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藤原鎌足 —設計者の生涯—④

    第四部 名

    白村江。手本とした国に、海の上で敗れる。設計者が生涯ただ一つ設計しきれなかったもの——我が子の死を前に、彼は「礎」という言葉を失う。そして最期、道具として選んだはずの男に、救われる。

    ───────────

    ◆ 第十二章 海(うみ)

     一 西から来た報せ

    定恵を乗せた船が、西の水平線に消えてから、幾年かが過ぎた。

    その同じ西の海の彼方から、こんどは凶報がもたらされた。

    百済が、滅びた。

    海を隔てた半島の、倭と最も深い縁で結ばれていた国。古くからこの島へ、文字を、仏を、技を、絶え間なく送り続けてくれた、文明の母なる国。その百済が、唐と新羅の連合軍に攻められ、王都を陥とされ、国王は唐へ捕らえられていった。

    これは、ただの隣国の滅亡ではなかった。

    唐が——あの、鎌子が手本とし、いま定恵が学んでいる、あの大帝国が——ついに海を渡って、すぐ隣の半島まで、その力を及ぼしてきた。百済の次はどこか。海の向こうから、唐の影が、この島を覗き込みはじめていた。

    そして、その百済の遺臣たちから、倭の朝廷へ、救援を求める使者が来た。我らとともに百済を復興してほしい。王子を返してほしい。兵を送ってほしい、と。

    朝廷は、これに応じることを決めた。

    なぜ、応じたのか。百済との古い恩義もあった。だが、それ以上に——唐の勢力が、すぐ隣まで迫ることへの恐れがあった。半島がまるごと唐と新羅のものになれば、次は海を渡って、この島が狙われる。百済を防波堤として、半島に倭の足場を残しておかねばならぬ。

    国家の存亡を賭けた、決断であった。

     二 女帝の船出

    このとき、位にあったのは、斉明天皇であった。

    かつて、皇極天皇として、あの旱の夏に雨を呼び、そして我が子・中大兄が入鹿を斬るのを見て顔をそむけて去った、あの女帝である。一度は位を退いたが、孝徳天皇の崩御ののち、再び位に即いていた。

    その斉明が——驚くべきことに——自ら、筑紫へ出征した。

    齢はすでに六十を超えていた。当時としては、紛れもない老女である。その身で、難波から瀬戸内の海を渡り、九州の筑紫まで、はるばると軍を率いて下った。

    これは尋常なことではない。なぜ、老いた女帝がみずから、戦の最前線に近い筑紫まで下らねばならなかったのか。

    ここに、あの「替わらぬ血」の思想が現れている。

    鎌子が、難波の夜に僧旻に語ったことを思い出してほしい。倭の頂には、天つ神の血を引く、ただ一つの血筋を戴く。その血こそが、人を束ねる、と。

    国家の存亡を賭けた、未曾有の大遠征。氏も、身分も、地方もばらばらなこの国の人々を、一つの戦に駆り立てる。それには、神に通じる、あの血が要った。理屈や命令では、人は命を賭けぬ。だが、神なる血を引く帝がみずから海辺に立てば。その血の権威が、ばらばらな氏を、辛うじて一つの方向へ向かせる。

    老いた斉明の船出は、その血の権威の、最後の発露であった。

    そのとき、女帝に従った皇女が、一首の歌を詠んだと伝えられる。熟田津という港で、月を待ち、潮を待って、いざ漕ぎ出そう、と。出征を前にした、高揚と不安の入り混じった、美しい歌である。船団は、月の光を浴びて、潮に乗り、西へ、西へと進んでいった。

    だが、その船出の高揚も、長くは続かなかった。

    筑紫に着いて、ほどなく。斉明天皇は、朝倉の宮で、急に崩じてしまったのである。

    遠征の、その途上で。頂の血が、突然失われた。

     三 即かぬ皇子

    女帝の死で、軍の頂が空いた。

    ここで、中大兄がどうしたか。彼は——即位しなかった。

    母が死に、位は目の前に空いている。国は未曾有の大戦のさなかにある。誰よりも頂に立つべき皇子が、すぐそこにいる。それでも、彼は帝の位に即かなかった。皇太子のまま、称制——位に即かぬまま政を執り、戦を指揮するという、異例の形を選んだ。

    なぜか。

    ここで、あの乙巳の変の直後を思い出してほしい。

    蘇我を倒したあと、皇極が我が子に位を譲ろうとしたとき、中大兄は鎌子の進言でこれを固辞した。「いま即位なされば、人は位欲しさに入鹿を斬ったと申します。急いで掴んだ位は穢れまする」——そう、鎌子は説いた。

    あれから十数年。中大兄は、なおその教えを守り続けていた。

    母の死のどさくさに紛れて、位に即く。そんなことをすれば、人はまた言うであろう。母の死を待っていたかのようだ、と。位は、急いで掴めば穢れる。

    そして、もう一つ。これだけの大遠征を始めておいて、もし敗れたら。その敗北を、即位したばかりの帝が背負うことになる。位を、敗戦で穢すことになる。

    中大兄は、位を空けたまま、戦に臨んだ。勝っても負けても、帝の位そのものは傷つかぬように。頂の血は、汚さぬように。

    鎌子の教えは、この皇子の骨の髄まで染み込んでいた。

    だが、その慎重さも、海の上で起きることを変えることはできなかった。

     四 寄せ集め

    倭は、大軍を送り出した。

    二万七千の兵。八百艘とも言われる船団。当時のこの国としては、未曾有の大兵力であった。海を埋め尽くすほどの船が、百済の地を目指して進んでいった。

    数の上では、圧倒的に見えた。

    だが、その大軍の中身が、問題であった。

    二万七千の兵は、どこから来たか。各地の豪族たちが、それぞれに率いてきた兵であった。あの豪族が自分の領地から何百。この豪族が自分の民から何百。そうやって寄せ集められた、兵の集まりであった。

    つまり、これは一つの軍ではなかった。幾十もの、小さな氏の軍の寄せ集めであった。

    それぞれの兵は、それぞれの氏の長に従う。氏の長は、それぞれの思惑で動く。全体を貫く、ただ一つの指揮系統がなかった。号令一下、全軍が一つの意思で動く——そういう軍ではなかったのである。

    なぜ、そうなるのか。土地と民が、まだ豪族のものだったからである。

    改新の詔は、発せられた。公地公民を謳った。だが、第九章で見たとおり、それはまだ紙の上のことであった。豪族は依然として、自分の土地と、自分の民を握っていた。だから、兵もまた豪族の私的な兵であった。国の兵ではなかった。

    鎌子が変えようとして、まだ変えきれていなかった、この国の古い形。氏が土地と民と兵を私的に握るという、あの形。それが、この大遠征の軍の姿に、そのまま現れていた。

    そして、海の向こうで彼らを待っていたのは——まさに、その古い形をすでに克服した、新しい国の軍であった。

     五 白村江

    唐の軍は、違った。

    唐は、均田の上に立つ、律令の国であった。土地は公のもの。民は戸籍に記され、国が直に把握する。兵は、その民から、定められた仕組みによって徴される。国の兵である。一人の将の号令で、全軍が一つの意思のように動く。

    南淵請安が、かつて塾で語ったこと。入鹿が「あれは強い軍を作る鎧だ」と看破したこと。唐の律令の、その正体が、いま海の上で剥き出しになる。

    戦いは、白村江という、川が海に注ぐ、その河口で起こった。

    倭の船団は、八百艘。対する唐の船は、百七十艘。数では、倭がはるかに勝っていた。

    だが。

    倭の軍は、軍議らしい軍議も十分にせぬまま、ただ数を恃んで、唐の船陣へ突っ込んでいった。我先にと、それぞれの氏の船が、ばらばらに。

    唐の軍は、待ち構えていた。整然と陣を組み、倭の船団を左右から挟み込んだ。

    倭の船は、四度突撃した。四度とも、跳ね返された。

    そして、火が放たれた。

    唐の軍が射かけた火矢が、ひしめき合う倭の船に次々と燃え移った。逃げ場はなかった。船と船とがぶつかり合い、身動きが取れぬところへ、炎が走った。

    『日本書紀』は記す。須臾にして——たちまちのうちに、官軍敗績れぬ、と。唐側の記録は、より具体的である。其の船、四百艘を焚く、と。

    四百艘。倭の船団の半分が、焼かれた。

    白村江の海は、燃える船の炎と、おびただしい兵の屍で埋まった。海の色が赤く染まったという。

    しかも、この河口は、潮の干満の差が激しい土地であった。干潮になれば、海の底が現れる。突っ込んでいった倭の船は、引き潮とともに浅瀬に乗り上げ、身動きが取れなくなった。動けぬ船は、ただ火の的であった。

    地の利も、知らなかった。

    寄せ集めの大軍は、一日にして崩れ去った。

     六 手本と、刃と

    ここに、この物語の最も苦い皮肉の一つがある。

    鎌子は、唐を手本とした。唐の律令を、唐の仕組みを、この国に移植しようとした。その、手本としたまさにその国に。倭は、海の上で叩き潰された。

    なぜ敗れたのか。答えは明らかであった。

    唐は、律令によって一つにまとまった、国の軍を持っていた。倭は、まだ氏の寄せ集めの、私的な兵の集まりにすぎなかった。

    つまり、倭が敗れたのは、まだ十分に「唐のように」なれていなかったから、であった。

    鎌子が改新で目指したものが、まだ実現していなかったから。土地と民を公のものとし、国が直に兵を持つ。あの、唐に学んだ仕組みが、まだ絵に描いた餅であったから。だから、肝心の戦で、ばらばらの寄せ集めが、まとまった国の軍に敗れた。

    手本とした国に、敗れる。それは、鎌子の改新が、まだ道半ばであることの、これ以上ない証明であった。

    そして同時に、それは、改新をこれから先、何としても完成させねばならぬという、血で書かれた督促状でもあった。

    唐のようにならねば、唐に滅ぼされる。

    中途半端に唐を学んだ国は、海の上で燃えた。ならば、徹底して唐のようにならねばならぬ。土地を完全に公のものとし、民を一人残らず数え、国が直に動かせる強い軍を作らねばならぬ。さもなくば、次はこの島が白村江になる。

    第三章で、入鹿が看破した、あの言葉。唐の仕組みは、強い軍を作るための鎧である、と。鎌子が理想として見ていたものの、その底にあった冷厳な真実。それが、四百艘の燃える船となって、海の上に突きつけられた。

     七 燃える幻想

    そして、もう一つ。この海戦が断ち切ったものがあった。

    それまで、倭は半島に足場を持ち、海の向こうの国々と深く関わってきた。任那の昔から、百済との縁から、倭は半島の情勢に深く食い込んでいた。半島は倭にとって、文明の入口であり、また影響力を及ぼすべき庭でもあった。

    白村江で、その関わりが燃え尽きた。

    四百艘の船とともに、倭が半島に抱いてきた古い幻想が焼けた。もはや、海を渡って半島に手を伸ばすことはできぬ。倭は半島から撤退するほかなかった。多くの百済の遺民を船に乗せて。彼らは亡国の民として、この島へ流れてきた。

    これより後、この島国は大きくその姿を変える。

    外へ外へと向かっていた目を、内へ転じる。半島への関わりを断ち、島の内側に引きこもる。そして、唐・新羅が攻めてくるという恐怖に駆られて、九州から畿内まで、各地に山城を築き、烽を上げる仕組みを設け、防人を置く。島をまるごと要塞に変えていく。

    外征の挫折が、内なる国家の建設へと、人々の目を向けさせた。皮肉なことに、白村江の敗北こそが、この島国を初めて一つの「国」として固める、最大の契機となった。

    恐怖が、国を作った。

    そして、この時期から、倭は対外的に新しい名を名乗りはじめる。日本、と。

    それまで、大陸の人々が「倭」と呼んでいたこの島国が、自らを日の本の国と定義し直す。海の彼方の脅威を前にして、初めて、この島は自分が何者であるかを、外に向かって宣言したのである。

    鎌子が、蘇我を倒し、改新で建てようとした「一つの国」。それは、皮肉にも、彼が手本とした唐に、その手本とした律令の不徹底ゆえに敗れるという、苦い経験を通して——初めて、現実の、切実な形を取りはじめた。

     八 海の向こうの子

    この海戦のあいだ。鎌子の子・定恵は、どこにいたか。

    唐の都、長安にいた。

    倭がその全力を挙げて戦い、そして敗れた、まさにその相手の国の心臓部に。仏の経を学びながら。

    これほどねじれた話もない。

    父・鎌子は、唐に学んで国を作ろうとしている。その唐と、いま倭は海の上で戦っている。そして、その父のただ一人の息子は——その敵国の都で暮らしている。

    定恵は、白村江の報せを、長安で聞いたであろうか。聞いたとすれば、彼は何を思ったか。自らが学ぶこの大国が、自らの父の国を海の上で焼き払った、その報せを。

    記録は、何も語らない。

    だが、父が海の向こうへ逃がした子は、はからずも、父の国を打ち破った国のただ中にいた。第十一章で、私はこう書いた。父はこの血と謀に塗れた島から、せめてこの子だけは遠くへ逃がしてやりたかったのかもしれぬ、と。

    その「遠く」が、いまや、父の国の敵国であった。

    安全な場所など、どこにもなかったのかもしれぬ。海の向こうへ逃がしたつもりが、そこは父が作ろうとした国を燃やす国であった。設計者は、我が子を安全な場所へ置いたつもりで、最も大きな戦火の、その震源地へ送り込んでいたのである。

    その子が、やがて帰ってくる。

    白村江から二年の後。十二年の留学を終えて、二十三になった定恵が、唐の使節の船に乗って、この島へ帰ってくる。父が待ち焦がれた、ただ一人の跡取りが。

    だが、その帰還は、再会の喜びでは終わらなかった。

    設計者が、生涯ただ一つ設計しきれなかったもの。その最も苦い結末を、次に語らねばならない。

    ───────────

    ◆ 第十三章 帰(き)

     一 帰ってきた

    白村江の敗戦から、二年。

    天智天皇四年。といっても、中大兄はまだ正式に位に即いてはいない。称制のまま政を執っていた、その四年目。西暦でいえば六六五年。

    唐の使節が、この島へやってきた。

    白村江で倭を打ち破った、その唐である。勝者が、敗者の地へ使いを送ってきた。戦後の処理のため、あるいは倭の様子を探るため。ともあれ、唐の劉徳高という使者が、二百人を超える一行を率いて、海を渡ってきた。

    その船に、一人の倭人が、乗っていた。

    定恵である。

    十一で海を渡り、十二年。長安で仏の経を学び、玄奘の弟子に師事した、鎌子のただ一人の息子。二十三になって、ようやく故国の土を踏んだ。

    父が、待ち焦がれた帰還であった。

    ただ一人の跡取り。途方もない名を与え、唐の知のすべてを託して送り出した子。その子が、唐の最も深い学を身につけて、いま帰ってきた。

    鎌子は、五十二になっていた。

     二 再会

    父と子の再会の場面を、記した文はない。だが、想像することは許されよう。

    十一で別れた子は、二十三の青年になっていた。

    鎌子が最後に見たのは、僧衣に身を包んだ、まだ幼さの残る子供であった。それが、いま目の前にいるのは、十二年の異国の歳月を経た、一人の学僧であった。背は伸び、顔つきは大人のものになり、その物腰には、長安で磨かれた、深い学の気配が漂っていたであろう。

    「——大きくなったな」

    鎌子は、そう言ったかもしれぬ。

    あれほど多弁に、あれほど明晰に、人を説き、謀を組み、図面を引いてきた男が。我が子を前にして、口をついて出たのは、そんな、ありふれた一言であったかもしれぬ。

    設計者は、我が子に対してだけは、設計者でいられなかった。第十一章で、私はそう書いた。盤上のすべてを思いどおりに動かしてきた男が、この子のことになると、心の図面すら引けなかった、と。

    その子が、帰ってきた。

    無事に。海の藻屑にもならず。敵国の都で命を落とすこともなく。あの、二度と会えぬかもしれぬと送り出した子が、立派に成長して、目の前にいる。

    鎌子の胸に去来したものが、どれほどのものであったか。理を尽くして生きてきたこの男の、その理の底にあった、名づけえぬ何か。それが、このとき初めて、堰を切ったかもしれぬ。

    そして、この子になら。

    ふと、鎌子は思ったかもしれぬ。この子になら、すべてを継がせられる。自分が引いた図面を。まだ道半ばの、あの改新を。唐に学び、唐を知り尽くしたこの子なら。白村江で証された、あの「唐のようにならねば滅ぶ」という宿題を。この子になら、託せる。

    長い、長い設計の果てに。ようやく、図面を渡せる相手が、帰ってきた。

     三 幾日も経たぬうちに

    だが。

    定恵は、帰国してほどなく、死んだ。

    幾月も経たぬうちに、であった。二十三歳。あれほど待たれ、あれほどの未来を背負って帰ってきた青年は、故国の土を踏んで、いくらも経たぬうちに、世を去った。

    あまりに、突然であった。あまりに、早かった。

    海を渡る長旅の疲れか。異国の水土から、急に故国の風土に戻った、その身体の変調か。あるいは——

    毒殺だ、という説が、当時から、ささやかれた。

    『藤氏家伝』。藤原の一族が、後に自らの手で編む、その家の歴史書。そこに、定恵の死をめぐって、恐るべきことが記されている。

    定恵を妬んだ者がいた。その者が、毒を盛った、と。

    誰が。なぜ。

     四 毒の影

    定恵は、ただの帰国した学僧ではなかった。

    彼は、鎌子のただ一人の跡取りであった。唐の最も深い知を身につけて帰ってきた、新しい世の設計を継ぐべき器であった。鎌子が築きつつある、その権勢のすべてを、いずれ受け継ぐはずの男であった。

    そして、思い出してほしい。彼の出生にまつわる、あの暗い噂を。

    真人は、本当に鎌子の子なのか。その体には、天皇の血が流れているのではないか。孝徳の、あるいは中大兄の——。第十一章で触れた、あの噂である。

    もし、その噂が事実であれば。

    定恵は、鎌子の跡取りであると同時に、皇位に連なりうる血を引く者でもあった。唐仕込みの学識と、高貴な血と。その両方を備えた青年。それは、ある者にとっては、計り知れぬ脅威であったかもしれぬ。

    誰にとって、脅威か。

    定恵が栄えれば、その地位を脅かされる者にとって。あるいは、皇位の継承を、少しでも単純にしておきたい者にとって。

    毒を盛ったのが誰であったのか。それは、ついにわからない。中臣の家の内で、跡目を争う者がいたのか。あるいは、もっと高いところで、この高貴な血を引く青年を、危険と見なした者がいたのか。

    ここで、目を背けてはならぬ、一つの可能性がある。

    第十一章で、私はこう書いた。高貴すぎる血は、この国では危うい。鎌子は、その子を僧にして海の彼方へ送ることで、皇位の争いから遠ざけ、守ろうとしたのかもしれぬ、と。

    その子が、帰ってきてしまった。

    危険な血を引く青年が、唐の権威と学識をまとって、政の中枢へ戻ってきた。それは、鎌子が遠ざけようとした、まさにその危険が、戻ってきたということでもあった。

    定恵を殺したのは、誰か。

    考えたくはないが、考えねばならぬ。それが、この物語の、最も暗い淵である。

    鎌子が、生涯をかけて築いてきた、この新しい世。人を駒として動かし、邪魔な者を取り除き、計算によって組み上げてきた、この権力の機構。その機構そのものが、その冷たい論理そのものが、危険な血を引く一人の青年を、許さなかったのかもしれぬ。

    設計者が作り上げた仕組みが、設計者のただ一人の子を、呑み込んだ。

    もし、そうであるならば。

     五 知らせ

    定恵の死が、鎌子にどう告げられたか。記録は、何も語らない。

    だが、その瞬間を、想像せずにはいられない。

    知らせは、おそらく、淡々と告げられたであろう。誰かが、鎌子のもとに来て、頭を垂れて、告げる。御子息が、お亡くなりになりました、と。

    鎌子は、それを、どう聞いたか。

    この男は、無数の死を見てきた。いや、見てきただけではない。招いてきた。

    入鹿。あの雨の日、雨に濡れた亡骸。蝦夷。甘樫丘の炎。古人大兄。出家してなお討たれた皇子。石川麻呂。山田寺で妻子八人とともに自害した、かつての同志。遠智娘。父の死に錯乱して狂い死んだ、あの身代わりの娘。

    幾百の死。その一つ一つを、鎌子は、設計者として、呑み込んできた。

    これは礎だ、と。新しい世を建てるための、避けられぬ犠牲だ、と。一人が死ねば、その死を、より大きな目的のなかに位置づける。そうやって、彼は死を処理してきた。死を、図面のなかの一つの数として、扱ってきた。

    それが、設計者の流儀であった。情ではなく、理。一つの死を、全体の意味のなかに、溶かし込む。

     六 礎と、呼べぬ

    ならば、今度も。

    我が子の死も、同じように呑み込めばよい。これも礎だ、と。新しい世を建てるための、避けられぬ——。

    鎌子は、おそらく、そう自分に言い聞かせようとした。いつものように。これまで幾百の死をそうしてきたように。この死も、意味のなかに、位置づけよう、と。

    定恵の死は、礎だ。あの子は、より大きなもののために——。

    だが。

    その言葉が、続かなかった。

    礎、という、その言葉が。これまで幾百の死を呑み込んできた、その万能の言葉が。我が子の死を前にして、口のなかで、崩れた。

    礎。それは、誰かのための、何かのための、犠牲を意味する言葉であった。だが——あの子は、何のために死んだのか。

    入鹿は、改新のために死んだ。石川麻呂は、新しい秩序のために死んだ。そう、位置づけることが、できた。理屈は、ついた。

    だが、定恵は。

    あの子は、何のために。唐の知を学んで帰ってきて、その学を一度も使うことなく、何のために、死んだのか。誰の礎に、なったというのか。

    ならなかった。

    あの子の死は、何の礎にもならなかった。ただ、奪われた。意味もなく。あるいは——意味があったとすれば、それは、鎌子自身が築いた、この冷たい権力の機構が、危険な血を排除したという、その意味だけであった。

    我が子は、父の作った世界に、殺されたのかもしれぬのだ。

    それを、礎と呼べるか。

    鎌子は、礎、と言おうとして、言えなかった。

    幾百の死を「礎」の一語で達観して呑み込んできた男が。生涯でただ一度、その言葉を、最後まで言うことができなかった。

    口の中で、その言葉は、形をなさず、崩れていった。

     七 設計者でなくなる

    ここに、この物語の、一つの頂がある。

    中臣鎌子という男は、設計者であった。

    人を駒として動かし、死を数として処理し、すべてを図面のなかに位置づける。一つの死を、より大きな目的のなかに溶かし込むことで、彼は前へ進んできた。恥も、穢れも、犠牲も、すべてを「より大きなもののため」という一語で、呑み込んできた。

    その能力こそが、彼を、ここまで来させた。だからこそ彼は、神を穢し、同志を見捨て、なお壊れずに、新しい世を建ててこられた。

    だが、その能力が。その、死を意味に変える力が。我が子の死を前にして、初めて、働かなかった。

    礎と呼べなかった、その瞬間。

    鎌子は、設計者でなくなった。

    我が子の死だけは、図面に位置づけられなかった。意味のなかに、溶かし込めなかった。それは、ただの、底のない喪失であった。何のためでもない。誰の礎でもない。ただ、奪われた。

    人を、駒として見ることができた男。死を、数として扱えた男。その男が、たった一つ、駒にも数にもできなかったもの。

    それが、我が子であった。

    第四章の、身代わりの娘。第十一章の、海を渡る子。設計図からはみ出す、人の心の余白。鎌子が生涯、ついに設計しきれなかったもの。その余白が、いま、最も残酷な形で、彼の前に口を開けた。

    設計者は、人の心だけは、設計できなかった。

    そして、その設計できなかったものが。我が子という、たった一つの余白が。失われたとき。彼は初めて、自分が築いてきたものの、その冷たさの、本当の姿を見たのかもしれぬ。

    自分は、こういう世界を作ったのだ。危険な血を、意味もなく呑み込む世界を。一人の青年を、ただ「危うい」という理由で消してしまえる世界を。その世界を、自分が、設計したのだ。

    そして、その世界は、容赦なく、自分の子を呑んだ。

     八 誄(しのびごと)

    定恵の死を悼んで、一篇の文が遺されている。

    定恵の誄。死者を悼む文である。道賢という僧が、これを作ったと伝えられる。そこには、この若き学僧の才を惜しみ、その早すぎる死を悼む言葉が、連ねられている。

    唐に学び、玄奘の弟子に師事し、深い学識を身につけた、得難い人材であった。それが、故国に帰ってわずかの後に、世を去った。惜しんでも、余りある、と。

    公の言葉である。鎌子の、父としての嘆きが、そこに直に記されているわけではない。

    だが、考えてみてほしい。

    この時期、鎌子は、政の中枢にあった。白村江の敗戦後の、国家の立て直し。唐・新羅への備え。山城の構築。そして、まだ道半ばの改新を、何としても進めねばならぬ、その重責。

    やるべきことは、山のようにあった。一日とて、立ち止まってはいられぬ。

    その渦中で、彼は、ただ一人の子を喪った。

    そして、おそらく彼は、立ち止まらなかった。立ち止まれなかった。喪に服し、嘆きに身を委ねる暇すら、彼にはなかった。翌日も、その翌日も、彼は政務の卓に着き、図面を引き続けたであろう。何事もなかったかのように。

    それが、どれほどのことであったか。

    我が子を喪い、その死を礎とも呼べず、しかしその喪失を抱えたまま、なお国家の設計を続ける。崩れた「礎」という言葉を、胸の底に呑み込んだまま。

    鎌子は、誰にも、その嘆きを見せなかった。

    あの、神を穢す覚悟を、灯火の前でただ一人引き受けたように。あの、弓を引けなかった恥を、生涯口にしなかったように。この、我が子の死もまた、彼は、ただ一人で、抱えた。

     九 もう一人の子

    ここで、書いておかねばならぬことがある。

    鎌子には、もう一人、息子がいた。

    定恵が死んだ、その頃。あるいは、その少し前。鎌子の次男が、生まれていた。あるいは、まだ幼い子として、いた。

    後に、不比等と名乗る子である。

    比ぶもの無し、という名。定恵に「真人」という名を与えた父は、この次男には「比ぶもの無し」という、これまた途方もない名を託すことになる。

    定恵という、唐仕込みの学識と高貴な血を備えた、まばゆい跡取りを喪ったあと。鎌子の望みは、この次男に、託されることになる。

    そして、この不比等こそが、父・鎌子の引いた図面を、最後まで完成させる男となる。

    父が道半ばで遺した改新を、律令という完成した形にまで仕上げ。父が始めた、歴史を書き換えるという事業を、あの、甘樫丘で焼けた国記の、その空白を埋めるその事業を、『日本書紀』の編纂という形で、完成させる。

    藤原という、千年の権勢の礎を築くのは、この不比等である。

    つまり、鎌子の図面は、結局、継がれた。完成された。

    だが、それは、定恵によってではなかった。

    唐に学び、父が最も深く期待し、その死を礎とも呼べなかった、あの長子によってではなく。喪われた長子の、その影を埋めるように現れた、次男によって。

    歴史は、図面どおりに完成した。だが、それを完成させたのは、父が選んだ器ではなかった。

    設計者の図面は継がれた。しかし、設計者が我が子に託そうとした、そのただ一つの願いだけは。あの「大きくなったな」の一言に込められた、名づけえぬ何かだけは。定恵の死とともに、永遠に、宙に消えた。

    それは、不比等が完成させる、いかなる律令にも、いかなる歴史書にも、書き込まれることのないものであった。

     十 残された設計者

    定恵を喪って、鎌子は、なお生きた。

    四年ほどを、なお生きることになる。

    その四年を、彼は、どう生きたか。

    我が子の死を抱えたまま、彼は、改新の総仕上げに向かう。白村江の敗北が突きつけた宿題、すなわち、徹底して唐のようにならねば滅ぶという、あの血で書かれた督促状に、応えていく。

    民を、数える。全土の民を初めて記す戸籍、後に庚午年籍と呼ばれるものが、この時期に作られる。豪族から、土地を、民を、さらに公のものへと収めていく。氏の寄せ集めではない、国の軍を作るための、その土台を。

    白村江で燃えた四百艘の船。その炎が照らし出した「未完の改新」を、鎌子は、残りの命で、少しでも前へ進めようとした。

    我が子を呑み込んだ、その同じ冷たい機構を。なお、強く、確かなものにするために。

    これを、どう見るべきか。

    我が子を喪ってなお、その我が子を呑んだかもしれぬ仕組みを、強化し続ける父。それは、底知れぬ非情にも見える。

    だが、別の見方もできる。

    もはや、彼には、それしか残されていなかったのではないか。

    定恵を喪い、「礎」という言葉を失った男に。死を意味に変える、その力を失った男に。残されたのは、ただ、図面を引き続けることだけであった。手を動かし続けることだけが、あの、礎とも呼べぬ底のない喪失から、目を逸らす、ただ一つの方法であった。

    設計者でなくなった男が、それでも、設計を続ける。

    なぜなら、設計をやめてしまえば。あの、口の中で崩れた言葉の、その崩れた断面と、正面から向き合わねばならなくなるからだ。

    鎌子は、それに耐えられなかったのかもしれぬ。だから、彼は働いた。死ぬまで。我が子の死を、ただ一人胸の底に抱えたまま。

    そして、その死は、もう、すぐそこまで来ていた。

    天智天皇八年。西暦六六九年。

    定恵を喪ってから、四年。

    設計者の、最後の年が、来る。

    そこで、彼は、生涯ただ一度、自らが道具として選んだはずの男に、救われることになる。

    それを、最後に、語らねばならない。

    ───────────

    ◆ 第十四章 名(な)

     一 最後の年

    天智天皇八年。西暦六六九年。

    中大兄は、もはや皇太子ではない。前の年、ついに正式に位に即いた。天智天皇である。

    あの、乙巳の変の直後に、鎌子の進言で即位を固辞してから、二十年あまり。母の死のさなかにも即かず、白村江の敗戦のさなかにも即かなかった、あの慎重な皇子が。ようやく、頂に立った。位を、ついに、穢さずに。

    そして、その傍らには、なお鎌子がいた。

    中臣鎌子。五十六になっていた。

    槻の木の下で、二十八の彼が、十八の中大兄の沓を拾ってから——二十五年が経っていた。

    あの日、彼は、この若者を道具として選んだ。「刺せる男」を。自らの図面を実現するための器を。

    二十五年。長い歳月であった。

    そのあいだに、彼らは、蘇我を倒し、都を遷し、改新の詔を発し、同志を葬り、白村江に敗れ、国を作り変えてきた。鎌子は、ただ一人の長子をも喪った。

    二人は、ともに老いた。道具と、その使い手は。

    だが、その秋。鎌子は、病に倒れた。

     二 病の床

    何の病であったか、記録は、はっきりとは語らない。

    一説には、落馬がもとであった、とも。馬から落ち、その傷がもとで床に就いた、と。

    設計者は、生涯、自らの手では血を流せなかった男であった。弓を引けず、手が震えた男であった。その男が、最期は、馬から落ちるという、あっけない出来事で、死の床に就く。

    英雄的な最期ではなかった。戦場で倒れたのでも、政敵に斃されたのでもない。ただ、老いた体が、馬から落ちた。

    鎌子は、病の床に伏した。秋であった。

    そして、その病が篤いと聞いて——天智天皇が、みずから、見舞いに訪れた。

     三 見舞い

    帝が、臣下の病床を、みずから見舞う。

    これは、尋常なことではない。帝は、穢れを最も忌む。死は、最大の穢れである。病で死につつある者のもとへ、帝がみずから足を運ぶ。それは、当時の常識では、ありえぬことであった。

    だが、天智は、来た。

    かつて、槻の木の下で沓を拾われた、あの若者が。いまや、この国の頂に立つ帝となって。死につつある、老いた設計者のもとへ。

    天智は、病床の鎌子を見舞い、こう言ったと伝えられる。

    「天の道は、仁ある者を輔けるという。なぜ、これほどの仁を、天は輔けてくれぬのか」

    天道は、仁者を輔く。善き者には、天が味方する。その言葉のとおりであれば、お前のような者こそ、天が助けるべきではないか。なぜ、天は、お前を死なせるのか。

    帝の、嘆きであった。

     四 言葉の裏

    この、天智の言葉を、どう読むべきか。

    「天の道は、仁ある者を輔ける」。これは、儒の教えである。あの、南淵の塾で、請安が説いた、唐の思想である。

    天命。徳ある者が天に輔けられ、天下を得る。徳を失えば、天命が去る。易姓革命の、その根本にある思想。

    天智は、その言葉で、鎌子を悼んだ。お前は仁者だ、徳のある者だ、と。

    だが、ここに深い皮肉がある。

    鎌子は、まさにその「天命」の思想を、この国に入れることを拒んだ男であった。

    第八章を、思い出してほしい。難波の夜、僧旻が問うた。唐の天子のあり方も入れるのか、徳を失えば替えられる、あの易姓革命を入れるのか、と。鎌子は、答えた。入れぬ、と。替わらぬ血こそが、この国の頂だ、と。徳でも実力でも替えられぬ、ただ一つの血。それを頂に戴くと。

    その鎌子を、天智は、「天道は仁者を輔く」という、まさに唐の天命思想の言葉で、悼んでいる。

    二人は、唐に学んだ。同じ塾で。だが、鎌子は、唐の天命を拒み、替わらぬ血を選んだ。にもかかわらず、その死を悼む帝の口から出たのは、拒んだはずの、唐の天命の言葉であった。

    おそらく、天智自身は、その皮肉に気づいていない。ただ、心からの嘆きとして、その言葉を口にした。

    だが、聞いている鎌子は、どうであったか。

    死の床で、その言葉を聞いた設計者は、あるいは、かすかに笑ったかもしれぬ。天命など、ない。あるのは、替わらぬ血と、それを支える、人の作った仕組みだけだ。それを、誰よりも知っているのは、ほかならぬ自分であった。その自分の死を、天命の言葉で悼まれる。

    人は、自分の作ったものの、その本当の姿を、最後まで知らずに生きるものなのかもしれぬ。

     五 務め、無し

    鎌子自身は、死の床で、何を言ったか。

    一つの言葉が、伝えられている。

    「生きては軍国に務無し。死しては何ぞ徒に追わん」

    生きているあいだ、自分は、軍事においても国政においても、何の功績もなかった。死んだあとに、いたずらに葬礼を厚くするには、及ばない。

    これが、あの中臣鎌子の、最後の言葉とされるものである。

    蘇我を倒し、改新を成し、二十五年にわたってこの国の設計をしてきた男が。死の床で、自分には何の務めもなかった、と言う。

    謙遜であろうか。

    そうではない、と私は思う。

    これは、あの白村江を見た男の、言葉である。

    軍国に務無し。軍事と国政に、功なし。鎌子は、白村江で、見たのである。自らの改新が、まだ道半ばであることを。氏の寄せ集めの軍が、唐の国の軍に、海の上で焼かれるのを。四百艘の、燃える船を。

    自分は、唐に学んで国を作ろうとした。だが、間に合わなかった。手本とした国に、敗れた。徹底して唐のようにならねば、と分かっていながら、自分の生のうちには、それを成し遂げられなかった。

    戸籍を作り始めた。豪族から土地を収め始めた。だが、「始めた」だけであった。完成は、見られぬ。あの、燃える船が突きつけた宿題に、自分は、答えきれなかった。

    軍国に務無し。

    それは、謙遜ではなく、設計者の、冷徹な自己採点であった。図面は引いた。だが、建物は、まだ建っていない。その途上で、自分は死ぬ。

    そして、もう一つ。

    この言葉の底には、おそらく、もう一つの、もっと深い「務無し」があった。

    我が子を、守れなかった。

    定恵を。あの、ただ一人の長子を。海の彼方へ逃がし、無事に帰ってきたその子を、守りきれなかった。あの子の死を、礎とも呼べなかった。設計者でありながら、ただ一人、我が子の運命だけは、設計できなかった。

    軍国に務無し。死しては何ぞ徒に追わん。

    幾百の死を招いた男が。その最期に、葬礼など要らぬ、と言う。

    それは、あるいは、こういうことであったかもしれぬ。

    これだけの死の上に、自分は立ってきた。入鹿の死。石川麻呂の死。遠智娘の死。そして、定恵の死。その自分が、厚く葬られる資格などあるものか。礎にすらできなかった我が子の死を抱えて、なお、自分だけが手厚く弔われることなど、あってよいはずがない。

    死しては、徒に追うな。

    それは、設計者の、最後の——そして、ただ一度の——自らへの、誄であったのかもしれぬ。

     六 名を、脱ぐ

    死の床の鎌子に、天智は、破格の贈り物をした。

    まず、大織冠を授けた。冠位の、最高の位。この国で、ただ一人、鎌子だけがこれを生前に授けられた、最高の栄誉である。

    そして、内大臣の位を授けた。

    さらに、新しい姓を賜った。

    藤原、という姓を。

    中臣鎌子は、死の床で、藤原鎌足となった。

    ここに、この物語の、最後の——そして、最も静かな——一つの帰結がある。

    中臣。それは、神を祀る家の名であった。天つ神と人とのあいだに立つ、という意の、古い古い名。鎌子が、生まれたときから背負ってきた、神祇の家の名。

    その名を、彼は、死の床で、脱いだ。

    藤原という、まったく新しい名を、賜って。

    考えてみれば、これほど象徴的なことはない。

    鎌子は、神を祀る家に生まれながら、神事の場で人を殺める謀を立てた男であった。神祇伯の位を拒み、祭壇では国は正せぬと、別の道を選んだ男であった。神を穢し、その穢れを生涯背負うと、灯火の前で覚悟した男であった。

    その男が、最期に、神祇の家の名を脱ぐ。

    中臣という、神に縛られた名を脱ぎ捨て、藤原という、何の神話も背負わぬ、新しい名を得る。

    それは、神を祀る家の男が、ついに、神の家から、完全に出た瞬間であった。

    そして、その「藤原」という名こそが、これから千年、この国の権力の中枢に君臨し続ける、あの一族の名となる。鎌子が脱ぎ捨てた古い神祇の名の代わりに得た、この新しい名が。

    藤原の姓を賜った、その翌日。

    鎌足は、世を去った。

    享年、五十六。

     七 道具に、救われる

    ここで、立ち止まらねばならない。

    鎌子は、中大兄を、道具として選んだ。

    槻の木の下で。「刺せる男」を。自らの図面を実現するための、器として。第一章で、私はそう書いた。情ではない、計算だ、と鎌子は自らに言い聞かせていた、と。

    道具と、使い手。鎌子は、その関係を、生涯、崩すまいとした。中大兄と同じ夢を見ながらも、その芽生えに、名を与えることを拒み続けた。これは計算だ、道具だ、情ではない、と。

    だが。

    その最期に。

    道具であったはずの男が、帝の身でありながら、穢れを忌むその身で、みずから死の床を見舞いに来た。「なぜ天は、これほどの仁を輔けぬのか」と嘆いた。最高の冠位を授け、内大臣の位を授け、新しい姓を与えた。

    これは、道具が、使い手にすることでは、ない。

    これは、人が、かけがえのない者にすることである。

    鎌子は、中大兄を道具として選んだ。だが、二十五年の果てに。その道具のほうが、鎌子を、ただの使い手としてではなく、一人のかけがえのない人間として、看取った。

    第六章を、思い出してほしい。あの、乙巳の変の雨の日。弓を引けなかった鎌子に、中大兄は言った。「お前は、図面を引け。手は、俺が汚す」と。あのとき、若者は、設計者の弱さを、責めなかった。当然のように、引き受けた。

    あれが、始まりであった。

    そして、最期。自らの手では、ついに何も汚せなかった設計者は、その、手を汚してくれた男によって看取られた。

    鎌子は、人の心だけは、設計できなかった。

    それは、彼の生涯の、限界であった。我が子の心も、設計できなかった。だから、定恵を喪った。

    だが、その、設計できなかった人の心が。設計しようとして、できなかった、中大兄との、あの名づけえぬ何かが。

    最期に、彼を、救った。

    道具として選んだはずの男との間に、いつのまにか芽生えていた、設計図の外のもの。鎌子が、生涯、名を与えることを拒んだもの。それだけが、幾百の死を招き、我が子すら守れなかったこの設計者の、最後の床を、温めた。

    設計できなかったものに、救われる。

    それが、この設計者の、生涯の、最後の逆説であった。

     八 大きくなった、な

    鎌足が世を去ったとき、天智は、深く嘆いたと伝えられる。

    声を上げて泣き、政務を止め、その死を悼んだ。

    頂に立つ帝が、一人の臣下の死に、これほど取り乱す。それもまた、尋常なことではなかった。

    二十五年前、槻の木の下で。十八の中大兄は、自分の沓を拾った、見知らぬ男の、その奇妙な拾い方に、何かを感じ取った。「お前、わざとだな」と。

    あのとき、二人は出会った。一人は、道具を求めて。一人は、引き上げてくれる者を求めて。

    利と利の、出会いであった。打算と打算の。

    だが、二十五年をともに歩んで。蘇我を倒し、国を作り、敗北を味わい、それぞれに子を持ち——天智もまた、この時期、多くを背負っていた——二人は、ただの道具と使い手では、なくなっていた。

    それを、二人とも、口にはしなかった。

    鎌子は、最期まで、「これは計算だ」という顔をしていたかもしれぬ。天智もまた、それを、言葉にはしなかったかもしれぬ。

    だが、帝の涙が、すべてを語っていた。

    あの、定恵が帰ってきたとき。鎌子が、ただ一言、「大きくなったな」としか言えなかった、あの場面を、思い出してほしい。あれほど明晰な男が、我が子を前にして、ありふれた一言しか、言えなかった。

    人の、最も深い思いは、言葉にならない。

    鎌子が、中大兄に対して抱いた、あの名づけえぬもの。それも、ついに、言葉にならなかった。「図面を引け、手は俺が汚す」。「天は、なぜ仁者を輔けぬ」。交わされた言葉は、どれも、その思いの、ほんの上澄みにすぎなかった。

    二人は、生涯、その思いに、名を与えなかった。

    与える必要が、なかったのかもしれぬ。

     九 虚像

    さて、ここで筆を、はるか後の世へと運ばねばならない。

    この物語の、本当の主題に、触れるために。

    藤原鎌足が世を去って、半世紀あまり。

    奈良の都で、『日本書紀』が編まれる。この国の、最初の正史。天地の始まりから説き起こし、歴代の天皇の事績を記す、壮大な歴史書である。

    その編纂を、深く担ったのは、誰であったか。

    藤原不比等。鎌足の、次男である。あの、定恵の死のあと、父の望みを託された、もう一人の子。「比ぶもの無し」という名を与えられた男。

    不比等は、父の図面を完成させた。改新を、大宝律令という完成した形に仕上げ、そして、この国が自らについて語る物語を、書いた。

    その『日本書紀』のなかで、乙巳の変は、どう描かれたか。

    専横をきわめた、悪逆の蘇我。それを討った、正義の中大兄と、中臣鎌子。私心なき、救国の義挙。そして、輝かしい、改新の始まり。

    我々が、長く信じてきた物語である。教科書が語ってきた、あの物語である。

    正義の始祖としての、藤原鎌足。

    だが、この物語をここまで読んできた者は、知っている。

    その「正義の物語」が、いかにして作られたかを。

     十 最大の、嘘

    思い出してほしい。

    甘樫丘で焼けた、『国記』。船恵尺が、火のなかから掴み出した、もう一巻。蘇我が語った歴史は、あの日、灰になった。そして、その灰の上に、勝者が、新しい歴史を書いた。第七章で、私はそう書いた。

    クーデターの本質は、剣で人を殺すことではない。殺したあとに、その物語を、独占することである、と。

    改新の詔。「郡」という、当時はなかったはずの字。後の世に、藤原の手で書き直された、その文面。すべてが、最初から計画どおりに進んだかのように整えられた、美しい青写真。第九章で、私はそう書いた。

    歴史を書く者は、過去を、自分たちが望む形に整える、と。

    それらは、すべて、一つのことを指している。

    藤原鎌足という「正義の始祖」の像。それ自体が——藤原の一族が、自らの権勢を正当化するために、書かせた物語なのである。

    考えてみてほしい。

    鎌足は、神を祀る家に生まれながら、神事の場を血で穢した男であった。三韓の調という神聖な儀式を、おそらくは偽ってまで、罠に仕立てた男であった。同志・石川麻呂を、用が済めば見殺しにした男であった。弓を引けず、自らの手では血を流せなかった男であった。

    その実像は、「正義の始祖」からは、ほど遠い。

    冷徹な設計者。目的のためには神をも穢す、謀略の人。それが、実像であった。

    だが、その実像を、藤原は、書かなかった。

    代わりに、私心なき忠臣、救国の英雄、改新の輝かしい始祖、という像を書いた。自らの祖を、美しく描くことで、自らの千年の権勢を、正当化したのである。

    ここに、この物語の、最大の、そして最後の、反転がある。

    我々が「正義の始祖・藤原鎌足」として知っているその像こそが——

    この物語が暴いてきた、数々の嘘の、その集大成。

    藤原鎌足という英雄像、それ自体が、藤原という一族が書かせた、最大の虚像なのである。

    剣を持つ者は、国を奪える。だが、国を国たらしめるのは、その国が、自らについて何を語り継ぐかである。第七章で、私はそう書いた。

    鎌足は、剣で——いや、図面で——国を奪った。そして、その子孫は、物語で、その奪取を、永遠の正義に書き換えた。

    我々が、千年のあいだ信じてきた「正義の始祖」。その像こそが、彼らの事業の、最も完璧な、最後の一手であった。

     十一 円環

    だが。

    歴史を書き換えた、その藤原の一族すら、知らなかったことが、一つある。

    いや、書き換えることの、できなかったものが。

    定恵である。

    唐に学び、帰国してほどなく毒に斃れた、あの長子。父が「礎」とも呼べなかった、あの子。藤原の正史のなかで、ほとんど語られることのない、あの、喪われた兄。

    その定恵が、最後に、一つのことを、した。

    父・鎌足の遺骸を、改葬したのである。

    定恵は、父より先に死んだのではなかったか、と訝る者がいるかもしれぬ。記録は、ここで、ひどく混乱している。定恵の没年も、改葬の年も、史料によって食い違う。あるいは、この改葬の話そのものが、後の世の伝説なのかもしれぬ。

    だが、伝説は、しばしば、事実よりも深い真実を語る。

    その伝説は、こう伝える。

    父・鎌足が葬られたのち、その子・定恵が、父の遺骨を、ある山へ、改めて葬った、と。

    その山の名を、多武峰という。

    そして、その多武峰こそ、あの、南淵の塾への行き帰りに、鎌子と中大兄が、蘇我打倒を語らったとされる、あの場所であった。

    人は、その地を、こう呼んだ。

    談い、の山。

    談山、と。

     十二 談山

    円環が、閉じる。

    すべてが始まった場所。二人の若者が、夕暮れの飛鳥川のほとりで、あるいはその山中で、同じ夢を語り合った、あの場所。古いものを灰にし、新しい世を建てようと、誓い合った、あの談いの山。

    そこへ、設計者は、最後に、還っていった。

    そして、それは、図面どおりではなかった。

    鎌足が、自分でそう望んだのでは、ない。藤原が、そう書いたのでも、ない。

    喪われたはずの子が——父が設計しきれなかった、ただ一つの余白が——父を、その始まりの場所へ、連れ帰った。

    設計者は、生涯、すべてを図面のなかに位置づけてきた。人を駒として動かし、死を数として処理し、歴史すら書き換えた。

    だが、その最期の、最も静かな帰結だけは。

    図面の外にあった。

    設計できなかった子が、設計できなかった愛によって、設計者を、すべての始まりの場所へ、還した。

    談山。

    謀が始まった山に、その謀の主は、眠っている。

    そして、その傍らには、おそらく、あの「礎」とも呼べなかった子の、面影がある。

     十三 器

    最後に、もう一度、あの旱の夏に、還ろう。

    六四二年。雨を呼べなかった蝦夷。雨を呼んだ女帝。そのねじれを、冷たく見つめていた、二十八の鎌子。

    彼は、あのとき、見たのであった。天皇という、空ろな器を。神聖だが、中身のない器を。

    そして、生涯をかけて、その器に、中身を注ごうとした。唐の律令という、統治の実体を。神聖な権威と、現実の権力とを、一つに繋ごうとした。

    彼は、それを、半ば、成し遂げた。

    天皇は、ただ神に祈るだけの存在から、法によって全土を治める、新しい君主の像へと、変わっていった。鎌子の引いた図面の上で。そして、その図面を完成させた、不比等の手で。

    器は、満たされた。

    だが、その器を満たす過程で、こぼれ落ちたものが、どれほどあったか。

    入鹿。蝦夷。古人大兄。山背大兄王の一族。石川麻呂とその妻子八人。遠智娘。そして、定恵。

    幾百の、礎。礎と呼ばれた死。そして、ただ一つ、礎と呼べなかった死。

    器は、それらの上に、満たされた。

    そして、その器の本当の姿——神聖さの底に、これほどの血と、これほどの謀と、これほどの嘘が沈んでいるという、その姿は。

    藤原の書いた、美しい歴史の下に、深く、深く、埋められた。

    我々が、いま、仰ぎ見る、その器の、静かな神聖さの底に。

     十四 なぜ、それが起こらねばならなかったのか

    歴史を書く者の務めは、何が起こったかを並べることではない。

    なぜ、それが起こらねばならなかったのかを。当事者たちが、何を見、何を恐れ、何に賭けたのかを、想像することである。

    中臣鎌子。後の、藤原鎌足。

    彼が見たものは、一つの、ねじれた国であった。権威と権力が、引き裂かれた国。

    彼が恐れたものは、その、ねじれであった。そのねじれが、第二、第三の蘇我を、入鹿を、際限なく生み出すことであった。

    彼が賭けたものは——そのねじれを、正すことであった。たとえ、神を穢しても。たとえ、同志を裏切っても。たとえ、我が子を、守れなくても。

    そして、彼は、自らの正当性が、自らの理想への裏切りであることを、知っていた。

    ねじれを正すために、彼は、最も醜い手を使った。一つの国を繋ぐために、彼は、無数の絆を断った。神聖な秩序を建てるために、彼は、神を穢した。

    彼は、自らが建てる「正義」が、その土台において、いかに「正義」から遠いかを、誰よりも、知っていた。

    知りながら、止まれなかった。

    なぜなら、止まれば、すべての死が無駄になるからであった。入鹿の死も。石川麻呂の死も。遠智娘の死も。そして、定恵の死も。

    進み続けるかぎり、それらは「礎」でありえた。だが、止まった瞬間、それらは、ただの、意味のない殺戮になる。

    だから、彼は、進んだ。死を、礎と呼びながら。

    そして、ただ一度。我が子の死の前で、その言葉が、崩れた。

    そのとき、彼は、知ったのかもしれぬ。

    自分が「礎」と呼んできたものは、すべて、誰かにとっての、定恵であったのだと。誰かの、かけがえのない子であり、夫であり、父であったのだと。

    入鹿にも、母がいた。「我に何の罪が」と、母に問うて死んだ。石川麻呂にも、娘がいた。その死に、狂って死んだ娘が。

    彼が「礎」の一語で呑み込んできた、幾百の死。その一つ一つが、彼が我が子に感じた、あの底のない喪失と、同じものであった。

    設計者は、最期に、それを知った。

    人の心だけは、設計できない。

    なぜなら、人の心は——図面の上の、一つの駒ではなく、一つの数ではなく——その一つ一つが、宇宙だからである。

    それを知ったとき、彼は、設計者でなくなった。

    そして、ただの、一人の、子を喪った父に、戻った。

    談山に、彼は、眠っている。

    謀が始まり、そして、すべてが還っていった、その山に。

    その墓標は、何も語らない。

    正義の始祖、とも。最大の嘘、とも。

    ただ、風が、梢を渡っていくだけである。

    あの、旱の夏に、ついに鳴らなかった——そして、女帝の祈りに応えて、五日のあいだ降り続いた——あの雨を、待つように。

    (了)

    ───────────

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