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第9章 「俺が書いたんだから大丈夫」が通じない理由―法制執務の「言葉の厳格さ」と「責任」

    1 エヴァンゲリオンとロラン・バルト

    「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」。ポール・ニザンの『アデン・アラビア』。おそらく20世紀の小説で最も有名な書き出しだろう。歳を重ねると、胸に刺さる文章だ、と最近思う。
    十代半ばから二十歳頃には、今でも色褪せぬ思い出がある。「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメだ。この作品は我が国におけるアニメや漫画というコンテンツの地位を一気に引き上げる原動力となった。作中には心理学・物理学・キリスト教・神秘学といった分野の専門用語が意味ありげに並んでおり、僕らは謎解きに夢中になった。僕らは辞典を引き、入門書を読み、専門書に挑戦した。そこから作品のエピソードを再解釈しては、「ああでもない」「こうでもない」と議論した。今ほどインターネットが普及していない時代の話だ。投入された熱量は、もはや取り返しがつかない。「あの時間を勉強に費やしていれば…」という苦い思いも、今では笑い話だ。

    あるとき、エヴァンゲリオンについて、大学の知人から「そんなの監督に訊けばいいじゃん」という言葉を聞いた。合理的な鑑賞法だと思う一方で、僕には合わないとも思った。ここで想起されるのは、フランスの批評家・ロラン・バルトの「作者の死」だ。彼は作者の意図を離れた作品を「テクスト」と呼び、その解釈において、読み手を作者の意思から解放し、自由な読み方を求めた。それまでの患者の言葉で患者を分析するように作品の痕跡から作者の分析を試みる精神分析批評とは異なり、読み手の自由な解釈と議論を推奨した。あの時代のエヴァンゲリオンの謎解き―今でいう「考察」は、作者の意思から離れたところで物語の解釈を行い、背景にある世界を思い描いていたからこそ、大きな盛り上がりを見せたのだ。

    何故「公務員のためのリベラルアーツ」という一連のシリーズの中でこんな思い出話や文芸批評の話をするのか。それは、僕が法制担当だったときの話をするためだ。当時僕は、条例や規則などの自治体の独自ルール(「例規」という。)の制定改廃に関する審査を担当していた。あるとき、条例の新規制定に際し、担当課が作ってきた条文の解釈が曖昧であるとして、担当課と議論になった。

    僕「この条文、かなり曖昧ですよね。AともBとも読めてしまいます。」
    担当課「Aですよ。担当課で了解しているから、このままで大丈夫です。」

    このとき、僕は学生時代の知人とのやり取りを思い出して、担当課職員にバルトの「作者の死」の話をした上で、「条文を解釈するのは、市民であり、裁判官です」と話した訳だ。割とどうかしている。立法者意思説の話をするより分かり易いと思ったのだが、とんだ失態だった。そう。「立法者意思説」も、バルトの「作者の死」と基本的には、同じ話だ。

    2 立法者意思説と法律意思説

    「この条文の趣旨は、起案者が理解しているから大丈夫」、あるいは「起案者がAという意思で書いたのだから、市民がBと解釈して裁判になっても起案者が敗けることはない」と考えてはいないだろうか。こういった考え方は「立法者意思説」に与するものだろう。
    法学では、かつて、法の解釈の目的が、①立法者の意思の探求にあるか(立法者意思説)、②法の意思の探求にあるか(法律意思説)、という議論があった。立法者意思説は、「法を制定した際の立法者の意思を再現する」ことが解釈の目的となる。どうやるのかといえば、法典の理由書や起草委員の説明書などを研究することになる。これに対して法律意思説は、「法は成立をもって立法者の意思を離れた客観的なものになる」と考える。この説明のためにバルトの紹介をしたのだ。法律意思説に立って法律を解釈する者は、原則として立法者の意思に拘束されず、法律自身の意思を探求することになる。

    では、どちらが妥当か。極端な例で考えよう。都市公園条例で「公園内で自動車の運転その他公園の利用者に危険が及ぶ行為はしてはならない」と書いてあったとしよう。条例制定から時間が経った。ドローンや電動自転車・モペットなどの新たな技術が生まれ、新たな危険が懸念されるようになった。ここで、立法者意思説を採用するとどうか。この条文の趣旨は「これは市民の皆さんが安心して、安全に公園を利用するためのルールである」と考えたとしても、条例制定当時に存在しなかったような、立法担当者が想定していなかったような技術については立法当時の資料に言及されている筈がない。果たしてこれを規制してもよいのかという議論になる。これに対し法律意思説では、「利用者に危険が及ぶ行為」を、制定当時の立法者の意思から離れて解釈する。都市公園法や条例の目的に照らし、条文を現在の技術水準に従って再解釈し、ドローンやモぺットが危険という合理的な根拠があれば、現行の条例を根拠に禁止することができると考えることができる(予測可能性を確保するために、施行規則等を改正するかどうかは別の議論だ)。こちらの方が、実務の感覚に近いだろう。このように考えると、法解釈の根幹にあるのは、法律意思説であると考えるべきだ。内閣法制局長官を務めた林修三先生は次のように書いている。

    成文法というものは、…でき上った上は、(立案者の)意図・目的は一つの参考資料にすぎず、…文字と文書で書かれた法文をもととし、…解釈され、適用されるから、法文が正確にでき上っていなければ、…法令立案の意図・目的がりっぱなものであっても、その成果は、一向にあがらないことになる。(…は省略、括弧内は引用者による)

    林修三『法令作成の常識』31頁

    この記載から明らかなように、実際に法令を書き、審査してきた内閣法制局は、法律意思説を前提にしている。このような法制執務の実務で、立法者意思説に拘ることは意味がないし、「俺はこういうつもりで書いた」なんて言っても、笑われるのがオチだ。なお、法律意思説の話をすると、「法律は意思を有しないではないか」という反論があるかも知れない。揚げ足取りみたいなものだが、これに対して再反論するなら、「法律の意思」とは、立法者の意思を探る際に想定される心理的意思ではなく、法の「合理的意思」であるというものになる。つまるところ、法の目的にしたがった解釈をするという話だ。したがって、条例や規則というものは、「担当課に原案を書いた本人が居るんだから、裁判で敗けるはずがない」なんて主張は通らない。それを解釈するのは、市民であり、法律実務家であり、裁判官である。彼らが合理的に解釈した結果、あなたの意図とは全く違う解釈となる可能性すらあるのである。では、そうならないようにどうすればいいか。解釈でブレが生じないように厳格に記載することである。条例の起案者の意思を正確に条文にするのはどうしたらいいか。その技術が「法制執務」だ。

    3 法制執務の基礎-「主語」と「等」

    (1) 主語の話

    意図を正確に反映した条文の必要性を説明した。「そんなの日本語なんだから簡単でしょ」という声が聞こえてきそうだが、その日本語が難しいのだ。例えば、公民館などの公の施設条例にありがちな損害賠償の条文を考えよう。「公民館の利用者が施設等を破損したときは、その損害を賠償しなければならない」。日用文なら何となく意味が取れるが、条文とすれば誤りだ。順を追って考えよう。たとえば、次の2文を見てほしい。これは昔、第一法規の研修に参加したときに聞いたものだが、非常に面白く、強く記憶しているものだ。

    • ア、彼は、泣きながら去っていく彼女を追いかけた。

    • イ、彼は泣きながら、去っていく彼女を追いかけた。

    同じテクストなのだが、読点の位置が違う。たったこれだけで、アはドラマチックな情景、イは情けない情景が思い浮かぶだろう。笑い話の類だが、法令の条文とすれば致命的な違いだ。そこで、「法律の条文の主語は、《〇〇は、》と、《は》という助詞+読点を用いる」というルールがある。したがって、この例文では、アが法制執務的に正解ということになる。このルールは、自分で条文を書くときはもちろん、法令や例規を解釈する際にも有効だ。法律を正しく読める人は、正しく書けるという話だ。

    ちなみに、この話をすると、「〇〇法のこの条文は違います」と反論されることがある。日本には2000本ほどの法律があり、たしかに例外はあるだろう。例外とその意味を研究するのは面白いけれど、少なくとも公務員の日々の仕事の中では不要だ。法律に、このルールでは説明できない例外があるからといって、自治体職員が条例を書くとき「主語+《は、》」というルールを守らなくていいという話にならないということだ。これは俳句に似ている。最近では芸能人が俳句を作るバラエティ番組で、5・7・5というルールを崩した「破調」の句が持て囃されている。破調は典型的な5・7・5の句を極めたから書けるものだ。入門者が破調から入るのは無茶苦茶だ。同様に、内閣法制局ならいざ知らず、条文を書く機会が少ない自治体職員が例外に拘泥しても意味がない。まずは基本、「主語+《は、》」という原則を覚えるべきだ。

    さて。これを理解したうえで、「公民館の利用者が施設等を破損したときは、その損害を賠償しなければならない」という条文の検討に戻ろう。今ならば、「この条文には<誰>という主語がない」と気づくはずだ(「ときは、」の「は、」は条件節だ)。意味から考えて、この条文の主語、つまり、損害を賠償しなければならない者は「利用者」なのだから、確認したルールにそって修正するなら、「公民館の利用者は、施設等を破損したときは、その損害を賠償しなければならない。」となる。なお、法律の条文を読み慣れないと、「〇〇は、○○ときは、」と続くため、日常の言葉とすると少し違和感があるかもしれない。しかし、法律にはこのような用例は数えきれないほどあるのだ。例えば民法28条「管理人は、第103条に規定する権限を超える行為を必要とするときは、家庭裁判所の許可を得て、その行為をすることができる。(後段略)」はその例の1つだ。

    これを理解することは、誤りのない条文を書く第一歩だ。僕は、条文を書く際、まず「利用者は、損害を賠償しなければならない。」という骨格を作り、これに「何の損害か」「どういうときの話か」といった説明を加えていくという書き方をしている。

    (2) 「等」の話

     公務員が最も好きな言葉は何か。集計を取った訳ではないが、おそらく上位に入るのは「等」だ。法令名で言えば、「公衆等脅迫目的の犯罪行為等のための資金等の提供等の処罰に関する法律(平成14年法律第67号)」と「等」を4つ使ったものがある。日々、作成される例規や公文書を見ると、「等」が多いことに気付くだろう。例規審査でも「市長等は、必要があると認めたときは、施設等の利用者等に退去等を求めることができる」なんて案文を見ることがある。誰が誰に何をできるか。どこまでできて、どこからできないのか。曖昧過ぎわからない。当然、「この《等》はなんとかなりませんか?」と訊く訳だが、「何かあったらどうするんだ。お前が責任取ってくれるのか!」とか返される。取る訳ない。ここには、「何かあったら《等》で対応する」という発想がある。しかし「等」と書いてあったからといって安心という訳じゃない。その射程は無制限ではない。具体的には、次の法制意見があるという。林先生は次の法制意見を引用している。

    一般に法令の規定で、一ないし数個の列挙次項を掲げて、その直後に「等」の字が用いられた場合は、別異に解すべき特別の理由がない限り、その「等」に包含される事項は、例示事項とその規範的価値において同じ性質の重要性を有するものと解するのが相当である。

    林修三『法令用語の常識』171頁・法制意見総覧1330-4頁

    先の例でいえば、「退去等を求めることができる」とあり、「退去等」に定義規定で特別な定義を与えていない場合には、この「退去等」で読める限界は、「退去」と同じくらいの性質までという話だ。「等」で「損害賠償」のような性質の異なるものを読もうとするのは無理というものだ。このような多くの問題を含むため、林先生は「(定義のないはだかの《等》は)なるべく避けた方がいいだろうというのが原則論」と書き、濫用を戒めている。

    4 まとめ

    この章では、僕のエヴァの思い出から語りはじめ、法制執務の基礎の基礎を書いた。若手公務員や、法制執務にあまり関わってこなかった方には、次を意識していただきたい。これだけで、法制執務に関する仕事の質が少し向上するはずである。

    • 俺が書いたのだから、条例の解釈で敗けるはずがない」は誤った認識。解釈するのは市民であり、裁判官。解釈される「意思」は起案者の心理的意思ではない。

    • だからこそ、条文は、起案者の意思が的確に反映するものとする。その為の技術が法制執務。最低限、 ア、条文の主語には、「主語+《は、》」、イ、「~等」は無敵じゃない。原則、はだかでは使わない。という点は意識したい。

    参考文献

    • 山田晟『法学(新版)』(東京大学出版会.1964)

    • ポール・ニザン、篠田浩一郎(訳)『アデン アラビア』(晶文社、1966年)

    • 林修三『法令用語の常識(第3版)』(日本評論社,1975)

    • 林修三『法令作成の常識(第2版)』(日本評論社,1975

    その他連絡

    第1章、第2章については、試供版としてKindleにて販売中です。


     
     
     
    修士(学術)、学士(社会科学/法学/文学)。行政学・地方自治論から思想史・社会学・民俗学などへ枝を伸ばす書き手。AI時代における「タコツボ型の知の限界」を超えることを目指し、複数の学問、また学術と実務を往還する学際的な知性「ササラ型の知」を磨くための批評を書いています。

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