
コーチ物語 クライアント62「生きる、生かされる」 第5章 唯一無二の存在 その1
昨晩、遅く寝たにも関わらず翌朝は六時には目が覚めた。いつもならこんなことはなく、九時くらいに目が覚めるのに。それだけ、私が今日という日を楽しみにしているのだろう。
ホテルで早めに朝食を取り、出かける前に昨日メモしたことを一通り見直してみた。
「羽賀さんから教わったこと、これってよく考えてみたらすごく奥が深いことなんだなぁ。これをまとめるのって、大変そう。でもやりがいはあるな」
頭の中では、いつものインタビュー記事とは違う、一冊の本が浮かんでいた。これは雑誌などで出す記事とは違って文量がとても多くなりそうだ。そうなれば本にするほうがいいだろう。
「おっと、もうこんな時間だ」
ふと時計を見ると八時半を回っていた。今朝の約束は九時からだったな。ここからタクシーで十分程度で着くから、それほど慌てなくてもいいけど。でもチェックアウトしないといけないから、そろそろ出るとするか。
大きな荷物はホテルに預けて、私は昨日と同じノートパソコンを入れたトートバックだけで羽賀さんの事務所へと向かった。その道中、街の景色を眺める。
昨日は気づかなかったけれど、この街ってなんだかいい感じだな。ほどほど都会だけれど、東京のようにゴミゴミとはしていない。青空も見えて暮らしやすそうなところだ。そんなことを思いつつ、羽賀さんのところに到着。一階のお花屋さんはすでにオープンしていて、昨日一緒に食事をした舞衣さんの姿があった。
「おはようございます」
「あ、伊久丘さん、おはようございます。今日もいい天気ですね。あとでお茶を淹れに行きますね」
爽やかな笑顔でそう言ってくれる舞衣さん。そういえば舞衣さんはお茶を淹れる達人だったな。これは楽しみだ。
ミクは今日は学校なので、午前中は羽賀さんとマンツーマンになるのか。どんな話が聞けるのか楽しみだな。そんなことを思いつつ、事務所のドアをノックする。
「はーい」
そんな声が奥から聞こえて、ほどなくして扉が開く。
「伊久丘さん、おはようございます。どうぞ」
「おじゃまします」
ソファに座ると、昨日とは違った座り心地がした。
「あれっ?」
「あはは、気づきました? ちょっとクッションを変えてみたんです。こっちのほうが座り心地がいいかなって思って」
「はい、昨日よりもふわふわした感じで、なんかやみつきになりそう。このクッション、不思議ですね」
「はい、これ、座った人のおしりの形に合わせて形状が変わるんです。おもしろいでしょ」
「へぇ、こんなのがあるんだ。自分のためにあるって感じがしていいですね」
「でしょ。で、今日の話はそれにも関係することかな」
「どんな話ですか?」
私はすぐにノートパソコンを取り出して、メモをする準備を始めた。
「今からお伝えするのは『存在の原理』というものです。これは『あるとは何か?』を問うものでもあります」
「えっ、『あるとは何か?』ですか? なんだか哲学っぽい話ですね」
「このお話をする前に、伊久丘さんは『あるとは何か?』と問われたらなんと答えますか?」
「うーん、『ある』って『存在する』っていうことですよね。目の前にそれがあるわけだから、目に見えるってことですかね?」
言いながら、自分でもわけがわからない答えだなと思った。今ひとつ、この答えに納得できていない。
「なるほど、目に見えるってことか。じゃぁ、伊久丘さんの背中側にある机は見えていないから、『ある』ってことにはならないってことになるのかな?」
そう言われて後ろを振り返る。私が見えていなくても、机はそこに『ある』のだから、見えている、見えていないは関係ないってことか。
「目に見えるとか見えないとか、そういうことじゃないんだ。だったらどういうことなんだろう?」
ちょうどその時、ドアのノックの音が。すぐに舞衣さんが入ってきた。
「羽賀さん、今からお茶を淹れるね」
「舞衣さん、ありがとう。舞衣さんの淹れたお茶は絶品だから、ぜひ味わってくださいね」
「はい」
そう言いつつも、私の意識は『ある』ということに対していっぱいだった。
「じゃぁちょっと質問を変えますね。今って恐竜は存在しますか?」
「えっ、恐竜ですか? いや、それは存在しませんね」
「では、忍者は?」
「まぁ、アトラクションとしての忍者はいるでしょうが、昔のような忍者は存在しないでしょう」
「けれど、これらはその時代には『あったもの』ということで間違いないですよね」
「まぁ、私が直接見たわけじゃないですけど、存在はしていたんでしょう」
「でも、今は『ある』とは言えない。そういうことで間違いないですよね」
「はい、今は『ない』と言えるんじゃないでしょうか」
ここまで言って一つのことに気づいた。
「あ、そうか。『ある』というのは今ここにあるってこと。つまり過去ではなく未来でもなく、今この瞬間に存在するということ。これが『ある』っていうことになるんですね」
「そうなんです。そしてもう少ししたら面白いことがおきますよ」
「おもしろいこと?」
「さっきまでなかったものが、『ある』という存在になります」
「えっ、それってなんか不思議なものが突然目の前に現れるってことですか?」
「まぁ、それに似ているかもしれませんね」
羽賀さんは笑いながらそう言う。今から何が目の前に現れるというのだろうか?
すると、舞衣さんがお茶を運んできてくれた。
「お待たせしました。まずは一口飲んでみて下さい」
「ありがとうございます」
勧められるがままにお茶を一口飲んでみた。すると、今まで飲んだお茶の味を遥かに凌駕する、とんでもなく美味しいお茶だった。
「びっくりです。昨日ミクに淹れてもらったお茶も美味しかったけど。それよりもさらに美味しいお茶です!」
「うふふ、ありがとう。といっても、お茶の葉は昨日ミクが淹れたものとおなじなんですけどね」
「じゃあ、淹れ方が違うんだ。なるほど、ミクが絶賛していただけのことはあります」
「さて、伊久丘さん、何が突然現れたのかわかりましたか?」
そういえばそうだった。その話をしていたんだった。けれど、何が現れたのか。目の前にあるのは舞衣さんが淹れてくれた美味しいお茶。ひょっとしてこのことなのか?