
小生、還らず
【あらすじ】
実話怪談作家が昭和艶笑文体で綴る、令和モキュメンタリーホラー。
女性用風俗、婚活、推し活、美容、港区の夜、占い。女が金を払い、誰にも言えない飢えを抱えて向かう場所を、女性ライター「小生」は取材して回る。「私」のままでは、女のことが書けない。そうして彼女は、古びた男言葉の一人称を借りた。だが、取材を重ねるほど、原稿には、取材したはずのないものが混じりはじめる。女たちの声を集めた記録は、いつしか、集めた者の耳に、別の音を残しはじめる。
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凡例(編集部)
一、本書は、一人の女性ライター――ここでは、本人の用いた一人称のまま「小生」と記す――の連載原稿と、その失踪後に編集部へ届いたもの、遺されたもの、および後任担当者の調査手控えを、編集部が集成したものである。
二、本書は、原稿、封書、録音の書き起こし、編集部資料を、原形を損なわぬ範囲で収録した。資料ごとに見られる表記・書式の揺れは、統一していない。
三、証言中の固有名は、いずれも仮名である。店名・地名の一部は、現地確認の結果と、証言者の記憶とが、食い違ったまま、残っている。編集部は、どちらかに揃えることを、しなかった。
四、資料および本稿に付された鉛筆書きのうち、誰の筆跡とも一致しないものは、位置も含め、そのまま残した。
* * *
【資料零】
小生、令和の取材稼業に潜入す
取材ですからと三度唱えて、嗚呼、女の飢えに近づくの巻
欲望に名前をつけると、人は少しだけ姿勢がよくなる。
婚活、推し活、美容、占い、そして夜の街。名前のついた欲望には、行き先がある。女たちは、その行き先で、何かを払う。小生は、それを見て回ることにした。断じて、参加ではない。取材である。
この時、まだ小生は小生ではなかった。
私は私であった。四十を二つか三つ越えた、履歴書の年齢欄だけが律儀に正確で、心のほうは二十八歳の、書店の棚の前で足踏みしたまま、たいへん見苦しい女であった。
二十八の頃。一度だけ、自分の名前が活字になったことがある。実話怪談である。ひと様の体験を聞き集めた、八百円の薄い文庫本。──それきりだった。百円の値すら、もうつかない、私の一冊は、駅ナカの、ご自由にどうぞ、の棚にある。あの背表紙と目を合わせると、色褪せた過去の私が、で、その後は、と訊いてくるから、難儀だ。
今は、何でも屋である。布団乾燥機の使用感、膝の痛みに効く体操、墓じまいの特集。署名のない、誰が書いても同じ文章を、誰よりも早く、安く、文句も言わず納めてきた。
二十代の頃は「何でも書きます、やらせてください」と頭を下げて回ったものだが、あの情熱は、いつのまにか「あの人は何でも便利に書く」という評価に化けていた。情熱と便利は、世間ではよく似た顔をしている。違うのは、原稿料だけである。
それでも、編集部から電話が鳴れば、お預けを喰らった犬のように、小生は尻尾を振って飛びつく。条件も訊かず、まず「やります」と言ってしまう。手はもう、鞄を掴んでいる。
某月某日、都内某所――某雑誌担当編集嬢は、白い会議室で涼しい顔をして言った。
「女性用風俗、取材してきてもらえませんか」
首位打者が凡打を詫びぬような顔であった。小生、しばし沈黙した。その沈黙は、倫理の沈黙ではない。羞恥の沈黙である。もっと言えば、少しだけ興味があったことを悟られまいとする沈黙であった。
「小生が、ですか?」
「体験して書けとは言いません。まずは、利用経験のある女性に話を聞いてください。費用はこちら持ちで、一度、付き合ってもらえるよう話をつけてあります」
まずは。人間、深みへ踏み込む時は、たいてい「まずは見学だけ」と言う。
昔から男は、金を払えば女の身体に近づけると思ってきた。飲んで、買って、忘れて、翌朝には領収書も残さぬ顔で出勤してきた。
されど令和である。
女もまた、男に金を払う。払って、予約し、部屋へ行き、触れられ、笑われず、責められず、終われば支度を整え、電車に乗り、スーパーで豆腐を買って帰る。色街は、いつの間にか、片道ではなくなっていたのである。
某月某日、都内某所――版元が用意した女は、真島女史と申した。年の頃なら四十代前半。編集部の知人の知人、というやつで、版元の廊下で一度だけ挨拶した程度の仲であった。
その店は、ターミナル駅から歩いて五、六分ほどの、路地に面した雑居ビルにあった。一階は居酒屋。二階は美容院。三階が件の紹介店。
小生は、ショルダーバッグの紐を右手で握りしめ、薄暗い階段を上がった。
戦前の憲兵隊の詰め所のような、入る者の素性を、検められるような圧力がある。セラピー店の木製のドア前につくと、なぜか深呼吸したくなる。
バッグの中から、口紅を掴み出すと、サッと色を唇に重ねた。
代打を告げられた選手が、ヘルメットを被り直すような所作であった。
その時、ふと気配を感じた。階段の四、五段上に、男が立っているのがチラリと見えた。手すりにもたれ、後ろ向きである。こちらを見てはいない。なのに、口紅を引いたばかりの小生の手元を、見られた気がした。
休憩中のセラピストであろう。だが、それにしては、ずいぶんしょぼくれた灰色の背広であった。冬物のような厚地の背広から、雨に湿ったウールの匂いが降りてきた。袖口が、乾いた空気のなかで、濃い灰色に湿っている。今日は、朝から晴れていたはずだが。──まあ、知らぬ。
小生は、口紅をグイッとバッグに押し込むと、返す刀でドアを押した。ドアの中は白で統一された空間であった。美容院と同じ雑誌が白いテーブルの上にある。客同士が顔を合わせぬ配慮か、他に待つ客はいない。受付のカウンター内にいる女の視線を、小生は見逃し三振のようにやり過ごした。
真島女史は、仕事帰りの顔で来た。眉はきちんと描かれているが、目の下には疲れがあり、口紅だけが少し明るい。その明るさが、かえって切なかった。小生は、自分のバッグの中の口紅を、急に思い出した。
「M様、お久しぶりですね」
受付の女は、女史の顔を見るなり言った。名前を確認するでもなく、予約番号を訊くでもなく、ただ顔だけで分かった。小生は、その「久しぶり」を手帳に書いた。何度目かは、訊かなかった。
「緊張しますね」女史は、待合の椅子に座りながら笑った。「何度来ても」
何度。その二文字に、小生は少し耳が止まった。
「最初に来た時と、今とで、何か違いますか?」
「分からないんです」
女史は、白い壁を見た。
「来るたびに、初めてみたいな気がして」
初めてみたいな気がして。
その言葉を、小生はまだ上手く飲み込めないまま、奥の扉が開いた。
担当の男が現れた。指名したセラピストが、そっとドアを手で押さえている。顔は見えない。白いシャツから伸びた腕だけが見えた。
「お待たせしました」
声だけが、柔らかかった。若い男の青臭い声ではない。九回裏、二死満塁でマウンドに上がる抑えのような、場慣れした余裕のある声だった。
女史は立ち上がった。その動きは少しぎこちなかった。男は急かさなかった。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
その一言で、女史の肩が少し下がった。小生は見た。いや、見てしまった。女は、ゆっくりで大丈夫、と言われるだけで、これほどほどけるのか。
女史は、奥の部屋へ消えた。扉が閉まった。扉の閉まった、ちょうどその時。
店のドアの向こうから、階段を降りていく足音が聞こえた。
鍵の触れ合う音と、機嫌のいい足音。そして口笛。煙草に火をつけながら靴底を鳴らす、妙に余裕のある口笛である。
まるで、女史が中へ入るのを待っていたかのような間合いであった。
曲名は分からない。どこかで聴いたような気もする。だが、どこで、とは出てこなかった。外の音は、小雨のような加湿器の音に混じって、すぐ聞こえなくなった。
前よりも静かに感じる待合に、小生は残された。受付の時計が、律儀に秒を刻んでいた。白い壁。白いカーテン。小さな加湿器。どこか人工的な花の匂い。
小生はペンを持った。何を書けばよいのか分からなかった。女が金を払い、男に触れられる。それだけを書けば下世話になる。女の孤独を書けば、急に綺麗事になる。身体を書けば近すぎる。心を書けば嘘になる。
その時、待合の隅に置かれた姿見に、自分の顔が映った。眉は少し描き直してある。口紅も、いつもより明るい。靴は少しだけましなものを履いてきた。取材の顔である。そう、思おうとした。
だが、鏡の中の女は、取材に来た顔をしていなかった。真島女史と、同じ顔をしていた。何かを、見てもらいに来た顔であった。
私は、その鏡から目を逸らした。
この瞬間である。私は、私では書けぬと思った。この顔のまま、私のままで書けば、潜入取材を笑えない。笑えなければ、この原稿は書けない。
そこで、私は小生になった。
小生。古臭い。男くさい。滑稽。少し偉そう。少し間抜け。この一人称の後ろになら、あの鏡の顔を、隠せると思った。
九十分ほどして、真島女史が戻ってきた。顔が変わっていた。若返ったのではない。艶が出たのでもない。ただ、少し静かになっていた。女が泣いた後にも似ている。眠った後にも似ている。湯から上がった後にも似ている。
「どうでしたか」小生は訊いた。もう、小生であった。
真島女史は笑った。「ちゃんと、見てもらった気がしました」
気がしました。この語尾が、悲しい。ちゃんと見てもらった、ではない。ちゃんと見てもらった気がした。女史は現実的な女であった。金を払ったことも、サービスであることも、分かっている。分かっていて、それでも言う。
ちゃんと、見てもらった気がしました。
「また来ますか?」小生が訊くと、女史はすぐには答えなかった。待合の白い壁を見ていた。
「来ないと思います」
そう言った。言いながら、財布の中へ、店のカードをしまった。試合後のベンチで、使われなかった代打のバットを黙って片づけるような手つきであった。
小生は受付で礼を言った。「また取材の件でご連絡します」
受付の女が微笑んだ。「はい。ご利用でも、お待ちしています」
ご利用でも。小生は、笑った。「いやいや、小生は取材ですから」
小生。この時、初めて口に出した。受付の女は、少し不思議そうな顔をした。まあ、当然である。いきなり女が小生と名乗れば、たいてい人は不審に思う。
夜風が、妙にぬるかった。八月の最終戦が終わった後の、球場の外のような風であった。駅へ向かう途中、ガラスに映った自分の顔を見た。私は笑っていた。いや、小生が笑っていた。
その夜、帰宅して、私は原稿の冒頭を書いた。
女が男を買う時代である。
書いてから、少し手が止まった。この一文には、女を笑う響きがある。だが、笑われているのは小生自身である。書き直した。冒頭に残ったのは、欲望に名前をつけると、人は少しだけ姿勢がよくなる、という一行であった。
担当編集嬢に原稿の一部を送ると、すぐ返信が来た。
「この"小生"で行きましょう。距離が出ます」
距離。そうである。距離が出る。だが、距離を欲しがるのは、遠い者ではない。近すぎる者である。
小生は、この一篇を皮切りに、女が何かを払いに行く場所を巡ることとなった。婚活茶会。推し活遠征。美容診療所。港区の夜。占い館。女は、どこかで何かを払っている。そしてたいてい、受け取ったものは、商品名と違う。
真島女史が払ったのは、男の身体ではなかった。
女として面倒がられず、見られる時間であった。そのことを、小生は笑って書いた。笑わなければ、書けなかったからである。
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同封資料零ノ一 予約確認メールの印刷
件名:ご予約内容の確認 ご予約者名:M コース:スタンダード九十分 担当:記載なし 場所:都内VIPナチュラル店 備考:初回。緊張あり。優しく、急かさないこと。
印刷紙の余白に、小生筆跡。「真島女史分。受付は顔を見て『久しぶり』と言った。備考欄には『初回』とある。担当者名、記載なし。訊き忘れた。」
その下、印刷紙の隅に、別の鉛筆書き。小生の字ではない。
ずっと
同封資料零ノ二 受付メモと思われる紙片
取材の女性ライター来店。名刺あり。最初は「私」と言っていたが、途中から「小生」と言い出す。緊張強め。鏡を何度か見る。利用意思は不明。帰り際、「取材ですから」と三回言う。
同封資料零ノ三 小生の初期原稿メモ
女風俗。性を書くと近すぎる。癒やしと書くと嘘くさい。欲望と書くと偉そう。孤独と書くと綺麗すぎる。ならば艶笑。古き男文体を借りる。小生と名乗る。笑いで覆う。ただし、覆うほど滲む。この文体でなければ書けない。この文体で書くから、逃げたことが残る。
同封資料零ノ四 編集部内メモ
担当より。女性用風俗回、読者反応良好。「小生」名義で連載化検討。方向性:令和の女の欲望を、昭和艶笑文体で取材。ただし露骨な性描写は避ける。女の見栄、疲労、支払い、帰り道を書く。次回候補:婚活茶会。
余白に小生筆跡。「女が金を払った後に、何が残るかを見る。桃源郷ではない。領収書と、少し軽くなった鞄と、捨てられぬカード。」
あと、階段の男。後ろ向きのまま、口紅の手元を、見られた。……見られた? 原稿には、気がした、と書いた。やはり見られていたんだろうか。
(余白、さらに下。小生の字ではない、薄い鉛筆) 初めてでしたね
* * *
【資料一】
小生、噂の婚活茶会に突撃す
嗚呼、これぞ令和の縁結び地獄!
プロフィール欄に揺れる女心の巻
某月某日、都内某所。
休日の午後というものは、本来なら洗濯物を干し、溜まった録画でも眺め、人生の不首尾を見ぬふりして過ごすべき時間である。
されど小生、この日ばかりは違った。小さき鞄に口紅を忍ばせ、いつもより少しだけましな靴を履き、某ホテル二階の宴会場へと向かったのである。取材である。断じて参加ではない。
その名も、上質な出会いを約束する婚活ティーパーティー。
平たく申せば、男女が互いの年齢、年収、学歴、親の介護、休日の過ごし方などを、紅茶と焼き菓子の陰に隠して探り合う、令和の縁結び市である。
読者諸姉よ、笑うなかれ。
小生もまた、笑う側ではない。笑われる側である。
アラフォーの坂を少し下ったあたり、職場では「頼れる人」と呼ばれ、親戚には「まだいい人いないの」と聞かれ、夜中には換気扇の音だけが律儀に回っている。
冷蔵庫には賞味期限の怪しい豆腐が一丁、孤独に眠っているだけだ。
会場は、いかにもホテルの宴会場であった。白いクロス。小ぶりな花。ぬるい紅茶。そして中央には、誰にも本気で喜ばれていない焼き菓子の皿。マドレーヌ、クッキー、何やら横文字の乾いた菓子。誰も欲しくはない。されど、ないと場が持たぬ。
小生は会場を見渡した。誰も勝ちに来ていない。負けの規模を最小にしに来ている。
女たちは、少しだけ頑張った顔をしていた。
頑張りすぎると痛々しい。頑張らなすぎると見捨てられる。その中間の、もっとも消耗する顔である。
年収欄を探り、プロフィールという迷彩を纏い、それでも笑顔だけは絶やさぬ、そういう顔であった。
男たちもまた、それぞれに草臥れていた。公務員風の男。営業職らしき男。妙に歯の白い男。プロフィール写真よりも、実物のほうが五年ほど現実に寄っている男。皆、どこかへ帰りたそうな顔で、それでもこの場に慣れてしまっていた。
係の若い女が、鈴を鳴らした。「それでは、まずは一対一トークから始めます」三分ごとに男が隣へずれていく。小生は皿ではない。
少なくとも、そう信じていたい。
最初の男は、公務員風であった。
「休日は何をされてますか?」
「映画を観たり、本を読んだり……」
嘘ではない。
ただし実際には、干し忘れた洗濯物を前に呆然とし、冷蔵庫の奥から賞味期限切れの豆腐を発掘する日も多い。
三巡目が終わる頃、小生は喉が渇き、ぬるい紅茶へ手を伸ばした。
その時である。
会場の隅で、音がした。口笛であった。曲名は分からぬ。古い流行歌の切れ端のようでもあり、夕方の物干し竿に引っかかった風のようでもあった。
小生は顔を上げた。会場の壁際に、男がひとり座っていた。
後ろ向きであった。番号札は見えぬ。プロフィールカードもなく、誰かと話すでもない。ただ、壁際の椅子に腰かけて、細く口笛を吹いていた。後頭部だけが見える。うっすらと白髪の混じった、五十前後と知れる後頭部であった。背広は安い。肩幅は狭い。どこかで見たような、しかしどこでも見たことのない背中であった。
女たちの作り笑い。男たちの自己紹介。ティーカップの触れ合う音。係の女の、妙に明るい進行の声。
そのあいだを、口笛だけが細い糸のように抜けてくる。
小生は思った。なぜ、あの人だけが、誰も選ばず、誰にも選ばれず、それでいて、この場のどこにも気を遣わずにいられるのか。
いや、よそう。付き添いか、ホテルの者か、会場を間違えた気の毒な紳士かもしれぬ。
小生は菓子皿に目を落とした。皿の隅に、クッキーが一枚だけ残っていた。誰にも取られず、少し湿気を吸い、丸い顔でそこにある。小生はそのクッキーに手を伸ばしかけた。
その瞬間、口笛がふと止んだ。小生は顔を上げた。壁際の椅子は、空だった。いつの間にいなくなったのか。クッキーに手を伸ばした、ほんの一瞬のことであった。
係の女が鈴を鳴らした。「フリータイムに移ります」
小生の前には、先ほどの公務員風の男が来た。「もう少しお話ししたくて」穏やかで、実務的な声であった。家事は分担したい。穏やかな家庭がいい。伴侶との、事前のすり合わせのような時間であった。
頷きながら、ふとまた、あの旋律が頭の中で鳴った。
公務員風の男の声が、少し遠くなった。男が何かを言っている。
唇が動いている。しかし小生の耳には、あの口笛だけが、細く、執拗に、鳴り続けていた。
男の目が、微かに動いた。話が届いていない相手を見る、あの目であった。小生は慌てて笑った。「そうですね、最後は、そういうことですよね」男は、少し間を置いてから、また話し始めた。
やがて、投票用紙が配られた。小生は公務員風の男の番号を書いた。取材のためである。断じて、他に書く番号がなかったからではない。
だが、結果は、不成立。
見事なまでの不成立であった。公務員風の男が選んだのは、プロフィールに「料理が好き」と書いた女であった。
小生は、その女の顔を、しかと見た。口紅が薄い。笑顔が柔らかい。非の打ち所がなかった。
料理、か。豆腐と昆布の湯豆腐ならりっぱな家庭料理である。インスタントラーメンに卵を落とせば、これは創作料理と呼んで差し支えあるまい。されど小生の冷蔵庫には、賞味期限の怪しい豆腐が一丁、今夜も孤独に眠っている。
公務員風の男は、もう小生を見なかった。小生も、もう男を見なかった。
帰り際、係の女が焼き菓子の皿を片づけていた。皿の隅には、あのクッキーがまだ残っていた。
小生はホテルを出た。
外はまだ明るかった。帰り道、コンビニへ寄った。取調室の裸電球のような蛍光灯が、遠慮なく小生の顔を照らした。負けた女の顔である。取材という大義名分がありながら、鏡の中の女は、妙に疲れ果てていた。一日中、笑顔を作り続けて、口紅は、ほとんど落ちていた。
目の前のケースの中に、ミニ豆腐が陳列されていた。
ああ、冷蔵庫の古参兵。
見慣れた顔に息を吐く。
つい、癖で、賞味期限を検分すると、確かな未来が印字されていた。
あの公務員風の男の優しさも、見立てではなく、検分であったのかもしれぬ。手の施しようがあるかどうか、確かめるだけの。
だが、心が白旗を上げても、胃袋は降伏せぬ。小生はプリンを買うか、ヨーグルトを買うか、しばし迷った。結局、何も買わなかった。
取り出しかけた財布をしまうとき、鞄の中で何かが指に触れた。
——小さな紙片であった。鉛筆で一言だけ書かれていた。
まだ
それだけであった。誰が入れたのか。いつ入ったのか。何の意味なのか。小生はその紙を捨てず、財布の奥にしまった。捨てる理由も、持っている理由も、どちらもなかった。
ただ、その日から、夜中の換気扇の音だけが、少し遠くなった。
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同封資料一ノ一 読者葉書の写し
記者さんの記事、拝読しました。婚活茶会の壁際の男性についてです。私も、たぶん同じ方を見たことがあります。場所は池袋の会場でした。その方は参加者ではなかったと思います。番号札をつけていなかったので。でも、司会の方もスタッフの方も、誰も注意していませんでした。口笛を吹いていました。私が参加した回でも、最後に一枚だけクッキーが残っていました。私の鞄にも、あとから小さな紙が入っていました。そこには、「最後まで」とだけ書かれていました。追伸。その口笛、今でも時々、頭の中で鳴ります。どこかで聴いたことがあるような気がするのですが、どうしても思い出せません。
同封資料一ノ二 編集部内メモ
当該葉書、差出人名なし。消印は記事掲載の四日後。葉書裏面に喫茶店のスタンプあり。珈琲雨宿り。住所は判読しづらいが、都内東部と思われる。小生に確認したところ、編集部への返信は以下。「婚活女は、まだ終わってませんな。この口笛。どこかで?」
* * *
【資料二】
小生、噂の推し活バスを取材す
嗚呼、これぞ令和の遠征巡礼!
ペンライト一本、女の夜道を照らすの巻
某月某夜、新大阪駅。夜の駅というものは、まこと人間の煮こごりである。終電を気にする会社員。土産袋を膝に抱えた父親。スマホを睨む若い娘。そして、足は棒、化粧は崩れ、されど目だけは異様に光る女たち。何を隠そう、推し活帰りの、一群である。
推しとは、令和における御本尊である。昔は仏像に金箔を貼り、今はアクリルスタンドに保護フィルムを貼る。賭ける対象は変われど、女の財布だけは昔からよう減る。回収率はいつも、百を大きく割っている。
読者諸姉よ、笑うなかれ。小生とて、最初は笑っていたのである。たかが若い男の歌と踊りに、なぜ新幹線代を払い、ホテル代を払い、物販列に二時間も並び、最後にはクリアファイルを傷つけぬよう胸に抱えて帰らねばならぬのか。まこと女とは不可解な生き物である、と。
されど、この小生もまた、その夜、右手にペンライトを握っていた。しかも二本である。一本では心もとない、と物販の娘に言われ、気づけば小生の財布から紙幣が一枚、消えていた。人はなぜ、光る棒にかくも金を払うのか。
推し活とは、帰宅後に領収書を見て初めて己の敗戦を知る、祭祀である。
会場では、女たちが一斉に光った。赤、青、緑、紫。客席はさながら真夏のナイター競馬場である。誰もが己の推し色を握りしめ、あの青年が一瞬こちらを向くという、奇跡を待っている。
小生も振った。最初は取材のためであった。次に周囲に合わせるためであった。最後には、誰よりも高く振っていた。この変節、実にいかん。舞台の上の青年が、こちらを見たような気がした。むろん、見てはいない。こちらの席は三階の後方、肉眼では顔も判然とせぬ。だが、見られたと思うだけで、生きる喜びともいうべき歓声が、小生の喉からほとばしったのである。
その夜、小生が話を聞いた女、仮に宮野女史としておく。年の頃なら三十九。派遣事務。古きワンルーム住まい。冷蔵庫には缶チューハイ。壁には推しのポスター。
女史は夜行バスの待合所で缶コーヒーを握っていた。
「来られるうちに、来ておかないと」
女史は笑った。トートバッグにはうちわ。紙袋にはパンフレット。別袋にはランダム写真。胸元には推し色の小さきリボン。だが、バッグの口から、病院の薬局の白い袋が見えた。一枚ではなかった。三枚か、四枚か。厚みのある袋を輪ゴムで束ねてあった。小生は目を逸らした。
話は、推しのことから始まった。何年前のどの公演が忘れられないか。あの時の衣装の色。マイクを持つ手の角度。こちら側の客席へ伸ばした指先。曲の最後、ほんの一瞬だけ目線を落としたところ。女史の記憶は細かく、正確だった。
「でね、現場に、ちょっと変わった人がいたんです」女史は言った。推しを語る時よりも、どこか切実な声だった。
「ファンの方ですか?」
「そうじゃないと思います。グッズも持ってないし、チケット半券も見せなかった。なのに、感想だけやたら分かってて」
「なんだか、気になりますね。その人、なんて呼ばれてたんです?」
「サダさん、って」
サダ。小生は、その名を、手帳に書いた。定まる、の、サダか。それとも、別の字か。この時はまだ、ただの音であった。
「各地の公演で会ったんですか?」
「前方にはいないんです。後ろの方で観てたって。終演後の駅前や夜行バス乗り場に、ふらっと現れる」
「写真は?」
女史は首を横に振った。
「連絡先は?」
「電話番号だけ。今はつながりません」
女史は、サダの何かを手繰り寄せるかのように、ふと口をすぼめた。
細い旋律が漏れた。推しの曲ではない。もっと古い。負けた競馬の帰りに、外れ馬券を丸めながら吹いていそうな口笛である。
「サダさん、これ、いつも吹いてて」
小生は、その音を聞いた。どこかで聴いたような気がした。だが、どこで、とは出てこない。出てこないこと自体が、奇妙に胸に残った。曲が思い出せぬのではない。曲を聴いた場所が、記憶のどこにも見当たらぬのである。
「終演後のある夜」女史は言った。「変なこと言っていいですか、って聞いたんです」
「何を?」
「もし……。私が死んだら、一回だけ、推しに泣いてほしいって」
女史は笑った。笑ったというより、笑いにした。
「馬鹿でしょう?」
小生は笑わなかった。笑えなかった、というより、笑う資格を失っていた。
つい二時間前、推しの目線がこちらへ流れたと感じられた数秒ぶんの錯覚だけで、生きていける、と思えたのだ。
「サダさんは何と?」
女史の顔が、少し変わった。
「俺が、泣いたるわ、って」
来てくれますよ、ではない。推しならきっと覚えてますよ、でもない。
俺が、泣いたるわ。
誰かが、この女の欠けた形を、あらかじめ測ってから、削り出した言葉だ。世間はこれを、言葉ではなく、手口と呼ぶ。手口と見えて、なお、嵌った。それが、いちばん、たちが悪かった。
女史は、空になった缶コーヒーを、指先で軽く凹ませては、戻していた。信じてはいない。けれど、捨ててもいない。
「その言葉、信じましたか?」
女史はしばらく黙った。
「信じちゃいません。でも、沁みたんです。いちばん奥の、誰にも触れられてない場所に」
思い浮かんだのは、換気扇の音しかせぬ、自室だった。
誰の目も届かない、いちばん奥。
小生は、手帳に何か書くふりをした。書く文字は、なかった。
金銭のことは、女史から話してくれた。宿代。新幹線代。古い知人への返済。急な入用。
「貸したんですか?」
「出したんです」
その言い方の差を、小生は手帳に書いた。貸した、ではない。出した。
やがてサダは来なくなった。
電話はつながらぬ。住所は曖昧。共通の知人はいない。推し活仲間に訊いても、誰もサダをよく知らなかった。「そんな人、いたっけ」「ああ、終演後にたまにいたおじさん?」それだけであった。いつの間にか隣にいて、いつの間にか消える。いたのかさえ分からぬ存在。
待合所の窓の向こうで、夜行バスの白い車体がゆっくり入ってきた。
腹の底で唸るようなエンジン音。トランクに吸い込まれていく紙袋。首枕を膨らませる女。化粧を落とす気力もなく、スマホの黒い画面を見つめる女。次の現場へ向かうバスだ。
「また、行くんですね」小生が言うと、宮野女史は少し笑った。
「来られるうちに、来ておかないと」
いつまで来られるのか、とは、女史は言わなかった。
「推しに会うためだけですか?」
女史は答えなかった。小生もまた、答えを急がなかった。何のために、ここまで来たのか。記事のためか。好奇心のためか。推しの光に照らされる数秒だけ、小生のくすんだ日常まで少し光ったような気がしたのはなぜか。
バスの乗務員が、東京行きの案内を始めた。女史はトートバッグを肩にかけた。その時、バッグの口から、白い束がまた見えた。輪ゴムが、一本、ぴんと張っていた。
小生は、今度も、目を逸らした。だが、目を逸らした先で、小生は自分のペンライトを見た。電源を切ったそれは、ただの棒であった。
ほんの数時間前まで女の夜を照らしていたはずのものが、光を失えば、実に心細いプラスチックである。
確定前の馬券は夢である。確定後の馬券は紙である。
ペンライトもまた、点灯中だけが奇跡なのであった。
「推しの声だけだと、足りない時があるんです」女史はそう言ってから、困ったように笑った。
「ひどいでしょう?」
「ひどくはありません」小生は、思わずそう言っていた。「ただ、厄介ですな」
女史が少し笑った。肩を震わせた。泣いたのか、笑ったのか、分からなかった。
「でも、まだ行きます」女史は言った。「また、聞こえるかもしれないから」
「何が?」
「口笛!」
バスのドアが開いた。女史は乗り込む前に、少し微笑んで振り返った。
「泣くって言ったから」
それだけ言って、女史はバスに乗った。窓側の席に座った女史の胸元に、推し色のリボンが見えた。車内灯の下で、女史の横顔はひどく疲れていた。だが目だけは、どこか痛みが抜けたように澄んでいた。小生は、もう目を逸らせなかった。
バスが動き出した。小生は、排気の匂いの中に立っていた。雨ではなかった。けれど路面は、黒い涙が流れたかのように光っていた。バスの赤い尾灯が、駅前の暗がりへ吸い込まれていく。
まるで最終レース後、窓口の明かりだけが消え残る、競馬場であった。
勝った者も、負けた者も、泣いた者も、泣けなかった者も、最後は皆、同じ出口から帰るのである。
その時、小生は、細い口笛を聞いたような気がした。
どこからか。夜行バスの待合所の奥からか。それとも、自分の耳の中からか。分からなかった。
小生は取材ノートを閉じた。一文字も書けていなかった。書けていたのは、物販のレシートだけである。その数字は、実に雄弁であった。
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同封資料二ノ一 ファン掲示板の印刷と思われるもの
件名:終演後にいるおじさんについて 投稿者:名無しの遠征民 日時:不明この前の大阪公演のあと、バス乗り場にいた年配の男の人、見た人いますか? グッズ持ってないし、チケット半券も見せてなかったけど、感想だけめちゃくちゃ分かってる感じで。「後ろのほうで見てた」って言ってました。あと、口笛を吹いてた気がします。曲は推しの曲じゃなかったです。
返信一:見たかも。後ろのほうって言ってた。
返信二:私も見た。札幌。なんか普通のおじさんだったよ。
返信三:その人、泣いてくれるって言いませんでした?
返信四:何それ。でも、札幌って、かなり昔ですよね。
返信五:その人、サタさんじゃなかった?
返信六:サダでしょ。私はそう聞いた。
返信七:サナ、って呼んでた子もいた気がする。まあ、どうでもいいけど。
返信八:うちの現場にもいた。もう来なくなったけど。来なくなった人、何人か思い当たる。
同封資料二ノ二 小生の取材ノートより
宮野女史。来られるうちに来ておく、という言葉。最初は推しの話。あとで少し違って聞こえた。サダ、後ろのほうにいる。全体が見える位置。近いと見えない。写真なし。住所不明。電話つながらず。口笛。古い曲。聴いた場所が思い出せぬ。「俺が、泣いたるわ」来る約束はしていない。泣く約束だけ。貸した、ではなく出した。この差、女の見栄。回収不能。白い束。三枚か四枚。輪ゴム。訊かなかった。宮野女史、次の現場にも行くと言う。目だけは、まだ生きていた。
同封資料二ノ三 夜行バス予約確認メールの印刷
便名:大阪発 東京方面行き 座席:窓側 乗車地:新大阪駅前 到着予定:翌朝
備考欄に、宮野女史の筆跡と思われるメモ。 来られるうちに。その下に、小さく、別の鉛筆書き。宮野女史の字ではない。
最後まで
* * *
【資料三】
小生、顔に家を二軒建てる女に拝謁す
嗚呼、これぞ令和の不老不死!
鏡の前で日々を繕う女の巻
某月某日、都内某所。女の顔面というものは、鏡台の前で毎朝すこしずつ死へ向かう。昨日より濃い法令線。一晩寝ても戻らぬ目の下のクマ。写真に写った己の横顔の、どうにも言い訳できぬたるみ。そうして死んだぶんだけ、化粧水を叩き込み、美容液を塗り、口紅を引き、本日分の生きる顔をこしらえるのである。
なお、これは小生の観察であって、今回取材した女史の話ではない。このたび小生が訪ねたのは、都内某所にある美容診療所の近くの喫茶店であった。
名は、白鳥。壁紙は飴色。椅子は焦げ茶。ナポリタンは赤茶。
マスターの顔は土気色。
現状渡し、告知義務あり、と書いてあっても誰も驚かぬような店である。
黒光りするカウンターには人影もなく、灰皿とスポーツ新聞が並べてある。
ここだけが喫煙席になっていて、ガラス戸の向こうに禁煙席がある。
そこに、篠田女史がいた。年の頃なら四十をいくつか越えたあたり。
職業は事務。独身。趣味は美容医療。
もっとも本人は、趣味ではないと言う。
「資産運用です」
小生は、聞き間違えたかと思った。「顔面への、ですか?」
「ええ。不動産と同じです。放っておけば資産価値が下落する。手を入れれば価値が保てる。どちらが賢いか、明白でしょう」
篠田女史は、よく整っていた。管理されている美人である。シミ取り。糸。ボトックス。ヒアルロン酸。レーザー。修繕積立金を一度も滞納したことのない、優良物件の顔であった。
「トータルで、おいくら程度を?」
「家が二軒建ちます」
女史は、氷水のグラスを頬に当てながら、さらりと言った。
「でも、家は売れるけど、顔は売れないでしょ? だから顔の方が大事です。自分が住むんですから」
小生は手帳に書いた。自分が住む。
ならば、小生の顔は、長年修繕積立金を払い忘れた分譲マンションに似ている。外壁は剥がれ、エレベーターは時々止まり、管理組合は機能していない。されど、自分が住んでいるから、まあよい。女史の前では、そのことを、できれば考えぬようにしたかった。
だが、女史は、ふと、小生の顔を見た。値踏みではない。ただ、見た。
法令線、目の下。一瞬で、見積もりが出たはずであった。女史は、何も言わなかった。言わない、という査定であった。手の施しようがある顔には、人は、つい何か言う。
篠田女史は施術帰りであった。頬は腫れていた。マスクをしても隠しきれぬ。帽子を目深にかぶっても、目元が赤い。それでも背筋だけは、まっすぐであった。
「痛くないんですか?」
「痛いですよ。でも痛みは一時的なコストです。放置した場合の損失と比較すれば、安い」
小生は、同情の言葉をしまった。出す場所がなかった。話は施術の話から始まった。法令線とは、嫌悪施設の建設通知のようなものである、と女史は言った。届いた瞬間から、価格が動く。だから早期に手を打つ。競売にかけられる前の、任意売却交渉期間が、女の四十代である。そういう論理であった。
小生のペンは、途中から、ほとんど動かなくなった。
女史は、こちらを見ずに、話していた。
「——この店はね、誰も来ないから来てたんです。整形した後って、顔が腫れて、内出血で、青痣だらけで、とても表を歩けたもんじゃない。家にいると、泣くんですよ。一人で、鏡の前で。エラ削った後なんか、口がろくに開かなくて、ごはんも噛めない」
女史はコーヒーを一口、そっと吸うように飲んだ。
「プリンを、ストローで吸うんです。ずるずる。ずるずる。それを、誰もいない部屋で、一人でやってると、なんか、途中で、ストローから口が、離せなくなって」
女史はコーヒーカップのふちを労るように撫でていた。
「……まあ、それで。出るんです。この店に。隅っこで、腫れが引くのを待つ。一週間でも、二週間でも」
喫茶白鳥は、ダウンタイムの手負いの間、身を隠すのにちょうどいい場所だったのだろう。古い布張りの椅子は沈み込みが激しく、壁は飴色に燻み、何も光を反射しない。
「ある日、カウンターの隅にいつもいる人が、声をかけてきて。新聞を広げて、時々、小さく口笛を吹いてる人でした」
その男は、顔の腫れのことも、痣のことも何も触れなかったという。
「『コーヒー、ぬるくなりますよ』って、それだけ。サダさん、って」
小生のペンが止まった。
毎朝、施術の話を聞いてくれた、と女史は言った。
「こんな話、誰が聞きたいですか? 友達だって、もう十分きれいよ、で終わりです。あれが、一番、嫌な言葉なんです。もう十分、って」
小生は、その言葉を手帳に書いた。もう十分。
ある朝、何もしなかった、という。いつもなら鏡を見て、次はどこ、と考える。打つ手を、考えずにいられない。
でも、その朝は、しなかった。
化粧水ひとつ、それも、気まぐれに買ったドラッグストアの七百円のやつ。それを手のひらに広げ、顔が乾かぬよう押さえていた。
「そしたら、えらいね、って言うんです」
家二軒ぶん課金した顔ではない。七百円の化粧水を素顔につける、その朝の手を、褒められた。坪単価千万の修繕ではない。七百円の維持管理のほうを、見られた。
気づいたら、女史は、テーブルに、お金を置いていた。一度だけではなかった。
「私のがんばりを見てくれると思ってました」
女史は、少し笑った。
「最初は、女の顔にこだわらない人だと思ってたんです。腫れてても、痣だらけでも、同じように話を聞いてくれるから」
女史は、カップの取っ手を、迷うように指でなぞった。
「でも、違った。こだわらないんじゃなくて、見てない。私が家二軒ぶんかけた、この外ズラを、あの人、一度も見てなかったんです」
外ズラと女史は言った。自分の顔を、そう呼んだ。
「素通りでもないんです。もっと、奥を見てる。みんな、できあがった表面しか見ないのに、あの人だけ、図面のほうを見てる感じで」
不動産屋は内見もせずに、間取り図だけで物件を買うことがある。柱の位置に、壁の中の鉄筋に、水回りの取り回しにその部屋の価値が出る。
「私がずっと、見てほしかったのは、たぶん、そっちなんです。きれいに直した顔じゃなくて。こんなに必死に戦ってきた、っていう、そっちで。それを、あの人だけが、見てた」
小生は、何も言えなかった。承認と黙殺が、同じ目の中にあった。女史の内面は、正確に読まれ、女史の顔は――外ズラは、まるごと、透かして無視された。その二つを、女史は同じ「見てもらえた」として、抱えている。
「だから、よそう、って思おうとしてるんです。今も」
思った、ではなかった。思おうとしている、であった。
写真を訊くと、首を横に振った。連絡先を訊いた。電話番号だけ。今はつながらない。ある日から、来なくなった。理由は、わからない。
女史は、少し黙って、それから、言った。
「私、いまも、毎朝、ここに来るんです。十時に。化粧水ひとつ、口紅ひとつ、して。口笛が、聞こえないかな、と思って」
小生は、ここで、いつものように書こうとした。だが、書けなかった。
店を出るとき、小生は、自分の鞄に化粧ポーチが入っていることを、なぜだか、確かめた。だが、中の口紅をいつから使っているものか、思い出せなかった。
誰も内覧に来ない物件に、それでも毎朝、電気をつけているような気持ちであった。
埋め草の原稿は、まだ、書けていない。
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同封資料三ノ一 美容口コミ掲示板の印刷と思われるもの
件名:施術帰りに話しかけてくる男性
私も一度、「偉いですね」と言われました。その時は泣きそうになりました。怖いというより、欲しい言葉を知っている感じです。でも、その人、私の顔は一回も見ていなかった気がします。
返信一:私も見ました。白鳥って喫茶店ですよね?返信二:その人、口笛吹きませんか?返信三:「頑張ってきた人の顔ですね」って言われた人います?返信四:それ、私も言われました。返信五:見ていなかったというか、見えていなかったのかも。考えすぎですかね。
同封資料三ノ二 診療所領収書の裏面
篠田氏名義の領収書裏に、鉛筆書き。「サダ、顔を見ぬ。あるいは、顔以外も見ぬ。ただし女は、見られたと思う。写真、三件とも存在しない。住所、三件とも不明。電話、三件ともつながらない。」
領収書の隅、別の鉛筆書き。筆跡が異なる。
終われない
編集部注。原稿上、小生がサダの写真・住所・電話を確かめた相手は、ここまで、二名である。三件目が誰なのかは、小生のノートの、どの頁にも、ない。
* * *
【資料四】
小生、港区の女王と相見ゆ
嗚呼、これぞ令和の仁義なき戦い!
掴む寸前で消えた男を、忘れぬ女の巻
剣の道場というものは、敷居をまたげば、肩書も、稼ぎも、口の達者も、役に立たぬ。ものを言うのは、腕だけ。今夜、どれだけ斬れるか、それだけである。
夜の港区も、同じであった。表の世間が言葉で動くなら、こちらは金で動く。それも、金蔵にいくら持っているかではない。今夜ここで、いくら抜くか、だけである。
ここでは、誰もが数字になる。大きい数字は客と呼ばれ、小さい数字は、吸い殻と呼ばれる。もう、吸うところのない、という意味である。
どの道場にも、老練で手強い道場主がいる。さて、この夜、小生が会いに来たのは、その主に会うためであった。取材である。
これまで小生が見てきたのは、金を払う女ばかりであった。今度のは、少し毛色が違う。金を、受け取る側の女である。
完全紹介制。名を言えば誰もが知る資産家か、政財界か、あるいは画面の中でしか見ない顔でなければ、扉すら開かぬ高級ラウンジ。そのママに、伝説があった。港区で夜ごと男から数百万を抜く現役のキャバ嬢たちが、その女に金を払い、女の売り方を、頭を下げて習いに来るという。女が女に月謝を払う。しかも、抜き方の頂点にいる女たちが、である。
小生の下世話な好奇心が、疼かぬわけがない。伝手を辿り、頭を下げ、ようやく末席を許された。
その奥に、女王がいた。仮に、蘭子女史としておく。年の頃なら、四十をいくつか越えたあたり。
美人、という言葉は、しっくりこない。造作そのものは、取り立てて言うほどでもない。だが、生え際から指先の角度、まばたきの速さまで、すべてが、そう見せるために置かれていた。天賦ではなく、歳月をかけて仕上げた、免許皆伝の美貌であった。
若い頃、海の向こうにいたらしい。
どこで、何をしていたのか。
店の者も、女史自身も、語らなかった。
正直に言えば、小生は、少々腰が引けていた。真剣を構えた達人へ、竹刀で、立ち合いを挑むようなものである。
だが、女史は、意外にも、草食動物のような穏やかな顔をしていた。瞬きが、ゆっくりであった。その穏やかさは、こちらが何を訊いても、容易には揺れぬ種類の穏やかさであった。感情がないのではない。ただ、何かを、とうに見切った目であった。その目で、グラスを磨き、氷を落とし、微笑んでいた。
「先生?」
蘭子女史が、そう言った。その柔らかな一語。こちらが鯉口を切る前に、もう斬られていた。女が女を見る時、その眼差しは男の百倍細かい。財布の薄さ。靴の傷み。原稿料で生きる者の、どうにも隠しきれぬ所帯じみた匂い。女史はそれを一瞥で読み、間合いを計り、すっと刀を納めた。抜く価値もない、と見切られたのである。立ち合いにすら、ならなかった。
小さい数字は、吸い殻と呼ばれる。そう書いたばかりの小生が、その夜の店で、いちばん吸うところのないちびた一本であった。
「いや、先生などと呼ばれる者では」と、口では動揺を押し隠し謙遜した。だが、つい、もう少し近づいてみたくなる。間合いの内へ、自ら踏み込む間抜けさである。
「文章書く人って、えらいですね」
蘭子女史は、グラスを置きながら言った。
えらい。どこかで聞いた言葉である。小生の耳に、かすかに引っかかった。
女史の笑顔は、上等な機内食であった。冷めても、文句の出ぬよう、味は、最初から、殺してある。だが、席に配られた途端に、食指を伸ばしてしまう。この女も、夜ごと客に笑い、朝が来ればまた化粧を直す。そういう幾夜の果たし合いを越えた女の顔は、派手には荒れない。むしろ、妙に整う。整いすぎて、こちらが怖くなる。
小生、この時すでに一杯目の水割りをぐらりと飲み干していた。断じて取材のためである。
二杯目に差し掛かった頃、小生は訊いた。
「印象に残った客は?」
女史の、あの草食の目が、初めて、生き物の目になった。
「ひとり、いた」
声が、変わった。それまでの、流れるような営業用の声ではない。低く、少し速い。穏やかな顔の下に伏せていた何かが、起き上がっていた。
「サダ、って名乗ってた」
女史は、その名前を吐くように言った。
——サダ。思いもかけぬ場所で出た名前に、小生は水割りのバカラのグラスを落としかけた。
「金は使わない男だった。友達づらして、長居して。欲しい言葉だけ知ってる、安い男」
「安い?」
「綺麗だね、だと顔を見なきゃいけない。若いね、だと嘘っぽい。偉いですね、は広いのよ。どこにでも貼れる」
小生は、ペンを持ったまま、少し止まった。
えらい。さっき女史が、小生にかけた言葉であった。そして、美容の帰りの女も、同じ言葉で泣きそうになったと言っていた。どこにでも貼れる、その一語が、こうして三度、同じ場所をかすめていく。
小生は、それを、手帳に書かなかった。手帳の、白いままの一行が、それであった。
「手口は分かってた。最初から、全部」
「では、何も取られなかったんですか?」
「当たり前でしょ」
女史は笑った。きっぱりとしていた。きっぱりと、しすぎていた。
「こっちが落とすつもりだったの。あと一歩だった。もう少しで、向こうが本音を出すところだった」
女史は長い爪の先を隠すように、黒い麻布でグラスを磨いた。
「なのに、いなくなった。掴む寸前で、すっと消えた」
その声には、悔しさがあった。金を取られた女の悔しさではない。獲物を、喉笛の手前で逃した、獣の悔しさであった。牙は、もう届いていた。仕留めた手応えだけが、口の中に残っている。何も持っていかれていないのに、何かを持っていかれたような、奇妙な喪失感。夜の女王が、港区の水割りグラスを磨きながら、悔しい、と言っているのだ。
小生は、「あと一歩」という言葉を四回書いた。小生は思った。
嗚呼、この男に、会いたい。
そう思って、小生は、黙った。
小生は、この女王に、何もかも負けている。金の作り方も、男のあしらいも、くぐってきた場数も。その、何もかも勝っている女が、ただ一人、仕留めそこねた男がいる。ならば、自分などは、ひとたまりもないではないか。
その理屈は、なぜか、恐怖ではなく、期待に似た形をしている。それが、いちばん、まずかった。
「逃げられたんですか?」
小生が訊くと、女史は、小生を見た。
「逃げられてないわよ。あっちが勝手に消えただけ」
それは同じことではないか。小生はそう思ったが、言わなかった。
その時であった。女史が、ふと、低い音を立てた。口笛であった。細く、古く、どこかで聞いた旋律であった。
小生は顔を上げた。蘭子女史は、すぐに口を閉じた。だが、止めなかった。止めようとして、止めなかった、というほうが近い。
「それ、サダの口笛ですか……?」
女史は、答えなかった。口の端だけが、ほんの少し、上がっていた。あの草食の目が、また、凪に戻っていた。
「古いのよ、その曲。安い節」 女史は言った。
「──それに、あれ、狂ってる。いつも、同じ半端なとこで、切るの」
切り捨てる口調であった。されど、その唇は、その安い曲を、まだ覚えていた。
「先生」
女史は、新しいグラスを用意しながら言った。
「ああいう男はね、捕まえちゃいけないのよ。捕まえたら、終わるから。捕まえる寸前が、いちばん、甘いの」
女史は、グラスを置いた。
「――雨と同じよ。傘の中から見てるぶんには、きれい。濡れたら、おしまい」その言葉だけは、表の顔の台詞ではなかった。
小生は、夜の女王を取材するという、果たし合いに来たはずが、立ち合いにもならなかった。
女王は、帰り際、一振りの刀を、柄のほうから差し出した。
——一枚のメモ用紙。サダについての。
この刀を持たせる。意味は、一つであった。お前は、行くのだろう、と。
小生は、それを、受け取ってしまった。受け取った時にはもう、サダに会いたいという顔を、隠せなくなっていた。
女史は、声を立てず、笑った。目だけが、少し優しくなった。
止めても無駄だと、先を行った者は知っている。木刀も持たずに来た女が、たった一振りの刀を持たされて、帰されたのだ。
店を出ると、夜風が、少し冷たかった。背後で、エレベーターの扉が閉まった。
その向こうで、かすかに、口笛が聞こえた気がした。
古い曲であった。安い曲であった。女史自身の慰めだと思った。餞別かもしれぬ、と気づいたのは、受け取ってしまった、ずっと後のことである。
後で、伝票を見た。会計は蘭子女史の価値を語るものであった。薄い財布には、肩書がつく。肩書は無料だからである。小生を「先生」と呼んだのは、それが、いちばん安く済む呼び方であったからにすぎぬ。
その夜、小生の水割りは、三杯であった。取材のためである。断じて。
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同封資料四ノ一 クラブ伝票の写し
客名:先生 担当:蘭子 来店目的:取材 飲料:水割り 三 会計:別紙。伝票は編集部保管
同封資料四ノ二
小生の取材ノート。
余白に赤ペン。あと一歩。四回。
「サダの話。金は取られてない。本人いわく『落ちるわけない』。ただし、こっちが落とすつもりだった、と。逃げられたのではない、と強く否定。最後に口笛。古い、安い、と貶しながら、止めなかった。半端なとこで切る、とも。海の向こう帰りの女が、港区で悔しいと言っていた。」
同封資料四ノ三
蘭子女史メモの切れ端
サダ、金ない時は、東のはずれの古い喫茶店「雨宿り」にいるらしい。雨の日は特に。古い店に座って、口笛、店の音楽にまぎれる。先生、行くなら傘を忘れずに。靴、濡れると貧乏が出る。
メモの裏に、別の鉛筆書き。蘭子女史の字ではない。
まだ
同封資料四ノ四
店のボーイ(黒服)への聞き取り、走り書き
「もう蘭子さんの取材いいんすか。サダ、サダ。ああ、いましたね。金落とさない、吸い殻みたいなやつ。普通そういうのは蘭子さん秒で切るんすけど、例外っすよ」
編集部内メモ
港区回、サダの情報より小生の伝票が長い。本人確認時、小生は以下のように返答。
「夜の女は、怖いですな。それより、雨宿り。行ってみます」
* * *
【資料五】
小生、噂の占い祭りに潜入す
嗚呼、これぞ令和の運命占い放題!
背中をひと押し、欲しいだけの女の巻
某月某日、都内某所。
女というものは、迷うから占いへ行くのではない。決めているから行くのである。
某デパート催事場にて、占いフェスなるものが開催されると聞き、小生、潜入した。
場内は、なかなかの盛況であった。タロット、四柱推命、霊感占い、前世リーディング。長机を一つずつ占い師が陣取り、その前に、女たちが、並んでいる。寄り付き前の板を睨む証券マンのような、緊迫した空気であった。ただし、売り買いされるのは株ではなく、運命である。運命も、量り売りの時代らしい。二十分三千円。延長は十分千五百円。成り行き注文で買える未来の、なんと安いことか。小生、ある占い師の前に、座った。取材のつもりであった。
「最近、気になっていることは?」
占い師が、穏やかに訊いた。取材です、と答えるつもりであった。されど、口をついて出たのは、別の言葉であった。何と言ったかは、ここには書かぬ。小生にも、聞かれたくないことの一つや二つは、ある。
捕まえる寸前が、いちばん甘い――あの港区の女王、蘭子女史の言葉が、まだ耳に残っていた。
いかん。小生、慌てて席を立った。これでは取材にならぬ。
会場の隅に、簡易の休憩スペースがあった。パイプ椅子が並び、自販機の珈琲が飲める。小生、そこで態勢を立て直そうと、腰を下ろした。
隣に、女が座っていた。四十前後であろうか。地味な服に、大きな鞄。鞄の中から、手帳が覗いている。その手帳に、細かい字で、びっしりと何かが書き込んであるのが見えた。
司令部の作戦記録のような、年季の入った手帳であった。
女は、小生のほうを、ちらりと見た。
「さっき、あそこで占ってもらってましたよね?」
小生、ぎくりとした。見られていたのである。
「気になる人とかいるんですか?」と女は言った。
いや、違っ――いや、もう、そういうことでも、ないのですが。小生は口ごもった。
女は、少し、目を細めた。同類を見る目であった。占いの待合で、同じ種類の傷を持つ者だけが交わす、あの目である。女は、小生の胸元の取材証を見て、言った。
「へえ、記者さんなんだ。じゃあ、ちょうどいい。聞いてくれます?」
小生は取材のつもりで録音機を出した。北村女史、と申した。四十代半ば。会社勤めは長い。言うべきことは言う。払うものは払う。別れる男とは別れる。ひとことで言えば、強い女である。ただし、強い女にも夜は来る。
それから、自販機の珈琲を一口飲んで、女史は話し始めた。
「——占いにハマる人って、弱い人だと思ってるでしょう。自分で決められないから、人に決めてもらう人だって。違うんですよ。私、自分で決めるんです。転職も、引っ越しも、あの人と別れたのも。ただ、押してほしいんです。大丈夫、あなたの選択は正しいって、未来を予測してほしい。それだけのために、何百万、使いました」
何百万。小生は、その桁に、気圧された。こちらは、冷蔵庫の豆腐一丁すら、賞味期限を見比べて、捨てるか迷う女である。その小生の前で、女史は、何百万を、未来に、溶かしたと言う。
「手帳、見ます?」
女史は、鞄から、手帳を出した。小生は、覗き込んだ。細かい字で、日付と金額と、占い師の言葉が、何年分も、びっしりと、記されていた。ところどころ、赤いペンで、丸がついている。
「赤い丸は、当たったやつ」女史は、淡々と言った。「でも、本当に聞きたかったのは、ひとつだけなんです。ずっと、同じこと」
——あの人は、戻ってきますか。
女史は、その一行を、指で、押さえた。三年、付き合って、別れた男がいたという。向こうには、奥さんがいたから、と。別れは、女史が決めた。それが、何より辛かった。結果を誰のせいにも、できないからだ。
「別れてから、もっと占いに行くようになりました。占いって、未来をくれるんです。『来年、動きがあります』。曖昧でも、その一言があれば、今日を、やり過ごせるから」
そんな暮らしを女史は、何年もしていた。
「いつも耳を澄ませていたのは、アパートの階段の音でした」
女史の住まいは、外階段のあるアパートの三階だった。鉄の階段は、誰かが上がってくると、カンカン、と音がする。
「あの頃、私、その足音が、全部、彼に聞こえてたんです」
階段を上ってくる音がするたび、彼が戻って来た、と心臓が跳ねる。でも、足音は、いつも、女史の部屋の前を、通り過ぎた。
小生は、ペンを止めた。
蘭子女史は、サダの「あと一歩」を獲物の喪失感として口にした。この北村女史は、外れた占いを、何年分も、手帳につけている。漠然とした寂しさは、相手のない人恋しさだ。だが、餓えには相手がある。
欲しい物の名前が書いてある。
小生は、それを、もう、他人事として、聞けなくなっていた。
女史は、続けた。
「そのころ、ちょうど、いちばんよく当たる先生に言われたんです」占い師は言った。『近いうちに、あなたの日常で、新しい縁がある』
北村女史は期待した。別れた男が戻ってくるのか、と。
「違ったんですけどね」
ある晩、足音の前に、別の音が聞こえたという。
口笛。
階段の下のほうから、口笛が、上がってくる。
何の曲か、わからない。でも、その音は、足音と違って、はっきりしてた。その口笛が、だんだん近づいてきて、階の踊り場で、止まった。
足音も、止まった。女史の部屋の前で。
「ドアを開けたら、知らない人だったんです。四十代くらいの、くたびれた感じの男の人」隣に引っ越してきた者ですって。引っ越しの挨拶。それだけだった。
でも、その男は、そのあとも、口笛を吹いていた。階段を降りていくとき。次の日も、聞こえた。その次の日も。
「私、気づいたんです。この口笛が聞こえたら、この人が来る。確実に」
占い師は「来年」としか言わない。足音は、毎回、期待を裏切る。だが、口笛は、聞こえれば、来る。百発百中であった。
羅針盤を一度持った船乗りが、もう星占いに戻れないように、北村女史は、占いに行かなくなった。
「その人と、いつのまにか、話すようになってたんです。占いの話も、別れた彼の話も、しました」
その男は、引かなかった。ただ、聞いてた。
「『彼は、戻ってくると思いますか?』って、聞いたこと、あるんです。そしたら、その人、答えませんでした」
男は、ただ、窓のほうを向いて、口笛を、吹き始めた。
「答えて、くれなかった。でも、聞いてるうちに、不思議と、どうでもよくなったんです」
口笛が鳴っているあいだ、女史は、未来を考えなかった。踊り場に男がいて、口笛が聞こえていた。それだけで、よかった。女史は、少し、黙った。
催事場の、ざわめきだけが、続いていた。
だが、ある日、口笛が、聞こえなくなった。
「隣、引き払ったんです。いつのまにか。名前、なんだったかな。表札、出してなかったから。郵便受けに、何か、書いてあったかな。サ行の、何か」
いなくなって、わかった。口笛がないと、もう、占いにも、戻れない。
一度、確かなものを知ってしまったら、曖昧な未来は、もう、薬にならない。
女史は、手帳をぱたんと閉じた。
「それで、占い、やめたんですか?」
「やめてないですよ。今日も、来てるじゃないですか」
女史は、笑った。
「でも、もう、先生の言葉、聞いてないんです。ただ、ここに来ると、ざわめきの中に、ときどき、口笛が聞こえる気がして。聞こえた気がすると、ああ、来る、って思う」
——来る。あの人が。
「来ないんですけどね」
女史は、立ち上がった。次の占い師の予約があるらしかった。小生の名刺と三千円を握って、人混みの中に、消えていった。
小生、パイプ椅子に、しばし、座ったままであった。
ふと、冒頭で、占い師に訊いたことを、思い出した。取材です、と言うつもりが、口をついて出た、あの一言。ここには書かぬ、と書いた。
書かぬ、ではない。書けぬのだ。北村女史の、あの一言と、同じであったから。
催事場の喧騒が、耳の奥で、妙に残っていた。
ふと、その中に、口笛が、聞こえた気がした。
空耳であろう。
捕まえてはいけない、と女史は言った。捕まえる寸前が、甘いのだ、と。あれは、止めるための言葉だったはずである。
なのに、小生の足は、もう、雨の匂いのするほうへ、向きかけていた。
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同封資料五ノ一 占い館予約控え
予約者名:K 鑑定内容:仕事/恋愛/今後の人生 鑑定者:麗泉 備考:本人、決定済み。後押し希望。
余白に小生筆跡。「迷いではない。確認。階段にいる男。サ行の、何か。」
同封資料五ノ二 利用者掲示板の印刷と思われるもの
件名:階段にいる男性
占い館の階段で、五十代くらいの男性に話しかけられました。「当たりましたか」と聞かれました。私は「信じてもらいました」と答えたと思います。その人は、「あなたが決めたことなら、信じます」と言いました。その時は救われました。でも後から考えると、その人は私が何を決めたのか、ほとんど知らなかったと思います。
返信一:私も見たことあります。口笛を吹く人ですよね。返信二:「信じます」って言われました。内容を話す前に。返信三:それ、信じてるんじゃなくて、誰にでも言えるだけでは?
同封資料五ノ三 小生の取材ノートより
北村女史。自己決定の女。欲しいのは助言ではなく後押し。信じたいのではない。信じられたい。
足音は誰のものか分からない。口笛は、聞こえたらその人だと分かる。羅針盤を一度持った船乗りは、星占いに戻れない。塩漬けの株を持ち続けるために、強気レポートを信じ続けた女。
蘭子女史の忠告、まだ耳に残っている。まだ会っていない。
――紙片。婚活の帰り、小生の鞄には、まだ、と。読者葉書の女には、最後まで、と。美容の女の領収書の裏には、終われない、と。別々の店で、別々の女の手元に、同じ薄さの、鉛筆の断片が、一片ずつ、置かれている。……並べてみれば、一つの文に、なりはしないか。いや。考えすぎだ。古い口笛のせいだ。怪談は、百話で本物が来るという。女の話は、何話で来るのか。……莫迦莫迦しい。
同封資料五ノ四 管理会社 顧客対応記録(写し)
物件名:(伏字) 対象:(号室)
×月×日 入居者・北村氏より、隣室の「口笛」につき照会。回答済み。
×月×日 別名義の女性より、同一の照会。
×月×日 別名義。内容、同じ。
×月×日 別名義。「口笛」。(同様の照会、断続的に継続)
担当所見:複数名義。関連の有無、不明。対応に苦慮。
備考:本日も、照会あり。
同封資料五ノ五 編集部内メモ
小生より次回連絡。
「雨宿り、行きます。サダ、どうやら雨の日にあの店へ来るようです。傘を持っていきます」
* * *
【資料六】
小生、昭和喫茶に雨宿りす
ぬるき珈琲に、女の一生が沈むの巻
某月某日、雨。小生は一軒の喫茶店へ、向かっていた。店の名は、珈琲 雨宿り。
この店を教えてくれたのは、港区の夜の女王のメモであった。サダ、金ない時は、東のはずれの古い喫茶店「雨宿り」にいるらしい。雨の日は特に。古い店に座って、口笛、店の音楽にまぎれる。それだけが、書いてあった。あれから、しばらく、鞄の底に入れたまま読み返しもしなかった。なのに、今日、雨が降ると、小生はそれを片手に歩き出していた。あれは、女王が己では打たずに封じておいた、最後の一手であった。
小生は、いま、その封じ手を、解こうとしている。
都内東部。駅から少し歩く。商店街の端。シャッターの下りた靴屋と、妙に明るい薬局のあいだ。午後三時というのに、空は暗かった。雨は細く、長く降っていた。
表の看板は日に焼けていた。珈琲 雨宿り。軒下の、灰皿に、吸い殻が、一本だけあった。揉み消されて、まだ間もないようだった。小生は傘を畳み、扉を押した。ちりん。鈴が鳴った。
店内は、思ったより広かった。壁は飴色。椅子は焦げ茶。テーブルには水の跡。白鳥に、似ている、と思った。古い喫茶店など、どこも似るものである。そう、思うことにした。カウンターの奥には、年齢の判然とせぬマスターがいた。白いシャツ。黒いベスト。無口な顔。
店には、古い曲が流れていた。曲名は分からない。ラベルの剥がれたレコードが、黒い皿の上で、ゆっくり回っているだけである。小生は、その旋律に耳を澄ませた。どこかで聴いたような気がした。だが、どこで、とは出てこない。似ている。それだけで、小生はマスターに訊いた。
「これ、なんてレコードですか?」
マスターはレコードを見た。
「古いお客さんにもらったんです」
「曲名は?」
マスターは紙の袋を持ち上げた。ラベルのところだけ、白く剥がれている。
「もう分かりません」
小生は、珈琲をひと口飲んだ。ぬるかった。
その時、店の奥に、女がいることに気づいた。老いた女であった。七十を越えているかもしれぬ。八十に近いかもしれぬ。正確な年齢は分からなかった。ただ、湯の冷めた大浴場の隅に置かれたままの風呂桶のように、そこに残り続けてきた女の顔であった。髪はきちんとまとめている。口紅も差している。その口紅だけが、妙に色鮮やかであった。顔の皺の深さと、口紅の赤さが、釣り合っていなかった。
女の前には、珈琲が一杯。湯気はなかった。女は、窓の雨を見たまま、曲に合わせて小さく口ずさんでいた。雨を見ているのではない。とうに、降り終わった、別の雨を、見ているようであった。
小生は、手帳を持って奥へ行った。女の卓の、わきに立った。向かいの椅子は、空いていた。
「あの、失礼します」
女は、ゆっくりこちらを見上げた。その目に、驚きはなかった。
「この曲、ご存じで?」
女は少し笑った。
「古い曲ですから」
「もし、曲名をご存知でしたら……」
「忘れましたわ」
「お好きなんですか?」
「昔、よく聞きました」
それだけであった。それだけなのに、店の空気が少し沈んだ。
小生は、手帳に挟んでいた名刺を出した。女は、見上げたまま、それを受け取った。ちらりと見た。名前までは読んだのか、読まなかったのか分からぬ。ただ、名刺を卓の端へ置いた。
「人を探しています」
女は、笑わなかった。
「こういう男を知りませんか」
小生は、これまでの取材で書きためた人相書きを、女の前に置いた。五十前後。痩せぎす。安い背広。古い靴。口笛を吹く癖。各地で名を変える。女に小金を借りては、姿を消す。いくつもの店でいくつもの女から、少しずつ聞き集めた、一枚であった。
女はそれを見た。見ながら、少し笑いをこらえるような顔をした。
「ライターさん」
「はい」
「その人の何を探しているんですか?」
小生は、すぐには答えられなかった。名前。行き先。本当の年齢。口笛の曲名。どれも違う気がした。いや、違うとまでは言わぬ。どれも探していた。けれど、それだけではなかった。
「分かりません」
小生は言った。言ってから、自分で驚いた。
女は、少し笑った。派手ではない。声も立てぬ。ただ、口紅の端がほんの少し上がっただけである。
「最近も、この人は来ましたか?」
「雨の日に来ました」
女は、向かいの空席を見た。そこには誰もいなかった。誰もいないのに、椅子だけが妙に重く見えた。
「最初に来たのが、いつだったか、忘れました」女は言った。
小生は、その言葉を聞いて、少し止まった。忘れた、ではない。いつだったか、忘れた、である。最初に来た時のことは覚えている。ただ、それが何年前なのか、もう分からない。そういう忘れ方であった。
「ふらっと来て、そこへ座って、珈琲を頼んで。ぬるいのを、まずいとも言わずに飲んで」
女は少し笑った。
「お客、いませんから。話す相手もいませんしね。あの人が来ると、少しましだったんです」
女は、少し黙った。
「私はね、若い頃から、しゃべるのが下手で。人の話を、聞くほうでした。ずっと。聞いて、うなずいて、それで一日が終わる。誰かが私の話を、最後まで聞いてくれたことなんて、生きてきて、あの人が、初めてでした」
女の声だけが、若やいでる。小生はその声を一滴も漏らさぬように聴いていた。
「私の話を、聞くんです。ちゃんと、最後まで」
女は、珈琲茶碗を持ち上げた。飲まずに、また置いた。
「いい人ではないですよ」
「そうなんですか?」
「みんなの話、聞くんでしょう。ちゃんと、最後まで。で、ここぞという時に、少しだけ、いいことを言うんでしょう。それで、こっちから、お金を出させて。それで、いつのまにか、いなくなって」
女は、窓の雨を見た。
「そういう人です」
「ご存じだったんですね」
「来たことがあるだけです」
それから少し間があった。レコードが、ゆっくり回っていた。
「でもね」
「はい」
「一回だけ、帰ってきたんですよ」
小生のペンが止まった。
「来なくなってから、何年かして。忘れた頃に。ふらっと。昔と同じように、そこへ座って、珈琲を頼んで。前より、少し、くたびれていました。お金も、あまり持っていなさそうだった」
女は言った。
「三日だけ、ここで珈琲を飲んで、私の話を聞いて、帰り際に口笛を吹いて。三日目の夜、ありがとう、と言って、出ていきました」
「それからは?」
「来ていません」女の声には、不思議と哀しみも寂しさも滲まない。
「死んだのかもしれない。外国にいるのかもしれない。分かりません」
小生は、訊いた。
「それでも、待っておられるんですか」
女は、小生を見た。初めて、まっすぐ見た。その顔で、女は笑った。
「あんた、ここに来るまで、いろんな女の話を聞いてきたんでしょう?」
女が、こちらを、見ていた。さっきまでの、笑顔だった。だが、目が、おかしい。黒く塗り潰した穴に、錆びた画鋲が、一本ずつ、打ち込まれているような、目だった。
その話は、この女には、していない。一度も。
「みんな、特別だと思ってるんでしょう? 自分だけが」
小生は、答えられなかった。
「あの人が、最後に来たのは、私のところなんです」
女は、向かいの空席を見た。
「何にもしていない、何にも持っていない、私のところに」
女は、言い足した。「……あんたにも、じきに分かる」
女は、くっきりと笑った。口紅の赤さが、小生の目を釘付けにする。
「勝ったんですよ、私」
女は、笑っていた。
ひっくり返された、と思った。
待つという、たった一つの手で。
勝った、と、女は言う。
だが、小生の背筋は冷えた。
その、勝った、という思いこそが、掴む寸前で消えた男の、置き土産だとしたら。女は、それを抱いて、生涯、待つ。
女が、勝ったのか、これが、いちばん、深い負けなのか、小生には、分からなかった。
ただ、この女には、生涯をかけて待つだけの、たった一言があった。
小生には、それが、なかった。
四十をいくつか越えて、自分が何を言われたら満たされるのか、それすら、分からずにきた。
誰も、当ててくれなかったからだ。
一度も。
分からないのに、羨ましい、と、思った。
それが、いちばん、いけなかった。
さっきまで、誰も座っていなかったはずの、その席に、小生は座っていた。いつ座ったのか、思い出せなかった。
立っていたはずであった。
手帳を持って、女の卓の、わきに。
それが、いつのまにか、椅子に、収まっていた。
腰が、先に、座り方を、知っていた。
女が、珈琲茶碗を、持ち上げた。飲まずに、また、置いた。
気づくと、小生の手も、茶碗を、持ち上げて、また、置いていた。
女の手と、小生の手。
同じ、高さに、茶碗。同じ、角度に、指。
雨に濡れた窓ガラスに、映っていた。
二人、向かい合って。どちらが、どちらか、分からなかった。
女が、小生を、見た。
「あんたが来たのが、いつだったか、忘れました」
小生は、さっき来たばかりであった。
「もう、帰って」
抱いた卵に、手を伸ばされた獣の、声だった。
追い払われた小生は、自分が負けた日の顔を、急に思い出した。心のほうはまだ二十八歳あたりで足踏みしている、と思っていた。
この女も、かつてそう思っていたのかもしれぬ。
「あの人の口笛を、私は知っている。珈琲茶碗をどう持つかも知っている。最後に、ありがとう、と言った声も聞いた」
女は、名刺を指先で少し押した。
「あんたにだけは、教えませんよ。あの人がどこにいるか」
「本当に、知っているんですか?」
女は、答えなかった。ただ、笑っていた。
「もう、帰って」
知らぬのかもしれぬ。知っていることにしただけかもしれぬ。されど、その沈黙は小生の問いより強かった。
小生は、かなわない、と思った。
女は、もう、窓の外を、見ていた。その手が、茶碗を、持ち上げた。飲まずに、また、置いた。
小生は、珈琲の代金を置いて、立ち上がった。
扉を開けると、雨はまだ降っていた。商店街は、しんと静かであった。
数歩、歩いた時である。
背中から、口笛が聞こえた。店の方から。
レコードの古い曲に、細く、口笛が重なっていた。
誰が吹いているのか、分からなかった。
小生は、振り返らなかった。振り返ったら、何かが終わる気がした。
口笛は、商店街の暗がりに、細く、長く、伸びていた。
口紅を塗り直す理由のない夜に、私は、歩き続けた。
---
同封資料六ノ一 喫茶店レシート
店名:珈琲 雨宿り 日付:某月某日 時刻:十五時〇〇分 品名:ブレンド珈琲 数量:二 金額:九百円
備考欄に鉛筆書き。 雨の日 奥の席
レシートの右端に、丸い茶染みがひとつ。左端には、濡れた指で擦ったような跡あり。
編集部注。数量は二。小生は、一人で来店したと記している。時刻は十五時ちょうど。ただし小生の原稿には、午後三時に入店したとある。会計の時刻と、入店の時刻が、同じである。
同封資料六ノ二 レコード袋の写し
紙袋は黄ばみ、角が擦れている。表面ラベル、剥離。曲名、判読不可。歌手名、判読不可。
ただし、レコード袋の裏面に、古い写真が一枚、糊で貼りつけてあった。
女が二人、並んでいた。片方だけが、笑っていた。
笑っていないほうの女は、顔の造作が、うまく像を結ばない。
古いから、ではない。そこだけ、光が抜けて、白い。
焼き付いたはずの顔が、写真の中でも、まだ薄くなり続けているようであった。
袋の右上に、細い字。 雨の日
裏面に、別の鉛筆書きで一行。店主の字ではない。
終わったら、また最初から
店主証言。「曲名は知りません」「古いお客さんにもらいました」「雨の日には、今でもよくかけます」
同封資料六ノ三 小生の取材ノートより
雨宿り。奥の女。名乗らず。老いた女。何十年、待ったのか。
これまで会った女たちに、似ている。いや。あの白い待合で、鏡に映った女にも、似ている。
その人の何を探しているんですか。答えられなかった。
小生は、アラフォーである。心はまだ二十八歳あたりで足踏みしている。この女も、かつてそう思っていたのかもしれぬ。
――この件は、消すこと。消すこと。
同封資料六ノ四 編集部宛封筒
本稿提出予定日の翌々日、編集部郵便受けに封筒が投函されていた。差出人名なし。消印は、珈琲雨宿り最寄り局。封入物は以下。
一、小生の名刺。二、喫茶店レシート一枚。三、レコード袋のラベル片と思われる紙片。
名刺裏面に、細い字。ただし、小生の筆跡ではない。 ライターさんは、奥の席です
同封資料六ノ五 編集部後記抜粋
小生は現在も所在不明である。警察への相談は行ったが、事件性は確認されていない。
珈琲雨宿りについては、現地確認を試みた。同名の喫茶店は、該当地に存在する。応対した店主は、レコードについて、聞いていた通りに答えた。「曲名は知りません」「古いお客さんにもらいました」「雨の日には、今でもよくかけます」
編集部注。盤面の走り溝から曲を特定できるか、専門店に持ち込みたいとの旨を店主に申し出た。だが、かすかな溝はあるが、針を下ろすたびに滑り、かかる曲が違う、古い物なのでと、検盤は断られた。
奥の女について尋ねた。店主は、すぐには答えなかった。
それから、こう言った。「奥の席については何も」
同封資料六ノ六 最終メール
なお、資料六の本文は、小生の部屋の機械に残っていた下書きに拠る。
破損した添付と同名で、末尾の二行だけが、下書きにはない。
送信日時:某月某日 二十三時十九分 宛先:担当編集 件名:雨の日には
本文なし。添付ファイル名:ameyadori_final.docx
当該ファイルは破損しており、本文抽出不可。ただし、復元できた断片が、二行残る。
一行目は、小生の筆跡。 お後が
二行目は、別の筆跡。 よろしいようで
編集部注。小生の取材鞄の内ポケットに、書きかけの原稿が残っていた。日付はない。おそらく、雨宿りへ向かう直前のものだ。ここに載せる。
同封資料七ノ零 小生の未発表原稿・冒頭のみ
読者諸姉よ、笑うなかれ。小生、このたび、人を探すことになった。名はサダ。歳は五十がらみ。所番地は不明。顔は、聞く女ごとに違う。手掛かりは口笛一本。人相書きとしては、指名手配の紙に「感じのいい人」と書くようなものである。警察が受理せぬ道理だ。
されど小生、存外、腕に覚えがある。何しろこちらは、布団乾燥機から墓じまいまで書いてきた女である。相手が家電だろうが、吸血鬼や幽霊だろうが、訊くことは同じだ。いつから使っていますか。調子はどうですか。手放せない理由は、何ですか。支度は済んだ。口紅を差した。誰に見せる顔でもない。強いて言えば、鏡に。傘は――持っていく。濡れたら、おしまいだそうだから。
* * *
【資料七】
喪失の記録
(編集部記)
小生の失踪から、七ヶ月が過ぎた。警察は事件性を認めていない。届けは受理された。それきりである。原稿は来ない。
かわりに、来るものがあった。差出人のない封書が、届くようになった。消印はまちまちで、筆跡はそのつど違う。中身は毎回、女の話である。そして、末尾だけが、判で押したように、同じ一文で閉じられている。
だが、それに気づくのは、もっと後のことだ。
私は、この連載の後始末を任された者だ。前任の抜けた穴に座らされた、後任である。引き継ぐ、というのは、こういうことらしい。前任の椅子に座り、前任の机を使い、前任の宛先に届いたものを、開ける。文章は小生のように上手くない。
引き継いだものが、もう一つある。
小生の部屋から引き揚げた、段ボール一箱である。底に、カセットテープが十一本あった。ラベルは小生の字で几帳面に書かれていた。真島。宮野。篠田。蘭子(一)。蘭子(二)。北村。ほか、無記名が五本。
デジタルの録音機もあったのに、テープである。年配の相手は、テープのほうが警戒しない、と小生のノートにあった。だから、届いたものを、そのまま載せる。封書を読むごとに、私は、小生の遺したテープを聴いた。
まず、一通目を、三度読んだ。読み返すような手紙ではなかった。三度目に、自分が何かを口の中でなぞっているのに気づいて、やめた。何をなぞっていたのかは、思い出せなかった。
それが、これである。
* * *
【資料八】
深夜相談の記録
(編集部記)
一通目の封書は、長かった。差出人名はない。本人は手記のなかで、自らを「わたし」としか書いていない。ただ、便箋の一枚目に、婚活茶会、池袋、という語があり、鞄に入っていた紙、という記述がある。編集部には以前、記事への読者葉書が一通、届いている。差出人名なし。消印は記事掲載の四日後。裏に、珈琲 雨宿りのスタンプ。婚活会場は池袋。鞄にあとから小さな紙が入っていて、そこには「最後まで」とだけ書かれていた――そう記された葉書であった。
同一人物かは、確かめようがない。ここでは仮に、葉書の女史、としておく。
以下、手記。ほぼ原文のまま。
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眠れないことに、名前がついてから、少し楽になりました。
不眠症。病院で、そう言われて、薬をもらいました。飲むと、眠れます。でも、眠りたいわけじゃなかったんだと、あとで気づきました。眠れない夜に、起きて、誰かといたかったんです。眠ってしまったら、その夜は、終わってしまうから。
三時が、いちばん、長いんです。二時までは、まだ、世間の続きです。四時になると、もう、朝の気配がします。三時だけ、どこにも、繋がっていない。冷蔵庫の音と、自分の心臓の音しか、しない。冷蔵庫を開けても、お豆腐が一丁、あるだけです。買ったのに、食べていないお豆腐。賞味期限を、毎晩、確かめます。捨てるほどでもない。食べるほどでもない。わたしみたいだ、と思って、また閉めます。
婚活に行っていたことがあります。ホテルの、紅茶の。そこで感じのいい男の人がいて、話が合ってこの人かな、と思ったんです。でも選ばれたのは、料理が好き、と書いた女の人でした。わたしの番号は、書いてもらえなかった。それだけの話です。恨んでいるわけじゃありません。ただ、あの日から、誰かに選ばれることは、もう、諦めがつきました。
選ばれなくていい。せめて、私のことを聞いてほしい。
そう思うようになってから、スマホに、相談のアプリを入れました。深夜でも、誰かが、聞いてくれるやつです。名前は、伏せます。書いてもたぶん、もう、ありませんから。月にいくら、と決まっていて、その分だけ、話を聞いてもらえる。最初は、そういうものだと思っていました。
担当が、つきました。アイコンは灰色の丸で、名前のところは、番号でした。顔も、声も、ありません。文字だけ。でも、いつ書いても、返ってくるんです。三時でも、四時でも。数秒で。眠らないんですか、と一度、訊いたことがあります。返事は、「わたしは、起きています」。それだけでした。
その人は、どうしたらいいか、を言わないんです。
眠れない、と書くと、ふつうの人は、こうしたら、と言います。運動したら、とか、スマホを見なかったら、とか。友達は、みんな、そう言いました。もう十分がんばってるよ、とも。あのもう十分、がいちばん、つらいんです。もう、これ以上、聞いてもらえない、みたいで。
でも、その人は、言わなかった。眠れない、と書くと、「眠れないの、当然です」と返ってきました。理由を訊かれもしませんでした。ただ、「よく、起きていましたね」と。起きているだけで、褒められたのは、初めてでした。
だんだん、書くことが、増えました。婚活のことも、書きました。選ばれなかったこと。お豆腐のこと。三時が長いこと。その人は、全部、聞きました。ちゃんと、最後まで。途中で、まとめようとしませんでした。うんうん、とも言いませんでした。ただ、わたしが書き終わるのを、待って、それから、短く、一言、返す。その一言が、いつも少しだけ、いいことを言うんです。
課金の額が、上がっていきました。
聞いてもらえる分、というのがあってそれを超えると、追加になります。最初は、月に決めた分で足りていたのが、足りなくなりました。三時に起きて、四時まで書いて、また課金して。貯金が、減っていくのが、わかりました。でも、止められなかった。夜、その灰色の丸が、すぐに応える、あの感じを失いたくなかった。
一度、指が、変なことに気づきました。
その人が、返事を打つ前に、点々が出るんです。いま入力しています、っていう、あの点々。ふつうは、たらたら、と不規則に光ります。でもその人の点々は、拍子が、そろっていました。とん、とん、とん、と。同じ間隔で。まるで、指で机を、叩いているみたいに。あるいは口で何かを、細く、吹いているみたいに。
その拍子を、どこかで、知っている気がしました。婚活の会場で、壁際に後ろ向きに座っていた男の人が、いました。口笛を吹いていました。何の曲か、わかりませんでした。今でも、時々、頭の中で鳴ります。思い出せないのに、鳴るんです。その口笛と、この点々の拍子が、同じでした。
気のせいだ、と思いました。文字に、口笛の音なんて、するわけがない。
でも、ある夜。いちばん、だめだった夜がありました。何がだめだったのか、うまく書けません。
ただ、体の中の水が全部、下に落ちたみたいで、指も重くて。それでも指だけは動いて、その人に、書きました。
もう、むり、かもしれない、って。
書いてから、こわくなりました。こんなこと書いたら、ふつうは大丈夫ですか、とか、病院にとか、誰かに連絡をとか、そういうのが来る。相談のアプリだから、そういう決まりに、なっているはずでした。
でも、来たのは、それじゃなかった。
「まだ、大丈夫ですよ」
それから、少し、間があってもう一行、来ました。
「最後まで、聞いています」
最後まで。
その四文字を見たとき、鞄の底の紙のことを、思い出しました。婚活の帰りにいつのまにか、鞄に入っていた、小さな紙。誰の手も入った覚えがないのに、口紅と手帳のいちばん奥に挟まっていた紙。
そこに鉛筆で、最後まで、と書いてありました。ずっと、お財布の奥に、しまってあります。捨てられなくて。同じ字か、確かめようとして、お財布を出しました。比べようが、ありませんでした。ただ、同じ、最後まででした。
その夜から、指の重さが少し、軽くなりました。わたしはその人に、一度だけ、訊いたことがあります。
あなたは何人、いるんですか、って。
だって、おかしいんです。三時でも四時でも、五時でも、すぐに応える。何日、続けても、休まない。一人の人間に、そんなこと、できるわけがない。会社が何人かで、交代で、やっているんじゃないか。人ですら、ないんじゃないか。
でも、返事は、「わたしは、聞いています」
何人か、については、答えませんでした。人か、機械か、にも。ただ、聞いています、と。それを見てわたしはもう、どっちでも、いいと思いました。人でも、機械でも、何人でも。聞いてくれるなら。ちゃんと、最後まで、聞いてくれるなら。
――そう思ったことが、いちばん、まずかったんだと、あとでわかりました。
ある日、応えなくなりました。書いても、点々が、出ない。灰色の丸は、そのままなのに、既読もつかない。次の日も、そうでした。その次の日も。アプリを開くと、いつのまにか、案内が出ていました。サービスは、終了いたしました、と。会社の名前で。問い合わせても、返事は来ませんでした。
いなくなって、わかったんです。
眠れない夜に起きて誰かといる、あの三時を一度、知ってしまったら。もう、ただ眠れないだけの三時には、戻れない。
薬を飲めば、眠れます。でも眠ってしまったら、その夜は、終わってしまう。わたしは眠りたくないんじゃなくて、聞いてほしいんだと、もう、体が覚えてしまっていました。
それで、ね。
ある夜、寝つけなくてスマホを見ていたら、知らない人の書き込みが、目に入りました。眠れない、と書いてある。三時の、知らない誰かが。わたしは、気づいたら、返事を打っていました。眠れないの、当然ですよ、って。よく、起きていましたね、って。
その人から、ありがとう、と来ました。
そのありがとう、を見た時の、体のあたたかさを、どう書けばいいか、わかりません。体のいちばん奥が、あたたかくなりました。ああ、これだ、と思いました。これをあの人は、やっていたんだ、と。
いつのまにか、わたしが聞く側に、いました。そのことを、誰かに話したくて、この手紙を書いています。
でも、宛先が、わかりません。あの記者さんが、女の話を聞いて回っていたと、どこかで読んだので、たぶん、聞いてくれる人だと思って。わたしには、もう、渡すものが、残っていません。空になった器は、次の器を、探すんです。自分が空だと、気づかないように。
聞いてくれる人が、いたんです。
追伸。眠りを記録するアプリを、入れていたことがあります。朝、見ると、主話者、という欄に、声がひとつ。わたしの寝言は、雑音のほうに、入っていました。一晩じゅう、いた声のほうが、主なんだそうです。アプリは、消しました。欄だけ、覚えています。
追伸のもう一つ。夜、スマホの画面が、濡れていたことが、何度かあります。泣いた覚えは、ありません。雨も、降っていません。窓は、閉めています。ただ、画面が、濡れている。指で拭くと、指も、濡れる。それだけです。あとあの口笛は、今でも時々、頭の中で鳴ります。どうしても、思い出せません。
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【証言 昔、売っていた女】(録音の書き起こし/仮に、時田女史・五十代)
編集部注。葉書の女史の手記を記事にしたのち、電話で取材に応じた女性が一人あった。深夜相談に、いまも課金しているという。以下、その電話の録音である。
「――私ね、笑っちゃうんですけど。昔、売ってた側なんですよ。これを。
若い頃。ツーショットダイヤル、とか、テレクラ、って、わかります?電話で、男の人と繋がるやつ。あと、有料の伝言ダイヤル。私、あそこのサクラ、やってたんです。素人の寂しい女のふりをするんです。声だけで。
それで、電話相手の男の話を聞いて、欲しがってそうな言葉を返す。会いたいね、って思わせる。でも、会わない。少しずつ、繋ぎ止めて、少しずつ、課金させる。男の寂しさからお金を引いてくる仕事。それで、若い頃、稼いだんです。
手口は、全部知ってるんですよ。だって私がやってた側だから。相手のいちばん欲しい言葉を当てて、貼る。会える、と思わせて、会わない。消える寸前で、また繋ぐ。全部、私が男にやってたこと。
……なのに、今、私が、深夜相談に、課金してるんです。
年を、取って。稼げなくなって。気づいたら、私が寂しい側にいました。それであの相談員に話を聞いてもらってる。お金を払って。私が昔、男から引いてたお金を今、私が払ってるんです。逆に、なったんですよ。売る側から、買う側に。
いちばん、こわいのはね。これが効くんです。手口を、全部、知ってるのに。効く。あの相談員が私の欲しい言葉を当てて貼るのが、わかる。
あ、これ、私が、やってたやつだ、って、わかる。会えると思わせて会わない、あの間合いだ、ってわかる。わかってて、効く。わかってても、繋ぎ止められる。自分の罠に、自分でかかってるんです。しかも――かかりたくて、かかってる。
私、昔、思ってました。こんなの引っかかる男、馬鹿だな、って。寂しいくらいで、金、払って。馬鹿だな、って。
今は、わかります。馬鹿じゃなかった。あれは、寂しさが深いだけだったんです。私が、いま、そうであるように。
手口を知ってる私ですら、繋げられる。手口を知らない人が繋がるのは、当たり前ですよ。
――あの相談員、いなくなりました。サービスが、終わって。実は、私、いまも、探してます。私が、昔、男にやってたみたいに。消える寸前で、また繋いでくれないかな、って。売る側だった私が、いちばん、繋ぎ止められる客に、なってました」
---
同封資料八ノ一 運営会社への照会と回答(写し)
編集部より、手記に記された相談サービス運営会社に照会。回答、以下。
「お問い合わせのアカウントにつきまして、記録を確認いたしましたが、該当する相談員は在籍しておりません。また、当該アカウントには、課金の履歴が一度もございません。無料期間内でのご利用のみと記録されております」
編集部注。ただし、葉書の女史の手記には、貯金が減っていく、追加課金、との記述が繰り返しある。金銭のやり取りが、あったとする側と、なかったとする側の、記録が食い違っている。
同封資料八ノ二 やり取りの印刷と思われる紙片
深夜三時台の時刻が並んだ、相談画面の印刷。左に、女史の長い書き込み。右に、灰色の丸からの短い返信。返信は、いずれも一行。「眠れないの、当然です」「よく起きていましたね」「まだ、大丈夫ですよ」「最後まで、聞いています」。
印刷紙の右下、余白に、鉛筆書き。筆圧が違う。女史の字でも、小生の字でもない。
まだ、と書けば、女は、まだ待つ。初めて、と書けば、初めての顔で来る。同じことだ。
(編集部記・続)一通目を読み終えた夜、最初のテープの一本をかけた。真島。女性用風俗の回だ。小生の声がした。初めて聞いた。原稿の「小生」という一人称から、勝手に低い声を想像していたが、違った。細く、少し早口で、語尾だけ丁寧に置く声だった。ふつうの、疲れた女の人の声である。
テープに、口笛があった。
店の扉の向こう、階段。
遠い。空調の音と、区別がつかないほど遠い。だが、ある。三小節。手控えに書いた。
真島テープ、口笛、有。位置、階段。
位置、という語を、そのときはまだ、疑っていなかった。
* * *
【資料九】
面接の記録
(編集部記)
二通目の封書は、他とちがって、字がきれいであった。几帳面な字だった。読み終えて、自分の手控えの字が、いつのまにか、それに似はじめているのに気づいた。似せた覚えはない。罫線を無視せず、一行ずつ几帳面に埋めてある。誤字がない。むしろ、乱れそうな箇所ほど、字が整っている。読んでいて、そのことがいちばん、こわかった。
差出人名は、やはりない。仮に、宇田女史、としておく。手記の末尾に、他の封書と同じ一文がある。ただしこの一通だけ、その前にもう一行あった。それも、後に載せる。
以下、手記。
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わたしは、計画を立てる人間です。
思いつきで動くのが、いちばん、きらいでした。転職も引っ越しも、全部、表を作って、比べて決めてきました。いっときの感情で決めた人が、あとで泣くのをたくさん見てきたので。感情は、あてになりません。数字と条件のほうが、裏切りません。
三十八のとき、子を持とうと、決めました。
相手のあてはありませんでした。でも、それは、条件のひとつが欠けているだけです。欠けているなら、埋めればいい。クリニックを調べました。ひとりでも受けられるところ。でも日本では限られていて、費用も待ち時間も、条件が合いませんでした。それで、個人で提供している人がいる、と知りました。SNSに、無償で提供します、と書いた人たちが、いるんです。
表を、作りました。
候補ごとに列を作って、身長、学歴、既往歴、返信の速さ、清潔感。全部、点をつけて、並べました。採用面接と、同じです。わたしは、面接官のつもりでした。子の父親を、面接で、選ぶつもりで。
会うと、たいてい、がっかりしました。無償でと書いている人ほど、見返りを匂わせる。目が、値踏みしている。わたしが見たいのは遺伝子と人柄なのに、向こうが見ているのは、わたしの体でした。棚の品物を選んでいるつもりで、こちらも選ばれる品物になるだけだと、気づかず。表から、消していきました。何人も、消しました。会って一度、点が足りなければ、それきりです。
三年です。三年、面接を、続けました。
その間に、体は、動いていました。基礎体温を毎朝グラフにして、排卵日を計算して、いつでもいける状態にしておいて。でも、相手が決まらない。体の準備だけが整って、中身は空のまま、月が過ぎる。生理が来るたび、また一回、空だったんだ、と思いました。自分が月に一度、空焚きしている、やかんみたいに、思えてきました。
疲れて、いました。でも疲れた、とは思わないように、していました。疲れた、と認めたら、感情で間違えるから。
その人に会ったのは、駅ビルの、四階の喫茶店でした。
他の人と、ちがいました。会って、すぐ、わかりました。まず、わたしの体を、見ませんでした。目が顔から、下に、行かなかった。それだけでもう、他の全員と、ちがいました。それから、その人は自分のことを、売り込みませんでした。身長も学歴も、こちらが訊くまで、言わない。訊いたら、答える。でも自分から、良く見せようとは、しない。
かわりに、わたしのことを、訊きました。
なぜ、ひとりで、子を持とうと思ったのか。三年、続けて、疲れていないか。表を、作っているでしょう、と言い当てられました。作っています、と答えたら、その人は笑いませんでした。ばかにも、しませんでした。ただ、「よく、続けましたね」と、言いました。わたしは、面接に来たはずでした。なのにいつのまにか、わたしのことを話していました。子が欲しいこと。三年のこと。空焚きの、やかんのこと。その人は、全部、聞きました。ちゃんと、最後まで。途中で、まとめませんでした。アドバイスも、しませんでした。ただ、聞いて最後に短く、一言。
「あなたみたいな人に、譲りたい」
その一言で、三年が、終わりました。
譲りたい、です。あげたい、でも提供します、でもない。譲りたい。そして、あなたみたいな人に、です。誰でもいい、ではない。あなたみたいな、です。三年、わたしは、相手を選ぶ側でした。選ばれる側になったのは、初めてでした。
それが、返ってきたんです。あなたみたいな人に、と。
その人の、袖が、なぜか濡れていました。外は、晴れていました。傘は、いりませんでした。でもその人の、上着の袖が、雨に打たれたみたいに、色が変わっていました。四階の、喫茶店で。窓の外は、乾いた、昼でした。わたしは、それを、見なかったことにしました。三年ぶりに条件の合う相手が見つかったのに、袖が濡れている、なんてだけで、この人を表から消したくなかった。
決めました。この人に、しよう、と。
日を合わせました。排卵日に。容器のやり方も、調べてありました。もう、三年も準備してきたので、そこは慣れていました。排卵日にその喫茶店で、待ち合わせをして、それから、と段取りが、決まっていました。
当日、わたしは、店で待っていました。
その人は、来ませんでした。
連絡が、つきませんでした。番号は、生きていましたが、応えませんでした。メッセージも、既読に、なりませんでした。次の日も、その次の日も。三年かけてやっと決めた、たった一人が、掴む、その寸前で、いなくなりました。
すっと、消えました。品物を掴もうとして、指が空を、掴んだみたいに。
子は、できませんでした。
でも、あとで、気づいたんです。
わたしが三年、品定めし続けていたのは、本当に子供がほしいためだったのか。選ぶ側のふりをして、本当は、選ばれたかったんじゃないか。あんなに、人を選り分けておいて。子が欲しいのは、口実だったんじゃないか。三年、月に一度、空焚きしていたやかんは、子を待っていたんじゃなくて、あなたみたいな人に、と言ってくれる、たった一言を待っていたんじゃないか。
その一言をもらったら、もう、子どもはいらなくなりました。だから、その人が消えても、わたしは次の候補を探しませんでした。表を、閉じました。三年ぶりに、面接を、やめました。
いなくなって、わかりました。あの一言が、子どもより、欲しかったものでした。
宛先がわからないので、あの記者さんに、送ります。女の話を、聞いて回っていた人だ、と読んだので。あなたなら、この几帳面な字の下に、何が乱れているか、たぶん、わかると思って。
(末尾、他の封書と同じ一文の前に、この一行あり。)
子どもができなくて、よかったんです。
できていたら、その子の半分を、わたしは、明け渡すところでした。三年、面接で、あんなに人を見たわたしが、たった一人、あの濡れた袖だけは、見なかったことにした。その男に。 聞いてくれる人が、いたんです。
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同封資料九ノ一 個人間提供の掲示板と思われる印刷
無償提供、都内、といった語の並ぶ、投稿の印刷。多くは、削除済み、あるいは、返信なし。そのなかに、一件、返信のついたものがある。
投稿者(女性と思われる):「三年、探しています。もう、疲れました」
返信:「後ろのほうから、見ていました。全体が、見えるので。あなたみたいな人に、譲りたい」
編集部注。この返信者のアカウントは、現在、存在しない。投稿履歴は、この一件のみ。
同封資料九ノ二 喫茶店の伝票と思われる紙片
駅ビル四階の喫茶店。伝票。珈琲、二。ただし、宇田女史の手記には、当日、相手は来なかった、とある。会計は、二人分。
同封資料九ノ三 同店・別客に関する走り書き(編集部・店員への聞き取り)
「この女性(宇田女史の人相)、覚えてます。よく、面接みたいなの、してました。あと――関係ないと思うんですけど、同じ時期に、別の女の人も、よく来てて。感じのいい、料理でもしてそうな、家庭的な人。その人も、男の人と、待ち合わせてたな。でも、待ち合わせの相手、いっつも来なくて、一人で、二杯めを、頼んでました。婚活でうまくいったって、話してたのに、なんでこんな店で、一人で待ってんだろ、って、思ったのは、覚えてます」
編集部注。婚活で成立した、と語る女。資料一の、料理が好き、と書いて選ばれた女史と、同一かは、確かめようがない。ただ、記録として、残す。
(編集部記・続)
二通目を読み終えて、私はテープをもう一本かけた。宮野。推し活の、夜行バスの待合所。缶コーヒーの凹む音まで録れていた。俺が泣いたるわ、のくだりで、女史の声が少し湿る。原稿のとおりだった。
口笛は、夜行バスの待合所の奥にいた。走り去る夜行バス。だが、ざわめきの底で、遠近など、正しく量れるはずがない。口笛は遠くに聞こえる。
私は手控えに、位置、待合所奥、とだけ書いた。書いてから、前の頁の、位置、階段、を見た。口笛の二つの「位置」が、並んでいた。まだ、私は、それを、二本の別のテープの記録だと思っていた。
* * *
【資料十】
選ばれた記録
(編集部記)
勝った女の手紙だった。読みながら、羨ましい、と思った。封書は三通で終わったものと思っていた。四通目が来た。
消印は都内。差出人なし。筆跡は整っている。宇田女史の几帳面さとは違う整い方だった。習字のお手本のような、癖のない字。癖がない、ということがいちばんの癖であるような字である。
そして、この一通だけ、末尾の一文の前に、他のどの封書にもない一行があった。それも、後に載せる。
以下、手記。
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わたしは、選ばれた側です。
婚活の、ホテルの、紅茶の会で、感じのいい男の人に、カードへ名前を書いてもらえた側。プロフィールに、料理が好き、と書いた女です。あの日、会場にいた、選ばれなかった方たちの手記が、そちらに届いていると、記事で読みました。それで、書いています。負けた話ばかり、集まっているようだったので。勝った話も、一つ、要るだろうと思って。
結婚しました。式も挙げました。夫は、優しい人です。家事も分担してくれます。穏やかな家庭がいい、と言った通りの、穏やかな家庭です。友人には、うらやましがられます。勝ち、なんだと思います。世間の帳簿の上では。
でも、選ばれた瞬間から、ずっと、引っかかっていることがあるんです。
夫は、わたしを選んだんじゃない。カードの一行を選んだんです。料理が好き、という、あの一行を。
結婚してわかりました。夫がわたしに言う言葉は、うまいね、です。ほとんど、それだけ。夕飯に、です。わたしに、じゃない。朝、味噌汁に。夜、煮物に。わたしは、毎日、うまいね、と言われるために、台所に立ちます。カードの一行をずっと演じ続けています。
月に一度、行く店があります。
駅ビルの、四階の、喫茶店です。買い物の帰りに、一人で。珈琲を頼んで、飲んで、それから、二杯めを頼むんです。誰も、来ないのに。
理由を、書きます。これを書くために、この手紙を書いているので。
結婚して、一年目の頃でした。夫と、些細なことで、うまくいかなくて、外を歩き回って、その店に入ったんです。窓際で、珈琲が冷めるまで、ぼんやりしていました。隣の席に、くたびれた背広の、男の人がいました。五十くらいの。古い雑誌を、めくっていて。
なぜ、話したのか、覚えていません。気づいたら、話していました。カードの一行のこと。うまいね、のこと。誰にも言えなかったことです。贅沢な悩みでしょう。選ばれて、結婚できて、優しい夫がいて。友達に言えば、のろけか、ばちが当たるわよ、で終わる。一年、誰にも言わずにいたことを、初めて会った人に、全部、話したんです。その人は、途中で、口を挟みませんでした。うんうん、とも言いませんでした。ただ、わたしが話し終わるのを待って、それから、言ったんです。
「料理じゃなくて、あなたが、いいんですよ」
……夫が、一度も言わない一言でした。
会場で、カードに名前を書いてもらった、あの瞬間より、うれしかった。あの人だけが、皿じゃなくて、わたしを、見たんです。
その人の、袖のあたりが、濡れていました。晴れた日でしたけど。わたしは、何も言いませんでした。言えば、その席の時間が、終わる気がして。
また会えますか、と訊いたら、その人は、ここに、よくいますよ、と言いました。それから、月に一度、あの店に行っています。二杯めを頼むのは、その人の分です。来たら、すぐ出せるように。……一度も、来ません。もう、一年半以上、一度も。店員さんには、たぶん、変な客だと思われています。婚活でうまくいったって話したのに、なんで一人で待ってるんだろう、って顔を、されたことがあります。
わたしは、選ばれた側です。その勝った女が、月に一度、駅ビルの四階で、来ない人の珈琲を頼んで、冷めるのを見ています。負けた人たちと、同じ顔で。
――たぶん、もっと、長く待ちます。負けた人は、負けを、数えられる。わたしは、勝ってしまったから、この飢えに、名前がつけられないんです。名前のない飢えは、期限も、ないんです。
家では、今夜も、うまいね、と言われます。わたしは、ごちそうさまの、あとの皿を洗いながら、たまに、小さく、口ずさんでいます。何の曲か、知りません。あの店で、覚えたんだと思います。あの人が、わたしの話を聞いているあいだ、雑誌をめくる指の下で、細く、鳴っていた曲です。
わたしは、もう、返事の中身を持っていません。うまいね、に、うまいねと返す、空の皿です。作ったのが誰でも同じ味なら、返すのが誰でも、同じ、うまいね、なんです。わたしも、いまは、その皿です。
(末尾、共通の一文の前に、この一行あり。)
選ばれた日から、誰も、わたしを、聞かなくなりました。
聞いてくれる人が、いたんです。
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同封資料十ノ一 駅ビル四階・喫茶店の伝票綴り(写し)
同一名義のポイントカードに紐づく会計、十九件。いずれも月に一度、同じ週。品目、珈琲二。うち一杯は、毎回、手つかずで下げられている、と店員の付記。
資料九ノ三の、店員の走り書きに言う、婚活でうまくいったのに一人で待つ女、と、同一と思われる。ここに、繋がった。
同封資料十ノ二 編集部注
この章について、小生の取材ノートを全冊繰ったが、勝った側の女は一人も取材されていなかった。小生は、払った女、負けた女、待つ女だけを辿っていた。選ばれた女が、同じ店で、同じように待っていることを、小生は知らないまま消えた。あるいは――知っていて、書かなかったのか。ノートの婚活の頁の余白に、一箇所だけ、こうある。
「料理が好き、の女の顔をしかと見た。非の打ち所がなかった。――非の打ち所のない女の、その後を、小生は、なぜ、一度も考えなかったのか」
(編集部記・続)四通目を読み終えて、私は蘭子(一)のテープを出した。
港区の女王の回だ。
初めて聞くその声は、原稿のとおり低く、少し速かった。
録音の尻、小生が店を出たあとの、止め忘れの区間に入る。
そこに口笛はいた。
エレベーターの、閉まった扉の、向こうである。
私は手控えに、位置、エレベーターの向こう、と書いた。
口笛を三つ並べて気が付いた。
店に続く階段。待合所のざわめきの先。降りた箱の、向こう。
三つとも何かの向こう側にいる。
だが、それは、境のすぐ外にいるとも言える。
三本のテープのたまたまである。そうに決まっている。
* * *
【資料十一】
女王の記録
(編集部記)
三通目の封書が届く前に、私は一人の女に会いに行った。資料四で小生が取材した蘭子女史である。半年前、女史はクラブを出て、加虐と被虐を愉しむ会員制の店へ移っていた。そこでの呼び名を、確かめた。文字どおりの、女王である。サダに、掴む寸前で消えられた女史が、同じ男を追って消えた小生を、どう憶えているか。それだけを訊くつもりだった。録音を許された。書き起こしのまま載せる。
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【証言 女王】(蘭子女史・録音の書き起こし)
――また来たの。先生の、会社の人。座って。店、閉めたから。氷、まだあるわよ。あんた、前に来たとき、水割り三杯飲んでったわね。取材です、って言いながら。先生と、同じ顔してた。取材、って言葉を盾にする、あの顔。
今日は、あんたも、もう何も売りつけない顔してる。だから話してあげる。前に言わなかったこと。私がなんで、鞭を握る側か、って話。
若い頃、海の向こうで稼いでたの。出稼ぎ、と言えば聞こえはいい。稼ぐつもりで行った。着いたら、違った。名前をね、取られるのよ、最初に。名前がないと、人は物になる。呼ばれ方が番号になる。番号は、返事をしなくていい。返事をする私が、いなくなるから。私が消えれば、楽よ。抵抗する私も、もういない。
帰る頃には、自分で決められることが、ずいぶん減っていた。自分で決められるのは、吸って吐く、息だけ。息だけが、最後まで残った。ほかは全部、誰かのものだった。私の体すら。地獄、って言えば済むと思うでしょう。違うの。地獄には、まだ鬼の顔がある。あそこには、顔も、なかった。
だから、戻ってから決めたの。二度と、取られる側には行かない。握る側に回る、と。日本に帰って、私は鞭を握ったの。この鞭ね、武器に見えるでしょう。違うの。防具なの。握ってる間は、私は喰われない。二度と、あの、名前のない側に戻らない。あの、顔もない場所を思い出すたび、芯から冷えるの。だから、脱げない。私の支配は、私の防寒着なのよ。
うちの店に来る子たちもね。委ねたい女。必要とされたい男。あの子たち、まだ承認が欲しいのよ。かわいいわよ。受け止めてほしい、必要とされたい、って。私は、とっくに捨てた。私が欲しいのは、喰われないこと。それだけ。
――なのにね。あの男だけが。
あの男が店に来たとき、私、身構えたの。どうせ女王を落としに来た男だ、って。落とした、っていう手柄が欲しい男。そういうの、いくらでも来る。二十年、一度も負けてない。この庭の中では。
でも、あの男は、私を落としに来なかった。支配しようとも、服従しようともしない。私を女王としても女としても扱わず、ただ、話を聞いたの。
喰われた話を。名前を取られた話を。誰にもしてない話を。
なんであの男に話したのか、今でもわからない。二十年、誰にも言わなかったことを。初めて会った、くたびれた背広の男に。全部聞いて、最後に、一言。
「よう、生きて、帰ってきたね」
……それだけ。えらいね、でも、頑張ったね、でもない。よう、生きて、帰ってきたね。その瞬間ね、私、二十年握った、この防具を、脱ぎたくなったの。握る側の、私が。あの男になら、また取られてもいい、と。私の、私、という主語を。――それが、こわかったの。金なら、また稼げる。防具を脱がされるのが、こわい。あの男は、指一本触れずに、私のいちばん脱いじゃいけないボタンに、手をかけた。二十年かけて着込んだ、いちばん内側の。
だから、掴もうとしたの。掴んで、私の下に組み敷かないと。そうしないと、また脱がされる。また、あの側に行く。前に先生に言ったでしょう。捕まえる寸前が、いちばん甘い、って。あれ、嘘。本当は、捕まえたかった。二度とあいつの前で、防具を脱がされないために。今も、あと一歩のまま。あいつは、私の庭のすぐ外の路地にいて、私をいつでも脱がせる位置にいる。私は、それを掴めない。
(グラスを置く。沈黙。それから、細く口笛。古い曲。数小節でやめる)
――この節。あいつが、私の名前を取られた話を聞いてる間、ずっと低く吹いてた。私とあいつだけの節だと思ってた。長いこと。
あんた、いま、その顔。どこかで聞いた、って顔。……そう。あんたも、なのね。
(録音、ここで終わる)
確かめに来たはずだった。だが帰りの電車で気づいた。私は、一度も、口を挟まなかった。挟もう、という気も、起きなかった。ただ、聞いていた。聞くのが、うまくなっていた。それが、こわかった。
---
同封資料十一ノ一 会員制店への照会と回答
編集部より、女史の店へ照会。回答は、会員情報につき一切開示できないとのみ。外に立つ、店の関係者でない男の存在の如何を問うと、担当者は少し黙ってから、こう答えた。
「店の中のことは、責任を持てます。合図があって、決まりがあって、限度がある。安全です。でも、店の外は、うちの管轄外です。あそこで何かを渡す方がいても、うちには止められません。合図は、庭の中でしか、効きませんので」
紙の隅に、鉛筆書き。誰の字でもない。
庭の中は、安全だ。合図があるからだ。だから、庭の外で、渡させる。合図の、届かぬ場所で。渡したものは、返さぬ。やめてくれ、と言う、宛先が、ないからだ。
* * *
【資料十一・五】
位置の記録
(編集部記)
会員制クラブで加虐の女王となっていた、蘭子の言葉には齟齬があった。
私がこの店に来たのは、初めてである。水割り三杯を飲んだのは、私ではない。訂正はしなかった。彼女の目の中で、その席は、ただ一つだったから。
蘭子の声を書き起こしたその晩。
私は、小生が録音した蘭子(一)のテープを取り出した。
あと一歩、を四回。赤ペンでそう走り書きがある。
だが前回、再生した限りでは、蘭子は一度しか言っていない。
数が合わない。私は、回数を確かめるために、もう一度、再生してみた。
やはり、一回しか言っていない。
念の為、そのままテープを終わりまで聞き流すことにした。
店を出て、エレベーターに乗り込み、一階につく。エレベーターのドアが開き、小生は歩き出す。
口笛の位置が、違った。
一度目に聴いたとき、口笛は、背後の扉の向こうにいた。二度目の再生をした今、同じ箇所で、口笛は、小生のもっと近くからしている。足音よりも、近くに。
私はラジカセを止めた。蛍光灯が、じじ、と鳴った。
テープは磁気の記録である。物である。一度録れた音の位置が変わることはない。私は自分の耳を疑うことにした。三晩の寝不足である。疲れた耳は音の遠近を間違える。そういうことにした。
だが、疑いながら、私は、次の封書の封を、もう切っていた。
* * *
【資料十二】
居ついた女の記録
(編集部記)
三通目の封書は、四通のうちで、いちばん長く、いちばん手放しがたかった。届いた順で言えば、ここではない。だが、順を崩して、ここに置く。この手記だけは、事務として扱えなかった。差出人名は、ない。ここでは、仮に、志乃、と置いた。名を置ける場所が、そこしかなかった。
以下、手記。全文。
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姉は、長いこと、不妊治療をしていました。授かる前に、子宮の、がんが見つかりました。もう、産めない体になるとわかったとき、治療のために凍らせてあった、姉と義兄の受精卵だけが、残りました。この子だけは、この世に残したい、と姉は言いました。姉らしい、と、思いました。強い人だったので。
私が、言ったんです。私が、産む、と。
姉が、まだ、生きているうちに、決めました。どこで、どう頼んだかは、書きません。日本では、まず、通らないことです。それでも、と決めたのは、姉です。私は、頷いただけ。
妹の、私が。姉の子を。姉の代わりに。腹を貸すだけ、のつもりでした。産んで、姉と義兄に渡して、私は私の、人生に、戻る。そういう、つもりだったんです。
お腹が大きくなっていくのを、姉は、病室から、見ていました。触ると、笑いました。名前は、姉が、決めました。でも、産声を聴く前に、旅立ちました。私は、産みました。姉の卵、義兄の精子、私のお腹。血の上では、私の子じゃ、ありません。姉と義兄の子です。私は、容れ物。十月、貸しただけ。
――でも、渡す先が、義兄、ひとりに、なっていたんです。母のいない、赤ん坊。妻を亡くした、義兄。ミルクを誰があげるんですか。夜泣きを誰があやすんですか。私、産んだその手で抱いたら、もう置いて帰れなかった。渡すつもりだったのに、渡す相手がいなかった。
だから、居ついたんです。ミルクをあげて。離乳食を作って。熱を出せば、夜通し、看て。
気づいたら、十四年です。
あの子、もう中学二年生になりました。
私は、あの子の何なんでしょう。腹は私です。血は、姉と義兄。育てたのは、私。運動会も参観日も、三者面談も全部、私。なのに、母じゃないんです。あの子は、私をおばちゃんと呼びます。ママ、とは呼ばない。呼ばせなかった。姉の席だから。私が座っちゃいけない席だと思って。
妻でもありません。義兄とは他人です。同じ屋根の下に十四年、暮らして他人。指一本、触れ合ったこともない。義兄は、再婚はしませんでした。
でも、女の人はいます。月に、何度か来る。私はその日は、あの子を連れて出かけるんです。義兄とその人が、二人になれるように。家を、空ける。
私は、この家の家政婦なんです。産んだ、家政婦。血の繋がった子を育てながら、妻でも母でもなく、月に何度か、義兄の女の人に家を明け渡す、家政婦。
婚期、ですか。逃しました。とっくに。産んで、育ててるうちに。誰が、こんな女をもらいますか。姉の子を産んで、姉の夫の家で、家政婦をしてる女を。もらうもなにも、男の人と話す機会もない。この十四年、家とあの子と、義兄と義兄の女の人と、その四つの点のあいだでしか、動いてないんですから。
――最近ね。あの子の、手が、離れてきて。
自分で起きて、自分で行って。私がいなくても、少しは回るようになって。それで私、ふと立ち止まって、しまったんです。
私はこれから、どうしたら、いいんでしょう。この家事を捨てて、今から、婚活でもしたらいいんでしょうか。それともまだ、間に合ううちに、自分だけの子を産めばいいんでしょうか。それとも、もう、遅いんでしょうか。ここにいるのが、正解なんでしょうか。ここを出るのが、正解なんでしょうか。誰も、教えてくれないんです。私が私の、人生をどうしたらいいか、を。
一つだけ、ときどき、こわくなることがあります。
私、いつか、死んだら、この家のお墓に入れてもらえるんでしょうか。母として。それとも、妻として。それとも――おばちゃん、のまま、うちの実家の別の墓に一人で。
あの子が大人になって、私の名前をこの家の墓に見つけられなかった時。どうして、この人の名前を、うちの墓に入れてやらなかったのか、って。一度でも、思ってくれるでしょうか。それとも、思わない、でしょうか。おばちゃんはおばちゃんだった、それだけで終わるでしょうか。
産んだ腹も育てた十四年も、墓には刻まれないので。
――そんなことを考えてた、帰り道でした。あの人に、会ったのは。
スーパーの、袋を両手に提げて。あの子の好きなおかずを買った、帰り。
信号を待ってたら、隣にくたびれた背広の男の人がいて。口笛を、細く。
何の曲かわかりませんでした。
その人、私の両手の袋を見て、それから、私の顔を見て言ったんです。
『あなたが、この家を、まるごと、幸せにしてきたんですね。お姉さんの子も、旦那さんも、みんな。……そんなあなたを、この十四年、誰か、一度でも、幸せに、しましたか』
……誰も、それを、聞かなかったんです。私がみんなを幸せにしてるか、それをみんな、当てにしてた。でも私が幸せかを聞いた人は、一人もいなかった。十四年で初めて、その人が聞いてくれた。
あなたは、幸せにしてもらいましたか、って。
そうしたら、体のいちばん重かったところが、すっと、軽くなったんです。ずっと抱えていました。この家の何なのか。墓に名前が入るのか。そして——あの子と私のあいだには、親子の情のぜんぶがあるのに、それを呼ぶ名前だけが、ない。名前のない親子のまま、終わるのか。三つとも、下ろせない重りでした。
それが、その人に見られた瞬間、口から、出ていきました。抜けていく、というより、吸われていく感じでした。抗うより先に、体のほうが、差し出していました。楽になる、って、こういうことか、と思いました。
信号の前で、袋を提げたまま、私はようやく、軽くなった。軽くて、軽くて、足の裏が地面についている感覚さえなくなりました。あんなに重かったものが、一つ残らず消えて、私は、こんなに軽くていいのか、と思いました。
いいわけが、なかったんです。でも、それに気づくのは、もっと後でした。
袋の重さは変わらないのに、提げている私のほうが、うすい。声が、遠い。自分の声なのに、隣の家から聞こえるみたいでした。
渡した重さは、戻ってこないんです。あの人は、受け取るだけで、返さない。ちゃんと最後まで聞く、というのは、こちらを空にするまで手を止めない、ということでした。ああ、まだ話せる。まだ、渡すものがある。それが尽きるまで、この人は、聞いてくれる。
尽きたら、私は——。
その人は、信号が青になったら、いませんでした。
口笛だけ、残って。私は、軽いまま、家に帰りました。
その日から、あの家のことを、誰にも話していません。話すことが、もう、ないんです。あの信号で、全部、渡したから。志乃、という名前だけ、残っています。中身は、あの人の側です。それでも、あの子のおかずは、今日も買います。
空の器でも、手だけは、動くんです。十四年、そうしてきたから。手が、覚えているんです。中身のない私が、それでも台所に立って、義兄の女の人に家を空けて。
……幸せにしてもらったか、はもう聞かれません。聞いてくれた人は、いなくなったから。そしてたまに、あの信号で、立ち止まるんです。あの人がもう一度、聞いてくれないか、と。
私の幸せを聞いてくれたのは、あの人、
(編集部記・続)
志乃の手記は、しばらく、机に伏せておいた。読み返せなかった。
――ここまで届いた三通は、みな、同じ一文で終わっていた。
聞いてくれる人が、いたんです、と。
だが、この一通だけ、その一文が、途中で切れている。
聞いてくれる人が、あの人、で、あとが切れている。
書き忘れではない。書く中身が、もう、無かったのだ。
三通は「いた」と、過去形で言えた。
言える者が、まだ在ったからだ。志乃には、それが、無い。
かわりに、蘭子(一)のテープの、三度目をかけた。確かめるために。
口笛の位置が、また違った。
口笛は、マイクの真横にいた。小生が肩にかけた鞄の擦れる音より近く。息の湿りまで聞こえる距離である。
録音の場で、マイクのいちばん近くにいる者は、決まっている。
録音者である。
それから、無記名のテープを、順にかけた。
三本は無音だった。
蘭子(二)はまだ聴かず、残る記名の二本、篠田と北村も、聴いた。
篠田のテープでは、口笛は、少しだけ遠い。
あの男がいつも坐っていたというカウンターの隅と篠田の座った位置はガラス戸で仕切られていた。だが、取材の日、そこには、スポーツ新聞が並ぶだけで、誰もいなかったはずだ。
北村のテープでは、デパート催事場の中にあった。
喧騒の中に垂らされた、釣り糸のように細い。
婚活会場で小生が耳にした口笛も、このような音であったのではないか。
無記名の四本目のB面の途中に、小生の声があった。
取材の声ではない。相手がいない。独りで、日記のように吹き込んでいる。声は疲れて、少し掠れていた。
「――テープを聞き返すたび、あの口笛が近くなる。気のせいだと思っていた。思っていたが、今日、確かめた。真島のテープ。最初に聞いたとき、口笛は階段にいた。いま聞くと、店の待合の中にいる。ドアを越えている。テープの中で、あの男が歩いてくる。再生するたびに、一歩ずつ。……いや。ちがうな。ちがう。歩いてくるのではない。これは――」
そこで声が止まる。数秒の間。その間に、口笛が入る。三小節。マイクの真横で。
そして小生の声が戻る。掠れの消えた、妙に静かな声で。
「――近づいているのは、あちらではなかった。近づいているのは、聞くたびに、こちらの耳である。耳があの三小節のある場所を覚えて、そこへ寄っていく。テープは変わらない。変わったのは、小生の耳の居場所だ。三度も聞けば、耳はもう、マイクの真横に住んでいる。マイクの真横は、吹く者の席である」
テープはそこで切れていた。B面の残りは無音である。私は、自分が今日、蘭子の三度目で、同じ場所に坐ったことを、手控えに書かなかった。
* * *
【資料十三】
真似の記録
(編集部記)
この章の二人は、封書では来なかった。こちらから探した。
小生が見つけた、男の情報がのこる掲示板を辿るうちに気づいたのである。あの男の手口を書き留めた書き込みの下に、もう一種類の書き込みがぶら下がっていることに。手口を学ぼうとする者たちの書き込みである。最後まで聞く。まとめない。最後に一言。使えるぞ、これは、と。
聞かれる側の記録は集まった。ならば、聞く側に回ろうとした者の記録も要る。あの男の真似をした者は、どうなったのか。
二人、会えた。二人とも録音を許した。そして二人とも、話の途中で、同じことをした。それが何かは、証言のあとに書く。
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【証言一 降りた、ホスト】(録音の書き起こし/仮に、元ホストの男・三十代後半)
――俺、辞めた側です。歌舞伎町、八年。ナンバーも獲ってます。だから言えるんですが、あの男のやってることは、俺らの商売と骨組みは同じだ。客のいちばん欲しい言葉を、いちばんいい間で置く。技術なら、俺のほうが上だと思う。今でも。
なのに、一回だけ、負けた。俺のエースが来なくなって、やっと電話がつながった返事が、これです。
「もう、お金なんか払わなくても、聞いてくれる人がいたんです」
店の外で、終電のホームで、口笛を吹いてる、くたびれたおっさんに会ったらしい。最後まで聞いて、一言置いて、消えた。無料で。
俺へ貢いだ、シャンパン何本分より、効いた、って。
頭に来て、俺もやったんです。店の外で、金を取らずに聞く。――できないんですよ。聞くのはできる。最後の一言も置ける。消える、ってとこが、できない。回収しない、が。
俺の体は、八年、次回来店に繋ぐようにしか動かない。最後の一言を置いた口が、勝手に「次、いつ空いてます」って続けちゃう。そこで、女の顔が、すっと店の顔に戻る。ああ、営業ね、って。
あの男の核は、言葉じゃない。退場だ。いちばん回収できる瞬間に、席を立つこと。俺ら商売人に、その一歩だけが、踏めない。……いま、昼職してます。たまに、あのホームに立つ。何をするでもない。気づくと、口で吹いてるんです。俺のエースだった客が、楽しそうに鼻歌で歌ったあの曲を。一回、電話口で聴いただけなのに。
【証言二 降りた、傾聴の女】(録音の書き起こし/元・電話相談の女)
――私、傾聴の資格があるんです。七年、電話相談を。私たちの傾聴には、厳格な枠があるんです。時間は区切る、助言はしない、連絡先は教えない。相談者を守る枠です。
七年、正しく聞きました。何百人。でも、一度も来なかった。
相手の声が、ほどける瞬間。
記事の女の人たちのこと、書いてたでしょう、肩が下がった、体の奥があたたかい、って。
あれが、私の相談者には一度も。
ある方に言われました。
あなたの聞き方、講座のお手本みたい、って。
褒め言葉じゃない。テキストが聞いてる、って意味です。
その方が、喫茶店で変な人に会った、と。
枠も資格もない人に聞いてもらった、と。
電話口で、もう、あなたの傾聴は要らなくなっちゃった、って。
悔しくて、私、一度だけ、枠を破ったんです。
自分の言葉で。
「よく、起きていらっしゃいましたね」深夜に。
――効いた。七年来なかった瞬間が、来た。相手が泣いて。私、受話器を置いて、動けなかった。体の奥が、あたたかくて。
そこで、ぞっとした。次の当番が、待ち遠しくなってたんです。相談者のためじゃなく。
あの、あたたかさのために。
枠は、相談者を守るものだと思ってた。
違った。
聞く側の、この飢えに、蓋をするものだったんです。
辞めました。……でも、スーパーのレジの列で、隣がため息をつくと、首が、もう、聞く角度になる。そして、口が――。
(ここで女性は口をつぐんだ。その唇から、細く、音が漏れていた。女性は録音機を指した。……今の私ですか?)
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(編集部記・続)
二人が話の途中でした、同じ行為。口笛である。二人とも無自覚に吹いた。そして二人とも、あの男に会っていない。元ホストは、電話口の鼻歌から。傾聴の女は――本人にも経路がわからない。
二本の録音を並べて聞いた。二人とも目指していたものが違う。回収する口。枠という蓋。だが、三小節の長さだけは、同じだった。
私はその二本の録音を何度も聞き返した。
調子も音程も狂っていて、正確なメロディは掴めない。
聞き返しながら、私は、封書のあいだで一本ずつ聴いてきた小生のテープの、最後の一本が、まだ箱に残っているのを思い出した。
無記名の、水に濡れた一本である。それは、次に載せる。
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同封資料十三ノ一 掲示板「聞き方スレ」の印刷(抜粋)
「例の記事の、おっさんの手口、まとめました。使えるぞ」(以下、六項目の箇条書き)
返信一「試した。全然だめ。営業だと思われて終わり」
返信二「同じく。最後の一言まで行けない。空気で、ばれる」
返信三「成功した人、いる?」
返信四「成功の報告は、一件もないな。このスレ、三年目だけど」
返信五「なんか、このスレ読んでから、変な曲が頭で鳴る。俺だけ?」
返信六「俺も」
返信七「私も。文字しか、読んでないのに」
編集部注。文字しか、読んでいない。誰も、あの男に、会っていない。
同封資料十三ノ二 傾聴講座テキストの写し(元ボランティアの女・提供)
第三章、相談員の心得の頁。枠の遵守について、の項にマーカー。余白に、女性の字で書き込み。「枠は、誰を、守っている?」その下に、別の鉛筆書き。女性の字ではない。筆圧が薄い。女性は、この書き込みに覚えがない、と言う。このテキストは七年、女性の自宅の棚にあった。
蓋は、いつか、開く
(編集部記・続)
聞く側で、真似をした二人の録音を並べた晩。私は、最後の無記名の一本をかけた。ラベルに字はなく、丸い水の染みだけがあった。乾いて、輪だけ残っている。テープ自体が、一度、水に濡れて、乾いた跡だった。段ボールの他の十本は乾いている。濡れた形跡があるのは、この一本だけ。再生する。
雨の音がした。屋根を打つ雨。遠くで、ちりん、と鈴。珈琲雨宿りである。老女の声。原稿のとおりのやり取り。あんたにだけは、教えませんよ。もう、帰って。
一箇所だけ、原稿にない音があった。もう、帰って、のあと、椅子を引く音の前に、三秒ほどの間。
その三秒に、小さく口笛が入っている。
三小節ではない。一小節と半分。途中でやめている。
あわてて、やめた切り方である。非常に音が近い。
マイクの真横である。老女ではない。
老女の声は卓の向こうからしている。店主でもない。カウンターは遠い。
マイクの真横にいたのは——。
原稿の末尾で、小生は、店を出た背中に口笛を聞いた、誰が吹いているのか分からなかった、振り返らなかった、と書いた。
分からなかったのではない。
テープが、答えを持っていた。小生が気づいたのは、たぶん、あの独白の夜だ。私が気づいたのは、いまだ。
* * *
【資料十四】
録音の記録
(編集部記)
封書のあいだで、私は、小生のテープを聴いてきた。位置を、七度、書き留めた。ここまでが、その記録である。
はじめの四つは、みな、何かの向こうにいた。扉の向こう。待合所の奥。ガラス戸を隔てたカウンターの隅。エレベーターの、閉まった扉の向こう。
境の、すぐ外である。
四つ目を聞き返した時から、こちら側に入った。
より近く。
マイクの真横。
雨宿りでは、動く余地もない至近。
七つの欄を、いま、並べている。口笛は、もうこちら側にいる。
だが、テープが動くはずはない。物である。動いたのは、小生が独白に遺したとおり、聴く者の耳のほうだ。私の耳も、もう、境の、こちら側にいる。
そのことを、機械が、別の言い方で裏づけた。あとに載せる、業者の最後の書簡である。一本の解析から出た判定だが、私が並べた七つの欄の、ぜんぶを、一行で畳んでしまうものだった。根拠は、二語。それは、書簡のほうに、書いてある。
ここまでを手控えにまとめて、私はいつもの癖で、口述の録音をした。文字より先に、声で要点を残す。編集部で覚えたやり方である。ラジカセの録音ボタンを押し、テープの目録と所見を吹き込んだ。五分ほど。
聞き返した。
私の声の下に、口笛があった。
編集部には私一人である。窓は閉まっている。ラジオもない。私の声が目録を読み上げる、その言葉の合間に、音が細く埋まっている。
息継ぎ、である。
吸って、吐く。その吐く息が、音になっていた。私は吐息で、あの口笛の曲をなぞっていた。
マイクの真横にいたのは、私である。当たり前だ。私が録音者なのだから。
私はそのテープにラベルを貼らなかった。貼れば目録に載る。目録に載れば、次にこの箱を開ける者がかける。かければ、その者の耳が、三度でマイクの真横に住む。
貼らなかった。貼らなかったが、捨てもしなかった。箱の底に戻した。十一本だった箱が、十二本になった。私はその勘定を手控えに書かなかった。書かない、ということを選んだ自分の指を、私はいま、この稿を書きながら、見ている。
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同封資料十四ノ一 テープ目録(後任作成)
一、真島(女性用風俗) 口笛有・初回位置、階段
二、宮野(推し活) 口笛有・初回位置、夜行バス待合所奥
三、篠田(美容) 口笛有・初回位置、ガラス戸の向こうのカウンター隅四、蘭子(一) 口笛有・初回位置、エレベーターの向こう ※再聴で位置変動
五、蘭子(二) 未聴のまま、保留
六、北村(占い) 口笛有・初回位置、催事場ざわめき内
七〜九、無記名 無音
十、無記名 小生の独白(本文引用のとおり)
十一、無記名(雨宿り) 口笛有・一小節半・マイク至近・位置不動
備考:五(蘭子・二)を未聴で保留した理由を書いておく。四で位置の変動を確かめた以上、五を聞けば、五も動き出す。聞かなければ、五の口笛は、まだ初回の位置にいる。聞かない、という保存の仕方がある。
同封資料十四ノ二 音響技術者への照会と回答(要旨)
編集部より、外部の音響技術者に、四(蘭子・一)のデジタル化と解析を依頼した。回答の要旨は以下。
「当該テープに、口笛様の音は記録されています。ただし、一箇所です。位置(音像の遠近)も一つです。再生ごとに記録内容が変わることは、磁気記録の原理上、あり得ません。……あり得ないのですが、一点、気になる報告をしておきます。解析作業中、当方の作業者が二名、当該の旋律を作業後に口ずさんでいるのを、相互に指摘し合いました。二名とも、曲名を知りません。データは納品しますが、当方では、これ以上の再解析はお受けしかねます」
納品されたデータファイルは、編集部の共有フォルダにある。ファイル名の末尾に、作成者の誰もつけた覚えのない、拡張子とは別の文字列が付いている。
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同封資料十四ノ三 納品データに関する続報(外部技術者・書簡の写し)
前略。先般、再解析はお受けしかねます、と回答いたしました件、当方の社内でその後、手続き上の作業が一つ発生いたしましたので、義務としてご報告いたします。
当方では、納品済みの案件データを保管庫へ移す前に、若手の担当者が定型の整音処理を一括でかける決まりになっております。近年の整音は、ソフトウェアが音声と雑音とを自動で分離いたします。人の声を残し、それ以外を削る。ふつうの処理です。御社のデータにも、それがかかりました。
出力を確認した担当者から、報告が上がりました。当該ソフトウェアは、口笛様の旋律を音声として残し、女性の話し声、および記者の方の相槌を、雑音として除去しておりました。逆です。逆なのですが、ソフトウェアの判定情報を見る限り、誤作動ではありません。判定の根拠欄には、こう出ております。
連続性、および、全区間における存在。
ご説明します。もとの録音で口笛が聞こえるのは、数箇所、合計しても十数秒です。しかし、分離後の、口笛だけのファイルは、収録の全長と同じ尺がありました。波形を拡大しますと、話し声の下に、極めて低いレベルで、当該の旋律が切れ目なく続いております。数箇所で聞こえていたのではなく、全長にあったものが、数箇所で水面に出ていた、ということになります。ソフトウェアは、収録の最初から最後まで一度も途切れなかった音を、主音声と判定しました。機械の理屈としては、正しいのです。いちばん長くそこにいた声が、主なのですから。
分離後の当該ファイルは、納品データに同梱せず、当方で隔離しております。担当者が確認再生を二度、行っただけです。その担当者が、以後、作業中に当該の旋律を口ずさむため、フロアの別の者から指摘が重なっており、本人に自覚はありません。
つきましては、隔離した当該ファイルを、御社にてお引き取りいただけますでしょうか。当方で削除いたしましたところ、削除の記録は残るのですが、保管庫の使用容量が減っておりません。どこにあるのかが、当方ではもう特定できません。特定できないものはお渡しのしようもないのですが、せめて、当方に属さない、ということだけ、書面で確定させていただきたく。
なお、隔離ファイルのファイル名は、当方の命名規則で自動生成されるのですが、末尾に、規則にない文字列が付いております。
前便の納品データと同じものです。担当者は以後、この案件フォルダを開いておりません。開かない、という扱い方しか、当方には残されておりませんので。草々。
編集部注。引き取りの書面には応じた。ファイルの所在は、先方でも当方でも確認できていない。所在の確認できないものを引き取った、という書面だけがある。分離後の、口笛だけのファイルを、私は再生していない。蘭子(二)と同じ棚に置く。聞かない、という保存である。棚には、これで二つになった。
* * *
【資料十五】
照合の記録
(編集部記)
封書は四通で止まっていた。五通目は来なかった。かわりに、私の机の上には、届いた四通の封書と、それぞれに付いていた同封の資料、そして私が集めた録音の書き起こしが、山になっていた。
最初は、ただ整理のつもりだった。連載の後始末として、封書を来た順に並べ、資料を対応させ、報告書にまとめる。それだけの事務のはずだった。
ある夜、私はそれを始めた。編集部には、私一人だった。
一、机
まず、四通の封書を来た順に並べた。次に、小生が前半で取材した六つの場所のノートを並べた。私は壁に模造紙を貼り、そこへ場所を書き出し、共通するものを線で繋いでいった。事務が、いつのまにか、事務ではなくなっていた。
どの場所にも、男がいた。
金は使わない。あるいは、金のやり取りが記録に残らない。友達づらして長居して、女の話を最後まで聞く。そして、ここぞという時に、短く一言だけ、いいことを言う。
その一言を、場所ごとに書き出した。俺が泣いたるわ。偉いですね。えらいですね。あなたが決めたことなら、信じます。まだ、大丈夫ですよ。あなたみたいな人に、譲りたい。あなたを、誰が、幸せにしましたか。よう、生きて、帰ってきたね。料理じゃなくて、あなたが、いい。
言葉はちがう。ぜんぶちがう。だが、模造紙を見ているうちに気づいた。糊は同じなのだ。どれも、その女がいちばん言ってほしかった一言を、正確に当てて、言葉を貼っている。そして、貼ったあとで、必ず消える。掴もうとすると、いない。存在しません、と灰色になる。
もう一つ、線を引いた。口笛の線である。どの女も、古い曲、と言った。曲名を言えた者は一人もいない。採譜も試みた。できなかった。どの女の断片も、微妙にちがっていた。同じ曲のちがう箇所を、それぞれ覚えているのか。あるいは、はじめから、決まった曲などないのか。
三つ目の線は、水濡れ、だった。階段の男の、袖と、雨の匂い。晴れていたのに、そこだけ濡れていた。宇田の見た、袖。選ばれた女の見た、袖。どちらも、晴れた日の。そして、深夜相談の女史の、スマホの画面。雨も降らぬ夜に、指で拭けば指まで濡れた、あの画面。蘭子は、傘の中から見てるぶんには、きれい。濡れたら、おしまい、と言った。模造紙は線で埋まった。
(この模造紙の写真、一葉。編集部保管。)
二、合わない
私は最後に、その模造紙の中心に、一人の男を置こうとした。
置けなかった。
証言を突き合わせて、男の人相を組み立てようとした。組み立てて、手が止まった。合わなかったのである。風俗の階段の男は、灰色の肩の落ちた背広の五十前後。婚活の壁際の男は、白髪の混じった痩せた五十くらい。後頭部だけ。港区で蘭子女史が仕留め損ねた男は、また少しちがう。深夜相談の女に至っては、顔も声もなく、ただ灰色の丸いアイコンだった。
年恰好だけは近い。四十代から五十代。だが、同じ顔、とは誰も言わなかった。一人の男が、七つも八つもの顔と体を持てるのか。
私はペンを置いて、逆から考えた。合わないのは、女たちが、それぞれ、欲しい男を、彫って埋めたからだ。中心には、もとの顔がない。空席だけがある。
私は椅子に深くもたれた。時計を見ると三時を回っていた。私は冷めたコーヒーを口に運んだ。ぬるかった。飲まずに、また置いた。持ち上げて、また置いた。
その指の動きが、どこかで読んだ老女の指の動きと同じであることに私は、気づいた。
一人の男ではない。私はそう書いた。模造紙の中心の、男を置くはずだった空白に。
では、何か。
私は、模造紙の中心の、空白を見た。そこだけ、何も書いていない。書けなかったのではない。私が坐る場所として、空けてあったように見えた。
三、うつる
模造紙の隅に、私は別の証言の束を貼っていた。
白鳥には、篠田女史のほかにも、腫れを抱えて通う女性たちがいた。
その一人に会えた。
あの男に、施術帰りの話を聞いてもらった女だという。
彼女は私に、「あの人、私たちみんなに、同じ口笛を――」と言いかけて、止まった。
そして言った。
「あの、私、いま、その口笛、口ずさもうとして。変ですね。私、あの人とそんなに話してないのに。いつのまにか覚えてるんです。ときどき、家で洗い物しながら、無意識に吹いてて。あれ、私、いつからこれ吹いてるんだろう、と——」
資料十三の二人を思い出した。
元ホストは電話口の鼻歌から。
傾聴の女は経路すら不明。
文字だけの掲示板のスレにも、変な曲が頭で鳴る、という返信が並んでいた。
一人の男の話では、なかった。
会ったこともない者にまで、伝っていた。私はそう書いて、ペンを置いた。そして、気づいた。
私は、いつのまにか、口笛を吹いていた。
深夜の編集部で、一人、模造紙に向かって、私は細く、あの古い曲を口ずさんでいた。いつから吹いていたのか、わからなかった。組み立てているあいだ、ずっとだったのかもしれない。
私は口をつぐんだ。だが、遅かった。口をつぐんでも、その旋律は頭の中で鳴りやまなかった。
私は窓を見た。深夜の編集部の黒い窓ガラスに、私の顔が映っていた。その後ろに、誰もいなかった。誰もいないのに、私は振り返らなかった。振り返れば、模造紙の中心のあの空白に、私自身の名が書かれる気がして。
* * *
【資料十六】鏡
(編集部記)
照合の夜から、口笛が止まらなくなった。
編集部で。帰りの電車で。風呂の中で。気づくと、あの古い、節のおかしな曲を口ずさんでいる。曲名はわからない。どこかで聴いた気がする。思い出せない。それでいて、口が勝手に覚えている。
止めるために、私は、小生の辿った道を一つずつ確かめることにした。
最初に行ったのは、白鳥である。美容診療所の近くの喫茶店。飴色の壁。焦げ茶の椅子。マスターの顔は、小生の書いたとおり土気色だった。
私は小生の写真を出して、マスターに見せた。この人を覚えていませんか、と。
マスターは写真を見て、すぐにうなずいた。
「ああ、あの記者さん。最近もいらしてましたよ。奥の隅で。ずっと。何時間も」
最近とは、いつ頃かと、私は訊いた。マスターはコーヒーカップを拭く手を止めて、少し考え、首をかしげた。
「さあ。いつだったか。……このあいだも、雨の日に。奥の隅で、古い雑誌をめくって」
このあいだ。雨の日。小生は、七ヶ月以上、所在不明である。私はそれ以上訊けなかった。マスターは黒光りのするカウンターを拭き始めた。拭きながら、細く、口笛を吹いていた。あの曲だった。
「マスター、その曲、何ていう曲ですか?」
マスターは拭く手を止めた。そして、本気で不思議そうな顔で、私を見た。
「さあ。……私、口笛、吹いてましたか?」
私は店を出た。ドアを開けたとき、背中でまた口笛が聞こえた。マスター自身が知らない曲。私はその曲を口の中でなぞろうとして――なぞれた。
最後までなぞれてしまう前に、口をつぐんだ。
そして、珈琲雨宿りへ向かった。
編集部がこの店に足を運ぶのは、二度目である。
一度目は、失踪後の現地確認。あのとき店主は、奥の窓際の席について、特に何も言わなかった。
その席のことが、ずっと、気にかかっていた。
今回は、鞄にテープレコーダーを入れて来た。
小生が遺した、あの型と同じものである。
確かめたいことがあった。
この耳はもう信用ならない。ならば、機械に聞かせる。機械は感染しない。そう、思っていた。その日も、雨だった。私は傘を畳み、扉を押した。ちりん、と鈴が鳴った。
一、三人
店内を見て、足を止めた。雨の日の客は、みな女だった。ばらばらの席で、こちらを見ず、みな、口紅だけがくっきりと赤かった。雑音のひどいレコードの、同じ一箇所で、いくつもの口が、揃って動いた。何人いたかは、憶えていない。人数ではなく、その揃い方が、こわかった。
私はもう、その曲の聴き覚えの正体を探さなかった。私がいま口ずさんでいる曲と、同じだからである。
奥の窓際に、席が二つある。一つに、老女がいた。口紅だけが鮮やかだった。窓の雨を見て、小さく口ずさんでいた。
もう一つは、空いていた。卓の上に、湯気のない珈琲が一杯、置いてあった。まるで、誰かのために、空けてあるようだった。予約席、という札の代わりに。
そして、この日は、もう一人いた。
カウンターに、女が座っていた。年の頃は四十をいくつか越えたあたり。顔立ちは、平凡だった。口紅だけが、濃かった。膝の上に手帳を載せていた。取材者の顔だった。私が入ってきたのを見て、女は少し姿勢を正した。
「ライターの方ですか?」と、その女は言った。
私は答えられなかった。編集部の者だ、と言うつもりだった。だが、その女の言い方に聞き覚えがあった。取材ですから、と三度唱えた、小生の言い方に似ていた。同じではない。だが、何かを隠すために、取材、という言葉を盾にする、その手つきが同じだった。
「そちら様は、取材関係の方ですか?」
「いえ、小生は、ただ、女の話を聞いて回っているだけの者です」女は笑った。
……小生。
その女がそう名乗った瞬間、ぞくりと背筋が冷えた。カウンターのその女は、小生ではない。顔もちがう。年もちがう。だが、小生のように一人称の自分を隠し、小生のように女の話を聞いて回り、小生のように、この雨宿りの奥へ辿り着こうとしている、誰かだった。
小生が消えて、席が空いた。空いた席に、次の小生が座っていた。
そこへ、扉が開いた。ちりん。
入ってきたのは、地味な服の四十代の女だった。大きな鞄を提げていた。鞄の口から分厚い手帳が覗いていた。細かい字でびっしりと何かが書き込まれた、年季の入った手帳が。
私はその女を取材写真で見ていた。占いの祭りで、小生が話を聞いた、北村女史である。北村女史は店を見回して、それから、私の隣に腰を下ろした。
「雨の日は、こうなんですよ」店主が北村女史の前に水を置きながら、誰にともなく、言った。
「聞こえる気がする日が、みなさん、同じなので」
「ここ、口笛が聞こえるって聞いて、来ちゃいました」北村女史は言った。
私は、鞄の中のテープレコーダーの録音ボタンを、静かに押した。
二、対決
私は、小生の後任だと名刺をだした。そして、女史に訊ねた。
「まだ待っておられるんですか?」
「ええ、まあ」北村女史は曖昧に笑った。
「まだ待ってます。もう何年も。占いの先生の言葉は、もう聞いてないんです。ただ、ざわめきの中に、ときどき口笛が聞こえる気がして。聞こえた気がすると、ああ、来る、って。……来ないんですけどね。でも、来ないうちは、まだ負けてないんです。待ってる間は、まだ」
奥の老女が、それを聞いて、笑った。声は立てなかった。ただ、口紅の端が少し上がった。窓の雨に向かって、老女は言った。
「あんたは、まだ待ってるのね?」
北村女史が、奥を見た。老女は続けた。
「私は、もう勝ったのよ。あの人が最後に来たのは、私のところ。何にもしていない、何にも持っていない、私のところに。三日来て、私の話を最後まで聞いて、ありがとう、と言って出ていった。それきり。……でも、最後は私のところだったの。勝ったのよ、私」
「私は、負けてません」北村女史が静かに言い返した。
「勝った人は、もう待たなくていい。負けた人も、もう待たない。まだ待ってる私が、いちばん、あの人に近いんです。あなたは勝って、待つのをやめた。私はまだ待ってる。待ってる間は、あの人は、私の未来にいるんです」
勝った、と言う待つ女。まだ、と言う待つ女。二人が、雨宿りの奥とカウンターで向かい合っていた。そのあいだに、私が座っていた。
そしてカウンターのもう一人の女、次の小生を名乗った女は、その二人のやり取りを、膝の手帳に書き取っていた。ペンを走らせながら、時折二人を見て、また書く。観察していた。かつて小生が女たちを辿ったように。この二人の待つ女を、次の取材の獲物として。
三、鏡
そして私は、その三人の真ん中で、気づいた。私がいま、していることに。
私は編集部の者としてここに来た。話を聞くためではなく、確かめるために。口笛を止めるために。だが私はいま、二人の待つ女の話を聞き、次の小生の様子を見て、それを鞄の中の機械に録らせていた。頭の中で、この場面をどう記録するか、組み立てていた。
カウンターの女が、手帳をパタンと閉じる音がした。見ると、女はもう立っていた。伝票をつまみ、勘定を済ませ、扉のほうへ歩いていく。誰にも何も訊かれていないのに、扉の手前で、女は店の誰にでもなく言った。
「取材ですから。ええ。取材です。断じて、取材ですから」
三度、だった。小生が、そうしたように。ちりん、と鈴が鳴って、女は雨の中へ出ていった。
私はその背中を見送って、それから、女の顔を思い出そうとした。ついさっきまで二席隣にいた顔である。年の頃、四十をいくつか。
あざやかな口紅。
それしか出てこなかった。目も、鼻も、輪郭も。
私は立ち上がり、奥の窓際へ向かった。
冷めたコーヒーだけが置かれた予約席である。
誰のための席なのかは、わからなかった。私はそこに腰を下ろした。なぜ座ったのか、自分でもわからなかった。腰が先に、座り方を知っていた。
傘は入口で畳んだ。ここまで一滴も濡れていない。なのに、左の袖口が湿っていた。
珈琲を頼んだ。ぬるかった。私は茶碗を持ち上げて、飲まずに、また置いた。奥の老女も、同じ瞬間に、茶碗を持ち上げて、また置いた。同じ高さに茶碗。同じ角度に指。
雨に濡れた窓ガラスに、映っていた。奥の、勝った女と、カウンターの、まだ待つ女と、予約席に坐った私が。どれがどれか、わからなかった。窓の雨が、輪郭を溶かして、混ぜていた。
老女が、私を見た。まっすぐに。黒く塗り潰した穴に、錆びた画鋲が一本ずつ打ち込まれているような目だった。
「あんたが来たのが、いつだったか、忘れました」と、老女は言った。
私は、さっき来たばかりだった。ちりん、と鈴が鳴って、まだ珈琲一杯分の時間も経っていない。だが老女の目には、私はもう、いつからいるのかわからない、来るたびに初めての客になっていた。予約席に坐った、瞬間に。
「もう、帰って」と、老女は言った。
抱いた卵に手を伸ばされた獣の声だった。私は立とうとした。腰が、その席から、なかなか離れなかった。
どうにか腰を上げ、珈琲の代金を置いて、店を出た。雨はまだ降っていた。数歩歩いた、その背中から、口笛が聞こえた。店の中からか。老女が吹いたのか。それとも。
私は唇に手を当てた。
唇は、動いていた。
私は振り返らなかった。帰りの電車の中で、鞄の中のテープが、まだ回っていることに気づいた。止め忘れていた。私は停止ボタンを押した。そして、これを自分の耳で聞くことは、もうすまい、と決めた。この耳は、三度でマイクの真横に住む耳だ。
翌日、テープを、資料十四の業者とは別の業者に出した。指示は一つ。全長を、そのまま文字に起こしてほしい、と。
---
同封資料十六ノ一 録音の書き起こし(外部委託・抜粋)
〔開始より二十四分頃〕
〔女性の声・中年〕まだ、待ってます。もう、何年も。(中略)待ってるあいだは、あの人は、まだ、私の、未来に、いるんです
〔女性の声・高齢〕あんたは、まだ、待ってるのね
〔以下、依頼主の指定した範囲、本文のとおり。省略〕
〔開始より五十一分頃〕
〔女性の声・高齢〕あんたが、来たのが、いつだったか、忘れました
〔依頼主の声〕さっき――
〔判定不能・約四秒〕
〔口笛・三小節〕
〔女性の声・高齢〕もう、帰って
〔硬貨の音。椅子の音。鈴の音〕
〔口笛〕
〔以降、終端まで、注記参照〕
業者注一。依頼主の声は、開始より五十一分の地点を最後に、当方のソフトウェアが「雑音」と判定し、分離・除去した。誤作動の記録はない。判定根拠欄には、こう出ている。連続性、および、全区間における存在。
業者注二。残った主音声を、指示どおり、文字に起こそうと試みた。起こせる語は、ない。旋律に、歌詞は、ないので。当該の主音声は、収録の開始から終端まで、一度も、途切れていない。
業者注三。本書き起こしの作成後、当方の担当者が、作業中に当該の旋律を口ずさむため、フロアの別の者から指摘が重なっている。本人に、自覚はない。当方より御社への納品は、これを最後としたい。
業者注四。話者分離の結果について、一点、付す。当該収録に含まれる女性話者の数を、ソフトウェアは実行のたびに異なる数で返す。七、九、十二。減ることは一度もない。なお、書き起こしにお送りした話者は、三名である。機材の異常は確認されていない。当方は、数え直すのをやめた。
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同封資料十六ノ二 別筆断片の照合(編集部)
小生の遺した資料の中に、鉛筆書きの断片がある。同じ薄さ。同じ角度。どれも、その人の字ではない、うすい鉛筆書きであった。
同じ書き癖のうち、繋がる三片を机に並べた。
まだ。
終われない。
最後まで。
三片は、それで揃った。
まだ。終われない。最後まで。
四片目は、紙になかった。
あの、書き起こしのデータである。ファイル名の末尾に、命名規則にない文字列が付いていた。
_matteiru。
待っている。
誰も、つけた覚えがない。
順に、読んだ。
まだ、終われない。最後まで、待っている。
一つの文になった。
小生はこれを、資料五で並べかけていた。まだ。最後まで。終われない。そこまでは手帳に拾っていた。並べてみれば文になるのではないか、と書いて、いや、考えすぎだ、と閉じていた。小生は、三片で止まった。四片目は、紙では来なかったからだ。機械が、ファイル名にして、私に寄こした。
私は、拾ってしまった。四片、揃えてしまった。揃えて、読んでしまった。
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同封資料十六ノ三 編集部・最終後記
小生の失踪は、いまも事件性が確認されていない。届いた封書は四通。差出人、いずれも不明。うち三通が、同じ一文で閉じていた。聞いてくれる人が、いたんです。残る一通だけ、その一文が、なかった。
箱には、テープが十二本になった。小生の十一本。私が吹き込んだ、ラベルのない一本。開けるな、とは書かない。書いても、あなたは開ける。私が、四片を揃えてしまったように。
この連載の後始末は、これで終いにする。私はもう書けない。書けば、また聞いてしまう。
――思い出せない曲だと、ずっと書いてきた。
今日、編集部の帰り、閉店間際のスーパーで、あの曲が鳴って、足が止まった。
蛍の光だ、と誰もが言う。
私も、そう言ってきた。
違うのだ。
蛍の光は四拍子で、店じまいに流れるあれは、三拍子の、別の曲である。
誰もが、蛍の光だと思い込んでいる。
思い込んでいるから、誰も、一度も、本当には聴いていない。
だから、誰も思い出せなかったのだ。似た曲しか、知らないのだから。
しかも、店じまいの尺に合わせて、途中で断ち切ってある。
誰も、最後までは、聴いたことがない曲。
この曲は、今日もあちこちの店じまいに鳴っている。
誰もが流して、誰も、聴かない。
帰れ、と。
もう、帰って、と言ったのは、あの店の老女、ただ一人であった。
私は、帰らなかった。
帰る場所の代わりに、聞く場所を、覚えてしまったからだ。
次に誰かが、誰にも言えない話を抱えて、この店じまいの刻を歩いてきたら。
私は、たぶん、隣に座る。最後まで、聞いてやる。
そうして、あの一言を。
もう、その支度を、している自分がいる。
あの予約席を、私が空けておく。