断片の記録/考えること
・花や雨や季節のようでありたい。何者でもありたくなく、誰の記憶に残ることもなく、ただそこにありたい。このような欲はなんというのだろう。何者かになりたいと思うと同時に、何者でもありたくないと願う。それは責任から逃れたいというだけの話ではない。私は誰ともかかわらず、ただそこにありたい。人であることを捨てたい。
・知性について考える。知的であることは美学だ。私は自らの思うところの美しさを守るために学んでいる。社会貢献のためではない。だから、勉強していることをほめられると変なきもちになる。たしかに勉強は偉いことであるが、私の勉強はただ自分の欲望のためにしているものだ。何も生み出さない。何も生み出すつもりがない。私は生まれ持った脳を回すのがおもしろくて勉強しているだけなので、ドパガキとあるいは同じである。
・本を読むことも同様に、読みたくて読んでいるだけだ。私は小説も自己啓発もビジネス書も学術書も古典も詩歌もなんでも読む。読書好きには自己啓発本やビジネス書を腐す者も多いが、私は好んでいる。どのような本もおもしろく読めるときはおもしろいし、おもしろくないときはおもしろくない。人の分けたカテゴリはしょうもない。結局は自分がどう読むかでしかない。読むに耐えない本はそれらの類でなくとも腐るほどある。
・この頃もまた、物語性について考える。われわれが喜んで消費を続けているエンタメには、ナラティブが存在する。物語はヒトの欲望と切っても切れない関係にある。消費に根付いている。人は言葉の背景に文脈を見るし、われわれはみな文脈をおいしく咀嚼する生き物である。
だから、おそろしい。生きることそのものが文脈として、物語として消費されている世界が怖い。そして、われわれ配信者・発信者は自ら望んで自身の物語性を誇示し、提供する。私たちは消費されなければならない。消費者に、見つめてもらわなければならない。そうでなければ存在することができない。私たちは「何者か」でありたいと願い、受肉し、聞き手によって「何者か」であらしめる。それが双方の願いだ。ウィンウィンな世界だ。
私たちは消費できる存在を求め、私たちは消費に値する存在であり続ける。
・にんげんをやめられますよ/うに
