークを出した。

    母親が少し驚いた顔をした。

    「今やるの?」

    僕は一瞬、何と答えるか迷った。

    いつもなら、「うん」とだけ言って、結局やらないこともあった。

    でも今日は、少し違った。

    「二ページだけね」

    そう言った。

    母親は何か言いかけたけれど、兄ちゃんが先に言った。

    「俺が見るから、おばさんはご飯食べてきなよ」

    僕はテーブルの端にワークを広げた。

    アイスのふたを開ける。
    角はもう丸くなっていて、スプーンを刺すと、思ったより深く沈んだ。

    数学の一問目を見た。

    わからなかった。

    いきなり、わからなかった。

    やっぱり無理かもしれないと思った。
    二ページどころか、一問目から止まっている自分が情けなかった。

    でも兄ちゃんが横から言った。

    「まず、問題文だけ一緒に読もうか」

    「解き方じゃなくて?」

    「うん。いきなり解かなくていい。何を聞かれてるか見るだけ」

    僕は問題文を声に出さずに読んだ。

    最初は、何も頭に入ってこなかった。
    もう一度読んだ。

    兄ちゃんが「ここ、何を求めろって書いてある?」と聞いた。

    僕は指で問題文をなぞった。

    「ああ……これ、角度か」

    「そうそう」

    それだけのことだった。
    でも、少しだけ手が動いた。

    一問目を解くのに、思ったより時間がかかった。
    アイスは半分くらい溶けた。

    でも、一問終わった。

    兄ちゃんが言った。

    「一問終わったな」

    「うん」

    「二ページの前に、一問終わった」

    僕は少し笑った。

    二ページは、まだ遠かった。
    でも、ゼロではなかった。

    そのあと、二問目を解いた。
    三問目でまた詰まった。
    兄ちゃんにヒントをもらった。

    結局、その夜に二ページ全部は終わらなかった。

    でも、一ページと少し進んだ。

    いつもの僕なら、それを失敗だと思ったかもしれない。

    二ページやると言ったのに、できなかった。
    だから約束を破ったのだと。

    でも、その夜は少し違った。

    「明日の朝、残りやる」

    僕が言うと、兄ちゃんは「いいじゃん」と言った。

    「それも、自分で決めたやつ?」

    「うん」

    「じゃあ、朝飯の前にやるか」

    「兄ちゃん起きてる?」

    「たぶん」

    「たぶんかよ」

    「俺も約束は小さくしとくよ。起きたら見るわ。何時に起きるかは分からん」

    僕は笑った。

    8. 今日の約束は、まず一問

    その夜、布団に入ってから、もう一度スマホを開いた。

    友達とのトーク画面を見た。

    「最近ちょっと成績落ちててさ」

    そこまで打った。

    でも、送らなかった。

    まだ怖かった。

    だから消した。

    けれど、消したあとも、前ほど嫌な気持ちにはならなかった。

    翌朝、僕はいつもより少しだけ早く起きた。

    朝飯の前に、数学のワークを開いた。

    兄ちゃんはまだ起きていなかった。

    少し腹が立ったけれど、「起きれたら」と言っていたことを思い出し、少し笑った。

    僕は昨日の続きの問題を見た。

    すぐにはわからなかった。
    でも、わからないところに小さく印をつけた。

    それから、問題文をもう一度読んだ。

    窓の外は明るかった。
    カーテンの隙間から入る朝の光が、白いページの端にのびていた。

    今日の約束は、まず一問。

    僕はシャーペンを持ち直した。

    先端が、紙の上で小さく鳴った。

    #創作大賞2026 #ビジネス部門

     
     
    考えていることを、なんでも書く場所です。 仕事のこと、暮らしのこと、ときどき好奇心のままに。 いま一番力を入れているのは連載「熱を奪われた僕たちへ」——電気が止まった部屋から、大学の教室に戻ってくるまでの話を、自分の経験と科学の両方から書いています。いつか本を出したい。

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