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【第2章】長男の沈黙


    春樹の異変に最初に気付いたのは母親の陽子だった。

    「最近、筋トレしてなくない?」

    夕食の片付けをしながら何気なく言った。

    健一はテレビを見ながら答えた。

    「テスト期間なんじゃない?」

    陽子は首を傾げた。

    「そうかなぁ。」

    だが、その時は誰も深く考えなかった。

    ⸻

    春樹は昔から真面目な子だった。

    長女の美月のように要領が良いタイプではない。

    次男の蒼太のように愛嬌があるタイプでもない。

    どちらかと言えば不器用だった。

    だから努力した。

    筋トレもそうだった。

    洗濯もそうだった。

    一度決めたことは続ける。

    誰に言われなくてもやる。

    そんな子だった。

    ⸻

    ある日。

    健一が仕事から帰ると洗濯機が止まったままだった。

    珍しいなと思った。

    春樹が忘れることなどほとんどなかったからだ。

    その日は健一が代わりに洗濯をした。

    翌日も。

    その翌日も。

    気付けば一週間が過ぎていた。

    ⸻

    春樹は部屋から出てこなくなった。

    出てくるのはトイレと風呂だけ。

    食事も減った。

    弟との会話もなくなった。

    夜中まで起きている気配がする。

    昼になるまで寝ている。

    家族の笑い声が聞こえても部屋のドアは開かない。

    ⸻

    健一は焦った。

    だが焦りを見せないようにした。

    見せたら余計に悪化する気がしたからだ。

    しかし内心は違った。

    学校はどうなる。

    卒業は。

    進路は。

    将来は。

    頭の中で不安が暴れ回っていた。

    ⸻

    夜。

    夫婦でリビングに座る。

    テレビはついているが誰も見ていない。

    陽子がぽつりと言った。

    「学校なんかより春樹が心配。」

    健一は黙っていた。

    本当は同じ気持ちだった。

    だが認めるのが怖かった。

    もし本当に何かあったら。

    もし自分たちではどうにもできなかったら。

    父親として失格なのではないか。

    そんな思いが心の奥にあった。

    ⸻

    数日後。

    三日間のスクーリングの日が来た。

    名古屋の校舎へ行く日だった。

    前日の夜。

    陽子が部屋の前で聞いた。

    「明日どうする?」

    少し沈黙があった。

    「朝考える。」

    春樹はそう答えた。

    ⸻

    翌朝。

    春樹は起きなかった。

    布団の中だった。

    何度か声を掛けた。

    反応はない。

    結局その日は欠席になった。

    二日目も。

    三日目も。

    ⸻

    健一は仕事中も春樹のことばかり考えていた。

    会議中。

    車の運転中。

    昼食中。

    気付けばスマホで調べている。

    不登校。

    昼夜逆転。

    引きこもり。

    思春期。

    うつ。

    発達障害。

    親の対応。

    検索結果だけが増えていった。

    答えは見つからなかった。

    ⸻

    人は不安になると答えを探す。

    数字を探す。

    成功例を探す。

    安心材料を探す。

    だが本当に苦しんでいる人の前で数字は役に立たない。

    必要なのは安心だった。

    ⸻

    ある晩。

    健一は春樹の部屋の前に立った。

    何を言えばいいのか分からなかった。

    励ませばいいのか。

    叱ればいいのか。

    放っておけばいいのか。

    何も分からなかった。

    ⸻

    結局。

    出てきた言葉はたった一つだった。

    「ご飯食べれてるか?」

    沈黙。

    数秒後。

    「少し。」

    春樹の声が返ってきた。

    久しぶりに聞く声だった。

    ⸻

    健一はなぜか涙が出そうになった。

    学校の話なんてどうでもよかった。

    将来の話もどうでもよかった。

    ただ声が聞けた。

    それだけで良かった。

    ⸻

    翌日。

    陽子はサンドイッチを作った。

    「食べられる分だけ食べや。」

    そう言って部屋の前に置いた。

    無理に食べさせなかった。

    説教もしなかった。

    心配そうな顔もしなかった。

    ただ置いた。

    ⸻

    翌朝。

    サンドイッチは半分だけなくなっていた。

    陽子は笑った。

    「半分食べれたね。」

    健一は驚いた。

    自分なら、

    「半分しか食べてない」

    と考えていた。

    陽子は違った。

    「半分も食べられた」

    と考えた。

    ⸻

    その時。

    健一は昔、たけのこ園の先生に言われた言葉を思い出した。

    未来じゃなくて今日を見てください。

    今日できたことを見てください。

    ⸻

    春樹は学校へ行けなかった。

    でも水は飲んだ。

    サンドイッチも半分食べた。

    風呂にも入った。

    着替えもした。

    トイレにも行った。

    返事もした。

    それは確かに今日できたことだった。

    ⸻

    だが健一はまだ知らなかった。

    春樹の心の中で何が起きているのかを。

    そして春樹自身もまた、

    自分の中で起きている変化を言葉にできずにいた。

    ⸻

    人は苦しい時ほど黙る。

    本当につらい時ほど説明できない。

    だから周りは誤解する。

    怠けている。

    甘えている。

    やる気がない。

    そう決めつけてしまう。

    だが本当にそうなのだろうか。

    ⸻

    見えない場所で根を張るたけのこのように。

    誰にも見えない場所で戦っている時間があるのかもしれない。

    土の中では何も起きていないように見える。

    しかし本当は違う。

    見えないだけなのだ。

    ⸻

    春樹の部屋のドアは今日も閉まっている。

    だが家族は待っていた。

    いつかそのドアが開く日を。

    無理に開けるのではなく。

    信じながら待っていた。

    たけのこが春を待つように。

    静かに。

    そして少しだけ不安を抱えながら。

     
     
    1984年生まれ三児の父親 発達障害 不投稿 退学 いろんな試練が巻き起こる人生

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