
ノイズキャンセリング・ホリデイ/大学職員は教員の奴隷を抜け出せない
私は、とある大学で事務職員として働いている。
業務内容は……まあ教員の奴隷と言っても差し支えないだろう。
あれがやりたい、事務やっといて。
あれはどうなってんだろう、事務調べといて。
今度挨拶があるんだ、事務考えといて。
それらの無茶振りに、心の中で回し蹴りを入れておいて順従に「はーい」と返すことしか許されない程度の存在だ。
そんな奴隷の元に一本の電話ーー。
ワンコールが終わる前に取ると、受話器が耳につく前に不愉快そうな言葉が、本人の声を模した合成音声を介して耳朶を打つ。
「例の件について打ち合わせをしたい」
誰だ貴様は。何の件だ。そもそもこちらが話す前に話し始めるんじゃない。
まだ受話器は電話機ー耳間を移動しているのだ。ドップラー効果により幾分高くなったその声色が、脳で咀嚼と共に記憶を呼び起こす。
途端、猛獣を前にしたように鼓動が早まった。
「木村教授ーーお世話になっております。先日の件ですね」
木村教授。
とにかく偏屈で、自己中心的で、キレやすい。
そして自らの無能さをアピールするために「わしは忙しいんだ!」と喚き立てる昭和の象徴みたいな存在だ。
確かに、彼の分野を考えると、悪鬼羅刹蔓延る業界で教授の地位に辿り着いたのは驚嘆に値するかもしれない。
しかし、それゆえに本人の成功体験からくる在り方が令和という時代にそぐわないのだ。
今や学生からの評価も悪く、外部資金も取ってこないし論文も書いていない。
もはや何のために大学教授として存在しているかわからない。
しかし、事務としてはどんなおかしな人間ーー大学以外だと見向きもされない人間だとしても、「教員」という肩書きがついていたらお世話をしないといけないのだ。
「そうだ。明日打ち合わせをしたいから会議室を予約してくれ」
明日はまずい。非常にまずい。
打ち合わせの準備ができていない、ということではない。会議室の予約ができないということでもない。
単純に、明日は私が休みを入れているのだ。
年次有給休暇。労働者の権利。
「明日……大変申し訳ありませんが、明日はお休みをいただいていますので、別日で設定させていただいてもよろしいでしょうか?」
しかし正直に話すしかないのだ。
このまま黙っていたら了承したと捉えられる。
「それは困るよ」
予想通りの反応だ。
しかし、静かすぎる。
嵐の前の、真空地帯のような静寂。
「申し訳ありません。なので別日でーー」
「困るんだよ!!」
ーー鼓膜ないなった。
そう感じるほどの爆音が受話器から放たれた。
どうやら先ほどは嵐の前の静けさであり、怒鳴るための体力を溜めていたらしい。
教授まで成り上がった傑物。
瞬発的に怒号を響かせるほど愚かではないのだ。
「困るんだよ!!」
2回言った。愚かかもしれない。
「そう言われましても…」
「困るんだよ!!!」
3回言われた。愚かでいい?
「大変申し訳ありません」
4回言われると流石に笑いを堪える自信がないので、とにかく謝る。
休みを取る時点でなんで謝らなきゃいかんのだーーそんな考えが脳裏をよぎるが、相手はこちらの言葉が通じない先生様なのだ。
奴隷が許しを得るには低頭平身の構えしかない。
私はただの、同じことを繰り返すだけの什器になりきった。
「明日しか空いていないんだ。打ち合わせをさせてくれ」
流石に息切れしたのか、トーンダウンしながらも諦めない。
「申し訳ありませんが、明日は私が出勤しておりませんので別日でお願いいたします」
こちらも諦めない。というか諦める意味がわからない。
ふざけるな、こちらも久しぶりの休みなんだ。
大声を出したい気持ちを抑えて什器になりきる。
クソジジイはぶつぶつと何か唱えている。自身への念仏か?と期待したが、どうやら耳障りなノイズを垂れ流しているらしい。
なんとか解読してみると「こちらは忙しい」とか「講義があるんだ」とか当たり前のことを呟いていた。
奇遇ですね。
こちらも忙しいし、仕事があるんですよ。あなただけに仕事しているわけじゃないんですよ。
そしたら凄いことを言い出した。
「休みをずらせ」、と。
うんうんいつか言うと思った。
だが嫌だ。
休みはずらさない、打ち合わせをずらせ。
「大変申し訳ありません」
「これだけ言ってもダメなのか!!」
これだけお伝えしても諦めてくれないのか。
もしくは私の声も、ノイズのように彼の遠くなった耳には届いていないのかもしれない。
「申し訳ありません」
「っ! 事務はいいよな!好きな時に休めてよ!!」
私の時給には、この暴言への慰謝料も含まれているのだろうか。
鼻先に漂う埃を見つめながら、心の中で彼に中指を立て、口からは無菌状態の謝罪を吐き出した。
「申し訳ありません(ハナホジ)」
「もういい!」
プラスチック同士がぶつかり合う暴力的な破壊音に再び鼓膜ないなった。
世界の音が戻るまでしばらくANCモードを楽しみながら意識を過去に向ける。
こんな対応は日常茶飯事、とは言わないけど、そう珍しくはない。
彼らは、偏屈であり、自己中心的であり、キレやすく、自分の希望は何でも叶うとまだ信じているピーターパンなのだ。
もちろん、木村教授がスタンダードではない。
でも決して珍しい存在ではないのだ。
教員相手に断れるだけでも今の部署は恵まれているし私は強くなったのだ。
ため息を吐くと、世界に音が戻っていた。
背伸びをしながら明日の休みに思いを馳せる。
窓の外を見れば、暗い帷が降りたキャンパスは何も映し出さない。
時計は9時を回っていた。
「…フォローぐらいはしておくか」
既に帰宅した同僚と、電話を受けた時から心配そうにこちらに目線を向けていた上司に対し、先ほどあったことを申し送りとしてチャット欄に打ち込んでいく。
もちろん、予約送信だ。
「お先失礼します」
予約送信を終えた私がデスク上の書類をしまい、昨年新調したバッグを抱え上司に挨拶をする。
「お疲れさま。さっきの大丈夫だった?」
頭を下げることでその地位に就いた上司は、どうやら聞き耳を立てていたらしい。
「何とかご納得いただきました」
気づいていたなら助けて欲しかったなーーそんな感情は言葉に乗せずに。
「そうか。ならよかった」
電話機越しに頭を下げ続けていた私を心配していたのか、「見込みのあるやつだな」と評価していたのか迷うところだが、その顔はどこか安堵している。
「一応、申し送りを残したので、明日何かあったらフォローお願いします」
「わかった。明日はゆっくり休みな」
「ありがとうございます」
そう言い残し、事務局から出ようとした矢先ーープルルルルルル
上司の机で電話がけたたましく鳴り出した。
同時に、私の鼓動も早くなる。
その音をできるだけ耳に入れないように、ノイズキャンセリグ性能に定評のあるBOSEのワイヤレスイヤホンを耳に挿し、小走りで事務局を後にした。
今後の大学業界を予期するように、外は暗闇に満ちていた。
しかし、その闇に呑まれないように抵抗する星々ーー残業している部署の灯りが煌々と輝いていた。
その一角ーー受話器を耳に当てながら、必死に頭を下げている上司が一際輝くーー
窓一枚を隔てているので何も聞こえないし聞きたくなき。
聞こえない方が、都合がいい。
先ほど書いた申し送りが無駄にならなければいいのだが。