
ごめんなインゲン
インゲンなんか歯牙にもかけていなかった。
いや、正味な話、インゲンに思いを致しながら育ってきた子供たちってあんまりいないんじゃないだろうか。
時折、目の前に立ち現れては、何の感情も無く口の中へと放り込まれて消化され行く野菜。比喩で無く十把一絡げ、という感じの野菜。
じゃがいも、玉ねぎ、とうもろこしなどは花形。
ほうれん草、ピーマン、人参なんかは悪役としての存在感を放つ場合もある。
が、インゲンはどうだ。
全くの無役。野菜幕府の小普請組。窓際野菜。
母親がきまぐれに食卓に饗すのみ。
それも、何らかの煮物のつけあわせやら、塩ゆでしてかつぶしぱらぱらなど。どうにも地味。
そう、「今日インゲン食べたい!」言った経験のある子供はおそらくこの国に百人と居まい。
長じてからもそうである。
インゲンは常に意識の外にある。
時折、やる気のない居酒屋などにいくと突き出しでインゲンを茹でたやつの胡麻和えが出てくることがあるが、あの程度じゃないか?
そしてインゲンを突き出しにしている居酒屋でさえ、インゲンを使った料理はメニューに無かったりする始末。全く存在感がない。
出てきたインゲンはそりゃあ食べるが、インゲンを自分の意志で食べる。という経験をついぞせぬまま死んでいく人もきっと多いはず。
何を隠そう、僕がそうであった。
インゲンとは全く没交渉のまま暮らしてきた。
ただ、昨今の野菜高騰。
毎日スーパーに行き、何らか安い野菜を購入し、それを食べる、という暮らしだが、今年の春、どうにも何もかもが高いという時期に、インゲンだけがちょっと安い。という時期があった。
巷間話題のナフサ不足が巡り巡って僕の手をインゲンに伸ばさしめたか。
まるさやのインゲンを購入して帰るが、どうやって料理をすればいいのかピンとこない。
ひとまずインターネットでレシピを見ると「ともかくひとまずスジを取れい」とすべてのサイトに書いてある。
スジが残っていると口に残ってうっとおしいらしい、鋭意、取る。
せせこましい作業である。
インゲンの片端をポキリと折って下へとスーッとスジを取っていく、ピローっとスジが取れていくのだが途中で切れると「アアッ!チッ!クソッ!」てなもんだ。
割りにストレス。
ズッキーニならばバタバタ切るだけでいいし、トマトなんてへたを切って齧るだけ、ジャガイモやにんじんも洗うだけで皮もむかない。
インゲンは一本一本スジを取る……面倒だ。
骨を折ってスジを取ったインゲンは沸騰したお湯に塩を投じて塩ゆでにする。
数分茹でてしんなりしたらざるで水気を切って。
戸棚を見ると、かつぶしがある。
水気を切ったインゲンを一口サイズに切る。
かつぶしを振りかける。めんつゆを垂らす。後はなじませるだけ。
生涯にわたって時折目の端に認め続けていたインゲンの姿がそこにある。
一口食べて驚く。
美味い。
改めて食うとインゲンって美味いのだ。
ほんのりと暖かいインゲンがめんつゆを吸ったかつぶしをまとっているだけ、なのだが、思いもかけない美味さがある。
さや部分は爽やかな味わい。肉厚のさやをかむと、心地よい、キュム、という感触。キュムの先へさらに歯を入れると、プチン、とかみ切れる。肉厚なさやに閉じ込められた、緑の味、とでもいうべきほんのり暖かい甘みが口中に広がる。
と、同時に豆だ。
まるさやのインゲンはさやがメインではあるが、豆もさや在中。
さわやかなさやの甘みの後から豆の濃厚さが、グッと効いてくる。食感も一人前の豆で、ほろっとっする。
非常に濃厚なさやと豆の協働が高レベルでインゲンには閉じ込められている。
3口4口、7口8口、さいごはがっつくようにインゲンを掻き込んで。
「今まで、ごめんよ」
という気持ちになる。
今まで、あくまで添え物、いや、添え物以下。いや、透明化すらしていたインゲン。
向き合ってみるとこんなに美味しいとは。
いないことにしていて、すまんかった。謝罪が心のうちに沸き上がる。
人にいないことにされる苦しみ。
決して幸福ではない少年時代を送ってきた僕である。わかっていたはずじゃないか。それなのに、ごめん。申し訳ないインゲン。
僕はクラスの皆に無視されながら、インゲン、君のことも無視していたんだ。
いい、心行くまで殴ってくれ。そのさやをしならせて。ぶってくれ。
豆で撃ったっていい。君の渾身の豆鉄砲を食らってやろうじゃないか君にはその権利がある!
インゲン、嗚呼インゲン。
君はそれでもそのさやと豆でけなげに僕の舌を喜ばせてくれるというのか。
じゃあ、わかった。これからは僕は君を無視はしないぞ、大事にするぞ、きっと沢山食べるから。
こうして、僕の日々の野菜の選択肢にインゲンが衝撃的な参入を果たす。
しかし、男やもめの一人暮らし。
インゲン、一袋で大体250円ほど。
買って帰って塩ゆでにしてかつぶしとごまとめんつゆで和える。
美味い、美味いのだが、一袋インゲンを食べるとそれでお腹がいっぱいになってしまうのだ。
健康にはいいだろう。でも、なんだか、味として、インゲンだけで終わるのは。
ちょっと切なさこみ上げて。
美味い、美味いのだが。
この時、そうか、と気づく。
インゲンは、居酒屋や家庭では普段、存在感がない。
せいぜい一口か二口しか食べないんだもの。
小鉢に分けられている。弁当の端っこ。煮物の添え物。
皿にこんもりと盛られることのない野菜。
もしかすると、インゲンの魅力に気づいてしまうほどにインゲンを一気食いする暮らしというのは、寂しい暮らしなのかもしれない。ましてや、インゲンで腹いっぱいになる食事など……。
もしインゲンの魅力に気づく隙間なんてなく、死ぬことができなら。
その人生は幸せなものなのかもしれない。
しかし僕は気づいてしまった。インゲンの美味しさに気づいた人生になった。
いつまでこんな暮らしが続くんだろうか。
怖ろしい気持ちになる。
そんな漠とした不安を打ち消すように「かつぶしの代わりに固めのちりめんじゃこなんて合わせても美味しいんじゃないか」というアイデアが浮かんでくる。
これからもインゲンで腹いっぱいになってしまう、そんな人生を送ることになるのなら。
インゲンの美味しさに気づけない幸福な人生には追い付けないにしろ、気づいたからにはインゲンを楽しみきって死んでやる。
我が身が誰かによって居ないことにされたとしても、インゲンでその無聊をなぐさめて。
これからも頼むぞ。とおもいながら口いっぱいにインゲンを頬張るひとりの夜。
