
月の花 シロクマ文芸部
月の花を眺めている桃李(とうり)のこと、殺してみたくなった。
顎が無防備だから、そこを狙えば私の華奢な拳でも殺れるかもしれないし、昨日観た綾野剛みたいに殴ればより確実に殺れるかもしれない。
かもしれない、かもしれない。
それでいつも終わり。
実際に行動にまで移せたなら、かもしれない、は『殺せた』か『殺せなかった』になるのに。
◇
いつもそうだ。
頭の中では何人もの人を殺してきた。私をいつも見下してくるバ先の友也、電車の中で私をいやらしい目で見てきた名前も知らないじじい、そして私なんて産まなきゃよかったって酔うたびに言ってくる名前も言いたくないママ。
頭の中ではいつも綾野剛並みに綺麗な左フックを放って顎を撃ち抜いて殺してる。
けど実際は手を握りしめて力を込めることすらしない。ただ頭の中で処理して終わりだ。
だから私は現実世界ではまだ誰も殺してない。
◇
なのにさっき警察が来て
「桃李さんのことでお聞きしたいことがあるので、ご同行よろしいでしょうか」
だなんて急に言って、私をこんな狭い部屋に連れてきた。冷め切っている。金属製の机が冷たい。
その部屋で私は桃李が死んだことを初めて知った。
そんなことある?まず死んだってなに?それにもしかして私が疑われている?
ああそうか、昨日私が桃李を殺したいって思ってたからか。
いやいやいや、それで疑われるなら、人類皆殺人の容疑者じゃん。ありえない。
◇
ほら、この世はありえないことだらけだ。
誰からも愛されず、産まれた意味すら自分ですら分からないのに、誰でも選べるはずの桃李は何故か私を選んでくれたんだ。
ありえない。
最初は誰かに罰ゲームで言わされているんだと思ったけど、どうやらそうでは無いことが数ヶ月過ごしてみて分かってきた。
「一歌がたまに繰り出すシャドーボクシング、誰も殺せなさそうで、へなちょこで、けどそういう変な行動さえ可愛いなって思っちゃってる。これが人を好きになることなんかーって一歌に出会ってから気づいてばっかの日々です」
「なにそれ、変なの、いつか私の拳で死んでも知らないからね」
小枝すら揺らさない微風のようなささやかな日常。
その積み重ねの中で、もしかしたらありえないことが起こってるのかもしれないって実感してきたんだ。
それで実感してきたら、急に怖くなった。
ありえない事ばかりが起こるこの世の中で、この人に嫌われてしまったら、私はもう立っていることさえできなさそうだった。
だったら殺してしまって元々無かったことにした方が良いんじゃないかって思ったんだ。
だって桃李が月の花を眺めている横顔は、あまりにも美しくて、愛おしいってなっちゃったから。
だから殺したかった。けど死んでほしくなんてなかった。
なんで桃李が死なないといけないの。
死ぬなら私だ。
まじでこの世はありえないことだらけだ。
◇
警察署からの帰り道に、桃李が見てた月の花を私も見た。
満月の光に照らされたその月の花は、昨日より鮮明に見えるはずなのに、わたしの世界では朧げいていた。
終わり