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総額200万円。約三十年ぶりの社員旅行が「当たった」話。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

    プロローグ

    私には、呪縛のように心から離れない場所があった。
    岐阜県東濃地域にある、小さな町工場。地場産業である陶磁器。そのタイルや陶器の色や質感を決める「釉薬(ゆうやく)」をつくる、私の家業だ。

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    従業員18名のタイル用釉薬メーカー・玉川釉薬

    2011年。26歳の私は東京へ向かった。もう家業には戻らないつもりだった。その後6年間、企画や事業づくりを学び、全国の町工場を訪ね多くの人と出会った。会社も立ち上げた。

    眩しい『外』に出て見えてきたのは、自分のルーツ。

    父が守り続けた会社。
    姉が色を生み出し続ける工場。
    そこで働く社員たち。

    今、私は再びその場に戻り、少しだけ外側から関わっている。

    この物語は、町工場が嫌いだった私が家族や社員と向き合いながら、自分のルーツと、もう一度向き合っていく約20年の記録である。

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    玉川姉妹(2019年、玉川釉薬にて)

    人生、終わったと思った


    「大学を辞めて、2年だけ、玉川釉薬を手伝ってくれ。」

    20歳のとき、大学2年生だった私と、一学年上の3年生だった姉に、父はそう言った。

    当時の私は『世界』のことばかり見ていた。
    難民のために何かできないか。
    貧しい子どもたちの力になれないか。
    そんなことを本気で考えていた。

    だから、その言葉はあまりにも突然だった。

    「私たちが?」
    「この田舎で?」
    「町工場で?」
    「泥──いや、釉薬にまみれて働くの?」

    本気で「人生、終わった」と思った。

    そのときの衝撃は、まるで後ろから鈍器で頭を殴られたようだった。20年近く経った今でも、あの日の絶望だけは、心のどこかにこびりついている。

    呑気な女子大生だった私は、父や母がどんな思いで会社を続けていたのか、何ひとつ分かっていなかった。30年近く会社勤めの釉薬職人として働き、44歳で独立した父。直後に起きたバブル崩壊。その隣で、母もまた会社を支え続けていた。

    ある月末、父が通帳を見つめながらぽつりと言ったそうだ。
    「会社にこんなにお金が残ってないなんて、おかしい。」
    経理を任されていた母には、その一言が深く突き刺さる。毎月、資金繰りに頭を悩ませ、支払いの順番を考え、眠れない夜を過ごしながら、それでも会社を回そうと必死だった母。その言葉は、自分の努力まで否定されたように聞こえたのだろう。
    「もう、頑張れって言わないで。」
    その日を境に、母の心は限界を迎えてしまった。

    当時、私は同じ屋根の下で暮らしていながら、母の悲鳴に気づいていなかった。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
    姉は関西の大学でマスコミを学び、私は愛知の大学で言語を学んでいた。四人姉妹の娘ばかり。後継者として育てられた記憶はない。私たち姉妹にとって町工場は、家業ではあっても、自分ごとでも、自分たちの未来でもなかったのだ。

    母がここまで追い詰められていたことを知ったとき、私は深く後悔した。

    せめて母の苦しむ気持ちに寄り添い、一緒に何か方法を考えられていたら――。その後悔が「大学を辞めて会社を手伝おう」という私の決断につながった。

    「お父さんは2年って言うけど、きっと2年じゃ終わらないよ。」
    「絶対、自分の居場所ができちゃうから。」
    そう言って最後まで反対したのは、一つ上の姉・尋子(ひろこ)だった。

    私は家族を選んだ。

    一方で姉は最後まで抵抗した。大阪へ戻り「何とかならないか」と最後までもがいた。マスコミの世界で働きたい。その夢は、私よりも具体的で、眩しく、ずっと現実に近かった。だからこそ、夢が手の中の砂のようにこぼれ落ちていく感覚は、私以上だったと思う。

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    大学生活を満喫していた姉(左)

    それでも私が会社へ入ると決めたことで、姉もまた決断した。

    2003年10月。こうして私たち姉妹は、田舎の釉薬工場で働くことになる。

    父が憎かった。
    町工場が憎かった。
    大学を辞めることになった運命も、自分自身も嫌いだった。

    朝から夕方まで田舎の工場で作業着を着て働く。同じことを繰り返す毎日。家族のために働いているつもりなのに、父には怒られる。悲しくて、やるせなくて、姉と二人で工場の片隅で泣いたことだって一度や二度ではない。友達は大学生活を送り、就職活動の話をしていた。工場にいる私たちだけ、時間が止まったような気がしていた。

    このまま一生、この工場で私の人生は終わるの?
    未来が全く見えなかった。

    「当たり」で世界へ出る


    この暗黒時代に、私を支え救ってくれたのは、語学――英語。『世界』へ続く扉を閉じないための私なりの抵抗。心のどこかでは、海外で活躍する自分を諦めきれなかった。

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    仕事後、近所のおじさん方と英会話

    ある日のこと。英語教材出版社の「アイルランド二週間語学体験モニター募集」の広告が目に留まった。

    お金はない。
    それでも『世界』を見たい。

    応募に必要だったのは、一篇のエッセー。

    なぜ英語を学びたいのか、なぜアイルランドへ行きたいのか。
    私は自分の思いをそのまま綴り、祈るような気持ちで応募した。

    そして、結果は――当選。
    私の人生を動かした、最初の「当たり」だった。

    当時は「会社を二週間も空けるなんて・・・」と思っていたが、幸いにも母の体調も少しずつ落ち着き始めていた。

    2004年11月。私は、生まれて初めて海外へ飛び立つ。

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     パスポートについた、はじめてのスタンプ

    初めて見る景色。初めて触れる文化。言葉が通じず戸惑うことも、失敗することもたくさんあったが、自分の力で二週間をやりきり、日本へ帰ってきた。

    帰国後「二週間行けたなら、三か月だって行けるんじゃない?」と、不思議な自信が芽生えた。今思えば、とても単純な発想だ。

    次はピースボートの三か月の船旅で、世界一周を目指した。

    お金は当然なく、代わりにポスター貼りのボランティア制度を利用し、一年間かけて世界一周の切符を手に入れた。

    『世界』を旅して、私は初めて知った。
    訪れた国は、決して豊かとはいえず、貧困があり、格差があり、生まれた場所によって人生が大きく左右される現実があった。それでも人は明るく前向きに笑い、私たちに優しかった。

    私は、自分がどれほど恵まれた環境で生きてきたのかを思い知らされた。大学を中退してからの私は、「ないもの」ばかりを数えていたように思う。
    本当はたくさん持っていたのに。
    日本という環境。インターネット。学ぶ場所。挑戦する方法を探せる自由。

    できない理由ではなく、できる方法を考えよう。
    その考え方を教えてくれたのが『世界』だった。

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    エジプト・カイロ

    旅の最後の日、私は仲間の前でこう話した。
    「今日が、私の本当のスタートです。」
    帰国後も玉川釉薬で働きながら、NPO団体を設立し、名古屋でゴミ拾いをはじめた。私の世界は少しずつ広がっていった。「2年だけ」のはずだった家業での生活は、いつの間にか6年が過ぎようとしていた。

    もっと、外の『世界』を見てみたい。仕組みづくりを学びたい。

    そしてようやく、家族は私を引き止めることなく、
    「行っておいで。」
    と背中を押してくれた。

    2011年。私は、姉を岐阜の町工場に残し、東京へ向かった。

    東京で学んだこと


    東京では、それまでとはまったく違う『世界』が広がっていた。
    企画を考え、企業や行政と一緒にプロジェクトを動かす。仲間とプロジェクトマネジメントや組織づくりを学び、つくり上げる喜びを知った。

    2014年。仲間とともに会社を設立した。

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    会社設立周年パーティー

    子どもの頃「絶対にサラリーマンと結婚する」と言っていた私が、自分で会社をつくるなんて思ってもみなかった。私にとって会社とは、“借金を抱え、家族を苦しめるもの”だったから。東京で出会った経営者は違っていて、“会社は人を幸せにすることもできる”ことを、東京で初めて知った。

    『どうせ会社をつくるなら町工場を応援する会社をつくりたい』

    そんな思いから、全国の町工場を訪ね歩いた。工場を地域に開く「オープンファクトリー」に取り組む人。自社ブランドを立ち上げ、世界へ挑戦する人。私が訪れた町工場は、自分たちの技術や地域の魅力を信じ、新しい価値を生み出そうとしている方々ばかりだった。

    その姿が、とても眩しかった。

    ちょうどその頃『下町ロケット』を読んだ。
    虐げられながらも、自分たちの技術を信じ、挑み続ける町工場の話だった。
    読み終わって、涙が止まらなかった。東京のマンションの一室で、一人、声を出して泣いた。
    町工場の物語に、これほど心を揺さぶられる自分がいることに驚いた。
    悔しさ。悲しさ。憤り。そして、町工場が報われることへの喜び。

    そのとき初めて、私は町工場が嫌いだったはずなのに、心の奥ではずっと町工場のことを諦めきれていなかったことを自覚したように思う。

    眩しい外へ出たからこそ見えてきた、自分のルーツ。
    家業の釉薬。
    陶磁器産地という地域。
    そして、生まれ育った瑞浪(みずなみ)の町。
    「自分の地元の窯業でも、オープンファクトリーができるかもしれない。」
    そんなことを考え始めていた頃―――。

    一本の電話が鳴った。

    「尋子の旦那さんが、いなくなった。」
    というものだった。

    帰ると決めた日


    姉の夫は、「探さないでください。」と書き置きを残し、会社を去ったという。
    私たち家族が「この人が会社を継いでくれる」と信じていた人だった。

    姉の落ち込みはもちろんだった。それ以上に取り乱したのは、父。夜遅くまで車を走らせ、「どこかにいるんじゃないか」と、あてもなく探し続けたという。

    そんな父をこれ以上不安にさせまいと、姉は立ち上がった。
    私も同じことできるから大丈夫だよ、と、それまで義兄が担当していた営業先へ、一軒一軒足を運び始めた。姉には、悲しむ時間も、立ち止まる時間もなかった。

    今振り返れば、「婿として家業に入り、一生懸命やってみたけれど、自分には合わなかった。」ただ、それだけのことだったのかもしれない。家業に入ることも、家族と働くことも、誰にでもできることではないから。

    けれど当時の私は、そんなふうに割り切ることはできず、ただただ、大きな衝撃だった。同時に、自分は辛くて飛び出した場所なのに、その苦しみを誰かに背負わせて、自分だけ東京で楽に生きているなんて、あまりにも虫が良すぎると思った。

    工場を支え、家庭を守り、夫婦二人で会社を背負ってきた姉が、これからたった一人でそのすべてを背負おうとしている。

    「このまま姉を一人にはできない。」

    役に立てる保証なんてない。
    それでも、せめて姉の隣に立とう。
    そう決めた私は、翌日から東京で進めていたプロジェクトの引き継ぎを始めた。

    家族のために嫌々家業へ入った一度目。二度目は、自分の意思で帰ることを決めた。20歳のとき「人生が終わった」と思った場所へ、もう一度戻る。それが怖くなかったと言えば、嘘になる。

    そんな私に、一緒に会社を立ち上げた仲間が言った。
    「家業から逃げ出さないために、クラウドファンディングをやろう。」
    資金を集めるためじゃなく、家業と向き合うと決めた自分から逃げないため。そして、応援してくれる人たちとの約束をつくるため。
    私は、なぜ家業を変えたいのか。なぜ瑞浪へ帰るのか。その思いを何度も言葉にした。そのたびに、自分の覚悟も少しずつ固まっていった。

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    自分の思いを必死で言葉にした、クラファン。無事に達成した。

    集まったのは、お金だけではなく、背中を押してくれる、たくさんの「応援しているよ!」の声。

    2017年。
    私はその声を胸に、再び地元へと戻ってきた。

    姉という人


    苦楽をともにした一つ上の姉・尋子。
    今は玉川釉薬の二代目社長だ。

    私の中で姉は、昔から「社長になる人」ではなかった。どちらかと言えば、自分が前に立つのは得意ではなく、おっとりした性格。

    でも、子どもの頃、普段はどこか頼りなく見えるのに、不思議とピンチになると一番頼りになった。怖い場面では、いつも私の前に立ってくれた。

    小さい頃からそんな姉が大好きだった。

    大学を中退して家業に入った姉の最初の仕事は、色づくりの補助。毎日泥だらけになりながら、何も教えてくれない寡黙な父の肩越しに、少しずつ釉薬を覚えていっていた。

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    父と姉の作業着姿

    釉薬は、教科書どおりにはいかない。
    気温や湿度、窯の状態。
    ほんの少し条件が違うだけで、色は変わる。

    何度も失敗しながら、姉は毎日タイルと向き合い続けていた。

    私が世界へ行き、東京へ行き、会社をつくっていた間も、姉はずっと町工場にいて、毎日同じ時間に出勤して、同じ窯を見て、同じ色とずっと向き合っていた。夫婦二人で守っていくはずだった会社を、一人で背負うことになっっても、それでも姉は、色を作り続けた。会社も、夫婦も、投げ出さなかった。

    私は思う。

    姉には、思いどおりにならない出来事を、笑い話に変えてしまう強さがある。

    色が思うように出なくても、
    「どうしたの?この前までめっちゃいい感じやったのに・・・。」
    と、深夜の工場で焼き上がったタイルに本気で話しかけている。

    うまく焼き上がった日には、
    「よく頑張って赤くなってくれたね。」
    「納期に間に合ってくれて、ありがとう。」
    と、今度はタイルをねぎらっている。

    ある時、大切に関係を築いてきた取引先から、「高いから」と、実質的に取引を断られたことがあった。私なら、もう二度と行きたくないと思ってしまう出来事だった。

    でも姉は真顔で言う。

    「私は、冷たくされても尽くしちゃう女なの。」

    そう言って通い続けた。顔を出し、話をする。諦めるという選択肢は、最初からなかった。
    ほどなく、その会社から「やっぱり玉川さんの技術が必要だ。」と再び声がかかったそうだ。

    一つのことを、何年も、何十年も続けることは、誰にでもできることではない。

    私はずっと、姉は社長向きではないと思っていた。

    でも今なら分かる。

    二代目社長に必要なのは、人を押しのける強さではない。
    色を信じ、人を信じ、自分を信じて、続ける力なのだ。

    空回りする使命感


    東京から家業へと戻った私は、釉薬づくりではなく『特注タイル事業』を立ち上げた。

    建築家やデザイナーから相談を受け、その要望を父へ伝える。父は図面を見るなり「その色、つくれるぞ」と当たり前のように言う。東京では手に入らないものを、父は町工場でつくってしまう。

    その姿を見て、初めて思った。

    父が色をつくる。私が企画提案する。
    これなら一緒に戦える!

    半世紀、釉薬と向き合い続けた父。

    「釉薬屋はタイルのトレンドをつくれるんだ」とポツリと言う。
    「まだまだ釉薬はわからないことだらけ。だから楽しい」と目を輝かせる。

    昔は父を憎んだこともあった。
    でも、それ以上に、一人の職人として心から尊敬していた。

    私の特注タイル事業が花開いたのは、父の技術があったからこそだ。

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    父と私が最初に手がけた青むらタイル

    でも、それだけでは会社は変わらないと思っていた。町工場そのものを変えたかった。
    町工場に光を当てたかった。
    ここで生きている人たちを見てほしかった。

    だからまずは、外へ向けての発信を始めた。
    工場を地域に開くオープンファクトリーを企画し、父や地元の窯元を取材した。パンフレットをつくり、新聞やテレビにも取り上げてもらった。

    そして、玉川釉薬の変革にも着手した。
    数字を分析し、事業戦略も考えた。会社の理念をつくろうと専門家に入ってもらい、人事評価制度について友人に相談した。これまで行われていなかった社内会議も始め、進行役や議事録づくりも引き受けた。

    なんとしても、変える!そのことばかりに目を向けていた。

    現実はそう甘くなかった。

    私が「会社はこうしたほうがいい」と思うことは、ことごとく通らない。東京で学んだ組織づくりを、そのまま持ち込めばいいと思っていたけれど、会社には、父や母が守ってきたやり方があり、長い年月をかけて築かれた文化があった。

    社員同士で雑談をすることはほとんどない。
    飲み会もない。
    社員旅行も三十年近くやっていない。
    誰かの誕生日を祝う文化もなければ、一人ひとりと面談をする文化もない。
    「会社は仕事をする場所」
    それが、町工場だった。

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    8時前に来て17時30分に帰る毎日。

    私が、
    「みんなでミーティングをしよう!」
    「会社の理念をつくろう!」
    と提案しても、返ってくるのは戸惑ったような表情。
    「ミーティングって、何のためにやるんですか。」
    「必要ですか。」
    社員からそんな言葉が返ってきたこともあった。

    ある朝、「経営会議をやる」と聞き、私は急いで事務所へ向かった。でも、もう終わっていた。私抜きで。
    「あれ? 終わった?」
    そう聞くと、母は言った。
    「うん。あんた来なかったから、なしで終わったよ。」
    その言葉は、今でも忘れられない。
    母から私に向けられた「経営には口を出すな」というメッセージだと思った。
    会社を変えたい一心で動いてきたのに、会社という輪から弾き出されたような感覚だった。

    思うようにいかない日々の中、地元に帰ってきてはじめて、姉と言い合いになった。

    会社はこう変えられるはずだ!と熱く語る私に、姉は言った。

    「でも、幸枝は現場のことを知らないじゃん。」
    「うちは大手企業とかじゃない。ただの町工場なの。」

    東京で学んだ経営を信じる私と、現場を見ている姉。

    会社の経営からは弾かれ、守りたいと思っていた姉とは言い争ってしまう。

    そこで初めて、自分が会社を「変えよう」とすることばかり考え、「理解しよう」としていなかったことに気づいた。
    父と母が築いてきた文化。それはルールよりずっと強かった。
    私は、変わることを押し付けていたのだ。
    そのことに気づき、受け入れるまで、五年ほどかかった。

    会社を変えることより、自分にできることを探そう。

    特注タイル事業に注力し、後継者たちが集まる勉強会にも足を運んだ。

    そして、辿り着いたのは、
    “家業との向き合い方は一つではない”
    という考え方だった。

    私の動き方も変わっていった。

    それまで私一人で受けていた取材には、姉にも入ってもらうようになった。経営について話す場にも、できるだけ姉が参加できる形を探した。

    会社の顔は、私ではなく社長である姉。

    その当たり前を意識して動き始めると、不思議なくらい物事は良い方向へ流れ始めた。

    そうだ。この感覚だ。

    小さい頃、怖いことがあると、いつも姉が私の前に立って守ってくれた。その後ろにいた私は、姉の背中がどれだけ頼りになるのか知っている。

    父と母と姉は工場を守る。
    私は外へ出て、新しい仕事をつくる。
    それが、私たちの一番自然な形だった。

    自分の意思で家業に戻ってから五年。少しずつ、自分なりの家業との向き合い方が見え始めていた。

    二度目の当たり


    人生には、不思議な共通点がある。振り返ってみると、私の人生が大きく動くとき、いつも「当たり」があった。
    一度目は、アイルランド二週間語学留学。あの「当たり」が世界への扉を開き、世界一周へつながり、東京へつながり、たくさんの仲間との出会いを連れてきた。

    二十年後。
    二度目の「当たり」がやってきた。

    その一年前、玉川釉薬では大きな転機を迎えていた。

    代替わりだ。

    会社は多くの借入を抱えていた。子どもの頃から「会社が倒産すれば家もなくなる」と聞いて育った私たち姉妹にとって、「経営」は人生を揺るがすリスクそのものだった。

    私は、姉が経営に対して大きな責任と不安を抱えていることを知っていた。会社を継ぐかどうか。姉の葛藤は言うまでもなかった。

    一方で、父は七十歳を過ぎ、少しずつ思うように色を合わせられなくなってきていた。その姿を見るたびに「父が健康なうちに、姉自身の手でバトンを受け取ってほしい!」と強く願った。

    押しつけられて継ぐものじゃない。
    今回は、自分で選んでほしい。

    姉の決断を待った。

    そして、ついにーーー

    姉が、自分の意思で「この会社を継ぐ」と言ってくれた。

    その決断の裏側には、職人として積み重ねてきた自信と誇りがあったのだと思っている。

    そう言うと姉はきっと、
    「違うよ。私は、尽くしちゃう女だから。」
    と笑って否定するのだろう。

    姉の決断は、私にとって何よりうれしい出来事だった。

    それから約一年後、一つの募集が私の目に留まった。

    後継者たちが集まる勉強会を運営するエヌエヌ生命の「社員旅行まるっと応援キャンペーン」。創業40周年を記念した企画で、社員一人あたり10万円、最大20人、総額200万円。二度見してしまうような太っ腹な内容だった。

    募集対象は「社内コミュニケーションを活性化したい中小企業」。
    その一文を見た瞬間、思わず笑ってしまった。
    「これ、まさにうちの会社じゃないか。」
    以前の私なら、一人で突っ走っていたかもしれない。いまでは、玉川釉薬のことは、真っ先に社長である姉と新しく事務に加わった妹に相談している。
    二人とも「面白そう、出してみよう」と言ってくれた。

    代替わりという節目を迎えたこの会社に、ほんの少しだけ新しい風を吹かせたい。そんな思いで、応募ボタンを押した。

    結果は――また、「当たり」だった。

    この「当たり」は、30年近く止まっていた会社の時間を、もう一度動かすきっかけをもたらしてくれた。

    会社は、人でできている


    私は「社員旅行」というものに、ずっと違和感があった。テレビでは「社員旅行で絆が深まる」と言う。でも、玉川釉薬はそんな会社ではなかった。

    そんな会社に、社員旅行が当たった。

    ほぼ30年ぶりの社員旅行。普段やらないことをすると、やっぱり何かが起きる。案の定、大型の台風が二つやってきた。人生初の広島の人もいた。人生初の新幹線の人もいた。それでも、なんとか社員旅行がはじまった。

    普段の玉川釉薬では見られない景色だった。

    一番驚いたのは「上田さん」だった。
    新幹線の車内。いつもは機械のように黙々と仕事をする上田さんが「飲み物、何にする〜?」とひとりひとりに声をかけながら、缶ビールや酎ハイを配って回っていた。

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    盛り上がる新幹線車内(右手前が上田さん)

    実は、私は上田さんとほとんど会話をしたことがない。

    玉川釉薬のミーティングでも、上田さんの番になると、
    「ギリギリでやってます。」
    そんな受け答えしかしない人だった。
    だから私は、勝手に「マシン上田」と呼んでいた。

    ところが、この旅行では違った。初日から白いTシャツに白いパンツという全身ホワイトコーデ。胸には大きなベイマックス。

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    姉の後ろにベイマックス

    誰かが「ベイマックス〜!」と呼ぶと、「誰がベイマックスやねん!」と、ちゃんとツッコミまで返ってくる。しかも、本人もどこか嬉しそうなのだ。

    上田さんは、当たり前だけれど、一人の人だ。
    家庭があり、休日があり、ベイマックスのTシャツを着て、冗談を言って笑う。

    会社では見えなかっただけのこと。
    会社は、人でできている。

    社員旅行で私が一番見たのは、宮島でも厳島神社でもなく、そんな一人ひとりの素顔だったように思う。

    その様子を忘れたくなくて、私はnoteに書き留めた。
    それが、この物語を書き始める最初のきっかけになった。

    社員旅行に行ったからといって、翌日から会社が劇的に変わったわけではない。
    急に全員が仲良くなったわけでもない。
    ミーティングが活発になったわけでもない。
    会社の問題が消えたわけでもない。

    でも、何かが少し変わったように思う。
    仕事以外の顔を見た。
    同じ景色を見た。
    同じご飯を食べた。
    同じバスに乗った。
    それだけで、30年近く止まっていた会社の時間が、ほんの少しだけ動き始めた気がした。

    「また、このメンバーで旅をしたい。」
    旅行の最後に、私はそんなことを思った。

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    約30年ぶりの社員旅行

    エピローグ


    太っ腹な企画「社員旅行まるっと応援キャンペーン」が私にくれたもの。

    それは、町工場へ自分の意思で戻り、会社を変えようともがき、手放し、自分なりの道を見つけたタイミングで届いた『少し外側から会社を見つめる時間』だったかもしれない。

    実はこの旅行で、事務を担当する妹から「姉より先に段取りせずしゃしゃり出ないように」と釘を刺されていた。普段ついつい出しゃばる私は早々に戦力外通告をされ、ぐっとこらえて外野から見守っていた。

    旅行でも二人は頼もしく、私は心地よく楽しい時間をみんなと過ごせた。

    会社もそうだろう。

    父と母が守ってきた会社を、姉が受け継ぎ、社長として前へ進め、妹が支えている。「私が一人で何とかしなければいけない」ということは、もうないのだ。

    もちろん今でも玉川釉薬のことは考えている。「こんなことをやったらどう?」と、つい提案して、妹からは、またしゃしゃり出てる!と怒られることもあるかもしれない。

    夢を奪い私を縛る場所だった町工場。
    その呪縛から解き放たれた、42歳の夏。

    いまは、この町工場に、この町に、何が恩返しできるだろう。そう、前向きに考えられるようになっている。

    これからも、家業のちょっと外側から風を送りながら、姉の横で、その続きを記録していきたい。

     
     
    1984年岐阜県瑞浪市生まれ。起業家12年目・家業持ち。TILEmade代表。焼き物産地で家業の釉薬技術を活かしたタイルブランドを立ち上げ。仕事は、タイル開発、ときどきまちづくり。TOEIC945過去最高、おうち英語息子0y7m→4y2m、趣味は登山とランニングと大相撲。

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