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AIで育てる優秀な子供たち。 ~生成される「個性」~

    生成するたびに失われる創造性があると私は思う。
    一応、最初に断っておくが、この文章はAIによって作られていない。

    AIが作った文章はなんというか味気がないと思うのは私だけではないはずだ。

    このような断り文句がこれから各所で増えていくのではないかと肌で感じるほど、AIは普及してきている。

    AIがすべてを簡単にしてくれている。昔インターネットが普及し始めた時のようなインパクトとも言われているらしい。調べ物のような簡単なことから複雑なことまでが網羅できることも魅力だ。私も5種類程度のAIを使うほどのめり込んでいる。

    しかし使えば使うほど言いようのない疑念が生まれてきた。

    特に子育ての領域で、良くも悪くも大きく変化が訪れるのではないかと思う。

    AIがこれから先あらゆることを可能にしていくと言われているが、同時に失われていくものが増えていくことは間違いないだろう。よくホワイトカラーの仕事がなくなるだの言われているが、そんなことが言いたいわけではない。

    私がなくなっていくと危惧しているのは、創造性、ひいては「個性」だ。

    特に幼少期からAIばかりを使用しながら勉強や生活をしていくと、本来自分で考えて出る十人十色の答えや文章、それらの間違えのグラデーションが薄くなっていくんじゃないだろうか?

    何もかもマルかバツで答えるわけではない。間違え方っていうのも異なるからこそ、道は枝分かれ、個人差、いや、「個性」ができるのだと思う。

    子育てでも実際に人に聞きにくいことや、突発的に起きたトラブルの対処にもAIは使えるし、教育にも使える。間違いなく便利だ。それもとてつもなく。

    しかし近頃人は、生成結果の正当性ばかり気にして、得た知識はすべてが意図した結果なら有意義なものだとすべて受け入れてはいないだろうか?

    よく年長者から聞く、紙にペンで書かないとしっかりインプットされないという話とは違うが、答えを得るためのプロセスは場合によっては重要だ。

    例えば子供に「なんで地球は丸いの」と聞かれた時にAIに聞いた通りの当たり障りない正解を教えるのか「なんでだろうね〜?」と続けて促し「神様がこねて丸くしたのかな?」とかを子供から引き出すのはどっちがいいのだろう?

    何となく神を出したが宗教的意味はない。よくわからないことを神に押し付けて答えを先送りにするのも、古くから使いまわされた回避術といえるだろう。これもなくなっていくのか?

    全ての問いに「事実」を教えることが「答える」ということとは私は思わない。

    親子での言葉のキャッチボールもバウンドしたり、大きくそれた球を拾いに行ったり、届かなかったり。
    そんな根気のある繰り返しが家族という人間関係を育むんじゃないだろうか?

    親だけAIでアシストした言葉を投げるのはどうだろう?

    片方が持ち運びできる高性能ピッチングマシーンで適切な速度、軌道で放ち続けると、もはやキャッチボールではない。操作するのはあなたでなくても同じ結果が得られる。

    そのうち双方がマシンを使うといよいよ何をしているか、したかったのかがわからなくなる。

    やっぱり感情だったり言葉などの暖かさってあると思える感性は大切にしたいと私は思う。

    インプットがAI由来の物ばかりだとなんかさみしくはないだろうか。

    子供の疑問に対して、倫理的に間違ってなければ、真の答えである必要はなくて、親の感性で回答し、伝えることも、子どもの感性を育むものだと思わないだろうか?

    子供も意外と早くから親の言っている答えに対して疑問を持ったり、自分で想像して自分なりの考えを生んだりする。

    親はなるべく子供の疑問に対して、まさに親身となってこたえていくべきだろう。しかし現実は、濁したり躱すこともある。しかしこの対応に対する子の反応や繰り返しすらも、良くも悪くも「教育」だと私は思う。

    その積み重ねが子供の感性を育み、「個性」を育てる。

    自然と行われていたこの重要な家庭内の教育が、変わってしまうのではないかと思うのは飛躍しすぎだろうか?

    きれいごと云々は抜きにして、「子育て」あるいは「教育」は完璧で終えるのは不可能で、できる限り、正しくあろうと心掛けこそはすれど、常に完璧を目指すものではないはずだ。

    親が子に注ぐものは100%ポジティブなものだけではなく、意図せずともネガティブな要素も注がれる。それらの質や配分は狙って出せるものではなく、得てして思い通りにはならないものだ。

    誰もが子供の親に対する思いがけない答えに窮する質問に対して、AIに助けを求めることをすると、誰もが似たような当たり障りない、更なる疑問も生じないような答えを得てしまう。これで子どもの感性は育まれるのだろうか?

    A社のAI由来で育つと倫理的に、B社だといちいちウィットに富んだことばかり発する人間に、という具合の違いが出るならもはや気味が悪い。各社のアップデートによって影響を受ける人の性格すらも変わったら怖いとさえ思えるが似た現象は起こり得る。

    一方で、公的に教える立場や教育を受ける当の本人たちにとっては効率もよく、もしかしたら学習時間や、教師の労働時間が短くなったりと耳障りの良い予想もできる。これらはおおよそポジティブにとらえられるだろうから、比較的すんなり導入されていくだろう。

    ここまで書いた私の意見としては、AIは少なくとも子育てにおいて頼りすぎるのはどうだろうか。というスタンスで語っているが、同時に、ありとあらゆる問題や疑問に対してAIの力をフルに用いて解決、教育していった上で大人になる人は、どのような能力、感性を持つのだろう。と気になりはする。

    子供の受けとるインプットの半分、いや半分以上がAIやAI由来になり、育つ子供たち。

    もはやSFの物語のような話だが、現時点でも起こりうるのではないかと想像できてしまう。

    「ゆとり世代」「Z世代」に続いて、次世代が「AI世代」と形容され、それが何によって定義付けされるのかを考えるのは邪推だろうか?

    AIで育ち、AIを駆使する世代の子たちは「なんでもできるが、何もできない」などと言われるのではないかと邪推を重ねておく。

    便利なものはどんどん使えばいいと思うし私の家庭でもすっかり浸透したAIに日々だいぶ助けられている。

    電卓があるのにわざわざそろばんを学んで使う必要はないと思うし、そんな頭の堅い話がしたいわけではない。

    ただ、子供からの問いに対して「今忙しいからAIに聞いて」と言い出す親は一定数増えるのではないだろうか?

    これから育っていくAIネイティブの世代の子供たちが、どうなっていくか子を持つ親としては少し心配だ。

    そう、子育て中は勿論だが、子供たちにとっては自立し始めてからの人生が大事だ。

    私の娘は今幼稚園に通っている年代だが、彼女の青春時代や大人になっていく時代には現代とは全く違う様相になっていることだろう。

    曇り空や雨空を知るから晴天の景色を清々しく感じるし、あるいは雨空に風情を見出す。

    見聞きしたり体験したものや、人を介して得る、一見余計な情報が混ざっていても、それが自身の教養の礎となり、積みあがったものが「感性」を育むとすると、AIで得られる混じり気のない純度の高い情報ばかりインプットしていたら「個性」だけではなく、「人間関係」をも希釈していくのではないだろうか?

    実際に最近でも若者が自分の悩みをAIに相談することも増えているらしい。
    本当に悩んでいて抱え込んでいる人にとっては助けになり、悲惨な事故が防げるのなら素晴らしいと思う反面、友人に話す相談や悩みは、当たり障りのない物になったり、本当に必要としているわけではないが、友情の深度を深める儀式として、社交辞令的に交わされるものになるかもしれない。

    AIが生み出すもっともらしく最短の「正解」は増え続け、多くの人がそれを教授するだろう。

    高齢者もスマホを持つようになっている今日。十数年、あるいは加速度的に数年程度で、完全にAIが生活の中で当たり前のものになるだろう。

    その意義について本当の意味で向き合い、かじ取りをできるのはまさに今であって、そこまで時間はないと思う。

    そんな世の中のど真ん中で生きていくわが子を心配するとともに、私が助けになれることは何なのか、少なくともAIに本来あるべき親子の対話の一部を奪われたくはない。

    規制や停滞を求めているわけではない。ただ、生み出すものの正当性よりも、失われるものをしっかり見定めて、向き合える人が増えてほしいと思うばかりだ。


     
     
    速く正しい答えがいくらでも手に入り、瞬時にどこまでも声が届く時代になった。 解像度は高くも無味な答えは創造性を薄める。 多様性の時代なのに誘導された個性は均質化し、掲げ、叫ぶ顔つきは同じに見える。 そんなことばかり考えている、一児の父です。 エッセイ・子育て・社会風刺。

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