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寄生虫 ロイコクロリディウム

    あらすじ
    「昨日は今日であった」
    15年ぶりの再会。池袋の居酒屋「雨」。
    鳴り響くビックカメラの館内ソングと、積年の劣等感。
    糖尿病に侵された先輩の毛穴から菌糸が伸び、死んだ同期の顔が目尻から覗く。

    晴天は別れも告げずにいきなりの豪雨に変貌した。不幸なことに、ホテルのほんの手前で更に雨足が駆け足となり、八つ当たりの様に新調したスーツの表面にぶち当たり、「ピシャ」と歪なバウンドを繰り返していた。いたたまれない気持ちで、雨粒に「ブラザー、竹竿雨粒」と呼びかけた。
     雨粒には無数の兄弟がいる。呼びかけに応じる親切な雨粒も存在するであろう。
    「そうでなくては困るんだよ。ブラザー」
     呼びかけても、雨粒は「ピッシャ」と無慈悲な返事をするだけで、無言で飛沫となり消えた。
    「困った。埒が明かない」
     俺は「竹竿雨粒」に不満を伝えた。もちろん、そんなことは初めから意味もないかもしれない。雨粒の一つ一つには意味などなく、あるのは雨粒の長繊維だけである。
    「今日は傘が必要であったかもしれないな」
     ずぶ濡れになりながら、俺はぼやいた。

     俺はホテルのカウンターで、少し太った色白の女から、小綺麗なホテルのロゴがついた傘を借りた。「カンパニーアンブレラ」。縁起がいいじゃないか。女は俺の部屋番号の横に傘のマークを書き込んだ。女は「何か他にご用命はございますか?」と笑顔で尋ねた。「楔形文字みたいだね」と笑いかけると、女は意味もなくニコリと笑った。
    「今日も良い日だ」
     俺が頷くと、徹夜明けのような黄色い声で「行ってらっしゃいませ」と女は見送った。
     高瀬との待ち合わせである池袋ビックカメラ本店は、ホテルから歩いておよそ十五分ほどである。待ち合わせ時間の午後○時まで時間がない。俺は歩速を早めて、歩幅を並行直角、直角並行とイメージしながら急いだ。足元の雨粒残渣は靴に無数の子ガエルを産みつけて、ピッシャと絶叫して消える。
    「ブラザー、マミーはもういないよ」
     俺は諭す様に雨粒に別れを告げる。森羅万象池袋通りを抜けると十字路に着く。そこには幼さを残す半グレの呼び込みと、ギャル風コスプレの若い女たちが、パチンコの看板を持ちながら風俗店のティッシュを配っている。
    「お父さん、いい子もいますよ」
     俺は女の顔を覗き込みながら、
    「お前は筍雨粒か」
     と呟いた。俺の言葉を聞いて、女たちは悲しそうに他の客を探す。俺は濡れた地面を見ながら答えを探した。

     十五年ぶりに、日本製紙時代に懇意であった高瀬修一と会う。皮肉屋で誰よりも寂しがり屋な先輩である。そんな高瀬に、俺は入社以来、指の長さまで全てに引け目を感じていた。唯一、オタク的な音楽趣味だけは勝てると心の中で自負することで、昨日の自分になれていた。
     ある日、落語、サイケ、アングラ、ガロが好きな高瀬に誘われて、下北沢のライブハウスで「たま」という名のバンドを見た。おかっぱ頭の知恵子の様なボーカルが歌い、ダンディな中年男が弾けるようにベースを弾き、太鼓のランニング男が信じられない高さまで飛んで叩いてまた飛んだ。カオスな炸裂音と悲しいズボンに、俺は人目を憚らず泣いた。高瀬は号泣して「ブラボー」と大声で叫んで慟哭した。最後の一つでもまた負けてしまった。俺たちの奇妙な果実は「さんだる」であった。それ以降は、敢えて全てを教えないことで俺は距離を保った。言わば、そんな間柄である。

     久しぶりの再会は嬉しくもあり、心の奥の宝箱を開いた時に手に刺さる棘に似ている。棘を引き抜いた後に指先から滲む微かな鮮血は、過ぎ去った記憶の位置を確かめる様に鋭い痛覚で現在位置を鷲掴みにする。高瀬との再会は、過去の行き場を失ったガレージな劣情が舞い戻り、あの日の感情が昨日の様に蘇える。忘れていたガラクタを手繰り寄せた。

     地下街のサンシャイン方面出口を急ぐ。地上に出ると、東口の池袋は様変わりしていた。かつてのサブカル文化の聖地ではなく、そこはどこかバンコクに似ている。英語のRに濁音を付けた様な反り舌音がこだまする。池袋の東口は大きく変わっていた。ぶっとい大勝軒の親父も、サイケデリックな埋め立てコンテナの様なサンシャインTSUTAYAも何処かに消えてしまった。
    「変わらないのは俺だけか」
     自然に笑みが漏れた。サンシャイン出口を出ると、直ぐ右手にその場所は見つかった。俺の土地勘は色褪せず、まさに労せずというやつだ。ビックカメラの店内では、あのお馴染みのテーマソングの復唱する歌詞が、大脳のひだのしわに折り目を入れる様にこびりつく。俺は鼻歌を歌いながら高瀬を探した。赤や青のベストを羽織った店員が蠢く。養分を探しているのかい? 俺は働き蜂たちの毒針をかき分けながら、白と青の空間を彷徨い歩いた。最後に青の角に白のスロープがなだらかに繋がり、二面に広がる空間に辿りついた。
     突然、青白の境界線の隙間を、薄くなった縮毛の浅黒い顔が片目を瞑りながら華麗に滑り落ちてきた。顔はぐちゃっと歪んだ世界で捩れた余白に浮かんでいた。顔をにょろりと出して、薄い前髪がふらりとカールして揺れている。前より細くなった首がグニャリと曲がりお辞儀した。

    「高田、久しぶり」
    「痩せたんじゃないですか」
    「少し病気でね」
     触れてはいけない沈黙が「ビックビックビックカメラ」の歌詞に消された。俺たちは直ぐ隣のビルにある「雨」という居酒屋に入った。店内には音楽進化論でデビューした古山菜の花が流れていた。高瀬はすかさず「イイね、イイね」を連呼した。

     土色のタイル張りの床から生えたマッシュルームの首がいきなり話しかける。
    「お子さんはもう大学生かい」
    「長女は東京で就職して、次女は地元で看護師をやってます」
    「大きくなったな」
     カール菌糸が風に揺られてヒラヒラ舞いながら空間に溶け合う。
    「ここは少し暑いのであちらの席にしよう」
     汗粒が悲鳴のイルカの鳴き声を上げながら、ポタリと床で跳ねる。俺はティッシュで座礁したイルカをレスキューした。染み込みながら安堵の「サンキュー」マーク。今度は俺の脇の下で別のイルカが垂れ落ちる。
    「高瀬先輩、少し暑いですね。俺も汗が出てきました」
     俺たちが席について、十五年ぶりにビールで乾杯した。

    「当時の鈴木社長に感謝だね」
    「鈴木社長って誰ですか?」
    「お前はもう忘れたのかい? 俺たちの社長だぞ」
    「まあイイや。高田は途中でケツを捲ったからね」
     高瀬は爽やかに微笑んだ。急に乾いた口調で少し笑いながら、奥から絞り出す様に囁いた。
    「そういえばお前の同期の時田が亡くなったんだぞ」 
     潰れかけた黒い右目を少し開いて、高瀬は口角をいびつに揺らした。
    「いい奴だったな。まだ覚えているか」
    「もちろんですよ。曲がりなりにも同期ですからね。英会話の研修でいつも一緒でした」
    「そうだったね。真面目な奴でね。経理の数字が合わなくて、悩んで自分で亡くなったヨ」

     高瀬は懐かしそうに居酒屋の天井の四隅を、目玉を伸ばして覗き込む。触手が天井の梁を掠めてヌメリとめり込む。ムチャと変形して瞳孔がピックとなる。
    「失礼」
     俺は水飴みたいに伸びる目玉を、割り箸で巻き取りたい衝動に駆られる。
    「先輩は原色混じりのカタツムリ」とポツリと呟いた。
     目玉を伸ばし切った白目の斜視持ちの高瀬は、俺の後頭部から「お前も薄くなったね」と笑う。
    「高田も時田みたく真面目なら日本製紙を辞めなかったね」
     俺は時田の強い意志に満ちた顔を思い浮かべながら頷く。記憶の時田は微笑みかけながら砂塵を上げ、顎から崩れ落ちた。
    「時田! どこに行く」
     俺は天井を見つめた。
    「時田はいい奴だったよな。数字が合わなくても人生が終わるわけではない。お前がいれば相談相手になってあげられたのにね」
     崩れ落ちた砂の中で時田はウインクしている。
    「俺はいつも一緒にいるよ」

     時田と寮に遊びに行き、時田が津波に流されて遺体が上がらない両親を祀る神棚に手を合わせた時を思い出す。俺は三十年ぶりに時田の涙を思い出した。俺の中の時田はいつも青年で、平面図である。時折、ヒラメの様にギョロリと俺を睨みつけ、砂塵を上げて水に潜る。
    「高田、酔ったのか」
     高瀬が心配そうに覗き込む。
    「大丈夫でごわす」
    「ところで、先輩の血糖値は大丈夫ですか?」
     不意の質問に、高瀬はぐきりと目を角張らせて「イェーイ、大丈夫だよん」と川底で溺れるドジョウの様に笑った。
     高瀬は不機嫌そうにエラをバタつかせながら、小石を吐き始めた。
    「失礼しました」
     おしぼりでゴシゴシとテーブルを摩擦する音が聞こえる。
    「俺も大分くたびれちゃった。還暦だよ」
     気がつくと、後ろの高瀬の両目が耳元で低く響いていた。
    「高田ちゃん、怖くないよ。平常運転」

     高瀬の目尻の皺を、劇場の緞帳の様に捲り上げた小さな時田が挨拶する。
    「高瀬先輩の目尻は臭いんよ」
     小さな時田が、さらに小さな鼻をつまむ。
    「高田、よだれが出てるぞ。変わらんな」
     高瀬は大声でイタズラっぽく笑う。
    「ところで先輩の糖尿病は大丈夫ですか?」
     高瀬の挙動が一瞬止まり、全身の毛穴のすべてから菌糸を吐き出しながら顔面を持ち上げる。空中の首が菌糸の曲率を滑りながらテーブルに着地する。ゴロン。首だけの高瀬が笑いながら転げ回る。
    「近くに、時田がいないか?」
     高瀬が小さく鋭く叫ぶ。天井に四つん這いで張り付き逃避した時田が、菌糸を伝って降りてくる。
    「高瀬先輩、ここですよ」
     声の粘りに引っ張られる様に、時田の顔がひらがなの「へ」になる。
    「カナシクナイヨ」
    「高田に思い出してもらえて、時田も幸せ者だ」
     目の前の高瀬がイタズラっぽく笑う。俺は目尻の隅に水滴を溜めた。
    「高田、泣いていいんだよ。俺はいつもお前の友達だよ」
     高瀬の目尻の隅で時田が嬉しそうに笑う。
    「先輩、雨粒にも顔があるんですね」
    「高田、お前は変わらないな。雨粒に顔があるわけないだろう。みんな同じだよ」
    「あるのは、雨粒に反射したお前の無数の顔だよ」
     高瀬が嬉しそうに笑う。
    「見分けはつかないけど、同じ顔した別人のお前たちだよ」
     高瀬は真剣な表情で俺の目を見据える。
    「いつかは、俺も無数の雨粒になるんだな。高田、雨の日に無数の雨粒から俺を見つけてくれ。約束だぞ」
     いきなりの高瀬の宣言で、心のガラクタが割れた。

    「大分酔ったな。今日は久しぶりなので俺がおごるよ」
    「高瀬先輩、役職定年で給与が下がってないですか? 俺が払いますよ」
    「いいから、いいから。高田、ありがとう。今日は良い話が出来たよ」
     勘定を済ませて俺たちは地上に出た。雨が止んで、空き地にはつくしが無数に芽を出した。
    「高田、つくしが生えている。蕗のとうではなくつくしだね。イイね。イイね」
    「それでは、高田、また会えたらいいね」
    「高瀬先輩、いつもご馳走になりありがとうございます」
    「いいよ、お前は後輩だしな。昔は一緒に『たま』のライブによく行ったな。あの時が懐かしいよ」
     俺は高瀬の口角から時田の両手が見えた。
    「久しぶりに会えて嬉しいです」
    「高田、時田もいたな。微笑んでいたよ。ゾッとするけど嬉しいことだよ。これが人生だよーん」
    「先輩お気をつけて」
    「じゃあまたね」

     高瀬が黒い貝殻を背負いながら、アスファルトにヌメヌメ潜っていく。足がアスファルトに溶け込み、ヌメリの中に高瀬が埋没する。粘液の海に2本の触手が浮かび、先端の目玉だけが浮遊する。目玉が怯えた表情になると、白目から赤青緑の縞模様が浮かび上がり、壊れたブラウン管テレビの様に点滅する。
     俺の中の時田が笑う。
    「ロイコクロリディウムダヨ」
     激しい雨音の中に、微かな無数の声がこだまする。今日も昨日だった。俺はずぶ濡れな風となり、池袋で消えた。

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