
麗江路クライマー ──阿片中毒の監察医と、薔薇の名を冠した猟奇殺人──㉒
第22話 エピローグ
世界の果てに取り残されたような雲南省麗江路でも世紀は変わり、幾度目かの春を迎えていた。
石畳で整備されたおとぎ話のような村はずれに住む男の元に、一人のイギリス人記者が訪れていた。記者の名はトマス・リード。トマスは激動の時代に向かって揺れ動く世界をペン一本で記録し、名を打ち立てようという野心に溢れる青年だった。
中国中央からは秘境と呼ばれるほど遠く、インドにほど近い茶馬古道のこの町に来たのはどんな偶然だったのだろうか。トマスは通訳を探していて、村はずれで庭師のような仕事をして暮らしている男のことを知らされたのだった。
片言の中国語とジェスチャーをやり取りし、どうやらその男が英語を喋れるらしいと聞いて尋ねた。
男は噂通り、流暢な英語を喋り、温かな英国式のお茶を入れてトマスをもてなしてくれた。けれども通訳としてトマスに同行することは「古い友人との先約があるから」と断った。
出された紅茶を飲んでトマスは驚いた。
「こりゃあ、美味い。まさかこんな奥地でこんなに美味い英国式のお茶が飲めるとは思わなかったよ。都会のホテルで給仕の仕事でもしていたのかい?」
トマスの言葉に男はただ曖昧に微笑むだけだった。
「それにこの地の薔薇は、まさに絶景だね。家を飲み込み、崖を覆いつくす雪崩のように花が咲いている。町ごと薔薇に飲み込まれてしまったようだ。この世に楽園があるとしたら、きっとこんな場所なんだろうな。こんな時代だけれど、この場所にはいつまでもこのままでいてもらいたいものだよ」
トマスはそう言ってお茶を飲み干すと軽快に席を立った。
「僕はリードだ、トマス・リード。まあ麗江には数日滞在してるから、気が変わったらいつでも!」
眩しい太陽の下、若き記者は帽子を陽気に振って、埃を立てながら坂を下っていった。
その背中が完全に見えなくなるまで、玄龍は表情を動かさずに見送る。
「……身軽なもんだ」
遠ざかる若者の背中に向けて、玄龍は小さく独りごちた。
自分のうなじを撫でれば、かつて上海の雨に濡れていた長い辮髪の感触はない。
髪を切り、国が滅び、世界がどれほど変わろうとも、この庭に流れる時間だけは誰にも邪魔させない。
──気が変わる、か。
鼻で笑い、玄龍は手元のティーポットに残った琥珀色の液体を見つめる。
彼は慣れた手つきで、トマスに使わせたありふれた陶器ではなく、戸棚の奥から出しておいた「それ」を手に取った。
縁が薄く、繊細な金彩が施された、遠い英国のティーカップ。
二人分の湯気が、麗江の桃色の風に溶けていく。
「俺の紅茶は美味いそうだ。……ラピュータには紅茶はあるかい?」
返事はない。
ただ、アーサーが夢見た絶景──崖を覆い尽くすリージャンロードクライマーの薔薇だけが、返事の代わりに激しく、輝くように揺れていた。
「約束は守ったぞ、アーサー」
玄龍の呟きは薔薇色の風に乗り、抜けるように青い空の彼方へと運ばれていった。
了