
またね、歯抜けのトーマス
ところどころ海水で朽ちたゴミが点在するきったねえ地元の砂浜と、吸い込まれそうなどろっと暗い海原を見ると、肋骨をヤスリで撫でられたようなざらつきが込み上げる。
全てに耐えられなくなった夜、
海に入ろうとしたことがあるからだ。
衝動的に靴と靴下を脱いでフラフラ歩き、足首まで海水につかったあたりでふいに肩を抱かれた。
はっとして隣を見ると、キッシキシのボッサボサの金髪をした眉毛なしヤンキー女が隣に並んでいた。
暗闇の中無言でボロボロ涙をこぼす女子高生は多分怖かったはずだが、眉なしボサボサヤンキーも同じくらい恐ろしかった。
ヤンキーは、ジャージのポケットから潰れたタバコの箱を出して見せた。
「お前吸ったことある?吸ってから海入れば?」
問われたが何も答えられなかった。
ヤンキーは、「一服しよう」とそのままゆっくり浜辺へ連れて行ってくれた。
私はヤンキーの痩せた顎をぼうっと眺めながら
こいつも死のうとしたことがあるんだろうなと思った。
ヤンキーはあやちゃんと言うらしい。
あやちゃんは電池の切れそうで切れない懐中電灯を立てかけて、タオルで足を拭いてくれた。
使い古した硬いタオルはめちゃくちゃ水を吸った。
あやちゃんは「スカートの裾が乾くまでいれば」と言って私の隣にくっつくように座った。
赤く荒れた頬の湿疹が痒そうだったのを覚えている。
制服姿の私にあやちゃんは何の躊躇いもなくタバコを差し出し、無反応の私の口に無理やり一本突っ込んだ。
ライターを差し向けられたので軽く息を吸うと
あやちゃんは
「なんだお前吸ったことあるじゃん。パチこいとんなよ」と言って初めてにかっと笑った。
前歯が一本なかった。
私は噴いた。
あやちゃんは鼻水と共に噴き出した私を見ると
少しだけ顎を上にそらし、
前歯の形の四角い虚空から、シ〜〜〜とタバコの煙を夜空へ排出して「機関車トーマス」と呟いた。
トドメを刺されて前屈しながら笑っていると、
あやちゃんは
「笑いすぎだろ。殺すぞ」
と人相の悪い顔で威圧した。さっき人命を救ったばかりとは思えぬその口の悪さに
私は「ンギィヒィ」と奇声を漏らしてさらに笑ってしまった。
あやちゃんは憮然とした顔で「ぶん殴るぞ」と怒った。
命を拾ってもらった。タバコをもらった。
ならばぶん殴られるくらい構わないやと思いながら
口先だけで謝り、拭いてもらった素足の指を広げて、縮めて、残った砂を落とした。
すぐ横にあるジャージとクロックスを履いた足は濡れて砂まみれのままだった。
この人はきっと、私を殴らないだろうなと思った。
それからあやちゃんとは何度か一緒にタバコを吸った。
そんなにひょうきんな女ではなかったらしく、
機関車トーマスは二度と見せてくれなかった。
あやちゃんは突然「私もう来れんわ」と言った日を最後に海に来なくなった。
ドラマっぽい出会いとはちぐはぐな、あっさりとした別れだった。
どこにいくのか尋ねたかったが、なんとなく教えてくれなさそうな気がしたし、元気でねというにはあやちゃんはあまりにもガリガリの不健康な見た目だったので、数秒黙考した末に
「ほっぺの湿疹消えたね。
よかった、痒そうだったもんね」
とだけ言った。
あやちゃんは頬を撫でて「本当だ」と笑った。
依然として前歯は一本なかったが、私はもう噴き出さなかった。
あやちゃん。
私、もう海に入りたいと思わなくなったよ。
あの時、自分はこんなにも"ひとり"なんだから、
きっと誰にも知られずにこっそりいなくなれると思っていた。
だから、ジャージをビシャビシャに汚しながら浜へ連れ戻してくれる人がいるなんて知らなかったの。
あやちゃんが私の足を拭いてくれた時、すごく手が
あったかくて海に入るのが怖くなったの。
二月の砂浜は寒かった。
だから、もしもあやちゃんが海に入りたくなった時は私が浜に連れて行ってあげたいと思った。
あなたは薄着のくせに寒がりだから、今いる場所は寒くないといいなと思う。
あやちゃん、どこかでまた会えた時は、
今までのこと、何も教えてくれなくたっていいから
NHKに怒られそうなあのくそみたいな歯抜けのトーマスを
もう一度だけ見せてくれないかな。