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明日もまた、やりたいことがある

    春が来るたびに、窓の外の桜を見上げる。
    咲いては散り、また咲く花びらの流れの中で、私は季節を測るようになった。

     去年より少し早く、手が動かなくなった。
     去年より少し早く、声が出づらくなった。
     それでも、春は変わらずにやってくる。

    ALSと告げられた日のことを、
    今もはっきりと覚えている。

    ALS──筋萎縮性側索硬化症。
    少しずつ、体が思うように動かなくなっていく病。

    手が上がらない日が来て、声が出にくくなり、やがて呼吸さえも自力では難しくなる。

    医師の口からこぼれた言葉は、やけに静かで、現実感がなかった。
     
    夫が隣で息を呑む気配がした。
    私は笑っていたと思う。
    きっと、嘘だと思いたかった。

    帰り道、病院の駐車場で、ふいに涙があふれた。
     「ごめんね。私が病気になったから」
    夫は何も言わずに私を抱きしめた。
     その腕のぬくもりが、かえってつらかった。

    ***

    「ママ」

    その一言は、少し舌足らずで、「まんま」に近かった。

    夫と顔を見合わせた。

    「今……聞いた?」
    「うん、聞いた」

    次の瞬間、二人で笑って、泣いた。
    娘は何も分からないまま、私たちを見て笑っていた。

    何度も何度も三人で強く抱きしめ合った。

    あの日、私は初めて思った。

    私は、妻になれた。
    そして、お母さんになれた。

    あの日、腕いっぱいに抱きしめた温もりを、
    私は一生忘れないと思った。

    あの日の私は、
    明日も、明後日も、その先も、
    当たり前のように幸せが続くと信じていた_


    ***

     あれから、いくつもの季節が過ぎた。

     少しずつ、体は言うことをきかなくなっていった。
     

    最初は、ペットボトルの蓋だった。

    「開けて」
    そう言うことが、少し悔しかった。

    夫は何気ない顔で蓋を開け、
    「はい」と笑った。

    私も笑った。

    まだ、この頃は笑えていた。



    その次は包丁だった。

    野菜を切ろうとすると、刃先が震える。

     「危ないから、今日は俺がやるよ。」

    夫はそう言って、私の手から包丁を受け取った。

    あの日から、
    夕飯を作る人は私ではなくなった。



    娘が髪ゴムを持ってきた。

    「ママ、お願い!」

    何度やっても、指が思うように動かない。

     ゴムは床へ落ちた。

    私は拾おうとして、
    動かない指を見つめた。

    「……ごめんね。」

    娘は笑った。

    「大丈夫。パパにやってもらうね。」

    そう言って振り向いた笑顔が、少しだけ大人びて見えた。


    ***

     ある日、娘が学校から帰ってきて、私の隣に座った。
     「ママ、今日ね、マラソン大会の練習だったんだ」
     息を弾ませながら話すその顔は、昔の私にそっくりだった。
     私は声にならない声で「頑張ったね」と伝える。
     娘は笑って、私の手を握った。

     「ママの手、あったかいね」

    そしてその小さな手で私の手を包み込み、頬にそっとあてた。

     その何気ない一言と、小さな手の温もりが、胸の奥で光を灯した。
     ――あなたの何気ない一言が、生きる活力になってる。

     たったそれだけの言葉で、私はまだ“生きている”と感じることができた。


    _______

     できることがひとつ、ひとつと減るたびに、涙がこぼれそうになる。

     それでも、私は笑顔でいたかった。

     母として、妻として、家族の前では弱い姿を見せたくなかった。

     私はただ――
             妻でいたいだけ、
             母でいたいだけ。

    ____

     夜、夫がリビングで娘の宿題を見ている。
     私はその様子をベッドから見つめながら、静かに涙をこぼす。
     その涙は悲しみではなく、感謝のようなものだった。
     夫の背中が少しだけ丸くなった気がする。
     それでも、彼の声はいつもと変わらず穏やかで、優しい。

     時々、私は思う。
     「この人は、どうしてこんなにも強くいられるんだろう」と。
     私が壊れていくたびに、彼は少しずつ“支える人”の形を覚えていった。
     料理も、洗濯も、娘の髪を結う手つきも、いつの間にか彼の方が上手くなっていた。

     私はそれを見るたびに、心の奥でそっと願う。
     ――私がいなくなっても、この人たちはちゃんと生きていけますように。

     けれど、次の瞬間には思い直す。
     まだ“いなくなる”なんて言葉を使いたくない。

     だって、私はまだここにいる。

     呼吸をして、見つめて、愛している。

    ***

     朝、夫がコーヒーを淹れる音で目が覚める。
     カップから立ちのぼる香りが、部屋をやさしく包む。
     その香りの中で、私は今日も生きている。

     「今日も一日、いい日になりますように」
     夫がいつものようにそう言って、私の髪を撫でた。
     小さな幸せが、確かにここにある。

     そして、私は心の中でつぶやく。
     ――明日もまた、やりたいことができた。

     娘の運動会を見たい。
     夫の誕生日に、「ありがとう」を伝えたい。
     冬になったら、みんなでこたつを囲んで笑いたい。

     来年も、やりたいことがある。

     私は“生きる”という言葉の意味を、少しずつ変えながら、今を刻んでいる。
     できなくなったことを数える代わりに、まだできることを探す。
     言葉を失っても、伝えたい想いは消えない。
     動かせない手にも、触れたい願いがある。

     夜、娘が眠ったあと、夫がそっと私の枕元に来た。
     「今日、医師と話してきたよ」
     彼の声は、静かな湖面のように落ち着いていた。
     「進行は、少しずつだけど穏やかだって」
     私はゆっくりまばたきして、返事をする。
     そのたった一度のまばたきに、すべての気持ちを込めた。

     「ありがとう」

     言葉にはならなくても、伝わる。
     夫の目がわずかに潤み、私の頬を撫でた。
     「無理しないで。
    君は君のままでいい」

     ――君は君のままでいい。

     その言葉が、心の奥に静かに沈んでいく。
     私は、その場所でようやく少しだけ、息がしやすくなった気がした。


     風がカーテンを揺らす。
     春の終わりの空に、ひとひらの花びらが舞う。
     その一瞬を、私は目で追う。
     たとえ体が動かなくても、心はまだ動ける。
     たとえ声が出なくても、想いは届く。

     いつか、すべてが止まる日が来てもいい。
     その日まで、私は生きていたい。
     妻として、母として、ひとりの人間として。


     そして――
     今日もまた、心の中で静かに唱える。



     「明日もまた、やりたいことがある」

    fin.

    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

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