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潰れても生き返る、さそり座の女

    私はさそり座の女だ。昔から、ずっとコンプレックスだった。

    子どものころ、母から「もう少し早く生まれていたら、天秤座だったのにね」と言われた。どうやら母は、私がお腹の中にいる頃、出産が早まるように体操までしていたらしい。母の努力むなしく、私はさそり座に生まれた。

    さそりって、なんとなく怖くて気持ち悪いイメージがある。それに美川憲一の「さそり座の女」って歌。子どもながらに、あの重くて粘っこいイメージに嫌悪感を抱いていた。

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    さそり座に生まれた女の幼少期

    さそり座の私は、おとめ座に憧れていた。清楚で、かわいらしいイメージ。私の父は、サザエさんに出てくる波平のようなヘアスタイルながら、おとめ座の男である。だから昔は、「私の方が乙女なのに」と思ったものだった。

    でも自分の人生を振り返ると、やはりどう見ても「さそり座の女」なのである。執念深くて、追い詰められると妙な力を発揮する。これから、ここ10年の間に起きた出来事を綴ろうと思う。

    悪夢にうなされる、幸せな女

    元夫とは学生時代からの長い付き合いで、盛大な結婚式を挙げた。引っ越すため、新卒で入った会社は寿退職。妊娠もして、まわりからは「幸せだね」と言われた。

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    まわりから「幸せ」に見えていた私

    「幸せだね」と言われる私は、毎日悪夢にうなされていた。夜は金縛りにあい、食べても吐く。トイレに立つ気力すらなく、布団の中で限界まで我慢していた。

    今思えば、つわりと鬱症状のダブルパンチだった。当時はもちろん、気づいていない。「私は幸せなはずだ」と思っている人間が、自分の鬱症状に気づけるわけがなかった。

    Googleに「幸せとは」と打ち込み、検索する毎日だった。検索したところで、しっくりくる回答は見つからない。みんなから「幸せだね」と言われれば言われるほど、「幸せ」の意味がわからなくなっていった。

    元夫からは、妊婦健診に行くバス代すらケチられた。200円もしない。会社では数人とジュースじゃんけんで盛り上がっているようだが、私とお腹の子は、ジュース以下の存在価値なのか。一方で元夫は夜遅くまで飲み歩き、タクシーで帰ってきた。

    元夫にとって、私は「金食い虫」で「人生の邪魔」だそうだ。言葉はナイフより静かに刺さる。息ができないほど泣いた。当時「私はこの世で一番無価値な人間だ」と、心の底から思っていた。

    ある日、元夫から受けた言葉に号泣しながら、母に連絡してしまった。幼児のように泣きじゃくって、ほとんど言葉にならなかったが、母は「帰っておいで」と言ってくれた。

    心がズタズタのまま、ここに居られないと思った私は、3時間ほど電車に揺られ、実家に戻った。妊娠中期に差し掛かった頃だった。

    妊娠中の離婚届と2500万の借金

    私が実家に帰った後のある日、元夫は私の実家に来た。私は元夫と直接話す気にはなれず、両親に対応を任せた。

    私は隣の部屋で、息をひそめて話を聞いていたのだが、耳を疑った。元夫は私の親に「妻はわがままで、おねだりばかりする」と説明し始めたのだ。

    あまりに身に覚えがない。強いて言えば、風呂の残り湯を洗濯に使うポンプを提案したくらいだろうか。ブランド物に身を包み、友人との旅行代金数人分を建て替えてあげる気前のいい元夫ですら、風呂の残り湯ポンプはとても手が出ない贅沢品らしい。それをおねだりした私は、さぞわがままな女だったにちがいない。

    元夫から、謝罪の言葉はなかった。私は、実家に残ることにした。

    元夫は帰った後、メールで謝罪してきた。初めての謝罪の言葉に、私は「やっとわかってくれた」と思い、何度も読んでは大泣きした。

    ただ、返事に悩んでいるうちに、元夫からのメールの文面は少しずつ変わっていった。だんだん冷たくなり、苛立ちが滲み始めたのだ。その変化に、私は違和感を覚えた。

    メールを返さなかったら、離婚届が郵送されてきた。はらわたが煮えくり返った。そのタイミングで、お腹の子がぼこぼこと蹴ってきた。「お腹の環境が悪い!」と怒っていたのか、「しっかりしろ!」と励ましていたのかはわからない。ただ、あのときの強めの胎動は、今でもはっきり覚えている。

    離婚届を返送しなかったら、今度は離婚調停を申し立てられた。

    ただの家出のはずだったが、随分と大事になったものだ。元夫との同居期間は、たった5か月。なんともスピード感のある結婚生活である。

    調停では、元夫の2500万の借金が発覚。私の人生、どうやら想像以上にハードモードらしい。

    そういえば、元夫から「保険証が使えなくなったから返却するように」と連絡が来たこともあった。妊娠中の私には死活問題である。どこか引っかかるものがあり、元夫の会社に直接問い合わせた。すると「使える」との回答だった。どうやら私の保険証に限っては、元夫の承認が必要な特別仕様らしい。

    しばらくして、元夫には弁護士がついた。私にはお金がなかったので、弁護士相手に自分で書類を書き、母から30年選手のママチャリを借りて、裁判所に通った。もっとも、2500万の借金がある人間に、弁護士代があったのかは甚だ疑問である。

    相手の弁護士は、よく調停の前日に書類を送ってきた。正直言うと、あまり気分のいいものではなかった。だから私は、書類を受け取るやいなや反論を書き、即座にママチャリで裁判所に向かった。これこそ、さそり座の女が持つ執念だと思う。怒りはエネルギーになる。

    0歳娘とシェルターに入る

    出産予定日から1週間ほど過ぎた頃、娘は生まれた。出産したことは、母から元夫へショートメールで連絡してもらったが、元夫は来なかった。

    元夫は、母の連絡先を登録していたはずだが、調停では 「知らない番号から連絡が来たから、返事しなかった」 と主張。

    元夫のスマホには、登録済みの連絡先を勝手に消去する、摩訶不思議な機能が搭載されているらしい。もっとも、出産予定日を過ぎての連絡なのだから、仮に知らない番号であっても察しそうなものだが。

    調停は不成立になった。そのタイミングで、実家から徒歩で通える看護学校に入学した。

    実は妊娠中、看護学校のオープンキャンパスに行っていたのだ。まわりが妊婦体験をする中、私だけは誰がどう見てもリアル妊婦であった。

    実際に入学したのは、産後半年ほどの頃だ。我ながら意味がわからない判断だと思う。ただ、離婚を見据えたとき、手に職があるほうがいいと思った。

    入学して1か月ほどで、味方だったはずの実家の空気は変わった。毎日朝5時に、娘を起こさないようそっと起き上がり、家じゅうの雑巾がけや洗濯物、朝ごはんの支度をしても、文句を言われるようになった。

    自分はもしやシンデレラなのか、と思った。しかし、魔法使いもカボチャの馬車も現れない。

    そしてある日、家の鍵を開けてもらえなくなった。インターホンを押すと、父から「もうここにたまごちゃんの居場所はないよ」とだけ言われ、切られた。昔から親の機嫌を損ねると追い出されていたが、0歳の娘を抱えたこのタイミングで追い出されるとは思わなかった。

    元夫とも暮らせず、親とも暮らせない。自分には何か、大きな欠陥があるのだと思った。「やっぱり私がおかしいのか」と思った。

    とはいえ、今はうじうじしている場合ではない。お金もなければ、頼る人もいない。私ひとりならその辺をぶらついてもいいが、0歳の娘がいるのだから、そうもいかない。あたりは、薄暗くなってきた。

    そこでダメ元で役所に電話したところ、なんと奇跡的に繋がった。そして、そのままシェルターに入ることになった。

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    シェルターでの娘

    入ってみたら、住んでいる人が具沢山のスープを差し入れてくれた。娘はまだお座りがおぼつかなかったので、お座りイスのお下がりももらった。

    なんとなく「ここにいていいんだ」という感覚。安全を感じたのがひさしぶりすぎて、うまく名前がつけられなかった。

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    お座りイスでミルクを飲む娘

    しばらくは、バスで看護学校に通った。シェルターから通っていることは、誰にも言えなかった。娘の寝かしつけに成功した週末は、スーパーで買っておいた餃子とコーラでひとりパーティーをした。

    当時のクラスメイトには、別居していること自体、話せていなかった。元夫について聞かれると「カンボジアに出張中」と答えた。明らかにバレるかとも思ったのだが、これが案外バレない。ちなみに、いまだ出張させたままである。

    人の機嫌を伺わずに済む生活。シェルターでは、「自由」というものを感じた気がした。
    しかし、親が世間体を気にしたため、役所の仲介で、ほどなく実家に戻ることになる。その後も実家での肩身は狭いままだった。

    被告になった日

    ある日、私は元夫から訴えられ、被告となった。訴えられた理由は「家出したから」。しっかり慰謝料まで請求された。

    10人ほどの弁護士に相談した。「私の方こそ慰謝料をもらいたい」と思っていたが、みんな口をそろえて、「モラハラじゃ理由が弱いかも…」「同居5か月は短すぎる…」といった反応だった。それならなぜ、私は慰謝料を請求されているのだろう。

    ようやく依頼した弁護士との打ち合わせは、授業が終わった夕方以降が多かった。

    裁判となれば、これまでのメールや手紙のやり取りまで、すべてが証拠だ。赤の他人に見せる予定のなかった私的なやり取りを、弁護士とともに真面目に読み返し、印刷していく。「恥ずかしい」なんて生ぬるいものではない。公開処刑である。

    感情も昂る。泣いてもいいが、泣いたところで話が長引くだけである。質問は、いつも直球だった。弁護士は、カウンセラーではないからだ。感情の処理と法的な手続きは、完全に別のレーンを走っていると知った。心の整理がつかない段階での打ち合わせは、傷を抉り返すような時間だった。

    打ち合わせが終わると、空には星が瞬いていた。暗い夜道、ライトを照らすせいで重くなったペダルを必死にこぎ、いつものママチャリで娘のもとに帰った。

    後になって、弁護士に言われた。「目だけで人を殺せそうな勢いだった」と。さそり座の執念は、目に宿っているようだ。

    「軍隊」と呼ばれた看護学校

    私が通っていた看護学校は、あまりの厳しさに、他の学校から「軍隊」と呼ばれていた。

    初めての実習では、5人グループのうち3人が落とされた。もはや実習というより、リアルサバイバルゲームである。

    教務室の時計に、秒数まで合わせて入室。エプロンのしわひとつ許されない。糸がピンと張り詰めたような学生生活だった。家に帰れば疲れ果てて寝落ちし、気づけば私が娘に寝かしつけられていたことも多々あった。

    しかしそんな軍隊にいながら、地底に埋もれていたはずの私の自己肯定感は、ほんの少しだけ芽吹いた。自己肯定感など真っ先に叩き潰されそうな場所なのだから、不思議なものである。けれど当時の私にとって、看護学校は唯一の居場所だった。

    看護学校が忙しすぎたおかげで、離婚裁判への執着も薄れ、いつしか弁護士に任せきりになった。クラスメイトは、学校を「軍隊だ」「地獄だ」と言うが、私は思いの外楽しんでいた。

    おかげで、肝臓の図を見て「胃」と回答していた私が、卒業式の日には首席として表彰された。こんなことは、人生で初めてだった。

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    学校長賞を受賞して部屋の片隅で撮った写真

    とはいえ、42人いたクラスで、卒業できたのは24人である。その24人の中の1位。つまり私は優秀だったというより、さそり座の女らしく、しぶとさを発揮しただけだ。

    卒業式の日、着物で着飾ったみんなは、綺麗だった。私の服装は母のお下がりのジャケットと、しまむらのスカート。

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    卒業式の日、娘とこっそり撮った写真

    せっかくの晴れ舞台だが、美容室に行くお金はない。だから、自分でせめてものヘアアレンジをした。母からは、「おめでとう」の代わりに「自分で髪いじれるアピール?」とのお言葉と、「三角コーナーが汚い」とのご指摘を受けた。卒業式だろうが、シンデレラは忙しい。

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    紅白まんじゅうにかぶりつく娘

    私は、娘と二人でこっそり記念撮影をした。娘だけは、無邪気な笑顔で一緒に喜んでくれた。ニコニコして紅白まんじゅうを頬張る姿に、私は救われていた。

    ペーパードライバー、軽で引っ越す

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    自力で新居に引っ越した

    准看護学校卒業のタイミングで、離婚も成立した。裁判の結果、元夫からの慰謝料請求は棄却され、私の慰謝料請求は部分的に認められた。もっとも、私はすでに次の生活で頭がいっぱいだった。

    実家での居場所を失った私は、このタイミングで引っ越しをしたのだ。娘を保育園に送った後、レンタカーを借りて、ひとりでせっせと実家から荷物を運び出した。

    ほぼペーパードライバーだったが、かぼちゃの馬車が来ないのだから、やむを得ない。軽自動車を借りて、初心者マークを貼った。

    冷蔵庫や洗濯機はネットで購入し、新居で受け取った。尻もちをついたり水を噴射させたりしながら、なんとか自分で設置した。たまに友人が手伝いに来てくれるのが救いだった。

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    机がわりのダンボールと入園式でもらったパン

    これまでの人生において、こういうことは誰かに任せて生きてきた。でも「できない」と思いこんでいるだけで、私にもできることがわかった。

    洗濯機を持ち上げる私は、残念ながらか弱くない。おとめ座かぶれからさそり座の女へ、完全に生まれ変わった瞬間かもしれない。

    手に職を求めた女の行く先

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    看護師免許取得

    私は、4年かけて看護師になった。まわりが手堅く病院勤務を選ぶ中、異端児の私は、新卒で福祉系に進んだ。

    おかげで、看護師のくせに人に注射したことすらない。処置と言えば、ケガした子に絆創膏を貼ってあげたくらいだろうか。ペーパードライバーでもあるが、ペーパー看護師でもある。

    職場では、うまくいかなかった。送迎車内で理不尽に怒鳴られたり、朝礼でいびられたりした。転職しつつも2年経たずに看護師を辞めた。

    看護師を辞めたあと、在宅で働ける仕事に憧れた。ちょうど娘の小学校入学を控え、「小1の壁」が気になっていたこともあるが、「これ以上、誰かの機嫌に振り回されたくない」と思ったのだ。そこで士業の資格取得を目指したが、あっけなく落ちた。

    しかし、さそり座の女は諦めが悪い。在宅で生き延びる方法がないものか、懲りずに考えた。

    そこで思い出したのが、大学時代のことだ。実は大学時代の私は、日本語学というなんともマイナーな専攻だった。まわりは文才にあふれ、私は落ちこぼれ。眩しすぎる同級生を見ているうちに、私はいつしか文章から遠ざかっていた。

    しかし、作文やレポート・看護記録など、文章だけは不思議と褒められる。看護師を辞め、士業の資格試験にも落ちたとき、ようやくそのことに思い至った。

    もしかしたら、新たに何かを身につけなくても、すでに自分の中にあるもので生きていけるのかもしれない。そう思って、文章を書く仕事を始めた。

    最初の案件の報酬は300円。完成までに4時間ほどかかったが、不思議と楽しかった。時給換算75円だが、自分の書いた文章がお金になったことが嬉しくて「もっと書きたい」と思った。

    まさか文章を書いて生きているとは、当時の私は想像もできないだろう。人生は、たまに意外な方向に転がる。

    収入が減って豊かになった暮らし

    離婚して娘と二人暮らしを始めたとき、通帳残高はほとんどなかった。ようやく手にした慰謝料も、弁護士費用や新居の契約費用、正看護学校の入学金・教科書代に消えていった。

    何度も電卓をたたいては、ため息をついた。お金について相談できる相手もいない。この頃から、私は「節約」という名のサバイバル術を少しずつ身につけていった。

    ところが、看護師になって収入が増えると、今度は「稼げばなんとかなる」と思うようになった。旧友の収入を知る機会があったのだが、私の収入が男性と同水準だったからだ。シングルマザーでも男並みに稼げるではないか、とほくそ笑んだ。

    その頃の私は、稼ぐことばかり考えていた。仕事が終わって帰宅しても、頭の中は仕事のことばかり。娘が話しかけてきても、「へぇ~」と上の空で返していた気がする。収入はあったが、時間の余裕はなかった。

    当時は、帰宅した頃には疲労困憊。ササっと炒めた肉中心の料理を流し込むように食べ、ノンストップで家事をこなす日々だった。

    在宅で仕事をしている今、看護師時代からすると収入は減った。でも、ストレスとともに浪費が減り、時間の余白が生まれた。

    娘が喋れば、ちゃんと聞ける。旬の野菜を使って、副菜まで作れる。当時より7キロ痩せた。不思議なことに、収入が減ったのに、食事の質も暮らしの満足度も上がったのである。

    看護師時代に月5万円ほどだった食費は、今や月2万円程度。たとえ収入が3万円減っても、これで相殺できるからくりだ。

    だから、稼ぐかわりに出費を減らすことに全振りしている。ふわふわヘアに憧れて、長年パーマをかけ続けていたが、それも辞めた。

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    ずっとパーマヘアだった

    気づけば美容室には2年ほど行っておらず、セルフカットしている。不安はあったが、ロングだからか案外誰も気づかない。娘の髪も、ちびまる子ヘアに私が切る。自分のまつ毛パーマやネイルも、すべてセルフ。在宅だから、服もあまりいらない。

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    セルフカット親子

    誰も私のことなど、そこまで見ていないとわかった。

    ただ、誰も見てないとはいえ「シングルマザーなら髪を振り乱せ」という母からの意見にだけは、断固反対である。いや、いざとなれば振り乱すが、振り乱す必要のないところで振り乱さない。

    以前、部屋着に髪ボサボサの状態で「これで参観行っていい?」と娘に聞いてみたことがある。娘は即座に「恥ずかしいから絶対来ないで」と言った。

    私が髪を振り乱したところで、誰も幸せにならない。見苦しいだけだ。

    娘にとって、私が誇れる母親かどうかはわからない。ただ、恥じる母親にはなりたくない。これは、私の尊厳でもある。

    潰れても生き返る、さそり座の女

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    さそり座の女とさそり座じゃない女

    「幸せとは」とGoogleで検索していた私は、幸せを感じる回路が完全に壊れていた。
    幸せを感じられないから、どこかにあるはずの「私の幸せ」を探し、ずっと追い求めていた。

    でも「幸せ」は、案外身近にゴロゴロと転がっていた。娘と安心して帰れる家がある。お金に大きな不安なく、娘と笑って過ごせる。食事や会話を楽しむ余白がある。それで、十分だった。

    振り返ると、私はずっと「依存先」を探していたように思う。夫に、親に、職場に、資格に。どこかに寄りかかって安定することを求めた。でも寄りかかるたびに、足元が揺れた。誰かに頼って得た安定は、脆く崩れ去る。

    人生が詰みかけたとき、人は残された一手を必死に探す。私に残される一手は、いつも「自立」だった。私の人生何度も詰みかけたが、残された一手をしぶとく積み重ねたら、今日になっていた。

    やはり私は、生粋のさそり座だ。何度潰されかけても、なぜかまた尻尾を動かして生き返ってしまう。どうも、簡単にはくたばれない性質らしい。

    もはや、さそり座の女であることを誇らしく思う。大嫌いだった「さそり座の女」を、つい口ずさむようになってしまったほどだ。おかげで、さそり座ではないはずの小学生の娘まで、隣で「さそり座の女」を熱唱している。今日も我が家は、にぎやかだ。

     
     
    昭和感強めな娘と真面目にポンコツやってるシングルマザーの日常🧒👩実にくだらんことをつらつら書き綴っています。

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