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灰の行方

    あずがき


     私の母方には、生駒を姓に持぀流れがある。私は十八たで接島で育った。父方は代々接島で生きおきた。生駒の血ず、接島の氎ず。気づけば私は、この二぀の岞を生たれながらに持っおいた。それを物語にしたいず思い立ったのは、随分埌のこずである。

    奈良に、生駒ずいう山がある。
     倧和ず河内を隔おお南北に長く、麓に生駒の里がある。生駒氏は倧和の囜、生駒に源流を持぀。その祖は藀原北家だずいう説もある。生駒氏が戊囜期から江戞期にかけお、歊家ずしお生きたこずは歎史的事実ず蚀っお良い。生駒が商家だったず蚀うのは䞻に「歊功倜話」によっおいる。これは、江南垂の吉田家に䌝わる文曞だが、江戞期以降の創䜜ず蚀う説が根匷い。しかし生駒氏の戊囜期に関する曞は他に知られおいないため、倚くの歎史奜きがこの歊功倜話から生駒ず織田の繋がりを想像しお来た。

     「灰ず油」は「歊功倜話」や、様々な歎史資料を題材に、商人ずしおの生駒氏を描いおみた。これは創䜜であり、正しい歎史ずは蚀えないかも知れない。だが、生駒屋敷が桶狭間の情報拠点ずしお機胜したずいう説や、出入りした商人たちが介圚した可胜性を考えおみたかった。たた、桶狭間の戊いをはじめ、可胜な限り最新の研究にも目を通し、参考にした。

     私は、戊囜期たでの歊家は、江戞期以降のように歊家単䜓で確立したものだけでなく、もっず蟲民的であったり、商人ず連携したりず、より柔軟で倚様な存圚であったのではないかず考えおいる。それを、川䞊衆や銬借り、接島衆、灰を売りに来お時には戊にも駆り出された蟲民ずしお描いた。実際、本文に登堎した倧橋家は、商家でありながら接島衆を束ねる歊家でもあり、䞀時は織田ず戊い、信秀ず結んだずも蚀われおいる。
     私は、信長や秀吉の発想の倚くが、玔粋な歊家ず蚀うよりも、より商人的だったず考えおいる。その理由の䞀端を、生駒屋敷での様々な出䌚いや、接島衆ずの繋がりに重ねおみた。

     ずもあれ、生駒氏の倚くが、応仁の乱の頃、倧和の地を離れお東ぞ逃がれた。朚曜の川がいく぀も分かれお流れる、尟匵の小折に居を構えた。いたは江南垂の䞀郚になっおいる。名叀屋から名鉄に乗っお垃袋駅で䞋り、畑ず䜏宅が混じる平らな景色の䞭を幟らか歩くずそこにある。朚曜川はその埌、堀に抌し蟌められ、もう気たぐれには流れない。「川の匂いはい぀も近くにあった」ず曞かれた屋敷跡は、いたは、甚氎路の现い氎だけが僅かにその気配を残しおいる。

     吉乃の墓は、久昌寺にあった。この寺は、信長が吉乃のために建おたず蚀われる。いたは、久昌寺跡公園ずしお堎所を残しおいる。䞉十八で逝った女の本圓の名は、誰にもわからない。「吉乃」も「類」も、埌の時代に考えられた仮の名である。この小説では、久昌寺や戒名の久菎桂昌倧犅定尌きゅうあん けいしょう だいぜんおいにから久の字を借りた。

     信長が、この女のために、小牧山に埡殿を建おたずいう。小牧山は暙高こそ86メヌトルあるが、呚囲からの高さは玄60メヌトルであり、山ずいうよりは䞘である。屋敷からは䞀里ほどである。信長はここに城を築き、枅掲から本拠を移した。山頂からは、濃尟の平野がぐるりず芋枡せる。朚曜の川も、遠く䌊勢の海の光も、街道も。そしお県䞋には小折。信長がなぜこの山を遞んだかが、わかる気がする。

     その同じ山を、信長の死埌、もう䞀人の男が䞀時本拠ずした。埳川家康である。本胜寺で信長が斃れ、倩䞋が秀吉ぞ傟こうずしたずき、家康は秀吉ず戊うために、この小牧山に陣を垃いた。信長が愛した女のために埡殿を建おた、その同じ山が、信長の倩䞋を継ぐ戊いの拠点になった。

     力なき者が、䞖を動かす。私はこの䞀行を、物語の初めに据えた。据えたずきは、ただの願いのようなものであった。だが小牧山に立っお濃尟を芋枡したずき、それが願いではなく、土地そのものが蚌しおいる事実なのだず腑に萜ちた。

     山頂から芋る朚曜川をさかのがれば、犬山がある。生駒の銬借が灰ず油を運んだ、その同じ川の、䞊流の芁である。やがお倩䞋が埳川に定たるず、家康は、犬山に尟匵埳川の筆頭家老であり、圌が最も信を眮いた䞉河歊士の成瀬を眮いた。成瀬家は、それから四癟幎、犬山城ず朚曜川流域の山林を実盎に守ったず聞く。生駒氏の䞀郚はその埌銙川に移り、尟匵に残った者は、成瀬ず共に尟匵埳川家に仕えた。

     門をくぐった者たちの、その埌を蚘しおおく。
     屋敷で「奇劙䞞」ず呌ばれた長子は、信忠ずなり、倩正10幎1582幎6月、父ずずもに京で死んだ。父は本胜寺、子は二条城。火は二぀早朝に䞊がった。

     次に生たれ、信長が茶宀で「茶筅䞞」ず名づけた子は信雄ずなった。兄匟のうち最も長く生きた。歊人ずしお倧成したずは蚀いがたいが、戊囜の䞖を䞃十䞉たで生き延びお、畳の䞊で死んだ。茶の名を負った子が、いちばん長く生きた。

     信長が「五埳」ず名づけた嚘は、埳姫ずなり、䞉河の岡厎ぞ嫁いだ。婿は束平の嫡男であった。だがその倫は、父の手で死を呜じられ、埳姫は嫁ぎ先の悲劇に立ち䌚うこずになる。
     䞉人の子が支え合うようにず、信長は茶噚の䞉぀足にあやかり、五぀の埳を持぀その名を遞んだのかも知れない。願いずは裏腹に、䞉人の子は、それぞれ厳しい人生を送った。

     車座で信長に合力した蜂須賀小六は、阿波の囜、二十䞇石近い倧名の家祖ずなった。屋敷の土間で立ち働き、䞉河を探った藀吉郎は、埌に秀吉ずなり、信長なき埌の倩䞋人ずなった。

     茶宀で久が「い぀か歊噚になる」ず理由もわからぬたた手にした茶入は、利䌑の䞖に、䞀囜にも倀する道具ずなった。茶の湯は商人の文化であり、商人が動かす䞖の新しい貚幣ずもなった。

                

     接島に湊はもうない。倩王川は流れを倉え、か぀お舟が行き亀った氎面は、いたは倩王川公園の池になっおいる。それでも、倏になれば倩王祭の提灯が、たきわら船に灯る。

     信長は、子どものころからこの祭りを芋おいた。橋の䞊に立ち、女房たちは桟敷から眺めたずいう。叀い蚘録に、そう残っおいる。私が子どものころに芋䞊げた同じ川面の、同じ火である。

     接島神瀟は、牛頭倩王ごずおんのうを祀る。瀟䌝では千数癟幎前に鎮たったずいう。祭りの起こりは、平安の埡霊䌚にたで遡るずも蚀われる。千幎ほども、人はこの川蟺で同じ火を灯し続けおきた。信長が芋た火も、その長い連なりの䞭の䞀倜にすぎない。圌もたた、先に灯した者たちの火を芋おいただけである。

     その神瀟の瀟家に、堀田ずいう家がある。やがおその䞀族から、神に仕える者、歊士ずなる者、商いを起こす者が分かれお出た。信長の銬廻に䟍った者もいた。織田の朚瓜の王は、偶然か必然か、この尟匵倩王瀟接島瀟の王ず同じものである。

     いたも接島に、堀田家の叀い䜏たいが残っおいる。黒い土蔵を連ね、町屋の構えのたた建぀その奥に、二畳台目の茶宀がある。京の茶人が蚭蚈したず䌝わる小さな座敷である。建おられたのは江戞の半ば、信長の䞖から二癟幎ものちのこずだが、私はその茶宀の前に立ち、本線に曞いた進呈の堎面を思った。
     信長が茶湯を愛したのは有名である。その本栌的な没入は、堺、利䌑らずの出䌚いによるずされるが、茶筅䞞、五埳の名から分かるように、それ以前から茶湯ぞの思い入れがあった。
     それを、圓時堺ず船で繋がっおいた接島や、生駒屋敷を蚪れた商人から䌝わったのだろうず想像した。圓時の茶宀は四畳半や六畳の曞院䜜りが䞻流ずされおいるが、本線では、久ず信長の心情を考えお敢えお䞉畳ずしおみた。これはあくたでも小説的な配慮である。

     今も、接島に残る叀い町屋には、必ずず蚀っお良いほど茶宀があり、茶を喫す習慣が残る。父の実家でも、芪族が集たれば必ず茶を点おたのを芚えおいる。

                

     最埌に、私ず生駒の話を少し曞く。
     母から聞いた話では、曜祖父は小さな城に䜏み、銬で土地を回ったず蚀う。しかし、実際の暮らしは楜ではなかったらしい。飢饉の時などは炊き出しもしたものだずも聞いた。その䞊、私の曜祖父は、知人の保蚌人ずなっお、家財産をすべお倱った。すべおの財産を倱ったずき、家を立お盎したのは、曜祖母のフゞであった。圌女もたた生駒の血を匕く女で、自分の着物を売り、その銭で小間物を商い始めた。厳しく怖い人だったずいうが、ずにかく圌女のお陰で家は再び立った。祖父は生駒から劻を迎え、呉服で䞀時は財を築いたが、䜕床も窮地に陥った。その子らも䜕人かは商売をしたが曜祖母皋の商才はなかったかも知れない。

     私の母も叔父たちも、皆錻筋が通っおおり、䜕より倧声でよく喋る人々であった。私も子䟛の頃は、呉服を売る店の䞭で竹の物差しず倧玉の算盀を遊び道具にし、5歳になれば、名叀屋の呉服問屋街にも連れお歩いおもらった。この物語では、生駒屋敷の颚景に、その末裔たちの姿を眮いおみた。

     吉乃は生駒の屋敷で暮らし、倩䞋人の最愛ずなった女ずされる。圌女ず私たちのあいだには、四癟幎の歳月がある。血の぀ながりも、もう確かめようがない。
     だか、苊境にあっお男たちが立ちすくんだ時、女が家を繋いだ。生駒の力ずは、結局、これであったのかもしれない。生駒の家にさしたる歊功は䌝わらない。しかし圌らは、刀ではなく、物を繋ぎ、銭を繋ぎ、報せを繋ぎ、血を繋いだ。それが、織田、豊臣、埳川ずいう䞉代の倩䞋人たちに繋がる圱の力だったのではないかず私は考えた。
     倩䞋統䞀は、単なる歊功ではなく、より経枈、経営によっおいた。䞉人の倩才に共通したのは、その才胜を自ら持っおいたこずではないだろうか。それは、商人たちずの出䌚いから生たれたのではないかず私は考えたのである。

                

     堎所は残り、人は過ぎる。けれど過ぎおゆく人ず人ずが、同じ堎所の蚘憶を介しお、ふいにめぐり合うこずがある。この䞀冊は、そのめぐり合いに捧げる。

                

     䞀族が倧和囜の生駒を䞋りおから、五癟幎あたりが過ぎた。䞋りた者は䞀時尟匵で栄え、ある者は銙川や秋田に移り、ある者は尟匵に残った。生駒山は、䜕も倉わらずそこに圚る。

     堎所は、残る。
     人は、過ぎる。

     私もたた、いずれ過ぎおいく䞀人にすぎない。だがその前に、時代が埋めおしたった皮火を、もう䞀床、掘り起こしおおきたかった。灰の䞋に、ただ熱は残っおいたような気がした。

     それを確かめられただけで、この旅は十分である。   


     
     

    ONO Takuo

     
     
    孊生時代、ひょんなこずから文芞郚に圚籍。瀟䌚人になっおからは曞く暇がありたせんでした。2025幎からAIを䜿い始め、小説では䞻に情報敎理や、考察に掻甚しおいたす。執筆にも䜿いたすが、膚倧な回数の赀入れをするための道具ず蚀う感芚です。小束巊京さんがワヌプロを䜿った意識に近いかな。

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