メインコンテンツへスキップ
見出し画像

優美な死骸#4「誰か止めてよスーサイド」

    画像


    さっき観た、テレビの話。

    大感動のノンフィクション!みたいな文句で流れたVTRなのだけど、それがとても腑に落ちないので話します。さて、腑に落ちないブログのお時間です。

    海外の映像なのだけど、高層ビルから飛び降りて自殺をしようとする大人の男を警官が必死で止めるというものだ。まあ、結果的に彼は自殺をすることなく終わって、感動の結末である。ワイプで表情を魅せるタレントは涙を拭っていたし。

    最終的に彼の自殺を止めた手段は、簡単に言うと〝娘の声を聞かせる〟というものだ。警官が彼の家族に電話をかけると愛する娘が電話に出て「パパ〜おうち帰ってきて〜」と甘えた声を聞いたことにより、我に返ったパパは自殺をせずに済んだという話。

    これはね、いいと思う。娘は可愛いだろうし、そんな我が子のために生きようと思えるのは素晴らしいことだ。

    でもね、どうなのって思わない?この話。


    根本的に、現状はなにも解決していないでしょう。その場しのぎにも程がある。彼、翌日に飛び降りているかもよ。

    自殺を考えるまでのときって、今この瞬間が嫌なわけじゃないと思う。むしろ、心を壊すのにじゅうぶんなだけ耐えて、無数の瞬間を苦しい乗り越えてきたきたはずだ。それよりも、数時間後、数日後、あるいはそれよりも先の未来を想像して、もうどうしようもなくなって、全部を終わらせて逃げるしかなくなって。

    お金、対人関係、病気、そんな悩みは生きてさえいれば、いつかどうにかなるとでも言うつもりですか?たしかに、それはそうかもね。時間が解決してくれるかも。でも、自殺を志す原因は、しぬことでしか解消されないような気がする。何か明確な悩みじゃなくて、言語化できない悩みが複雑に絡み合ったとき「死ぬしかないかも」って考えるんじゃないの。

    本音を言うと、すくえないなら、しぬことをゆるされる世界であってほしい。

    だけどね、もっと本音を言うなら、貴方の手でそんな世界から救い出してもらいたい。

    これは、贅沢な祈りだね。この調子だと、次回の三日月は世界平和について語るかもしれないな!

    では、おやすみ。

    画像




    ソーダさんは、決めたら早い。

    類稀なる発想力を高く評価されているけれど、それに追いつく実行力を持っているからすごいと思う。あのね、認めたくないけど、すごいのですよ。わたしの相方は、すごいのです。


    「おれには会社の仕事があるし、三日月はまだ学生だからこれから就活でもすればいい。シニエルはしょせん趣味でしかないんだから、やめたって問題ない」

    「はあ」

    「でも、いま受けている仕事が半年先まであるから、それを終えたらさくっとやめよう」


    あんなに大切にいろんな想いで積み上げてきたシニエルを、いとも簡単に手放そうとして、どんどん話を進めていく。そこにはわたしの意見なんてあんまり反映されないけれど、シニエルはあくまでソーダさんの作品だから、これでいい。これが、ただしい。

    あと、何故だか彼が楽しそうなので、何故だかなんだかうれしい。何事にも執着がないソーダさんは、シニエルにもそれがなかったらしい。ソーダさんは、どこまでいってもソーダさんだ。これは、彼のいびつな美学かもしれないな。



    「半年かけて崩壊させるの、たのしみだなー!」

     
    〝おわらせる〟という目の前のエンターテインメントに夢中になって、にこにこして、純粋にわくわくしている。子どもか。忘れていたけど、ソーダさんは〝ぶっ壊す〟のが大好きだ。いつもYouTubeで爆発の動画を見て、げらげら腹を抱えて笑っている。


    「でも、どうして、そんな、わたしのためにぜんぶを捨ててくれるんですか」

    「捨てるわけじゃないよ、シニエルを、おれらふたりだけのものにするんだから」

    「わたしのためではあるんです?」

    「すべては三日月のためにあるんです」

    わたしを甘やかすように、声の色を淡くして答えてくれた。ちょっと囁くようにして話すので、いきなりセクシーになる。ソーダさんは色っぽさゼロのクソガキなのだけど、端っこがつねにセクシーだ。

    それから、言葉を噛みしめた。シニエルを、ふたりだけのものにする。素晴らしい響きだな、文字の音が光って見える。


    「このまま続けたって、いつかは見向きもされなくなって、誰もおれらの音楽なんて聴かなくなるかもしれないでしょ」

    「そんなこと、———あるかも」

    「そう、あるのよ。だからいっそ、おれらの手で終わらせよう」

    不思議な感覚だった。インターネットでは、きっといまこの瞬間も、誰かがシニエルの曲を聴いてくれている。少なくとも、シニエルのことを知っていて、脳の隅っこに置いてくれている人がいる。

    そんなやさしい人たちは、知らないのだ。シニエルが内部からわざと壊れることも、わたしたちがこうやって話していることも。

    シニエルのぜんぶを、わたしたちが握っている。わたしはシニエルに翻弄されて、くるしかったけど、ほんとうはそうじゃなかった。シニエルは、わたしの手の中にあったのだ。

    崩壊するとき、きっと星が砕け散るみたいにばらばらになって、きらきらと眩しく輝くだろう。それを見届けるために、ここまできたのかもしれない。あんなに苦しかった詩を書くことが、いま、すごく、やりたくなっている。あと6曲を早く書きたい。どうせぜんぶ終わるのならば、わたしのために、詩を書きたい。

    わたしたちは、武道館も紅白出場も目指していない。ただ、ふたりの音楽を作って、それを発表していくだけの趣味だった。たったそれだけが、わたしたちをひとつにする方法だったのだ。


    「でも、シニエルとしての役割がないわたしに、ソーダさんは価値を与えてくれるんですか?」

    「は?まだそんなこと言ってんの」

    「ソーダさんは、ギブアンドテイクでしか他者と付き合えない人です」

    「よく知ってるね。情が絡むと面倒だし、それによって起こるしがらみを思うとなんでも捨てたくなっちゃうの」

    知っているよ、知っている。わたしは、あなたのことをよく知っている。口紅も、それに纏わる感情も、睡眠薬の空き箱も、音楽も思い出も言葉も、ぜんぶ、使い終わったらゴミ箱だ。そのゴミ箱を覗いたことはないけれど、そして、睡眠薬も、人も、情も、お酒も、わたしの前では決して見せないけれど、わたしは知っている。

    依存先をいろんな場所に作っておいて、相手から求められることに安心して、けっきょく自分には才能しか残らなくて。孤独な天才は、いいね!と染まったハートを眺めて浅い眠りにつく日々だ。

    でも、あなたが、知っていることをすべて指摘されることを嫌うのも知っていて、そういう、適切な距離感を好むことも知っている。わたしは、ソーダ、あるいは苑田彗という掴み所のない男に対していびつな独占欲を抱いている、多勢の中のひとりだった。

    「だから、この部屋にも物が少ないんですか」

    「そういうこと」

    「わたしのことも、そうやって、捨てるんですか」

    わたしは考えなしに喋っちゃうので、気付いたらそのまま質問していた。情けという名の保険をかけるような訊ね方だけど、どうせ彼は情など持ち合わせていないので、捨てると決めたらあっさり捨てる。

    だから、これは矜持だ。わたしだけは、あなたに捨てられないというプライドのような自惚れがあって口にした。この自信は、信頼と呼んでもいいだろう。


    わたしの期待通り、ソーダさんは「捨てねえよ」とわらってくれた。笑顔に似た表情を、整った顔にぺたりと貼り付けて言う。

    「あのね、シニエルのためにおまえがいたんじゃないのよ。三日月を繋いでおくために、シニエルをつくったの」

    「じゃあ、捨てないんですね?ぜったいね?」

    「うん、ぜったい。むしろ、おれのほうが三日月に捨てられないよう必死だけど」

    「そうは見えませんでした」

    何かに必死なソーダさんって、あんまり想像できないな。いや、想像しうる全ての対処を済ませてから立ち向かうひとなので手を抜くことは無いのだけど、その必死さを誰かに見せることはない。わたしが、見ていなかっただけかもしれないけど。ここにきて、ソーダさんの知らなかった一面が少しずつ暴かれている。


    化けの皮が剥がれ落ちるようながっかりするものじゃなくて、こう、彼自身が閉(とざ)し切っている心の扉をゆっくり開けてくれ始めたみたいで嬉しい。


    「おまえは、かわいいねえ」


    中学生をなだめるみたいな言い方で、わたしの頭をよしよし撫でた。撫でやすくなるようにそのまま俯くと「もっとして」とねだっているようになってしまって、ソーダさんは笑い声をあげながらさらによしよししてくれた。別に、そういうわけじゃないし。


    「おれがおまえを繋ぎ止めておきたい理由なんて、」

    「っ、」

    「愛しかねえよ」


    撫でている手つきは丁寧で、穏やかなままだ。べたついた愛は感じられず、そのかわり、慈愛みたいに柔らかな温度だけがわたしの頭を包んでいる。大人になったわたしを親以外でよしよし撫でてくる人なんていないから、ソーダさんがどういう気持ちでこの行為に及んでいるのか分からない。だけど、もし、親と同じ気持ちなら、正しくシンプルな愛かもしれないと思った。

    よしよしとする手が止まらないので、わたしはこうべを垂れたままだ。自然と目を合わせなくて済む。

    「どうしようもない才能を前にして、しかもそれを愛してしまったらもう、平伏すことしかできなくなる」


    上から降ってくるのは、編集も加工もされていない、ただの声だ。苑田彗の、この世でいちばんやさしい声。

    「ぜんぶが好きだと思えるし、抱きしめるくらいじゃ足りなくて、まともな思考回路はとっくに蕩けて、何も言えなくなるんだよ」

    「ソーダさん、」

    「おまえの言葉をまるごと飲み干したいし、もらった言葉のぜんぶを覚えておきたいし、取り込んで自分のものにしておきたい」

    じぶんに視線を落としたまま、わずかにかすれたその声だけを、溢さないように拾っていた。ぜんぜん虚無じゃないソーダさんの温度だけが伝わってくる。


    「おまえが、おれには思いつかないような語彙を操るのを見るとくやしくなるし、その才能に惚れ惚れする」

    純粋な褒め言葉ではなく、もちろん愛の告白でもない。いつか告げなきゃいけなかったことを、解答欄を埋めていく作業のように話している。わたしは、黙って聞いていた。ここでは、相槌さえも邪魔になる気がした。

    「おれとはまた違う、おれにはできない発想で、いつも驚かされるし、あー負けた!って、膝を打つ。三日月の隣にいるときはつねに薄い膜みたいな嫉妬心が覆っていて、でも、その才能が本当に好きだから離れたくなくて、ずっとジレンマに苦しめられてる」


    わたしたちは、そばにいると苦しい。苦しいのに離れられなくて、近づいて傷ついて、傷つけあって抱き合って、ヤマアラシも呆れるだろうな。

    「そういう愛、知らねえだろ」

    頭を撫でる手が止んだので、離れていく温度を追いかけるようにわたしは顔を上げた。底の透けないビー玉の瞳が、もういちど、あらためてこちらを射抜く。

    「最高な天才も、最悪な愛の前では無力なんだわ」


    ソーダさんは器用に眉をハの字にさせて、困ったように笑ってみせた。なるほど、これは遠回りした愛の告白だったらしい。

    わたしはそんなに、いうほど、言葉が得意ってわけでもない。むしろ表現力とかは微妙だと思っていて、吸収した語彙だって偏っている。言語能力が山よりも高いってわけでは決してないと思うし、まちがいなく、インターネットが生んだ天才[ソーダ]にべた褒めされるような人材ではないはずなのだ。

    「シニエルが売れているのは、ソーダさんのおかげですよ」

    「でも、ソーダの音に詩をつけてもらいたいのは、三日月ただひとりだよ」

    「そういうのを素直に言ってくれるところ、好感が持てますね」

    「おれはずーっと素直だし、約束も守るいい男だ」


    愛が鳴り止まない世界は、1秒ずつ崩壊へと近づいている。そのアンバランスが美しいから、はやく、歌詞にしておきたくてうずうずしてきた。シニエルは、あと6曲で活動をやめる。わたしが世界に発信したい言葉たちも、ちょうど底をつく頃だろう。

    ふう、と息を吐いて、乾いたサンドイッチの欠片に噛み付いたソーダさん。食事を再開したらしい。空気が緩んで、わたしもサンドイッチに手を伸ばした。想像通り乾燥していて、パンにまったく潤いがない。意外と長い時間の口論だったらしい。

    「わたし、わるい男に騙されてませんか?」

    「めちゃくちゃいい男が、そばにいるだろ」


    食欲が減退してしまったけど、残すのも良くないので、体積を減らすためにむぎゅうっとパンを押し潰す。すると、圧力(ハラスメント)から逃げようとしたフルーツとクリームが、パンの隙間からはみ出てきた。間抜けなそれを見つめていると、ソーダさんに「食べ物で遊ぶな」と叱られる。は?遊んでないし。言い返すかわりに大きく齧りつくと、クリームが端まで染み渡ってさっきよりも美味しくなったかんじがした。見せつけるように完食して、ほらね、遊んでないでしょ?という顔をしてやった。

    それから、昼夕の中間食をようやく食べ終えたわたしたちは、また作業部屋に戻ってそれぞれにパソコンを開いた。

    わたしはノートパソコンだけど、ソーダさんはデスクで音楽を打ち込んでいる。何をどうやっているのかはソーダさんにしか分からない動きで、音楽を作り出すのだ。もっと分かりやすい音楽ソフト、ありそうだけどな。その手のアドバイスは絶対に聞き入れてもらえないので、もう、放っておくけれど。

    すこし離れたクッションに座って見上げる、ゲーミングチェアの上の形がいい後頭部にはひょこんと寝癖。何万回も眺めてきた光景だ。

    机の近くには、いまだに、いつかのわたしが買ってきたマグリットのポスターが貼られていて、もう色褪せてきているから新しいのを買ってあげようと思った。なんの絵がいいかな、『傑作もしくは水平線の神秘』にしようかしら。頭の上に細い三日月が乗っていて、かわいいから。

    視線を左に向けると、無造作に置かれたYouTubeの盾があって、金と銀が並んでいる。収益のある証拠。ふたりで、コンビニおにぎりみたいに梃子摺りながら開封したのはいい思い出だ。

    正直、わたしはこの時間に飽きてきている。いまの作業はふたりでいっしょにやる意味がない。家に持ち帰ってそれぞれやればいいのだけど、つい、同じ空間で過ごしてしまう。歌詞になりそうな言葉をキーボードで打ち込みながら、わたしは、この家に充満する虚無の空気を吸い込んだ。あいかわらず、匂いがしない。


    ぽきぽきと指の関節を鳴らすソーダさんは、今日もうっすらと死を纏っている。わたしと、いっしょにしんでくれるただひとりだ。

    きょうも、この部屋だけが現実だった。嘘と建前ばかりの空蝉の世で、この8畳だけが本物だと信じている。こんな部屋から発信される音楽が、日本中で聴かれている。これはちょっと、ちぐはぐだ。かわいい女子高生も、歌うま芸能人も、キッズどもも歌って踊る、わたしたちのキラーチューン。


    それを、こんな狭い空間でこそこそ作って、ふたり、あーもういやだー!って投げ出したくなってきて。でも投げ出せないから、もう知らん!という投げやりな気持ちで投稿する毎月1日午前0時。

    こういう、言語のリズム感はソーダさんから教わったものだ。時々思うけれど、わたしの口調はソーダさんに似ていることがある。過敏な思春期の大半をソーダさんというお兄さんと過ごしていたので、無意識の領域で好きな音楽や会話のテンションを吸収してまねていた。いまさら、わたしからソーダさんを切り離すことなんてできっこない。


    思春期に聴いていた(ソーダさんに聴かされていた)相対性理論はいまだにわたしにとっての最強バンドだし、思春期に読んでいた『No.6』はいまだに心の名作だったりしなくもない。思春期って、そういう不思議な魔力がある。だから、思春期に出逢ったソーダさんは、ソーダさんが思うよりも、三日月に大いなる影響を与えている。その責任を取るべきだ。


    「ソーダさん、なんか歌って」

    作業にすっかり飽きてしまって、形のいい後頭部に向かって話しかけると「人工知能みたいに呼びつけるな」とぴしゃり振り払われた。そのくせ、椅子ごとくるり振り返った彼はギターを抱えていたので、うれしくて、きゃっきゃと笑ってしまった。こういうさりげない幸福イベントが出現するから、わたしは図々しくもこの部屋に入り浸っちゃうのだと思う。


    じゃーん、と掻き鳴らされたギターが心地いい。防音が助かる。ギターに乗せて大得意の口笛が吹かれたから、わたしは手を叩いて喜んだ。

    「おじょーさんがかわいいから、めずらしく、シニエルなんて歌っちゃおっかなー」

    「めずらしい!シニエル!」

    「シニエルね、しってる?けっこう、いい曲が多いらしいよ」

    「そうなんですか?」

    「うん、そういう街の声をたまにきく」

    シニエルは録音やら何やらで歌いすぎているし、わたしも聴きすぎているので、彼はあんまり歌わない。おそらく、照れもあるのだろうな。

    「では〜!1曲うたわせていただきます」

    じゃんじゃーん、とギターがやさしく鳴って、ソーダさんの音色が響く。アコースティクバージョンのシニエルを聴けるのは、いまのところ、この世でわたしただひとりだ。

    シニエルが、初めて世に出てきた曲。わたしが、初めて歌詞を書いてみた曲をソーダさんが歌っている。しにたがりな男は雷を怖がるし、引っ越しをするからしょうもない、みたいな歌詞のそれ。いま思うとめちゃくちゃ尖っているし、語彙も中学生のものだし、いろいろ拙くて恥ずかしくなる。

    今だってまだまだ未熟者だけど、このときよりはずっと言葉を知って、自分の言葉を増やした気がする。そうやって、大人になった。

    過去の曲を褒められるとき、「承認欲求の不労所得〜!」と思ってしまう。年金制度かもしれない。例えてはみたものの、そういうの、わたしはまったく分からない。ただ、なんとなく、過去のわたしの頑張りを現在のわたしが褒められることに言い表せないむず痒さを感じているのだ。

    だけど、いま、客観的に聴かされて、「ああ、過去のわたしも悪くないな」と思えてしまった。引っ越しをしたがる、未来に期待する男はたしかにしょうもないけれど、きっとその男は今もどこかで生きている。生きていてほしい。自画自賛するには足りないが、これからは、〝褒め〟の年金くらいありがたく受け取ることにしようと心に決めた。

    あの頃と、変わったものばかりを数えていたけど、きっとわたしたちは変わっていない。じょうずに変身できなかったから、シニエルを壊すことしかできなかったのだ。

    ソーダさんの歌う声は、すこしだけ世間に疲れていて、退屈な現実が透けていて、水彩画で描かれた美しい絶望の色をしている。耳に優しく馴染むそれは誰のことも否定しない。わたしの書いた本音の詩を、物語みたいに綺麗な音色で聴かせてくれた。

    しにたがるわたしたちは、まだ、しんでいない。だって、歌い終わったソーダさんが涙袋の膨らんだ目元を親指で拭っていたから。笑い泣きのように見えるそれは、あのときとまったく同じ動作だった。

    「最高は何度だって更新されると思っていたけど、おれはやっぱりこの歌詞を読むと泣いちゃうわ」

    「いまよりも、この頃のほうがいいですか?」

    「ううん、いまのほうがいいと思う。でも、〝今になって聴くこの頃〟はノスタルジックボーナスがついちゃうよね」

    「そんなの、過去に敵わないじゃないですか」

    歌い終わった後特有のすこし艶っぽい声が、けらけらと笑う。ついでに何故かギターを掻き鳴らす。どうしてすぐに無意味な騒音をやりたがる?ソーダさんはにこにこしながらギターの音をぴたっと止めて、したり顔で口を開いた。

    「シニエルは、あと半年後に無敵の〝過去〟になれるんだよ?すごいねえ、歌っちゃうよねえ」


    そしてまた、ノリノリで歌い出した。今度はシニエルでもなんでもない、最近の彼が観ている深夜アニメのオープニング曲だ。いいけどね、その歌も。ご機嫌な彼を眺めながら、ずっとこうしていたいなと色褪せたセンチメンタルをひっそり抱きしめた。




    その日から半年をかけて、わたしたちは崩壊への準備をこっそりと整えていった。

    誰にも悟られないように、今まで通りに淡々と毎月1日に曲を投稿していく。どんどん再生数が伸びていって、シニエルの人気は天井知らずのように見えた。それが見えたとき、あまりの崖っぷちに足がすくんだ。高いところに来てしまったし、危うい場所に立たされてしまった。このままだと、虚構の自分に溺れていって、祇園精舎の鐘の声が聞こえなくなるところだった気がする。

    毎月がカウントダウンされるのは、初めての感覚でおもしろい。あと6曲、あと5曲、4、3、2。わたしたちふたりだけで数えていた。崩壊とはいっても、何もせず、最後の投稿をいつも通りおこなって、そのまま消えようとソーダさんが決めた。


    大々的に公表するのは簡単だけど、それよりも、翌月に何も投稿しないほうがかっこいいって。それができるのは、毎月投稿をみんなの精神に飼い慣らしたシニエルだけだ。

    6曲すべてを書き終えた夜には、わたしたちは牛角で焼肉を食べて、ちょっとだけ泣いた。煙が目に染みるね、とふたりで笑って、甘辛い豆腐がうめーすぎるからまた泣いた。

    このまま、もう、醜い嫉妬もしなくていいし、きもちよく他のアーティストの音楽が聴けるんだ。そう考えると、焦げた空気がおいしい。粗探しもしなくていいし、自分と比べなくていい。そうやって、フラットに音楽を聴くのはいつぶりだろう。

    思ったことをすべて歌詞にしなきゃいけないという強迫観念みたいなものから解放されて、好きに言葉を操ることができるようになった。この世にある言葉は有限だから、使いすぎるとわたしの言葉は枯渇してしまう。このシステムは変わらない。それを好きなだけ使っていい世界が現実になったので、わたしはちょっとお喋りさんになった。


    月日がさらさらと小川のように流れていき、6ヶ月が経った。


    最後の1曲を投稿するために、わたしは真夜中の苑田家を訪れている。わたしがこの作業部屋で日付を跨ぐのは、初めてだ。いつもは夜更かしが苦手なわたしの眠っている間に投稿されているか、家のベッドで投稿されるのを確認していた。


    きょうはとくべつな夜なので、親に「友だちの家に泊まってくる」と断りを入れて出かけてきている。大人みたいでしょう。お邪魔するならお友達にこれを、と家で持たされてきたものが高級レストランの手土産セットだったので、ソーダさんはちょっと引いていた。


    お風呂に入って、いろいろ支度して、0時を待つ。あくびを我慢していると、大人になったねえ、とソーダさんがわたしの頭をよしよしした。

    「ソーダさんはまだまだ音楽が作れるのに、わたしといっしょにやめてくれていいんですか?」

    「うん、いいよ、いっしょにしんであげるって約束したじゃん」


    0時に予約投稿された、最新曲の動画。あと数分、世界の終焉を待っている。


    「おれが、三日月をころしたね」


    今日も変わらず、肯定的なやさしい死の匂いがした。





    シニエルの最新曲。

    わたしたちが吐き出す言葉について、詩を書いた。


    言葉の威力は、可変である。その威力を知ったはずの大人が、攻撃性のある言葉を選ぶとき。そこには、それ相応の理由があるのかもしれないし、なくちゃいけないような気がする。そもそも、どれだけ吐いても言い足らない言葉たちの群勢で、そのいくつが形にならずに消えていくのだろう。

    頭の裏側に、もくもくと雲みたいな吹き出しが現れる。これは〝思う〟だ。思ってはみたものの「これは無駄だな」と判断されて(あるいは判断らしい判断を下されることさえなく)、泡となって消えていく言葉が世間には無数に存在する。

    言いたかったけど、言えなかったこと。言わなきゃいけなかったのに、言わなかったこと。言っても仕方ないから、言わなかったこと。

    人々がさりげない言葉を交わしている、その会話の深層には無数の言われなかった言葉の気配がある。言葉になろうとした泡が〝思いやり〟というマナーになって、空気に馴染んでいた。それにもかかわらず、実際に発される選ばれし言葉たちは当たり障りのないもの、なるべく意味を持たないもの、挨拶などに留めている。それらを見つけたわたしは、人々が自然に持ち合わせている限りない上品さに敬服するのだ。

    たとえば、SNSなどのメッセージ上でやり取りするとき、顔を合わせた会話でできる間や表情を作れない。そのうえ、文字数には限りがある。ツールによっては限りなく書けたとしても、様々な理由から、ある程度の文字数制限を不文律に課している。そんなとき、脳裏に浮かぶ言葉のほとんどを削ったうえで、わたしは意味のない「えっとね、」に5文字を割いたりしてしまう。たしかに意味はないけれど、この5文字には、言いにくそうにしている状況、相手への気遣い、話し方の癖など、たくさんの〝泡になった言葉〟が込められている。そんな気がしているのだ。


    だから、あなたがもし、わたしの言葉が好きだと言ってくれるのなら、それはあなたがそういう些細なニュアンスをひとつひとつ拾ってくれている、そのおかげだ。


    わたしよりも綺麗な言葉を操る人はたくさんいるし、共感できる詩を書く人もたくさんいる。わたしにできる歌詞ってなんだろうって考えてみると、三日月(わたし)の言葉で書くこと、それしかなかった。

    わたしの思ったことをわたしが書く。それをみんなが「いいな〜」と思ってくれたり「いやだな〜」と思ってくれたりする。それを言ったり言わなかったりして、会話する。たったそれだけのことができなくなったとき、わたしの言葉はわたしのものではなくなるのかもしれない。

    言葉は有限だけど、自分が持ちうる全てを使い切れた人はいないと思う。タイミングによっては相手に言わせたほうが効果的だったりして、あえて自分は口をつぐむことだってあっただろう。わたしには〝ほどほどに語らないことが美徳〟だと思っている節がある。手品の種明かし、デートの下準備、芸術家の私生活。あえて言葉にして知らせず、相手に想像させるところまでに上品なうつくしさを感じている。

    よけいなことを言うには、よけいなことを思わなきゃいけないし、そのためには、よけいなことを知らなきゃいけない。そのうえで「これは余計だな?」という判断ができないという、無垢な悪も必要だ。そんな面倒な手続き乗り越えてわざわざ言えたのが〝よけいなこと〟だなんて、あまりにも甲斐がないでしょう。だから、よけいな言葉なんて知らなくていい。わたしたちは、愛と感謝を正しく伝える術だけを携えておけばよかったはずだ。

    ただ、それだけの、詩だった。

    それがいまのシニエルにとって、最後の最新曲となった。


    シニエルのアカウントから、最新曲が投稿された午前0時。シンデレラもさっさと帰って聴いてくれ。すぐに回転する再生数。秒単位で増えていくコメントの嵐。連打されるgoodボタン、たまに押されるbadボタン。それらを無意味に眺めていると、無事に作業を終えたソーダさんが、ぱん!と手を叩いて立ち上がった。

    「さーて三日月、出かけよっか」


    そして、お出かけに誘われた。大人は帰る時間であるし、良い子はとっくに寝ている時間だ。それなのに、ソーダさんはわたしの手を引っ張って、なかば無理やり立ち上がらせてきた。

    「わたし、パジャマですけど」

    「うん、うえにおれのパーカー被っていこう」

    「もう、真夜中ですけど」

    「真夜中のドライブ、おにいさんが連れていってやるよ」

    「まさか、海に飛び込んで心中するつもりですか?わたし、本気でしぬつもりないですよ?」

    「おれも、そんなつもりねえよ」


    いろいろ言ってはみるものの、手を引かれてリビングに連れてこられて、あれやこれやとぶかぶかのパーカーを頭から被せられた。洗濯したてのものらしい。ソーダさん特有の虚無の匂いがする手前に、柔軟剤が香っている。

    「かわいいですか?」

    「ん、かわいいですねえ」

    鏡を見られないので、一応聞いてみただけの問いだ。意外と世話焼きなところがあるソーダさんは、わたしの袖をくるくる捲りながらてきとうに答えている。きちんと手首まで見えるようになったので、彼は萌え袖を求めてこれを着せたわけではないらしい。


    「でも、これじゃあ外に出られませんよ」

    「だいじょうぶ、誰にも会わないから」

    「どこに、どうして出掛けるんですか?」

    「あのさあ三日月、どこまでもついていきますって言ってくれたの、あれ、嘘だったの?」

    まんまと言いくるめられて、気付いときにはもう、わたしはソーダさんの愛車ハリアーの助手席に座っていた。通知を切ったスマホを、後部座席に置き去りにする。今日のブログをまだ書いていないけど、あれ、もう更新しなくていいのだっけ。

    安全運転のために暗くなった車内からは、外の明るさがよく見える。ソーダさんがアクセルを踏むと、当たり前に車が走り出した。


    「シートベルトしめたね?」

    「しめたー」

    「よーし、出発進行ー!」


    シニエルがおわった夜。最高傑作を放り投げて、抜き足差し足で逃げてきた。最新に群がる烏合の衆は、もうそこにわたしたちがいないことを知るよしもない。わたしたちだけが、おわったことを知っている。

    「なにかBGMかけます?」

    「音楽はつまんねーからラジオにしよう」

    助手席のわたしが、全面窓ガラスの下に置かれた液晶画面をタッチして操作する。窓の外では、暗闇の中を車のライトが眩しく照らしていた。前を通り過ぎたコンビニが明るい。店内では、つまんねーシニエルでも流してくれているのだろうか。

    月を探してみるものの、高いビルに隠れて見当たらなかった。新月なのかもしれない。今夜の月の満ち欠けを調べようにも、スマホが手に届くところにないので諦めた。デジタルデトックスの第一歩。

    運転席のほうからは無意識らしいシニエルの鼻歌が聞こえてきて、つまんねー音楽が好きなのね、と思ってしまった。

    「きょうは金曜日だから、『ハライチのターン』やってますね」

    「え?きょうって木曜日じゃないの?」

    「木曜日の24時半で、金曜日の0時半です」

    「そーいうことかー」

    チャンネルを合わせて、TBSラジオを流す。このラジオは深夜のわりに、あまり下品なことを言わないから安心だ。乗り心地の良いハリアーで、わたしは背もたれにがっつり寄り掛かりながら窓の外を眺めていた。歩行者はさすがにほとんど見当たらないけれど、車はわりと見かけるな。

    大分ナンバーの後に青森ナンバーを見つけて驚いた。夜逃げかな、わたしたちと似ているね。東京までどれくらいかかるのだろう、と疑問に思い、またスマホで検索しようとしたが、後部座席で放置されていることを思い出して諦めた。


    ハリアーは夜を走り続ける。運転中のソーダさんは意味不明の言動がないぶん、いつもよりおとなしい。トライアングルもフルートも家に置いてきた。右隣を盗み見ると、整った鼻筋、程よくシャープな輪郭が暗闇のなかでぼんやり浮かび上がっている。外から漏れてきた光を受ける、綺麗な横顔に話しかけた。


    「ここ、どこですか?」

    「さて、どこかな」

    「どこへ行くんですか?」

    「うーん、どこまで行こっか」

    世間から切り離された、わたしたちだけの空間だ。運転中の話題はちょっとハードルが低くて、何かの片手間で行なわれているかんじがとてもいい。適当なことばっかり言う。それが、いい。ここでは、どれだけよけいな言葉を吐いたって、ゆるしてもらえるような気がした。景色といっしょに、どうでもいい会話も流れてくれる。

    「ハライチのターンは、ジングルがいいね」

    「わかります、でもあと5分で終わりますよ」

    「もう1時になるのかあ」

    「オールナイトニッポン聴きます?」

    「うーん、いや、すこし、ラジオも止めようかな」

    「りょうかいです、それじゃあわたしとお喋りしましょう」

    「いいね、お喋りしよう」

    シニエルじゃなくなったわたしたちは、何を話したらいいのか分からなくなって、すこしだけ困ってしまった。シニエルで繋がっていたわたしたちは、それ以外の話もいっぱいするけど、けっきょくそれが共通言語であったと知らされる。

    端っこに避けておいた〝音楽〟のキーワード、そこに安易に手を伸ばしたくなる。BGMは偉大だ。わたしが選んだBGMに合わせて歌ってくれる運転手が、今夜は封印されている。歌詞のないクラシックの名曲に、ふざけた歌詞を完璧な音程でのせるソーダさんが好きだった。

    シニエルも、だれかの車内のBGMになっているといいな。なっていなくてもいいけどな。

    心臓の奥底では、ずっと気にしている。ちゃんと、再生数は回っているだろうか。批判的なコメントが殺到していたらどうしよう。SNSでは先月のように#シニエルがつぶやかれているだろうか。世界は、まだ、わたしに興味があるのだろうか。


    「自販機で缶コーヒーを買おう」

    ラジオが消されて沈黙が訪れた車内にて、ソーダさんが口を開く。シニエルに引っ張られていたわたしの思考を見透かして、そっと現実に引き戻すような、ぽつりと落ちてきた声だった。まるで一滴目の雨粒みたいに「?」となりながら、確認しようと顔を上げる。

    「眠たいんですか?」

    「ううん、自販機で買う缶コーヒーって夜っぽいからやりたいだけ」

    「むしろ、朝っぽくないですか?」

    「いーや夜だね、缶コーヒーはトラック運転手が眠気覚ましの夜中に買うものです」

    「あら、ソーダさんって『ワンダ』モーニングショット〝朝専用〟をご存知ない?」

    「おっと、戦争かー」

    「ソーダさんと口論ならたぶんわたしが勝ちますよ」

    「ひゅーう、きみ、いいねえ」

    ソーダさんの語彙力なんてたかが知れているし、その場のノリで生きているような人だし、何よりいざこざをひどく嫌うので口論なんて彼にはできない。それに、そんなことをする必要もない。だって彼は抜け目なく、自販機が並ぶパーキングエリアに入っていって、勝手に駐車した。


    いや、パーキングエリア?!


    いつのまにか高速道路にのっていたらしい。わたしって、ぽけーっとしすぎかもしれない。窓の外を見ていたつもりなのに、まったく気づかなかった。

    たしかにわたしは、半年前に観たはずの映画の内容を通り越して、映画を観たという経験そのものをすっかり忘れるような人間だ。記憶の容量の使い方がとにかく下手なので、いらないことばかり覚えている。

    いつしか、シニエルのことだって、けろっと忘れちゃう可能性がある。それならそれで、まっさらな気持ちでシニエルの曲を聴けるからいいかもしれない。残してもらえたコメントのひとつみたいに、シニエルの音楽に感動するのだろうか。ソーダさんの歌声が胸を打つだろうか。まあ、歌詞に共感はするだろうな。本人だから。


    「いったん休憩ね、降りますよー」

    エンジンを切ったソーダさんが、ゆるく呼びかけてくれた。彼は寝巻きといってもスウェットのズボンに、ゆるゆるのTシャツを重ね着しているので、まだいい。それに、何を着ても小洒落ている。


    「わたし、パジャマなのだけど降りても平気ですかね」

    「パーカー着てるし、人ぜんぜんいないからだいじょーぶ」


    シートベルトを外して、おそるおそる車から降りてみる。裸足を突っ込んだだけのフラットシューズは、コンクリートの地面と足裏の距離が近い。たしかに、いくつか並んだ自販機とお手洗いくらいしかないパーキングエリアだし、わたしたち以外に客は多くなさそうだ。みんな寝静まっているみたい。


    「こわいですね、なんか」

    「そうだね、おれから離れちゃだめよ」

    「お手洗いにいきたくなったらどうすれば?」

    「それは離れたほうがいいかもね」


    けっきょく自販機に行くらしい。わたしはソーダさんに導かれて、ここまで無事に生きてきた。たぶん、そういう運命なのだ。午前1時のパーキングエリアは、強烈に夜を感じさせてくる。目に入る光が緑色で「人工〜!」と思った。高速道路特有の車の音がうるさい。わたしにとってのソーダさんはブルーライト浴びまくりのインドア人間だったので、夜中のパーキングエリアに意外とよく馴染んでいて驚いた。

    半人分の距離を空けて、ふたりで自販機までをぽとぽと歩く。シニエルは、もう、おわったことだ。新曲の反応が気になるし、三日月がしんだ今、深月流音はこれからどうやって生きていけばいいのか分からない。でも、そういう不安も欲望も、夜に溶かしておけばいい。そう思えると、わたしの現実が広くなった。


    幼い頃は、目の前にあるものが世界のすべてだったことを思い出す。あの頃、世界と視界がほとんど同じ意味を持っていた。今のわたしはその感覚と近くにある。

    「ルネちゃん、なに飲む?おごってあげるよ」


    あるときからソーダさんは、外ではわたしを〝ルネちゃん〟と呼ぶ。つい、そういうあだ名みたいに感じるけど、そっちが本名で〝三日月〟がハンドルネームなのだ。それは、まあ、身バレしないことが目的なのだろうけど、これまでわたしはふつうにソーダさんと呼んじゃっていたと思う。気にしてないってことは、そうなのだろう。

    でも、もう、ソーダじゃだめなのかもしれない。わたしたちは、三日月とソーダの関係から抜け出さなきゃいけないのかも。

    「え、コーヒーじゃなくてもいいんですか?」

    「うん、おれもコーヒー飲まないもん」


    いや、おまえも飲まないのかよ。単純にそう突っ込みたかったのに、呼ばなきゃ、という意識が膨らみすぎて、会話脳のキャパシティがたいへんなことになってしまった。

    「す、すいさんも?」

    「うん?」

    「す、す、スイさんも、コーヒー、のまない、です?」


    夜中のテンションと根本にある不器用さが最悪なマッチングをしてしまい、片言で話すことしかできなくなる。ソーダさんは、心底楽しそうにけらけらと笑った。もしここに楽器があれば打ち鳴らしていたに違いない。

    「どうしたの、古いコンピューターになっちゃって」

    「なんでもないです、もういい、飲み物くらい自分で買うし」

    「へそ曲げるなよーメカづきー」

    茶化すように肩を抱いて「ほれほれー」と揺さぶってくる。だんまりを決め込んでソーダさんが飽きてくれるのを待っていると、偶然らしく吐息が首筋に当たった。それにびくっと肩が震えてしまい、敏感な反応を見せてしまうと、悪童がわらう気配がした。彼のくちびるがわたしの耳もとに寄せられるのを、硬直して待つしかできない。


    「もういっかい、スイって呼んでよ」

    肩を抱かれた至近距離、そうやって囁かれたのはソーダの艶っぽい生声だ。過剰な色気にあてられて、わたしは爆発しそうになった。たぶん、耳から首まで赤く染まっていたと思う。ぐわーっと体温が上がったし、とくに顔まわりの熱で湯気が出ている気分だった。


    照れてるとかじゃなくて、こう、感情とは無関係に、なるときあるでしょ?ありますよね?!?!


    「や、やめてください、!」

    「はいはい、ごめんってば」

    「もーいやです」

    「かわいくてつい〜ってやつよ」

    「じゃあ、あなたは、かわいくてつい人を殺すんですか?そういうことなんですね?」

    「すぐ論理が飛躍するやつ、いるよな〜」

    ソーダさんはわたしの肩にまわしていた腕を外して、その手で自販機に小銭を入れた。スマホ決済できないやつか〜と独り言を呟いていたりして、いつも通り飄々としているのが嫌だった。

    わたしは下唇を突き出して深いため息を吐き、不満があることを全力で示す。自分の息で、前髪が揺れた。

    がこん、と音がして、しゃがみ込んだソーダさんが自販機から購入した商品を取り出す。三ツ矢サイダー。ソーダさんは名前の通り、よく炭酸飲料を選んでいる。


    せっかくなのでわたしも何か買うために、自販機と向き合ってみる。光が眩しすぎて、もはやうるさい。色鮮やかな缶やペットボトルが、それぞれ退屈そうに惰性で主張している。自販機そのものはすごい元気いっぱいなのに、商品本体には買って買って!みたいな覇気がなくて、そこが良いな。24時間、お仕事おつかれさまです。

    深く考えずに葡萄ジュースを選んだ。フルーツは、深夜に糖を摂取することへの罪悪感が少ない。ボタンを押すと、すぐに機械に小銭が投入される音がした。


    「あ、ごちそうさまです」

    「いーえ、車に乗って乾杯しよ」

    いまのわたしは、5歳児と変わらない。ただ目の前にあるこの世界が、わたしのすべてだと思うことにした。そうしたら、世界の主人公が薄く笑ってくれたので、遠くで聞こえる歌詞や評価なんて思いっきり青で塗りつぶしてやった。


    冷たいジュースを持って車に乗り込む。手に水滴がついたので、車の座席に触ったらいけないな、どうしよう、と焦ってしまい、うっかりパーカーのお腹のところで拭いてしまった。ソーダさんの服に、うっすらシミがつく。

    「かんぱーい」

    ソーダさんが腕を伸ばしてわたしの葡萄にサイダーをぶつけてきたので、わたしも添えるようにペットボトルを合わせてみた。祝杯の夜である。ジュースは、味の濃厚すぎて脳が驚いた。葡萄それ自体よりも濃いように感じる。

    口の中が紫色に染まってないか心配になったけど、サイダーを飲みながらソーダさんはエンジンをかけたので、確認してもらうことができなかった。わたしも慌ててシートベルトをしめる。

    「では、次の目的地に向かいます」

    「もっと遠くに行くんですか?」

    「うん、もうすこしね」

    「何しに?」

    「べつに何をするってわけでもないけどさ、」

    車を出発させたソーダさんが、そこでいったん言葉を区切る。続きが気になって横顔を盗み見ると相変わらず整っていたし、どことなく楽しそうだった。

    「シニエルの夜明け、見たくねえ?」


    見たかったので、大きく頷いた。そのあと、無言で頷いただけでは運転手に伝わらないな、と気づいて「見たすぎです」と言葉を加えた。

    わたしも、いま、すごく楽しい。真夜中のお出掛け、しかもパジャマだなんて、大人になったらめったにないことだ。どこかに行くことが目的なんじゃなくて、ただ、この時間をふたりで埋めるために車に乗っている。暇つぶしにしてはロマンチックだけど、映画になるようなドラマは起きない。まさに、シニエルそのものだな。

    「龍馬ですね」

    「シニエルの夜明けぜよ」

    「こういう、なんもない時間をふたりで過ごすの初めての気がします」

    「そうね、おれたち、シニエルの作業目的でしか集まったことないもんな」

    初めて顔を合わせたその瞬間から、わたしたちはお互いをビジネスパートナーとして受け入れてきた。友だちみたいだけど、友だちじゃない。改めて妙なくすぐったさを感じたので、この瞬間のわたしたちは、まるで友だちみたいだった。

    過ちばかりのシニエルは、わたしたちにとって何になれたのだろう。そんなことを考えている。

    窓の外を流れる夜景は、想像以上に綺麗だ。夜って、何もない。投稿した途端にシニエルへのコメントがついていく様子を確認したことがあるから、意外とみんなが寝ているわけじゃないことは知っている。ただ、みんな、自分ひとりの夜に閉じこもっているのだ。そんな夜をふたりで分け合っていることへの優越感と背徳感が、車内の空気を嘲笑った。

    シニエルを大拍手で持ち上げていた東京は、失っても平然としている。失ったことに気付いていないからかもしれない。いや、そんなことには永久に気付かず、次の音楽を探しているのだろう。少しだけ虚しいけれど、ほとんど平気だった。それは、わたしがシニエルを正しく手放せたということだ。

    「シニエルは、もう、しにました」

    「おめでたいねえ、花火でも打ち上げようか」

    「ソーダさんは、シニエルがしんで、うれしいんですか?」

    「うーん、ふつう?いつかはこうなる日が来ると思ってたし」

    あまりにもあっさりと事実を受け止めている彼に、わたしだけが置いていかれていたような気分になる。本気でシニエルと向き合っていたのは、わたしひとりだったのだろうか。ふたりで積み上げてきた、なんならソーダさんの作品であるというつもりでいた。まあ、こういうことは言葉にしても仕方がない。ソーダさんは心が空っぽなので、言語化できない感覚の共有は難しい。

    「むしろ、いま、初めて三日月と誠実に向き合えている気がしてるよ」

    「これまでは不誠実だったんですか?」

    「うん」

    「そういうのって、ふつう否定しません?」

    ふたりぶんの笑い声を聞いていると、急激に眠気が襲ってきて、うわ、いまなら23世紀まで寝ちゃうかも、寝ちゃだめだ、起きろ、と雪山遭難のごとく自分の精神を叩き起こした。あーだめだ、まけそう。まぶたが重たくて、視界が細くなる。緊張が解けたのかもしれない。それとも、糖のせい?ぼんやりした意識のなかで、わたしは、あの時間の存在意義をとおくに見つけて手を伸ばす。


    たぶん、まちがいなく。

    シニエルは、わたしたちの青春だった。








    車が止まってエンジンが切られた音を意識の先に感じて、そこでハッと目が覚めた。

    「わ、」 

    そして思わず声をあげてしまった。

    なんと、うつらうつらと船を漕いでいるうちに24世紀まで来ていたのだ。


    夜景の狭間に、夢っぽい映像を見た。シニエルの最新曲。再生数は一桁、だれにも聴いてもらえなくて、投稿されているのにみんな気づいてないのかな?とか考えてみるけど、考えてみたところでそれだけが事実。すこし聴いてくれたら、よさが分かるから!ぜったい、好きになるから!きいてよ!いい曲なのに!くやしい!みんなが聴いてくれないと、がんばって作った意味ないがない。

    そこには、批判的な反応もない。ただ、誰からも見向きもされていないシニエルに、わたしはもどかしさを感じて唸ることしかできずにいる。すると、新着コメントが現れた。嬉しくなって、すぐに読む。どきどきする。なんて書かれているのだろう。わたしが気に入っている部分を、あなたも気に入ってくれただろうか。


    そわそわと早まる鼓動を押さえて視線でなぞる。しかし、そこにはたった一言「シニエル終わったな」とだけ書かれていた──────



    「おはよ、三日月」


    ──────というのが、夢でよかったと、心底胸を撫で下ろす。


    シートベルトを外したソーダさんが、助手席のわたしを覗き込んでいた。ばっちり目が合って、星が飛ぶ。瞬時に、いけないことをした!という罪悪感にぶん殴られた。ソーダさんが運転してくれている間、わたしは何をのうのうと眠りこけていたのだ。

    「ご、ごめんなさい」

    「んーん、ぜんぜんいいよ。眠たくなっちゃうよねえ」

    「いや、でも、ごめんなさい、あと、いまって何世紀ですか?」

    「うーん、たぶん、21?」

    そして、世紀も飛び越えてなかったことを確認できたので、ようやく安堵のため息を吐いた。わたしの頭を慣れた手つきでよしよしして「起きたら、降りよ」とソーダさんが声をかける。わたしは頷いて、シートベルトをはずした。

    ハリアーから降りる前にソーダさんがサイダーを飲み出したので、なんとなく真似して葡萄ジュースを飲む。葡萄ジュースって何かの味に似ているな、葡萄味のほうれん草みたいな、いや、それは葡萄かも。

    「わたし、どれくらい寝てました?」

    「1時間くらいかなー」

    「ここは、どこですか?」

    「奥多摩。星が見えるらしいよ」

    「奥多摩ってことは、」

    「あーもう、うるさいうるさい!もたもたしてると朝になって星が見えなくなっちゃうし、子どもは大人になっちゃうんだぞ!」

    エンジンを止めてライトも消した車の窓から眺める外は、夜の折り返し地点だった。たしかに、このままだと朝になっちゃうかもしれない。そういえばソーダさんは、きょうもこれから出勤するのだろうか。気になったけど、わたしが聞いても仕方ないし、今この瞬間の空気を壊しかねないので心の中に留めておいた。

    ハンドルに顎を乗せて、運転席の前方窓から空を見上げていたソーダさんが声をあげた。


    「あ、もう見えるじゃん」

    「星?どこ?」

    「そこ!そこ!おれの指先を視線で辿ってね、ほら、わかった?」

    「あー!わかりました!ちょっと見つけると、もっとたくさん見たくなりますね」

    「外に出たらよく見えるでしょ。星って、ものすごい数あるらしいし」

    ソーダさんの指差すところを虚空の点線でたどっていくと、たしかにそこには星が瞬いていた。わたしたちは、星を目指して上を向く。はやく本物が見たくなったので、思いっきり車のドアを開けた。わたしたちのほかに人がいないので、パジャマのズボンも気にならない。

    フラットシューズが、ぺた、と地面について、それと同時に顔を上げると、そこには満天の星が輝いていた。

    この駐車場そのものが、星空スポットであるらしい。ひとつひとつの粒子は細かいのに、ざらざらと星粒が信じられない数で光っているので、たしかに、空全体だと明るく見えた。空気が澄んでいて、吸い込んでみると鼻の奥まで突き抜けていく。広い空気と空の匂いがするなかで、植物の気配を核に感じる。花屋さんみたいな、閉じ込められた植物の香りじゃなくて、もっと、広い奥行きがある香りだ。これが自然なのかしら。

    それにしても自然には、あまりの解像度が高さに驚かされるばかりど。〝本物みたい〟であることと〝本物〟であることの境目は、その背景にあるのかもしれない。そこらへんに生えている草だって、描かれたものなら、その瞬間の草でしかない。それが動画であったとしても、動画として再生されるその瞬間限りのものだ。でも実際の草はそうじゃなくて、不必要に伸びたり、枯れたりする。虫が止まっていたりもする。雨にも濡れるし、風にも吹かれる。そういうたくさんの背景を、その瞬間の草が含んでいる。

    苑田彗だって、深月流音だって、そう。わたしたちは刻一刻と変化して、成長しているはず。

    「きれーだなー」

    いつのまにか隣に並んでいたソーダさんが、わたしよりも空に近い位置で感情を込めずに呟いている。正直わたしはかなり感動していたのだけど、普段通りの彼の声で我に返った。

    「星空に連れてきてくれるなんて、ロマンチストですね」

    「むしろこれまでが、おれの作業部屋ばっかりすぎたよねえ」

    視線の先には、贅沢な星が光っている。わたしたちが独り占めできる星空だ。両手じゃ抱え切れないな。流星群の日だったりすると混雑するのだろうか。星は、流れるか流れないかだけで差別されて可哀想だ。

    「でも、またお邪魔したいです」

    「いいよ、おいでおいで」

    「あの部屋は、三日月が好きな空間トップ3に入ります」

    「おーいいね、ちなみに1位はどこ?」

    「じぶんの部屋」

    中身のない立ち話と、星空は相性がいいらしい。もしかするとソーダさんはこういうお喋りをするために、ここまで来たのかもしれない。星は、いつまで眺めていても飽きないな。何億光年でも見ていられそうだ。

    「宇宙規模にすればちっぽけな悩みだよ」という定型文にたいしては不快感しか抱かないけれど、たしかに星空を見ていると、宇宙が悩みごとを吸い込んでくれそうな気はしなくもない。ブラックホールって、感情論にも対応しているのだろうか。

    「お星さまに相談なんですけど、」

    「どーしたの」

    「え?」

    「どーしたのって、星が聞いてる」

    星に向かって訊ねてみると、隣から聞き慣れすぎた声が返ってきた。お星さま、あなた結構いい声をしていますね。ためしに歌ってみたら、売れるかもよ。

    「わたしって、これから、ソーダさんとどういう風に付き合っていけばいいんですかね?」

    「ふつうに付き合ってあげればいいんじゃない?って星が言ってる」

    「ソーダさんとふつうの付き合いなんてしたことないから分かりません」

    「いや、ひどくねえ?って星が言ってる」

    ひどいかもしれないけど、完全なる事実だ。しかも、ほとんどの非はソーダさん側にある。ソーダさんは人との付き合い方があまりにも器用すぎて気味が悪いし、上手すぎて下手くそなので彼はふつうの付き合いとかできないと思う。

    そんな彼は、星の代わりに喋り出した。


    「シニエル以外の話だってしてきたでしょうよ」

    「でも、そもそもシニエルがなかったら顔を合わせる必要もないというか、わたしたちいつもシニエルの作業のために会ってたんですよ」


    正直に言葉を返すと、ソーダさんはわざとらしい溜息を吐いた。満天の星とため息は似合わないことを知る。だけど、ソーダさんと星空はよく似合っていた。マグリットの隙間から漏れる西日を浴びたあの頃の美少年は、透けるように儚くて、溶けるように消えてしまいそうだったけど。いま、ここにいるソーダさんは、きちんと両足で力強く立っている。無数の星を指差し確認で数え始めているので、じぶんのために生きてくれる意思がある。星なんか数えていたら、寿命がいくらあっても足りないだろうけど。


    「じゃあ、シニエルの作業なしでこれからは会おうよ。いっしょにメシ食いにいこ〜とか」

    「わたし、ソーダさんとごはん食べに行きたくてたまらない日なんかないですけど」

    「おおお、いきなり失礼でびっくりしちゃうな」

    「すみません、いや、だって、過去にそういうので連絡したことなかったから、」

    墓穴を掘っていくように、失礼をカバーしようと失礼を重ねていくわたし。おのれのだめっぷりに頭を抱えてみせると、慣れっこのソーダさんが笑って許してくれた。そのうえ、彼は失敗ばかりのわたしを甘やかして、別の方法を差し出してくれたりもする。こういう隠れたお兄さん気質を、サービス精神のひとことで片付けていいのだろうか。

    「じゃあ、これからも、おれの歌とか聴きに来てよ」

    「歌ってくれるんですか?」

    「うん、三日月が願うならいつだって」


    その声があまりにもやさしいから、胸がぎゅうっと締め付けられる。そんなつもりないって、わたしを責めたくて言っているわけじゃないってことがわかるから、なおさら苦しい。

    ソーダさんが、星を掴むように遠くの紺色に手を伸ばす。届くわけがない。掴めるはずがない。それなのに、さも、飛んでいる虫を捕まえたときみたいに柔く握って空(くう)を閉じ込めてから、腕を下ろす。そうやってふざけた手の中には、まちがえた星が一粒くらい入り込んでしまっていて、発光したきらきらが指の隙間から漏れているように錯覚した。ソーダさんはきっと、手品もできる。

    「おれね、歌うのはすげー好きなんだよ」

    「しって、ます」

    「だから、」

    「ソーダさん」

    わたしが、彼の言葉を遮るのなんてめったにないことだ。だけど今ここでは、わたしが言わなきゃいけないと思った。

    「三日月をころしたのはソーダさんかもしれませんが、ソーダさんは、じさつですね」


    言葉の威力を知ったうえで、よけいなことを言った。ふたりだけの星空は、いつかの青い放課後とおなじ、やさしい死の匂いがした。才能を殺すのは、容易いことだ。発掘される才能よりも、殺される才能のほうが多い可能性だってありうるくらい。ソーダは、誰もが認める天才だった。

    光るべくして光っていたその才能を、8畳の空間に閉じ込めたのは紛れもないわたしだ。シニエルを崩壊させるということは、ソーダの才能を壊すことと同義だった。いびつな依存は、とっくにそれを分かっていたような気がしている。

    「あなたはまだ生きることができたのに、わたしのためにしんでくれた」


    どう償えばよいのかも分からずに、震える声でさいごの罪をなぞった。星の煌めきも映さない空虚なビー玉は、懺悔するわたしだけを封じ込めている。

    彼を止められるのは、わたしだけだった。半年前のわたしがシニエルを壊したくないと言えたなら、ソーダさんはきっとこれからも天才のまま生きていた。いっしょにしんでもらう必要なんて、あったのだろうか。わたしの幼稚なエゴで、ひとりの天才を葬ったのだ。約束なんて、しなきゃよかった。

    「ほんとうに、ごめんなさい、わたし、じさつを止めてあげられな─────っ、ん」

    謝っている最中、その先を言わせまいとするように口を塞がれた。傾いて重なった涼しげな顔立ちを、スローモーションに見つめる。ふわり、花びらのような温度がくちびるに触れて、初めての感覚に脳内処理が追いつかない。


    ──────・・・え?

    わたしが瞬きもせずに口を閉じて言葉をしまったのを確認すると、すっと離れて、ソーダさんは真剣な表情で話し出す。

    「しぬことをゆるしてくれたし、おれをその手で救い出してくれたのだから、今更ごちゃごちゃ言ってんなよ」

    ああ、このひと、いまだにわたしのブログを読んでくれているのか。うれしいような、恥ずかしいような。闇に思考を絡め取られていくわたしを引き戻す、安定したその優しさに、いろんな感情が窮屈になって。

    いや、まてよ、三日月?

    あなた、悠長に語っている場合じゃないのでは?

    夢かどうか判別するときにじぶんのほっぺたをつねるのと同様に、とりあえずわたしは現実を確かめるべく、じぶんのくちびるに触れてみた。それそのものは、すこしだけ乾燥しているものの、まあ、問題ない触り心地だ。保湿をもうすこし心掛けたほうがいいかもしれない。

    問題があるのは、くちびる側の感覚だ。じぶんの指先に触られたとき、既視感を覚えはしなかっただろうか。いや、した。こういうかんじ、さっきもあった。まさか、いくら有り余っているからといって、星がくちびるに落っこちてくることはないだろうし、となると、いや、この整理はひとりで完遂できそうにない。


    あいかわらず感情の読めない表情で、こちらを見つめているソーダさん。目撃者のひとりであろう彼に、解決の手掛かりを求めることにした。

    「えっと、あの、スーサイド論はいったんさておき、」

    「うん?いまわりとアツい話をしてたと思うけど?」

    「いや、はい、そう、わたしもそう思うんですけど、それより、ですね、」

    「あれより大事な話ってあんまないよ?なに?」

    ついさっきまでの真剣な温度がまったく感じられない応酬だ。さっきまでのって、ぜんぶ夢?それならそれでいいけれども。

    「いや、むしろ、こっちがなに?です。何したんですか?」

    困惑しまくりのわたしを前にして、ソーダさんは悪びれる様子もなく、いつもの調子でへらりと答える。

    「え、ふつうにキスだけど」

    そう言い放つやいなや、唖然とするわたしをいいことに、先程の行為をしっかり思い出させるようなリプレイを行った。

    ふわり。柔らかいものがくちびるに触れるか触れないかのところであまく重なり、至近距離でまっすぐ目線を絡めてからようやく離れていく。ソーダさんの温度が完全に消えた数秒後、わたしは、無意識のうちに止めていた呼吸を再開した。

    法では裁けない悪童が、口角をゆったり歪めて愉快そうにわらう。


    「〜〜〜っ、」

    声にならない呻き声をあげて、わたしは崩れ落ちるように頭を抱えて蹲った。

    キスなんて、うまれて初めてだ。まさか、じぶんがキスなんてする日が来るとは思わなかった。いや、したのか?してないのか?したはしたと思うけど、カウントしていいやつ?ていうか、こういうのってカウントしちゃだめな場合もあるの?あ、うっかり事故とかそうなんじゃない?

    となると、いまのは、事故ではなく故意だから、つまりカウントするってこと〜?!

    しゃがみこんで小さくなったわたしは、膝におでこを打ち付けながら「ああ〜」と「うう〜」を繰り返していた。おい星!こっちを照らすな!あっちいけ!


    「なんなんですか〜!もう〜!なんなん!です!かああああ」

    「うわあ、三日月がバグってしまった」

    「手癖ですか?めんどうな女はキスで黙らせる、よくやってるんですか?常習的なキスごときで三日月を翻弄できて、さぞかし楽しいことでしょうねえ?」

    「まあ、初犯だけどね」

    「それもそれで、なんかくやしい」

    しゃがみこんだまま、膝に肘をのせて頭を抱える。腕と腕の隙間からソーダさんを睨みあげると、彼は指を一本ずつ曲げることで関節をぽきぽき鳴らしながら、飄々とこちらを見下ろしていた。

    出会ってから今日まで、ずーっとわたしが負けっぱなしだ。ソーダさんは負けたふりをして、けっきょく勝ちだけを奪っていく。さいごまで負け犬らしく、低いところから噛みついてみることにした。

    「なんで、したんですか」

    「したくなったから」

    「いきなり?あんなタイミングで?」

    「タイミングがあれば、いつでもしたかったよ」


    そして、すぐに負けそうになった。口論でなら圧勝できる自信があったのだけど、いまのわたしは絵本を読み漁っている5歳児よりもちょっと弱いくらいの知能指数だ。


    眠気が混在する脳内。近くにある語彙をかき集めてやっと出てきた言葉が「ばか!変態!」だったので、もはや完敗だった。ソーダさんも、やれやれと肩をすくめている。

    「そう言われると思ったから、しなかったの」

    「そもそも、タイミングでもなかったです」

    「それはまあ、おれなりのユーモアじゃん」

    「キスにユーモア求めてないし」

    「おもしろいほうが良くない?」

    「ぜんぜんよくないです」


    拗ねた子どもみたいに言い返していると、ソーダさんがすぐ隣に屈み込んでわたしと視線の高さを合わせてきた。そうやってすぐ、わたしの機嫌を取ろうとする。寝る前にぐずっている赤ちゃんになってあやされるみたいなのが嫌だったので、わたしはつんとそっぽを向いた。


    「謝ってほしい?」

    「ふん」

    「じゃあ、おれ、謝らないよ?」

    「ふん」

    「謝らなくていいってことを、おれの都合で解釈してもいいわけね?」

    やたらとしつこく確認してくるので、わたしは仕方なく顔を合わせた。意地悪そうに口角がゆるりと持ち上げられた薄いくちびる。そこにまっすぐ視線を送ってしまって、じぶんのそれにこれが触れたという事実を再認識するはめになる。顔の温度が急上昇したので、その熱気を逃そうとして溜息を吐くと、小さい炎がぼうっと出てきた。過度な羞恥心は、女の子をドラゴンに変えるらしい。

    そんなわたしを不審がって細めた二重で見据えながら、ソーダさんが言葉を落としていく。


    「あのさあ、伝わってんの?こっちはとっくに、キスしてえほうの最悪な愛なんですけど?」


    夜を構成しているすべての要素が、ソーダさんを味方している。雑に放り投げるように見せながら丁寧に纏められた愛の言葉は、ソーダがこの世に発信してきた完璧な音楽とよく似ていた。


    わたしは記憶の処理が不得手なので、いらない記憶ばかりを残している。

    中学生の時の数学の先生が「この公式は〝忘れなさい〟ね。あなたたちは覚えなさいって言うと忘れるし、忘れなさいって言うと覚えてるから言うけど、忘れなさいね」と黒板に書かれた公式をチョークで指していた。なるほど、たしかにな、と深く納得しながら、わたしはそれが何の公式だったのか、すっからかんに忘れている。ただ、そのイベントだけははっきり覚えているのだ。

    そういう人生である。大事なことは忘れちゃうのに、そのまわりの景色や感情だけを記憶していることが多い。そういう人生だった。


    視線の先では、ソーダさんが自分の膝を虚空の鍵盤にして弾いている。これは、つねにマイペースに見える彼が、そわそわしているときの落ち着かない癖だ。指先がぽろんぽろんと軽快に踊っていた。聞こえない音が見える。こういった無意味な光景だけを、わたしは永久に保存するのだろう。

    「あの、まさかとは思うのですが、」

    「うん」

    「いや、やっぱりなんでもないです」

    「いいよ聞きなよ、どうせ合ってるから」

    ありえないことだったので、言いかけて辞めようとしたわたしを、ソーダさんが引き止める。言い渋ってはみたものの、えい、と投げやりな気持ちで質問を投げた。思い切りがいいでしょう。

    「もしかして、わたしのこと好きだったんですか?」


    声が震えることもなく、なぜだか妙に冷静だった。眠さはある。むしろ膨らんでいる。それが良い方向に作用し出して、無敵ゾーンに入り込んでいた。

    好きでは、あると思う。わたしだってソーダさんのことは好きだ。好感が持てる。でも、ここでいう〝好き〟は、好きか嫌いかの話じゃなくて、わたしのことを特別な位置において好きでいるかどうかの話だ。〝好き〟の対義語も〝好き〟であるという、難しい質問。どっちにしろ好きなのに、それをわざわざ聞くっていうのは、つまりそういうことだ。

    「ずっと言ってるだろ、すげー惚れてる」

    ソーダさんは見事に行間を読み取って、静かにまつげを伏せた。ふと、自分の指先が無音を演奏していることに気づき、それを止めるように、手を緩く重ねて組み合わせる。オクターブを飛び越える指が長い。


    いつものソーダさんならわたしの頭をよしよし撫でて、お茶を濁してくるだろう。器用な近道をしない誠実さに、わたしはちょっと絆されかけた。

    「才能に惚れ惚れする、とは、また違った意味で?」

    「びみょーうに違う」

    「びみょーう?」

    「それも一部ってこと。三日月の才能だけじゃなくて深月流音ごと好きなの」

    ずっと欲しかった言葉が、ぽとん、手のひらに落ちてくる。ためしにそれを握ってみると、暖かくて軽くてもちもちしていた。そう、感じた。

    いつものソーダさんが落とす言葉の質感は、表面がさらさらしているし薄っぺらいので、1枚の紙みたいだ。しかも、高級和紙とかじゃなくて、コピー機にセットされてるようなやつ。でも、今夜のソーダさんはひと味違う。もっと有機的で、温度がある。星を見上げる横顔は、もう、虚無とは言わせない。

    「わたしを、たぶらかそうとしていますか?」

    「おれは、今後の人生かけておまえを誑かすつもりです」

    「不誠実すぎません?」

    「駆け引きしてるほうが飽きねーだろ。手に入るとすぐに飽きるし嫌になるという、三日月の悪癖をおれは知っている」 

    知ったかぶりをするソーダさんに、わたしは自分から手を伸ばした。左右の手で交差させた両手を、包み込むように触れてみる。色素の薄いホクロを見つけて、無意味にときめく。ソーダさんは振り払うことも絡めることもせず、わたしの挙動を眺めていた。

    わたしも、才能なんか抜きにしたって、ソーダさんのことを好きでいる。と思いたい。才能があるソーダさんしか知らないので、そんなの断言できないよ。わたしは正直者だから。

    手を重ねたままのわたしたちを置き去りにして、夜が進んでいく。 

    「ねえ、スイって呼んでよ」

    「いやです」

    「おれもルネって呼ぶから、ね?」

    「等価関係になっていません」

    「ルネちゃん、前よりもお喋りになったよね」

    「うるさいですか?」

    「ううん、うれしいよ」

    いくら触れ合っていても言葉は勝手に流れ込んでこないので、わたしたちは会話をした。こんなにも簡単なことが、今までどうしてできなかったのだろう。

    会話の深層に隠された言葉の気配をかき集めて、わたしは詩を書いていた。だれも書けないような詩を書いて、あなたを感心させたかっただけの見栄かもしれない。そのためには、すでにそこらじゅうで話されている言葉では足りないから、わたしは底に潜り込んで誰も拾ったことのない言葉を探していた。

    もう、そんなことはしなくていい。わたしは、わたしの言葉を話せばいいだけだ。

    「言葉を使いすぎてもだいじょうぶになったんです」

    「言葉って鮮度があるから、使えるものは使っておいたほうがいいかもね」

    「わたしが使った言葉を、余さず聞いてくれますか?」

    これは、壮大な告白だった。

    愛を告げるのは一方的だし、そもそも恋愛とは独り善がりを味わうという奇妙な娯楽である。返事不要の投げっぱなしでよい言葉なら、いくらだって言えるはず。だけどわたしがずっと欲しいのは、ソーダさんが丸ごと受け入れてくれる言葉それだけだ。

    期待した通りに「あたりまえでしょ」と短く肯定されて、壊れやすい言葉を補強するかのように、ソーダさんが続きを言った。

    「おれには、ぜんぶおしえてよ」

    わたしの意図を完全に汲まれた言葉が夜に溶ける。ソーダさんの声は空気によく馴染むので、跡形もなく消えてしまった。スクリーンショットができなくて、現実は不便だな。シェアで拡散もできないし、共有リンクでも飛ばせない。この場にいるわたしたちふたりだけしか見ることができない、シニエルの消滅だ。

    見上げた紺色の天には無数の銀の粒が瞬いている。わたしたちの作ってきたシニエルが砕け散った星屑だ。残酷な自己陶酔を、青かった苦痛を、満たされたくて書き殴ってきた詩たちを、けっして無駄にはしない。


    さようなら、シニエル。

    永遠となれ。

    わたしは世界に区切りをつけるために、勝手に宣言した。ソーダさんがわらう。

    「スイくんって呼びます」

    「いいね、前よりも仲良くなったかんじがする」

    「わたしたち、もっと、いっぱい仲良くなれる気がします」

    「わかる。おれも、今ならそんな気がしてる」

    そして、どちらが先ということもなくふたり同時に立ち上がり、背中をそらして伸びをする。ぐーんと腕を空に向かって突き上げた。

    「もう、朝になっちゃうから帰ろっか」

    「ふつうは逆ですよ、夜になるから帰るんです」

    振り返ったすぐそこ、ぽつんと駐車されたハリアーに向かう。ほんのわずかな距離を歩きながら、やさしい声がわたしを呼んだ。

    「ねえ、ルネ?」

    「はい」

    「またいつか、いっしょに音楽つくろうよ」

    「そうですね、いつか」


    端的な言葉とは裏腹に、何者にもけっして破らせない約束を静かに交わす。それぞれのドアを開けるために運転席側と助手席側にわかれたので、お互いの顔が見えなくなった。

    「ルネは、ルネの言葉を使うことをやめないでね」

    車に乗り込む間際、苑田彗が願いを口にする。わたしに願うというよりも、わたしの名前を呼びながら星に願っているように思われた。無言のわたしはこっそり頷いて、星空の見納めをした。

    崩壊に相応しい、美しい夜だった。






    あれ、シニエル?1日なのに投稿されない.....

    ソーダさん忘れてる?

    ・
    ・
    ・


    2ヶ月連続か、、休んでるのかな?

    これまでのペースが鬼だったのよ、よく休め〜

    ・
    ・
    ・

    【悲報】シニエルが新曲を出さなくなって1年経過

    まじでいなくなっちゃったんだな.....

    ・
    ・
    ・

    三日月ブログも2年更新されてない(泣)

    新曲が聴けるの、ず〜〜っと待ってます

    ・
    ・
    ・

    ソーダレベルの天才はもう現れないのかな

    ・
    ・
    ・

    【謎】人気絶頂だったシニエルが消えた理由とは?

    ・
    ・
    ・

    もう、シニエルがいなくなって3年かあ

    ふらっとまた投稿してくれねえかな


    ・
    ・
    ・


     
     
     
    ここでは「夜集」をおもに更新

    あなたへのおすすめ