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500mlよりも少し多く。

    ​「カチッ――」

    この音でお湯が沸いたことを知る。

    ​何かの健康番組で、休みの日も生活リズムは崩さないほうが良いと耳にし、それ以来忠実に体現して生きている。

    ​時計のアラームも設定しているが、それよりも早く私の目が開く。

    今日も勝ちましたな。

    そう思いながらむくりと起き上がり、素足を白く毛の長いラグにそろりと乗せ、すり足でキッチンへ向かう。
    自愛の精神を司るならば、靴下なりスリッパなり履いてしまえば良いものの、素足で動きたい衝動が先行する。

    途中、ベロアのカーテンをざっと開け、通り過ぎた先で黒く光るポットに手を伸ばす。

    水道の蛇口をひねり、勢いよくポットに水を注ぎ、500mlを過ぎた辺りで蛇口をしめる。

    ​ガタンッ――

    思ったより勢い付いてしまい、ポットが荒ぶる。

    上体を軽く曲げ、コンセントをプラグに差しこむ。

    なんとなく節電できる気がして、気が向いた夜にはコンセントを抜いている。

    ​脱ぎっ放しにされ、所在無さ気なスリッパを冷えた足に引っ掛け、洗面所へ向かう。

    某キャラクターの顔が刺繍されたラブリーなヘアバンドを良い年した大人が身につけ、掌に受けた冷水を顔にパシャパシャと当て、金魚のように口をパクパクさせる。

    鏡に映る自分は見ないようにして、洗いたてのタオルで静かに顔を拭く。

    スキンケアはこだわりたいところだが、お財布の紐がカチカチなため、大容量のオールインワン且つポンプ式の便利な物を使っている。肌との触れ合いは両手で数える間に終わる。

    棚から歯ブラシを取り出し、歯磨き粉を毛束の3列目までのせ、前歯から磨き始め、ひとしきり全体を磨き、口を漱ぐ。

    ​次は洗濯機を回す。
    まとめ買いしている洗剤を投入し、水道の蛇口をキュイッキュイッとひねり、スタートボタンを押す。

    ぐわん――
    回転し始めた洗濯槽を、ガラストップから数秒眺め、キッチンへ戻る。

    洗濯機を​購入する前の私は、一つだけ理想を抱いていた。
    洗濯機の前にちんまりとした椅子を置き、洗濯物が踊る様を眺めるというもの。

    洗剤の香りが水にゆるやかに溶けて、服に染みた疲れが取れていく様子はきっと爽快感があるだろうと思っていた。

    ところが、服は洗濯槽で踊らず、一定の速度で、ゆら、ゆら、と横揺れする程度の味気ないものだった。

    早々に椅子を折りたたむことになってしまった。が、ガラストップの選択は良かったと未だに思っている。

    ​キッチンへ戻るとちょうどお湯が沸いた。

    愛用の水筒を棚から取り出し、出来たてのお湯を慎重に注ぎ入れていく。

    これで日中に温かいものを飲みたくなったら、即席のティータイムを随時開催できる。

    きゅっきゅと水筒の蓋を手早くしめる。

    今日も、丁寧だ。

    銀色のシンク台にポットを置き、チャイカップを手に取る。

    そのカップは飲み口をくるりと一周、赤と金の模様(まったく知識がなく何模様と呼ぶのかわからない)で彩られている。

    シンク下の開き戸からインスタントコーヒーの入った瓶を取り出し、パラパラと振り入れ、水筒に入り切らなかった残り湯を注ぐ。

    ふわりと香りが立ち昇り、ガラス越しに薄い茶褐色が見える。
    70mlと少量である故、嗜む余裕感とやらに浸れる気がする。

    ​飲み口に親指と人差し指を当て、2点で摘むように持ち、ふぅーっと細い息で茶褐色の表面を撫で、猫舌に配慮する。

    ​開きかけのチューリップに似た曲線のカップの中腹には、ささやかながら、金色の取っ手が付いている。が、つまむと指に熱が伝わり、熱すぎて持っていられない。
    手から滑り落ちるかもしれないから、とあえて取っ手付きを選んだのに、その取っ手のせいで、一度カップを落としかけた。

    時間の流れと共に全体が薄くくすんだが、取っ手だけは今も光を放っている。

    ​ミントの爽やかさが広がっていた口に、褐色の苦味が広がる。

    ――完璧な朝である。

    ちらりとカーテンに目を向ける。​

    開ける前から感じていたが、今日は格別天気がいい。

    この後は布団を干したり、食材の買い出し、散歩、読書、植物の手入れと予定が目白押しだ。

    ​「あなたって変だよね」

    脳裏で、笑って言えば冗談になると信じているような、屈託のない表情がさっと向けられる。

    私を思って放った言葉ではない、と線引きをしたはずの記憶が、まだ整理ついてませんよとこちらの意思とは関係なく、なんなら幸福であることを噛み締めようとすると顔を出してくる。

    厄介だな。​ミルクを足そう。

    冷蔵庫から取り出した紙パックから、そっと飲みかけの珈琲に注ぐ。

    底に静かに沈み、マーブルになり、褐色を緩ませる。

    清潔な記憶は、濁りを薄め、温度も穏やかにするはずだから。

    上書き、上書き。


    さて、次は。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

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