メインコンテンツへスキップ
見出し画像

親知らず四本同時抜歯日記⑥「通勤電車はピンボール」

    親知らずを抜歯して社会復帰した私は、しばらく時短勤務をさせてもらうことになった。

    そのおかげで、いつもの満員電車より少し空いた時間帯に乗れるようになった。

    見知らぬ誰かとべったり体がくっつくこともなく、それなりにパーソナルスペースが確保されている。

    快適そうに思えたのだが、落とし穴はそこからだった。

    気づけば私は、吊り革を持つ人たちに四方を囲まれた、ど真ん中に立っていた。

    手を伸ばしても吊り革には届かず、掴まる場所もない。

    ちょうど線路の切り替えで、車両がガタンと大きく揺れた。

    ふらり、と体が傾く。

    そんな時に、微妙なパーソナルスペースがあるとどうなるか。

    念のため言っておくが、私なりに頑張って踏ん張ろうとはした。

    膝を軽く曲げたり、進行方向を向いたり。

    それなりに対処法は実践した。

    だが、頬はまだ腫れていて、食いしばることもできない。

    そんな状態では、思うように踏ん張りが利かなかった。

    そして電車が前後左右に揺れ始める。

    もはや荒波にもまれた私は、なすがままである。

    左へ弾かれ。

    右へ弾かれ。

    時には見知らぬ人のリュックに跳ね返される。

    当然、すべて不可抗力だ。

    誰が悪いわけでもない。

    ただただ、申し訳なさでいっぱいだった。

    一方、背の高い人たちは違う。

    吊り革のさらに上にある棒を軽々と掴み、まるで電車と一体化しているかのように微動だにしない。

    羨ましい。

    もう少し背が高ければ。

    あるいは、もう少し手が長ければ。

    そんなことを思いながら、何とか会社へたどり着いた。

    翌日。

    運良く今度は、ピンボールではなく、弾き返す側の台になれた。

    昨日の私のように、揺れに翻弄される人が飛んでくるかもしれない。

    少しくらいは受け止める覚悟までしていた。

    だが、その日に限って電車は平和だった。

    結局、弾き返すべきピンボールは現れない。

    少しだけ残念に思いながら、私は静かに会社へ向かった。

     
     
    母であり、会社員であり、趣味で小説も書いているたぬきです。 このnoteに出てくるのは、誰かにとってはどうでもいいことばかり。 たぬきを取り囲む世界を、ゆるっと綴った徒然なる日々です。

    あなたへのおすすめ