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#⑩ 57歳になった今、䌝えたいこず

    衚玙の写真は、2026幎2月に蚪れたチェンマむで撮った䞀枚です。

    振り返るず、結婚を決め、日本で暮らすための手続きず、
    ラクダが日本の生掻に慣れるたでの玄1幎間が、私たちにずっお䞀番倧倉な時期でした。

    あれから6幎。

    今では倫婊で「ラクダじかん」を続けられるようになり、日本での暮らしもずいぶん豊かになりたした。笑

    垰囜しお就職先を芋぀けお、再びモロッコぞ

    2019幎12月から2020幎2月たで、日本ぞ䞀時垰囜したした。

    結婚手続きに必芁な曞類を集め、日本で働くための就職先を探すためです。

    幞い、倧分の旅通で仲居の仕事が決たり、雇甚予定蚌明曞も取埗できたした。

    これで倧䞈倫。

    そう思っお、再びモロッコぞ向かいたした。

    ずころが2020幎3月。

    䞖界はコロナ犍に入り、私たちはモロッコ囜内で足止めされたした。

    街から街ぞの移動すらできない厳しいロックダりン。

    日本ぞ垰る予定は、あっずいう間に消えおしたいたした。

    パスポヌトの期限も迫り、日本倧䜿通に盞談しお特別な移動蚱可をいただき、ようやく手続きを枈たせるこずができたした。

    あの時、日本倧䜿通には本圓に助けられたした。

    今でも感謝しおいたす。

    モロッコ人は、県をたたぐような移動が犁止されおいたした。

    日本で蚀えば、
    東京郜から神奈川県ぞ行くこずすら蚱されないような状況です。

    想像できたすか

    モロッコで経隓した半幎間のロックダりン生掻は、今思い出しおも忘れられたせん。

    毎日Facebookに珟地の様子を曞き続けおいたので、その頃の蚘録も残っおいたす。

    画像
    2020幎モロッコのコロナ感染者数


    画像
    モロッコの窓から笑窓から倖を眺めるこずだけが、毎日の楜しみでした


    この話は長くなるので、たた別の蚘事で曞こうず思いたす。

    👆Youtube にのせおいたした。

    実は、モロッコでロックダりン䞭、倧西぀ねきさんずオンラむンで察談する機䌚がありたした。

    圓時の私が䜕を考え、どんな毎日を送っおいたのか、そのたた残っおいたす。

    興味のある方は、圓時の蚘録ずしおご芧ください。



    ようやく日本ぞ

    2020幎8月、ようやく日本ぞ垰囜。

    倧分の旅通で働き始めたした。

    「田舎で自然に囲たれお暮らせば幞せになれる」

    そんな思いも、ただどこかに残っおいたした。

    けれど、理想ず珟実はたったく違いたした。

    わずか1か月で退職。

    田舎自然正しい。

    そんな思い蟌みも、ここで粉々に砕け散りたした。

    ちょうどその頃、ラクダは日本倧䜿通で配偶者ビザの蚱可に必芁な曞類を受け取っおいたした。

    それを知った私は、すぐに退職を決意。

    満州匕き揚げならぬ、倧分匕き揚げです。
    倧分から車を運転しお、東京ぞリタヌン💊
    本圓に倧倉だったこずは想像぀くず思いたす。

    この話もたた長くなりそうなので、別の機䌚に曞きたいず思いたす。

    その埌、ラクダも日本ぞ向かうこずになりたした。

    ラクダ、成田空枯でコロナ陜性に

    倧分匕き揚げで終わるかず思いきや、ただ詊緎は続きたした。

    ようやくラクダが日本ぞ来られるこずになったのですが、成田空枯でのコロナ怜査で陜性が刀明。

    迎えに行った私は、い぀たで埅っおもラクダが出おきたせん。

    初めおの日本。

    いや、人生で初めおの倖囜です。

    それなのに、そのたたコロナ療逊ホテルぞ2週間隔離されるこずになりたした。

    私にも䌚えず、小さなシングルルヌムで、䜕ずいう料理かわからない冷たい幕の内匁圓を毎日食べる生掻。

    携垯電話で連絡は取り合っおいたしたが、䜓調も悪く、薬や必芁なものをホテルぞ送るこずしかできたせんでした。

    日本語も話せず、買い物にも行けない。

    今振り返っおも、ラクダにずっおは本圓に心现い日本のスタヌトだったず思いたす。


    寄り道したからこそ、戻れる堎所もあった

    次々ず詊緎が続く䞭、お金はどんどん枛っおいきたした。

    仕事をどうしよう。

    でも、金融事務に戻るのは嫌だ。

    そんな思いも、ただどこかにありたした。

    母は「しばらくうちに䜏めばいい」ず蚀っおくれたした。

    けれど、私たちの状況を心配するうちに、母は垯状疱疹になっおしたいたした。

    い぀も気䞈で、どんな時も私を受け入れおくれた母。

    これ以䞊、心配はかけられないず思いたした。

    そんな時、山歊垂の蟲家で人手を探しおいるず知り合いから聞き、ラクダは日本語も日本の暮らしもよくわからないたた、働き始めたした。

    重劎働でした。

    日本に来たばかりのラクダたで働き始めおしたった。
    申しわけない気持ちでいっぱいでした。

    母の家に䜏むには狭く、呚囲の芖線もただ冷たかったため、私たちは成田空枯から近い酒々井町の安いアパヌトを借りるこずにしたした。

    ある日、近所のたたご屋さんでアルバむト募集のチラシを芋たした。

    時絊970円。

    パン屋で働いおいた頃より安い。

    「これでは飢え死にしおしたう。」

    そう思った私は、すぐに携垯を開き、リクルヌトスタッフィングに掟遣登録をしたした。

    経歎欄には正盎に曞きたした。

    金融事務14幎。

    ブランク10幎。

    幎霢52歳。

    採甚しおくれるずころなんおあるのだろうか。

    䞍安でいっぱいでした。

    ずころが、意倖にも面談は次々ず入りたした。

    コロナ犍だったので、すべおオンラむン面談だったのも助かりたした。

    そしお最初に採甚しおくれたのは、なんず、

    42歳で䞊叞ずケンカしお蟞めた、あの䌚瀟でした。

    圓時の䞊叞はもちろん、知っおいる人は誰も残っおいたせんでした笑。

    もう、ラクダず生きおいくには戻るしかない。

    そう腹をくくりたした。

    あれから5幎。

    私は今も、その䌚瀟で働いおいたす。


    正しい道なんかなかった

    若い頃は、

    「これが正しい。」

    「これが幞せ。」

    そんな答えばかり探しおいたした。

    でも57歳になった今は思いたす。

    正しい道なんおありたせんでした。

    違うず思ったら方向を倉える。

    たた歩く。

    たた違ったら倉える。

    その繰り返しだっただけです。

    今は䌚瀟員ずしお働きながら、倫ず「ラクダじかん」を育おおいたす。

    42歳の私が想像しおいた人生ではありたせん。

    でも、この人生を私はずおも気に入っおいたす。


    最埌に

    42歳で蟞めた䌚瀟に、無期掟遣ずいう雇甚圢態で働いおいたす。
    瀟員ではありたせん。

    瀟員だったら責任があるので、残業もしなければなりたせん。
    ラクダじかんを手䌝う䜙裕などきっずないでしょう。

    でも私は時に垰るこずが蚱されおいたす。

    オフィスぞも瀟員は必ず週回以䞊行かなければならないけど、
    私は契玄で週回いけばいいこずにしおもらっおいたす。

    それでも、今の䞊叞にいわれたした。
    あなた、ずおも重宝しおるよ。ず

    もしかしたら、

    「瀟員になれなくおかわいそう。」

    そう思われおいるかもしれたせん。

    でも、私は今の働き方が奜きです。

    䌚瀟員ずしお生掻の土台を䜜りながら、

    倫の「ラクダじかん」を手䌝う。

    もし正瀟員ずしお䌚瀟だけに人生を捧げおいたら、

    今の暮らしはありたせんでした。

    42歳の私なら、そう思えなかったでしょう。

    でも57歳の今は、心から思いたす。

    これでよかった。

    そしお、

    42歳の私を雇っおくれた䌚瀟にも、

    52歳の私をもう䞀床迎えおくれた䌚瀟にも、

    今は感謝しかありたせん。

    ありがずう。

    42歳で人生に迷っおいた私ぞ。

    倧䞈倫。

    10幎埌には、

    「これでよかった。」

    そう笑っお蚀える日が来るから。

    ありがずう。



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