
帰って来ました。
私は沖縄で生まれ育ちました。
でも、大人になるまで、どこか自分は沖縄の人になりきれていませんでした。
そんな気持ちが、ずっと心のどこかにあったのです。
私が幼い頃、両親は離婚しました。
私は岩手県出身の母のもと、沖縄県那覇市で育ちました。
母は離婚した後も、四人の子どもたちのことを思い、沖縄に残ることを選んでくれました。
そんな母に育てられた私は、沖縄で暮らしていても、沖縄の文化や方言に触れる機会があまりありませんでした。
岩手県出身の母と家で話す時は標準語でした。
だから、家族との会話も自然と標準語でした。
友達が話す方言の意味が分からないこともありました。
地域の行事の話になると、自分だけ話についていけないこともありました。
沖縄には、旧暦で行われる行事が多くあります。
子どもの頃は、その意味も分からないまま過ぎていくことがたくさんありました。
沖縄で生まれ育ったはずなのに、どこか自分だけ少し違う。
そんな感覚を持ったまま、私は大人になりました。
父の故郷は、日本最西端の島・与那国島です。
でも、その頃の私にとって与那国島は、父の故郷ということ以外、ほとんど何も知らない自分の住む那覇から遠く離れた島でした。
両親が離婚してからは、父方の親戚ともほとんど会うことがなくなりました。
だから、私にとって与那国島は、故郷というよりも遠い場所でした。
私には、一度も会ったことのない父方の祖母がいます。
祖母は、私が生まれる二年前に亡くなりました。
だから私が知っているおばあちゃんは、家の仏壇に置かれていた遺影の中のおばあちゃんだけでした。
おばあちゃんがどんな人だったのか。
私は父や母から少しずつ話を聞いて育ちました。
母はよく、おばあちゃんのことを、
「本当に人のできた人だったよ。」
と話してくれました。
そして、おばあちゃんは与那国島で受け継がれてきた一族のマチリを、とても大切にして生きていた人だったとも聞いていました。
与那国島から那覇へ移り住んでからも、年に一度のマチリには必ず与那国島へ渡って参加していたと、母から聞きました。
子どもの頃から、ずっと不思議に思っていた話があります。
おばあちゃんが亡くなった時、お葬式には百人を超える人が会いに来てくれたそうです。
その話を聞いたのは母からでした。
当時の私には、それがどういうことなのか分かりませんでした。
「どうして、そんなにたくさんの人がおばあちゃんに会いに来たんだろう。」
それが、子どもの頃の素直な疑問でした。
会ったことはありません。
話をしたこともありません。
でも、母や父の話を聞くたびに、おばあちゃんという人が少しずつ私の中で形になっていきました。
私にとっておばあちゃんは、遺影の中の人でした。
二〇二〇年の正月。
九つ離れた兄が、一枚の写真を見せてくれました。
「これ、おばあちゃんだよ。」
そう言って見せてくれた写真には、弓を引くおばあちゃんの姿が写っていました。
その写真は、与那国島の祭祀を紹介する展示の中にあったものを、兄が許可をいただいて撮影してきたものでした。
私は、その写真から目を離すことができませんでした。
遺影ではないおばあちゃん。
初めて見る、生きているおばあちゃんでした。
嬉しかった。
とにかく、嬉しかった。
それまで私にとって、おばあちゃんは遺影の中の人でした。
その一枚の写真には、生きているおばあちゃんがいました。
どうして弓を持っているんだろう。
そんな疑問もありました。
でも、その時の私には、それよりも嬉しいという気持ちの方が大きかったのです。
写真とはいえ、おばあちゃんに会えた。
そのことが、ただ嬉しかった。
その写真を見たすぐ後のことでした。
二〇二〇年。
新型コロナウイルスの流行によって、世の中が大きく変わりました。
仕事は自宅待機になり、街から人の姿が少しずつ消えていきました。
今まで当たり前だった日常が、当たり前ではなくなりました。
世の中の時間が止まったような毎日でした。
その時止まっていたのは世の中だけではありませんでした。
忙しく働き続けてきた私自身も、立ち止まったのです。
今まで目の前を流れていた景色が止まると、置き去りにしていた自分の時間が、少しずつ追いついてくるような気がしました。
その頃から私は、沖縄の聖地や御嶽を巡るようになりました。
人と接することも少なく、静かに歩くことができたからです。
でも、本当はそれだけではありませんでした。
写真の中で弓を引く、おばあちゃんの姿が、何度も何度も頭に浮かんでいたのです。
おばあちゃんは、どうして弓を引いていたんだろう。
おばあちゃんが大切にしていた与那国島のマチリとは、どんなものだったんだろう。
神事とは。
祭祀とは。
そんなことを考えながら、私は少しずつ沖縄を歩くようになりました。
そして気づけば、私の中で一つの思いが大きくなっていました。
与那国島へ行ってみたい。
その思いは、日を追うごとにどんどん強くなっていきました。
世の中が止まり始めた時、私は動き始めたのです。
二〇二一年。
私は仕事の関係で、沖縄から千葉へ移り住むことになりました。
沖縄を離れても、与那国島へ行ってみたいという思いは消えることはありませんでした。
でも、与那国島は遠い島です。
仕事もある。
土地勘もない。
知り合いもいない。
いつか行ってみたい。
そう思いながらも、月日だけが過ぎていきました。
そんなある日、Instagramを見ていると、一つの投稿が目に入りました。
羽田空港で「与那国島フェア」が開催されるという知らせでした。
その投稿を見た瞬間、私は思いました。
「ここへ行けば、おばあちゃんを知っている人に会えるかもしれない。」
そう思うと、いてもたってもいられませんでした。
私は当日、羽田空港へ迷いなく向かいました。
羽田空港に着くと、そこでは与那国島から来た皆さんによる棒座などの演舞が行われていました。
私は、その演舞を初めて見ました。
力強く、それでいてどこか懐かしい。
初めて見るはずなのに、不思議とそう感じたのです。
今まで知らなかった与那国島の文化が、目の前で生きていました。
演舞の合間、一人の演者の方が喫煙所へ向かう姿が見えました。
その後を急いで追いました。
私は勇気を出して、喫煙所でその方に声を掛けました。
「すみません。〇〇家の方をご存じありませんか。」
その方は少し驚いた表情をしながら、
「知ってるよ。」
と答えてくれました。
そして、
「俺の仲のいい友達が、〇〇家の本家の人だよ。」
そう言ってくれたのです。
私は驚きました。
まさか、そんな返事が返ってくるとは思ってもいなかったからです。
その方は、
「次の出番があるから。」
と言って、再び舞台へ戻っていきました。
私はもう一度、演舞を見ながら、その言葉を何度も思い返していました。
この時、一気に与那国島が近づいた気がしました。
すべての演舞が終わり、私は帰ろうとしていました。
すると、先ほど喫煙所で話しかけた演者の方が私の方へ歩いてきました。
「みんなに紹介するから、こっち来て!」
私はその方についていきました。
案内されたのは、演者の皆さんが集まる控え室でした。
部屋へ入ると、その方が皆さんに向かって、
「与那国島の〇〇家の人を探してるんだって。」
そう紹介してくれました。
私は皆さんの前で話をしました。
「父とおばあちゃんが与那国島の出身なんです。
ここに来たら、おばあちゃんを知っている人がいるんじゃないかと思って来ました。」
すると、一人の方が言いました。
「さっきまで〇〇家の本家の人たち、会場にいたはずだよ!」
その言葉を聞いて、私は急いで会場内を探しました。
でも、もう姿はありませんでした。
与那国島の商工会の方にも聞いてみました。
「〇〇家の方でしたら、さっきまでいましたよ。」
そう言われました。
ほんの少しの差でした。
会えそうで、会えなかった。
もう一度控え室へ戻り、演者の皆さんにお礼を伝えました。
与那国島フェアは翌日も開催されることになっていたので、
「明日、もう一度来ます。」
そう伝え、私は会場を後にしました。
その日の夜でした。
家に帰ると、沖縄にいる兄から電話がかかってきました。
「お前、今日羽田空港へ行ってたのか?」
兄は開口一番、そう聞いてきました。
「行ってたよ。」
そう答えると、兄はこう言いました。
「与那国島の本家の人から連絡が来てたよ。」
私が会場を後にした後、本家の方たちが会場へ戻って来たそうです。
そこで演者の皆さんが、
「〇〇家を探している人がいたよ。」
「ムヤおばあちゃんのお孫さんだったよ。」
そう伝えてくれていました。
私は控え室で自分の名前も伝えていました。
その話を聞いた本家の方たちは、普段から連絡を取り合っていた兄へと連絡をしてくれたのです。
兄は言いました。
「本家の人たちがお前に会いたがってる。」
その言葉を聞いた瞬間、信じられませんでした。
あと少しですれ違ってしまった人たちが、今度は私を探してくれていました。
今までずっと会いたかった与那国島の親戚たちが、私に会おうとしてくれている。
それが、本当に嬉しかった。
兄から本家の方の連絡先を教えてもらい、その日のうちにLINEでやり取りを始めました。
そして翌日、私はもう一度羽田空港へ向かいました。
前日の夜、兄から教えてもらった本家の方の連絡先にLINEを送り、やり取りをしながら会場へ向かいました。
会場へ着くと、一本の電話が鳴りました。
「今、会場に着いてる?」
「着いてます。今日演舞が行われる舞台の前にいます。」
そう答えると、
「分かった。今行くね。」
電話を切ることはありませんでした。
お互い電話をしたまま、本家のおばさんたちは私のいる場所へ近づいてきました。
携帯電話から聞こえていた声が、少しずつ生の声へと変わっていきました。
すると前から、携帯電話を耳に当てた一人の女性が歩いてきました。
その方は私を見ると、
「あなたが〇〇?」
そう声を掛けてくれました。
「そうです。ムヤおばあちゃんの孫の〇〇です。」
その瞬間、私たちは初めて顔を合わせました。
本家の皆さんは、おばあちゃんのことを本当によく覚えていました。
「ムヤおばあちゃんはね、おはぎを作るのが本当に上手だったんだよ。」
「明るくて、いつも笑っている人だった。」
「みんなに好かれていたんだよ。」
私は、その話を夢中で聞いていました。
私の知らないおばあちゃんが、一人、また一人と、皆さんの言葉の中から姿を現して来るようでした。
気がつくと、私は声を出して泣いていました。
私は泣きながら、自分のことを話しました。
両親が離婚してから父方の親戚と会うことがほとんどなかったこと。
親戚が周りにいなくて、ずっと寂しかったこと。
ずっとルーツを知りたくて、与那国島へ行きたいと思っていたこと。
今まで心の中にしまっていた思いを、私は全部話しました。
すると、一人のおばさんが私にこう言ってくれました。
「私たちは家族だよ。」
「家族は助け合うものだよ。」
「これからは連絡を取り合おう。」
その言葉を聞いた瞬間、私はまた声を出して泣きました。
帰り際、一人のおばさんが私にこう言ってくれました。
「今度は与那国島においで。」
「与那国島には、ムヤおばあちゃんを知っている人がまだたくさんいるよ。」
「写真もたくさん残っているから。」
そう言って、優しく笑ってくれました。
私は迷わず答えました。
「今度は与那国島で会いましょう。」
「今年、必ず与那国島へ行きます。」
そう約束を交わし、私は最後まで棒座の演舞を見届けて羽田空港を後にしました。
あれほど遠く感じていた与那国島が、この日初めて「帰る場所」のように思えました。
そして、その年の四月。
私は約束を果たすため、与那国島へ向かいました。
空港へ着くと、本家の親戚の皆さんが迎えに来てくれていました。
そこには、羽田空港で初めて出会ったおばさんの姿もありました。
本家には四姉妹のおばさんがいます。
羽田空港では、東京に住む次女のおばさんと、与那国島から来ていた三女のおばさんに初めて会いました。
そして与那国島では、長女、三女、四女のおばさんたちが迎えてくれました。
皆さんは、一族のマチリも中心となって受け継いでいる方たちでした。
その日から数日間、三人のおばさんは私を与那国島のいろいろな場所へ案内してくれました。
本家へも連れて行っていただきました。
初めて手を合わせる仏壇。
初めて訪れる場所なのに、不思議と初めてではないような気がしました。
その後、おばさんたちは私を一族の御嶽へ案内してくれました。
おばあちゃんが大切にしていた場所。
一族が何世代にもわたって守り続けてきた場所。
私は、ようやくその場所へ立つことができたのです。
御嶽の前に立ちました。
子どもの頃から話だけを聞いてきた場所。
おばあちゃんが大切にしていた場所。
一族が何世代にもわたって守り続けてきた場所。
私は静かに手を合わせました。
その瞬間、自然と心の中で一つの言葉が浮かびました。
「帰って来ました。」
誰に言ったのかは分かりません。
おばあちゃんだったのか。
御嶽だったのか。
それとも、自分自身だったのか。
ただ、その言葉だけが自然と心の中から出てきました。
すると、長女のおばさんが御嶽に向かって、静かにこう話しかけました。
「ムヤおばあちゃんの孫が帰って来たよ。」
遺影の中でしか知らなかったおばあちゃん。
写真の中で初めて出会ったおばあちゃん。
羽田空港で出会った親戚の皆さん。
そのすべてが、この場所へとつながっていました。
あの時、御嶽で手を合わせた場所。
そこは、兄が見せてくれた、弓を引くおばあちゃんの写真が撮られた場所でもありました。
おばさんたちに案内され、その御嶽を目にした瞬間、私はすぐに気づきました。
「あの写真の場所だ。」
ずっと写真で見てきた景色が、目の前に広がっていました。
だからこそ、私はその場所に立ちたいと思っていたのです。
そして、その願いは叶いました。
でも、それは終わりではありませんでした。
そこから私の旅は再び始まりました。
今、私は与那国島へ通いながら、マチリや文化を学び、その魅力を伝え続けています。
台湾まで111km。
黒潮。
海の道。
人と人との交流。
受け継がれてきた文化。
おばあちゃん。
家族。
一族が大切にしてきた御嶽。
そして、マチリ。
私が与那国島で出会ったものは、そのどれか一つではなく、そのすべてでした。
そこから見えたものとは、故郷であり、世界だったのです。



